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2021/10/31

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 土地を掘るひと

 

   土地を掘るひと

 

土地(つち)よりめざめ

土地を掘る

土地を掘るひと

土地に立つ

 

空は綠金

土地は白金

いんさん

いんさん

利鎌ぞ光る

 

けぶれる空に麥ながれ

農夫は一列

種子は一列

 

いんさん

いんさん

土地(つち)を掘るひと涙をながす。

 

[やぶちゃん注:底本によれば、推定で大正三(一九一四)年作とし、『遺稿』とある。老婆心乍ら、「利鎌」は「とがま」と読む。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐ノート)」に以下のようにある。誤字(「堀」)はママ。最後の読点もママ。

 

 土地を堀る人

 

土地よりめざめ

土地を堀る

土地を堀るひと

土地に立つ

 

空は綠金

土地は白金

いんさん

いんさん

利鎌ぞ光る

 

けぶれる空に麥ながれ

農夫は一列

種子は一列

 

いんさん

いんさん

土地を堀るひと淚をながす、

 

本篇は詩集「月に吠える」の「雲雀料理」パートの本編の頭に置かれている「感傷の手」と親和性がある。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理(序詩)・感傷の手』を見られたいが、そこで注した通り、「感傷の手」は初出形が『詩歌』大正三(一九一四)年九月号で、詩篇末に『――一九一四、八、三――』のクレジットがあるから、本篇の推定年も無理がないと思われる。「つち」というルビが気になるが、これは、思うに、同じ詩集の同パートの二つ後の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 苗』で、「土地」に「つち」のルビを振っているを知っている本底本の小学館の編集者が、それを受けてサーヴィスで添えたものではなかろうかと推定するものである。「とち」ではイメージが違う。ここは確かに「つち」でなくてはなるまい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 若鷹

 

    ○若 鷹

「群書類從」、「定家卿庭三百首」、

 あまたとやふませて見ばやいまだにも古木居に似る秋の若鷹

此四の句、予が藏本には、「ふるとび」に似るとあり。これは「古鳶」に作るかた、勝れたり。「古木居」にては、歌の心、何とも聞えず。すべて、大鷹の今年生ひの若鷹は、形容、さながら、鳶にかはらざるものなれども、一とや經れば、毛色、淺黃になりて、夫より、鳥屋を出づる每に、次第に、うるはしくなるものなり。歌の心も、『「あまたとや」をかへたらば、毛も、かはり、うるはしかるべきに、今は鳶に似て、きたなげなり。』とよめるなり。此四句、「とび」と假名にて、ありしを、「こひ」とよみて、やがて「木居」と書きたるなるべし。

  乙酉臘月朔日       龍珠しるす

[やぶちゃん注:それぞれの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」及び「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)」を参照されたい。

「とや」は「鳥屋」「塒」で、一般的には、「鳥を飼って入れておく小屋」で、鶏や種々の鳥を飼う小屋をも指すが、特に「鷹を飼育するための小屋」を限定的に言うこともある。さらに、別に「鷹の羽が夏の末に抜け落ちて、冬になって生え整うこと」を「とや」とも呼ぶ。この間は鷹は鳥小屋に籠るからである。さらに、その回数によって鷹の年齢を数え、三歳或いは四歳以上の鷹、又は、四歳の秋から五歳までの鷹を特に「とや」と称するともされる。ここでは「あまたとやふませて見ばや」というところは、最後の「とや」の意味を嗅がせておいて、『三年以上も「とや」でこの鷹を飼って、どう変わるかを見てみたい。』と言っていると考えてよかろう。

「古木居」は「ふるこゐ」。「木居」は狩りに用いる鷹が木にとまっていること、または、その木を指す。ここは後者。筆者の言うように、確かにここは「古鳶」の方がよかろう。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「參考太平記」年歷不合

 

[やぶちゃん注:前と同じく竜珠館の発表。またしても、なんだか文章が杜撰の極み。「奈和」でないよ! 「名和」だがね! 名前も間違ってる! 「長高」じゃあねえ!「長年」だっつうの!

 

   ○「參考太平記」年歷不合

「參考太平記」、元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和長高が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西[やぶちゃん注:底本に『(本ノマヽ)』の傍注有り。]。』。その第三番の弟の乙童丸、十四歲なるべきやう、なし。其うへ、次男の孫三郞基長には、「土用松」とて、三歲の男子あり。これをもて、見れば、高義[やぶちゃん注:ママ。]、たとひ、若年なりとも、二十あまりなるべし。悉く、小注の誤なり。

[やぶちゃん注:「參考太平記」は「太平記」の諸伝本(西源院本・南都本・今川家本・前田家本・毛利家本・北条家本・金勝院本・天正本など)を比較し、さらに「公卿補任」・「増鏡」・「園太暦」など 百四部もの記録・文書によって、記事の適否を考訂した書。 全四十巻。徳川光圀が「大日本史」の撰修の準備作業として、儒臣今井弘済に命じて編集させたもので、弘済の死後は内藤貞顕が引継いで元禄四 (一六九一) 年に刊行された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和』(「名和」の誤り)『長高』(「長年」の誤り)『が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西』」国立国会図書館デジタルコレクションの「參考太平記」のここ(左丁の最後)に見つけた。不全な引用を正確に以下に示す。名和が子や一族を連れて、後醍醐天皇を迎えるために発するシーンである。カタカナをひらがなに直した。記号を使用し、割注内の漢文脈は訓読した。約物は正字化した。切りのいいところまで採った。

   *

長髙を始として、二男孫三郎基長、三男乙童丸【後に正六位上。四郎左衞門の尉髙光。建武三年十一月一日、西坂本に於いて、逝去、廿二歲。】、長年が舍弟鬼五郎助髙、姪(をい)に六郎太郎義氏【行氏嫡男。正五位下・安藝の守。】従弟(いとこ)小太郎信貞、同次郎實行、婿(むこ)に彦次郎忠秀、鳥屋彦三郎義真【後に縫殿の允。左衞門の尉。備中の守義直。】、此の外、若黨等、都合二十餘騎して、一族、相催すに及はす、折節、在合輩、大坂港へ鞭を擧て、馳參る。

   *

ちゃんと注を引いていないのであるが、これは元弘三(一三三三)年の閏二月二十八日の出来事で、「建武三年」は一三三六年であるから、注によれば、この時、乙童丸は十九歳であって、「十四歲」なんかじゃねえぞ!?! この話、もうそれだけで、呆れ果てた。「参考太平記」の注はおかしくない! 竜珠館自身が、ちゃんと原本を見てないだけじゃないか! 因みに、名和長年(なわながとし ?~延元元/建武三(一三三六)年)は伯耆の豪族。この年、隠岐を秘かに脱出した後醍醐天皇を伯耆の船上山に迎え、討幕軍に加わった。建武新政では因幡・伯耆の守護となり、記録所・雑訴決断所の寄人(よりうど)となったが、九州に敗走した足利尊氏が再挙して東上するのを、京都で迎え撃って、敗死した。

「高義」これもさあ! 「高光」の誤字でないの? もーー!!!]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十二集(正編・最終集) 助兼

[やぶちゃん注:画像は底本よりトリミング補正した。発表は旗本竜珠館桑山修理。]

 

Kabuto

 

   ○助 兼

「後三年繪詞」に云、『伴次郞儀仗助兼といふものあり。きはなき兵なり。常に軍のさきにたつ。將軍、これを感じて、「薄金」といふ鎧をなん、きせたりける。岸近くよせたりけるを、石弓をはなちかけたりけるに、「すでにあたりなん。」としけるを、首をふりて、身を、たはめたりければ、かぶとばかり、打ちおとされにけり。冑落つる時、本鳥きれにけり。』とあり。按ずるに、此時、助兼、本鳥を冑の「てへん」より引き出だして、着たる者なるべし。繪卷物にあり。此圖のごときなり。助兼も、この如く、かぶとを着たる故に、大石の落つる勢にて、本鳥ともにきれたるなり。冑の下に本鳥を折り曲げてあらんには、大石にうたれたればとて、冑とともに、本鳥は、きれがたかるべし。又、「源平盛衰記」、「しの原合戰の條」に、入差小太郞、高橋判官と組みたる所に、入差が叔火、落ちあひて、高橋が冑のてへんに手を入れて、首をかく、とあるも、高橋、本鳥を、てへんより、引き出だして着たるなるべし。折り曲げてあらば、「てへん」大なりとも、本鳥を、しかとは、とりがたからん。是をもて、助兼の冑をきたるさまを、おもふべし。

[やぶちゃん注:「後三年繪詞」「後三年合戰繪詞」(ごさんねんかっせんえことば)。絵巻。三巻。重要文化財。東京国立博物館蔵。源義家が奥州の清原氏を討伐した「後三年の役」に取材したもので、元は四巻或いは六巻本であったが、冒頭の部分が失われたと考えられている。現存部分は、清原家衡が金沢柵(かねさわのさく)で義家と対陣する段から、義家が家衡を平定して京都に帰る段までを描いてある。人物・甲冑などに精細な筆が用いられるが、構図が単調で変化に乏しい。鎌倉後期(十四世紀)の制作で、奥書により、絵は飛騨守惟久(これひさ)の筆と判る。なお、他に序文一巻があるが、これは鎌倉幕府滅亡の後の貞和(じょうわ)三(一三四七)年に尊円親王によって書かれたもの伝えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「伴次郞儀仗助兼」伴助兼(とものすけかね 生没年未詳)は後に「資兼」に改名した。通称は伴次郎・設楽大夫。姓は朝臣。伴助高の子。三河設楽(したら/しだら)氏・富永氏の祖。位階は従五位下。八幡太郎義家の郎党で、一の勇士として知られる。当該ウィキによれば、『三河伴氏の出自は明らかでなく、景行天皇から出た三河大伴部直の後裔とする皇胤説のほか』、『中央豪族の伴氏(伴宿禰)の後裔とし、伴善男』『・大伴駿河麻呂』『・大伴家持』『らに繋げる系図がある』。『三河国に住んだとされる。伝承では治暦元年』(一〇六五年)『に義家の命で、現在の福島県二本松市に住吉山城(四本松城)を築いたという』。永保三(一〇八三)年に始まる「後三年の役」では、『舅の兵藤正経と共に、清原(藤原)清衡の襲撃を受けた清原真衡邸から、真衡の妻と成衝を救い出している。義家からその武勇を賞賛され、源氏八領の一つともいわれる』「薄金の鎧」を『拝領したが、金沢柵攻略戦では、城内からの落石で兜を打ち落とされ』、『紛失した。豊田市猿投神社に伝来する樫鳥縅鎧』(かしどりいとおどしよろいおおそでつき)『(重文)は、この』「薄金の鎧」を『助兼が奉納したものであると伝えられている』。承徳三(一〇九九)年に『従五位下に叙爵』されている、とある。蕗の雫氏のブログ「時の落穂拾い」の「薄金の鎧 (『後三年記詳注』を読んで(その4))」に「後三年合戦絵詞」のそのシーンを描いた絵があり、髻(もとどり)が切れて大童になっている様子が判る。

「岸」城(恐らくは山寨)の崖。

「本鳥」「髻」の当て字。日本で行われた昔の結髪法の一つで、髪を頭上に束ねたもの、または、その部分を指す。元来は「本取」の意で、「たぶさ」とも称した。古くは中国の東北部に住した女真(ジュルチン)族の女性の結髪であった。

「てへん」「天邊」。頭のてっぺん。

『「源平盛衰記」(私は「げんぺいじやうすいき」と読むのを常としている)「しの原合戰の條」』これは、巻第二十九の「俣野(またのの)五郞。幷(ならびに)長綱、亡ぶる事」のことである。以下に、国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間の版本の当該部を元に以下に電子化する(カタカナをひらがなに直し、読みは一部に限り、また、読みの一部を送って外に出し、約物は正字とし、さらに段落を成形した。漢字表記は可能な限り忠実に写した)。

   *

 平家の陣より、武者一人、進み出でて云けるは、

「去(さん)ぬる治承(ぢせう)の比(ころ)、石橋にして右兵衛佐殿と合戰したりし鎌倉權五郞景正が末葉(はつよう)、大場(おほばの)三郞景親が舎弟、俣野五郎景尚(かげなり)。」

と名乘りて、竪さま橫さま、敵も不ㇾ嫌(きらはず)、散々に戰ひけり。

「木曾は、耻ある敵ぞ、あますな。」

と云ければ、

「我れも、我れも」

と蒐籠(かけこみ)たり。景尚、向ふ者共、十三騎、討ち捕つて、痛手負いければ、馬より飛び下(を)り、腹、搔き切つて卧(ふ)[やぶちゃん注:底本では(へん)が「目」。「臥」に同じ。]しにけり。

 平家の侍に髙橋判官(はんぐはん)長綱は、練色(ねりいろ)の魚綾(ぎよしう)の直垂(ひたたれ)に、黑絲威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗り、只、一騎、返し合はせて、「成合(なりあひ)の池」の北渚(きたなぎさ)に、馬の頭(かしら)、濱の方(かた)に打ち向かふて磬(ひか)へたり。可ㇾ然(しかるべき)者あらば、押し並べて、組まばや、とぞ、伺ひ見ける。

 源氏の方に、越中國住人、宮﨑(みやさきの)太郞が嫡子、入善(にうぜん)小太郎安家は、赤革威(あかかわおどし)の鎧に、白星(しらぼし)の甲(かぶと)著(き)て、糟毛(かすげ)なる馬に、金覆輪(きんぶくりん)の鞍、置きて、只、一騎、扣(ひか)へたり。是も、平家の方に可ㇾ然者あらば、押し並べて組まん、との志(こゝろざし)也。「成合の池」の北渚に、武者の一騎あるを、心にくゝ思ひて、打ち寄せて、

「爰(こゝ)にましますは、敵か、御方か、誰(たそ)。」

と問ふ。

 平家の侍に髙橋判官長綱、

「角(かく)云ふは誰。」

「越中の國の住人、入善小太郎安家、生年(しやうねん)十七歲。」

と、名乘も、はてず、押並べて、組んで落ち、始めは、上に成り、下になり、ころびけれ共、流石(さすが)、安家は二十(はたち)に足らぬ若武者也。髙橋は老(をひ)すげたる大力((だいぢから)也ければ、終(つい)には、入善、下に成るを、おさへて、頸をかゝんとする處に、髙橋、腰の刀(かたな)を落としたりける。爲方(せんかた)なくして、暫し、押さへて、踉蹡(をとりゆ)けり。此(こゝ)に入善が伯父に、南保(なんほう)次郎家隆と云ふ者あり。此の軍(いくさ)に打ち立ちける時、入善が父宮﨑(みやさきの)太郎、弟(をとゝ)の南保に語けるは、

「安家は、未だ幼弱なる上、今度(こんど)は初めたる軍也。相ひ構へて見捨て給ふな。」

と云ければ、

「然(しか)るべし。」

とて、出たりけるが、

「相い具せん。」

とて、數萬騎(すまんぎ)が中を尋ねれ共、見えず。

 南保、音(こへ)を揚げて、

「入善小太郎、入善小太郎。」

と呼んで、兩陣の中を通りけるに、小音(せうをん)にて、

「安家、敵にくみたり。角(かく)尋給ふは、南保殿かよ。」

と云。

 家隆、馬より、飛び下(を)りて腰刀(かたな)を拔き、長綱が鎧の草摺(くさずり)引き上げて、

「柄(つか)も、拳も、とほれ、とほれ。」

と二刀(かたな)、刺す。

 甲(かぶと)の「てへん」に手を入れて、引き仰(あを)のけて、切ㇾ頸(くびをきる)[やぶちゃん注:底本では『切リ◦頸』であるが、おかしいので勝手に訂した。]。左の手には持ㇾ頸[やぶちゃん注:底本は「頸」がないが、同前で訂した。]、右の手にて、入善を引き上げて、

「如何(いか)が誤りありや、軍(いくさ)は後陣(ごぢん)を憑(たの)み、乗替(のりかへ)、郎等(らうどう)を相ひ待ちてこそ、敵には組む事なるに、若き者一人、立ち悞(あやまり)し給はん。

とて、

「去(さり)ながら、神妙々々。」

と云處に、入善、隙(ひま)を伺ひ、南保が持ちたる首を奪ひ取りて迯け走り、木曽が前に行き向ふ。

 南保も續いて馳せ參り申しけるは、

「長綱が首をば、家隆、捕りたり。」

と申す。

 入善は、

「我が、取りたり。」

と論ず。

 南保、重ねて申しけるは、

「入善、髙橋に組んで、既に危うく候つるを、家隆、落ち合ひて、入善を助けて、髙橋が頸をば、取つたり。」

と申す。

 入善、陳(ちん)じ申けるは、安家、髙橋に組んで、上に成り、下に成、候つる程に、髙橋が弱き處ろを、髙名(かうみやう)がほに、南保、傍(そば)より取りて候。家隆、全く不ㇾ取(とらず)。安家が今日(けふ)の得分(とくぶん)にて候つる者也。」

と申ければ、木曽は、

「入善、くむ事なくば、南保、頸を不ㇾ可ㇾ捕(とるべからず)。落ち合ふ事、なくば、入善、實(まこと)に難ㇾ遁(のがれがたし)。兩方(りやうばう)共に、神妙也。」

とて、髙橋が頸をば、南保に付、入善には別の勲功を行なはる。

   *

「入差小太郞」御覧の通り、「入善小太郞」の誤り

「叔火」御覧の通り、伯父の誤り。ちょっと筆者のそれか、判読の誤りか知らんが、ひど過ぎる。原本を確認していないことが、バレバレである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 晶玉の塔 / 筑摩版全集不載の「感傷の塔」の幻しの草稿

 

  晶 玉 の 塔

 

晶玉の塔は額(ひたひ)にきづかる

螢をもつて窓をあかるくなし

塔はするどく靑らみ空に立つ

ああ我が塔をきづくの額は血みどろ

肉やぶれ いたみふんすゐすれども

なやましき感傷の塔は光に向ひて伸長す。

いやさらに愁ひはとがりたり

きのふきみのくちびる吸ひてきづつけ

かへれば琥珀の石もて魚をかへり

かの風景をして水盤に泳がしむるの日は

遠望の魚鳥ゆゑなきにきえ

塔をきづくの額はとがれて

はや秋は晶玉の光をつめたくうつせり。

 

[やぶちゃん注:「きづつけ」はママ。底本では推定で大正三(一九一四)年の作とし、『遺稿』とある。この題名では、筑摩版全集(補巻の索引にも不掲載)には所収しない。但し、非常によく似た詩として、「拾遺詩篇」に、大正三年十月号に『詩歌』に掲載された「感傷の塔」があり、これは既に二〇一三年十二月にブログで電子化してあるので比較されたいが、似ているが、一目瞭然、同一ではないから、この「感傷の塔」の幻しの草稿かと推定される。またしても、知らない萩原朔太郎の詩篇がここに出現した。]

2021/10/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その8・目次では同じく著作堂発表で「消夏自適天明荒凶記附錄」とする) / 丙午丁未~了 / 「兎園小説」第十一集~了

 

[やぶちゃん注:以下の二段落は、底本では全体が二字下げ。]

 

 右校編數萬言、楮數(ちよすう)二十有五頁、所臨寫印本五頁、亦在其中矣。

 著作堂云、「丙戊春正月下浣、關潢南の通家(つうか/つうけ)宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」を閱せしに、その編末に、「天明荒凶」の一編あり。こゝに抄錄して、もて、比較に充つること、左の如し。」

[やぶちゃん注:「楮數」紙の枚数。

「丙戊」この発会の翌年文政九年丙戌(一八二六年)。従って、以下は補筆したもの。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は「兎園会」の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は、既に何度も発表している海棠庵で「兎園会」のメンバーであった。この第十一集分も関家で発会しており、異例の一日発会でない、この十月二十三日は、当主である関克明南陽の誕生日でもあったことは、前回分の最後に注してある。

「通家」昔から親しく交わってきた家。或いは、姻戚関係にある家。

『宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」』「寛政重修諸家譜」に名があるので武家で旗本或いは御家人である(後の本文中で嘗つて小普請組に所属していたと述べている)ことは判ったが、調べる気にならない。「消夏自適」も彼の著作にあることは判ったが、詳細は不詳。本篇の「(その5)」で既注済み。以下の地震もそちらを見られたい。]

 龍齋云、

「予が犬馬(けんば)の年つもるうちに、天明の頃ほど、凶年の繁きこと、なし。先、天明二寅年七月十四日の夜、丑の刻にもやあらん、當地の地震、おびたゞし。翌十五日夜戌刻、前夜の地震よりも甚しく、老人子供など、足よわなるは、步まんとしては、倒れたり。わかきものとても、氣力の弱きは目くるめきて、漸(やうや)く[やぶちゃん注:「漸」に踊り字「く」の判読の誤りの可能性もある。なれば「やうやう」であろう。その方が躓かない気がする。]に這ひ出で、行燈などは、みな、ゆりこぼし、山林に響き震ふ音、物すごく、予が幼き頃なりしが、外に戶板をならべて、家内、打ちこぞりて、夜を明しゝなり。翌朝に至るまで、ふるふこと、十五、六度に及べり。とりわけ、相州小田原邊、殊に甚しく、箱根山、及、城中、石垣、崩れ、民家、多く破損し、人馬のそこなふもの、多し。

