曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第七集) 古墳女鬼
[やぶちゃん注:文宝堂発表。]
○古墳女鬼
江戶松島町家主古兵衞忰 五郞吉事 幸次郞 酉廿歲
右之者、拾ケ年以前文化元酉年春中、日本橋通り弐丁目善兵衞店忠兵衞方へ、年季奉公に差遣、是迄相勤罷在候。然る處、一昨年春中と覺ゆ、堺町、勘三郞芝居、見物に罷越候處、神田邊、「みよ」と申す、十六、七歲位の女、棧敷に罷在候處、住所も不存者に付、芝居打出候之砌、相別れ申候。其後、同年秋中と覺ゆ、又候、勘三郞芝居へ見物に參候處、右みよ義も致見物罷在候間、猶又、其棧敷へ這入合せ、其節も同樣之義に而、相別れ、後一囘出合も不致相過申候。然處、右幸次郞義、當八月頃より、濕刀瘡相煩、氣分あしく罷在候處、先月廿六日夜八時頃と覺ゆ。右「みよ」義、幸次郞臥居候枕元へ參り、咄致候と夢の樣にも存候處、翌二十七日より同月廿九日夜、又々、右「みよ」參候に付、「宿へ付添可參。」とかねて支度いたし置、宿元を「小用可致」體に而出、往來等は不辨、同道致罷越候處、淺草今戶町、無何心寺之垣を越え、墓場へ參り、石塔へ水手向候處、右「みよ」義、見失ひ候に付、不計心付、「宿元へ可相歸。」と存候處、「右體之義故、證據に可致。」と、同寺垣にいたし有之候塔婆壱本、引拔持歸り候途中、淺草田町に而、夜明け、煮賣酒屋へ立寄り、酒・膾、猶、堺町三味線屋の隣の蒲鉾屋にて、かまぼこ二枚買ひ求め、主人方へ罷歸り申候。尤、途中等に而、幸次郞、『「みよ」と咄抔いたし候へ共、「みよ」義、請答等は不仕候。』由に御座候。
右之通、風聞有之候に付、當人呼寄せ、承糺候處、前書之趣申候に付奉申上候。以上。
文化十年九月 島町 名主 五郞兵衞
こは、町奉行所へ訴狀の「うつし」なり。
此後、幸次郞事、とかく心氣不定故、親元へ、かへしけるよし、幸次郞主人忠兵衞妻の姊夫、元飯田町醫師本田雄仙の話なり。
[やぶちゃん注:ここで引き抜いた卒塔婆に「俗名 かよ」なる墨書きがあって、没年も記されてあって(しかもずっと昔の)、その現物とともに上申されてあったとなれば、俄然、驚愕の怪奇談として迫真するんだがなぁ……。
「文化元酉年」不審。文化元(一八〇四)年ならば「甲子」である。
「一昨年」最後のクレジットから文化八(一八一一)年。
「日本橋通り弐丁目」現在の東京都中央区日本橋二丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であったことを切絵図で確認した。
「堺町」台東区千束四丁目で中村座があった。
「勘三郞芝居」歌舞伎役者の名跡中村勘三郎。この当時だと、十一代目中村勘三郎(明和三(一七六六)年~文政一二(一八二九)年)か。八代目の娘婿で、父は二代目市川八百藏。
「濕刀瘡」不詳。刀傷がひどく糜爛・化膿したものか。
「淺草今戶町、無何心寺」不詳。「江戸名所図会」も調べたが、そのような名の寺は今戸以外にも、ない。「心光寺」というのが、今戸の切絵図内にはあったが、正式な寺名を忘れてこう書いたものか?]
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