曲亭馬琴「兎園小説」(正編) なら茸 乞兒の賢 羅城門の札
[やぶちゃん注:乾斎発表。段落を成形した。話の切れる部分に「*」を入れた。二話目の漢詩は四字下げで一行に句明け一字分で書かれているが、句で改行して引き上げて示し
短歌も引き上げた上、句で分離した。]
○なら茸 乞兒の賢 羅城門の札
上州眞壁郡野瓜(ノウリ)村[やぶちゃん注:不詳。旧真壁郡では現在の筑西市に野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)という地名なら現存する。]にての事なりし。
寬政四年辛未【是年、改元、「寶曆」。】[やぶちゃん注:干支と割注から、「寬政四年」は「寬延四年」の誤り。一七五一年。寛延四年十月二十七日(グレゴリオ暦十二月十四日:旧暦では閏六月があった)に宝暦に改元した。]四月中[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では四月二十四日から五月二十四日。]、百姓ども、寄り合ひて、「なら茸」といふきのこ、大さ、三、四寸ばかりなる、いと美事なるを取り來て、四、五人、より合ひ、吸物にこしらへ、酒を吞まんとせし折、同村なる不二澤幸伯といふ醫師、來にければ、五人のもの申しけるは、
「さてさて。よき處ヘ御出候ものかな。今日、「ならたけ」といふきのこを採り候故、吸物にして酒をたべ候なり。幸ひの折なれば、御酒ひとつ、きこしめされよ。」
といふに、此醫師も、
「そは、よき處へ參りあはしゝ。」
などいふ程に、吸物膳をもて出でければ、葢をとりて見るに、特に美なる「なら茸」を四つ割にして、出だしたり。
幸伯、これを、吸はんと思ひしに、はじめ座につく時、腰にさげたる印籠巾着[やぶちゃん注:底本は「籠」が「竃」だが、誤植と断じて特異的に訂した。]を、膝の脇にや居[やぶちゃん注:「をき」。]しきけん、忽、
「はつし」
と、音、しにけり。
幸伯、ひそかに驚きて、
『こは、印籠を、ひしぎしならん。』
と思ひつゝ、とりて見るに、させることも、なし。
『こは、いかに。』
と疑ひまどひて、やがて、その巾着の紐をときつゝ、内を見るに、いぬる年、兄道伯がくれたりし、三つ角の銀杏、くだけたり。
そのとき、幸伯、思ふやう、
『曩に、わが兄の、この銀杏をくれしときに、いへらく、「その理あるにあらねども、『三つ角なる銀杏は毒けしなり』とて、むかしより、人のいひ傳へたり。よしや、醫師なればとて、かゝる事は、俗にしたがひて、文盲見義[やぶちゃん注:「文盲の下々の者に対して発明して真義を示すためのもの」の意か。]に用ふるぞ、よき。其方にも、一つ、懷中せよ。」とくれたるを、この巾着に入れおきしに、今、摧けしは不審の事なり。且、この吸物は、わが好物といふにも、あらず。いかにせまし。』
と思ふ心の、とかく、心にかゝりしかば、
『吸はぬにますこと[やぶちゃん注:「增すこと」で「それ以上によいこと」の意か。]あらじものを。』
と、やうやくに思ひとりて、もろ人にうちむかひ、
「われら、けふは大切なる精進日に候へば、御酒ばかり、たまはらん。」
とて、盃をうけて、少し飮みしが、遂に療用にかこつけて、酒宴なかばに、辭し去りぬ。
しばらくして、彼吸物をくらひし百姓の家より、幸伯がり、人を走らして、
「只今、見まひ、給はれかし。」
とて、急病用の使、推しつゞきて、來にければ、幸伯、ふたゝびゆきて、彼五人の中、亭主と外、一人の卽死したれば、療治、屆かず。殘る三人は、その腹、いづれも、大皷のごとくにはれたれども、命運や竭きざりけん[やぶちゃん注:「つきざりけん」。]、からくして、順快しけり。
そのゝち、幸伯は江戶へ出府せし折、
「かゝる事にや、不思議に命を助かりし。」
とて、朋友某に物がたりしなり。
[やぶちゃん注:「ならたけ」食用の菌界担子菌亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica であるが、毒成分は不明ながら、ナラタケ食で体調不良を起こすことはあるものの、死に至るケースはない。似た形のもので致死性が高いのは、ハラタケ目フウセンタケ科ケコガサタケ属コレラタケ Galerina fasciculata だか、同中毒は食後概ね十時間(摂食量によっては六~二十四時間)後にコレラの様な激しい下痢が起こり、一日ほどで、一度、回復するが、その後、二~七日後に肝臓・腎臓などの著しい機能低下による劇症肝炎や腎不全症状を呈し、最悪の場合、死に至るとあるので、即日即死二名の本件には当たらない。彼らが食った「きのこ」の正体はよく判らない。但し、公開直前に、サイト「森林微生物管理研究グループ」の「きのこ中毒の話(二)」を発見、毒キノコに詳しい専門の方が本話を現代語抄訳された上で、『この話の「ならたけ」は別の種類であろう。コレラタケかニガクリタケかもしれない』とされ、さらに『一般の本では、「ナラタケ類は食用になるが、消化が悪く、嘔吐、下痢などの例がある」と記されている。しかし千葉、茨城では、「消化不良」程度ではない「毒きのこ」並の中毒が起きたことがある。しかも一件は私が同定したきのこで、面目を失った苦い経験がある。どうもツバの無いナラタケモドキのなかまに毒性の強いものがあるようだ』と記されてあった。強ち、私の同定も信用ならぬわけではないようである。]
*
