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2021/09/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 平豊小說辨 /第七集~了

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の第一輯上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。発表者は著作堂曲亭馬琴で、標題は「へいほうせうせつべん」と読み、メイン・テーマは平清盛の白河院の落胤説、及び、豊臣秀吉私生児説を追った考証である。私は秀吉が生理的に嫌いであり、時間をかけたくないから、注はごく一部にする。やはりダラダラとしかも異様に長いので、段落を成形した。読みは一部で送りがなとして出し、読みが五月蠅くなるのを避けた。なお、底本は一部で略字が使われており、それに忠実に従っている。例えば平清盛は「淸盛」ではなく「清盛」であり、豊臣も「豐臣」ではなく「豊臣」である。

 

   ○平豊小說辨

 解云、小說・野乘(やじやう)の信じがたき、誰(たれ)か董狐(とうこ)の言を俟つべき。しかるに、猶ほ、世の讀書の人、唯、その舊記に因循して、曉(さと)らざるもの多かるも、むかしは、井澤・谷の両先輩、をさをさ、これを辯じたり。されども言(こと)に當否あり。猶ほ且つ、遣漏も少なからず。抑(そもそも)、中つころよりして、かの平相國入道を「白河帝の御子(おんこ)」といひ、又、豊臣太閤を「後奈良院の落胤なり」といふものあるは、いかにぞや。是等を辯ずるものもあらねば、今、その異同を折衷して、世俗の迷(まよひ)を解かんと欲(ほ)りす。極めて鳥滸(をこ)のわざに似たれど、學は異(い)を得て成るにあらずや。かゝれば、竊かに、この編に、「平」と「豊」との二姓(にせい)を擧げて、もて、題目とするもの、しかなり。

[やぶちゃん注:「小說」市中で口頭によって語られた話を記述した真否が疑わしい創作的文章。本書を「兎園小說」と名付けている馬琴がこうした語を使うのは、頗る鼻白む。

「野乘(やじやう)」「乘」は「孟子」「離婁下」に「晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋一也。」とあるように、春秋時代の晉の史官の筆による歴史の記録。また、歴史書のことであるが、転じて民間で編纂した公的信憑性が低いとされる私撰の野史を指す。

「董狐(とうこ)」春秋時代の晋の史官。霊公が趙穿に攻め殺された際、正卿である趙盾(ちょうとん)が穿を討たなかったことから、董狐は「盾、その君を弑 (しい) す。」と趙盾に罪があるとする記録をした。後世、理非を明らかにしたこの態度を孔子が大いに讃えたことで有名である。

「井澤」江戸前期の神道家・国学者井沢長秀(寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)。肥後熊本藩士の子。宝永三(一七〇六)年刊の当時の神道に係わる俗説を採り上げ、解説した「本朝俗説弁」が著名。号の蟠龍で知られる。彼の出版した「今昔物語集」の抄録本は校訂の杜撰が批難されることで有名だが、同書を民間に広く知らしめた功績は大きい。

「谷」同時期の儒学者・神道家の谷重遠(たに しげとお 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)。号の秦山(じんざん)で知られる。国書を渉猟し、学問を大成、「国体の明徴」を説いて、後代に大きな影響を与えた。

「後奈良院」正親町天皇の父。

 ここまで、底本では実は全体が一字下げ。

 「平家物語」に云、「相國入道清盛公は平人(たゞひと)にあらず。まことは白河院の御子なり。その故は、永久[やぶちゃん注:一一一三年~一一一八年。鳥羽天皇の治世だが、白河法皇が院政を敷いた。]のころほひ、平忠盛、東山祗園の片ほとりにて、あやしの法師を、生けながら、捕へたりける「けんしやう」[やぶちゃん注:「勸賞」。褒美を与えること。]に、白河院、御最愛と聞えし祗園女御を忠盛にこそ下されけれ。此女房、はらみたまへり。

「うめらん子、女子(めのこ)ならば、朕が子にせん。男子(をのこご)ならば、忠盛、とりて、弓とりにしたてよ。」

とぞ仰せける。乃(すなは)ち、男を、うめり。ことにふれては、披露せざりけれども、内々は、もてなしけり。

『この事、いかにもして奏せばや。』

と思はれけれども、しかるベき便宜(びんぎ)もなかりけるが、或時、白河院、熊野へ御幸(ごかう)なる。紀伊國「いとり坂(さか)」[やぶちゃん注:不詳。]といふ所に、御輿(みこし)をかきすゑさせて、しばらく御休息有りけり。其時、忠盛、やぶに、いくらも有りける「ぬかご」を、袖にもり入れ、御前(ごぜん)に參り、かしこまつて、

「いもが子は、はふ程にこそ、なりにけれ。」

と申したりければ、院、やがて、御心(みこゝろ)有りて、

「たゞもり、とつて、やしなひに、せよ。」

とぞ、つけさせましましける。さてこそ、わが子とは、もてなされけれ。此の若君、あまり、よなきをしたまひしかば、院、きこしめして、一首の御詠(ぎよえい)をあそばいて、下されける。