「大山にては、三、四間、又は、七、八間もあるべき岩石、崩れ落ちて、人々膽を冷せり。」

と、いへり。八月四日に、江戶海邊に津浪の變あり。

[やぶちゃん注:「犬馬(けんば)の年」「犬や馬が無駄に年をとるように、なすこともなく、年齢を重ねる」の意で、自分の年齢を遜って言う語。

 以下は底本でも改行。]

 天明三卯年[やぶちゃん注:一七八三年。]、早春より四月頃に至るまで、當地はいふに及ばず、諸州諸所に、大小うちまぜて、火災、また、おほし。三、四月頃、京都及五畿内、時候の寒きこと、冬のごとく、時雨、降りて、晴・曇、久しく定らず。

 六月十七日、關東筋其外、諸州、洪水、北國、西國に、海上、大風にて、通船、破損、多し。大抵、米相場も引き上りて、上方より、かけて、一石に百二十目ぐらゐなりき。當地に至りては、六、七十兩迄にも至りしなり。

 七月朔日より、八、九日に至りて、北國・東國、及、京都・大坂・江戶・伏見。大津等、山谷、鳴動す。

 同四日より、上州・信州の地、夥しく震動して、雷鳴のごとく、砂石、降り下ること、雨の如し。六日夜に至りて殊に甚しく、七日は白晝、闇夜の如く、岩石を飛ばし、其近國諸國、熱灰を降らしぬ。此時、淺間山、及、草津山等、燃え出でゝ、烈火、散亂す。八日未の刻[やぶちゃん注:午後二時。]、熱沙熱泥を涌出し、利根川の水上に溢れ、其近國の諸村を漂沒し、民家を破損なし、人民、及、牛馬・鳥獸・魚鼈、死亡し、或は、水火の爲に死せしもの、四萬餘人といへり。

 七日夜より、九日に至りて、江戶表も、一天、くもりて、日の光を見ず。灰、降ること、雪の如し。

 廿四日、北國・西國の海上、大風あり。

 冬御切米百俵、「四十六兩」の張紙なりき。

 十月二日、北國・九州の洋中、大風。

 同じく十一日、大坂、雷鳴、甚しく[やぶちゃん注:底本は右に『(脱アラン)』と傍注する。]、同所大手御門、雷火にて、燒失す。

 此後冬中、大小の火災、度々なりき。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行。]

 天明四辰年、正月より、未申[やぶちゃん注:南西。]の方に、彗星、あらはる。

 米價、甚しく、春、御借米「百俵四拾八兩」の張紙、出(いで)、夏、御借米も四拾八兩なり。町相場なるものは、上米に至りては、六拾兩以上なり。公(おほやけ)より、米を出だして、貧民に賜ふ。

 世の人、「橫田火事」といへるも、十二月廿六日、鍛冶橋御門内、橫田筑後守より、出火にて、殊に大火なり。

[やぶちゃん注:年月日が合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明七(一七八七)年一月十日に八代洲河岸横田筑後守屋敷内長屋が出火元で(午前零時頃)六千六百十二平方メートルが焼損している。「古地図 with MapFan」で調べると、「鍛冶橋」は現在の東京駅の南端に当たる。]

 此年は奧州南部・仙臺・津輕・八戶領等、大に飢饉なりき。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 天明五巳年も、米價、百俵に五十兩前後なり。

 八月十二日、五畿内、及、東海道筋、洪水。

[やぶちゃん注:同前。]

 同六丙午年正月朔日、目蝕、皆既。大小の諸星、東方にあらはに、白晝、くらきこと、黃昏にも過ぎたり。此春中、火災、繁きこと、其數を、しらず。其中に、正月廿二日、湯島よりの出火、殊更、おびたゞし。

[やぶちゃん注:やはり年月日及び場所も合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明六(一七八七)年一月十九日に桜田伏見町(善右衛門町とも)が出火元で(午後十二時半から一時頃)一万千九百一平方メートルが焼損している。但し、出火元は現在の新橋附近である。]

 五月頃より、天氣、甚、不順にして、土用見舞に、綿入をかさね、老人のともがらは、

「猶、寒さに、たへず。」

と、いへり。されば、いやしき口ずさびにも、

 春は火事夏はすゞしく秋出水冬は飢饉とかねてしるべし

 七月十二日より、大雨、篠をつくがごとく、一向に止みなく、十四日には、當地、洪水にて、目白下、大※(トヒ)[やぶちゃん注:「扌」+「見」。上水道の樋であろう。]、崩れ、牛天神下・小石川邊、滿水、其深きこと、五、六尺に及べり。御茶水・昌平橋・淺草御門・柳橋邊、一面に大水にて、往來も、とゞまりぬ。又、上野・下野・秩父等の山、水、俄に發し、烏川・神川・戶田川・利根川等、大水、漲ること、數丈なり。同十七日曉に、「熊谷の土手、裂けて、栗橋・古河・關宿・越谷・杉戶・千住・大橋・小橋・小塚原・淺草邊、本所・隅田川・向嶋・秋葉・三圍・牛島邊は、偏(ひとへ)に海の如し。」

と、いへり。大橋、永代橋、流れ落ち、其外、小橋の類(たぐひ)は、しるすに、いとまあらず。兩國橋は數百人の人夫をもて、漸(やうやう)に防ぎ留めたり。淺草・並木・駒形・御藏前・八町・天王橋邊、船にて、往來す。同所、觀音堂、他所よりも、高し。諸人、此堂舍に登りて、水を避けしもの、多し、となん。又、此頃、東海道は、酒勾・馬入・六鄕等の川々、往來、なし。鶴見橋も已に流落し、神奈川新町・藤澤の宿々、滿水にて、往來、止め、十八、九日に至りて、諸方の水勢、漸く、滅ず。此時分、愛宕山切通の土手・山王山・三田春日山・麻布狸穴等の土手、又、崩れて、人、多く、死せり。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 此秋の洪水に溺死せしもの、萬をもて、算ふべし。濁水に乘じて、蛇・蝮の類ひ、幾千となく、漂ひ來りて、人身につくこと、甚しく、誠にあはれなること、いふばかりなし。

[やぶちゃん注:同前。]

 此年のはやり唄に、

〽天竺のあまの川に白小桶が流れた

と、うたひしが、天に、口、なし。人をもて、いはしむるならひに、果して、其しるし、むなしからずして、洪水の變ありき。いにしへ、孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語(けご)」等にも見ゆ。浮きたることには、あらじ。

[やぶちゃん注:庵点は私が附した。

『孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語」等にも見ゆ』「孔子家語」(「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。全十巻。但し、一部に非常に古い引用も求められるが、全体は宋代に作られた偽書とされる)。「孔子家語」を見ると、前半が見当たらないので、「説苑」(せいえん)の「辨物」にあるものを以下に示す。

   *

 楚昭王渡江、有物大如斗、直觸王舟、止於舟中、昭王大怪之、使聘問孔子。孔子曰、「此名萍實。剖而食之。惟霸者能獲之、此吉祥也。」。其後齊有飛鳥一足來下、止於殿前、舒翅而跳、齊侯大怪之、又使聘問孔子。孔子曰、「此名商羊、急告民趣治溝渠、天將大雨。」。於是如之、天果大雨、諸國皆水、齊獨以安。孔子歸、弟子請問、孔子曰、「異時小兒謠曰、『楚王渡江得萍實、大如拳、赤如日、剖而食之、美如蜜。』。此楚之應也。兒又有兩兩相牽、屈一足而跳、曰、『天將大雨、商羊起舞。』。今齊獲之、亦其應也。夫謠之後、未嘗不有應隨者也、故聖人非獨守道而已也、睹物記也、卽得其應矣。」。

   *

自力で訓読してみる。

   *

 楚の昭王、江を渡るに、物、有り、大なること、斗のごとし。直(ぢき)に王の舟に觸(さは)り、舟に中(あた)りて、止むる。王、大いに之れを怪しみ、使ひして、聘(へい)し、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、萍實(へうじつ)と名づく。剖(さ)きて之れを食(しよく)すべし。惟(これ)、覇者のみ、能く獲るなり。此れ、吉祥なり。」

と。

 其の後(のち)、齊(せい)に、飛鳥の一足なる有りて、來り下り、殿前に止(と)まる。舒(おもむ)ろに翅(はばた)きて、跳(おど)る。齊侯、大いに、之れを怪しみ、又、使ひして聘して、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、商羊(しやうやう)と名づく。急ぎ、民に告げて、溝渠を治(ち)するを趣(うなが)せ。天、將に大雨(おほあめふ)らんとす。」

と。

 是に於いて、之(か)くのごとく、天、果して、大雨りて、諸國、皆、水(みづ)す。齊、獨り、以つて安んず。

 孔子、歸るに、弟子、問ひを請ふに、孔子曰はく、

「異(べつ)なる時、小兒(せうに)の謠に曰はく、

『楚王、江を渡るとき、萍實を得ん。大なること、拳のごとく、赤きこと、日のごとし。剖きて之れを食(くら)へば、美(うま)きこと、蜜のごとくならん』

と。此れは是れ、楚の應(わう)なり。兒(じ)、又、有りて、兩兩(ふたり)して相ひ牽き、屈して、一足にて、跳びて、曰はく、

『天、將に大雨らんとす。商羊、起きて舞ふ。』

と。今、齊、之れを獲(と)る。亦、其の應なり。夫れ、謠(うた)の後に、未だ嘗つて、應に隨はざる有る者や。故に、聖人は、獨り、道を守るのみに非ざるなり。物の記(すりし)せるを睹(み)るや、卽ち、其の應を得るなり。」

と。

   *

 以下、同前。]

 米價、打ちつゞきて、貴(たか)く、冬、御切米「百俵四拾三兩」の張紙、出でしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 九月に、浚明院殿(しゆんめいゐんどの)、かくれさせ給ふ。ならびなき大凶の年といふべし。

[やぶちゃん注:「浚明院殿」徳川家治の諡号。彼が実際に没したのは天明六(一七八六)年八月二十五日である(享年五十。死因は脚気衝心と推定されている)。但し、発葬されたのは九月八日であった。当時、将軍の薨去は一ヶ月余り後に報知されたのが普通であったから、極めて異例に早い報知となっている。ウィキの「徳川家治」によれば、死後数日のうちに、『反田沼派の策謀により』、かの専横した側用人『田沼意次が失脚』し、『また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた』りした、内輪の騒動を体よく鎮めることが理由だったのようである。意次は家治死去の二日後の八月二十七日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格し、後の閏十月五日には、家治時代の加増分の二万石も没収となり、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命ぜられている。

 以下同前。]

 天明七未年、打ちつゞきたる米直段(こめねだん)、當春に至りては、ますます貴く、春、御借米「百俵五十兩」の張紙、出(いで)、上米(じやうまい)の相場は七十兩以上なりき。

 夏、御借米五拾二兩にてありしが、五月に入りて、米價、いよいよ貴く、百三、四拾兩となり、今日を送る市人等、已に飢に臨めるも、ことわりぞかし。五月十九日より、江戶中、米穀の商ひなす者の見世に、「打ちこはし」・亂妨なすこと、甚しく、百人、二百人、その黨を結び、時々、「とき」の聲をあげて、晝夜のわかちなく、さわぎあるく體(てい)、さながら、戰世(いくさのよ)の如しと、おもはる。夫より、端々に至るまで、皆、人氣(じんき)、かくの如し。後には、米商賣にかゝはらず、目ぼしぎ町家に打ち入りて、手にあたるものを持ち出だして、其町内にても、防ぐべき手段なく、或は、酒を、樽ながら、吞口(のみくち)をそへ、或は、かゞみを、ぬいて、柄𣏐(ひしやく)をそへて、もてなしとせり【米屋ならぬ家をも、物とりの爲に亂妨せしには、あらず。その見世の米屋に似たるあき人、或は、酒屋・餠屋・「そば切」や、すべて、食物をあきなふものゝ見世は、打ちこはされしも有りしなり。その、「そば杖を打たれじ」とて、銘々に見世先へ、「さたう水」など、出だしおきて、あふれもの等(ら)に、のませにき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此時、名は忘れたりしが、何がしといへる大名、家中へ渡すべき扶持米とて、其本家へ無心して、弐拾俵計(ばかり)、車にて、警固も、大勢、附き添へ、來りしに、鮫ケ橋にて、「打ちこはし」の一むれ、百人計も、追(おひ)、取卷(とりまき)きて、

「車の米、申し請けたし。もし、異議ある上は、力づくにて請取るべし。」

とて、きそひ、かゝれる大勢のやうすに、なすベきやうなくて、宰領の足輕、三、四人も、命からがら逃げ出だし、屋敷へ歸りて、「しかじか」のよし、役人中へ、申しゝ故に、屋敷よりも、侍分の者、とりまぜ、追取刀(おつとりがたな)にて、馳せ至りしが、車ともに、いづくへ持ち行きしか、其行方、しるべきやうなければ、各(おのおの)、齒がみをなしつゝ、手をむなしく、歸れり。

 因りて、おもふに、人心、一たび、うごきては、何樣の事をしいだすべきも、しれず。されば、前漢の賈誼(かぎ)が言に、「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」とあるは、ならびなき名言なり。

[やぶちゃん注:「賈誼」(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の文帝の御代の文学者。洛陽出身。二十余歳で博士から太中大夫に進んだが、讒言のために長沙王太傅(たいふ)に移され、長沙に赴いた。後、再び文帝に召されて、梁王の太傅となったが、梁王が落馬して死んだのを痛く嘆き、一年あまり後に没した。その著に「新書」(十巻)があり、「過秦論」・「治安策」などでは、儒家の立場に立って、時勢を論じている。韻文では前漢初期の代表的辞賦作家であり、志を得ずに投身した屈原を悼みつつ、自らの運命に擬えた「弔屈原賦」などが知られる。以下は「新書」中の一節。

「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」「安民は、與(とも)に行くこと、可(むべ)なり。而れども、危民は、『與に非(あら)ず』と爲(な)すが、易(やす)し。」か。

 以下同前。]

 此時、町奉行曲淵甲斐守・山村信濃守なりしが、

「町家のやうす、見𢌞らん。」

とて、大勢にて出でしかど、西河岸(にしがし)邊に三百・五百の組を立てたる「あふれ者」、大瓦など、積みまうけ、

「無事なる時は、奉行を恐るべし、此節に至りては、何の憚るべきこと、あらん。近付けば、打ち殺すべし。」

と、口々に、のゝしりし故に、兩奉府も、

「すごすご」

と、引きとりき、とぞ。

[やぶちゃん注:以下同前。]

日々、かくのごとき故に、御先手十組の面々、阿部平吉・柴田三右衞門・河野勝左衞門・安藤又兵衞・小野次郞右衞門・松平庄右衞門・長谷川平藏・武藤庄兵衞・鈴木彈正少弼・奥村忠太郞、各(おのおの)、與力・同心を召し具して、江戶中、端々まで𢌞りしが、何の仕出したる事も、なかりき。

[やぶちゃん注:悪いが、ぞろりと並んだ人名の注は附さない。お調べになりたければ、御自分でどうぞ。いい加減、本篇には疲れてきた。早く仕舞いにしたいのである。

 以下同前。]

 其頃の取沙汰に、

「御先手の面々、物馴れたる同心に、道をはらはせ、『打ちこはし』の一むれ、ある所をば、通行せずして、脇道をのみ𢌞りき。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 予がしれる御番衆、五月十七、八日の頃か、御借米を受取りしに、其日の相場、弐百五兩なりき。われら、其頃は、小普請(こぶしん)にて、六月の中旬頃に玉落ありしが、

「はや、大(おほき)に直段も引き下れり。」

と、いひしが、九拾八兩弐分にてありき。

[やぶちゃん注:「小普請」小普請組(こぶしんぐみ)。無役の旗本・御家人の内、原則、三千石以下の者が編入された組織(三千石以上の者は寄合席(よりあいぜき)に編成された)。無役の旗本・御家人が営中などの小規模な普請(小普請)に人足を供する義務を負っていたことから生じた名称。十七世紀後半以降は、この人足役は金納となった(小普請金)。当初は留守居に、享保四(一七一九)年以降は、老中の支配下に属し、組に分けて統率された。幕府末期の慶応一・二(一八六五・一八六六)年には陸海軍両奉行の支配であった(なお、小普請奉行は小普請方(かた)の長官で、幕府の土木・建築工事を担当する「下三奉行(したさんぶぎょう)」の一つに数えられ,本丸・西ノ丸のそれぞれの大奥・紅葉山(もみじやま)諸堂舎・増上寺・浜御殿などの営繕を担当し、若年寄配下であった。以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

 以下同前。]

 此時分、町家にては、白粥・「あづきがゆ」・「麥挽(むぎひき)わり」を以て、最上とし、「豆めし」・「そら豆めし」・「芋めし」を上食とし、「ひばめし」・「きらず飯」、或は、「うどんの粉のつといれ」等を、その次となす。甚しきに至りては、得[やぶちゃん注:不可能の副助詞「え」の当て漢字。]しらぬ野菜を、おほく、鍋に入れ、鹽にて、少し、味をつけ、其中へ「ひえ」の粉(こ/こな)樣(やう)の物を、ふりちらして、食とす。又。「わら」を「すさ」の如くに切りて、「ほうろく」へかけて、よきほどに、こがし、それを、挽舂(ひきうす)にて、よく、ひき、「だんご」となして、くらへり。

[やぶちゃん注:「ひばめし」「干葉飯」。ダイコンの葉を炊き込んだ飯。陰干しにしたダイコンの葉(干葉)を、よく揉んで、熱湯に浸し、適宜に刻み、米に混ぜ、塩を加えて炊きあげたものを指す。米節約のための粗末な飯。

「きらず飯」「雪花菜飯(きらずめし)」。「おから」を多く混ぜて炊いた飯。同前。

「うどんの粉のつといれ」饂飩粉を練ったものを「苞」(つと:「包む」と同語源で、藁や葦などを束ねて、その中に食品を包んだもの。藁苞(わらづと)に包んだもの。米の飯よりも日持ちがしただろう。

「すさ」「苆」「寸莎」。壁土に混ぜて、罅割れを防ぐ繋(つな)ぎとする材料。荒壁には藁(わら)を、「上塗り」には麻又は紙を用いる。ここは前者。

 以下同前。]

 予があたりの土手原にある、可なりに食となるべき草は、みな、とりつくせしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 奧州筋にては、鳥獸を食し、或は、

「子をとらへて、飢をしのげり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:人間の子どもを攫って食べたのである。]

 此「打ちこはしの時」、公より、一町内の人別をあらため、其人數(にんず)程、竹鎗一本づゝもたせ、白き手拭を「しるし」と定め、

「もし、他(よそ)より、亂妨のもの來(きた)れば、拍子木を以て、うちならす時は、一同に集ふべし。」

と觸れられしが、程なく、騷動、止みたり、となり。是、全く、其町内より出でしものも、他の者に交りて、わが町内にも、夜分など、亂妨せしゆゑに、町内にかゝる觸(ふれ)出でし故に、皆、しづまりしは、當意卽妙の事とぞ【此(この)「町觸れ」によりて、「打こはし」の鎭まりしには、あらず。江戶中の米屋共を、不殘(のこらず)、打こはして、人氣、ゆるみし上に、「米穀、下直(げじき)にし、御救被下(おすくひくださる)。」といふ風聞によりて、漸々に鎭まりしなり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此節、「あふれ者共」も召し捕(とら)れて、入牢せしもの、おびたゞしく、

「假(かり)に牢をも、しつらひし。」

と、いへり【「多く入牢せしは、この『打こはし』の騷ぎに乘じて、物を盜みし巾着切(きんちやつきり)などいふ、盜人なりし。」と聞きぬ。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此「打ちこはし」の騷動、五月十九日より廿二日までにて鎭まりしが、廿四日頃より、廿六、七日の間は、米穀の賣買(ばいばい)[やぶちゃん注:底本は『貴買』であるが、意味が不明である。「たかがひ」と読めぬことはないが、「賣」の誤判読とした方が躓かない。]、更になし。【此「打こはし」は、五月下旬より六月初旬まで、凡(およそ)、一旬にて、全く鎭りし也。その中(うち)、甚しかりしは、四、五日の程なりき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米商賣の者、六月二日頃より、米、賣り出だすべき含(ふくみ)はありしが、一體、米、拂底なる故に、手段なくて、只、其町ぎりに、番屋々々にて、百文につきて、四合づゝに賣りしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 百俵五人扶持以下の御家人へは、御救米拜借被仰付之(これ、おほせつけられ)、六月に入り、町々へは、御すくひ米・御救金、壱人に付、三匁弐分、米・豆、合而(あはせて)五合づゝ被下之(これ、くださる)。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米穀、拂底に因りて、津々浦々迄、御救方の事、關東御郡代伊奈半左衞門に被仰付之、半左衞門、計(はから)ひにて、大麥、兩(りやう)に壱石(いつこく)、米は兩に四斗(と)の積りをもて、江戶町中へ御すくひ米あり。尤、

