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2021/09/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 勝敗不由多少之談

 

[やぶちゃん注:乾斎発表。標題は「勝敗は、多少の由、あらざるの談」と訓じておく。段落を成形した。]

 

   ○勝敗不ㇾ由多少之談

 昔、晉の智伯、韓・魏の三家と志を合せ、逍襄子の軍を、晉陽にて、水攻になしゝ時、逍城の侵さるゝもの、纔に三版なりしに、襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば、智伯、大に敗北せり。

 又、西楚の項籍は、精兵若干にて、漢高祖の五十六萬人を敗り、漢の韓信は壱萬餘人の兵を帥ゐ[やぶちゃん注:「ひきゐ」。]、しかも、水を背にして陣をとり、逋の陳除が二萬人を、暫時に打ち敗りぬ。

 我朝にても、判官爲義、十八歲の時、終に十七騎にて、南部法師二千餘人を、栗柄山にて追ひ散らし、楠正成は、百六十人にて、千劒屋に籠城し、關東の廿萬餘騎と、二年の合戰あり。且、落城は、せざりしなり。

 大神君、姊川の御戰、御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ。

 信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ、長篠の役に、奧平九八郞は、至りて、小勢を以て、長篠城に籠城し、勝賴、弐萬を帥ゐて攻めたれ共、終に拔けざりき。

 これをもて、これを觀れば、軍の勝敗は兵の多少にあらずして、人心の誠と不誠とにあるなり。帝軍の勝敗のみにあらず。物、皆、然り。

 大神君、竹千代君と申し奉りし時、「五日菖蒲擊」を御覽ありしに、その打合、双方、東西にわかれ、いまだ、戰、始めざりしとき、竹千代君、仰せられけるは、

「大敵と、小敵と、戰ふ。小數の方、勝つべし。」

と宜ひしに、果たして、小數のかた、勝たれけり。

 近頃、わが主君、下莊の門前に、甚だしき鬪諍あり。大數の方は、長竿を持出で、且、石・瓦を、頻に、礫に、うちけり。小數のかたは、徐々と[やぶちゃん注:「そろそろと」。]並居たりしが、その中、一人、剛勇の男、短刀を拔きて、大敵の中に飛び入り、大に働きければ、大數の者ども、大に驚き、右往左往に馳せ散りけり。是、わが親しく觀る所なり。

 しかれば、則、物の勝敗は、人心の誠と不誠にありて、人數の多少にあらざるなり。

[やぶちゃん注:「晉の智伯」春秋末期の晋の政治家で武将の智瑶(ちよう ?~紀元前四五三年)。当該ウィキによれば、『智氏が属する荀氏の遠祖は一説』には、『殷の王族の末裔だといわれる』。『智氏は晋の中でも荀氏の分家として、中行氏(荀氏の本家)や』、『その婚姻の范氏(士氏の分家)と共に』、『晋の六卿の中でも名門中の名門だったという。だが、智瑶の祖父の智躒』(ちらく)『(智文子)は、勢力拡大のために』、『六卿の魏氏・韓氏・趙氏と結託して本家である中行氏を攻撃。中行氏は滅亡し、続いて范氏も滅亡に追い込まれた。滅ぼされた両氏の所領は智氏・魏氏・韓氏・趙氏の四卿によって分割された』。『孫の智瑶が当主になったころ、当時の晋公であった出公は彼らの専横を憎み』、『これを討伐しようとしたが』、逆に『四卿は反撃』に出、『敗れた出公は逃走中に死亡し、智瑶が擁立した哀公が出公の後を継いだ』(紀元前四五八年)が、『哀公は傀儡に過ぎず、晋の実権は智瑶によって掌握された。これを期に』、『智瑶は晋にとってかわる野望を抱くようにな』った。『しばらくして、かつて范氏と中行氏の家臣であった豫譲が彼に仕官した。智瑶は豫譲の才能を認め』、『彼を国士として優遇した。この待遇に感激した豫譲は智氏の滅亡後、智瑶の仇を討つべく奔走することとなる』。『数年後、智瑶は魏氏・韓氏・趙氏に所領の割譲を要求した。魏氏の当主の魏駒(魏桓子)と韓氏の当主の韓虎(韓康子)は恫喝に屈して所領の一部を割譲したが、趙氏の当主の趙無恤(趙襄子)』(本文の「逍襄子」はこの誤字であろう)『はこれを拒絶』したため、『智瑶は趙氏を滅ぼすために兵を発し、智瑶の要請を受けた魏駒・韓虎も兵を率いて従軍した』。『智氏・魏氏・韓氏の連合軍を率いた智瑶は趙氏の本拠地である晋陽』(現在の山西省の省都である太原市。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を攻めた(晋陽の戦い)。晋陽の守りが堅いことを知った智瑶は水攻めを決行。戦いが始まって一年が経ったころには晋陽の食糧は底をつき、ついには落城寸前となった』(本文の「襄子、終に降る意なく、返りて、水を智伯が陣に灌ぎしかば」というのは、この部分の誤認であろう)。『絶体絶命の窮地に陥った趙無恤は』、『魏駒と韓虎に密使を派遣』し、『「智伯は強欲な男であり、このわたしがやつに滅ぼされた後には今度は貴公らの番である」と離反をそそのかした』。『内心では智瑶を不快に思っていた魏駒・韓虎はこれに応じ、智氏の軍を奇襲。趙襄子も城を出て』、『総攻撃をかけた』結果、『形勢は逆転し』、『智氏の軍は壊滅』、『智瑶は捕虜となり、その後』、『殺害された。智氏は滅亡し、その所領は魏氏・韓氏・趙氏によって三分された』。『趙無恤は酒の席で智瑶に酒を浴びせかけられたことがあり、それ以来』、『彼を深く恨んでいた。智瑶の死後、趙無恤は智瑶の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、さらしものにしたという』。『死後、「襄」を諡され、智襄子とも呼ばれる。なお、戦国時代後期に現れた荀子は、滅びた智氏の一族の末裔だという』とある。