 夜なきすとたゞもりたてよ末の世に清く盛かれることもこそあれ

それよりしてこそ、「清盛」とは、なのられけれ』【已上、「平家物語」。○「源平盛衰記」に載する所、右に同じ。但、その文、小異あるのみ。】。

 又、「成形圖說(せいぎやうづせつ)」[やぶちゃん注:薩摩藩主島津重豪の命によって曾槃(そうはん)らが編纂した農学書。享和年間 (一八〇一年~一八〇四年) より三十年間に亙って、農政経済・本草・博物などを、和・漢・洋の資料を駆使し、百二十巻に及ぶ叢書として作り上げたもの。文化元(一八〇四)年までに三十巻まで刊行されたが、中絶した。]【卷二十二。[やぶちゃん注:原本は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。]】・「山津芋糠子(やまついも・ぬかご)」の條下(くだり)に、右の本文を略抄・引用して曰、

『臣、國柱、按ずるに、世に不出非常の人、必、その本生(ほんせい)、父(ふ)の詳(さだか)ならぬぞ、多かる。豊臣秀吉公の平清盛に似たるにや。一書に、太閤秀吉の父、測(しれ)ずといふは、はじめ、馬島明眼院(ましまみやうげんゐん)[やぶちゃん注:愛知県海部郡大治町にある天台宗明眼院(みょうげんいん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は日本最古の眼科専門の医療施設として知られ、後水尾上皇皇女の治療により「明眼院」の名を賜ったとされるが、この同天皇の母は関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院近衛前子であるものの、この事実は時制が合わないから、信におけない。]といへる者あり。天子の御眼病(ごがんびやう)を療治しまゐらせしかば、叡感の餘り、宮女を明眼に賜はりける。此宮女、天子の幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて懷胎なり。是れは、後奈良帝の御宇の時の事にて、明眼てふ名も後に賜はりし名にや。始めより、宮女、有身(みこもり)の事も、しれざりしにぞ。しかるに、明眼は倫戒を(りんかい)保ちて、一向に妻を納(い)れず。この宮女を、尾州愛智郡(あいちこほり)中村の住人筑阿彌(ちくあみ)に與へけり。遂に筑阿彌許(がり)にて、出生(しゆつしやう)せしは、卽ち、秀吉也。一說に、筑阿彌、はじめ、中村彌助昌吉(やすけまさよし)と號す。故に、世には王氏(わうし)[やぶちゃん注:直系皇族。]の樣にいひなせるもあり[やぶちゃん注:この理由、意味不明。]。又、俗說に、筑阿彌が妻、『日輪、懷に入る。』と夢みて孕み、誕生ありし故、童名を「日吉丸(ひよしまる)」と號すなどあるも、天子の御種(おんたね)を宿せしを、いひなせるにや。「太閤記」などいふ草子には、其の母は持萩(もちはぎ)中納言保廉卿(やすかどきやう)[やぶちゃん注:不詳。]の女(むすめ)也。「天文丙申正月元日誕生」と記せり。一說には、信長の足輕木下彌助といふものゝ子也、とあり。然れども、秀吉の信長に仕へし次第を見るに、木下彌助が子ならば、初めより、信長に仕ふべき事なり。又、筑阿彌の秀吉に於ける、我が子のあしらひとも、見えず。僧にもなさんとせし程に、秀吉、父の所を逐電せられし事あり。且つ又、秀吉、一天下を掌握せられての後(のち)、親の廟所とて、中村にもなく、又、墓所(はかしよ)もしれず。秀吉の父、慥(たしか)ならば、きと、位牌なども取り建てらるべきに、其事も、聞えず。何れにも筑阿彌は、本生(ほんせい)の父にあらざるを、己れも、しり給ひしなるべし。』

と、いへり【下略】。

[やぶちゃん注:以下、底本では「學者、よろしく辨ずべし。」まで全体が一字下げ。]

 解云、これらの說は、ふるくより世の人口に膾炙したり。しかれども、平相國・豊太閤を「天子の落胤なり」といふが如きは、疑ふべく、信(う)けがたし。よりて、竊かにこれらの說の出づる所をおもひみるに、かの平相國入道は、老後にこそ、わろくはなりたれ、「保元・平治の擾亂(ぜうらん)」には、功ありて、不義あらず。就ㇾ中(なかんづく)「平治」には信賴・義朝を討ち滅ぼして、兵馬の權(けん)を執りしより、既に天子を挾(さしはさ)みて、己(おの)がまにまにせざる事なく、富(とみ)は三十餘國をたもちて、位は人臣の上を極め、遂に天子の外戚(ぐはいせき)とさへなりにたる。源・平両家の始まりしより、かゝる例(ためし)の有ることなければ、猶、その素生(すじやう)を至尊(しそん)にし、且つ、その人を神(かみ)にせんとて、不經(ふけい)[やぶちゃん注:常道からはずれること。常軌を逸すること。道理に合わないこと。]の言(こと)のいで來たるにや。按ずるに、かの「いもが子の歌」の出處(しゆつじよ)は、只、この一本のみならず、おのれ、往(い)ぬる歲(とし)、考異の編あり。今、錄すること、左の如し。