「右代物は五日めに差出候へば、又候(またぞろ)、其跡の米麥ともに賣りわたし。」

觸れられしなり。但、壱兩なり。四斗の相揚、百俵にては八拾七兩弐步の積りなり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大麥、兩(りやう)に壱石、米は兩に四斗の積り」大麦の場合は一両(重さの単位で四十一~四十二グラム)に対して一石(容積の単位で百八十・三六リットル)に、米の場合は同じ一両に対して一斗(七十六・一五六リットル)と換算するという意味であろう。但し、後半の部分は私は何を言っているのか、よく判らない。

 以下同前。]

 此米、直段(ねだん)の至りて、貴(たか)かりし時に、をかしき物語、有り。

 吉原にて何がしといへる雙(なら)びなき名妓ありしが、常には文雅風流なる客を愛し、文才なき野俗なる人物には、殊に愛相(あいさう)も薄かりき。

 此(この)飢僅に至りて、日頃と違(たが)ひ、入り來る客をば、雅・俗を、えらまず、もてなしも厚かりし故に、一家のもの共、大に不審し、其(その)操(みさを)のかはりしことを難ぜしに、名妓のいへるは、

「不審し給ふこと、道理に聞え侍る。必竟、此頃しも、日々に雜食のみにて、いかに快(こころよか)らず。客、來(きた)れば、米の飯を食しまゐらする故に、客を愛するにては、なし。只、口腹(こうふく)を愛するなり。」

と、いへるにて、此時分の、米の寶なるを、しるべし。

[やぶちゃん注:「口腹」には「幸福」を掛けているか。

 以下同前。]

 子が方へ出入する大工、作事(さくじ)を、外より、受け負ひし。

「焚出しの米をとゝのへん。」

とて、拾兩付の金を、ふところにし、米商人の方へ、終日、あるきしに、やうやく、五升、三升づゝ買ひ集めて、

「三斗には足らざりし。」

とて、常に物語せり。

[やぶちゃん注:「拾兩付」は「じふりやうづき」で、これは纏まった小判や同一貨幣などの十両ではなく、「なんだかんだと寄せ集めて十両分の銭金(ぜにかね)」という意であろう。

 以下同前。]

 此年はいづれの人とても、空腹になり易きこと、至りて、はやく、朝飯、すみぬれば、はや、晝飯を待ちかねしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米すくなき時節には、北斗にさゝふる程の黃金白銀ありとも、更に、益なし。米は壱ケ年も、二ケ年も餘りある程に、手當(てあて)ありたきものなり。前漢の鼂錯(てうそ)が論に、「球玉金銀饑不ㇾ可ㇾ食。寒不ㇾ可ㇾ衣」とは、古今不易の確言といふべし。

[やぶちゃん注:「北斗にさゝふる程」「北斗」は北斗七星のこと。中国では古代よりこの七星を天枢(てんすう)・璇(せん)・璣(き)・天権(てんけん)・玉衡(ぎょくこう)・開陽・揺光と呼び、畏敬した。これは、斗の柄の指す方角によって時刻が知れ、また、季節を定める重要な星であったからである。また、道教の星辰信仰の中では、順に貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍星と呼ばれ、北極星信仰や司命神信仰と習合し、人間の寿夭禍福(じゅようかふく)を司る神とされた。特に人間の命運は、生年の干支で決まる北斗の中の本命星の支配下にあり、北斗神が降臨して、行為の善悪を司察し、「寿命台帳」に記入する「庚申」・「甲子」の日に醮祭(しようさい:星祭り)をすることで、長寿を得、災厄を免かれると考えられたのである(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 以下同前。]

天明八申とし、正月晦日、禁中、及、堂上衆、武家寺社、市中等、火災の大變あり。

[やぶちゃん注:天明八戊申年一月三十日(グレゴリオ暦一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の京都大火」。皇居が炎上し、京都の大半が焼失した。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所』が『軒並み』、『焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都は』、『この前後にも』「宝永の大火」と、元治の「どんどん焼け」で『市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』とある《【やぶちゃん補注】★必要がない場合は、太字部を飛ばして下さい。★「宝永の大火」は宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に発生し、四百十七ヶ町、一万三百五十一軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などが焼けたもので、「どんどん焼け」は幕末の「禁門の変」に伴って元治元年七月十九日(一八六四年八月二十日)に発生した火災の通称。この呼称は、手の施しようもなく、みるみる内に「どんどん」焼け広がったさまに基づく。焼失町数は八百十一町(当時の京の全町数は千四百五十九町)、焼失戸数は二万七千五百十七軒(同前で全戸数四万九千四百十四軒)、人的被害は負傷者七百四十四名、死者三百四十名。但し、二条城や幕府関係の施設に被害は見られなかった。当該ウィキによれば、『従来は』『乃美織江ら』、『長州兵が撤退時に』、『河原町の長州藩邸に放火したことが原因とされていたが、西隣の寺町にある本能寺は長州藩邸制圧を狙った薩摩兵の砲撃により』、『真っ先に焼け落ちており、北側の角倉邸、南側の加賀藩邸や対馬藩邸、東側の鴨川対岸が無事に火災を免れた』『ことから「長州藩邸はすぐに鎮火されたが』、『敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家が福井藩、一橋慶喜勢、会津藩・薩摩藩兵、新選組らの砲撃により』、『炎上し』、『その火が延焼した」可能性も浮上している』とあり、また、後に、『大火は、会津藩が長州残党を狩り出すため』、『不必要におこなった放火が原因だ、との感情が強』くあり、『町民からは評判の悪い会津と新選組が原因扱いされていたと』もあったとある。》。

話を「天明の京都大火」に戻す。

一月三十日(三月七日)『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子』(どんぐりのづし:現在の京都市東山区宮川筋付近)『の町家から出火』したが、これは『空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて』、『瞬く間に』、『南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って』、『洛中に延焼した。その日の夕方には』、『二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日の『早朝のことだった』。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町のうち』、『焼失した町は』千四百二十四町、『焼失家屋は』三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名だったとあるが、実際には死者数に『関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の』死亡者は千八百名は『あったとする説もある。光格天皇は』、『御所が再建されるまでの』三『年間、聖護院を行宮』(あんぐう:仮御所)『とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)に』、『それぞれ』、『移った。後桜町院の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中で幕閣の中心人物であった松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に』、公家で有職故実家の『裏松固禅』(うらまつみつよ)が幸いにも「大内裏図考證」を完成させており、『その研究に基づいて』、『焼失した内裏の再建』が『古式に則った形』『で行われることとなった。再建の費用は幕府から出資された。これは』、『幕府の慢性的な財政難と』、この「天明の大飢饉」に『おける民衆の苦しみを理由に』、「かつてのような古式に則った壮麗な御所は、建てることはできない。」と言った『松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は』、『京都所司代や京都町奉行に対し』、「朝廷の新規の要求には応じてはならない。」と『指示している』。『これにより』、『「幕府」に対する「朝廷」の動向が世間の注目を集めるようになり、さらに「尊号一件」などの』、『幕府と朝廷間の紛争の遠因となった』とある。

 以下同前。]

 神祖、海内(かいだい)を統御ましましてより、二百年の今日まで、四民、其所を得ざるものなく、三代の治といふとも、恐らく、此うへに、過ぐまじ。

[やぶちゃん注:「神祖」徳川家康。

「三代の治」古代中国の夏・殷(商)・周三王朝の時代を指す。それぞれの黄金時代を築いた創業の聖王である、夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王・周公のときには、最も理想的な統治が行われていたとされ、孔子は、この三代の歴史の中に、人類が生み出した最も優秀な中国文化の展開を見、自分こそ、その本質を知るものと自認していた。そして将来の理想的な国家社会のイメージを,三代文化の総合として構想したのであった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「二百年の今日」江戸開府から二百年後は享和三(一八〇八)年。よく判らない筆者の執筆時制の確認が出来る記載である。]

「昇平の世に、ひとり、恐怖すべきもの、火災に、ますこと、なし。平賀源内の工夫せし『天龍水』といふもの、制作なしたらば、雙(ならび)なき防(ふせぎ)なるべきに、其含(そのふくみ)の内に、なき人の數に入りし。惜むべきこと。」

とて、司馬江漢なる蘭學者、語りき。いかなる防ぎの器(き)なりしにか【「消夏自適」「天明の凶年編」全。】。

[やぶちゃん注:「平賀源内」は享保一三(一七二八)年生まれで、安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)に獄死したことになっている(酒に酔って誤解から人を殺傷した咎による入牢し、破傷風により亡くなったとされているが、別説に、田沼意次或いは故郷であった高松藩(旧主である高松松平家)によって密かに救出され、その庇護下で天寿を全うしたとも伝えられ、私は後者を、結構、信じている。

「天龍水」不詳。ただ、この名は「竜吐水」(りゅうどすい)と酷似する。竜吐水は江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具で、その名称は、竜が水を吐くように見えたことに由来するとされる。参照した当該ウィキによれば、『これを改良したものを雲竜水(うんりゅうすい)と呼ぶ』(こちらの方がより酷似するネーミングである)。十八『世紀中頃の明和元年』(一七六四年)『に江戸幕府より町々に給付されたポンプ式放水具であり、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったとされる(モースの絵日記にその様子が描かれている)。自身番屋に常備された』。『木製であり、外観形式としては箱型であり、駕籠にも似た江戸時代の消火器である』とある。源内の考えたものは、これを遙かに大規模にした装置であったものか? なお、私はそこに出る生物学者で「お雇い外国人」として進化論を日本人に初めて紹介したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の石川欣一訳のズバリその「日本その日その日」をずっと昔にブログで全電子化注を終えている。「第四章 再び東京へ 15 隅田川川開きのその夜起った火事の火事場実見録」及び「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 11」で絵入りで紹介している。但し、前者では、ウィキでも述べられている通り、酷評で、上の前者の私の電子化から引用すると、『長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くっ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水(ほうすい)が連鎖してシュッシュッと出る。喞筒(ポンプ)は円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂(すきま)から空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた。』とある。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 この記を筆(ひつ)せし鱗齋ぬしは、その職分、官府の御舊記を窺ひ見る事の自由なる故に、當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり。但、市中の事、風聞の說に至りては、いかにぞや、おもふよしなきにあらぬを、そのくだりに、聊(いささか)、「かしら書」を加へたり。前編と彼是(かれこれ)、比較せば、後生(こうせい)の爲に稗益(ひえき)あるべし。

文政九年丙戌春二月十七日、雨窓に、謄寫、了(をはんぬ)。

[やぶちゃん注:「當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり」馬琴さんよ! 私が注で何度も言っている通り、誤り、多いぜ! この本は!

「裨益」「埤益」とも書く。「助けとなって役立つこと」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その7)

 

 解云、「當時を考ふべきもの、管見[やぶちゃん注:底本は『管窺』。「馬琴雑記」で訂した。]、纔に、これらにすぎず。天明の季より寬政中に至りても、米穀の價、いまだ、廉ならず。これにより、關東地𢌞りの酒造を禁《トヾ》めさせて、且、池田・伊丹も、釀酒(じやうしゆ)の斛高(こくだか)を減じられたり。

[やぶちゃん注:「池田」大阪府北部にある池田市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くから大坂の名酒の産地としてしられた。サイト「たのしい酒jp.」の「大阪の日本酒【緑一(みどりいち)】“池田酒”の歴史と伝統を受け継ぐ酒」によれば、『池田の地で酒造りが始まったのは、室町時代末期から安土桃山時代ごろのこと。当時、北摂(ほくせつ)地域の中心地としてにぎわっていた池田は、猪名川(いながわ)の伏流水と、山間部でとれる良質な米に恵まれ、酒造りに適した環境がありました』。『また、“池田の酒造りの祖”と言われる満願寺屋九郎右衛門が、かの徳川家康に酒を献上して「酒造御朱印」(酒造免許)を授かったことも、酒造業が発展するきっかけになったと伝えられています』。『この地で造られる「池田酒」は、「江戸下り酒」』(上方から江戸に送られた酒をかく呼称した)『として人気を博します。銘醸地としての地位を確立した江戸時代中期には、池田には』三十八『軒もの酒蔵が並んでいたのだとか』。『「緑一」の蔵元である吉田酒造は』、元禄一〇(一六九七)年に『加茂屋平兵衛によって創業されました。代表銘柄である「緑一」は、澄んだ色をした上等の酒を表す「緑酒」という言葉と、「池田が清酒発祥の地」という誇りを込めた「一」を合わせて、命名されたと言います』。『かつては酒処として栄えた池田市ですが、現在も酒造りを続けている酒造会社は、吉田酒造を含めてわずか』二『社のみ』で、三百『年の歴史を持つ吉田酒造は、この地の酒造りの歴史を今に伝える、貴重な存在だと言えるでしょう』とある。今一つは呉春酒造であろう。]

 是より先に寬政二庚戌年[やぶちゃん注:一七九〇年。]、江戶町中の法則を定め下され、數ケ條(すかぜう)の「くだしぶみ」を彫刻して一册となし、入銀百廿四文と定めて、町役人及(および)家持の町人等に頒(わか)ち取らせ給ひき。この時に當りて、江戶柳原の東北、「あたらし橋」の向(むかふ)に、「義倉(ぎそう)」を建てられて、これを「籾藏町會所(もみぐらまちくわいしよ)」と唱ふ。すなはち、江戶中(えどぢゆう)町入用の中(うち)、無益の雜費を省かしめ給ふこと、凡、八分、その中、七分を、每月、籾藏町會所に納めしめて、窮民を牧はせられ、且、荒年に備へしめ給ひぬ。無量廣大の御仁政、これを仰げば、いよいよ、高し。孔聖、仁を先(さき)にして、食を後(のち)にするもの、寔(まこと)にゆゑあるかな。星(ほし)、移り、物、換(かは)りて、御規定の町法も頗(すこぶる)變替(へんたい)したりといへども、義倉は、猶、巍然(ぎぜん)[やぶちゃん注:高く抜きん出るさま。]として、向(むかひ)柳原の外、又、ニケ所、その礎(いしずゑ)と共に、朽つるとき、なし。假令(たとひ)、今より後、凶荒、年を累(かさ)ぬとも、天明丁未の夏のごとき、四民、困窮して屋《イヘ》を壞(やぶ)り、物を損ふに至るべからず。且、丁未の忩劇(そうげき)[やぶちゃん注:世の混乱や騒ぎ。]も、餓民等(がみんら)、唯、米商人の奸詐(かんそ)[やぶちゃん注:悪巧み。]・貪婪(たんらん)[やぶちゃん注:欲深いこと。読みは「馬琴雑記」によったが、「どんらん」「とんらん」でもよい。]を憎み、恨みしのみ。露ばかりも、野心のもの、なし。便(すなはち)、是、神州忠直の人氣の、おのづからなるものにして、異朝の及ぶ所に、あらず。しかしながら、亦、かけまくも、かしこき上への御至德・御威光によるものなれば、萬民、各々、業を奬(はげ)みて[やぶちゃん注:底本は『奨めて』。「馬琴雑記」で訂した。]、驕(おごり)を袪(しりぞ)け、泰平のうへにも、なほ、泰平を樂(ねが)ふベきこと、勿論なるべし。よりて錄して。みづから警め人を箴(いまし)むること、件の如し。」。

[やぶちゃん注:「あたらし橋」現在の美倉橋の古称(江戸時代を通じて庶民は「新シ橋」と呼び、切絵図でもそうなっている。ここの上流の昌平橋も、この呼称で呼ばれたことがあるので注意が必要)。例の「古地図 with MapFan」で見て戴くと、北詰の東北位置に「御籾蔵」とあるのが確認出来る。

「義倉」中国・朝鮮・日本に於いて、旱魃・凶作の際に窮民を救うために設けた非常米貯蓄制度。中国では隋の五八四年に設けられ,唐は六二八年以来、一畝ごとに粟(ぞく:米と粟(あわ))二升を徴収した。非常時には無償で放出したが、それ以外の時に流用されるようになり、唐代の後半から宋代には常平倉(じょうへいそう:物価を調節するために設けられた官営の倉庫。取り扱うのは主に穀物で,安値の時に買い、高値の時に売る。商人はこれによって利益を得、政府は物価の調節を図った)と合して、「常義倉」と呼ばれた。日本の律令国家も、これにならったが、効果はあまりなかった。江戸時代に復活し、幕府や藩によって造られ、「社倉(しゃそう)」とも呼んだ。「常平倉」とともに農民収奪の安全弁の役割を果たした(以上は平凡社「百科事典マイペディア」他に拠った)。]

 再、いふ、「予、『丙午丁未和漢災變當否』の辯あり。あまりに辯の長くなれば、そは、又、別にしるすべし。」。

 この餘、文化以來、連歲(れんさい)[やぶちゃん注:底本は「連」なし。「馬琴雑記」で加えた。]、豐作、うちつゞきて、米穀の價、或るは、金壱兩に、石、二、三斗、或は、石、五、六斗、又、所によりて二石餘なるもありし事、是により、諸家に命ぜられて、米粟を、多く、かこはしめ給ひ、又、江戶町中(まちなか)にも、その分際に應じて戶每(とごと)に米を買ひ入れさして、かこはしめ、いく程もなく、その事、やみて、その米を御あげになりし事、文政に至りても、江戶中の商人等に、

「物の價を、一わり、引きさげて、賣れ。」

と、ふれられし事、當時、士・農、豐年を憂ひとせし事、今玆(ことし)に至りて、奧州半熟(はんじゆく)の聞えあり。美濃は洪水によりて、人、多く、溺死せし事、甲州に蝗(うんか)の風聞のある事まで、悉くしるし盡(つく)さば、その間《アハヒ》には、亦、論辯のなきにあらねど、かゝる事には憚(はばかり)の關(せき)をいかゞはせん。予は壯年より筆とる每に、謹愼を旨として、禁忌に觸るゝことは、記載せず。見ん人、これをおもひねかし。

 附けていふ、この兎園の集莚(しふえん)は、必(かならず)、月の朔日にすなるを、來ぬる霜月には、文寶堂のあるじすべきを、

「さはること、あり。」

としも聞えしに、

「けふなん、關東陽の誕節なれば。」

とて、その祝席を相兼ねて、社友を海棠庵につどへられしなり。よりて、いさゝか、ことほぎのこゝろをよみて、おくり物に、かふ。予が「たはれ歌」、

 よきたねのみばえし日とて筆柿のわざに熟せし君をことぶく

黃鳥、いまだ谷をいでず、といへども、時今、小春にして喬木に遷るのおもひあり。交遊兼愛の情、こゝに言なきこと、あたはず。莫逆風流の佳席、燭を續(つ)ぎて、長夜の闌(たけなは)なるを、おぼえず。そもそも、亦、愉快ならずや。

文政八年乙酉十一月の兎園小說第十一集中の一編

同年の冬十月廿三日     玄同陳人解識

[やぶちゃん注:「關東陽の誕節」【2021年10月30日改稿】旧稿では江戸開府のことかとトンデモ大間違いしてしまった。いつもお世話になるT氏の御指摘で、何のことはない、この会の発会場所である、海棠庵邸の若主人で常陸土浦藩藩士にして書家でもあった関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年十月二十三日~文政一三(一八三〇)年九月二十七日)の誕生日であった。彼は父関克明(こくめい)に学び、藩の右筆手伝などを務め、書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集をも助けた。死因は不詳だが、この会の六年後に三十五の若さで亡くなっている。「東陽」は彼の別号である(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。T氏に御礼申し上げる。

 さて。これで終わったと思うでしょ? ところがどっこい! アラまっちゃんデベソの宙返り! まだ附録が底本にして約七ページも続くんでえ!