延享五年戊辰【この年、「寬延」と改元。[やぶちゃん注:延享五年七月十二日(グレゴリオ暦一七四八年八月五日)改元。]】春正月十三日の夜の明がたに、大坂四ツ橋にて。そのほとりなる非人、金五拾兩拾ひしに、その包がみに、
「字津屋氏」
と書きつけてありしかば、隈なくたづねて、終に、そのぬしに返しけり。金のぬし、歡びて、謝物として金子少々とらせしかども、つやつや、うけず。
よりて、又、酒代として鳥目三貫文つかはしゝに、左の詩を相添へて、その鳥目を返しつゝ、非人は、ゆくへしれずとぞ。
橋上路邊一二錢
往來終日幾千人
死生富貴任天命
昨日錦今日草菰
たからぞと
おもへば袖に
つゝみけり
ひろへはおもき
障りなりけり
又、いづれのとしにかありけん、豐後國【郡、たづぬべし。】地藏寺[やぶちゃん注:大分県大分市佐賀関にある地蔵寺か。]門前に、行き倒れの尼あり。
その住所をたづねしに、
「乞食のよし。」
なれば、しれず。
その傍に、辭世あり。
漸出人間界
忽今上昊天
卽捨敞蓑笠
夢醒寺門前
予、これらの人の塵埃に埋もるゝを哀み、錄して、もて、人に示して、後に傳へんと欲するのみ。
[やぶちゃん注:二篇の漢詩の訓読を試みる。
橋上(きやうしやう)路邊 一二錢
往來終日(ひねもす) 幾千人
死生(ししやう)富貴(ふうき) 天命に任せ
昨日(きのふ)の錦 今日(けふ)の草菰(くさこも)
〇
漸(やうや)く出づ 人間界
忽ち今 昊天(かうてん)に上(のぼ)り
卽ち 敞(たか)きに捨つ 蓑笠(さりふ)
夢 醒むる 寺門の前
「昊天」(こうてん:現代仮名遣)は「夏の空」或いは「大空」。]
*
[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミングした。キャプションは、右斜辺に、
「此所、朽、一尺程。」
禁札内には(本文に従い、判読出来なかった可能性の部分に□を置いた)、
「羅生門変□
為退治蒙□
天近 二年二月
摂津守源頼」
左下辺下に、
「此所、朽。」
とあるが、「天近」(意味不明。「ごく最近の比」の意か)は「天延」(二年は九七四年で、頼光四天王の一人渡辺綱(後述)は数え二十二)のつもりか(但し、それでは後に示される退治の逆算よりも前になってしまう)。「摂津守源頼」は彼が従った源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)を指す。渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は嵯峨源氏であったが、頼光の父源満仲の女婿源敦(あつし)の養子となる。摂津国渡辺に住んだことで「渡辺」を名乗った。坂田公時らとともにに源頼光の四天王に挙げられ、武勇談が多いが、伝説的な要素が強い。京の堀川に架かる一条戻橋で女に化けた鬼に遭遇し、髻を摑まれたので、その鬼の腕を名刀「鬚切」で斬り落とし、こと無きを得た。その後、陰陽師安倍晴明の勧めにより七日の間、閉門して慎んでいたところ、養母に化けた鬼がやって来て、斬られた腕を取り返した、という話が有名であるが、それを室町時代に観世信光が謡曲「羅生門」としてロケーションを変え、そこに巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝として創り変えた。そもそもが、それを事実としていることからして、この話は全くお話にならないのである。]
京都安井御門跡、諸寶物、くさぐさの中、うす綠の大刀、羅生門へ、渡邊綱が、もてゆきし、といふ禁札は、わきて、めづらし。番の侍某を賴みて、※寫せし圖[やぶちゃん注:「※」=「菖」-(最下部)+(中間)「大」+(最下部)「手」。フォント無し。意味不明だが、「しゆしや」で傍で手書きで写すことか。]。
幅弐尺二寸 長壱尺弐寸
厚三寸
人王六十四代 圓融院御宇
寬延二巳年迄七百七十三年
右の板は、榎木にて、文字消えて、多く、よめず、「變」の字の下にも、文字見ゆれど、讀みがたし。撫づれば、手に障るのみ。又、「蒙」の字の下にも、文字あれども、これ又、よめず、「蒙」の下は「者也」とあるやうに見ゆ。手にて、撫づれば、少し障るのみ【右、獲自古記錄中。】。
文政八年乙酉六月朔
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
著作堂云、「この禁札といふものは、ある人の※[やぶちゃん注:先に同じ。]刻せしを、予、藏弃せり。友人美成にも、所藏にありといふ。「羅城門」を「羅生門」と書きたるなど、すべて、疑はしく、信じがたき者なり。
[やぶちゃん注:「京都安井御門跡」京都府京都市東山区にあった真言宗の門跡寺院蓮華光院。元は仁和寺の院家として太秦安井に建てられ、後、東山に移された(大覚寺が兼帯した時期もある)。明治になって廃絶され、現在は当地に旧鎮守安井金比羅宮が残る。安井門跡とも呼ぶ。
「羅生門」羅城門の後世(中世以降)の当て字。「羅城門」は近代まで「羅生門」と表記されることが多かった。
「圓融院御宇」円融天皇の在位は安和二(九六九)年から永観二(九八四)。
「寬延二巳年」一七四九年。徳川家重の治世。
「寬延二巳年迄七百七十三年」数えとして逆算すると、貞元二(九七七)年で、確かに円融天皇の治世に合致する。この年なら、渡辺綱は数え二十五歳で、如何にも相応しい年齢にはなる。]
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