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2021/09/06

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 葺屋町なる歌舞伎座の梁の折れし事

 

   ○葺屋町なる歌舞伎座の梁の折れし事

文化十三丙子年[やぶちゃん注:一八一六年。]五月三日、葺屋町[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋人形町三丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]桐長桐座梁折候に付、御役所言上帳之内、書拔。[やぶちゃん注:「生年:「桐長桐座」女歌舞伎の女役者にして座元であった名跡桐長桐(きり ちょうきり 生没年不詳)。もともとは江戸前期の女歌舞伎の桐座の座元で、先祖は越前国幸若小八郎の門弟幸若与太夫(「よだいゆう」か)の子孫で、通説では寛文元(一六六一)年に初めて江戸木挽町で興行したとするが、詳かでない。後、名跡は、代々、女性が相続し、市村座の控櫓(ひかえやぐら:興行の代行者。興行権を持っていた江戸三座(中村座・市村座・森田座)が、何かの事情で興行が出来なかった場合に、願い出て、三座の劇場を使って興行権を借りて興行することが許された一座を言う。「仮櫓」とも呼ぶ)として、天明四(一七八四)年から四年間、寛政五(一七九三)年から五年間,文化一三(一八一六)年から翌年まで、葺屋町で興行した(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文とした)。]

[やぶちゃん注:以下、頭の「一」を除いて「怪我者無之候。」までは、底本では一字下げ。「一」の下を一字空けた。]

一 去る酉年[やぶちゃん注:文化十年癸酉。]、葺屋町類燒之砌、元羽左衞門芝居普請之節、東海道程ケ谷宿裏通り古町[やぶちゃん注:]と申所、日蓮宗寺院【焉馬云、「星川村法性寺。」といふ。】「杉山大明神」と申社有之際にて、松、伐り出だし、芝居梁に致置候處、「神木」のよし、右「たゝり故、不繁昌。」之趣、風說に付、町家別に百文宛、取集、當時、桐長芝居より、下谷龍泉寺地中、本淨院へ祈禱を賴、出家、五、六人、舞臺にて祈禱致かゝり候處、梁表、方三側、内に有之、中が折候。怪我者無之候。

[やぶちゃん注:「旧古町」はこの附近(神奈川県横浜市保土ケ谷区神戸町(ごうどちょう)内)に旧称が残る。

「焉馬」既出既注だが、再掲しておくと、鳥亭焉馬(寛保三(一七四三)年~文政五年六月二日(一八二二年七月十九日))は戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖ともされる。本名は中村英祝。本所相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務め、大工と小間物屋を営んだ。大田南畝宅を手がけた他、足袋・煙管・仙女香(白粉(おしろい)の商品名。江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋で売り出した。歌舞伎役者三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」に因んで名づけられたもので「美艷仙女香」とも称した)も扱った。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自らも浄瑠璃を書いた。四代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」・「太平樂卷物」・「碁太平記白石噺」などがある。

「星川村法性寺」保土ケ谷区星川にある日蓮宗光榮山法性寺(元和二(一六一六)年創建)である。

「杉山大明神」上記法性寺の南西百九十メートル位置に杉山神社がある。

 以下は、全体が底本では「といふべし。」までが二字下げ。]

 

 同日七時過頃、新吉原町京町壱丁目より出火、遊女屋共不殘燒失、龍泉寺町まで燒け拔けて鎭まる。此龍泉寺は、右、ふきや町芝居、祈禱に來たりし、龍泉寺なり。その龍泉寺町まで燒け出でゝ、火のしづまりしも、奇といふべし。

[やぶちゃん注:「新吉原町京町壱丁目」新吉原の一番奥の町。現在の台東区千束三丁目。新吉原の大きさが判らない方は、「古地図 with MapFan」を見られんことをお薦めする。浅草寺を探して、「区立台東病院」を捜し、それを中央線下に降ろせば、そこに長方形の新吉原が出現する。この火事で焼けた範囲は、この地図の国道四号のこちら側の殆んどと考えてよい。

「龍泉寺」ここ。真言宗智山派東光山等印院龍泉寺。

 以下一行は底本では一字下げ。]

 

 この日、所々にさまざまの珍事あり。

[やぶちゃん注:以下、「錐のぬけざりし事」まで、底本では二字下げ。二段に書かれてあるところがあるが、一時下げ一段とした。]