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 (無題)(快活な女學生の群れは)

 

  

 

快活な女學生の群は

うら悲しき半白の老人をとりかこみて校庭の隅に立てり

かくもうららかなる春の日ざしにそもこの人々は何事を語れるや

「心の淸きものは幸なり」

 

この快活な娘たちと

窮屈な老人とは何を話すのか

今日もまた

うららかなる運動場の隅で

ちよいと芝草の芽をつむやうないたづらから

この娘たちは成人します

 

さて娘たちも娘たち

日ざしに涙ぐむまで居れよ

だれにでもしんせつにせよ

誘惑を怖れよ

ああ あなたがたの白い手をあげられ

淸きことばと潔き仕事にまごころをもてつくされよ

學問を勉强せよ

ちちははに從順なれ。

 

[やぶちゃん注:底本では推定で大正三(一九一四)年の作とし、『遺稿』とある。しかし、筑摩版全集では、「未發表詩篇」に翌年大正四年を示す「――一九二五、四――」のクレジットを打つ詩篇の後に(因みに当時萩原朔太郎は満で二十八・二十九歳であり、「老人」ではない)、以下のように出る。漢字の表記はママ。

 

 

 

快活なる女學生と群は

うら悲しき半白の老人とは運働場の隅に きたれり 立てり、をとりかこみて立てり、校庭の隅に立てり、

かくもうらゝかなる春の日ざしにそもこの人々は何事を語れるや

「心の淸きものは幸なり」

 

この快活な娘たちと

窮屈な老人とが話を した しました して居 ます、 るのです、 は何を話すのか

今日もまたうらゝかなる運働場の隅につどひてきて

あるうらゝか→高等→ある地方の女學校のせまい運働場の隅で

私たちは それはちよいと芝草の芽をつむやうによな心ばえいたづらから

この娘たちは成人します

さばれ老人の校長よ

油斷をしなるな

またさて娘たちも娘たち

日ざしに淚ぐむまで居れよ

だれにでもしんせつにせよ

誘惑を怖れよ

ああ、あなたがたの白 い手をあげられ

淸きことばと潔(いさぎよ)き仕事にまごころもてつくせよされよ

しんじつあるものはつねに克たん

學問を勉强せよ

いつしんちゝはゝに從順なれ

 

さて、これは全くの推理に過ぎないが、この大正三~四年時には、朔太郎はマンドリンに熱中していた時期であった。確認出来たわけではないが、或いはその演奏会を女学校で催すこともあったのではなかったか。本底本のそれは、以上の草稿を杜撰も整序し損なったもののように思われる。正直、私には、萩原朔太郎の詩としては、特異点の、読みたくないレベルの辛気臭い詩篇である。]

2021/10/29

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 顏

 

 

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに

耳なき白き犬は殺されたり

慘酷にも殺されたり

殺されたる白き犬の幽靈

プラチナの映畫は繰返せり。

              ―東京遊行詩篇五―

 

 編註 「東京遊行詩篇」の二「狼」、三「かなしい遠景」は既刊詩集に收錄。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月の作とし、『遺稿』とある。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように出る。誤字「扁」はママ。

 

 顏

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに、

耳なき白き犬は殺されたり、

慘酷にも殺されたり、しが、

殺されたる白き犬の幽靈を、ば、

プラチナの映畫は繰返せり。

        ――東京遊行詩扁、五――

  (東京遊行詩扁一、二、三の三扁は地上巡禮十二月読に所載)

 

とある。最後の萩原朔太郎の覚書の内容については、底本のこの前にある「蝕金光路」の私の注を参照されたい。また、この草稿が「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に「顏」として載る。以下に示す。

 

 白晝の幻

 顏

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに

耳なき白き犬は殺されたり

慘酷にも殺されたりしが、

殺されたる白き犬の幽靈をば

プラチナの映畫は繰返せり、

 

底本は最後のものを整序したものと推定される。]

2021/10/28

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 蝕金光路 / 附・別稿その他(幻しの「東京遊行詩篇」について)

 

  蝕 金 光 路

       ―エレナに與ふ―

 

かくしもわが身のおとろへきたり

肉身を超えて涅槃に入るか

その空さへも靑らみ

しだいに北極圈の光さしぐむ

げにかかる日の街街(まちまち)の

都をいづれにわが行くとても

往來 氷雪の峯ながれ

花鳥を薰ずる天上の

よのつねならぬ夕げしき

夕げしき

ああ われ都に疾患し

いためるまでもきみ戀ひ戀ひて

ひとりしきたり紙製の菊を摘まむと

銀座四丁目 BAZAARの窓をすぎがてに

けふの哀しき酒亂を超え

すさまじき接吻をおくりなむ

冬ならなくに金のゆきふる。

                ―東京遊行詩篇四―

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月作とし、『遺稿』とある。「BAZAAR」(意味は観工場(かんこうば)で既注)は縦書。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

 

 蝕金光路

 

かくしもわが身のおとろへきたり、

肉身を超えて涅槃に入るか、

その空さへも靑らみ、

しだいに北極圈の光さしぐむ、

げにかかる日の街街(まちまち)の、

都をいづれにわが行くとても、

往來、氷雪の峯ながれ、

花鳥を薰ずる天上の、

よのつねならぬ夕げしき、

夕げしき、

ああ、われ都に疾患し、

いためるまでもきみ戀ひ戀ひて、

ひとりしきたり紙製の菊を摘まむと、

銀座四丁目、BAZAARの窓をすぎがてに、

けふの哀しき酒亂を超え、

すさまじき接吻をおくりなむ、

冬ならなくに金のゆきふる。

         ――東京遊行詩扁、四――

 

「扁」はママ。全集編者注があり、『「習作集第九卷」の無題詩(かくしも我が身のおとろへ來り)の別稿』とある。以下にそれを示す。

 

 ○

 

かくしも我が身のおとろへ來り

肉身を超えて涅槃に入るか

その空さへも靑らみ

しだいに北極圈の光さしぐむ

げにかゝる日の街々の

都をいづれに我が行くとても

往來氷雪の峯ながれ

花鳥を薰ずる天上の

よのつねならぬ夕げしき

夕げしき

ああわれ都に疾患し

いためるまでも君戀ひ戀ひて

ひとりし來たり紙製の菊をつまむと

銀座四丁目BAZAARの窓をすぎがてに

けふの哀しき酒亂を超え

すさまじき接吻をおくりなむ

冬ならなくに金の雪ふる、

 

とある。

 ところが、前の「未發表詩篇」の「蝕金光路」の直前に並んでいるためか、同全集編者が注記をしていないのであるが(たとえ最初は通して読んだとしても、検索する際には見落とす者もおり(私がそうである)、甚だ不親切と私は思う)、実はそこの「晩景 ――エレナに與ふ」という詩篇が載っており、これはこの「蝕金光路」の草稿であることは疑いないのである。以下に示す。脱字・読点の欠損などは総てママ。

 

 晩景

      ――エレナに與ふ――

 

靑らみしだいに、

北極圈の光を感ず、

東京市中いづこを行くも、

街頭 氷ながれ、 を氷山のながれをはざまに鳥嗚も

都をいづれ都をいづれわが行くも

往來往來、都に氷山のながれ峯光り

その またいただきに花鳥のけはひを薰ずる夕げしき

金の粉雪(こなゆき)さんさんたり、

さめざめとふる金の雪

[やぶちゃん注:以上の二行は並置残存。]

ああ、かくてしもわが身のおとろへ、

肉身をこえて涅槃に入るか、

まづ けふいと遠くよりわれの手をのべ、

ひとへに愛人の乳房をまさぐる、

しんじつひとへに君におよぶのゆふまぐれ、

このこの浅草に紙製の菊をつみ、

いまいま哀しき十月をこえ

[やぶちゃん注:「┃」は底本では繋がっている。二行が並置残存であることを示す編者の附したもの。以下も同じ。]

          紙製

┃ひとしきたり    の菊をつまむと

┃        早咲

┃銀座四丁目觀工場の窓をこえよりすぎて

[やぶちゃん注:以上の二行(中途の二字熟語の並置を含む)は並置残存。]

はげしきすさまじき接吻をおくらむ、

われらの指凍る。

         ――東京遊行詩扁、四――

  (東京遊行詩扁一、二、三の三扁は十二月地上巡禮十二月號にあり、)

 

最後の注記は萩原朔太郎自身の覚え書きであるのだが、どうもおかしい。調べて見ても、『地上巡禮』の発表詩篇に「東京遊行詩篇」の当該番号の詩篇は見当たらないからである。困って、いろいろ調べてみたところが、渡辺和靖氏の論文『萩原朔太郎「東京遊行詩篇」考』(『愛知教育大学研究報告 人文・社会科学編』二〇〇五年三月発行。「愛知教育大学学術情報リポジトリ AUE Repository」のこちらPDFでダウン・ロード出来る)で疑問が氷解した。渡辺氏に考証によれば、この朔太郎の覚書は誤りで、『地上巡禮』は『詩歌』の誤りであると断じておられ(コンマは読点に代えた)、『これは朔太郎が送稿後、まだ雑誌が刊行される前の段階で記憶が不確かなまま、「十二月」と書き、さらにう』ろ『覚えで、「地上巡礼十二月号」』(実際には両作ともに大正四年一月号初出である)『と書き改めたものと考えられる。いずれにしろ「遠景」が「東京遊行詩篇 一」であり、「狼」が「東京遊行詩篇 二」であることは疑いないだろう。そして「東京遊行詩篇 三」とは、おそらく、その付記は見られないが、「遠景」「狼」と同時に『詩歌』1915年1月号に掲載された、末尾に「――十一月作――」の日付のある「孝子実伝――室生犀星に――」であると推定される』とあって、目から鱗なのであった。

 なお、この詩篇の草稿が同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に載る。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

   *

 

 晩景

      ――エレナに送る――

 

靑らみしだいに、

北極圈の光を感ず薰ず

ここのいづこを行くも

街頭、氷ながれ

金のこなゆきさんさんたり

ああ、かくてわが身のおとろへ

肉身をこえて涅槃を感ずに入るか

遠くまづわが手をのべ

えれひとへに愛人の乳をまさぐる

いのりいつしんにしんぢつきみよきたれの祀願におよぶの夕まぐれ

この遠き東京に菊をつみ

いま哀しき十月をこゑて

はげしき切吻をおくらむ

われらの指こほる

 

   *

 なお、この「遠景」は詩集「月に吠える」に「かなしい遠景」と収録されているものであり(私のブログの『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景』参照)、「狼」は詩集「蝶を夢む」の冒頭に配されたもの、「孝子実伝――室生犀星に――」は本底本で『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 孝子實傳――室生犀星に―― / 附・原草稿』で電子化注済みである。「狼」のみ私は電子化していないが、渡辺氏の論文のなかで示されているので、そちらを見られたい。同論文は幻しの萩原朔太郎の「東京遊行詩篇」シリーズの創作過程と発展的消滅を語って余すところがない、必見の論文である。

 さらに調べると、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、同一の二行断片(全集では『蝕金光路 (本篇原稿二種三枚)』としつつ、ただ以下の二行を掲げる(再度言うが、ここで全集が「二種」というのは校訂本文で採用して決定稿と勝手に判断した上記の稿を含めての意である)。

   *

いためるまでも君戀ひ戀ひて、

ひとりし來たり紙製の菊を摘まむと、

   *

 まあ、さても、本篇もまた、永遠のファム・ファータル「エレナ」詩篇の一つである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その6)

 

 人すら、かくのごとくなれば、犬・猫は瘦せ衰へて、骨立(こつりつ)して[やぶちゃん注:骨ばって。]、道路に臥したり。五、六月のころにやありけん、松島町(まつしまちやう)なるむかひの武家の大溷(おほどぶ)に、瘦せたる犬のうちつどひて、草を啖(くら)ひゐたりしを、予の、まのあたりに見たること、あり。かゝる類(たぐひ)、多かるべし。

[やぶちゃん注:「松島町」現在の日本橋人形町二丁目(グーグル・マップ・データ)。例の「古地図 with MapFan」で見ると、三方が水野壱岐守鶴牧藩中屋敷・内藤紀伊守村上藩中屋敷・永井肥前守加納藩中屋敷・森川紀伊守生実(おゆみ)藩中屋敷等に囲まれて、町は五区画に分かれており、南東部分に、確かに大きな溝(どぶ)があることが判る。その南東部も総て武家屋敷のようである。さらに、いつもお世話になる「江戸町巡り」の「松島町」の解説には、『安政再板切絵図によると、南は永久橋東から北に入った入堀に面し』、三『方は常陸土浦藩土屋氏上屋敷、上総鶴牧藩水野氏中屋敷等に囲まれ、町は』五『区画に分かれている。江戸期は』、元禄一一(一六九八)年、『町奉行川口摂津守、松平伊豆守両組の組屋敷となり「中組」といったが、宝永年間』(一七〇四年~一七一〇年)に五『区間に分かれ、さらに享保年間』(一七一六年~一七三五年)に上地(あげち:幕府が没収すること)と『なり、伊賀者、吹上御庭の者が住んだ。化政期』(一八〇四年~一八三〇年)『には』、『住民に乞食等の細民が多くなり「宿あり、門巡り」と呼ばれた』(「守貞漫稿」『東北部は松島稲荷があるため、「稲荷前」と俗称した』。『他に「河岸通」、「七軒」、「中通」の俗称地があった』とある。]

 さる程に、五月晦日(みそか)のことにやありけん、この夜、戌の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、俠客(きやうかく)どもの、むら立ち起りて、麹町なる米商人の「いち(肆)[やぶちゃん注:漢字ルビ。店の意。]くら」を、理不盡に破却せり。

[やぶちゃん注:「五月晦日」天明七年丁未五月は小の月で五月二十九日で、一七八七年七月十四日相当。]

 これぞ、世に「うちこわし」といふものゝ、手はじめとぞ聞えたる。

 かくて、その次の日より、或は、四、五十人、或は、百數人、一隊となりて、江戶中なる米屋の店を破却すること、日として、間斷(かんだん)なかりけり。

 はじめは、夜中、もしくは、早朝のみなりしが、後には白晝にも、この騷劇(きさうげき)あり。

 その破却する物の響(ひびき)、罵(ののし)り叫ぶ人の聲、弗撥囂塵(ふつはつごうじん)として、十町の外(ほか)に聞えたり。

[やぶちゃん注:「弗撥囂塵」「囂」は「騒音が烈しい」の意で「騒音と塵埃・騒がしくて埃っぽいこと」。「弗撥」はよく判らないが、「撥」には「治める」の意があり、それに否定詞の「弗」で、「収める(鎮める)ことの出来ないほどの」の意か。

「十町」一キロ九十メートル。]

 予は、京橋南傳馬町なる米商人万作が店を、破却せられし迹(あと)へ、ゆくりなくも、とほりかゝりて、見てけるに、米穀は、みな、俵を斫《キリ》斷(たち)て、その店前(みせさき)に引きちらし、衣類・雜具(ざふぐ)は簞笥・長櫃を、うち破りて、路中(みちなか)へ投げ棄てたれば、ゆくもの、道をさりあへず。

[やぶちゃん注:「京橋南傳馬町」現在の中央区京橋一~三丁目。]

 その米を拾はんとて、貪民の妻・婆々・小女(こめろ)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」のルビ。]さへ、乞兒《カタヰ》と共に、うちまじりて、袂に摑みこみ、囊(ふくろ)にいるゝ有さまは、耻をしらざるものに似たり。さりとて、制するものも、なし。

 このごろ、小日向水道町にて、豐島屋といふ米商人の、其店を破却せられし有さまを、予が、めのをんなは、見たりしに、そのことの爲體《テイタラク》、これかれ、同じかりきと、いへり。

 この故に、「米あき人(んど)」ならざるも、店のさまの、相似たるは、破却せられしも、間々、ありけり。

 これにより、市(いち)のかみ[やぶちゃん注:町奉行。]より、寄騎(よりき)・同心を出だされて、制せさせ給ひしかども、勢(いきほひ)、當るべくも、あらず、只今、こゝにあるか、とすれば、忽焉(こつえん)として、鄰町(りんちやう)に、あり。

 「あふれもの」どもの、そが中に、年、十五、六の「大わらは」の、いつも、衆人(もろびと)に先きだちて、軒(のき)に手をかけ、矮樓(にかい)に飛び入り、奮擊すること、大かたならず。

「これは、人間わざならで、必(かならず)、天狗なるべし。」

とて、「牛若小僧」と唱へつゝ、人みな、戰(おのの)き怕(おそ)れしが、後に、その素生(すじやう)を聞きしに、

「『大工(だいく)わらは』といふものにて、渠(かれ)、十二、三のころよりして、身輕く、力、あり、つねに好みて、梁(はり)をわたるものなり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「矮樓(にかい)」「矮」には「低い」の意がある。江戸御府内では「慶安のお触れ」以降、民家や商家などの建物に対して、その身分に応じての厳しい規制があり、新築等の場合には、庄屋や町方肝煎を通じて、代官所等に届け出が必要であり、この際、審査され、通常は不必要とされる本格的な二階建ては許可されなかった。旅籠・料亭・妓楼などで、狭い土地で立地せざるを得ない必要性があった場合に限って、慣例として認められていたが、それでも、二階から表通りが見下ろせるような造りは禁じられており、通りに面した壁面にある窓は、虫籠窓(むしこまど:漆喰で塗り込められた縦にごく細いスリットがある窓)・違い格子・透き見格子などで作り、明かり取り或いは換気孔程度とされ、また、外観上からは、二階に見えないような造り(デザイン)になっていた。則ち、日常的な部屋としてではなく、「厨子二階」(つしにかい)「中二階」など呼び、部屋の天井が低いことが特徴で、主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。無論、江戸辺縁部の農家などで養蚕などの必要性があるものは、別であった。

「大工(だいく)わらは」彼の渾名。所謂、大工で、高所が平気な、所謂、「鳶職」でもあったものであろう。]

 はじめ、兩三日の程、甲州も、馬を出だして、

「制せん。」

と、せられしかど、彼等、いかにか角《スマ》ひけん[やぶちゃん注:如何に応じ、対抗したものか。]、搦め捕れしもの、ありとも聞えず。そのいく隊(むれ)なる「溢(あぶ)れ者」を、いづれの町の、誰(たれ)が店子(たなこ)ぞ、と、定かにしれるものも、あらず。

 この故に、

「『うちこわし』の奴原(やつばら)あらば、速(すみやか)に搦め捕(とらへ)るべし。若(もし)、[やぶちゃん注:底本は『捕るべくも、手に』と続くのだが、如何にもおかしい。「馬琴雑記」で訂した。]手にあまらば、擊ち殺し、斫(きり)殺すとも、けしうは、あらず[やぶちゃん注:まあ、よかろう。]。」

と、いと、嚴(おごそか)に、町ぶれ、有りけり。

 これにより、町々なる家主(いへぬし)に、おのおの、竹鎗を用意して、夜は、暮六つ[やぶちゃん注:不定時法だと、遅くなるので、定時法の午後六時で採っておく。]より、路次(ろじ)を閉ぢ、店番(たなばん)といふものを輪番せしめて、店中(たなちゆう)を巡らする物から[やぶちゃん注:この「ものから」は逆接の接続助詞。]、もし、その店の米屋が家に、件のものどもの、むらだち來て、破却することあるときは、店番は、あわて、まどひて、拍子木だも、嗚らし得ず、家主は、竹鎗を引き提げながら、路次の戶内(とうち)にふるひゐて、阿容(オメオメ)々々として[やぶちゃん注:底本は『阿容(オメオメ)たゝしく』であるが、意味がとり難い。「馬琴雑記」に代えた。]、こはさせけり。

 この事、只、江戶のみならず、京・大坂も、亦、かくのごとし。

「凡、米屋といふ米屋の、米をもてるも、持たざるも、破却にあひしは、闕遺(けつゐ)なし。」

と、六月の末に聞えけり。こは、「未曾有の奇事」と、いはまし。

[やぶちゃん注:「闕遺(けつゐ)なし」『総てが「打ちこわし」に遭い、遭わなかった米屋は一軒たりとも、なかった。』という噂である。]

 かくて、米屋には、なごりなく、破却せられて、そのことは、いつとなく、凡(およそ)、一旬(とをか)[やぶちゃん注:十日。]あまりにして、かき消すごとく、鎭まりぬ。

 さればとて、そのものどもの、召し捕れしとも、聞えず。

[やぶちゃん注:実は逮捕者が少なかったのは、前回の注の引用で判る通り、町奉行曲淵景漸自身が庶民に同情的であったことによる。]

 只、湯島なる米商人津輕屋三右衞門【今の棭齋が養父のときなるべし。[やぶちゃん注:「棭」は底本も「馬琴雑記」も『掖』であるが、後者ではっきりと「狩谷」の姓を記していることから、「棭斎」に訂した。]】がいち宇(う)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『いちくら』。]のみ。破却を免れて、かへつて、その一人を擊殺(うちころ)せし、といふ。こは、津輕侯より、足輕、許多(あまた)遣して、護(まもら)し給ひし故とも、聞え、或は、鳶の者等に、多く錢を取らして、日夜、防禦せし故、とも、いへり。

[やぶちゃん注:「棭斎」狩谷棭斎(かりやえきさい 安永四(一七七五)年~天保六(一八三五)年)は考証学者。江戸下谷池之端仲町の本屋青裳堂(せいしょうどう)高橋高敏の子で、初名は真末(まさやす)。二十五歳の時、湯島の津軽藩御用商人狩谷家を嗣ぎ、名を望之(もちゆき)と改め、津軽屋三右衛門を称した。棭斎は号(四十一歳での隠居後の通称とする)。晩年は浅草に住んだ。裕福で、商用の傍ら、学事に身を委ね、松崎慊堂を師として、日本古代の制度を研究、「律令」から「六典」・「唐律」・「太平御覧」・「通典(つてん)」などの諸書を考究して、遂には漢代にまで遡り、さらに進んで「六経」(りくけい)を修めた。古典の本文考証・注解や、金石文の収集に力を注ぎ、宋・元の古版本を始めとして、希書や古来の貨幣、その他、古器物の蒐集にも努めた。主な著作に優れた注で知られる「箋註倭名類聚抄」・「日本靈異記攷證」などがある。]

