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2021/09/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 養和帝遺事附雨蛤竹筒

 

[やぶちゃん注:改行はあるが、ガタガタしているので、段落を成形した。話柄が変わる箇所に「*」と、改めて標題も配した。因みに「雨蛤」はこれで「あまがへる」と読む。]

 

   ○養和帝遺事雨蛤竹筒

 文治元年[やぶちゃん注:一一八五年。]、源義経、平宗の一族を壇浦に鏖[やぶちゃん注:「みなごろし」。]にせし時[やぶちゃん注:旧暦三月二十四日。ユリウス暦四月二十五日。グレゴリオ暦換算五月二日。]、安德天皇は二位殿の懷き奉り、神璽・寶劍を身にしたがへ、海底に沈みましましけるよし、史にも記し、人口にも云ひ傳ふれど、或は、阿波に逃れましくけるとも、又は、日向にかくれ住み給ふなど、異說まちまちにて、いづれを是とも定めがたし。

 しかるに、肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり。開山を神子和尙といふ。これ、則、安德天皇にて、わたらせ給ふ、となり。寺傳に云、

「昔、安德天皇、西海にて戰ひ敗れしとき、事を入水に托し、二位尼、及、郞等、五、六輩ともに、此川上に逃れ來り、かくれ住み給へるか。

[やぶちゃん注:『肥前國に、「川上」といふ所あり、そこに水上山公主萬壽寺といふ寺院あり』現在の佐賀県佐賀市大和町大字川上に臨済宗水上山輿聖万寿寺(すいじょうさんこうせいまんじゅじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)として現存する。サイト「さがの歴史・文化お宝帳」の同寺の記載他(後掲する)よれば、仁治元(一二四〇)年、神子和尚(しんしおしょう)が開山した寺で、本尊も神子和尚作と伝えられる不動明王とあり、さらに、『「鎮西要略」並びに「開山行業記」の中に『大治五年』(一一三〇年)に『水上山に善住という異僧がいた。天台宗の僧で、ここで不動の法を修すること多年、天がその仏心に感応して』、『その年の五月二十八日丑の刻(午前二時)に宝剱を下された。天皇のお言葉によって一旦』、『宮中に収められたが、瑞相がしばしば起るので』、『再び水上山に返された』とある。この宝剱といわれるものは』、『現在』、『寺宝として保管されている』とあるのだが、神子和尚=安徳天皇という記事は、ない。しかし、検索してみると、「安徳天皇生存説」の一つとして伝承が存在し、複数の書き込みでそれを確認出来る。ウィキの「安徳天皇」の「伝説」にも、『肥前国山田郷にて出家し』、四十三『歳で死去したとする説』が挙げられ、『二位尼らとともに山田郷に逃れたという。安徳帝は出家し、宋に渡り仏法を修め、帰国後、万寿寺を開山して神子和尚となり、承久元年に没したという』とある。他に、神子和尚は「鹿ケ谷の謀議」で鬼界島に流され赦免された平康頼(久安二(一一四六)年?~承久二(一二二〇)年)と筑後国の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれたとする別伝承もある。実は、いろいろなフレーズ検索をする内、自分のブログが引っ掛かってきた。既に「譚海 卷之一 肥前國水上山安德帝開山たる事」で注していたのを忘れていたのであった。さらに調べたところ、「佐賀市」公式サイト内には、驚くべきことに「旧市町村史(誌)」群の多くを全冊PDF化して公開してあり、これを調べたところ、「大和町史」(全一巻・昭和五〇(一九七五)年発行)の「【中世】概観(PDF:312.0KB)」8コマ目末の「⑵ 郷土の神社」の冒頭に「① 水上山万寿寺(お不動さん)」の項で公的な第一次資料が確認出来た。而して、結論を言うと、神子和尚を平康頼の子とする記載は同万寿寺に保存されている「神子禪師年譜」(現物画像有り。書成立や書誌は後の方の引用の最後を参照)は現存している。そのちゃんとした現代語訳がそこに載るので、引用する。

