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2021/09/09

芥川龍之介書簡抄140 / 大正一五・昭和元(一九二六)年十二月(全) 十五通+年次推定日付不明二通

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼発信・佐佐木茂索宛(葉書)

 

拜啓又君の手紙と入ちがひになつた。どうもへんだよ。小穴君曰、「それは呼吸困難などにさせるからさ。」鴉片エキス、ホミカ、下劑、ヴエロナアル、――藥を食つて生きてゐるやうだ。頓首

    十二月二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この書簡、「藥を食つて生きてゐるやうだ」という龍之介の晩年の言葉としてよく引かれる。

「それは呼吸困難などにさせるからさ」薬物の多用によるそれを指すか。

「ホミカ」興奮剤ストリキニーネ(strychnine:植物のマチン属 Strychnos の中に含まれる中枢神経興奮作用持つアルカロイド。有毒)を含む睡眠剤。

「ヴエロナアル」「バルビタール」(Barbital)又は「バルビトン」(barbitone)は明治三六(一九〇三)年から一九三〇年代中頃まで使われていた睡眠薬で、最初のバルビツール酸系(Barbiturate:バルビツレート)薬剤の商品名「ベロナール」(Veronal)のこと。化合物としての名称は「ジエチルマロニル尿素」或いは「ジエチル・バルビツール酸」。副作用はほとんどなかった。当該ウィキによれば、『治療用量は中毒量よりも低かったが、長期にわたる使用によって耐性がつき、薬効を得るために必要な量が増加した。遅効性であるため致命的となる過剰摂取が珍しくなかった』。『各種医薬品が劇的に進歩した現在では、治療に用いられることはない』とあり、そこでも書かれているが、芥川龍之介が既出既注の「ジャール」とともに自殺に用いたとされているもの。但し、既に述べた通り、私はそれを信じていない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月二日・鵠沼・柳田國男宛(葉書)

 

君ガ文ヲ鐡箒ニ見テ思ヘラクアモマタ「ケチナ惡人」ナルラシ

シカハアレ「山ノ人生」ハモトメ來ツイマモヨミ居リ電燈ノモトニ

足ビキノ山ヲ愛シト世ノ中ヲ憂シト住ミケン山男アハレ

    十二月二日夜半    龍 之 介

  歌トハオ思ヒ下サルマジク候

 

[やぶちゃん注:短歌様のそれは、三字下げであるが、引き上げた。

「鐵箒」(てつさう(てっそう))は『朝日新聞』の投書欄。現在の「声」の前身。

「「山ノ人生」「山の人生」は、大正十四年一月から八月にかけて『アサヒグラフ』に連載され、この大正十五年十一月に大幅な増補を加えて郷土研究社から『第二叢書』の一冊として刊行されたもの。柳田國男の「山人」研究の集大成であり、「山の怪異」を民俗学的に考察した柳田民俗学の『方法的転回の過渡期的』(「ちくま文庫」版「柳田國男全集」解説より引用)な作品として優れたものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で全篇が読める。私がいつか正字正仮名で電子化注したい一冊である。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・鵠沼発信・眞野友二郞宛(葉書)

 

冠省なるとづけありがたう存じます。唯今新年號と云ふものを控へ居り、多忙の爲これで失禮します。右御禮まで

    十二月三日 鵠沼海岸 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「なるとづけ」「鳴門漬」。「米原市商工会」公式サイト内の創業六十余年の老舗「醒井楼(さめがいろう)」のそれによれば、「虹鱒の南蛮漬け」で、炭火で『焼いた虹鱒を油で揚げ、独自の配合で調合した秘伝のレモン酢に』一『週間から』十『日ほど、じっくり漬け込』んだものとある。非常に特殊なものであるからして、或いは、この芥川龍之介の読者で多数の書簡のやり取りがある人物(私は医師ではないかとも思っている)は、宛先も底本旧全集には載らないが、或いは滋賀県に住んでいたのかも知れない。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月三日・消印五日・鵠沼発信(推定)・東京市外中目里九九〇佐佐木茂索樣(葉書)

