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2021/09/25

伽婢子卷之十 守宮の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」のものを用いた。「守宮」に「ゐもり」とあるのはママ。近代まで、しばしば誤って用いられ、今でも混同している人もいる。本文内での対象生物はイモリである。種や博物誌は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍盤魚(イモリ)」がダイレクトでよかろう。]

 

Imori1

 

   〇守宮(ゐもり)の妖(ばけもの)

 越前の國湯尾(ゆのを)といふ所のおくに、城郭の跡あり。荊棘(けいきよく)のいばら、生ひ茂り、古松(こまつ)の根、よこたはり、鳥の聲、かすかに、谷の水音、物すごきに、曹洞家(そうとうか)褊衫(へんさん)の僧、塵外首座(じんぐわいしゆそ)とかや、この所に草庵を結びて、座禪學解(がくげ)の風儀を味ひ、春は萠え出る蕨(わらび)を、をりて、飢《うゑ》をたすけ、秋は、嵐に、木の葉をまちて、薪(たきゞ)とす。近きあたりの村里より、檀越(だんをつ)まうで來ては、その日を送る程の糧(かて)をつゝみて惠む事、折々は、これありと雖も、多くは、人影も、まれまれ也。

 されども書典(しよてん)を開きて向ふ時は、古人に對して語るが如く、座禪の床(ゆか)にのぼれば、空裡三昧(くうり《さん》まい)に入て、おのづから、さびしくも、なし。

 ある夜、ともし火をかゝげ、机によりかゝり、「傳灯錄(でんどうのろく)」を讀み居たりければ、身のたけ、僅に、四、五寸ばかりなる人、黑き帽子をかぶり、細き杖をつき、蚋(あぶ)のなくが如く、小さき聲にて、

「我、今、ここに來れども、あるじなきやらん、物いふ人もなく、靜かに、淋しきことかな。」といふに、塵首座(じんしゆそ)、もとより、心法(しんほう)をさまりて、物のために動ぜざるが故に、これを見聞くに、おどろき恐れず。

 かの化物、怒りて、

「我、今、客人(きやくじん)として來りたるを、無禮にして、物だにいはぬ事こそ、やすからね。」

とて、机の上に飛び上がる。

 塵首座、扇をとりて、打ければ、下に落ちて、

「狼籍の所爲(しわざ)、よく心得よ。」

とて、大《おほき》に叫びつゝ、門に出《いで》て、跡かた、なし。

 暫くありて、女房五人、出來たれり。

 その中に、若きもあり、姥(うば)もあり。

 何れも身のたけ、四、五寸許也。

 姥(うば)がいふやう、

「わが君の仰せに、『沙門、たゞ一人、淋しきともし火の下に學行(がくぎやう)をつとめらる。早く行き向かふて、物がたりをも致し、又、佛法の深きことわりをも、問答して、慰めよ。』とあり。此故に、智辯(ちべん)兼備(かねそな)へたる學士(がくじ)、こゝに來りければ、何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、我君、たゞ今、こゝに來りて、子細を尋ね給ふべき也。」

といふに、其長(たけ)、五、六寸ばかりなる人、腕をまくり、臂(ひぢ)を張(はり)、手ごとに杖をもちて、一萬あまり、馳せ來り、蟻の如くに集りて、塵首座を打《うつ》に、首座は、夢の如くに覺えて、痛むこと、いふばかりなし。