   《引用開始》

 万寿寺の開山神子和尚については二説がある。万寿寺に保存されている「神子禅師年譜」には、

『神子和尚は名を「口光」といい又「栄尊」と呼んだ。平氏の判官康頼の子である。父が硫黄島(いおうじま)に流された時、わけあって筑後国(福岡県)三瀦庄(みずまのしょう)に数年間往んでいた。そこの住人藤原種継に一人の娘がいた。嫁に行く気持は全く無く、ただひたすらに仏法を修めていた。この地に誰が建てたかわからないが、「不空羂索大士(ふくうけんじゃくたいし)」を本尊にした大きな寺があった。彼女はこの寺にはだしで千日参りの祈願を立て、ある日たまたま康頼に出合った。ある晩のこと、朝日を呑んだ夢を見て懐妊した。まだ子供が生まれぬうちに硫黄島に行ってから、やがて産気付いて三十八日目に出産したが、母子共に健全であった。時に建久六年(一一九五)六月二十六日である。しかし祖父はこの子を野原に捨てさせた。永勝寺の住職元琳(げんりん)法師は夢に、野原の草の間に法華経を唱える妙音を聞いた。和尚は翌朝人をやって探させたところ、お経を読んでいる人はいなかったが、ただ赤ん坊が捨てられて泣いていたという報告を受けた。そこで和尚自ら行ってみると赤ん坊の口から光明がさん然と輝いている。やがて生みの母を探して「この子は凡人ではない。必ずや仏種を起すであろう。大事に育てよ」といって、この子に「口光」と名付け母も歓喜して育てた。承元元年(一二〇七)十三才の時髪をおろし、天台の教えを受け、喜禎元年(一二三五)四十一才の時、商船に乗り平戸から十昼夜の後宋に渡った。この地で三年間修業し、歴仁元年(一二三八)日本へ帰り、二年の後肥前河上宮に参り、ついで一沙門(しゃもん)の勧めによって水上山に末て禅寺を建てた。時に仁治元年(一二四〇)、師の年四十六才であった。』

 と記されている。

   《引用終了》

ところが、それに直ちに続けて、全く別の驚くべき神子和尚安徳帝御落胤説が示されるのである。

   《引用開始》

 鳥栖市下野立石清治氏所蔵の記録によれば、

 文治元年(一一八五)四月旭(あさひ)村千年(ちとせ)川(千歳川)畔の立石儀右衛門宅を訪れる一隊があった。それは屋島・壇の浦の戦に敗れた安徳帝以下二位尼、平宗盛、平知時ら数名の一団であった。彼らが儀右衛門に語ることには、』『「去る彼らが儀右衛門

に語ることには、

 『去る二月十九日屋島の合戦で敗退した平氏の本隊は小倉に上陸、その中七十名ほどで安徳帝を奉じ太宰府に行った。その時、御幼帝はにわかに発病され、御看病申し上げるうち早や三月になった。ある日源義経より宗盛へ次のような親書が届いた。

『来る三月二十四日、壇の浦にて最後の決戦を開く事と相成り候。ついては御幼帝の御上を案じ申し上げ候。身替りを立て御無事御遠路にお立ち退(の)き下さるよう願わしゅう存じ候。』

 この時、二位尼の忠臣である古賀春時の妻初音(はつね)とその子喜太夫の申出により、二位尼と帝の御身替りになって、建礼門院以下平氏の兵らと共に出陣した。壇の浦に到着するより早く海戦となったが、たちまち平氏の敗戦となって、初音、喜太夫は海に沈んだ。建礼門院は捕われ京都へ送られた。一方、太宰府では安徳帝の御病もよくなったので、宗盛、二位尼、伊勢女らの一行は筑後浮羽(うきは)のあたりに逃れ、宗盛は自領である田代(鳥栖市)に行き、恩顧の士を集め主上をお迎え申し上げた。

 当時、筑後国藤吉に平家の臣で藤吉種継という富豪がいて、小笹(こざさ)山(久留米篠山(ささやま))に行在所(あんざいしょ)(仮り御所)を造り、奉迎申し上げたが、源氏の兵の襲撃を受けたので、幼帝、宗盛の一行は夜陰にまぎれ川を渡り、立石儀右衛門の家に来た。」ということであった。