 昔、享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず。これにより江戶中の米の價、錢百文に白米一升四合を換へしかば、衆俠(しゆうけふ)、忽に、群(むらが)り立ちつどひて、伊勢町なる坂間といふ米商人の「いちぐら」を破却したるこそ、未曾有の珍事なれとて、故老の口碑に傳へたれども、そは、只、坂間一箇のみ。天明丁未の奮擊は、京・攝・江戶の三郡會、同月一時に起り立ちて、進退・符節を合せたるが如し。彼(かの)坂間のともがらをして、なほも世に在らしめば、將(はた)、これを見て、何とかいはんや。おもふに、享保・元文中[やぶちゃん注:一七一六年~一七四一年。]は、金壱兩を錢三貫八、九百文、或は四貫文に、かへたり。天明中の、八、九合に當るべし。それすら、貧民の憤りに堪へざりし事、右の如し。まいて、百文に白米三合を換ふに及びて、破却のなごりなかりしも、おのづからなる勢(いきほひ)なるべし。この頃【丁未の秋。】、御藏(おくら)をひらかせられて、江戶中へ米の價、下直(げぢき)にして下されけり。大約(おほよそ)、一人に玄米一升五合と定めて、隈(くま)なく頒下(わかちくだ)されたる。この御仁政に、人氣、感激し奉りて、市中(しちゆう)、靜肅(せいしゆく)する程に、新麥(しんむぎ)も、既に、いで來、古米も、諸國より運送・入津(にふつ)するにより、八・九月に至りては、百文に白米六、七合になりにけり。しかれども、「その日稼ぎ」といはるゝ寒民は、なほ、白米を求むるに、ちから、及ばで、或は、蟲ばみたる陳米(ふるよね)、或は、殼麥(からむぎ)を、一、二升づゝ購(あがな)ひ求めて、これを日每に、一升德利とかいふ酒器に入れ、舂(つき)精(しら)げて、炊(かしき)て、食ひけり。

[やぶちゃん注:「享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず」所謂、「享保の大飢饉」である。前年享保十六年の末より、天候が悪く、年が明けても、悪天候が続いた。享保一七(一七三二)年『夏、冷夏と害虫により』、『中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ』、『瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約』二『ヶ月間にも及び』、『冷夏をもたらした。このため』、『ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても』、『多大な被害が出た』とされる。『被害は西日本諸藩の』内、四十六『藩にも及んだ』。この四十六『藩の総石高は』二百三十六『万石であるが、この年の収穫は僅か』二十七%弱の六十三万石程度しかなかった。餓死者は実に一万二千人『(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した』(但し、「徳川実紀」では、桁違いの餓死者九十六万九千九百人と記す)。『また』、二百五十『万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われ』、享保一八(一七三三)年正月には、『飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって』、享保の「打ちこわし」が発生している。『最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって』、『大三島』(おおみしま:現在の愛媛県今治市に属する芸予諸島の一つ)『だけは』、同島出身の六部僧であった下見吉十郎(あさみきちじゅうろう 寛文一三(一六七三)年~宝暦五(一七五五)年)が齎した『サツマイモによって』、『餓死者を出すことはなく、それどころか』、『余った米を伊予松山藩に献上する余裕』さえあった。『この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は』、『米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって』、『東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した』のであった(以上は当該ウィキ及びそのリンク先に拠った)。]

 この年、八、九月に至りても、小まへの商人(あきうど)の妻子どもが、おのもおのも、店前(みせさき)にて、聊(いささ)か恥づる色もなく、彼(かの)德利にて、米を舂きてをりしを、折々、見たる事ぞかし。

 されば、次の年戊申[やぶちゃん注:天明八(一七八八)年。]の春の季よりして、「小人(こひと)の曲子《コウタ》」に、

〽思ひだしたよ、去年の五月、「とくり」で米ついたこともある

と唄ひけり。これらは、里巷(りこう)の「曲子(こうた)」なれども、今も折々、うたはせて、

〽魚肉、なくて、飯の、くらはれず

などいふ、世のわか人の警(いましめ)にせまほしく思ふなり。

[やぶちゃん注:庵点は私が附した。

「曲子」は元は隋朝以来の俗謡から出た「曲子」(きょくし)という巷間の流行歌で、特に唐朝で流行し、列記とした詩人たちも作詞を試みたりしたものを指した。ここでは「小唄」に同じ。「小人」は「子供」の意でよかろう。]

 しかるに、丁未の夏、餓(うゑ)たる最中、伊豆・上總より、鰹の生節(なまふし)を出だしゝこと、限りも、しられず。その市中を賣りあるくものを、買ふに、いと大きなる生節一つを、十四文、或は、十六文に買ひけり。又、「糟小鯛(かすこだい)」とかいふ小鯛を、日每に賣りあるくものも、多かりしかば、是も、價の、いたく、やすかり。よりて、この魚肉をもて、飢に充つるも、少からず。

「天の生民(せいみん)を養ふこと、彼に虧(か)けば、こゝに盈(み)つ。等閑(なほざり)に、な、思ひそ。」

と、こゝろある人は、いひけり。

 予は、この市中の艱難(かんなん)に、あはず。

 當時(そのとき)、某侯に仕へて、切米の外、月俸、はつかに、三口を禀(う)けたり。その月俸のうち、三斗の米を、月々に售(う)る每(ごと)に、價のますこと、漸々(ぜんぜん)にして、五、六月に至りては、蟲の巢にて罹(かか)りたる[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『羅(あみ)たる』である。「にて」の接続からは、その方が躓かない。]

陳米(ふるよね)をのみ、わたされしに、その玄米三斗の價、金壹兩三分になりたり。されば、出入(でいり)と唱(とな)ふる町人等、月俸のわたる日に、未明より、宿所(しゆくしよ)へ來て、

「おん扶持米を拂はせ給はゞ、某(それがし)に給はり候へ。餘人(よにん)より、價よく申しうけ候はん。」

など、いふもの、多くて、果は、これかれ、せりあひつゝ、「ことばすまひ」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『角口(ことばすまい)』とする。口喧嘩。]を起すも、ありけり。はつかの月俸すら、かくの如し。大祿(たいろく)の人々は、さぞ、有りぬべき事ながら、よき夢は、又、覺むるも、はやきや、これによりて、永く富みたりといふ人をも、見ざりき。

[やぶちゃん注:「某侯に仕へて」この頃の馬琴滝沢解(とく)の出仕などはよく判っていない。]

 かゝる中にも、唐津侯の封内(ほうない)は、去歲(きよさい/こぞ)、豐作なりしにより、「かこひ米」、多くあり。

「世上、米價の貴(たか)きこと、今の時に、ますもの、あらんや。されば、年中の月俸を、只今、一度に取らせなば、家臣等の爲になるべし。」

とて、その年十二月までの月俸を、五、六月のころ、わたされしかば、みな歡ばずといふもの、なし。

「しかるを、わかきともがらは、俄(にはか)に德つきたる心地して、後々の事を、思はず、多くは「品川がよひ」をしつゝ、秋をも、またで、なごりなく遣ひたりしかば、米の價のさがりしころ、餓ゑて、せんかたなきも、ありし。」

と、ある人の話說なり。ことの虛實は定かならねど、筆のついでに識すのみ。

 當時の米價を考ふるに、或書に、「五穀無盡藏」を載せて云、

『天明丁未夏六月上旬、諸國米穀の價、左の如し。

[やぶちゃん注:以下全体が一字下げの二段組みであるが、一段で示した。示し方は孰れも従わなかった。「馬琴雑記」はベタで繋がっていて、甚だ、読み難いが、底本の不審な箇所が腑に落ちるので、それで訂した箇所もある。]

 現米壱石      價銀弐百匁

 江都は       金壱兩に米一斗八升或は弐斗

 加賀は米壱石に   百六拾壱匁

[やぶちゃん注:底本は『加賀米石に』。「馬琴雑記」で」訂した。]

 肥後は       百九拾匁

 筑前は       百七拾六匁

 廣島は       百七拾四、五匁

 中國米二俵は    價銀百五拾壱、弐匁

 柴田米七月四日入札 弐百壱匁八分

 大津澤米一石に   百七拾三四匁

[やぶちゃん注:底本は『大津沢米石に』。同前。]

 白米一石は     價銀弐百拾五、六匁

 小賣一升に     錢弐百三拾八文

 岡大豆壱石に    價銀八拾匁

こはその崖略(がいりやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。「槪略」。]のみ。なほ、詳(つまびらか)なるもの、あらんか、たづぬべし。又、家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士(らぶんこじ)の錄中[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『遺錄中』とある。]に、「近世荒饑畧考(きんせいかうきりやくかう)」の一編あり。謄寫(とうしや)すること、左の如し。

[やぶちゃん注:「家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士」滝沢解の長兄興旨(おきむね)。羅文は生前の彼の俳号。寛政一〇(一七九八)年没。

 以下、字配は底本に従った。]

寬永十九壬子年、春より夏に至り、飢饉餓死多し。  今年迄百四十六年

[やぶちゃん注:「寬永十九壬子」干支は「壬午」の誤り。一六四二年。]

延寶三乙卯年、天下飢饉、餓死多し。

[やぶちゃん注:一六七五年。]

將軍家下命、從三月至五月、於北野七本松原四條河原、貧人を集、粥及米錢施行、  今年迄百十四年

[やぶちゃん注:「將軍家」第四代徳川家綱。]

天和元辛酉年十一月、江戶凱僅、爲御牧米三萬俵披下之。  今年迄百三年

[やぶちゃん注:「天和」は底本では『元和』。「馬琴雑記」で訂した。天和元年辛酉は一六八一年。]

同二壬戊年二月、飢饉餓死多し。三月洛陽大雲寺、誓願寺、法輪寺、此外於諸寺錢施行、又餓死の爲、一七日施餓鬼供養、於北野松原從將軍家粥施行。  今年迄百二年

元祿九丙子年、自夏至秋、中國稻蟲生ず。西國大名衆拜皆、餓民御救。  今年迄九十二年

[やぶちゃん注:「元祿九丙子年」一六九六年。]

享保十七壬子年、關東五穀不熟。依之窮民御牧。  今年迄五十四年

[やぶちゃん注:「享保十七壬子年」一七三二年。]

寶曆六丙子年、五穀不熟。窮民御牧。  今年迄三十七年

[やぶちゃん注:「寶曆六丙子年」一七五六年。]

天明三癸卯年、關東五穀不熟。江戶及奧州飢餓、此節五千俵田沼山城守に被下之。信州淺間山燒崩、溺死多し。窮民滿道路。依之被命於領主以鐵砲追之。或は打殺之。  今年迄五年

[やぶちゃん注:「天明三癸卯年」一七八三年。]

同七丁未年、自春至夏江戶及諸國飢饉、至五月白米三合、代錢百文に及ぶ。都下の俠者及餓民等、江戶中の米屋を破却闕遣無し。京、大坂も亦如此。至秋鎭る。追日爲御救米の、直段下直に被下之。

[やぶちゃん注:「追日爲御救米の、直段下直に被下之。」底本は「の」が「て」。「馬琴雑記」で訂した。訓読すると、「日(ひ)を負ふて御救米の爲(ため)、直段(ねだん)、下直(げぢき)に、之れを下さる。」。]

右、友人吉岡雪碇、錄して、予に視ㇾ之(これをみす)。因(よりて)、

「謄寫、了(をはんぬ)。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「吉岡雪碇」(よしおかせってい 生没年確認出来ず)は、馬琴の兄興旨の竹馬の友で、酒井飛驒守忠香(ただか 正徳五(一七一五)年~寛政三(一七九一)年:明和二(一七六五)年に西の丸若年寄などを歴任して徳川家基付の重臣となった人物。家基亡き後は、家基の父で将軍の家治に仕えた)の部屋番であった。通称は定八郎。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その5)

 

 明くれば、七年丁未、春より、米穀の價(あたい)、登躍(とうやく)して、はじめは、錢百文に白米六合を換ふと聞えしが、五合に至り、四合に至り、五、六月に及びては三合になるものから、それすら買はんとほりするもの、容易くは得がたかりき。

[やぶちゃん注:「天明六年丁未」前回の終りで注したが、天明七年元旦は、天明六年に閏十月があったため、グレゴリオ暦では一七八七年二月十八日であった。]

 米穀、かくのごとくなれば、麥・大豆・小豆・粟・黍・稗の類まで、これに稱(かな)うて[やぶちゃん注:釣り合うようにして。]、其價、甚(はなはだ)、貴し[やぶちゃん注:「甚」は「馬琴雑記」で補訂した。]。

 ことのもとを原(タヅヌ)るに、三年癸卯の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせしとき、上野・下野・信濃・美濱・武藏【武藏は北の兩三郡。】・下總【上におなじ。】の國々に、熱湯・砂石を推し流して、田畑、これが爲に荒土(かうど)となりし處、少からず。この年、奧の仙臺・南部・津輕・出羽の果まで、五穀、登(ミノ)らず。餓莩(がへう)、相食(あひくら)ひし事、後に聞くすら、駭嘆(がいたん)したり。この他も、

「五穀不熟にして、稻毛(いなげ)、みつがひとつ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「三年癸卯」(きばう(きぼう)/みずのとう)「の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせし」浅間山の「天明の大噴火」である。天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。詳しくは「譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事」の私の注を参照されたい。

「武藏【武藏は北の兩三郡。】」北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の、所謂「三多摩郡」。

「下總【上におなじ。】」葛飾郡・結城郡・岡田郡か。

「稻毛」地名にもある通り、「毛」は「禾」(か)で「食料」を意味し、「稲」を冠して主食作物として強調する意とされる。しかし、「馬琴雑記」では『損毛(そんまう)』で、これだと、「農作物が被害を受けること」を指し、個人的には「五穀」と言っていることからも後者が正しいかと思う。]

 四年甲辰の秋のみいりぞ、去歲(コゾ)に、いさゝか、ましたれども、なほ豐作といふに、足らず。この歲七月【六月十四日、十五日[やぶちゃん注:底本は「十四日」のみ。「馬琴雑記」で補った。]。】なゐ(地震[やぶちゃん注:漢字ルビ。])ふること、兩度【「消夏自適」には、この大地震、天明二寅年七月十四日丑の刻、翌十五日兩度とあり。予がおぼえ、たがへたるにやあらむ。】[やぶちゃん注:『頭書』とある。]、にして、朱門高厦も、柱、傾(かたむ)き、瓦[やぶちゃん注:底本は「甍」。「馬琴雑記」を採った。]、落ちざる處、少からず。只、人々の恙なきを祝するのみ。幸ひにして元祿癸未の凶變に似ざりしを、自他おしなべて、よろこびにき。

[やぶちゃん注:「消夏自適」宇多龍斎なる人物の記した随筆らしい。詳細データ不詳。なお、この地震の発生の日時は、馬琴の負け。天明期の大地震は「天明小田原地震」が知られ、ウィキの「小田原地震」の「天明小田原地震」によれば、相模国西部を震源とし、推定規模はマグニチュード7.0或いは7.3程度。天明二年七月十五日(一七八二年八月二十三日)発生したが、月初めから前触れの小さな揺れがあったというから、十四日もあったと考えてよいだろう。『被害は大きく、小田原城の櫓、石垣に被害が出』、『民家は約一千戸が倒壊し、江戸でも死者』が出ており、『箱根山、大山、富士山で』も『山崩れが発生し』、また、『熱海で津波が有ったとの記録がある』とある。但し、研究者によっては、『震源は足柄平野にあり』、歴史的な一連の『小田原地震には該当しないとの見解もある』とし、『一方』では、『震源域は海底下まで伸びていたと』する研究者もいる。

「元祿癸未の凶變」元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)深夜午前二時頃、関東地方を襲った巨大地震「元禄地震」。当該ウィキによれば、『震源は相模トラフ沿いの』地下と『推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎』及び海中地下『付近にあたる。マグニチュード』『は7.9』から『8.5と推定されている』。被害発生は関東諸国(武蔵・相模・下総・上総・安房)に及んだ。『江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録され』、離れた『名古屋において』も『長い地震動があり、余震があったことが記されている。『また、公卿近衛基熙』(もとひろ)の日記「基煕公記」には、『「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている』。『更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は』、「折りたく柴の記」の中で、『「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ』」『と地震の体験談を記している』(なお、『本地震の約』二『時間後、同日午前』四時頃には、『豊後国由布院付近を震央とするM6.5程度の地震が発生した(元禄豊後地震)。震源は浅く、最大震度』六『程度。府内領で潰家、落石直撃により死者』一名であった)。『江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは』、『建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら』、『一面』、『泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約』八千戸・死者約二千三百名に達し、『東海道の諸宿場でも家屋が倒壊』、『川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという』。また、『上総国をはじめ、関東全体で』十二『か所から出火、被災者』は約三万七千人と『推定される』。また、悪いことに、この地震の七日後の十一月二十九日の酉の下刻(午後六時から七時頃)、『小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した』。『この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないとされる』とある。『この地震で』は三浦半島突端が一・七メートル、房総半島突端が三・四メートルも『隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されている』。『各藩の幕府への被害報告の合計では死者約』六千七百名で、潰家・流家は約二万八千軒となったという。別な記録では、震災後の十一月二十九日の『火災による被災者も併せて、地震火事による死者は』二十一万千七百十三名と『公儀之御帳に記されたとあり』、『他に地震火事による犠牲者数として』は、二十二万六千人・二十六万三千七百人という風聞があるとする。]

 予が東西をおぼえしより、震(なへ)の甚しかりしは、この甲辰の七月兩度と、文化壬申十一月四日とのみ、しかれども、甲辰は、壬申よりも、猶、甚しかりしなり。

[やぶちゃん注:「文化壬申十一月四日」文化九年。グレゴリオ暦一八一二年十二月七日。この日の地震は、それほど有名でないが、「神奈川地震」と呼ばれるもので、「東京大学地震研究所 研究ハイライト」の「アウトリーチ推進室」発行の「第 860 回地震研究所談話会(2008 4 25 日開催)」の郡司嘉宣の発表レジュメ「文化 9 年(1812)11 月 4 日神奈川地震について」PDF)によれば(文中の発生月にミスがあるので注意)、

   《引用開始》

■震度 6 強と考えられる場所の記録

[やぶちゃん注:前略。]東海道の宿場があった神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿についての史料を見ると、どうも震度 6 強と考えられます。神奈川宿では、大名が泊まる本陣をはじめ家の過半数が倒れて、かなり死者があったという記録が出てきます。神奈川宿の中にある東光寺という寺の記録には、この地震で全壊したとあります。

  保土ヶ谷宿では、本陣が 1 軒、脇本陣が 3 軒、一般の旅宿 92 軒が倒れたという記録があります。一方で、地名辞書などを調べると、天保年間の保土ヶ谷宿には、本陣が 1 つ、脇本陣が 3 つ、旅宿が 69 あった、となっています。その数より多く倒れている。時代による差なのか、数え方の差なのかはよく分かりませんが、保土ヶ谷宿にあったほとんどすべての宿が倒れたことになります。現在の尺度でいえば震度 7 になるのかもしれませんが、死者が記録されていないということで、震度 6 強とみなしています。

 戸塚宿では、元町橋の20軒くらいが倒壊したという記録があります。戸塚宿の中にある宝蔵院からは、この地震で寺が全潰したという記録から出てきました。そのほか、川崎宿では2軒が倒壊、多摩川の近くで45軒倒壊しています。これも、震度6弱くらいです。

 農村部の最戸[やぶちゃん注:「さいど」。]村、現在の横浜市港南区最戸では、22 軒の家が倒壊したという記録が出てきます。天明 8年(1788)、地震が起きた 30 年くらい前の家の数は 21 軒であることが分かっていますから、すべて倒壊してしまった。ここでは震度 6 強から 7 に近いゆれがあったことが分かります。

■震度 6 弱と考えられる場所の記録

 その時代に江戸で起きた出来事を記した『北窓雑話』によれば、「世田谷、稲毛は江戸よりはなはだ強くして、大地ところどころ破裂し、神社仏閣が転倒し」とあります。稲毛は、現在の神奈川県川崎市高津区坂戸[やぶちゃん注:「さかど」。]です。『新編 武蔵国風土記稿』では、小机の妙楽院について「本堂は地震のために破壊して、いまだ再建せず」とあります。現在の神奈川県横浜市港北区小机に、妙楽院はありません。この地震で消滅してしまったのです。現存する寺に残る史料だけを調べていたのでは、出てこない記録です。

 また、狸ばやしで有名な千葉県木更津市の誠証寺の記録には、「本堂回廊、一時に破砕。仏具、本堂みじんに破損」とあります。

これらの記録から、現在の川崎市高津区坂戸、横浜市港北区小机、木更津市では、震度 6 弱だったと考えられます。

■震度 5 弱と考えられる場所の記録

 現在の埼玉県さいたま市岩槻にあった屋敷について、「玉垣 3 か所崩れ、石灯籠揺り崩れ、石塔 14 か所転倒」という記録があります。

また、江戸川区東葛西にある正円寺の記録には、「正円寺之 宝塔・九輪落、近寺の石塔多く転倒す」とあります。宝塔とは、丸い石をいくつか重ねた灯篭です[やぶちゃん注:これは少し違う。円筒形或いは円錐形の塔身(下方に四角な台座と飾りを有するものもある)に方形の屋根を架けて、頂上に相輪を立てた形式の一重の塔である。]。北品川の東海寺では、「大地震山中所々破損」と記されています。山中とは、寺の敷地のことです。建物は倒れなかったけれども、敷地内のあちこちが破損したということです。