「三版」意味不明。

「西楚の項籍」西楚の覇王項羽。

「漢高祖」劉邦。

「韓信」(?~前一九六年)漢初の武将。当初は項羽に従ったが、後に劉邦 の将に寝返り、華北を平定、斉王次いで楚王に封ぜられたが、後、淮陰侯に左遷され、最後は反逆の疑いで劉邦の后呂后(りょこう)に処刑された。

「水を背にして陣をとり」「彭城の戦い」で敗走した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に、韓信の別働隊が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが、裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と、将軍の曹参とともに討伐に送り出した。魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信は、その対岸に囮の船を並べ、そちらに敵を引き付けておき、その間に、上流に回り込んで、木の桶で作った筏で兵を渡らせ、魏の首都安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを、討って、魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行った(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。二十万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余(?~紀元前二〇五年:秦末から前漢初期にかけての武将で代王。彼は張耳とともに趙王の子孫である趙歇を探し出して趙王にし、信都を都に定めたから、本文にある「逋の陳除」は「趙の陳餘」の誤りである)を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(「井陘の戦い」)。以上はウィキの「陳余」に拠った。

「判官爲義」源義朝の父源為義(永長元(一〇九六)年~保元元(一一五六)年)。但し、これも錯誤があるようだ。複雑な真相を持つ、河内源氏の棟梁であった源義忠の暗殺事件(天仁二(一一〇九)年二月発生)の首謀容疑者として源義綱一族に嫌疑がかかり、これ憤慨した義綱が甲賀山(鹿深山)に立て籠もった。これに対し、白河院は、棟梁を継いだばかりの義忠の甥源為義に義綱父子の追討を命じた。為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると、義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できないとする息子たちが憤激、次々と息子たちが自害していく中、ただ一人残された義綱は、甲賀郡の大岡寺で出家し、為義に投降した(後、佐渡に配流された)事件がある(詳しくはウィキの「源義忠暗殺事件」を見られたいが、これは冤罪で真犯人は義忠の叔父で、義綱の末弟である源義光であった)が、これは為義数え十四歳で「十八歲」に、まあ、近い。しかし、「南部法師二千餘人」云々が合致しない。この内容に合致するかと思われるのは、大治四(一一二九)年十一月の、興福寺衆徒による「仏師長円暴行事件」で、犯人追捕のため、他の検非違使とともに、為義が南都(奈良)に派遣されたが、逆に首謀者の悪僧信実を匿って、鳥羽上皇から勘当されたというのが、まず一件だが、結末が合致せず、しょぼくらしいから違う。翌大治五年五月に、延暦寺の悪僧追捕があるが、これも、郎党が誤って前紀伊守藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えてしまったために、検非違使別当三条実行により勘事に処されてしまっている。源師時はこの時の様子を日記「長秋記」で『爲義の作法、兒戲の如し」と罵倒しているから、これもしょぼい。因みに、大治五年では為義は数え三十五歳であるから、これまた、合わない(以上はウィキの「源為義」を参考にした)。唯一、「栗柄山」(「くりからやま」と読んでおく)がヒントになろうかと思ったが、こんな山は南都にはない。どうも、この記事、誤りや不審が多過ぎる。

