曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 突くといふ沙汰
[やぶちゃん注:文宝堂発表。段落を成形した。]
○「突く」といふ沙汰
文化三丙寅年[やぶちゃん注:一八〇六年]正月の末より、夜分、往來の盲人、或は、乞食・ゐざりの類を、鎗にて突き殺す事、はやりて、月の中比より、此事、甚しく、三月のはじめ比より、少し此沙汰やみたるに、同四日、芝車町より出火して、淺草たんぼまで、やける。
[やぶちゃん注:「文化の大火」である。文化三(一八〇六)年三月四日、江戸芝の車町(くるまちょう:牛町とも称し、現在の港区)から出火し,大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域と、神田・浅草の大半を類焼した大火。「車町火事」「牛町火事」とも呼ぶ。死者は千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋に収納し、救済金を下付、火災後に「諸色物価高値取締」などの対策も講じた。]
此大火の後、又々、鎗の沙汰有りて、日暮過よりは、人々、用心して、他出する者、稀なり。夜分は、いよいよ、往來、淋しければ、わる者は、時を得たるにや、猶、所々にて、突く事、多かりけり。されども、大かたは、盲人、或は、至極下賤の者ばかりにて、よき人つかれしといふこと、なし。
盜賊の所爲かと思へば、さのみ金銀を目がくるにもあらず、いかにもあやしき事にて、おほやけよりも、いと嚴しく仰渡され、町中にても、火事後、猶更、夜番をなして、たゆみなく心をつくすといへども、さらに其わる者、しれざりけるが、四谷天王[やぶちゃん注:現在の東京都新宿区須賀町にある須賀神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]の社内地形[やぶちゃん注:「ぢかた」。平面の土地を指す。]の普請場へ、いとあやしき侍、來りて、別當所の座敷に有りし頭巾と衣二品をぬすみて、去らんとす。折しも石工、或は鳶のものなど、あまた居合せたれば、忽、とらへられ、盜みたる品を取りかへされ、からきめにあひて、逃げうせたりしに、そのゝち、「鮫が橋」[やぶちゃん注:この附近の地名。]の「おか」てふものに訴へられて、遂に召し捕れ、きびしく御吟味ありけるに、此者も、夜分、人を突くわるものなりければ、すみやかに、其罪、きはまり、江戶中引廻しの上、品川鈴が森にて、獄門にぞ行はれける。是、四月十八日に召しとられ、同廿三日に、かく行はれたれば、
「この後は、さる事、あらじ。」
と、世上安堵の思をなしたるに、はや、其廿三日の夜、淺草西福寺[やぶちゃん注:「さいふくじ」。ここ。]門前にて、又候、つかれたるもの、あり。
牛込改代町[やぶちゃん注:「かいたいちやう」。ここ。]麁朶橋にて、十八歲になる盲人、出刄庖丁にて突き殺されたり。これは五月二日の夜の事なり。
同夜同所、神樂坂上寺町[やぶちゃん注:この中央附近。]にても、つかれたるものあり。
いかなる事にて、何者のなすわざにや。猶々、おほやけよりも、さまざま觸出だされし事共あれど、とにかくに、しれがたし。
其後、自然と此沙汰やみたるに、又、八月の末より、春中のごとく、夜分、非人或は盲人を突く事、所々にあり。かへすがへすも、いぶかしき事なり。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]
此頃、甲州にて、あやしき法を行ひて、婦女子の膽[やぶちゃん注:「きも」。]を取りて、藥に用ふるよし、風說あり。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行。]
水銀蠟、當春以來、賣買いたし候哉、有無之返答書差出候樣、名主より申し渡され、飯田町にても、町内の藥種や一同、賣買不致旨、連印いたし、返答書を差出だしゝ事あり。後に聞くに、水銀蠟を妖術に用ひ、又は鎗にて突く事にも、用ふるよし、依之、右の御尋あり、なんど種々の說々あり。
[やぶちゃん注:「水銀蠟」不詳。水銀に蝋を混ぜたものか。
以下は底本でも改行。狂歌は四字下げであるが、引き上げた。]
同年十月の中比より、少し、此沙汰、やむ。一體、春中より月の夜はしづかにて、暗夜に、此事、多くありける故、其比の落頌[やぶちゃん注:「らくしよう(らくしょう)」。この「頌」は単なる「形・様」の意で、落首に同じであろう。]に、
春の夜のやみはあぶなし鎗梅のわきこそみえね人はつかるゝ
月よしといへど月にはつかぬなり闇とはいへどやまぬ鎗沙汰
