曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 腐儒唐樣を好みし事
[やぶちゃん注:段落を成形した。]
○腐儒唐樣を好みし事
或西方の大名に仕へて、三十人扶持を給はりし儒者あり。その名は忘れたり。この儒者、
「何事も孔子のごとくせざれば、儒道にあらず。」
とて、
「沽酒・市晡は食はず。」
[やぶちゃん注:「沽酒」は「こしゆ」。市販されている酒。「市晡」は「しほ」。市販されている広義の干物。本来は「脯」は「ほじし」で、細かく裂いて干した鳥獣の肉を指すが、肉食はそれ自体が賤しいものであったし、以下の叙述からも魚介類のそれと限定してとるべきところであろう。]
とあれば、酒も、わが方にて、かもし、鰹節も、手まへにて、乾させ[やぶちゃん注:「ほさせ」。]、周尺にて諸物を拵へけり。
[やぶちゃん注:「周尺」長さの単位の一つで、周代に用いられたとされる尺で、長さは六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二十三・〇三センチメートル)に当たると言われる。]
家老の人、意見せしめて、
「いかに唐樣を好めばとて、竊に傳へ聞くに、大小共に、兩刀の劍を用ひらるゝよし。日本の劒術は、この國風に隨ふこそ、よけれ。且、御邊、儒をもつて仕ふとも、又、是、武門の奉公ならずや。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、文・武・周公・孔子の世が周なればとて、一切の事を周の制にて濟さんと欲すとも、官途・品級の次第、職宗の體などは、『周禮』にても考へらるべし。もろこしにてすら、太古の事は、今日の用に當て[やぶちゃん注:「あてて」。]、考へとられざること、あらん。」
といふ。
彼儒者、答へて、
「好意、寔に忝し[やぶちゃん注:「まことにかたじけなし」。]。しかしながら、周の代の事、考へ得られざれば、漢の世の制を用ふる故、さしつかふること、なし。」
といふ。家老、聞きて、あざ笑ひ、
「『智は非を凌ぐに足る』といへるは、則、御邊の事なるべし。今、五穀を量らんに、周の制は考へがたし。漢の升をもて考ふれば、日本[やぶちゃん注:「ひのもと」。]、今の一合は、卽、漢の一升なり。「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えしも、日本の三石六斗に當れり。御邊の月俸三十口なれば、これまで一ケ月に四石五斗づゝわたしゝは、一ケ年に五十四石の高なれども、周漢の制を好める故、扶持方も漢の升目を以て、壱人扶持は壱升五合なり。これを三十合にすれば四斗五升なり。かくのごとくにしてわたせば、一ケ年に五石四斗の高となる。十二ケ月の内、大小のたがひはあれども、當月より四石五斗を四斗五升にしてわたす樣に、藏方に申し渡すベし。かゝれば、御邊も漢法にて扶持方をうけ取られ、滿足なるべし。」
と、いひければ、儒者、大に驚きて、
「その儀は御免候へかし。誤り入り候。」
とて、漢法をやめしとかや【評に云、「この事は、先輩、既に物にしるしゝもあれば、作り設くることなるべし。」。】[やぶちゃん注:乾斎自身が入れた割注であろう。]。
すべて、手前勝手にあらぬ事は、日本の古格に任せ、勝手の事は異國の風をまねんとせしは、笑ふべし。
わが知れる人、親の死せしとき、
「三年の喪を勤むる。」
とて、喪服樣の物を製し、
「唐流は精をなし。」[やぶちゃん注:「なし」の右に『(マヽ)』注記あり。編者によるもの。「生活上必要最小限の精力がつかない」の意であろうか。]
とて、喪中に酒を飮み、肉を食ひ、自如として、平日のごとし。
殊にしらず、「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり。菜果すら食はざりし喪に、酒を飮み、肉をくらふは、何事ぞ。
是等の事ども。世に多し。抱腹云々。
乙酉七月朔 乾 齋 識
[やぶちゃん注:「文・武」周(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)は古代中国の王朝。当初は殷(商)の従属国であったが、「牧野の戦い」(殷周革命戦争)で殷を倒し、周王朝を開いた。紀元前七七一年の洛邑遷都までを「西周」、遷都から春秋戦国時代に秦によって滅ぼされるまでを「東周」と区分する。儒教に於いては、西周は理想的な時代とされ、周の歴史は。孔子の言説を始めとして儒教経典や「史記」などの歴史書に儒教の理想国家として記されてある。一方で、現代では考古学調査による研究も進展しており、中国文明は周代に確立したという学説もある。西周・東周の両方を合わせると、中国史上、最も長く続いた王朝であった。周の伝説上の始祖は后稷(こうしょく)であり、五帝の舜に仕え、農政に功績があったとされる。古公亶父(ここうたんぽ)の御代に周の地に定住したとされる。