 阿彌陀寺本「平家物語」【この書は、長門なる阿彌陀寺の什物なり。防間[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『坊間』。「防」なら「周防一帯」、「坊」なら「寺院間」の意で孰れでもおかしくはない。]に寫本にて流布する。長門本「平家物語」と同じからず[やぶちゃん注:この言い方はおかしい。「阿彌陀寺本」は現在は「旧国宝本」或いは「赤間神宮所蔵本」とも呼ぶが、所謂、広義の「長門本」系には七十数本に及ぶ写本が伝わるが、この「阿彌陀寺本」は「長門本」系の代表的写本の筆頭に数えられているからである。但し、「平家物語」の写本の系統研究は進んでいないものの、今の段階ではあたかも伝家の宝刀の如く「阿彌陀寺本」と呼称するものの、この「阿彌陀寺本」が「長門本」の原型という説は退けられており、別な場所で写本・追加創作され、最終的に阿弥陀寺に齎された古い「長門本系写本」となったものと推定されているようである。以上は「花鳥社」公式サイト内の浜畑圭吾氏の「長門本『平家物語』研究小史―その成立をめぐって―」を参照した。]。「群書一覽」を著はしたる尾崎雅嘉も[やぶちゃん注:尾崎 雅嘉(まさよし 宝暦五(一七五五)年~文政一〇(一八二七)年)は江戸中・後期の国学者。この「群書一覽」は享和二(一八〇二)年刊行。国学の代表的な著書であったが、庶民から非常な高評価を得た。古代から江戸時代の国書の刊本千七十七部・写本六百五十二部を収録し、全六巻から成る。]、この書を見ざりけるにや。「平家物語」「梶原が箙の梅のうた」のくだりに疑をしるしたり。學者、よろしく辨ずべし。】に云、

『鳥羽院の御内に、小大進(こだいしん)の局(つぼね)とて候ひけるが、いさゝかなる事によて、御内(みうち)をすみうかれ、かたへんど[やぶちゃん注:「片邊土」。]なる處に、かすかなるすまゐしてぞ候ひける。或る時、小大進の局、太秦(うづまさ)にまゐりて、七日、こもれり。我身のありわびたる事をぞ、いのり申しける。七日にまんじける[やぶちゃん注:満願すること。]曉(あかつき)、「下向せん」とての夜半(よは)ばかりに、「やくし十二せいぐわん」の中(うち)に、「衆病悉除(しゆうびやうしつじよ)」のたのもしきことをおもひ出だして、

 南無やくしあはれみたまへ世の中に住みわびたるもおなじやまひぞ

と、よみてまゐらせ、下向して十二日とまうしゝに、八幡の撿校(けんげう)廣清(ひろきよ)に、ぐそくして、まうけたる子也【「まうけたる子なり」とは、「待宵の侍從」が事をいふなり。これまでは「著聞集」、その他の書どもに見えたるも、相同じ。但、右の歌の下の句、「ありわずらふも病ならずや」[やぶちゃん注:「わずらふ」はママ。]とあり。】[やぶちゃん注:『「待宵の侍從」が事』待宵(まつよい)の小侍従(生没年未詳)のこと。平安後期から鎌倉時代にかけての女流歌人で、石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。当該ウィキに、彼女が『高倉天皇に仕えていた頃は、ひどく貧乏で夏冬の衣更もままならない程だった。これでは宮仕にも差し支えると、広隆寺の薬師如来に七日間参籠して祈ったが御利益がなく、絶望してもう尼になるしかないと思いつつ』、『南無薬師憐給へ世中に有わづらふも病ならずや』(「源平盛衰記」巻第十七)と詠んで、『まどろんでいると』、『仏から』、『白い着物を賜る夢を見た。気を取りなおして参内したところ、八幡の別当』『に想いを寄せられる等、次第に運が向いてきて、高倉天皇の覚えもめでたくなり出世したという』とある。]。

 此の子、二つと申しけるに、父とも[やぶちゃん注:「「兎園小説」では『ともに』。]南おもてに出でゝあそびける。この子、はゝがひざによりをり、ひろえんを、はひありきけり。頃は九月中旬のころ、南面の(みなみおもて)のまがきに、薯預(やまのいも)、はひかゝり、その蘇(むかご)、なりさがりたりけるを、廣清、これを見て、

 いもが子ははやはふ程になりにけり

と、くちすさみたりければ、此の母、この子をいだきとるとて、

 いまはもりもやとるべかるらん』【已上、「德大寺實定卿舊都月見」の段に見えたり。】。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 又、「今物語」にも、この事、見えたり。云、

『小大進と聞えし歌よみ、いとまづしくて、太秦(うづまさ)へ參りて、御前(おまへ)の柱に書きつけゝる歌云云(しかじか)。程なく、八幡の別當光清に相ひ具して、たのしくなりにけり。子など、いできて後、もろともに居たりける處、近きところに、「いも」の「つる」の「は」、ひかゝりて[やぶちゃん注:引っ掛かって。]、「ぬか子」などのなりたりけるを見て、光清、