 さて、立石儀右衛門は一族と計らい、当屋敷内におかくまい申すことに決し、御一同を百姓風に装わせた。間もなく宗盛は自領対島(つしま)へ安住の地を求めて去り、翌二年帝九才の時から藤吉種継を師として御学問を修業遊ばす事になり、十六才の春にはすべての御学問を修業遊ばされた。ここに千代姫という種継の受娘(まなむすめ)がいた。年は十五才、心素直(すなお)な美しい娘で帝のお目にとまりお通いになるようになった。帝十八才の時千代姫は皇子を御誕生になった。しかし御子の行末を案じ憎籍に入れることになった。帝は二十五才の七月にわかに発病され正治二年(一二〇〇)八月二十五日ついに崩御(ほうぎょ)なされた。千代女は剃髪(ていはつ)し、洗切(あらいぎり)の屋敷内に一宇の観音堂を建てて主上の御冥(ごめい)福を祈り、八十五才の天寿を全うした。御千は栄尊神子となって宋にも渡り、水上山万寿寺を再建した。

 鳥栖市下野(しもの)の老松宮が安徳帝の御陵といわれ、同じく下野の立石清治氏の裏千北方に二位尼の御墓所、更に西方に平知時の墓がある(豊増幸子ふるさと紀行より)[やぶちゃん注:中略。]

 現在の堂宇は明治五年火災後再建され、その後もまた時々修理されている。当寺の墓所正面の五輪塔が神子和尚の墓で、向かって右側の無縫塔(卵塔)が勅願寺第一世天亨和尚の墓である。

[やぶちゃん注:以下、底本では「※」のみが二字目に突き出て全体(二行目以降)は二字下げ。]

※ 万寿寺にある宝剱の由米並びに神千和尚年譜は「建治元年(一二七五)了因、公俊(いずれも塔頭(たっちゅう)これを証す」とあり文永九年(一二七二)十二月八日付神子和尚自筆の置文(おきぶみ)が宝剱箱内にあったのを写し世に顕(あらわす)と称して延宝八年(一六八〇)八月田原仁左衛門の文書の写(うつし)、更に享保十九年(一七三四)三月二十目付塔頭三名(花押あり)になる水上山略記の写、更に元和六年(一六二〇)十一月十日付是琢(ぜたく)和尚遷化(せんげ)の後写す とある文書等いずれも写しとして万寿寺に保管されている。神子和尚の後説は鳥柄市下野の立石光男氏(立石儀右衛門後裔)所蔵の文書による。「海の底にも都の候ぞ」といって八才の安徳帝と共に二位尼は壇の浦に投身したと平家物語にあるがその真偽はともかく、伝説を生むには何らかの背景があるのではないかということである。

   《引用終了》

因みに、少なくとも現在の同寺は、ネットを見る限り、神子和尚安徳天皇或いは落胤説を公的には述べていない(認めていない・参拝者への「売り」とはしていない)模様である。

 以下、底本では「建たるならんと。」まで全体が一字下げ。]

 「閑田耕筆」に、「緖方三郞は無二の平家の方人[やぶちゃん注:「かたうど」。]なりしに、俄に心がはりせしといふは、實は平家の勢ひとてもさゝふべきにあらぬを知りて、帝をはじめ奉り、一門のしかるべき人々を、この五箇山に隱せるが爲の謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]なり。その後、つひに、戰、まけて、入水せるは、みなそのさまを眞似たる人なり。」といへり。この說によるときは、帝をはじめ奉り、この五箇山に來り、後に寺を川上に建たるならんと。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。この引用は巻之一「天地の部」の一節。「閑田耕筆」(初版本)の当該部を「日本古典籍ビューア」のこちらで視認して、活字に起こした。前条と続きで、関連性(祖谷渓は隠田集落村で平家落武者伝説もある)も強力にあるので、併せて電子化した。

   *

○佐野儒士の話。「阿波にて、祖谷(イヤタニ)山の辺、深山幽谷に、村里、多し。『村』といふことを、『名(メウ)』といふ。其所にて然るべき者を『名主(メウシユ)』と、よぶ。下の民を『名子(ナゴ)』といふ。東大寺の古文書に、『村』を『名』といふこと、あるに、かなへり。又、『諸侯』を『大名』といふも、『名主(メウシユ)』の大なる心成べし。」とぞ。