 その中に、また一人、あかき裝束(しやうぞく)して烏帽子(ゑぼし)着(き)たるもの、大將かと見えて、うしろに控えて、下知して、

「沙門、はやく、こゝを出て、去(さる)べし。出去らずば、汝が目・鼻・耳を損ずべし。」

といふに、七、八人、首座が肩に飛びのぼり、耳・鼻に、くひつきければ、塵首座、これを拂ひ落として、門の外に逃げ出つゝ、南の方の岡に登りて見れば、一つの門あり。

「これは。そも、見馴れざる所かな。まづ、こゝにたちよりて、今夜をあかさん。」

と思ひ、門外近くさしよりければ、うしろより一萬あまりの人、立かへり、塵首座、捕へて、

「咄(どつ)」

と、つき倒し、門の内に引入たり。

 門の内にも七、八千ばかりの人數、身のたけ、五、六寸ばかりなるが、すきまもなく、立並びたり。

 大將、又、かへりていふやう、

「我、汝を憐みて、伽(とぎ)をつかはし慰めんとすれば、かへつて、損害をなす。その罪、まさに、手足をきりて、償ふべし。」

といふ。

 數(す)百人、手ごとに刀をぬきもちて、立かゝる。

 首座、大に怖れ惑ふて、

「それがし、おろかなるまなこをもつて、その惠みを知らざる事、その誤り、まことに、少なからず、後悔するに、かへらず。たゞ、願はくは、罪を赦したまへ。」

といふに、

「さては。悔む心あり。さのみに、せむべからず。なだめて、追返せ。」

といふ聲、聞えて、門の外へ突き出さるゝと思ふに、寺の小門の前なり。

 堂に立かへりたりければ、灯火(ともしび)は消え殘り、東の山の端(は)、しらみて、あけわたる。

 餘りの不思議さに、門のあたりを尋るに、更に、跡、なし。

 

Imori2

 

 東の方に、少し高き郊(をか)のもとに、穴、有《あり》て、守宮(ゐもり)、多く出入するを怪しみ思ひて、人多く雇ひて、こゝを掘らするに、漸々(ぜんぜん)に、底、廣し。

 一丈ばかり、掘ければ、守宮(ゐもり)、集りて、二萬ばかり、あり。

 中にも大なるもの、その長(たけ)、一尺ばかりにして、色、赤し。これ、すなはち、守宮(ゐもり)の王なるべし。

 村人の中に、一人の翁(おきな)、すゝみ出て、語りけるやう、

「古しへ、瓜生判官(うりふはんぐはん)とて武勇(ぶよう)の人、あり。この所に城を構へて、しばらく、近邊を從へ、新田義治(につたよしはる)に心を傾(かたふ)けたり。その根源は、判官の舍弟に義鑑房(ぎかんばう)とて、出家あり。新田義治を見まゐらせ、極めてたぐひなき美童なりければ、これに愛念を越こし、兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げしかども、遂に本意を遂げずして、討死(うちじに)したり。義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

 

『云越(こゝに)、蟲あり。蛤蚧(かうかい)と名づく。かしらは蝦(ひき)に似て、四つの足あり。鱗、こまかにして、背(そびら)にかさなり、色黑くして、尾、長し。石龍子(とかげ)をもつて部類とし、蝘蜓(やもり)をもつて支族とせり。あるひは泥土水(どろみず)の底にかくれ、あるひは頽井(くづれゐ)の中にむらがる。然るに、今、この土窟(どくつ)に蟄(ちつ)して、ほしいまゝに子孫を育長(いくちやう)し、その巨多(おほき)こと、何ぞ數ふるに百千をもつて盡さむや。月をわたり、年をつみて、たちまちに變化妖邪(へんげえうじや)のわざはひをなし、漫(みだり)に人の神魂(たましひ)を銷(けさ)しむ。これ、何のことぞや。爾而(なんぢ)、生(しやう)を蟲豸(むしち)の間《かん》に托(たく)し、質(かたち)を虵(へび)虬(みつち)の屬(たぐひ)によせて、暫く十二時蟲(《じふに》じちう)の名ありといへども、亦、三十六禽(きん)の員(かず)に外(はづ)れたり。よく蝎蠅(かつよう)を捕(とり)て蝎虎(かつこ)の美名あり。よく一日のうちに身の色變りて折易(せきえき)の佳號ありといへども、守宮(ゐもり)のしるしを張華が筆に貽(のこ)し、戀情(れんじやう)のなかだちを王濟(わうせい)が書にしるす。これ、皆、嫉妬愛執をもつて爾(なんぢ)が性(せい)とす。諒聞(まことにきく)、爾は、そのかみ、釋門(しやく《もん》)の緇徒(しと)、一朝、卒然として男色(なんしよく)に眩(めぐる)めき、つひに行業(ぎやうごふ)をすてゝ武勇をはげまし、欝悶(うつもん)して死して這(この)蟲(むし)となれりといふ。鳴呼(あゝ)、酥(そ)を執(しつ)せし沙彌(しやみ)は酥上(そじやう)の蟲となり、橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる。これ、上古の聆(きく)に傳ふ。爾、色に淫して、また、この蟲となれり。其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり。人の惡(にく)む所、世の戒むる所、何ぞ慚愧(ざんぎ)の心なく、剩(あまつさ)へ、かくの如くの恠異(くわいゐ)をなすや。早く心を改めて正道《しやうだう》に赴き、生《しやう》を轉じて、眞元《しんぐわん》に歸れ。』