 はふほどにいもがぬかごはなりにけり

と、いひければ、ほどなく、小大進、

 今はもりもやとるべかるらむ』。

[やぶちゃん注:以下、底本では羅山の「將軍譜」の漢文引用の前まで、全体が一字下げ。]

 この連歌は、「菟玖波問答(つくばもんだう)」にも見えたり。これらは、後のものながら、「平家物語」にすら、異說ある事、右の如し。かゝれば、「ぬか子の連歌」をもて、「清盛公を白河帝の落胤なり」といふ說は、疑ふべく、信ずべからず。

 譬へば、源賴政卿、化鳥(けてう)を射ける勸賞(けんじやう)に、「あやめ」といへる宮嬪(きうひん)を賜はらんとありしとき、

 さみだれに池のまこもの水ましていづれあやめとひきぞわつらふ

と、よみけるよしは、「平家物語」・「源平盛衰記」その他の册子(さうし)にも見えたれど、無住法師が「沙石集」【五卷。】には、故鎌倉の右大將家、「あやめ」といふは、したものゝ美人なりけるを、

「梶原三郞兵衞尉に給はらん。」

と、ありしとき、梶原、すなはち、云々(しかじか)と、よめりしよし、いへり。但し、歌の上の句、「沙石集」には、「菰草(まこもぐさ)あさかの沼に茂りあひて」とあり。

「無住は俗姓、梶原の族なれば、彼(か)の集にいふ所をもて、まさしとすべし。」

と、先輩の、いへるが如し。

[やぶちゃん注:ウィキの「無住」によれば、説話集「沙石集」(弘安二(一二七九)年起筆で同六(一二八三)年に原型が成立したが、その後も絶えず加筆され、それぞれの段階で伝本が流布し、異本が多い。記述量の多い広本系と、少ない略本系に分類される)の作者で鎌倉後期の僧無住(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学』の僧」『として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、歴史学者『大隅和雄は、「無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい」との判断をしている』とある。同書は親しく読んだが、鎌倉の地誌に詳しいことが同書の諸編から窺われ、首肯出来る。]

 只、是のみならず、「清く盛れる」とある御製によりて、「清盛」と名のりしといふことも、信(う)けがたし。平家は貞盛より以來、「盛」をもて、二字名の下に置くこと、珍しからず。さるにより、清盛の「清盛」と名のれるならん、別に意味あることゝしも、おもほへず[やぶちゃん注:ママ。]。もし、その字義によりていはゞ、「清」白(せいはく)をもて、後々(のちのち)まで「盛」りなり、とせらるゝものは、無爲不爭(むゐふさう)の盛德のみ。

「仁者不ㇾ富。富者不ㇾ仁ナラ。」

かの入道の人となり、清白・盛德あることなければ、

「末世(まつせ)に清(きよ)く盛りならん。」

とよませ給ひしよしは、當らず。

「盡セハㇾ書、不ㇾ如(シ)カ[やぶちゃん注:読みを含んでいるので丸括弧を添えた。]ㇾ無キニㇾ書。」

と聞えたる孟子の敎(をしへ)いへば、さらなり。

 是等の類(たぐひ)、世に多かり。

 又、豊太閤の父の事、昔よりして、知るよしなければ、さまざまにいふものあれども、何れも不經(ふけい)をまぬかれず。そが中にも、

「後奈良院の孕みたる宮女をもて、明眼院に給はりしより、その宮女は尾張なる筑阿彌(ちくあみ)に遣嫁(よめら)せられて、うめりし、その子は秀吉なり。」

といへる說こそ、うけられね。

 いかにとならば、明眼院は、はじめより、淨戒を保つによりて、妻を娶(めと)らざるものにしあらば、假令(たと)ひ、至尊の恩賞なりとも、宮女を賜はらんとあるときに、辭し奉るべき事なるべし。さるを、辭(いな)まず、うけ奉りて、一兩月の程なりとも、その身は、醫師(くすし)のことなるに、その懷胎をしらざりしは、いと不審(いぶか)しき事にあらずや。しかのみならず、遙々(はるばる)と遠く貧しき尾張なる筑阿彌に遣嫁せし。

 かう、理(ことわり)に違(たが)ひし事、あるべくもあらずかし。

 又、その母の懷へ、「日輪の入る」と夢みて、秀吉公を生みしといへるを、俗說とのみ、すべからず。はじめ、朝鮮の役(いくさ)を起さんとせられし時、異邦へおくり示させし書翰の中に、彼(か)の日輪の一條あり。かゝれば、實(じつ)に、その事ありし歟。さらずば、「みづから、神にせん。」とて、このとき、猛(にはか)に云云(しかじか)と書き示させしも、知るべからず。寬永の末のころ、羅山林先生、台命(たいめい)によりて書きつめたる「將軍譜」にも、これを載せて云、

秀吉不ㇾ知所生。或曰、「尾張國愛智郡中村鄕、筑阿彌子。其母、夢ミテ日輪入ルト懷中而生ㇾ之。故ツク日吉

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が「その證は、」まで一字下げ。]

 これも、當時の小說を取られたるものながら、これより外の、正文、なし。然(さ)れども、世の人の、秀吉公の實父の名をだに、知りたるものゝあることなきに、まいて、末生(みしやう)に、その母人(はゝひと)の夢ものがたりを、誰か知るべき。