 神奈川県厚木市岡田の長徳寺の記録には、「本堂大破損。石口六、七寸南へ揺り出す。壁残らず落ちる」とあります。

 神奈川県横浜市金沢八景の金竜院では、「飛石飛石、文化中の地震に転倒す」とあります。

 それらの場所では、震度 5 強と考えられます。[やぶちゃん注:中略。ここに以上の記録に基づく「神奈川県地震の震度分布」の地図が載る。リンク先参照。因みに私の家も震度五に入っている。]

■震度 5 弱と考えられる場所の記録

 震度 5 弱の範囲は広く、多くの記録がありますが、一つだけ紹介します。[やぶちゃん注:中略。]高橋景保の書翰には、「当地は人家倒壊はまれにて、土蔵壁落ち、家作建て付け損。当役所などは無事。土蔵鉢巻き落」とあります。この記録から震度 5 弱だと考えられますが、「当地」「当役所」とは、いったいどこなのでしょうか。

 高橋景保は江戸幕府の天文方の長官です。当地は、江戸幕府直轄であった浅草天文台を指します。現在の台東区、蔵前通りと江戸通りの交点にありました。浅草天文台の位置は、北緯 35 41 54 秒、東経 139 47 32秒だと分かっていますから、緯度経度までピンポイントで震度を推定することもできるのです。

 津軽藩や加賀藩、高鍋藩の藩邸などに関する古文書も調べました。[やぶちゃん注:中略。]このように古文書を集めて約 20 か所について一つ一つ解釈していった結果、江戸市中の震度分布は図 2[やぶちゃん注:「神奈川県地震の江戸市中の震度分布」の図。リンク先参照。] のように分かってきました。

■地震規模の推定

 図 3 [やぶちゃん注:「神奈川地震の広域震度分布」の図。リンク先参照。]は、神奈川地震の広域震度分布です。山梨県甲府から千葉県勝浦まで、半径 65kmくらいの範囲で震度 4 でした。震度 4 の範囲から見積もると、マグニチュード(M6.3となります。震度 5 の範囲は半径 35km くらいで、そこから見積もると M6.8 となります。また、震度 6 の範囲は 15km で、そこから M7.0 と見積もることができます。

 震源が深く、マグニチュードが大きいと、震度 4 の範囲が大きくなります。しかし、神奈川地震では小さい。一方、震度 5 の範囲が大きくなっています。震度の範囲から推定した地震規模によれば、神奈川地震は震源が浅かったらしいと考えられます。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

後略の頭の部分では郡司氏は『古文書の解析から、安政の江戸地震より少し小さいですが、それに匹敵する規模の地震が、神奈川県のど真ん中で起きていることが明らかになりました』と述べておられる。大変、勉強になった。郡司氏に御礼申し上げるものである。因みに、「安政の江戸地震」は、安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)午後十時頃、関東地方南部で発生したマグニチュード七クラスの地震で、死者は町方において十月六日の初回の幕府による公式調査では四千三百九十四人、同月中旬の二回目の調査では四千七百四十一人で、倒壊家屋一万四千三百四十六戸とされている。詳しくはウィキの「安政江戸地震」を見られたい。]

 かゝるに六年丙午の火災、水損は、既に上にしるすが如し。

 かう、荒凶(こうきやう)のうちつゞきて、四、五年を歷(へ)しことなれば、米價(べいか)のたかき、ことわりながら、商賈(しやうこ)は、なほ、利を射(い)ん爲に、あちこちの米粟(べいぞく)を、いちはやく、買ひとり、藏(おさ)めて、蠹《ムシバ》み、朽つるまで、出ださず。中買・小賣の商人までも、おのもおのも、彼(かれ)に倣(なら)ひて、且、利の上に利を見ざれば、あれども、

「なし。」

とて、賣らざりけり。この故に、貧士・賤民、露命(ろめい)を繫ぐに、由なくして、ことのよしを、奉行所へ訴出でつゝ、あはれ、

「米商人等が、隱しもてる米を出だして、賣らしめ給ヘ。」

と願ひまうせしも、ありしとぞ。

 これより先に、

「良賤、なべて、粥を、たうべよ。」

と徇(おほ)させ給へり。

 このときの町奉行は、曲淵甲州と、山村信州なりしが、信州は、新役にて、甲州は故﨟(こらふ)なり。

[やぶちゃん注:「曲淵甲州」旗本で町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)。武田信玄に仕え、武功を挙げた曲淵吉景の後裔。当該ウィキによれば(かなり長く引くのは、本篇の後述部を裏付けるものだからである)、寛延元(一七四八)年に『小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』、明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』、さらに明和六(一七六九)年には、『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。政言の介錯を務めたのは景漸配下の同心であったという。経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高』く、明和八(一七七一)年三月四日、『小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により』、『「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ、オランダ語医学書』「ターヘル・アナトミア」(初版はドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus 一六八九年~一七四五年)の著書‘Anatomische Tabellen ’のオランダ語訳版‘Ontleedkundige tafelen ’)に載る『解剖図と比較することで日本の医学の遅れを痛感することにな』った。しかし、この天明六(一七八六)年、『天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が起こ』り、翌天明七年に『かけて』、『景漸ら町奉行所は様々な対策を打ち出すも、商人や幕府役人の癒着構造、そもそもの品不足などもあり、これを好転させる成果は出せなかった。俗に言われる説では、景漸が食料不足の対処に当たっていた折、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願を一蹴した上で「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬』一『匹なら』七『貫文程度で買える。米がないなら』、『犬を食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け、群衆により』、『複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時』、『無秩序状態になるほどの大規模な』「打ちこわし」に『発展していたとされる。近年の研究に拠れば、実際の発言内容は不明であり、食糧事情に不安と不満を持つ大衆の間に、奉行はこう言った、という形で真偽不詳の風説が流布したものと考えられている』とある。『拡大するこの事態に』、『江戸城中では』、『寺社奉行と勘定奉行と町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議したが』「なぜ、町奉行所が現場に出向かないのか」と『批判されると、北町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民』(くぜひろたみ)『は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した。結局、景漸ら町奉行所勢は』、「打ちこわし」の『鎮静化を図るために現場に出向くことになったが、町奉行や捕縛をする役人たちは』、「打ちこわし」勢から、『「普段は奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となっては何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」「今、江戸中の人々は皆同じように苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手が差し伸べらず』、『見殺しにされている、まことにむごく不仁な御政道でございますなあ」などの罵声を浴び、町奉行側も』彼らを『片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に』「打ちこわし」の際に、『盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に同心らが襲撃されるような状態』が発生した。『そもそも町奉行所の権限では』、『前述のような、癒着構造や物価高騰・品不足などを抜本から解決できるわけではなかった。この状況を重く見た幕府は』、五月二十三日(七月八日)、鬼平『長谷川平蔵ら先手組頭』十『名に』、『市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないと』通達した。『しかし実際に』「打ちこわし」勢を捕縛した先手組はたった二『組に過ぎず、残りの』八『組は』、『江戸町中を巡回しているだけであった』。五月二十四日(七月九日)に『町奉行所から、騒動を起こした場所にいる者は』、『見物人』も含めて総て『捕らえること、米の小売の督励と』、『米の隠匿を禁じる町触が出た。同時に各町内の木戸が』、『常時』、『閉められ、竹槍、鳶口などで武装した番人が警備を行い、木戸の無い町では』、『急遽』、『竹矢来を設置するなどして』「打ちこわし」『勢の侵入を防ぐ手立てが講じられるようになった。また』、五月二十二日(七月七日)には、『幕府は困窮者に対する「お救い」の実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は町奉行に対し』、『支援を要する人数の確認を指示した。町奉行は支援対象者を』三十六万二千人と『見積もり、一人につき』、『米一升の支援を要するとした。町奉行からの報告を受けた水野忠友は』翌二十三日、『勘定奉行に対して二万両を限度として支援対象者一人当たり銀三匁二分を支給するよう指示し』、二日後の五月二十五日(七月十日)には、『実際にお救い金として町方に引き渡された。また』、前日の五月二十四日からは、『米の最高騰時の約半額で』、『米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは』、『給付されたお救い金で米を購入することができるようになった』。『これらの諸政策により』、五月二十五日の時点で、「江戸打ちこわし」は『ほぼ沈静化した』が、同年、「打ちこわし」の発生及び『対応の遅さの責を被る形で奉行を罷免され』、六月十日、『石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられた。景漸は民衆に同情していたためか、更なる暴動を防ぐためか、「市民と米屋とのただの喧嘩」などの名目で』、「打ちこわし」に『与した町人達への処罰を極力』、『寛容なものに留めている。また』、南町・北町『両行所の与力の総責任者である年番与力に対し』ても、ともに「江戸追放」・「お家断絶」の『処分が下された。この』「打ちこわし」による『幕府役人側の処分者は、景漸を含め』、『この三名のみである』。また、『正式な処分ではないが、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信の台頭は』、この「打ちこわし」が契機であった『ともされる』とある

「山村信州」旗本で勘定奉行・江戸南町奉行などを歴任した山村良旺(たかあきら 享保一四(一七二九)年~寛政九(一七九七)年)。寛延二(一七四九)年に小姓組、宝暦三(一七五三)年に西の丸小納戸、宝暦八年には本丸小納戸として仕えた。明和五(一七六八)年に目付となり、安永二(一七七三)年に前任者の急逝に伴い、後任として京都西町奉行となり、同時に従五位・信濃守に叙任された。在任中は禁裏の不正を摘発する(「安永の御所騒動」)などで活躍した。安永七(一七七八)年に勘定奉行、天明四(一七八四)年に江戸南町奉行となり、後の寛政元(一七八九)年には、御三卿清水家の付家老となり、寛政六年に致仕した(以上は当該ウィキに拠った)。]

 この夏、五月の頃にや、ありけん、甲州、件(くだん)のねがひ人等(ら)を、よびのぼして、

「汝等が願ひにより、米商人等(ら)を穿鑿したれど、彼等に、『米は、なし。』と、いへり。げに、あき人の事なるに、ある米ならば、賣るべきに、賣らぬは、なきが、まことなるべし。かう、嗛(アキタ)らぬ折(をり)からは、糧(かて)を食ふに、ますこと、なし。われ、一方を誨(おもは)んか。味噌豆(みそまめ)をよく熬(いり)て、升の底もて、推(お)すときは、碎けて、ふたつにならぬは、なし。扨(さて)、其豆に、麥まれ、稗まれ、野菜まれ、多く加へて、炊きて、たうべよ。そは、腹もちのよきものなれば、一食(いつしよく)にても、足らんず。」

と、ねもごろにいはれしを、誰(たれ)とて、承伏するもの、なく、稠人(てうじん)の後邊(あとべ)にをりて、遠く隔りたるものは、なかなかに憚らず、惡口(あくこう)しつるも、少からねど、多人數(たにんず)の事なれば、召[やぶちゃん注:底本は『アビ』でママ注記。「召」の崩し字の誤判読である。「馬琴雑記」で訂した。]捕ふるに得およばで、ひとしく追ひ立てられし、となん。

 これぞ、この人氣(じんき)の苛立(いらだつ)はじめなるべし。

 このあはひ、舂米屋(つきこめや)等、相謀(あひかはら)ひて、

「舂米を買はん。」

とて、來る人別に[やぶちゃん注:人ごとに。読み不詳。「ひとべつに」「ひとごとに」か。]、百文、或は、二百文と定めて、その外を、賣り與ヘず、それすら、黎明(しののめ)[やぶちゃん注:サイト「曆のページ」でこの天明六、七年の日の出を見るに、東雲(しののめ)は午前四時過ぎである。]より巳の時[やぶちゃん注:午前十時。]まで、或は巳の時より正午《マヒル》までなんど、時刻を定めて賣りしかば、

「買ひ後れじ。」

とて、立ちつどふ老若男女、囂々(ごうごう)しく[やぶちゃん注:「々」は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]罵るもあり、推さるゝもあり、果は、突き倒し、𤔩(つか)みあうて、泣き叫ぶも、少からず。それも、後には、札を出だして、何處の米屋も、賣らずなりぬ。

 この故に、麥を買はんと、ほりすれども、麥を得がたく、野菜を求めんと、ほりすれども、その價(あたひ)、廉(れん)ならず。

 こゝをもて、せんかたも、つき[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『せんかたなき』で下の「寒民」を形容する。]、寒民は昆布《ヒロメ》・海帶《アラメ》・鹿尾菜《ヒジキ》などを食として、一兩月を凌ぐもあり。

[やぶちゃん注:「昆布《ヒロメ》」「ひろめ」は「こんぶ」の異名。「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称。私の「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」や、「日本山海名産図会 第五巻 昆布」を参照されたい。

「海帶《アラメ》」私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照。

「鹿尾菜《ヒジキ》」私の「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」を参照。なお、以上の三種の海藻を一ページで見たければ、私の古い仕儀(二〇〇八年公開)だが、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」(サイト版)もある。]

 又、「豪家」と唱へらるゝ三井・越後の吳服店(ごいふくだな)・糸店(いとだな)・兩替店(りやうがへだな)、ともに、琉球芋(りうきういも)[やぶちゃん注:サツマイモの異名。]を多く蒸して、半切(はんきり)の桶に入れ、店の四隅、便宜の處にすゑ置きて、十五歲以下の小厮(こもの)[やぶちゃん注:小僧。丁稚。]の走り𢌞りするものに、恣(ほしいまま)にとり啖(くは)せしかば、日每に穀(こく)をはぶきしこと、大かたならず、と聞えたり。

 又、兵法をもて、世わたりとせし、某氏(なにがし)あり。こは、

「避穀(ひこく)の方(はふ)をもて、夫婦共に、穀を啖(くは)はざること、十五日にして、恙なかりし。」

と、いへり。そは、何の方を用ひたるか、しらねども、救餓避穀(きうがひこく)の方は、少からず。只、予は、いまだ經驗せざるのみ。こゝに、その二、三をいはゞ、

[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]

 一方に云(いはく)、『白茅根《(しろ)チガヤ》[やぶちゃん注:「馬琴雑記」はルビで『はくほうこん』とする。]を洗ひ淨(きよ)め、細かにして、或は、石の上に晒(さら)し乾(かはか)し、搗きて、粉として、水をもて、壱匁を服すれば、穀を避けて、暫(しばらく)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「暫」の代わりに『數日』とある。]、不餓(うゑず)。』といふ。又、一方に、『赤小豆一升・大豆一升、各(おのおの)その半(なかば)を炊(たき)て[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「炊て」の代わりに『炒(いり)て』とある。]、共に搗きて、粉(こ)となして、一合を、新水もて、服すること、日々に三度、その三升を用ひ盡すときは、十一ケ日を經て不ㇾ餓。』といふ。

[やぶちゃん注:「白茅根」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica (花期は初夏(五~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ)の根茎を漢方薬で「白茅根(はくぼうこん)」と呼び、止血・利尿・発汗の効がある。

 以下も底本で改行。]

 一說に、小豆をくらへば、津液(しんえき)、小便より、去りて、人をして、虛瘦せしむる、とも見えたり。

[やぶちゃん注:「津液」漢方医学で、体内に存在する水分の内、血液以外の総ての体液の総称。しかしこの一条は穀を避けて食事をする方法ではなく、小豆はダメという話である。

 以下も底本で改行。]

又、一方に、松樹の「あまはた」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『あまはだ』。]【日に晒して細末。】壱斤・人參一兩[やぶちゃん注:三十七・五グラム。]・白米五合・右三種を粉となして、よき程に、丸(ぐわん)し、蒸籠(せいろう)もて、むして、軍兵十五人に配分すれば、一劑をもて三日づゝたもつもの、とぞ。こは、「竹中半兵衞が救餓の方なり」といふ。これらは、ちか比(ごろ)、水府の醫官原氏が「砦草(とりでぐさ)」にも見えたり。又、「原氏の家方なり」とて、同書に載せたるは、

[やぶちゃん注:底本で改行。字下げも再現した。]

  白蠟(はくろう)一斤[やぶちゃん注:六百グラム。]、南天燭子(なんてんしよくし)・氷砂糖、各、半斤、

右、蕎麥粉(そばこ)の粥(かゆ)もて、桃の實の大さに丸し、日々、一枚を服すれば、不ㇾ餓。戰陣に臨みて、嚼(か)みくだき、水にて服すれば、氣、不ㇾ乏(とぼしからず)。もし、飯を食(くは)んと、ほりせば、鹽湯(しほゆ)をもて、解(げ)すべし。こは、その先人の傳方なり、といへり。この他、「救荒本草」を考ふべし。さのみは、錄し盡さゞるのみ。

[やぶちゃん注:「あまはた」はやはり「あまはだ」で「甘肌」。樹木を包んでいる薄い皮。或いは、その甘皮を砕いたもの。ヒノキなどを使用し、舟や桶の漏水を防ぐのに用いることで知られる。

「水府の醫官原氏」原南陽(宝暦三(千七百五十三)年~文政三(千八百二十)年)。常陸国水戸の生まれで、水戸藩藩医の家に生まれた。名は昌克、南陽は号。京都に出て、山脇東洋に師事し、別に賀川流の産科を修めた。江戸に赴いたが、窮乏を極め、按摩や鍼(はり)で糊口を凌いでいたが、やがて、技量を認められ、水戸侯の侍医となった。

「砦草(とりでぐさ)」は原の書いた、軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意及び救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初の作品とされるもの。

「救荒本草」明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、この「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私はブログ・カテゴリ『「大和本草」の水族の部』で親しんだ優れた書物で、享保元(一七一六)年版の訓点附きが、国立国会図書館デジタルコレクションで全巻視認出来るなんと言っても、絵が素敵!!!

2021/10/27

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 銀座の菊 / 附・草稿

 

  銀 座 の 菊

 

都に灯(ひ)ともり

おとろへはててわれあゆむ

金の粉ゆき途にふり

戀魚のめざめこそばゆく

しみじみと銀座の街に鳴き出づる

あはれくつわ虫なくものを

また空には光るまつ蟲

おほいなる紙製の花もひらくころほひに

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目。

なやましげなる宵にしあれば

こよひ一夜を觀工場(ばざあ)の窓に泣きぬれて

あしたの菊をぞわれ摘まむ

あしたの菊をぞわれ摘まむ。

                   ―東京遊行詩篇一―

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本では大正三(一九一四)年十月作の『遺稿』とする。

につける」は金属のニッケルのこと。

「觀工場(ばざあ)」「勸工場(くわんこうば)」で「觀」は萩原朔太郎の誤字(以下の全集のものを参照)。百貨店やマーケットの前身で、具体的には明治一〇(一八七七)年に開催された「第一回内国勧業博覧会」で、出品者が引き取らなかった残品を処分するため、翌明治十一年一月に、東京府が丸の内に「龍ノ口勧工場」を開場した時に始まる。日用雑貨・衣類などの良質商品が一ヶ所で定価販売されたので、一躍、人気を得て、明治一五(一八八二)年頃から、全国の主要都市に大小の勧工場(関西では「勧商場」と呼んだ)が乱立した。多くは民営で、複数の商人への貸し店舗形式の連合商店街であった。明治四〇(一九〇七)年以後には、取扱商品の品質の低下や、大手百貨店の進出により、経営不振に陥って衰退し、関東大震災後に消滅したが、正札の定価販売で実績を残した。

 さて。筑摩版全集では、まず、「未發表詩篇」に以下の形で載る。太字は同前。誤字はママ。

 

  銀座の菊

 

都に灯(ひ)ともり

おとろへはててわれあゆむ、

金の粉ゆき途にふり、

戀魚(れんぎよ)のめざめこそばゆく、

しみじみと銀座の街に鳴き出づる、

あはれくつわ虫なくものを、

また空には光るまつ虫、

おほいなる紙(かみ)製の花もひらくころほひに、

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目。

なやましげなる宵にしあれば、

こよひ一夜を觀工場(ばざあ)の窓に泣きぬれて、

あしたの菊をぞわれ摘まむ、

あしたの菊をぞわれ摘まむ。

          (東京遊行詩扁、1)

 

なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に「銀座通の菊」と題して草稿が載る。以下に示す。誤字はママ。

    *

 

  銀座通の菊

 

都に灯(ひ)ともり、

おとろへはててわれあゆむ、

金のこなゆき路にふり、

戀魚のめざめこそばゆく、

しみじみと銀座の街に鳴きいづる、

あはれくつわ虫鳴くものを、

また空には光るまつ虫、

      酒毒の紫蘇の花咲くころこ

おほいなる

      紙製の花のひらくころほひ

[やぶちゃん注:「紫蘇の花咲くころこひ」(「ころほひ」の誤字であろう)と「紙製の花のひらくころほひ」は並置。]

疾患せんちめんたる齒痛の夕ぐれに、

疾患いるみねえしよんの夕ぐれに

この紙製の花が吹くは

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目、

まことにげになやましき宵なれば、にしあれば、

こよひ一夜をBAZAAR歡工場の窓に泣きぬれて、

あしたの菊をぞわれつまむ、

あしたの菊をぞわれつまむ。

 