 

又々手紙が入れちがひになつた。これはテレパシイだよ。僕は暗タンたる小說を書いてゐる。中々出來ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。冬眠、冬眠、その外のことは殆ど考へない。花札をいぢるのにもあきた。

    十二月三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「テレパシイ」telepathy。超能力を意味する「超感覚的知覚」(ESP:Extra Sensory Perception) の一種。「精神感応」と訳される。

「暗タン」(澹)「たる小說」「玄鶴山房」。昭和二(一九二七)年新年号『中央公論』に「一」と「二」が、翌二月一日号で、それらも再掲して、全篇が発表された(同作は全六章から成る)。龍之介晩年の陰鬱にして絶望的な臭気に満ちた力作である。私はサイトの古い電子化で草稿附きのものを公開している。但し、ここで同作の執筆は停滞してしまうことになる。後掲の複数の書簡を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月四日・鵠沼発信・齋藤茂吉宛

 

冠省 原稿用紙にて御免下さい。每度御配慮を賜り、ありがたく存じます。オピアム每日服用致し居り、更に便祕すれば下劑をも用ひ居り、なほ又その爲に痔が起れば座藥を用ひ居ります。中々樂ではありません。しかし每日何か書いて居ります。小穴君曰この頃神經衰弱が傅染して仕事が出來ない。僕曰僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは碌なものは出來さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事實であります。おん歌每度ありがたく存じます。僕の仕事は殘らずとも、その歌だけ殘ればとも思ふことあり。かかる事はお世辭にも云へぬ僕なりしを思へば、自ら心弱れるを憐まざる能はず。どうかこの參りさ加減を御笑ひ下さい。

文書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ

小夜フカク厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミヲル我ハ

夜ゴモリニ白湯(サユ)ヲヌルシト思ヒツツ眠リ藥ヲノマントス我ハ

タマユラニ消ユル煙草ノ煙ニモ vita brevis ヲ思(モ)ヒヲル我ハ

枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀨戶ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ

これは近狀御報告まで。勿論この紙に臨んでこしらへたものです。歌と思つて讀んではいけません。なほ又岡さんに庭苔を頂き、あらまし邦讀。あの歌集は東京人の所產と云ふ氣がします。どうかお次手の節によろしく。土屋君にもよろしく。頓首

    十二月四日      芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

二伸なほ又重々失禮は承知しながら、お藥のお金だけはとつて頂けますまいか。氣が痛んで弱りますゆゑ。

三伸點鬼簿評には風馬牛です。他人評よりも當人評が一番大敵です。或は當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵です。

 

[やぶちゃん注:短歌は三字下げであるが、引き上げた。確信犯であるが、歌全体にやはり神経症的なものを感じさせる。

「おん歌每度ありがたく存じます」筑摩全集類聚版脚注に、異様に細かな注が附されてあるので、全文を引用する。俳句・短歌は改行し、短歌末にある字空けや句点は除去した。

   《引用開始》

茂吉の歌。五月五日、澄江堂のあるじより、

「かげろふや棟も落ちたる茅の屋根」

といふ消息をたまはりたれば、

湯の中に青く浮かししあやめぐさ身に沁むときに春くれむとす

ふけわたる夜といへども目をあきて瘦せ居る君し我は会ひたし

九月二十五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。(略)

相見つつうれしけれどもこの浜に心ほそりて君はありとふ

こもごもにものいひながら松原の空家のなかにわれら入りゆく

ひんがしの相模の海に流れ入る小さき川を渡りけるかも

煉乳の鑵のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる

うつそみの世はさびしけれ心足りて浜に遊ばむ我ならなくに

   《引用終了》

この茂吉の歌には、龍之介を労わる優しい視線に満ちているが、最後から二つ目の句などには、精神科医として患者として龍之介を見ている視線(神経症の関連妄想の診断)も感じられて、非常に興味深い。