 よりて、思ふに、秀吉公の幼名を「日吉(ひよし)」といひしが實事(じつじ)ならば、「東國太平記」にいへるが如く、天文丙申[やぶちゃん注:天文五(一五三六)年。]の年に生れたまへば、「猿」に因みし名にはあらぬ歟[やぶちゃん注:日吉大社の神使は古くから猿とされる。]。かの記なる略傳には、童名を「猿」といふといへり【本文は下に抄すべし。】。「猿」といひしは、綽號(あだな)にて、「日吉」といひしは、童名歟。そを辨ずるよしなけれども、「日吉」は、卽、「比叡(ひえ)」にして、原(もと)、「山王」の山號(さんごう)なれば、亦、是、「猿」に因(ちな)みあり【いにしへは、「吉」を「エ」とよめり。よりて、「比叡」を「日吉」、「澄江」を「住吉」とも、かけり。後世、この訓讀を失ひしより、「日吉」を「ひよし」とよみ、「住吉」を「すみよし」と唱るは、みな、誤りなり。】。

[やぶちゃん注:日吉大社の祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)は「山王権現」とも称され、また、それは比叡山の地主神でもあり、「山王」と「比叡山」のイメージから「猿」が神使とされたのである。]

 又、俗說に、「秀吉の面貌の猿に似たり」といふもの、あれども、其肖像を今も見るに、「まさしく猿に似たり」とは、おもほへず。稚(をさな)き比(ころ)より、小さかしく、且つ、その本命(ほんめい)「丙申」なれば、里人等(ら)の綽號(あだな)して、「猿」といひしといふ說も、穩(おだやか)なりとすべきにや。されば、信長公の、罵りて、「猿冠者(さるくわんじや)」と呼びたまひしも、世の言ぐさに、よられしならん。かゝれば、「猿」といひしより、「猿」に因みて、「日吉」といふ名さへ、作り設けたる、當時(そのかみ)、好事(かうず)の所爲(わざ)にあらぬ歟。是も亦、知るべからず。そは、とまれ、かくもあれ、「成形圖說」[やぶちゃん注:底本は「成」を「或」と誤植している。訂した。]に、一書を引きて、秀古公の父の名を「木下彌介」と、しるしたる、「彌介」は「彌右衞門」のあやまりなり。その證(あかし)は、

「東國太平記」【卷一】に云、『傳ニ曰、秀吉ハ氏姓不ㇾ詳ナラ。大德ヲ賞セソガ爲ニ、種々ノ奇說ヲ記ストイヘドモ、皆、不ㇾ信ナラ【中略。】。或說ニ曰、「秀吉ノ父ハ、本(モト)織田信秀之鐵炮之者ニ、木下彌右衞門ト云フ人ナルガ、奉公ヲ辭シ、其在所ナル尾州愛智郡中村ニ歸住ス。同母ハ同郡御器所(ゴキソ)村ノ人ナリ。持萩(モチハギ)中納言ノ息女ナリトカヤ。其故ハ、中納言、罪、有テ、尾州持雲(ムラクモ)之里[やぶちゃん注:不詳。]へ配流セラレ、息女一人有リテ、二嵗ノ時、中納言、卒去セラル。依ㇾ之、後室ハ娘(ムスメ)ヲ誘(イザナ)ヒテ京へ上リシガ、年經テ、洛陽、兵亂起リ、在京成ガタク、ヨリテ息女十六歲ノ時、又、尾州へ下リ居タマヒシガ、十八歲ノ時、彌右衞門ニ嫁シテ女子一人ト、其次ニ天文五丙申春正月元日[やぶちゃん注:古くよりの説であるが、後で本文でも出るが、現在は翌六年二月六日誕生説が有力で、そうなると、「猿」干支説は崩れる。]ノ朝、男子ヲ、マウケ給フ。是、則、秀吉也。童名ヲ「猿」卜云ニ付テ、種々ノ異說アリ。皆、不ㇾ實ナラ。唯、申年ニ生レ給フニヨリテ也[やぶちゃん注:「や」。]]、父母、何トナク、其名ヲ「猿」トヨバレシナリ。面𧳖(メンボウ)モ自然ニ猿ニ似テ、又、仕業(シワザ)モ、コサカシク、猿ニ似マタヒケルニヤ。此說、尤、可ナリ。秀古ノ姊(アネ)ハ、成人ノ後、同國乙之(ヲトノ)村ノ民、彌介ニ嫁ス。彌介、後ニ、三好武藏守三位法印一露(イツロ)ト稱ス。是、則、關白秀次ノ實父也【下略。】』。

[やぶちゃん注:「三好武藏守三位法印一露」豊臣秀次・秀勝・秀保らの実父三好吉房(天文三(一五三四)年~慶長一七(一六一二)年)。豊臣家の一門衆で尾張犬山城主、後に清洲城主となった。もとは尾張国海東郡乙子(おとのこ)村の百姓か、馬丁出身ともされる。

 以下、「擇むべし。又、」まで、底本では全体が一字下げ。「兎園小説」では、その後の「眞砂に云、」までが一字下げで、異なる。]