○同話に、「此『名主』の中に、『門脇宰相の子孫』といふもの、山、あまた持たるあり。又、祖谷の並びに『木屋平(コヤダヒラ)』といふ山に『劔(ツルキ)權現』と号る[やぶちゃん注:「なづくる」。]社、有、『安德帝の御懷劔と、御髮を納めし所。』といふ。『實は、御出家にて、ながらへましましける。』と、いへり。凡、此帝の御名殘をまうす所、猶、二所あり。豐前小倉のうち、『かくれ蓑』といふ里に『安德庵』といふは、御落飾の後、かくれ給ふ所にて、四十歲餘まで御生存、と傳ふ。近侍の人の墓もありとぞ。又、肥後、神璽寺[やぶちゃん注:「しんじじ」。]といふが、開基を『神璽和尙』といふ。是、安德帝にてまします歟といふ。此寺、住持あらず、『看主(カンス)』にて相續す。『住僧』と名のれば、死と云。其寺に劔あり。御持物なるべし。請雨に驗(シルシ)あり。又、平氏の墓も有、といふ。畢竟、決しがたき事なれども、異聞に備ふべし。」とぞ。又、或說に、肥後東南、『五ケ山』といふは、平家の族(ヤカラ)、遁隱(ノカレカク)れし所にて、村中、皆、先祖の稱号を傳へたり。其氏神と崇(アカム)る社は、安德帝を祭り、御璽(シルシ)は宝劔なりといへり。因に、一說有、『「緖方三郞は、無二の平家の方人(カタウト)なるに、俄に心変(カハリ)せし。」といふは、實は、平家の勢[やぶちゃん注:「いきほひ」。]、とても、さゝふべからざるを知りて、帝をはじめ奉り、一門の然るべき人々を、此五ケ山に隱せるがための謀なり。其後、つひに、戰、まけて、入水せるは、皆、其さまを眞似たる人なり。』と、いへり。奧州の泰衡が、賴朝卿に從ひて、却て、義經を蝦夷に落せし、といふ話に似たり。是、尤、實否は、今、定がたき事なるべし。

   *

「緖方三郞」尾形(緒方)三郎惟栄(これよし 生没年不詳)は豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。当該ウィキによれば、「平家物語」に『登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄』『の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』が、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後、養和元』(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永』二(一一八三)年『に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした』。『同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって』、『源氏方の九州統治が進んだとされる』。『また』、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には』、『義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき』、『義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り』、『佐伯荘に住んだとも、途中』で『病死したとも伝えられる』とあり、』「平家物語」の巻八では『「恐ろしい者の子孫」として語られている』とある。

「五箇山」後に出る「五家荘・五家庄」(ごかのしょう)のこと。熊本県八代市(旧肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この附近当該ウィキによれば、『平家の落人の伝説で知られ、伝承によれば』、『平清経の曾孫たちが「緒方氏」を称して久連子・椎原・葉木を治め、菅原道真の子孫たちが「左座氏(ぞうざし)」を称して仁田尾・樅木を治めたと伝えられている(『肥後国誌』には葉木を菅原氏系とする異説も載せている)』。五『つの地域の支配者はそれぞれ地頭を称し、江戸時代にはそれぞれの村の大庄屋に任じられていた。更に外部の木地師の集団移住によって成立したとする説もあり、更に双方の伝説の混合もみられる(木地師の祖とされている惟喬親王が、惟仁親王(清和天皇)に皇位継承で敗れたことから、惟喬親王の子孫が「平氏」と称して惟仁親王の子孫である「源氏」の及ばない地に逃れたとする)。五家荘としてのまとまりが成立したのは、緒方・左座両氏が阿蘇氏の勢力に従って砥用方面に進出したとされる戦国時代初頭』(明応~永正期(一四九二年~一五二一年))『と推定されている』とある。]

 帝、御年二十になり給ふ時【建久八年[やぶちゃん注:一一九七年。]。】、出家し給ひ、入宋ましくて、學問なるの後、歸り給ひ、此所に一寺を建て萬壽寺といふ。寺内に寶劍堂といふもあり。こゝに寶劍を安置す。箱の長サ一尺五六寸計もありとぞ。古來より開くことなしといへり【これは三種の神器の一つにや。さらずば、帝の帶び給ふものなるべし。】。

 寺の邊に、二位尼村といふ所もあり。かくて、文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]【月日、詳ならず。】、神子和尙の六百年忌の法會を、萬壽寺にて執行せしに、