 

 永代橋邊にて、伊豆船、帆柱、折れし事。

 赤坂にて、鳶のもの、登天せしといふ事。

 兩國廣小路の「かるわざ」、綱より落ちて、怪我ありし事。

 有馬殿の火の見櫓の屋根、紛失の事。

 「新し橋」にて、車力、釜を落とし、釜數四つ、割れし事。

 四谷にて、掘りぬき井戶を掘りかゝり、錐のぬけざりし事。

[やぶちゃん注:「永代橋」ここ

「兩國廣小路」ここ

「有馬殿」久留米藩有馬家上屋敷であろうか。ここ

「新し橋」「江戸名所図会」巻之一の「筋違橋」(すじかいばし)の条には、昌平橋について叙述し、昌平橋は、この筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平鄕(しやうへいきやう)に比して號(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも號したるよし、いへり。太田姬稻荷の祠(ほこら)は、この地、淡路坂にあり。舊名を「一口(いもあらひ)稻荷」と稱す』とあるが、この昌平橋に同定するの誤り。ずっと「新シ橋」と呼ばれ、表記された橋が別にある。江戸切絵図を見て発見、現在の「美倉橋」がそれである。

「錐」といっても、非常に先の太い金属製の穿孔器であろう。硬質の岩盤に食い込んで、地下水か何かの横からの圧力が加わって抜けなくなったものであろう。

 以下、「まかりしとぞ。」まで底本では全体が一字下げ。]

この外にも、種々、聞きたれど、忘れたりけるは、あやしき惡日なるべし。

芝居の「梁をれ」より、三、四年前、【文化酉年比。】するが臺伊藤金之丞殿【御兩番。】のやしきに、十四、五歲の比よりつとめ居りし、こし元【名は「きは」。】、俄に發熱し、狂亂、狐のつきたるごとくにて、口ばしりける中に、「我住居した宮を損じさせ、『跡にて修覆せん』と僞りて、今に其沙汰もなく、打ち捨て置きたる事、甚、腹だゝしく、芝居繁昌を守ることは、扨おき、このうらみには不繁昌させ、永く芝居に祟るべし。」と、いひつゝ狂ひまはりける故、やしきにて、請人方へ引き渡し、『宿にて能く療治すべし』とて遣しける。五日目に、此女は身まかりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下、「まかりしとぞ。」まで底本では最後まで全体二字下げ。]

 

 傳に云、「此女の父母、ともに、はやう、なくなりけるゆゑ、祖父母方へ引き取りて親類方へ賴み、右、伊藤氏へ奉行[やぶちゃん注:ママ。「奉公」の誤字。]に出だしけるよし。此祖父といふ者は、ふきや町羽左衞門の座がゝりの者にて、その、三、四年以前、程ケ谷の法性寺にて、芝居の梁の木を、買ひ出だしにゆきたるものなり。當時、宮居大破に及びたれば、住僧、修覆の事を賴みける故、芝居懸りの者、『茶や一同にて、一日に一錢づゝの日掛をして、其積金を以て、宮破損の修覆致すべし。貴僧には、猶も「芝居繁昌」の祈禱を賴み入る。』と約諾いたしたるまゝにて、其後、修覆の事にも及ばず、打ち捨て置きたるよし。さるゆゑに、此度、『神のたゝり』にて、梁もをれたることなるべし。三、四年以前、女の死したるころは、親類がたへ任せ置きたる故、さのみ、氣もつくまじけれど、今、かゝる變事の出來たるにより、『さは。おもひあたるべし。』と、かの屋敷にても語られし、と、牧村氏【御兩番五百石。】隱居一甫君の、かたり給ひしなり。

此梁の落ちたる後、取りかへたる梁は、出所上州新田郡岩松村鎭守八幡宮の境内にありし松を伐り出だしたり。此代金拾六兩、岩松村より堀口村といふ川岸迄、八町の間、此入用金廿五兩なり。子五月五日の朝、右之川岸を出だして同七月にふき屋町へ引き付けたりといへり。此時の金主は、上州太田宿ふぢや新五兵衞といふ者なり。

此上州の一條は、太田宿左衞門といふ人よりの文通をしるし出だす。

   文政乙酉中夏朔   文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:悪いね、もう、注を附すエネルギを失った。悪いね――というより――勝手に読めや! 糞野郎ども!]

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