「千劒屋」「ちはや」で「千早」の当て字。元弘三/正慶二(一三三三)年の後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将楠木正成と鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦「千早城の戦い」。実際には三ヶ月半ほどの籠城戦であったことが判明している。但し、前年四月に、正成は、一度、幕府軍にとられた赤坂城を奪い返し、その背後の山上に千早城を作ったので、数えで「二年」とはなる。また、幕府軍を本文では「廿萬餘騎」とするが、これは過小で、北条高時が、畿内に於いて反幕府勢力が台頭していることを知って、九月二十日に関東八ヶ国の大名からなる追討軍を派遣しているが、それは三十万余騎である。全部が千早城攻めに加わらなかったであろうが、少なくとも派遣された総数では、十万も少ないことになる。

「姊川の御戰」戦国時代の元亀元年六月二十八日(一五七〇年七月三十日/グレゴリオ暦換算八月九日)に織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉景健(かげたけ)連合軍の間で近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)に於いて行われた「姉川の戦い」。「御勢五千にて、朝倉の勢、壱萬五千の兵を、敗り給ふ」とあるが、現在知られている総勢力では、織田・徳川軍は一万三千から四万、浅井・朝倉軍は一万三千から三万名とされ、当該ウィキを見るに、「信長は、三萬五千にて、淺井が三千の敵に突き立てられ」というのは、その緖戦に当たる同年四月の、信長の義弟で盟友でもあった浅井長政の裏切りにより、織田信長の撤退戦となってしまった「金ヶ崎の戦い」の誤りと思われる。詳しくはウィキの「金ヶ崎の戦い」の方を見られたい。

「長篠の役」天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)に三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)を巡って三万八千人の織田信長・徳川家康連合軍と、一万五千人の武田勝頼の軍勢が戦った「長篠の戦い」。

「奧平九八郞」徳川家康の長女亀姫を正室とし、娘婿として重用された奥平信昌(のぶまさ)の幼名。後に上野小幡藩初代藩主、美濃加納藩初代藩主となった。当該ウィキによれば、『奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は』、一万五千と称した『大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで』、『武田軍の攻勢を凌ぎきった。その結果』、同月の「長篠の戦い」では、結果、『織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた』。『この時の戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。ただし、近年になって、武田信玄こと』、『晴信の偏諱「信」を与えられて信昌と称したものの、後世の奥平氏が』、『この事情を憚って』、『信長からの偏諱の話を創作したとする説』『も出されている』とある。『家康もまた、名刀大般若長光を授けて』、『信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣』十二『名に対して』も『一人一人に』、『労いの言葉をかけた上』、『彼らの知行地に関する約束事など』、『子々孫々に至るまで』、『その待遇を保障するという特異な御墨付きまで与え』ている。『戦後、父』『貞能から正式に家督を譲られ』ているとある。

「五日菖蒲擊」「菖蒲擊」は「あやめうち」「しやうぶうち」「しやうぶたたき」等と読む。五月五日の端午の節句に行った子供の遊びの一つで、ショウブの葉を、三つ打ちに平たく編んで棒のようにし、互いに地上に叩きつけて、その音の大きさを争ったり、また、切れた方を「負け」などとしたもの。ここは武家の男の子の節句祝いとして行われた家中の武士による擬似合戦である。

「わが主君」発表者乾斎中井豊民は、大儒大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年:加賀国大聖寺出身。京の皆川淇園(きえん)や、江戸の山本北山に学ぶが、飽きたらず、独学を重ね、折衷学に清の考証学を取り入れた独自の考証法を編み出した。三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町附近)に仕え、晩年は加賀金沢藩に招かれた)の教えを受け、師と同じく吉田藩に仕え、渡辺華山や鈴木春山らと交流し、経学と文章を以って儒者として名を成した人物らしい。但し、生没年等、具体的な事績は不詳である。この「兎園会」の行われた文政八(一八二五)年七月当時の主君吉田藩藩主は第四代藩主にして幕府寺社奉行を務めていた松平信順(のぶより 寛政五(一七九三)年~天保一五(一八四四)年)である。

「下莊」吉田城の「下方にある村」の意の一般名詞か。]

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