「夜ゴモリ」深夜。

「vita brevis」「ウィータ・ブレウィス」。「人生は短し」。一般に、‘Ars longa vita brevis.’(アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス)で知られるフレーズ。元はヒポクラテスの言ったギリシア語表現で、「アルス」(ギリシア語で「テクネー」)は「医術」のことであり、全体は、「医術を習得するには、人生はあまりに短か過ぎる」という趣旨の言葉であった。私の『「こゝろ」初版 見開き 「あの」ラテン語』を見られたい。

「岡さん」岡麓(おか ふもと 明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)は歌人・書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名は三郎。書号は三谷(さんこく)、俳号は傘谷(さんこく)。当該ウィキによれば、『徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで』、『宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく』、十七『歳のとき』、芥川龍之介の田端の隣人で、彫金師として知られた『香取秀真に』、『一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのは』、『これまで』、『自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。また、津田青楓には「岡さんは財産を蕩尽して成った芸」と評されている』。『伊藤左千夫と知り合ったことを』契機として、明治三二(一八九九)年に『正岡子規に入門し、根岸短歌会の創設に参加』し、明治三十六年には『馬酔木』の『編集同人となる。長塚節、斎藤茂吉、島木赤彦らと知り合い』、大正五(一九一六)年から『アララギ』に歌を発表し、この大正十五年十月に古今書院から処女歌集「庭苔」を刊行しており、ここで龍之介の言っているのは、その歌集である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が読める。昭和二〇(一九四五)年に『『アララギ』の歌友を頼って長野県安曇野に疎開』した。戦後の昭和二三(一九四八)年には『日本芸術院会員となるが、故郷に帰ることなく死去した。

「土屋君」土屋文明。

「點鬼簿評には風馬牛です」逆に徳田秋声の痛罵を引きずっていることが見てとれる。

「當人評」芥川龍之介の自己評価。

「當人評が怪しいかも知れぬと云ふ第二の當人評が一番大敵」強迫神経症に加えて、離人症的な症状も感じられる謂いである。芥川龍之介が自身のドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を見たことは、死の年の談話で龍之介自身が述べている。私の今年一月に公開した『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日消印・鵠沼発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣

 

御手紙ありがたう存じます。こちらは新年號と云ふものにて弱つてをります。小穴君からもよろしく。

   かひもなき眠り藥や夜半の冬

  二伸 每度お藥をありがたう存じます

 

 

大正一五(一九二六)年十二月五日・鵠沼発信・室生犀星宛

 

用箋を咎むる勿れ。梅馬鶯未だ出來ず。出來次第送らせる。山茶花の句前の句に感心。僕今新年號に煩はさる。「近代風景」君よりも賴むと云ふ事故、萩原朔太郞論を五六枚書いた。日々怏々

文書カン心モ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テ居ル我ハ

小夜フケテ厠ノウチニ樟腦ノ油タラシテカガミ居ル我ハ

門ノベノウス暗ガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

僕ハ陰鬱極マル力作ヲ書イテヰル。出來上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ讀ンダ、實ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小說ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ拔ク事數等ナラン。

    十二月五日      芥川龍之介

   室 生 犀 星 樣

二伸この間のよせ書は「行秋やくらやみになる庭の内」碧童、魚を描いたのは隆一、梅花を描いたのは龍之介

 