[やぶちゃん注:以下、「下にいふべし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 一說に、帝、實は女帝にて、此に隱れ給ひし時、山伏ありて、帝に配して[やぶちゃん注:「つれあひして」と訓じておく。]、子をうみ給ふ。神子和尙、是なりといひ、又、「扶桑僧寶傳」に、「神子禪師、諱、榮尊、號、神子。法嗣、聖一國師。鎭西人判官康賴平公、子なり。」とあれど、いづれもいへる處、いたく謬れり。その由、下にいふべし。

[やぶちゃん注:「扶桑僧寶傳」「扶桑禪林僧寶傳」(ふそうぜんりんそうぼうでん:現代仮名遣)江戸前期の明の渡来僧で臨済宗黄檗派の高泉性潡(こうせんしょうとん 一六三三年~元禄八(一六九五)年:福建省福州府福清県東閣出身。俗姓は林氏。高泉が号で、性潡は法諱。師であった隠元が一六五四年に渡日し、隠元門下で黄檗山の住持を継承した慧門に就いたが、一六六一年(本邦は万治四・寛文元年)に隠元の七十歳の寿を祝うため、慧門に代わって他三名の僧とともに来日し、そのまま日本に残った)が書いた日・明の僧の伝記。]

 肥後國五家の庄より、平家の末裔の人、おのおの、系圖を携へ【この五家の人々の先祖は、帝につき隨ひ奉りし人なり。その先祖の名、かねて聞けるをもて、末に記す。】、且、金子廿五兩を奉納し、

「主人の年忌なれば、備へ奉る。」

とて、來りて、法會の中も、敬ひ愼み、事果て、かへりしとぞ。

 此一條は、浮きたる事にあらず。今玆三月廿日、一友人森某ぬし【柳川侯の藩士。】を訪ひたるに、町野氏【同藩の士。】、來りていへるは、

「去年、かの川上あたりの溫泉に浴したるころ、一夕、萬壽寺に宿りて、住僧と話しゝに、『をとゝしの事にて候。かゝる事、ありし。』とて、上件のことゞも、かたり出でたり。」

と、親しく予にかたられけるを、記したるなり。文政三年。

[やぶちゃん注:底本はここで改行して、以下、「歡ぶべしとぞ」までが全体が一字下げ。]

 六百年忌なれば、承久二年の崩御なり。文治元年、壇浦敗軍[やぶちゃん注:「まけいくさ」。]の時、帝、寶算八歲なれば、崩じ給ふ御年四十三歲にてましませしなり。かゝれば、帝の御子といふ事は、もとより、ひがことなり。《評ニ云》[やぶちゃん注:底本では長方形の囲み字。]、帝、もし、御年十五、六歲にて御子をまうけ給ひ、その子、はやく出家せば、承久二年遷化の時、廿七、八歲なれば、さのみ、年紀のたがひ、あるにしもあらず。且、「神子」といふも、巫女の俗稱、「公主」といふも、秦・漢のとき、帝姬の稱なれば、一說に女帝なりしといふこと、「公主萬壽寺神子和尙」の名號に、據なき[やぶちゃん注:「よんどころなき」。]にあらず。又、神子和尙を、康賴が子なりといふを寺說によれば、謬に似たれども、畢竟、寺說とても、證文なき事なれば、いづれを虛、いづれを實と、定めがたかるべし。譬へば、藤澤寺なる「小栗十士」の墓、佐野の、天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき古跡、多ければ、萬壽寺の事も、うけられぬ說なれ共、異聞なり。かくめづらしきことを聞くも、兎園の一得にて、交遊の忠告とやいはん。歡ぶべしとぞ。

[やぶちゃん注:『藤澤寺なる「小栗十士」の墓』私の家からそう遠くない時宗総本山 遊行寺には、小栗判官と照手姫、及び、その家来十一人の墓がある。公式サイトの解説によれば、『東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺があり』、これは「小栗堂」とも『言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺です』。応永二九(一四二二)年、『常陸小栗の城主』『判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣』十一『人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき』、『妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手姫を妻に迎えました。満重往生の後、助重は遊行寺八徳池の側らに満重主従の墳墓を建立。助重の死後、照手は髪を落とし』、『長生尼と名のり、助重と家臣』十一『人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています』とある。