「疾患せんちめんたる齒痛の夕ぐれに」「疾患いるみねえしよんの夕ぐれに」は気の利いた少年詩人でも、決して口にしない失笑物のフレーズだろうなぁ。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 孝子實傳――室生犀星に―― / 附・原草稿

 

  孝 子 實 傳

     ――室生犀星に――

 

ちちのみの父を負ふもの

ひとのみの肉と骨とを負ふもの

ああ なんぢの精氣をもて

この師走中旬(なかば)を超え

ゆくゆく靈魚を獲(え)んとはするか

みよ水底にひそめるものら

その瞳はひらかれ

そのうろこは凍り

しきりに靈德の孝子を待てるにより

きみはゆくゆく涙をながし

そのあつき氷を蹈み

そのあつき氷を喰み

そのあつき氷をやぶらんとして

いたみ切齒(はがみ)なし

ゆくゆくちちのみの骨を負へるもの

光る銀絲の魚を抱きて合掌し

夜あけんとする故鄕に

あらゆるものを血まみれとする。

 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本では大正三(一九一四)年十一月作とし、翌大正四年一月発行の『詩歌』初出とする。筑摩版全集でも「拾遺詩篇」に同月号初出として、初出を以下のように示す。踊り字「〱」(五行目の「ゆくゆく」の後半のみ。後の二箇所は使用していない)は正字化した。太字は同前。

 

 孝子實傳

      ――室生犀星に――

 

ちゝのみの父を負ふもの、

ひとのみの肉と骨とを負ふもの、

あゝ、なんぢの精氣をもて、

この師走中旬(なかば)を超え、

ゆくゆく靈魚を獲んとはするか、

みよ水底にひそめるものら、

その瞳はひらかれ、

そのうろこは凍り、

しきりに靈德の孝子を待てるにより、

きみはゆくゆく淚をながし、

そのあつき氷を蹈み、

そのあつき氷を喰み、

そのあつき氷をやぶらんとして、

いたみ切齒(はがみ)なし、

ゆくゆくちゝのみの骨を負へるもの、

光る銀絲の魚を抱きて合掌し、

夜あけんとする故鄕に、

あらゆるものを血まみれとする。

             ――十一月作――

 

しかし、同全集は、注記で、『十六行目の銀絲は、殘っている自筆原稿に』『「銀綠」』とある旨の記載がある。煩を厭わず、それを修正したものを以下に掲げておく。

 

 孝子實傳

      ――室生犀星に――

 

ちゝのみの父を負ふもの、

ひとのみの肉と骨とを負ふもの、

あゝ、なんぢの精氣をもて、

この師走中旬(なかば)を超え、

ゆくゆく靈魚を獲んとはするか、

みよ水底にひそめるものら、

その瞳はひらかれ、

そのいろこは凍り、

しきりに靈德の孝子を待てるにより、

きみはゆくゆく淚をながし、

そのあつき氷を蹈み、

そのあつき氷を喰み、

そのあつき氷をやぶらんとして、

いたみ切齒(はがみ)なし、

ゆくゆくちゝのみの骨を負へるもの、

光る銀綠の魚を抱きて合掌し、

夜あけんとする故鄕に、

あらゆるものを血まみれとする。

             ――十一月作――

 

「いろこ」が「うろこ」になっているのが不審ではあるが、これは小学館版編者の消毒と考えてよく、初出誌からの採録と考えられる。

 なお、同全集の「未發表詩篇」に同全集が、ただ一言、『別稿にもとづき附した』として、その別稿を示していないという呆れた注記(恐らくは、この注で次に示す草稿を指す)で、「室生犀星に ――十月十八日、某所にて――」と勝手に題名を記した以下の詩篇が草稿と考えられるので、以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。ここでは、題名はなしで、無題扱いとする。実は二〇一三年に、一回、これは電子化しているが、正字表記が不全であるので(エディタ編集で公開しために全体の改稿が容易でないので修正は諦めた)、新たに零から起こした。

   *

 

 

 

ああ遠き室生犀星よ

ちかまにありてもさびしきものを

肉身をこえてしんじつなる我の兄

しんじつなる我の兄

君はいんらんの賤民貴族

魚と人との私生兒

人間どもの玉座より

われつねに合掌し

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

遠きにあればいやさらに

戀着せち日々になみだを流す

淚を流す東京麻布の午後の高臺

かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

この遠き天景の魚鳥をこえ

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

ああわれ都におとづれて

かくしら痴禺とはなりはてしか

わが身をくゐて流涕す

いちねん光る松のうら葉に

うすきみどりのいろ香をとぎ

淚ながれてはてもなし

ひとみをあげてみわたせば

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとびめぐり

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとぶとびめぐり

淚とゞむる由もなき

淚とゞむる由もなき。

 

   *

同全集校訂本文では「人間どもの玉座より」を「人間どもの玉座なり」(初版への差し込みで修正している。以下の草稿参照)、「かがふる」は「たかぶる」、「痴禺」は「痴愚」としている。

 また、『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、「室生犀星に」と標題する『(本篇原稿二種二枚)』(初版は『一枚』とするが、後の投げ込みで訂正している)とある、本詩篇の現存するプロト・タイプの原原稿が存在する。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りは総てママ。「□□」は底本の判読不能字。

   *

 

  遠き室生犀星におくる

    ―― とある日 午後の 詠嘆 ――

    ――ある日ある日にはかにふと哀しくなりて――

    十月十八日巡禮詩社にて

    ――十月十八日、巡禮詩社某所にて――

友よ

許してくれ

ああ遠き室生犀星よ

にくしんをこゆて

誠實なるわれの兄

その きみは 人魚 三體の瞳

君こそはいんらんの賤民貴族

君は魚と人との私生兄

人間どもの玉座なり

われいねに合掌し

[やぶちゃん注:底本編者は「いねに」は「つねに」の誤字とする。]

いまもきのふのごとく日々に十錢の酒代をあたふ

遠きにあればいやさらに

戀着せるに淚をながす

淚を流す東京麻布の午後のヹランダ高臺に

たかぶる怒りをい□□りたはりたまふ

やさしくはぐゝむおんあいえらんだの椅子

 に泣きもたれ

齒光りこの遠き天景の魚鳥をこゑ

愛はつゝましく人と 兄と母とを禮拜す狂氣のごとくおん身のうへを禮拜す

ああわれ都にきたりにおとづれて

かくしも痴禺とはなりはてしか

このみよやいちねん光る笹の葉うらに

松のうすきみどりのいろ香をとぎ

わが身をくいて流涕す

空氣のうへに 火の見をこゑ空めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとびあがり

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびはわれを呼ぶとびめぐり

ああ手をもて顔を蓋へども

涙とゞむるよしもなき、涙とゞむるよしもなき

ああわれ都にいできたり

かくも痴禺とはなりはてしか

兄よしんじつ我れをば許せかし

ああ戀しきわが兄上犀星よ

淚をながす ヹランダの

おん念一路の椅子のうヘ

もろ手を顔に押しあてゝ泣けるなり

きみ

懺悔無量のわがこゝろ

聲をしのびて

けふ  半は きける泣 けるなり、

聲をしぬびて泣けるなり、

 

   *

 なお、他に筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に、以上とはまた別物である「孝子實傳」の草稿として以下の草稿一篇が載る。

   *

  孝子傳の第一人

    (犀星ニ)

 

はるかに來り

われひとの父を負ふもの

肉と骨を負ふもの

我と汝の精氣をもて

ああこの師走なかばをこえ

氷をわり魚をえんとはするか

ゆくゆく魚を獲んとはするか

氷をわりふみ、氷をわり、

にまみれ

いたみはがみなし

ひとの子の父を負ふものら

手にかたく銀綠の魚を抱きて

みよ二人長き道路に血まみれとなる座し

その光る手は血まみれとなる、

 

   *

以上には編者注があり、『この』草稿『詩は四百字詰原稿用紙の右下に書かれているが、左上部にはペン畫の落書と「女の足の詩人/ブツチヤギン/プーシキン」「ひとの父を」の文字がある。また右上部には、次の四行がある。』として、

   *

 

師走をすぎ

いのりはわれの肩にあるものあり

透靑木々のもみぢば立をすぎて

木々のもみぢば木ぬれをそめ

 

   *

とある。この「女の足の詩人/ブツチヤギン/プーシキン」というのは、サイト「RUSSIA BEYOND 」日本語版の、アレクサンドラ・グゼワ氏の記事「女性たちは国民詩人プーシキンをいかにインスパイアしたか?」に、流刑後に出逢ったマリア・ラエフスカヤ(ナポレオン戦争の英雄でプーシキンを庇護したニコライ・ラエフスキー将軍の令嬢。「エフゲニー・オネーギン」のヒロインであるタチアナ・ラーリナのモデルになったともされる)に『熱を上げ、彼女に叙事詩『ポルタワ』を捧げたという説もあ』り、『プーシキンは、若き日の海岸での恋の戯れについて思い出しながら、『エフゲニー・オネーギン』のなかで、「彼女の足に接吻する波をうらやむ」と書いたのだ、という』とあって、

   《引用開始》

私はなんと波をうらやんだことか、

それらは次々に駆け寄っては、

愛し気に彼女の足元に寝転ぶ!

私はなんとその時、波といっしょに

可愛い足に接吻したかったことか!

   《引用終了》

という詩篇が載っている。これを指すか。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)

 

 そもそも、この水、前には聞くことなかりしに、かう夥しく出でぬるよしは、必、ゆゑあることになん。

 安永のすゑつかた、町奉行牧野隅州の聞えあげて、新大橋の西の岸を、南へ弐町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]四方あまり築き出だして、これを中洲町(なかすまち)と唱へたり。

 この處、夏は、夜每に百あまりの茶店軒を並べて、數多の提燈(てうちん)[やぶちゃん注:底本『灯燈』。「馬琴雑記」で訂した。]を掛けわたし、おのおの、前に棧橋を投げわたして、船の客の登るに便(たよ)りとす。仙臺河岸(せんだいがし)より、これを見れば、衆星(しゅうせい)の晃(きらめ)くごとく、月なき夜半も、金波(きんは)、流れて、玉兎(ぎよくと)もこゝに走るかと怪しまる。大橋の南の袂(たもと)には、「四季庵」といひし酒樓あり。或は異形(いぎやう)の見せ物、「水からくり」、「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)なんどいふ「ゑせ俳優(わざおぎ)」に至るまで、かぞへ擧ぐるに遑あらず。小濱侯の邸(やしき)のむかひは、米屋・酒店・煙草商人・薪屋・錢湯・太物店、棟木をまじへ、檐端(のきば)をならべて、物として、あらぬが、なし。されば、夜每に、

「この河水に劣らじ。」

とのみ、集ひ泛(うかべ)る[やぶちゃん注:底本は意味不明のママ注記付きの『仇る』。「馬琴雑記」で訂した。]「やかた」・屋根船の、いと多なる、さしも廣かる大河に、揖(かぢ)とりなやむばかりなり。そが中に、

「花火、花火。」

と、よぶ、船、あり、「間酒(かんざけ)」・「さかな」を賣る船あり、「くだもの」を賣る船もあり。

「こよひは誰殿(たれどの)の花火あり。」

「翌(あす)の夜は何がしが花火あり。」

と罵りつゝ、水陸ともに、人、群集(くんしゆ)して、錐を立つる地も、なかりき。昔し、「三股河(みつまたがは)のおどり船」と唱へたるも、いかにして、この中洲にますべき。當時、兩國河は、けおされて、「貧女(ひんぢよ)の一燈(いつとう)」とも、いはましや。冬は、又、「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」の、こゝにつどひて、媚(こび)を賣り、客をむかへて、あだし仇浪(あだなみ)よせてはかへす淺妻(あさづま)ならで、淺ましき世わたりをすと聞えしかば、見し夕顏の冬枯るゝ五條わたりに似るべくもあらざりき。【當時、書肆仙鶴堂が、北尾政美[やぶちゃん注:底本は『北屋』。「馬琴雑記」で訂した。]に画かせて板にせし中洲の納凉の浮世繪[やぶちゃん注:底本『浮画』。「馬琴雑記」を採った。]あり。「燕石雜志」に載せたるもの、是なり。】

[やぶちゃん注:「安永のすゑつかた」安永は十年までで、一七七二年から一七八一年まで。

「町奉行牧野隅州」牧野成賢(まきの しげかた、正徳四(一七一四)年~寛政四(一七九二)年)は旗本で旗奉行牧野成照の次男。一族の牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、二千二百石を継承した。通称は大九郎・靱負・織部。西ノ丸小姓組から使番・目付・小普請奉行と進み、宝暦一一(一七六一)年に勘定奉行に就任、六年半勤務し、明和五(一七六八年)に南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には五年近くあり、天明四(一七八四)年三月、大目付に昇格した。しかし翌月、田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政三(一七九一)年に致仕し、翌年、没した。参照した当該ウィキによれば、『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立で』、安永九(一七八〇)年に、『深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることによる犯罪の抑止が養育所設置の目的であり』、『趣旨であった。この試みはしかし、定着することなく』、『途中で逃亡する無宿者が多かったため、約』六『年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以』(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)は旗本で火付盗賊改役を務めた。通称は平蔵。知らぬ人とてない、かの池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公である)『による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。彼は「耳囊」の作者根岸鎭衞の大先輩に当たるため、同書の話にも、幾つかで名が登場する。私の「耳嚢 巻之三 強盜德にかたざる事」「耳嚢 巻之三 時節ありて物事的中なす事」等を読まれたい。

「新大橋の西の岸を、南へ貳町四方あまり築き出だして、これを中洲町と唱へたり」これは確かに一時期、干拓されて、突き出た町になっているのだが、所持する複数の「江戸切絵図」では川のままで、確認が出来ない。唯一、干拓地にはなっていないものの、怪しげな葦原が当該地に描き込まれているものを見つけた(五月蠅い注意書きがあるので掲載原本は示さない。私はこの出版社の本を高く評価しており、異なったものを五冊も買って知人に贈っているのだから、許されようぞ。というか、文化庁の見解では、平面的な対象物を単に平面的に写した画像には著作権は発生しないのである)。以下は尾張屋金鱗堂板(嘉永三(一八五〇)年新刻・安政三(一八五六)年再板・板行データが少し下を切ったが、左下方にある)の「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」(表記通り)の部分からトリミングした。

 

Nakazutyo

 

位置確認は、江戸時代の旧「新大橋」が画面右端上にあるのがポイント(但し、現在の新大橋より下流にあるので注意!)。例の「古地図 with MapFan」で見よう。まず、隅田川を見つけて河口からゆっくり遡って、地下鉄「人形町駅」を上の現代地図の左上に置いて呉れたまえ。すると、下方の江戸切絵図に隅田川に「田安殿」屋敷が現われる。そこの隅田川の上流直近部分が古くは「みつまた別れ淵」或いは「三派」などと称した。示した切絵図にも、田安殿の東北隅田川上に「三ツマタ」とあるのが確認出来る。而してそのすぐ上流直近に緑の葦が生い茂ったような絵が描き込まれており、その上に「中洲」と書かれてあるのが判る。しかし、実は、ここは一時的に、川中でも、中州でも、葦原でもなく、列記とした「中洲町」であったことがあるのである(再度、それが廃されて、再び川床に戻されたことは、本篇のこの直後に出る)。そこでそれを上に動かすと、現代の地図では、俄然、同じように、再び干拓されて、陸地になっていることが判り、その北の地名に「日本橋中州」を見出せるのである。ここが、実は江戸時代には既に一度、中洲町として一時的に陸地化されていたのである。現在の、中央区日本橋中州(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

 「仙臺河岸」現在の江東区清澄二・三丁目。中洲町の隅田川対岸。「古地図 with MapFan」で見ると、そこに「松平陸奥守仙台藩下屋敷」が確認出来る。

「玉兎」月の兎のこと。

『「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)』加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵事典」の「みぶり 身振り」に、

   《引用開始》[やぶちゃん注:字下げを詰めた。]

◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永三年(1774)日記)

〝二月七日、(浅草寺)山門の左側に鶴市といふ乞食、三芝居身振をするもの今日より出るゆへ葭簀のうち人群集〟

〝十月二十四日、(葺屋町)鶴市・鶴松へ寄、歌右衛門身〈身振り〉【鶴松】、三升〈市川団十郎〉・錦考

〈松本幸四郎〉・杜若〈岩井半四郎〉声色【鶴市】、丸や・東国やたて身【鶴市】

〈鶴松は身振り、鶴市は声色と身振り〉

◯『只今御笑草』〔続燕石〕③200(二代目瀬川如皐著・文化九年序)

〝松川鶴市

琵琶の湖七度まで葦原となりしはしらず。三股の中洲埋立て〔割註「蜀山云、六年程也」〕しばらくのほど納凉の地たしころ、びいどろ細工京之助が軽業さま/\なる中に、身ぶりもの真似真を写して、歌舞伎の舞台そのまゝなりし。さかゑやの秀鶴、丸屋の十町闇仕合の大当り、古今稀なりしも此ごろと覚ゆ〟

   《引用終了》

とある。かなり有名な大道芸人であったようである。

「小濱侯の邸」これは「古地図 with MapFan」で見つけた。旧「新大橋」の西詰の「松平因幡守鳥取藩下屋敷の北西に接して、隅田川沿いに「境若狭守小浜藩中屋敷」を見出せる。

「間酒(かんざけ)」「燗酒」。

「三股河(みつまたがは)のおどり船」中洲町が出来る前の、ここのお大尽の舟遊びの旧名所であったのであろう。

『「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」』当時、正規の新吉原のそれではない、一般素人の主婦や娘たちが秘かに売春することを「地獄」と呼称した。サイト「Japaaanマガジン 」の「どんだけ恐ろしい?江戸時代、一般素人の主婦や娘たちが売春することを「地獄」と呼んでいた」の2に、『「地獄」は道端で売春を働くことはなく、ましてや岡場所などには出没しません。もっともっとひっそりと、知人の紹介で客とつながったり、料理屋の一室、時には自宅で売春をしていたりが多かったそうです』。『さらに江戸時代には、男女の密会に使われていた待合茶屋や出会茶屋などもありましたから、そういった場所で客に出会う、または売春を行う「地獄」もいたのかもしれません』。『「地獄」という言葉からとても怖いイメージを持ちますが、実は「地獄」という名前は、仏教の世界観である怖い地獄とは違います』。『諸説ありますが、素人の女性のことを”地女”または”地者”と言い、「地女の極内々のこと…」という意味で「地獄」と呼ばれていたり、「地女(素人)の中でも極上の…」という意味で「地獄」という言葉が使われていました』。『ちなみに”地獄”と”遊女”というキーワードから、室町時代の遊里に存在したと言われる伝説の遊女「地獄太夫」を連想する人もいるかと思いますが、地獄太夫とは特に関連性はないようです』とある。

「淺妻(あさづま)」小学館「日本国語大辞典」によれば、琵琶湖の東岸の滋賀県米原市朝妻筑摩附近の古名。中世には港があり、大津と往来する船便で賑わい、そこでは、船に遊女を乗せて旅人を慰め、「朝妻船」と呼ばれていた、とある。

「北尾政美」(まさよし 明和元(一七六四)年~文政七(一八二四)年)は浮世絵師。鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の名でも知られ、当時は葛飾北斎と並んで人気の高い絵師であったらしい。

「燕石雜志」筆者馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。巻之三の九「わがをる町」に挿入された、「浮繪東都中洲夕凉之景(うきゑえどなかずゆふすゞみのけい)」で「北尾政美画 板元通油町 鶴屋喜衛門 蔦屋重三郎」と記すもの。吉川弘文館随筆大成版で所持するが、幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」に原本があるので、当該の絵HTML)をリンクさせておく。奥に見える橋は永代橋であろう。]

 この他、兩國橋の東の岸を西ヘ一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり築き出ださして、こゝにも亦、茶店ありけり。

「この二ケ所の出洲によりて、大河の幅、狹くなりぬ。こゝをもて、川上より推しくだす水の勢、これらの洲崎にさゝえられ、洪水の時に當りて、水のますこと、前よりは、三尺にあまるから、その水、四方へ、わかれ、溢れて、下谷・淺草の濕地はさらなり、神田川の水、逆流して、牛込・小石川の果までも、その蔽(ヤブレ)を受くるなり。」

と、水理(すいり)にくはしき人は、いひけり。

 この理(ことわ)りを、官《オホヤケ》にも、みこゝろ、つかせ給ひにけん、寬政[やぶちゃん注:寛政元年は一七八九年。]の初に至りて、彼(かの)兩國の出洲(でず)を廢して、もとのごとくに浚(さら)せ給ひ、次に、中洲を掘りとらせて、舊のごとくに、し給ひき。