 按ずるに、「豊臣譜」に載するもの、秀吉公の兄弟四人、所謂、第一「秀吉公」、第二「大和大納言秀長」、第三「武藏守一路(いつろ)が妻」、第四「南明院殿(なんみやうゐんでん)」、是也。かゝれば、「東國太平記」にいふ所も、一定(いつてい)しがたし。

 然れども、一書に云、『初生の女子と秀吉公は、前夫(ぜんふ)彌右衞門が子也。又、秀長卿と南明院殿は、後夫(こうふ)筑阿彌が子也。いまだ、孰れか是(よき)を、しらず』。

 さて、「明眼院云云」の一說は、右に抄せし持萩中納言母子の事より、いできたるものにやあらん。實に[やぶちゃん注:「げに」。]、秀吉公の母、稚(をさな)くて父を喪(うしな)ひたまひし時、母と共に都にのぼりて、二八のころまでありし程、大内(おほうち)に仕へまつりて、遂に天子の御胤(おんたね)を宿(やど)せしなど、いはゞいふべし。然かれども、持萩殿の妻といへるは、本妻ならで、配所にて娶(めと)りたる、かりそめの側室(そばめ)なるべし。昔も今も、流罪の人の、その妻を携へて、配所にゆくこと、なければ也。まいて、敕免あらずして、配所にて身まかりし人の息女を、いかにして内裡(だいり)にて召し仕(つか)はるべき。縱令(たとひ)、その身、素生(すじやう)をかくして、仕へまつりし事ありとても、尾張にかへりて生みたる子の、初めなるは、女の子にて、次に生れしが秀吉ならば、亦、かの「天子の落胤也」といひけんことも、齟齬すなり。又、持萩といふ人は、當時、公卿の名號(みやうがう)を書きたるものに、所見、なし。かゝれば、「明眼に賜はりし宮女云云(しかじか)」の一說は、菅公(かんこう)を「文德帝の落胤也」といふものと、平相國人道を「白河院の落胤也」といふものと相似たり[やぶちゃん注:「あひにたり」。]。

 皆、是れ、當時の稗說(はいせつ)にて、鑿空無根(さくくうむこん)[やぶちゃん注:現代仮名遣「さっくうむこん」。根拠がなく、出鱈目なこと。内容が乏しく、真実性が薄く、事実も根拠も全くないこと。]の言(こと)なるべし。人の好事(こうず)に走ること、今も昔もかはらねど、菅丞相は大賢(たいけん)也。平相國は將種(しやうしゆ)也。豊太閤は英雄也。至尊の落胤ならずといふとも、誰(たれ)かこれを賤(いやし)むべき、思はざること、甚し。

 只、是れのみにあらずして、平大臣宗盛公をば、「傘張の子なり」といへり。その人、暗愚なるときは、將相貴介(しやうじやうきかい)[やぶちゃん注:将軍・宰相といった高貴な位。]の公子(こうし)なるも、これを「匹夫の子なり」といひ、その人、賢良英雄なれば、儒官・武士・匹夫の子をも、これを「天子の落胤」とす。世の褒貶は、私議(しぎ)に起こり、是非は成敗(せいばい)に依ること、多かり。陳壽(ちんじゆ)が米(こめ)を甘(あま)なふとも、氏族を飾るは、人によるべし。

[やぶちゃん注:「陳壽」(二三三年~二九七年?)は三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で「三国志」の著者として知られる。よく判らぬが、当該ウィキに、彼には執筆に『際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られると』、『その人物の伝記を書かなかったという話がある』とあり、「米を甘なふ」というのは、「執筆料次第でいかようにも事実を捏造した」ことの意ととれる。

 以下は底本でも改行。]

 唐山(からくに)にも、さるためしあり。秦の始皇を「呂不韋(りよふゐ)が子」といひ[やぶちゃん注:「呂不韋中国」戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護し、後に、その擁立の功によって丞相となり、始皇帝に「仲父」と尊称されたが、密通事件に連座して失脚・自殺した。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂したことで知られる。俗説では「始皇帝の実父」とされる。紀元前二三五年没。]、晋の明帝(めいてい)を「牛金(ぎうきん)が子也」といふ[やぶちゃん注:「牛金」は後漢末期から三国時代の魏に仕えた軍人。曹仁に従って各地を転戦した。「赤壁の戦い」の後に、周瑜率いる孫権軍六千人が江陵に攻め込んで来た時、牛金は僅か三百人でこれを迎撃・奮戦し、守備し通した。後に魏の後将軍に出世した猛将。]。これ、將(はた)、當時の小說なれども、史官、をさをさ、取るものあれば、必ず、よしあることなるべし。又、蜀漢の昭烈(そうれつ)の、自(みづ)から「中山靖王(ちうざんせいわう)の後(のち)なり」と稱したる[やぶちゃん注:「中山靖王」前漢景帝の子。名は劉勝。紀元前一五四年に中山王に封ぜられ、河北省定県一帯を治めた。その墓は「満城漢墓」と称され、玉片を金糸で綴り合わせた死装束などの出土で知られる。紀元前一一三年没。]、劉宋の高祖武帝の、自から「漢の楚元王(そげんわう)の後也」といふが如き[やぶちゃん注:「漢の楚元王」前漢の高祖劉邦の異母弟劉交(?~紀元前一七九年)の諡号。]、世系(せいけい)遥かなるをもて、司馬光は、猶ほ、疑ひぬ[やぶちゃん注:「司馬光」(一〇一九年~一〇八六年)は北宋時代の儒学者・歴史家で政治家。彼の祖先は西晋の高祖宣帝司馬懿(い)の弟司馬孚(ふ)とされている。厳密な大書の歴史書「資治通鑑」の編者として著名。]。譬へば、織田家を「清盛の裔孫也」と云と雖も、世系、まさしからぬをもて、白石は、猶、疑ひて、遂に、その辯あるが如し[やぶちゃん注:以上の太字部分は「兎園小説」版では、後の頭書に出る。]。

