曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐孫右衞門が事
[やぶちゃん注:段落を成形した。頭で、かく言っているが、最初の「むじな・たぬき」の発表は、この海棠庵である。]
○狐孫右衞門が事
過ぎし「兎園」のまとゐには、きつね・たぬきの事など、諸君のしめし給ふ物から、予も亦、聞きつる一條のものがたりあり。
こは予が家に、年ごろ、出入なせるもの、元は下谷の長者町に住みし萬屋義兵衞が母「みね」のはなしなり。みねが生國は、下總相馬郡宮和田村[やぶちゃん注:現在の茨城県取手市宮和田(みやわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]のほとりにて、みねが父は同國赤法華村[やぶちゃん注:茨城県守谷市大字赤法花(あかぼっけ)。]の農民孫右衞門といふものなり。
此孫右衞門より六世ばかりの祖孫右衞門【代々、孫右衞門をもて稱す。】とかいひしもの、江戶に出でゝ歸るさ、何がしとかいふ原【原の名を詳にせず。】をよぎりし時、傍に若き女の、ひとりたゞずみしが、呼びかけて、いへらく、
「われは下總なる云々の村にゆくものなるが、ゆき暮れて、いと、なやみぬ。願ふは、和君も、そのほとりにしおはさば、伴ひ給はれかし。」
と、他事もなく[やぶちゃん注:そのことに念を入れて。]賴まれければ、孫右衞門、止む事を得ず、うけがひて、その夜は、おのが家にとゞめ、とかくして、一兩日をふる程に、彼女のふるまひの、まめくまめしければ、孫右衞門が母なるもの、女に問ひて、いふ。
「我子、いまだ、妻、あらず。わがよめとなりなんや。」
と、いひしに、女、答へて、
「われに、實は、親兄弟もなく、たよるべき方、なし。云々の村は、些のゆかりあれば、尋ねゆかんと思ひしのみ。兎もかくも、御心にしたがひなん。」
と、いひければ、母、悅びて、つひに、めあはしぬ。
いく程もなく、男子をまうけ、そが五歲といふとき、又、をのこを、うめり。
冬の事にて、稚子[やぶちゃん注:「をさなご」。]に添乳して、しばし、爐邊にまどろみしに、五歲なりける男子が、あはたゞしく、
「てゝごよ。見給へ。かゝさまの、かほが。『おとうか』【狐の方言なり。】に、よく似たり。」
と、いふに、おどろき、彼女は、忽、身を翻して、かけ出でぬ。
みなみな、打ち驚き、※(アハテ)まどひて[やぶちゃん注:「※」「目」+「條」。]、そがあたりを、おちもなく、さがし求めしに、向の小高き山に、狐の穴ありて、その穴の口に、小兒のもて遊びの茶釜と、燒ものゝきせると、書きおきやうのもの、一通あり。
「さては。彌、狐にてありけり。」
と、はじめてさとる物から、なほ、哀慕に堪へざりけり。
かくて、その生れし男子、成長して、また、孫右衞門と稱し、老いて、
「廻國の望あり。」
と、家を出でしが、何地ゆきけん、遂に歸らずなりし。
そのあたりのもの、後々までも、「狐のおぢい」と呼びしとぞ。
「かの『みね』は、右『きつねのおぢい』が爲には、『ひまご』にや當りぬべし。」
といふ。「みね」媼(ばば)が話に、
「をさなきころ、赤法華村にゆきて、彼[やぶちゃん注:「かの」。]茶がま・きせるなど、見し事、あり。わなみも、狐の血すぢにて、侍り。」
と、こまやかにかたりしを諳記して、こゝにしるしぬ。老媼がむかしがたりなれば、郡村の名さへ詳ならぬもあれば、遣漏、なほ、多かるべし。もし、委しきことをしも得ば、後のまとゐに補ふべし。
乙酉六月朔 海棠庵主人 識
[やぶちゃん注:元は安倍晴明の古話の変形譚ではあろうが、何か、小泉八雲の「雪女」(リンク先は私の「小泉八雲 雪女 (田部隆次訳)」)を読むような、とても、しみじみとする話ではないか!…………
「わなみ」「我儕・吾儕」。一人称代名詞。対等の者に対して自身を言う語。]
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