[やぶちゃん注:短歌には同前の仕儀をとった。

「梅馬鶯」新潮社から十二月刊行予定の随筆集「梅・馬・鶯」。実際の発行日は十二月二十五日であった。

「近代風景」雑誌名。以下の萩原朔太郞論を書き、昭和二年新年号に「萩原朔太郞君」として発表された。

「怏々」(あうあう(おうおう))は「心が満ち足りないさま・晴れ晴れしないさま」を言う。

「美小童」室生犀星の小説。『近代風景』大正十五年十二月号に発表。

「中野君」小説家・詩人・評論家にして政治家でもあった中野重治(明治三五(一九〇二)年~昭和五四(一九七九)年)。福井県坂井市生まれ。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになり、東大入学後、窪川・堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成、この間に多くの作品を発表した。昭和六(一九三一)年に日本共産党に入ったが、検挙され、昭和九年に転向、戦後、再び日本共産党に入り、また、『新日本文学』の創刊に加わった。平野謙・荒正人らと「政治と文学論争」を起こし、戦後文学の確立に寄与した。後に参議院議員を務めたが、昭和三九(一九六四)年、日本共産党と政治理論で対立をし、除名され、神山茂夫とともに「日本共産党批判」を出版している。芥川龍之介とは室生犀星・堀辰雄らとの関係で晩年に知り合っている。文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正に、この前後に鹿地亘らとともに「社会文芸研究会」(一九二五年)や「マルクス主義芸術研究会」(一九二六年)を結成、この年に「日本プロレタリア芸術連盟」へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月九日・消印十日・鵠沼発信・東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣・十二月九日 鵠沼 芥川龍之介

 

 原稿用紙で失禮します。

 お手紙拜見。こちらは唯新年号に追はれてゐるだけ。家へは新年は勿論、新年号の一部を書く爲にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリイをお鎭め下さい。今度は力作を一つ書くつもりです。右當用のみ。

    十二月九日      龍 之 介

   下 島 先 生

二伸 この手紙は小穴君にたのみ、東京から投函して貰ひます。小穴君は妹さんが危篤の爲にかへるのです。

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十二日・消印十三日・鵠沼発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・十二日 くげぬま 龍之介(葉書)

 

小說かけたりや、僕は今二つ片づけ三つめを書いてゐる。捗どらず。痔猛烈に再發、咋夜呻吟して眠られず。小穴の妹危篤。多事、々々、々々。

 

[やぶちゃん注:「二つ片づけ三つめを書いてゐる」片づけた二篇とは、恐らく、私の偏愛する「彼 第二」(九日脱稿。この日は夏目漱石の祥月命日であり、小穴には、この日を自殺決行日として告白していたとされる。『小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」』を参照されたい)と、「或社會主義者」(十日脱稿)であろう。自ら「力作」と言っていた「玄鶴山房」は少し停滞気味であったようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日・鵠沼発信(推定)・齋藤茂吉宛

 

冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸乏しくなり心細く候間、もう二週間分ほど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる爲、痔痛みてたまらず、眠り藥を三包のみたれど、眠る事も出來かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上。

    十二月十三日     芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

 

[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、龍之介はこの日の夕刻に田端へ帰っている。或いは、本書簡の投函はその帰宅途中であったのかも知れない。

「鴉片丸」既出既注のアヘンチンキ(エキス)。

「中央公論のは大體片づき、あと少々殘り居り候」「玄鶴山房」の執筆状況だが、実際には停滞していた。後の高野敬録宛書簡及び注を参照。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十三日消印・鵠沼発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(葉書)

 

あの手紙を書き了るや君の手紙來る、いつも斯くの如し

ヨロシ一五〇 四光六〇〇 一シマ五〇 大三光一〇〇 犬鹿蝶三〇〇 二杯三〇〇 一杯一〇〇 二ゾロ○○ 七短六〇〇 松桐坊主一〇〇 草(萩藤菖蒲の短)一〇〇 也、但しこれは僕の敎はつたもの、他にも數へ方あるべし

 

[やぶちゃん注:同前の可能性あり。

以上の呼称と数字は、筑摩全集類聚版脚注に、『花札遊びの役』と、『その出来役に対してあたえられる得点』とある。私は興味がないので、ウィキの「花札を見られたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十六日・田端発信・高野敬錄宛

 

拜啓昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之候へども二月號におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月號ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。齋藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候。頓首

    十六日         芥川龍之介

   高野敬錄樣

 