 又、この事と似たるものあり。足利の義包(よしかね)を「爲朝の子なり」といひ[やぶちゃん注:「足利の義包」足利義兼(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)の異名表記。足利義康(源義家の孫で義国の子)の子で源義家の曾孫に当たる。源頼朝に属し、平氏討伐・奥州藤原氏討伐に従軍。北条時政の女婿である。]、岩松入道天用(いはまつにふだうてんよう)を「新田少將義宗(よしむね)の子也」といへる、卽、これなり[やぶちゃん注:「岩松入道天用」岩松満純(みつずみ ?~応永二四(一四一七)年)の法名。彼は足利氏(下野源氏)一門の岩松氏(上野源氏)の当主岩松満国と新田義貞の子である義宗の娘との間の子で、妻は犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)の娘である。但し、満純自身、後年、「外曾祖父新田義貞の後継者」と称して「新田岩松家」の祖となっている。因みに「兎園小説」では、この後に、『【頭書、譬へば、織田家を「淸盛の裔孫なり」といふといへども、世系、まさしからぬをもて、白石は、なほ、疑ひて、遂に、その辯あるが如し。』。】として先の内容が入る。]。然かれども、義包の一條は、足利の族なりける今川了俊(りやうしゆん)の說にして、「難太平記(なんたいへいき)」に出でたれば、信ずべく、疑ふべからず。只、是のみならずして、「梅松論」にも粗(ほゞ)そのよし、見えたり。同書、下の卷、足利尊氏卿、西國より攻め上るをり、筥崎(はこざき)なる八幡宮[やぶちゃん注:福岡県東区箱崎にある筥崎宮。]へ參詣の段に、「すなはち、寄附地(ふち)[やぶちゃん注:「きふち」。私は「どうしても寄付をするために寄って行かねばならぬところ」の意と読んだ。]あるべし。」とて、御文章の爲に、社家(しやけ)の古文を召し出だされし中に、昔、鎭西八郞爲朝の寄附の狀、有しを、御覽ぜられて、『當家の祖神、實(ぢつ)に難有(ありがたく)』思(おぼ)し召して、御敬心、淺からず云云(しかじか)」といへり。このとき、尊氏の「當家の祖神」といはれしは、八幡宮に爲朝朝臣をかけたることゝ聞ゆなり。かゝれば、今川氏のみならで、尊氏卿も、素(もと)より又、その身の、爲朝の裔孫なるを知りておはせし也。又、天用の義宗のおん子なるよしは、「岩松系譜」に見えたれば、是等(これら)は、平相國・豊太閤の素生をいふものと、おなじからず。事迹(じせき)に、信と、不信と、あり。論者、よろしく擇(えら)むべし。又、

[やぶちゃん注:「今川了俊」鎌倉末期から南北朝・室町時代の武将で守護大名で、室町幕府の九州探題などを務めた今川貞世(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?)の法名。彼は河内源氏義国流に連なる者であるが、その自著「難太平記」の『中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を』、源『為朝の子であるとし、係累である足利義康』(彼自身が源義家の孫に当たる)『が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない』とウィキの「源為朝」にはあったから、馬琴には私は組み出来ない。

 なお、以下は底本を再現し、続き具合からも、次の行頭の一字下げはしなかった。]

或記に云、『太闇秀吉公の父、しれざるを以て、牽强附會の說、多し。それらは、今さら、論ずるに足らず。傳に云、秀吉は、その母、野合(やがふ)の子也。そのいはけなかりし時、つれ子にして、木下彌右衞門に嫁したるに、彌右衞門、はやく、世を去りければ、その頃、織田家の茶坊主にて、筑阿彌といひしもの、浪人して、近村にあるをもて、卽、これを入夫(にうふ)にしたり。この故に、彌右衞門は、秀吉の繼父(けいふ)にして、筑阿彌は假父(かふ)也。母が野合の子なるをもて、實(まこと)の父の事においては、その名をだにも、いひしらせず、秀吉も亦、これを悟りて、「われに、父なし。」と、いはれしなり。もし、彌右衞門にもせよ。筑阿彌にもあれ、生(う)みの父ならんには、はや、世を去りて年を經るとも、秀吉、武運、比類なく、富み、四海を保つに至りて、父の廟所を建立し、贈位贈官の追福あるべし。然るに、その事なかりしは、野合の子なればなり。』といヘり。

