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2021/09/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 北里烈女 / 第六集~了

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。段落を成形した。一部の踊り字を正字に代えた。「北里」は「ほくり」で江戸吉原遊廓の異称。元は長安城の妓館の中心を成した北里(東市の東隣りの平康坊内にあった)が由来。]

 

   ○北里烈女

 天明の比、三緣山の所化に「靈瞬」といふ僧あり。したしき友にいざなはれて、よし原にゆき、玉屋の「琴柱」といふ、たはれめにあひぬ。此僧、容顏美麗なりしかば、琴柱、それにめでしにや、

「しばしばとはせ給へ。」

といふ。

 僧、もとより、

『あるまじきこと。』

とは思ひつれど、愛欲の情、おさへがたく、「ぬれぬさきこそ」と、うつゝなくなりて、かよふほどに、琴柱に身の上をとはれて、ありのまゝに、かたりきかせたり。

「さらば、末々は、たかき位にのぼり、よき寺をも、もたせ給ふべきや。」

と、とふ。

「凡、わがともがら、學文をはげみぬれば、こゝかしこに、うつりすゝみて、幸あれば、大僧正にも、いたらるゝなり。しかしながら、こがね、乏しくては、すみやかにすゝみがたし。」

と、いひしを、こまかに聞きゐたりしが、そのゝち、とひし時、琴柱、いふやう、

「えにし(緣)[やぶちゃん注:漢字のルビ。]あればこそ、君がしたしみをうけまゐらせたり。これもすぐせのことなるべし。」

とて、一包のこがねを出だして、あたへ、

「これをもとゝして、かならず、なりのぼらせ給へ。こよひをかぎりとして、こゝにも、來たり給ふな。あだし女にも、近づき給ふな。みづからは、ちかきうちに、身まかり侍りて、君が身を、まもり侍るべし。必、わすれ給ふな。」

といふ。

 僧も、初は、

「おもひよらざること。」

とて、いなみけれども、そのこゝろざしのまめなるに、めでゝ、うけひきぬ。

 かくて、日あらずして、琴柱、みづから、身にきずつけてぞ、まかりぬ。

「心のみだれしにや。」

と聞きて、かつは、おどろき、かつは、かなしみ、法號をつけて、日々に囘向して有りけるが、一とせばかり過ぎにしかば、「去ものはうとき」習にて、又、友にすゝめられて、品川のあそびのもとにゆき、とかくして、雲雨のちぎりを、もよほす比、琴柱が在りし姿、あらはれて、

「いかでちかひしことを忘れ玉ひしか。」

と、いさむるかほばせ、恨、骨にとほりしおもざしなりければ、おそろしく覺えて、にげかへりぬ。

 日ごとに、ゑかうする事は、をこたらざれど、年月をへて又、あそびのもとにゆくこと有りしが、かの幽靈、いでゝ、いさむる事、前のごとくなりしかば、それより、またまた、不犯の身となり、勇猛精進なりしかば、年をおひて、進みて、京の智恩院になりて、聖譽大僧正とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「靈瞬」「聖譽大僧正」酷似した法号名に知恩院第六十二世の体蓮社聖誉霊麟(たいれんしゃしょうよれいりん)がいる。「WEB版新纂 浄土宗大辞典」のこちらに、霊麟は元文四(一七三九)年生まれで、文化三(一八〇六)年四月十三日示寂。体蓮社聖誉心阿具堂。結城弘経寺三十九世・飯沼弘経寺五十五世・小石川伝通院四十五世を歴住し、享和元(一八〇一)年十月十六日に台命を拝して知恩院に昇転、翌年の四月二十七日に大僧正に任ぜられた。文化二(一八〇五)年八月七日には有栖川宮織仁親王の第八皇子であった幼名種宮、後の尊超法親王(同七年に親王宣下)を知恩院門跡六世に迎えた。在住すること、四年余にして入寂したとある。事実かどうかは別として、時制的にも問題がなく、彼がモデルであることは疑いようがない。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「三緣山」浄土宗増上寺塔頭三縁山宝珠院。浄土宗の開祖法然は「七箇条制誡」に於いて僧については肉食妻帯を禁じている。江戸時代、その許諾を開祖親鸞が正規の宗派文書に残している浄土真宗のみが、僧であっても、「女犯(にょぼん)の罪」を免れた。従って、厳密には、廓遊びであろうとなんであろうと、本来は彼のそれは許されないことである(「御定書百箇条」によれば、その女犯僧が江戸の住職出逢った場合は「遠島」、住職ではない僧は、日本橋に三日間晒された上、本寺に引き渡され、寺法に従って「破門」・「追放」となった)が、医者と偽って変装し(当時の医者の多くは、僧侶同様、剃髪しているものも多かった)通う僧は多かった。私の古い電子化注「耳嚢 巻之五 死に增る恥可憐事」の本文及び私の注を参照されたい。

「玉屋」玉屋山三郎(生没年不詳)が営んでいた江戸新吉原江戸町一丁目の妓楼角の「玉屋」(火焔玉屋)代々の主人の名乗り。山三郎は宝暦六(一七五六)年以後、大見世の大三浦屋の廃絶によって、吉原の惣名主となり、抱えの遊女に多くの名妓を出したことで知られた。天保末年から弘化年間(一八四四年~一八四八年)にかけて、それまで書肆で知られた蔦屋重三郎が独占していた、吉原廓内の案内記ともいうべき「吉原細見」の刊行を巡る紛争が起こったが、嘉永元(一八四八)年秋以降、『「細見」株』(版権)を手に入れて、これを収め、明治五(一八七二)年まで玉屋版として独占的に「吉原細見」を刊行し続けた。

「所化」(しよけ(しょけ))は寺で修行中の僧。]

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