 

と、よみければ、是にや、感じけん、數萬の守宮、皆、一同に死(しゝ)たふれたり。

 人皆、不思議の思ひをなし、

「たゞ、此まゝ、捨つべき事、ならず。」

とて、柴を積みて、燒きたて、灰になし、一丘(《いつ》きう)を築きて、しるしとす。

 それより後、二たび、恠異、なし。

[やぶちゃん注:これもまた、作品内時制の規定がない。私は南北朝以降の中世、特に戦国時代は守備範囲外の、さらにその場外で、今までの「伽婢子」の話の大部分がそこに集中しているのが、実は厭だったから(注を記すのにいちいち調べなくてはいけないからである)、これは誠にいい傾向である。

「越前の國湯尾(ゆのを)」福井県南条郡南越前町(みなみえちぜんちょう)湯尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「おくに、城郭の跡あり」杣山城址。湯尾とは日野川を挟んだ対岸の南条郡南越前町阿久和(あくわ)の山上にある山寨。「南越前町」公式サイト内のこちらに解説がある。『杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高』四百九十二『メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています』。『山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します』。『杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部』が『国史跡の指定を受けています』。『杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞』二(一二二八)年八月、『上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました』。『山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父』衡(はかる)『が越後の三島郡瓜生村から』、『この地に移り』、『築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました』。延元元(一三三六)年、『新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました』が、「太平記」によれば、延元二(一三三七)年正月十一日、『金ヶ崎城を救うため』に『出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています』。「得江頼員軍忠状」によれば、暦応元(一三四一)年六月二十五日『夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治』六(一三六七)年七月、『高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明』六(一四七四)年正月、『日野川の合戦に敗れ』、『落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣』『河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元』(一五七三)年、『織田信長の北陸攻めにより』、『廃城となり』、その後の天正二年には、『一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です』とあった。なお、グーグル・マップ・データ航空写真で、ストリービューを起動すると、かなりの箇所の杣山城址周辺ポイント画像が見られる。まあ、確かに好んで人が来そうなところでは、ない。「ブリタニカ国際大百科事典」他によれば、後で本文にも出る瓜生保(?~延元二/建武四(一三三七)年)は南北朝時代の武将。越前南条の住人。建武二年に、建武政権に背いた名越時兼を加賀大聖寺に攻め、自殺させ、同年、新田義貞の挙兵に応じたが,翌年には足利尊氏方につき、越前金崎城に義貞を攻めた。しかし、弟の義鑑坊(ぎかんぼう:本話のイモリに転生したのが、この人物の亡霊)・照(てらす)・重(しげし)ら三人が、義貞の甥脇屋義治に従って、杣山城で挙兵したことから、保も足利の陣を逃れ、義治の陣営に参じ,足利方の高師泰・斯波高経らを破った。翌年、金崎城の義貞救援に向ったが、途中、高師泰・今川頼貞と戦って戦死した、とある。

「曹洞家(そうとうか)」曹洞宗。

「褊衫(へんさん)」短い衣の上着。これに「裙子(くんす)」という下裳を着ける、僧の服の様式は仏教伝来以来あったが、特に鎌倉時代に主として禅家の間で、この上下を縫い合わせた「直綴(じきとつ)」が着用されるようになった。

「塵外首座(じんぐわいしゆそ)」不詳。了意が創出した架空の人物。「塵外」は一般名詞で「俗世間の煩わしさを離れた所或いはその境地。「浮き世の外・塵界の外・世外」の意。「首座」(しゅそ:現代仮名遣)の「そ」は「座」の唐宋音。仏語で、禅寺に於ける修行僧中で首席にあるものを指し、修行僧中の第一座にして長老(住持)の次位に当たる。僧堂内の一切の事を司る実務トップである。「上座」とも呼ぶ。