[やぶちゃん注:底本にも改行があり、以下は底本では「眞砂に云、」まで全体が一字下げ。]

 こは、理(ことわ)りあるに似たれども、又、不經をまぬかれず。抑(そもそも)、當時(そのかみ)の小說者流(せうせつしやりう)、豊太閤の、その亡父の爲に廟所を建立し給はざりしと、贈官爵の事なきとを、深く疑ふ心を師(し)として、臆說をなすもの也。今、予が思ふよしは、しからず。

 倩(つらつら)、豊公の情狀を亮察(りやうさつ)[やぶちゃん注:対象者に対して敬意を表して思いやりを持って明らかに察し見ること。]して、よく、その意中を推しはかるに、その恩、すべて現世に過ぎて、過去の事には、絕えて、なし。只、信長のおん爲にのみ、大法事を興行して、廟所を莊嚴(さうごん[やぶちゃん注:私はこの場合、「しやうごん(しょうごん)」と読むのを節としている。])し給ひしは、諸將の心を釣らんが爲なり。その他、丹羽・蒲生・堀[やぶちゃん注:秀吉の有力家臣団。丹羽長秀・蒲生氏郷・堀秀政。]のともがら、百万石を食(しよく)せしも、既に沒後に至りては、その國郡(こくぐん)の三つがひとつも、其子どもには、受けしめたまはず。是等は、「骨肉なるものならねば、恩に増減あり。」ともいふべし。秀長卿は弟也。その世にゐまそかりし日は、数十万石の主(ぬし)として、官職、亞相(あしやう)[やぶちゃん注:大納言の唐名。秀吉の異父弟秀長は最後に従二位権大納言に昇っている。]にのぼせしも、その沒後にいたりては、はやくも忘れたるが如し。こは、異父(いぶ)兄弟なるものなれば、かくてもあらんと、いはゞ、いふべし。彼(か)の「棄君(すてぎみ)」[やぶちゃん注:豊臣鶴松の幼名「棄(すて)」。数え三つで病死した。]は、豊公の老後にうませし愛子(あいし)也。その誕生の初より、天下の富も足らざる如く、めでいつくしみたまひしに、忽ち早逝したまひしかば、哀慕の淚は胸にこそ盈(み)つらめ、その後々(のちのち)まで菩提の爲に大かたならぬ法會などを執り行はれし事は、聞こえず。この情狀を推すときは、幼弱微賤の時にわかれて、その面影だも見しらざる亡父の事には、懸念(けねん)せず、只、現在(げんざい)なる母御前(はゝごぜ)をのみ、「大政所(おほまんどころ)」と尊稱して、孝養を盡くしたまひし也。その母御前も、父の如く、早く世を去り給ひなば、追慕の孝養なきにより、世の人、遂に、豊公の母をすら知らずして、或は「天より降(くだ)りたまひぬ」、「地より涌きにき」といふものあらん。かゝれば、豊公の事實を取りて、筆に載せんと欲するもの、いまだ、織田家に仕へざりし已前(いぜん)の事は、闕如(けつじよ)[やぶちゃん注:「缺(欠)如」に同じ。]して、可、なり。獨(ひとり)、竹中丹後守重門の書きつめたる「豊鑑(とよかゞみ)」巻の一「長濱(ながはま)ノ眞砂(まさご)」に云、

[やぶちゃん注:「竹中丹後守重門」竹中重門 (たけなかしげかど 天正元(一五七三)年~寛永八(一六三一)年)は織豊・江戸前期の武将。美濃出身。戦国期の軍師として知られ、秀吉に仕えた竹中重治半兵衛の嫡子。初め、父に継いで豊臣秀吉に仕えたが、「関ケ原の戦い」では西軍から東軍に転じ、小西行長を捕えている。秀吉の一代記「豊鑑」の著者。

 ここは底本でも改行。]

 羽柴筑前守豊臣秀吉、天文六年丁酉に生れ【解云、天文五年丙申とするものは非歟。】。後に關白になり昇りたまふ。尾張國愛智郡中村[やぶちゃん注:現在の名古屋市中村区及び西区の名古屋駅北東部附近。]とかや、熱田の宮よりは、五十町許り[やぶちゃん注:約四・五キロメートル。]乾(ゐぬゐ[やぶちゃん注:ママ。北西。])にて。萱(かや)ふきの民の屋、わづか、五、六十ばかりやあらん郷(さと)の、あやしの民の子なれば、父母の名も誰か知らむ。一族なども、しかなり【下略。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 予は、この說に、從ふべく、おもほゆ。その事、すべて、實にして、その文、青史(せいし)に耻ぢずといふべし【文政八年乙酉秋七月朔草。】。

[やぶちゃん注:「兎園小説」では、末尾は改行してクレジットのみ(「草」はなし)と、下方に『神田山脚の老逸稿』とある。

「青史」中国で紙のない時代には青竹を冊に割った札を炙って文字を記したところから。「歴史・歴史書・正規の記録」の意。]

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