[やぶちゃん注:「高野敬錄」『中央公論』編集長。

「齋藤さんにも相すまざる事になり」「齋藤」は齋藤茂吉。次の書簡も参照。或いは、この時は茂吉から高野に龍之介の新年号への執筆仲介があったのかも知れない。

「二月號におまはし下さるまじくや」恐らくは、高野からは、それでも良いが、中途までで、分割でもよいからと、新年号への掲載で頑張れないだろうか言われたものと思われ、既に述べた通り、実際に新年号『中央公論』には「一」と「二」が載り、翌二月一日号で、改めて全篇の発表となっている。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・齋藤茂吉宛(葉書)

 

お藥お送り下され、ありがたく存候。中央公論は前後だけ出來て中間出來ず、とうとう二月に出すことに相成り、尊臺にも申訣無之心地あり、怏々として暮らし居候

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:ここでは「玄鶴山房」の二月号送りが決まっているように書かれてある。高野から、改めて、出来上がっている分だけでよいから、新年号に載せたい、という申し出がこの月のぎりぎり後に改めてあったものかも知れない。尻切れトンボでも流行作家の書き下ろしなら、続きも買うはずで、会社や編集者としても、その方が、寧ろ、いい、と考える気もするからである。]

 

 

大正一五(一九二六)年十二月十九日・田端発信・東京市外下目黑九九〇 佐佐木茂索樣 (葉書)

 

君はもう逗子へ移つたか、僕は原稿の爲こちらへ歸り、いろいろ書いた。が、中央公論はとうとう出來上らなかつた。二十日は明日也。赤倉行は如何なりしか。僕は到底だめならん。

    十二月十九日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「凍死の計画」では、『小穴隆一によれば』、『芥川から自殺の決意を告げられたのは大正一五年四月一五日というが』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』参照)、『彼の自殺は一時的・衝動的な発作によるものではなく、入念な準備とさまざまな計画ののちに選びとられたものであることが判明する』として、この「赤倉行」の話が挙げられており、龍之介はそうした自殺方法の『一つに凍死も考えられていたことを次の佐佐木茂索の「心覚えなど」は伝えてくれる』とあり、以下の引用がなされてある。

   《引用開始》

「昨年の冬、気を変へて貰はうと僕が赤倉のスキーに誘つたら、非常に乗気になつた。そのあげく、こんなことを云つた。

『凍死のことも調べてみたがね、赤倉あたりででも凍死出来るかね、凍死はうまく行けば非常に楽な死に様だよ。それに、過失だか自殺だか分らん得があるからね。――夕方、君が練習を終つて宿に帰つたあとに残るんだね、さうしてどんどん遠くへ独りで走るんだ』

『そんなつもりなら一緒に宿に帰るから駄目だ』

『そんなら晩、一服眠り薬りを君にもつておいてから出るよ。月の晩なんか、月の下で走つてみたいのだと云つて出たら宿でも怪むまい』

『そんなら宿屋の亭主に、この人は少し気が変だから、僕と一緒のほか外へ出してくれるなと頼んでおくからいいや』

『莫迦にしてやがら』

   《引用終了》

鷺氏の年譜でも、『一九日、佐佐木茂索から赤倉ヘスキーに誘われるが、原稿がはかどらず参加をことわる(佐佐木も結局は行かなかった)。』とある。]

 

 

昭和元(一九二六)年十二月二十五日・鵠沼発信・奈良市上高畑町 瀧井孝作樣(葉書)

 

御手紙拜見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。新年號の君の力作をたのしみにしてゐる。頓首

 

 十二月二十五日 鵠沼イの四号 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:この手紙の「僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。」という一節は、芥川龍之介書簡の中でもかなり知られた一節である。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかなく、旧全集の昭和元年の書簡は厳密には、この瀧井孝作宛の一通のみである。