「學解(がくげ)」学問上の深い知識や見識。

「空裡三昧(くうり《さん》まい)に入」(いり)「て」「新日本古典文学大系」版脚注に『無念夢想の境地にひたることができて』とある。

「傳灯錄(でんどうのろく)」通常は「でんとうろく」と読む。中国の禅宗史書の一つ。全三十巻。蘇州承天寺の道原の作。宋の景徳元(一〇〇四)年、時の皇帝真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから「景德傳燈錄」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序がある。過去七仏に始まり、インドの二十八代、中国の六代を経て、北宋初期に至るまでの千七百一名の祖師の名と伝灯相承(でんとうそうじよう)の次第を述べたもの。北宋期に於いて禅が隆盛となるとともに、広く士大夫の教養書の一つとなり、禅の本の権威となった。仏祖の機縁問答を一千七百則の公案と呼ぶ名数は、本書に収める仏祖の人数に基づいている。

「蚋(あぶ)」読みはママ。これは、ブヨ・ブユ・ブトと読むのが普通で、一般的にはアブよりも遙かに小型である(但し、吸血されると、痒みが長く続き、しかも痕がなかなか消えない)。種や博物誌は「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)」を、アブは「虻」で「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)」を見られたい。

「心法(しんほう)」読みは元禄版のものである。「新日本古典文学大系」版(国立国会図書館本底本)では『しんぼう』と振るが、この場合は厳密には、「しんぼふ」と読むのが歴史的仮名遣としては正しい。仏教用語としての「法」は「ぼふ」と読むのが決まりだからである。作者浅井了意は浄土宗の僧侶でもあるから、こういうところは、正しく守って貰いたかった気がする。

「よく心得よ。」「覚えておれよ!」という罵言。

「何ぞ、あらけなく打擲(てうちやく)して耻(はぢ)を見せたる、」最後を読点にしたのは、憤怒と逆接の雰囲気を出すために私が確信犯で振った。

「咄(どつ)」大勢が殺到してくるオノマトペイア(擬態語)。

「汝が目・鼻・耳を損ずべし」「手足をきりて、償ふべし」本邦らしからぬ、いかにも原拠が漢籍(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、五朝小説の「諾皐記」の「太和末荊南云々」を元とするとある)であることを示す、中国人の大好きな人体部分切断処刑である。最悪無惨なのは、近代まで行われた凌遲(りょうち)刑であろう。

「新田義治(につたよしはる)」新田義貞の弟新田(脇屋)義助(よしすけ)の子で新田義貞の甥であった脇屋義治(元亨三(一三二三)年~?)。当該ウィキによれば、元弘三(一三三三)年、『父義助は義貞の挙兵に参加して活躍した。義治はまだ幼く、父の所領である新田荘脇屋郷に残留したと見られる。その後、上洛したと見られ、建武』二(一三三五)年、『伯父の義貞が建武政権に反旗を翻した足利尊氏への追討令を下されると、父義助と共にその軍に加わった。箱根・竹ノ下の戦いでは父義助の大手軍に属し、足柄峠を目指した。戦闘では大友貞載、塩冶高貞らの寝返りにより、宮方が敗北し、京へ敗退した。その後、父や伯父と共に京をめぐる戦闘や、播磨の赤松円心攻め、湊川の戦いに参加』した。翌建武三年、『後醍醐天皇が足利尊氏と和議を結び、義貞が恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下ると、父義助と共に越前金ヶ崎城に入る。義治は瓜生氏の杣山城に入り、諸氏への働きかけを行った』。『まもなく金ヶ崎城は高師泰・斯波高経に包囲される。瓜生保と義治は援軍を組織し救援に向かうが』、『失敗する。義貞、義助兄弟は援軍を組織するために金ヶ崎城から抜け出し、瓜生氏の下に身を寄せる。義貞は援軍を組織し』、『包囲軍に攻撃をかけるが、救援に失敗し、金ヶ崎城は建武』四年三月六日に『落城した。同年夏頃に義貞は勢いを盛り返し、斯波高経を越前北部に追い詰めた。翌建武』五年閏七月二日、『義貞が不慮の戦死を遂げると、北陸の宮方の総指揮を義助が執ることとなる。義治は義助と共に北陸経営を行うが、徐々に斯波高経が勢いを盛り返し』、興国二(一三四一)年『夏には杣山城が陥落し、越前の宮方は駆逐された。脇屋父子は美濃、尾張と落延び、吉野に入』った。翌興国三年には『義助と共に中国、四国の宮方の指揮を取るために伊予に下向』したが、『下向直後の』五月十一日、『義助は突然の発病により没した』。『義治は里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようにな』った。正平七(一三五二)年、『観応の擾乱と正平の一統で混乱する室町幕府に対し、南朝が一斉に蜂起した。畿内では北畠顕信、千種顕経、楠木正儀が直義派残党も糾合し、足利義詮を破り、京を奪還した。それに呼応して義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。同時に信濃では征夷大将軍宗良親王も挙兵し、一斉に鎌倉目指して進撃する。宮方には北条時行の他、直義派残党の上杉憲顕も加わり、鎌倉を一時的に占拠するが、結局』、『敗れ、宗良親王は信濃に、義宗、義興、義治らは越後へそれぞれ逃れたが、北条時行は捕縛されて処刑された(武蔵野合戦)』。正平二三(一三六八)年、『足利義詮、基氏が相次いで没すると、義宗と義治は再度』、上野・『越後国境周辺で挙兵するが、上野沼田荘で敗れ、義宗は戦死し、義治は出羽に逃走した』。『その後の消息については不明であるが、伊予国温泉郡に逃れたとの伝承や、明徳年間』(一三九〇年~一三九四年)に『丹波に逃れたとの伝承、陸奥の伊達持宗が』応永二一(一四一三)年に『挙兵した際、義治を押し立てて稲村・篠川両御所を襲撃したとの説もある。しかし』、一三七〇年代から『義治の子義則が単独で活動を』していることから、『出羽逃走直後に没したと見られ』ている、とある。

「義鑑房(ぎかんばう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『俗名瓜生儁興』(読み不明。音で「しゅんこう」と仮に読んでおく)『僧籍にあったが、実兄瓜生判官』保『の挙兵を助け、義に殉じた勇者として太平記に描かれる』とある。

「美童」同前で、『「脇や右衛門佐殿ノ子息ニ式部大夫義治トテ、今年十三ニ成給ヒケルヲ、義鑑坊ニゾ預ケラル(太平記十七・瓜生判官心替事義鑑房蔵義治事』とある。

「これに愛念を越こし」同前で、『太平記では、瓜生保の一時の心変りにより、父から義鑑坊に預けられ、杣山城で反撃の機会を待った』とある。

「兄の判官をも、すゝめて、義兵を舉げし」既に注したが、同前で、『足利尊氏に従って城を攻撃する側にいた兄の瓜生判官を説得しての挙兵であった』とある。「義兵」についても、同前で、『後醍醐天皇の皇太子恒良親王と尊良親王を奉じた新田方に呼応したもの』とある。

「討死(うちじに)したり」同前で、『金崎の戦いに兄の瓜生判官とともに討死、その地を敦賀市樫曲(かしまがり)と伝える』とある。ここ。杣山城とは直線で十三キロメートル南西であるが、イモリは種によっては、かなりの距離を移動出来るし、地下水脈で移動することも可能であり、距離感は矛盾しない。言っておくが、私自身、イモリから祟られても仕方がない人間である。高校時代、生物部(演劇部と掛け持ち)でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという、今、考えれば、ひどい実験をしていたからである(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。

義鑑房が亡魂、この城に殘りて、守宮(ゐもり)になり、城の井(ゐ)の中にすみけるが、年經て後(のち)、その井のもと、くづれたり、といひ傳へし。さては、疑ひなく、井のもとの守宮、今、すでに、この妖魅(えうみ)をなす、覺えたり。早く、とり拂はずば、かさねてまた、災ひあるべし。」

といふ。

 塵首座(じんしゆそ)、一紙(《いつ》し)の文(ぶん)をかきて、いはく、

[やぶちゃん注:以下、塵首座の咒文(じゅもん)は底本では、全体が一字下げ。前後を一行空け、さらに『 』で挟んだ。]