やみにつき月夜につきの出でざるはやりはなしなるうき世なりけり
[やぶちゃん注:「鎗梅」「やりうめ・やりむめ」は、梅の花と蕾のついた梅の枝を真っ直ぐに立てて並べた文様の呼称。丁度、槍を並べたように見えるので、この名があり、江戸時代の小袖や陶磁器などには、この文様を使った作品が数多くみられ、尾形光琳の絵にもある、とサイト「きものと悉皆 みなぎ」のこちらにある(紋様図有り)。この歌、「わき」はその紋様から着物の「脇」に、「分(わ)き」を掛けて、闇夜に対象の識別も出来ないことを掛けていよう。]
これは扨おき、當酉五月廿六日の夜、豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋、芝居よりかへるさ、乘物町[やぶちゃん注:現在の中央区日本橋堀留町一丁目。町名は駕籠屋が多かったことに因む。]にて、何者ともしらず、延壽齋の脇腹を、一突、つきて、いづくともなく逃げうせたり。延壽は、
「𠰄。」[やぶちゃん注:叫び声のオノマトペイア。]
といひたるに、挑燈をもちし男、驚き、
「こは、いかに。」
と、立ちよりたれば、
「はやく、駕龍を、雇ひくれよ。」
といひて、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]程あゆみて、駕籠に乘り、本石町鐘撞堂新道[やぶちゃん注:「ほんごくちやうかねつきだうじんみち」。墨田区緑四丁目。中央区日本橋本石町との関係は、参照したサイト「江戸町巡り」の「【本所 新道】鐘撞堂新道」の解説を読まれたい。]なる我家へ來りしと聞きて、其まゝ息たえたりし、となん。をしむべし、をしむべし。【このとき、葺屋町[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋人形町三丁目。]市村座狂言「曾我祭」・淨瑠璃名題「嬲三人色地走(まてみたりいろのちはしり)」[やぶちゃん注:「の太夫を勤めた」の意であろう。]。『「地走」は「血走り」にかよひあてゝ見るといふも、名詮自性なり。』と、後に人のいひしとぞ。延壽が菩提所は、日蓮宗深川淨心寺[やぶちゃん注:ここ。墓も現存する。]なり。戒名「妙聲院誓音日延信士」。○是より先、延壽齋、剃髮・改名のすり物に、剃髮の「剃」を「刺」と書きたり。是も前兆なるべし。】[やぶちゃん注:頭書。恐らくは馬琴によるものであろう。狂歌・狂句は一字空けで前文に繋がっているが、改行した。]
此延壽齋の一條は、前編の因[やぶちゃん注:「ちなみ」。]にしるし出だせり。
何ものゝよめるにか、
いつきならつかるゝこともあるべきにこは前生の因えん壽齋
又、發句に、
五月やみあといふ聲や聞きをさめ
文政八乙酉夏六朔 文 寶 亭 記
[やぶちゃん注:「豐後節淨瑠璃太夫淸元延壽齋」有名な太夫。江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である清元延寿太夫(現在まで七代続いている)の初代(安永六(一七七七)年~文政八年五月二十六日(一八二五年七月十一日)。通称は岡村屋吉五郎。江戸横山町の茶油商に生まれた。寛政六(一七九四)年に富本節の初代富本斎宮太夫(いつきだゆう:後に剃髪して清水延寿斎)の養子となり、寛政九(一七九七)年に初代の高弟の弟子であった斎宮吉から二代目斎宮太夫を襲名した。文化九(一八一二)年、富本節を離れ、豊後路清海太夫の名で、一派を設立し、文化一一(一八一四)年に清元延寿太夫を名乗り、清元節を創設した。美声に加え、庶民の風俗・世相・時代を取り入れて、清元節の隆盛の基礎を築いた。文政七(一八二四)年に剃髪し、清元延寿斎を号した。しかし、翌年、劇場の帰宅途中に何者かに刺殺された。犯人は延寿太夫の活躍を妬んだ富本の仕業とされたが、今以て、犯人は不明である。当時、あまりにも人気だったため、
都座に過ぎたるものが二つあり延壽太夫に鶴屋南北
という落書が詠まれたほどだったという。「累」・「山姥」・「須磨」などを語り、評価を受けた(以上は当該ウィキに拠った)。
「名詮自性」(みやうせんじしやう)は仏教語で「名がそのものの本質を表しているもの」、又は、「本質に名が相応しいもののこと」を言う。「名詮」は「その名に備わっていること」、「自性」は「そのものの本質のこと」の意。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 新吉原京町壱丁目娼家若松屋の掟 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 松前貞女 »