   *

 さて。この大晦日から新年の一月二日までは、ちょっとした事件を龍之介が起こしている。新全集の宮坂年譜から少し前の日常記事から引く。十二月二十二日、『東京駅で夕食をとった後、午後』八『時頃、下島勲を伴って鵠沼に帰る。近所に住む小穴隆一を交え、深夜、午前』〇『時頃までカルタに興じた』。翌二十三日は午前十一時頃に起床し、『食事を済ませた後、塚本八洲の診察に行く下島勲とともに塚本家を訪ねる』。『帰途、也寸志を連れた文と小穴隆一に会い、皆で散歩をする。芥川、小穴と三人で夕食をとった後、下島は帰京した』。二十五日に、田端で、滝井孝作宛の以上の書簡を書き送っている。因みに、この同日に芥川龍之介の随筆集「梅・馬・鶯」(初刊本・新潮社)が刊行されている。二十七日、『正月の準備のため、文が』鵠沼から『田端の自宅に戻』り、『代わりに』龍之介の身の回りの世話のために、『葛巻義敏が鵠沼に訪れる』。三十一日、小穴隆一の妹尚子(十三歳)が逝去したため、小穴が上京し、龍之介の監視役が葛巻だけになった。すると、大晦日であるにも拘わらず、龍之介は、『「体の具合が悪くなって」』(文夫人の回想より)鵠沼を発って、『鎌倉の小町園へ静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』(同前)。『田端の自宅から』、『早く帰るよう』、『電話で催促を受けたが、結局、翌年正月の二日まで滞在し』(葛巻義敏の話)一月二日日曜日に『小町園から鵠沼に立ち寄った後、田端の自宅に戻』った(文夫人の回想及び下島勲の随筆に拠る)。なお、『鵠沼の借家は、翌年』三『月まで借りていたものの、以後、ほとんど滞在することはな』かった、とある。ところが、以前に何度か言及した高宮檀『芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』(彩流社二〇〇六年刊)には、義敏の妹葛巻左登子(さとこ)氏の未発表原稿「M子さんへの手紙」によれば(仮名遣いの不統一はママ)、『例年、元旦は必ず自宅で迎える習慣になっていた叔父』(芥川龍之介のこと)『がこの年は滞在していた鵠沼の借家』『から二十八日に、口実をもうけて妻文と也寸志を田端に帰しました。そして代りに東京から留守番に来た義敏に向って、自分の心情をいろいろと話し「僕は小町園の御内儀さんと逃避行をする。居所がきまったらお前には知らせるから薬(睡眠薬)だけは送って呉れ」と云残して三十一日に自動車で出掛けたそうです。』とあり、この後の展開がかなり異なり、『叔父は元日の深夜』、鵠沼に『悄然として帰宅しました。義敏は』『大分責めたそうですが、小町園の御内儀さんに〝若しかすると私は殺されるかも知れないけれど、貴方についてゆきます〟と云はれた叔父は、急に「この人をそんな目に会わせ資格があるだろうか?」と思ったようです。(中略)』。『そして、叔父は翌二日の早朝田端に帰宅しました。妻文さんから叔父宛に「此度は御奥様からお優しき御手紙を頂き云々」と達筆の御礼状が届きました。』とあるのである。この葛巻左登子氏のそれは義敏からの聞き書きであるから、やや信憑性に疑問な部分はあるものの、年譜の小町園行の仕儀の不透明さに比べて、そこは、よりクリアーで、さらに、野々口豊の慄っとする台詞は、この時、芥川龍之介が豊に心中を持ち掛けたとする説に符合する内容とも言える。

   *

 以下、大正一五(一九二六)年(推定を含む)の月不明の二通。最後の葛巻への置手紙が昭和元年である可能性は、私は頗る低いと考えている。]

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・月不明(四月二十二日以降)・鵠沼発信・葛卷義敏宛

 

バスケツトの中の原稿、

風呂敷に包んだ原稿、

鼠色の舊小說、金元明の部(コレハ義チヤンニ見テ貰ヒタシ)

 

[やぶちゃん注:「金元明」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とする。ただ、これは「金・元・明」代の中国の古い小説集のことを指しているとは読める。]

 

 

大正一五(一九二六)年(年次推定)・田端・自宅にて・葛卷義敏宛

 

封筒を一束買はせにやつてくれ。

 

  註 五十束でもいいよ

             龍 殿 さ ま

   義 べ い 殿

 

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