 このとし、秋より冬まで、江戶中なる屋形船・屋根船も、みな、その屋根を、とりはなち、茶ぶね・「にたり」にうちまじりて、土をかきのせつゝ、ゆきては、かへる。その船、いくそばくなるを、しらず。まいて、鋤・鍬を把る人夫等の、數百人、日每に、つどひて、潮(うしほ)退(ひ)けば[やぶちゃん注:底本は『潮退けて』。「馬琴雑記」を採用した。]、掘りうがち、潮、みちくれば、休らふも、はてしなきまで、らうかはし。

[やぶちゃん注:「茶船」近世の江戸・大坂などの河川や港で、大型廻船の貨物の運送に用いた小船。なお、河川や港で飲食物を売る小船(「うろうろ船」とも称した)をも差すが、ここは前者。

「にたり」「荷足り船」。前の「茶船」の一種で、関東の河川や江戸湾に於いて、小荷物の運搬に使われた小形の和船のこと。]

 當時、四方山人の、この土揚舟(つちあげぶね)[やぶちゃん注:底本は『玉楊』。明らかな誤判読なので、「馬琴雑記」で訂した。]を見て、よめる歌、

 屋根舟もやかたも今は御用船ちゝつんやんでつちつんでゆく

[やぶちゃん注:「ちゝつん」三味線の音のオノマトペイアであろう。]

 これらは、後のことながら、福(さいはひ)も基(ハジメ)あり、禍(わざはひ)も胎(ハジメ)あり。およそ丙午の供水は、兩國中洲の出崎に、よれり。その言、たがはざりけるにや、件の二ケ所の廢されてより、洪水は、なほ、しばしば[やぶちゃん注:底本は『しばし』。踊り字の判読の誤り。「馬琴雑記」で訂した。]なれども、本所・深川のみにして、御成道(おなりみち)を、船もて渡り、小石川・牛込にて溺死するものは、なし。かゝれば、この水理の說を、物にしるさば、後の世の人のこゝろ得になるよしもあらんから、予は、深川にて生れしかひに、をさなかりし時、兩三度、人となりても、ふたゝび[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『再度(ふたたび)』とある。]まで、出水に屋を浸されて、その進退に、こゝろ得たれど、江戶にて、かゝる洪水は、前代未聞と、いひつべし。

[やぶちゃん注:「御成道」日光御成道。当該ウィキによれば、日本橋から中山道(現在の国道十七号)を進み、『日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、ここ付近に本郷追分停留所がある。「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する』。『日光御成街道』『とも呼ばれているが、将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた』とある。]

 又、この洪水の夜に【七月十六日。】、猿江わたりの民の女房、ふたつになりける兒を抱きて、いかにかしけん、溺れつゝ半町あまり流されしに、ゆくりなく巨樹(オホキ)の杪(ウラ)[やぶちゃん注:梢。]に右の手をうちかけて、からくも、推しのり、留りたり。さりけれども、兒は左りに抱き揚げたる、腰より下は水を得いでずとばかりにして、人のしらねば、助けらるべき命にあらず。益なく、膽(きも)を冷さんより、

「母子もろ共(とも)に、死ばや。」

とて、杪にすがりたる右の手を、はなたんとしたれども、手は凝著(こりつ)[やぶちゃん注:底本は『凝着(イツキ)』であるが、「馬琴雑記」の方がよいので、それを採った。]たるやうにおぼえて、心ともなく、絕えて、はなれず[やぶちゃん注:底本は『絶えはなれず』。「馬琴雑記」で訂した。]。とかくする程に、天は明けて、「たすけ船」の漕ぎよせつゝ、船に乘らしてぞ、將(ゐ)てゆきぬ。この時、はじめて、抄を見しに、いと大きなる蛇(へび)の、わが右の手を、木の枝もろ共(とも)、いくつともなく、卷きて、をり。

『さては。わが手のはなれざりしは、この故なりき。』

と、おもふにも、忝(かたじけな)きこと、限りもあらず。

 そが船に乘る程に、蛇は、忽(たちまち)、卷(まき)ほぐして、ゆくへもしらずなりし、とぞ。

 或は、いふ、

「この女房は舅姑(しうと・しうとめ)に孝順にて、且、年來(としごろ)、神佛をふかく信ずるものなれば、その應報か。」

と聞えたり。

 そが村の名も、夫の名も、まさしく聞きたることながら、しるしもつけず、年を經て、いふかひもなく、忘れたり。

 この餘、溺死のあはれなる當時の風聞、耳に盈(みち)たり[やぶちゃん注:底本は『耳を盈てたり』。「馬琴雑記」を採った。]。思ひいでなば、いくらもあらんを、みな、傳聞のみにして、定かならねば、心にとめず。今さら思へば、夢に似たり。か

りそめの事なりとも、その折(をり)、錄(しる)しおかざれば、後(のち)に悔(くや)しき事ぞ、多かる。されば、丙午の一とせは、火災・洪水に狼狽して、はかなく月目をおくる程に、九月に至りて大喪(たいさう)あり【將軍家治公薨去。浚明院と号す。】[やぶちゃん注:以上の割注は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]。この故に、神田明神の祭禮を十一月十五日に[やぶちゃん注:「に」は底本にない。「馬琴雑記」で補った。]渡されにき【十五目の朝、白雪、霏々たり。しかれども、程なく、やみたり。雪中に祭のわたりし、めづらし。】。とにもかくにも、上下の爲に、いと、うれはしき年にぞ有りける。

[やぶちゃん注:ここまでが、天明六年丙午の記事(グレゴリオ暦で一七八六年一月三十日から一七八七年二月十七日。天明六年には閏十月があったため、ズレが大きい)。

「猿江」旧深川地区の東京都江東区猿江附近。]

2021/10/26

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その3)

[やぶちゃん注:言っとくが、まだ、本文はここまでの三倍以上残っている。もの凄い分量である。

 

 當時、市中を賣りあるきし「大水場所附」といふ地圖二本、予が藏弃(ざうきよ)にあり。草して左りに出だすもの、是たり。

 丙午七月十八、九日の比より、市中を賣りあるきしもの【誤字、幷に、「かなちがひ」等、本のまゝなり。是より下の四頁も、乙酉十月廿二日臨寫す。皆、同時のものなり。】

[やぶちゃん注:「乙酉十月廿二日」本第十一集分の文政八(一八二五)年「兎園会」発会前日。

 以下、底本では全体が最後の「大尾」まで、総て四方が枠に囲まれている。頭の標題は「上野下野」と「秩父領」は実際には「山水荒增記 上」(タイトルは「やまみづあらましのき」と読んでおく)の上に二行のポイント落ちで入る。その後は縦罫で閉鎖されている。そんな感じだけを出すためにダッシュを用いた。底本ではベタで全部繋がっているが、一種の瓦版なら、読み易くしたいと思い、やはり段落を成形した。なお、出る地名はいちいち注していては煩瑣なだけなので、余程、私が判らずに躓いてしまい、話が判らなくなった箇所だけに限定した。]

 

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 上野下野

      山 水 荒 增 記   上

  秩 父 領

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▲ころは、天明六のとし、七月十二日夜より、大雨、しきりにふりつゞきて、同十四日明方より、江戶、川すぢ、出水(でみづ)して、十五、六日、甚しく、目白下の大どい、ながれ、「せき口のはし」・「中のはし」・「みははし」其外、小ばし、不殘、おちにけり。

 小日向水道丁(こびなたすいだうちやう)、牛天神の下通り、御大・小名樣のまへ、四、五尺づゝも、出水す。

 又、「龍けいばし」・「どんどばし」、小石川御門水戶樣御屋敷の前通り、水道橋、凡、五、六尺づゝも水上り候へば、往來は、ならざりけり。

 御上水(ごじやうすい)の大どいには、鐵をつみ、石を置き、つなを附、水をふせぐ人足、おびたゞし。

 御茶の水通りの土手、二ケ所、くづれ、夫より、「せう平ばし」・「すぢかい御門」のはしぎわより、押上る水、凡、四、五尺づゝも有ければ、一向、往來は、なりがたし。

 「いづみばし」は、十六日、四つ時[やぶちゃん注:夜中では判らぬので、定時法の午前十時であろう。]に、おちけり。

 「新ばし」・淺草御門・「柳ばし」は、人どめ。

 大川の筋、本所へん、少し、水まし候所、ふりつゞく大雨に、上野・下野・秩父領の山水、押出せば、「からす川」・「かんな川」・戶田川・「とね川」、「坂東ばし」、ことごとく、出水す。近江[やぶちゃん注:補注で右に『(郷)』と振る。]・近邊の村々在々、あるいは四、五尺、六、七尺、高水すること、おびたゞし。

 時に、「戶ね川」の堤へは、左りに切(きれ)て、行とくの浦へ、押出す。人々、あはてさわぐ内、はや、水せいは、しほやくはまへ押あげて、しほがま、不殘、こわしけり[やぶちゃん注:江戸時代の行徳地区(現在の行徳地区だけではなく、浦安や船橋の沿岸の塩田も含まれていた)製塩を行う農家が多く、「行徳塩田」と呼ばれていた。]。

 扨、「梅若の土手」[やぶちゃん注:謡曲「隅田川」の「梅若伝説」で知られる梅若塚のある附近(グーグル・マップ・データ)の堤か。荒川の支流ではあり、遡れば、確かに続きは続きだろうが、確実に凡そ七十キロメートル上流なんだが。]つゞき、「くまがやの土手」ときこへしは、日本無双の大づゝみ、こけて、あふれかゝりし萬(滿)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]水に、「あやせのつゝみ」・「戶田づゝみ」、十七日の卯こく[やぶちゃん注:午前六時頃。]すぎ、水せい、つよさに、ぜひもなや、みな、一どう、相切(きれ)れば、近江・近村、人々は、あはてふためき、立さわぐ。

 寺々にては、はやがねつき、宿老[やぶちゃん注:町内の年寄役を指す。]・店屋は「ほらがい」ふき、

「たすけ船、たすけ船。」

と、命をかぎりに、にげうせたり。

 誠に、水せいのはやきこと、「三つばの弓矢」のごとくにて、「さつて」・「くり橋」・「古河なわて」・「とち木」・「藤おか」・「佐の」・行田・「關やど」・「御領」をはじめとして、「かすかべ」・「こしがや」・杉戶邊、うづまく水に、人々は、親の手を引、子どもを、せおい、みな、山林に、かへらせけり。

 いよいよ、水先(みづさき)は、「そうか」より「千住通り」へおし出(いだ)し、「かもんづゝみ」を打こして、「かさいりやう[やぶちゃん注:「領」。]二合半」・今井・「ねこざね」・「一の井」・「二の井」・「さかさい」・「きね川」・本所邊、平(ひら)一めんに、海、となる。先(まづ)、隅田川・「向じま」・秋葉・「三𢌞り」・「牛じま」へん、「小梅」・「竹丁」・「中の江」・「なり平」・「橫ぼり」・「割下水」・古岡町・吉田町・三笠町邊の家居(いへゐ)、屋根迄、水、上れば、人々、あわて立さわぎ、

「とやせん、かくや。」

と、うろたへる、其あり樣のあわれさは、目もあてられぬ、ふぜいなり。

 實(げ)に、龜井戶天神の御やしろは、よほど高き所ゆへ、人々、よふよふ、にげのびて、助船(たすけぶね)をぞ待(まち)にけり。

 又、「立川通り」より「きく川町」・「おなぎ澤」の近へん、橋も、平地も、あらざれば、

「いかゞわせん。」

と、人々、せん方なみだに、くれける時、中にも、心きゝたる人、

「五百らかんの御寺こそ、高き所に候得(さふらえ)ば、此所へにげたまへ。」

[やぶちゃん注:「五百らかんの御寺」現在の目黒の五百羅漢寺の前身である天恩山五百大阿羅漢禅寺(元禄八(一六九五)年創建)。現在の東京都江東区大島のここにあった。寺跡のマーキングがある。前に出た「きく川町」が現在の墨田区菊川で近い。]

と、申(まうす)人の言葉につれ、あるいは、さへつき[やぶちゃん注:右に『マヽ』注記有り。意味不明。]人、いかた[やぶちゃん注:「筏(いかだ)」であろう。]、およぐも あれは、ざい木にとりつき、ながれ渡るもあり。

 よふよふ、「らかん」にたどりつき、「さゝいどう」の家根にのり、

「たすけ給へ。」

と、ねんぶつのこへより、あわれ、もよふせり。

[やぶちゃん注:「さゝいどう」国立国会図書館公式サイト内の「錦絵でたのしむ江戸の名所」の「さざい堂」によれば、先に示した五百羅漢寺の境内に寛保元(一七四一)年に建立された三匝堂(さんそうどう)のこと。三匝堂とは「三回巡る堂」の意味で、内部が三層から成る螺旋状になっており、同じ通路を通らずに、上り下りが出来る構造を持っていた。その形状が「栄螺」(さざえ)のようであったことから「さざえ(さざゐ)堂」として知られた。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば、「観音の霊場巡り」ができるとされて、その造りの珍しさからも、江戸の人々の人気を集めた。弘化年間(一八四四年~一八四八年)の暴風雨や後の「安政の大地震」で荒廃し、寺とともに「さざえ堂」も消え去った。]

 此時、はやくも、御慈悲に、

「なんぎの諸人を助(たすけ)ん。」

と、御用船、數百そう、こぎ來、あり樣みるよりも、水入の人々は、二階・屋根から、ひさしより、飛のり、飛びのり、數萬人、あやうき命を助(たすかり)しも、誠に、きみの惠なり。

 みなみな、うへに[やぶちゃん注:「餓え」。]、かつへし[やぶちゃん注:「渇へし」。]ことなれば、早速、勘三郞、桐座兩芝居の者共に、焚出(たきだ)し、仰付させられ、燒飯として被下しは、猶、ありがたきことゞもなり。

[やぶちゃん注:「勘三郞」歌舞伎の江戸三座の一つ中村座の座元。

「桐座」江戸の歌舞伎劇場の一つで、市村座の控櫓(ひかえやぐら)。女歌舞伎を演じた。中村座は市村座の近くで興行していた。]

 扨、大川の水せい、つよく候へば、新大橋・永代橋、いづれも落て、往來、なし。兩國の御はしは、御用人足、あつまりて、橋をふせぎ候事、すさまじかりける次第なり。

 扨、廣小路中通りに御小家を掛させられ、缺來(かけきた)る水入(みづいり)の者どもを[やぶちゃん注:辛くも走り逃げのびてきた水害被災者たちを。]、御すくいたまわること、誠に仁惠の御ことなり。

 實(げ)に、

伊奈半左衞門樣、御屋敷の前通り、同樣、小家、掛させられ、水入の百姓を、御すくいたまわる事、ひとへに、御じひ、ふかき事どもなり。

 又、千住大橋・「小つが原」・「まろき橋」は「今どの」へん、「さんや」・「とりごへ」・田中なぞ、水、十萬[やぶちゃん注:右に『(充満)』と傍注する。]せしことなれば、中々、往來、也(なり)がたし。

 水せいは、吉原の土手、こし候へば、郭(くるわ)の者ども、

「此つゝみ、切(きれ)ては、ほんに叶まじ。」

と、「日本づゝみ」に土俵を上げ、又、大門のまへ通り、壱丈あまりに、土俵をつき[やぶちゃん注:「堆(つ)き」。]、水ふせぐこと、おびたゞし。

 「みのわ」・金杉・「三河しま」、水入候(みづいりさふらふ)事なれば、みなみな、にげうせ候なり。

 實(げ)に、田町の通りも、水、まし、三、四尺づゝも、是(これ)あるなり。

 又、淺草くわんおん御寺内(うち)は、よほど高き所ゆへ、少々、水、出候へば、此所へ、人々、あまた、あつまり、水、引(ひく)を、

「いや、おそし。」

と待(まち)けり。並木・「こまがた」近へんも、少々、水、附(つき)、御藏米(おくらまい)八町・「天王ばし」迄、水、つよく、往來、舟にて、通用す。

 又、下谷門ぜきまへ、こうとく寺の近へんも、右同斷の大水なり。

 扨、東海道の川々は、「六ごう」・「馬にう」・「さ川」[やぶちゃん注:右に『酒匂』と傍注する。]なぞ、いづれも川留(かはどめ)、「鶴み」のはし、落(おち)候(さふらふ)て、「かな川新町」・「藤澤しゆく」、萬水のことなれば、往來、一面、ならざりけり。

 程なく、雨もやみければ、水も、段々、引にけり。

 とざゝぬ御代のことぶきと、水入(みづいり)、御すくいたまはること、廣代(くわうだい)の御じひなり。

 扨、大雨にて、くづれ候所を、しるす。

 芝「あたご山」・同切通し・「まみ穴」井伊樣御屋敷の土手・山王の御山・春日の山、其外、少々づゝの所は筆につくしがたし。 大 尾

 

[やぶちゃん注:以下、村名表を挟んで、二図ともに底本のものをトリミング補正し、見開きの部分を合成して見かけ上で接合した(実際には原図自体が綺麗に切られていないので、ごく接近させただけである)。]

Mitisujihougakujyunmitige

 

[やぶちゃん注:標題は「道筋方角順道 下」。流石にこのキャプションを示す気はない。現代の地図と合わせて確認するには、まず、この画像をデスクトップに保存して、右に九十度回転して南北を合わせた上で、「古地図 with MapFan」を開き、現在の東京駅を上の現代の地図で示すと、下方の江戶時代の石川島が南東位置に現われる。そこで隅田川を遡れば、永代橋・新大橋・両国橋を辿って、両国橋東詰の少し離れた位置に「回向院」が現われ、本地図の「ゑかうゐん」と一致するので、以下は、この地図と「古地図 with MapFan」を左右に置けば、簡単に現在の地図での確認も出来る。但し、隅田川の右岸の縮尺や位置が左岸とは一致しておらず、戶惑うかも知れない。その時は、現在の秋葉原駅を捜して、その西下方見ると、万世橋があるが、その下方を江戶切絵図で見ると、「筋違橋門」とあって、それが、本図の左下方にある「すしかへ御門」である(その左の「小石川」「本郷」なども圧縮されてしまっている)。]

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が枠に囲まれており、全行が罫線で閉鎖されて書かれてある。頭の「增補」と「新全」の間には橫罫が入る。そんな感じだけを出すためにダッシュや罫線を用いた。地名の注は附さない。]

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增補 │

    │ 村 所 附 幷  道 の 記

新全 │

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○まん本所に 小むめ村  押あげ村  うけち村

[やぶちゃん注:「まん本所」に馬琴が右傍注して『「まん」は『まづ』の誤なるべし』と振る。]

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柳しま村   うめたむら てらじま村 さなへ村

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かめあり村  すさき村  若みや村  千ば村

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四ツ木むら  大どむら  しぶへむら 善右衞門新田

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龜いど村   おむらい村 平井むら  小松川

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石き村    松もと村  小いわ村  笠つか村

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かまたむら  ほり切村  寶木づか  小すげ村

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小やの村   柳原村   あやせ村  水どはしおち

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ゑのきど   大はら村  すのまた  はな又村

――――――――――――――――――――――

うたゝ村   長田村   川はた村  大はたむら

――――――――――――――――――――――

木下川    木下むら  彌五郞新田 長はつ新田

――――――――――――――――――――――

かまくら新田 嘉兵衞新田 久左衞門新田 八右衞門新田

――――――――――――――――――――――

おゝと新田  荻しん田  深川出村   まよりも

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弐合半領   大水にて  船ばし    行とく

――――――――――――――――――――――

市川邊    八わた   くまが谷   木下風

――――――――――――――――――――――

松 戶    小がね   みな利根川  の道すじなり

――――――――――――――――――――――

右水入の者、不殘、伊奈半左衞門樣御屋敷のまへ通りに、御小屋をかけさせられ、御すくい給(たまは)る事、誠に廣代の御慈悲なり。ちう夜御見𢌞りの上、病人ていの者には、御藥を被下置。小どもには「ぜんべい」五枚づゝ、女どもには、髮の油・元結・差紙迄、被下事、ひとへに御慈悲深き事なりけり。

――――――――――――――――――――――

 

[やぶちゃん注:以下の図の標題は「大水ばしよ附※ 全」。この「※」は一見、「咄」に見えるが、寧ろ、「口」+「圡」で、「圖」の異体字で囗(くにがまえ)の中に「土」を入れた字体の異体字ではないかと考えている。則ち、「大水場所附」(おほみずばしよづき)]の「圖 全」の意であると採る。いちいちこのキャプションを示す気は、やはり、ない。また、これは異様な広域を変形圧縮してあるので、地図では示しにくい。ざっと見るに、関東で、その南北では、江戸板橋及び葛西から、上野高崎及び下野宇都宮まで、東西では、同古河及び小貝川を最東に置き、それと並行する鬼怒川(利根川の下流の流れには河口の「銚子」を示す記入はある)から、上野の山中に発する神流川(かんらがわ)までが、概ねの記載範囲かと思われる。気になる地形では右丁下方の利根川の中州のように描かれている「五ケ村」であるが、これは下総国葛飾郡にあった、現在は茨城県西南端に位置する猿島郡五霞町(ごかまち)のことと推定出来る。]

 

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曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その2)

 

 天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに、日蝕、皆既なり。貴賤となく、貧富となく、立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに、くにのうち《六合》[やぶちