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2021/09/11

芥川龍之介書簡抄141 / 昭和二(一九二七)年一月(全) 十八通

 

昭和二(一九二七)年一月八日・田端発信・野間義雄宛(葉書)

 

冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の發音を御注意下され愈ありがたく存じます。本にでも入れる時は改めさせたいと存じます。右とりあへず御禮迄

二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候

    一月八日

 

[やぶちゃん注:「野間義雄」未詳(以下、宛名人の「未詳」は新全集の「人名解説索引」で確認したもの。以下では略す)。新全集の宮坂年譜より、この前後を引く。同年一月三日、『嘔吐してところに下島勲が来訪し、診察を受ける』、翌四日、『西川豊(義兄。弁護士)』(実姉ヒサの再婚相手)『宅が全焼する。直前に多額の保険がかけられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』。『午後、前月』昭和元年十二月三十日『に死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。午後』八『時頃、小穴、下島が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、午後』十『時半頃までカルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』(私の『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』を参照)。一月五日、教えていた『何条勝代が来訪し』、この十一『日に再び洋行することを告げてゆく』。同月六日の午後六時五十分頃、『西川豊が千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この中央附近にあった。グーグル・マップ・データ。外房線は路線変更されているため、旧土気トンネルは現存しない)『で飛び込み自殺する。以後』、三『月頃まで、義兄の家族や、遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険などの問題で、東奔西走を余儀なくされた』とあり、書簡中の「親戚にとりこみ有之」はそれを指す。以下、『この頃、編集者や来客から避難するため、平松麻素子の世話で帝国ホテルに部屋をとり』(平松麻素子の『父の福三が支配人の犬丸徹三と懇意だった)、原稿執筆をすることもあ』った。『帝国ホテルからは、しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた』、小さな頃から世話になった『室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論をした』とある。一月八日、『「新潮合評会」に、徳田秋声、近松秋江、久保田万太郎、広津和郎、宇野浩二、堀木克三、藤森淳三、中村武羅夫らと出席する』。この書簡の翌九日、『夜、漱石忌』(月命日)『に出席するため、夏目家を訪れ』ている。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月九日・田端発信・宇野浩二宛(葉書)

 

冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、每日忙殺されてゐる。はがきで失禮 頓首

    一月九日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十日・田端発信・藤澤淸造宛(葉書)

 

冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は燒けて主人はゐないと來てゐるから弱る。右御禮まで。

 

    一月十日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「藤澤淸造」(明治二二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は小説家・劇作家・演劇評論家。石川県鹿島郡藤橋村(現在の石川県七尾市)生まれ。明治三三(一九〇〇)年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第四学年を卒業後、七尾町内の活版印刷所で働いた。仕事は、印刷所が新聞取次を兼業していたため、新聞配達であったが、右足が骨髄炎に罹り、手術を受け、自宅療養した(生涯、この骨髄炎の後遺症に苦しめられた)。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで鋲屋や代書屋に勤めた。明治三九(一九〇六)年、十八歳の時に上京、中里介山らの面識を得る。弁護士野村此平の玄関番や、製綿所・沖仲仕といった職に就いた後、明治四十三年には、当時、弁護士だった斎藤隆夫(後にリベラル派の政治家となった)の書生となる。この頃、同郷の文学青年安野助多郎らと親しく交友、その安野に紹介された徳田秋声の縁で、三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤めることとなった。明治四五・大正元(一九一二)年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野が縊死した。安野は清造の代表作となった長篇小説「根津現裏」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年聚芳閣文芸部刊版)に登場する岡田のモデルであるとされる。なお、茂吉の歌集「赤光」収録の連作「狂人守」(きょうじんもり)(大正元年の作)に登場する患者も、安野がモデルとみられている。大正九(一九二〇)年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌年、経費削減を理由に馘首された。後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆した。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、大正一一(一九二二)年には、やはり小山内の世話で、プラトン社の非常勤編集者の職を得た。同年四月、友人の三上於菟吉の世話で「根津権現裏」を日本図書出版株式会社から刊行した。しかし、後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、昭和七(一九三二)年一月二十九日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の行旅死亡人として火葬されたが、その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印から、久保田万太郎によって、清造の遺体と確認された(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・佐藤春夫宛(葉書)

 

冠省君の所へ裝幀の禮に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出來、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。錄近作一首

   ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ

 

[やぶちゃん注:「裝幀」前年十二月二十五日に新潮社から刊行した随筆集「梅・馬・鶯」の装幀は佐藤春夫に依頼した。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十二日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

はがきにて失禮。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。髪經衰弱癒るの時なし。每日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首

    一月十二日       芥川龍之介

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛

 

冠省御手紙ありがたく存じます。大騷ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神經衰弱なほるの時なし。とりあへず御禮まで。頓首

    一月十五日       芥川龍之介

   伊 藤 貴 麿 樣

 

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和三二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。兵庫県神戸市生まれ。大正九(一九二〇)年、早稲田大学英文科卒。大正十三年、新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、後、文芸春秋系の作家となり、その後、児童文学界の重鎮となって、「西遊記」の再話などで知られた。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・橫尾捷三宛

 

冠省、創作月刊の件は菊池へでも直接おかけあひ下さい。原稿は同封御返送します。この頃親戚に不幸有之、多用の爲これにて御免下さい。頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   橫 尾 捷 三 樣

 

[やぶちゃん注:「橫尾捷三」未詳。

「創作月刊」文芸春秋社が、この翌年の昭和三年に創刊することとなる雑誌。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・福島金次宛

 

拜復、度々御手紙ありがたう。拙作を讀んでゐて頂いて恐縮です。「鴉片」や何かは「梅・馬・鶯」を本にまとめた後に書いたのです。茂吉さんの事はあの文章にては不十分にてすまぬ故、削ることにしました。舊臘來多病の上多忙の爲、手紙も書けず、今夜あなたへもやつと義務をはたす事が出來ました。唯今犬養、瀧井兩君と夕飯を食つて歸つて來た所です 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   福 島 金 次 樣

 

[やぶちゃん注:「福島金次」不詳。

「鴉片」は岩波書店の新書版全集には大正一五(一九二六)年十一月発行の『世界』初出とするが、確認はなされていない。同元版全集では本文文末に『(大正十五年十一月)』の、普及版全集では『(大正十五年十月)』のクレジットがそれぞれ打たれてある(以上の書誌は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。

「茂吉さん」斎藤茂吉。現在の「鴉片」には茂吉は登場しない。この「福島金次」なる人物はその初出(削除されて全集収録される前のもの)を読んだ感想を送ってきたものか。「犬養、瀧井兩君」犬養健と瀧井孝作。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・海老原義三郞宛

 

朶雲奉誦、夏目先生の書は小生の鑑定にては目がとどかず、何とぞ小宮豐隆氏か野上豐一郞氏にお願ひ下され度、右とりあへず當用のみ。

    一月十五日      芥川龍之介

   海老原義三郞樣

二伸御封入の爲替及切手は同封御返送申上候間左様御承知下され度候。

 

[やぶちゃん注:何やらん、ゴタゴタ続きの中に、龍之介を苛立たせる問い合わせが殺到していることが判る。

「海老原義三郞」不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十六日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

御手紙ありがたく存じます。それから「文藝春秋」のお歌も。尊堂へは是非上らねばならぬ所、又親戚中に不幸起り、東奔西走致しをる次第、惡しからず御無沙汰をおゆるし下さい。唯今新年號の小說の續きを書きをり候へども心落着かず、難澁この事に存じてゐます。來世には小生も砂に生まれたし。然らずば、

   來ム世ニハ水ニアレ來ン軒ノヘノ垂氷トナルモココロ足ラフラン

    一月十六日夜     龍 之 介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「新年號の小說の續き」既に述べた「玄鶴山房」のこと。

「來世には小生も砂に生まれたし」「も」という添加の係助詞から、茂吉の「文藝春秋」に載せた(推定)歌と関係するように思われるが、不詳。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

頭くたびれをり、如何にしてもこれより出來ず。なほ又前の最後の半ピラ中、「お鈴は夫が銀行へ行き」云々の一節はとりすて、今度のをお用ひ下され度候

               芥川龍之介

   高 野 敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」の二月号の原稿についての内容。次の同人宛書簡から、一部を先に送ってお茶を濁していたように見える。

「半ピラ」二百字詰原稿用紙のこと。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月十九日(推定)・田端発信・高野敬錄宛

 

これでおしまひです。「五」は出來損ひかもしれません。しかしもう時間がありませんから、あきらめることにしました。又實感の乏しい爲、手を入れてもだめかと思ひます。

    十九日午前五時    龍   之

   敬 錄 樣

 

[やぶちゃん注:「玄鶴山房」は私は好きな作品である。芥川龍之介最晩年の小説らしい小説として、である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・野村治輔宛

 

原稿用紙で御免下さい。飜譯の件は勿論よろしい。序文も同封してお送りします。どうかよろしく。「じゆりあの吉助」は御らんになるほどのものではありません。僕もモスクワ大學の日本文學科の先生か何かになりたい。原稿に追はれて暮らしてゐるよりもその方が遙かによささうです。右當用のみ。頓首

    一月二十一日     芥川龍之介

   野 村 治 輔 樣

 

[やぶちゃん注:「野村治輔」新全集の「人名解説索引」には、『大阪毎日新聞社社員』としつつ、『詳細未詳』とある。ネット・データでは、芥川龍之介もよく発表の場としている雑誌『新小説』の大正時代の編集者の名前に出る。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十一日・田端発信・岩野英枝宛

 

原稿用紙にて御免下さい。雲林、藍瑛どちらも持ち合せません。のみならず畫帖を見た位では中々御鑑定の出來るものではありません。小生は唯今親戚に不幸有之、その上その方の衣食の計立たざる爲、東奔西走中。どうかこれにて御勘辨下さい。いつか越後へでも遊んだ折はあなたの御紹介を得、御藏幅を拜見したいと存じてゐます。以上。

    一月廿一日夜     芥川龍之介

   岩 野 英 枝 樣

 

[やぶちゃん注:「岩野英枝」(ふさえ)は新全集の「人名解説索引」によれば、作家岩野泡鳴の三番目の妻とし、最初、『泡鳴の口述記者として雇われ』、『のち同居』、大正七(一九一八)年五月に『入籍』したとあり、『泡鳴の主宰した十日会』(かの秀しげ子も会員で、龍之介もそこでしげ子に出逢った)『の女性側の主要メンバーの一人』で、『芥川は英枝に久米正雄の結婚相手を捜してくれるよう依頼する一方で』、『英枝の原稿を新聞に載るよう』、『骨』を『折ったこともある』とあった。この時は既に未亡人(泡鳴は大正九年没)であった。

「雲林」元末の画家で「元末四大家」の一人に挙げられる倪瓚(げいさん 一三〇一年~ 一三七四年)の号。

「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年(生没年は異説あり))は明の後期を代表する画家。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓今夜は失禮仕り候うつかり「月の光は八谷を照らす」を書いて頂く事を忘れ殘念なり二三日中に使のものをさし上げ短尺をおとどけ申上げ候間、おひまの節お書き下さらば幸甚に存候ソレカラ Velonal Neuronal ともおとり置き下さるまじく候やこちらのお醫者に賴む事は阿片丸を頂きをり候ことも申居らず候爲ちと具合惡く候へばよろしくお取り計らひ下さらば幸甚に存候 頓首

    昭和改元一月廿八日   龍 之 介

   齋 藤 樣

二伸 なほ又お藥は使のものにお渡し下さらば幸甚に存候唯今この手紙に似合ふ封筒なしこれも御免蒙り度候

     卽興

   尿する茶壺も寒し枕上(ガミ)

 

[やぶちゃん注:「月の光は八谷を照らす」筑摩全集類聚版脚注に、『茂吉の作』とあり、

 しづかな峠をのぼり來(こ)しときに月の光は八谷(やたに)をてらす

と載せ、二年前の『大正十四年夏、箱根にての吟』とある。歌集「ともしび」の「箱根漫吟の中」の一首である。

「Neuronal」筑摩全集類聚版脚注は『神経安定剤』とするが、この綴りは一般名詞で「神経細胞の・ニューロンの・神経型の」の意味であり、市販薬物名として「ヌロナール」というのは、英名でもネット検索に全く掛かってこない。Numal」の誤りである。小泉博明氏の論文「斎藤茂吉と青山脳病院院長(1)昭和 2 年から昭和 3 年まで(PDF・『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第十一号(二〇一〇年)所収)の、「5.芥川龍之介と茂吉」に、この書簡への往信と思われる二 月一日附芥川宛書簡を引き(引用文を恣意的に正字化した)

   *

拜啓先日は御馳走に相成り何とも感謝奉り候。今日獨逸バイエル會社の「ウエロナール」屆き候ゆゑ一オンス(廿五グラム)使もて御とヾけ申候。舶載品は邦製のものと成分全く等しと申し候ひども舶載のものヽ[やぶちゃん注:ママ。]方がやはり品よき心地いたし申候。御比較願上候。次にヌマール(Numal)といふロッシュ(Roche)會社の錠劑をも御屆け申し候。これは一錠頓服にて十分と存候が、これも御試めし願上げ候。ウエロナールとヌマールと相互に御使用の方が、慣習にならずによろしく御座候(略)

追伸。藥價の事御氣にかけられ候事かと存じ候ゆゑ内實を申上候邦製ウエロナールは一オンス八十五錢に有之、舶載のバイエル會社のものは二圓五十錢、ヌマールは一圓六十錢にて、先夜の自働車[やぶちゃん注:引用元にママ注記有り。]にも相成り不申候ゆゑ、進上仕りたく右惡しからず御承引願上候。但し、藥は高きものと思召にならざれば利かぬものに候ゆゑ、その御つもりにて御服用願上候 敬具

   *

小泉氏はこれについて、『茂吉は、馳走になった御礼として芥川に「ウエロナール」だけではなく、「ヌマール」という薬剤と短冊を送った。2 種類の薬剤を相互に服用し、慣習化しないように指示している』とされ、但し、『茂吉の 1 月 30 日付、日記には「芥川氏に、Verona l25 gr. ヲトドケル」』『とあり、日記と書簡の日付に異同がある』とある。この茂吉書簡への返礼が、二月二日夜とする二月分で掲げる書簡である。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月二十八日・田端発信・西川英次郞宛

 

冠省久しぶりに君の手紙を貰ひ愉快だつた短尺は小包みにするのが厄介故詩箋で御免蒙る元來君のやうに字のうまい兄貴を持ちながら俺の書いたものなど欲しがる必要はないのだだから發句三分の一人前字三分の一人前、紙三分の一人前と思つて貰つてくれ給へこの頃多事多難多憂弱つてゐる

 

    昭和改元一月廿八日  龍 之 介

   英 次 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「西川英次郞」龍之介の親友。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・田端発信・宇野浩二宛

 

拜復。まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預つて難有い。あの話は「春の夜」と一しよに或看護婦に聞いた話だ。まだ姊の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の爲に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは氣の毒だね。餘は拜眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

    一月三十日      芥川龍之介

   宇 野 浩 二 樣

 

[やぶちゃん注:「あの話」「玄鶴山房」。

「春の夜」大正一五(一九二六)年九月『文藝春秋』発表。「青空文庫」のそれをリンクさせておくが、新字新仮名である。

「高野さんがやめたのは氣の毒だね」前にも書いたが、『中央公論』編集長であったが、先の高野宛書簡から、この一月十九日以降に、恐らくは解任されたものと推察する。]

 

 

昭和二(一九二七)年一月三十日・消印三十一日・田端発信・相州鎌倉坂の下二十一 佐佐木茂索樣・一月三十日 武州田端 芥川龍之介

 

朶雲奉誦、唯今姊の家の後始末の爲、多用で弱つてゐる。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保險、生命保險、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神經衰弱癒るの時なし。六七日頃までは東京を離れられまい。拜眉の上萬々。姊の夫の死んだ話は殆どストリントベルグ的だ。匆々。

    一月三十日      芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

 

[やぶちゃん注:「ストリントベルク」ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。私は恐らく海外の劇作家で最も多く戯曲を読んだ作家の一人である。]

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