『佐野の天明に「常世」を祭りて「大平權現」といふがごとき』これは恐らく「いざ鎌倉」の元となった話や謡曲「鉢木」に登場する架空の鎌倉中期の武士佐野源左衛門(諱を常世(つねよ)と称したとする)の神格化されたもので、現在も彼の屋敷跡とされるされる群馬県高崎市上佐野町に常世神社がある。天明の頃に創建されたかどうかは判らなかったが(複数の画像を見るに、如何にも新しい感じはする)、それを指しているものと考えてよかろう。

 以下は底本でも改行。]

 さて肥後國に、當時、五軒ありしをもて、「五家の庄」と呼べり。その人々は、帝に隨ひ奉りて、かくれすみし處にて、しか呼べるなり。その五家の先祖の名代は、從四位下少將平知時【知盛の男。】・左中將淸經【小松の男。】・上總介忠淸【關八州の侍大將。】・越中次郞盛次【平家四士之家。】・菊地次郞高直【外族侍。】瀨尾十郞兼高【兼安の男。】。今、この庄の頭、知盛の男より、廿九代の孫、權少輔平時資といふとぞ。

[やぶちゃん注:以上の人名に注を附す気はない。悪しからず。

以下は底本でも改行。]

 右一條は、あがれる世の事にして、且、もと、かくれましましゝことなれば、その實否は、今より、いかにとも定め難けれども、萬壽寺の僧が口づからの物語とあれば、聊、拙案を參考して異聞に備ふ。

     *

   雨蛤竹筒

[やぶちゃん注:図は底本のものをトリミング補正した。店の名を附けた唐辛子入れである。] 

Amagaherutougarasiire

 

 去月廿六日、京師なる戶田君の御もとより、祗園祭禮番付三葉を下し給はり、且、鈴木氏の書物[やぶちゃん注:「かきもの」。手紙。]に、

西原氏、先日、當所御通行之節、此方へも御尋被下、久々にて、旦那も拜顏被致大慶奉存侯。其節、貴君、御噂、山々、御座候。しかし御城中故、緩々、拜顏も不被致殘念奉存候。當地御出立の砌は、雨天にて伏見乘船留り居、京地へ兩三日御逗留之内、四條雨蛤てんがく見世へも御立寄被成候よし、右田樂見世に、餘程ふるき「たうがらし入」、ケ樣の形に竹にて作り候もの、殊の外、望の由にて、亭主にいろいろ掛合候へども、餘程むつかしく申、手に入り兼、殘念の趣にて、京地出立被致候。此よし、美濃守致承知、其後、向々へ相賴、此程、漸、手に入申候。西原氏、格別望故、追日、大坂表柳川藏屋敷迄、差出し置、幸便之節、柳川表へ相屆候積りに御座候。此段御慰に申上候。又云、大坂表、蒹葭堂、此程參り候間、耽奇の本爲見候處[やぶちゃん注:「耽奇會」の本を「見の爲めに候ふ處」。]、殊の外、歡、大坂表へ是非とも持參いたし候趣にて、壱本不殘、貨遣し候。耽奇會は殊の外浦山敷樣子にて御座候。此段申上候。

[やぶちゃん注:以上は書信なので、そのまま字下げを行わずにおいた。]

と記されたるを見るにも、千里面談の心地ぞする。かゝれば、この二條及番付ともに、ひとり見過さんも本意なさに、けふのまとゐの諸君と同じくせばやとて、そのよしいさゝか記し出でたるになん。

  文政八年乙酉七月朔    北峯美成識

相月兎園

[やぶちゃん注:「戶田君」や「鈴木氏」「西原氏」及び「美濃守」(これはちょっと気になって調べたが、確定不能)は注する気になれない。悪しからず。

「四條雨蛤てんがく見世」思うに、「四條」通りにある「雨蛤(あまがへる)」という「田樂(でんがく)屋」の意であろう。田楽に唐辛子は合う。

「蒹葭堂」大坂北堀江瓶橋北詰の造酒屋と仕舞多屋(しもたや:家賃と酒株の貸付)を兼ねた商人で文人にして本草学者でコレクターの木村蒹葭堂孔恭(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)。私は先日、彼の編著になるとされる「日本山海名産図会」の電子化注を完遂している

「相月」は「さうげつ(そうげつ)」「しやうげつ(しょうげつ)」と読み、陰暦七月の異名。]

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