「云越(こゝに)」思うに、中国語のサンスクリット語の漢音写等に基づく当て字であろう。

「蛤蚧(かうかい)」寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」で「蛤蚧(あをとかげ)」を立項している。そこで私は、『「蛤蚧」は音で「コウカイ」である』。良安は別に『「ヤマイモリ」とルビを振るが、そのような和名を持つイモリはいない。該当熟語に「オオイモリ」と振る記載を見かけたが、そのような和名のイモリもいない。「大漢和辭典」の「蛤」の項の意味に『⑤蛤蚧(コウカイ)・蛤解はとかげの一種。首は蝦蟇(ガマ)に似、背に細かいうろこがあり、広西に産する。』とある。さても良安先生、「蛤蚧」はイモリではなく、ヤモリですよ! 現在種では中国南部に棲息する(本邦には棲息しないから良安先生も間違えたのかもしれない)ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属トッケイヤモリGekko geckoである。以前は「オオヤモリ」と称せられた。但し、一般にイモリの黒焼きが古くから強壮剤とされることは周知の事実であり、この漢字とルビを用いなければ、私もオオヤモリのようには嚙み付かなかったと思う。どうも、これは日本に伝承する際に、ヤモリからイモリに誤認されたものであるらしい。イモリは皮膚からの分泌物質にフグ毒で知られる猛毒のテトロドトキシンtetrodotoxinTTX)に極めて近似した成分を持っていることは、近年ではよく知られるようになった。とは言え、イモリの黒焼きを食って死んだ人は聞かない。一個体の持つ毒成分の分量が少ないことや、そんなに多量に食えるもんじゃあない(真っ黒に炭化するまでかりかりに焼いているので苦い)からであろう。ちなみに平凡社一九九六年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項にの総排泄腔からの内側の毛様突起から放出されるを誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸』十『個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた。』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じの「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌物の主成分は、額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリン sodefrin だ。でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ』と注した。

「蝦(ひき)」蝦蟇(ひきがえる)。

「蟲豸(むしち)」「爾雅」の「釋蟲」によれば、所謂、広義の「むし」の内で、脚があるものを「蟲」(チュウ)とし、蠕虫や針金状に線虫などのような脚のないものを「豸」(チ)である、と説明している。このため、広義の「むし」を「蟲豸」で総称したのである。

「虬(みつち)」「みづち」。「蛟」。水中に住み、蛇に似ており、角と四足を有し、毒気を吐いて人を害すると言い伝えられる想像上の龍の一種。

「十二時蟲(《じふに》じちう)」「太平廣記」の「昆蟲六」に「南海毒蟲」を載せ、

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南海有毒蟲者、若大蜥蜴、眸子尤精朗、土人呼爲十二時蟲。一日一夜、隨十二時變其色、乍赤乍黃。亦呼爲籬頭蟲。傳云、傷人立死、既潛噬人、急走於藩籬之上、望其死者親族之哭。新州西南諸郡。絕不產虵及蚊蠅。余竄南方十年。竟不覩虵。盛夏露臥。無䁮膚之苦。此人謂南方少虵。以爲夷獠所食。別有水虵。形狀稍短、不居陸地、非噴毒齧人者。出「投荒雜錄」。

(南海に毒蟲有り。大なる蜥蜴(とかげ)のごとく、眸子、尤、精朗たり。土人、呼びて「十二時蟲(じふにじちゆう)」と爲す。一日一夜(いちじついちや)、十二時に隨ひて、其の色を變ず。乍(たちま)ち、赤く、乍ち黄たり。亦、呼びて、「籬頭蟲(りとうちゆう)」[やぶちゃん注:「籬(まがき)の上にいる虫」の意。]と爲す。潛(ひそ)かに、人を噬(か)み、急ぎ、藩[やぶちゃん注:土塀。]・籬の上を走りて、その死者の親族の哭するを望むなり。新州の西南の諸郡には、絕えて不產虵(へび)及び蚊・蠅を產せず。余、南方に十年、竄(はなた)らるも、竟(つひ)に虵を覩(み)ず。盛夏、露はに臥すも、膚の苦しみのために䁮(のが)るること、無し。此れ、人の謂ふ、「南方、虵、少なし。以つてて夷獠(いれう)[やぶちゃん注:異民族の名。]の食らふ所と爲ればなり。」と。別に、「水虵(すいじや)」有り。形狀、稍や短く、陸地に居らず、毒を噴き、人を齧む者には、非ず【「投荒雜錄」に出づ。】。)