彼には三人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と称した。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥、父は「わが子孫の内で、最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るために自発的に出奔し、南方の僻地に赴いた太伯は「句呉」と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は、皆、これに従った。なお、この南方の僻地は「日本であった」という伝説もある。季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、祖父の期待通り、周を繁栄させ、遂には宗主国殷から「西伯」(国を東西南北に分けた際に西を管轄する権限を持つ諸侯。宗主たる王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることが許された)の地位を賜るに至った。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君であったため、諸侯は姫昌に革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。姫昌の死後、後を継いだ姫発(後の武王)は、周公旦・太公望・召公奭(せき)ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、紀元前一〇四六年に「牧野の戦い」を起こし、武王は見事に殷の紂王に打ち克ち、周王朝を創始した(以上は当該ウィキに拠った)。
「職宗」官職の制式や祖先を祀る際の規範の意であろう。
「周禮」呉音で「しゆらい(しゅらい)」と読む習慣がある。周公旦の撰と伝えるが、偽作説もある。元は「周官」と称したが、唐の賈公彦の疏で、初めて「周礼」と称するようになった。天・地・春・夏・秋・冬に象って官制を立て、天命の具現者である王の国家統一による理想国家の行政組織の細目規定を詳説する。「儀礼」「礼記」と共に「三礼」の一つとされる。
「にても考へらるべし、」読点にしたのは、「それらは確かに周公旦の記された「周礼」通りに考え、執行することも出来ようが、」という逆接の雰囲気を出したかったからである。
「智は非を凌ぐに足る」「人知というものは決定的な誤りを避ける程度にしか有効ではない」の意か。細部まで絶対的価値を持つものではないということなら、この話に係わってくる。
「漢の升」例えば、漢代の容積単位を現代に換算してみると。
「今の一合は、卽、漢の一升なり」江戸時代の一合は現代と同じ一・八リットルであるが、漢代の「一合」はその十分の一の〇・一九八リットルでしかなく、漢代の「一升」が現代の「一合」と同じなのである。因みに、周代はそれよりも〇・〇四リットルさらに少ない。
『「漢書」に『牛一疋に三拾六斛を駄する』と見えし』「漢書」(後漢の歴史家班固らが著した前漢(劉邦から王莽まで)の紀伝体の正史。百巻。紀元八二年頃成立。「地理誌」に日本(倭)についての初めての記述があることで知られる)に「牛一頭の背に三十六斛(こく)を積む」(そのまま現代のそれで示すと約六・九四三キロリットルという膨大なものになってしまう)とあるが、これは江戸時代に換算すると、同前で「三石六斗」(一斛=一石=十斗=百升=一千合)であるから、五百四十二・九七リットルとなる。
「唐流」似非者だから、音読みせず、「からりう(からりゅう)」或いは「もろこしりう」と読んでおく。
「自如」(じじよ(じじょ)は「言動が平素と少しも変わらないこと・もとのままであること」。「自若」に同じ。
「殊にしらず」「その上に、知らないのか?」という呆れ果てた感嘆表現か。
『「禮」の本文に「疏食水飮、菜果を不食」とあり』「礼記」の「喪大記」に、
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期之喪、三不食。食疏食、水飮、不食菜果。三月既葬、食肉飮酒。期終喪、不食肉、不飮酒、父在爲母、爲妻。九月之喪、食飮猶期之喪也、食肉飮酒、不與人樂之。
(期(ご)の喪には、三つの不食あり。食するに、疏食を食ひ、水を飮み、菜果(さいくわ)を食はず。三月(みつき)にして既に葬ふれば、肉を食ひ、酒を飮む。期の喪を終(を)ふるまでは、肉を食はず、酒を飮まず。父、在(いま)せば、母の爲にし、妻の爲にす。九月の喪には、食飮、猶ほ、期の喪のごときなり。肉を食ひ、酒を飮むも、人と之れを樂まず。)
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「菜果」野菜・果物。]
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