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と、十二刻(二十四時間の二時間刻み)の間、十二の色に体色を変えるために、かく別名がついた、とある。ヤモリかトカゲの一種だな。因みにカメレオンはアジアにはいない。なお、「投荒雜錄」というのは唐の房千里という人物の書いたものであるが、散佚して原本はなく、筆者どんな人物かは判らない。南方の地に流謫されたというから、官人ではあろう。

「三十六禽(きん)」一昼夜十二刻の各時に一獣を配して、そのそれぞれの獣に、また、二つの属獣を附けた計三十六の鳥獣。五行ではそれを占卜に用い、仏家では、それぞれの時刻に、出現しては、坐禅の行者を悩ますとされる。WEB画題百科事典「画題Wiki」の「三十六禽」に全名数が載る。

「蝎蠅(かつよう)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『キクイムシ(カミキリムシの幼虫)とハエ』とする。何故、サソリとしないのかは、判らない。中国にはサソリいるけど?

「蝎虎(かつこ)」ヤモリの異称。「新日本古典文学大系」版脚注は『イモリの別称』としている。だから、それは、そちらの注が頭で注意している現代の誤りの一つを、当人が、やらかしちゃったんだなあ!

「折易(せきえき)」「新日本古典文学大系」版では『析易』とする。確かにそれが正しいだろう。「蜥蜴」の(つくり)だもの。ただ、底本も元禄版も孰れも「折易」なので、修正しなかった。

「守宮(ゐもり)のしるし」意味のしっかり分かっている私は改めて説明する気にならない。私の南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を読まれたい。オリジナル注も附してある。

「張華」晋(二六五年~四二〇年)の名臣(呉を伐つに功あって最高職である三公の一つである司空に任ぜられた)で、学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)。彼が撰した博物誌「博物志」は散逸しているものの、「本草綱目」に見るように、多くの本草書に引用されて残っており、これがまた、非常に面白い内容を持つ。

「貽(のこ)し」「殘し」「遺し」に同じ。

「戀情(れんじやう)のなかだち」前の前の前の注のリンク先を参照。

「王濟(わうせい)が書」「王濟」は明の政治家。「新日本古典文学大系」版脚注に、彼『の著、君子堂日詢手鏡に、蜥蜴・守宮の事を、「其物二者上下相ヒ呼ビ、牝声ハ蛤、牡声ハ蚧、日ヲ累(かさ)ネテ情洽甚シク乃(いま)交(こもごも)両(ふたつながら)相ヒ抱ヘ負ヒ、日(あるひ)地ニ堕ツ」とあり、この虫を捕え、粉にして「房中之薬」にする。「情洽」は愛情が和合すること』とある。

「緇徒(しと)」「緇」は「墨染めの衣」の意で、「僧」の意。

「眩(めぐる)めき」「めくるめき」に同じ。眼が眩(くら)んで。

「酥(そ)」チーズに似た牛乳を発酵・固形化したもの。仏教では、「大般涅槃経」の中で牛の乳から生み出される貴重な宝である「五味」として、順に「乳」→「酪」→「生酥」→「熟酥」→「醍醐」の順に熟成精製されるとある。但し、それぞれの完成物は、現在のチーズと同じであるかどうかは判らない。

「橘(たちはな)を愛せし桑門は橘中(きつちう)の蟲となる」「新日本古典文学大系」版脚注に『未詳。発心集八ノ八、三国伝記三ノ二十一に類話があるが、両例とも尼僧』であるとある。

「聆(きく)に傳ふ」「きく」は「聽く」。聴き伝えている。

「其の性(せい)、既に色を繕(つくろ)ふの能(のう)あり」イモリに転生する以前から、一度は僧籍にあり乍ら、瞬く間に美少年に懸想して若衆道の深みにはまるという、七変化を成すアプリオリな性的変色変態素質があったことを色を変えるイモリに掛けて言う。

「慚愧(ざんぎ)」今は「ざんき」だが、「ざんぎ」は古い読みとしてあった。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。

「生《しやう》を轉じて」輪廻転生して。

「眞元《しんぐわん》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「真元(しんぐわん)か。「真元」は「真如」に同じ』とある。「真如」サンスクリット語「タタター」の漢訳語で、「ありのままの姿・万物の本体としての永久不変の絶対真理・宇宙万有に遍く存在する根元的実体・法性(ほっしょう)・実相」のこと。]

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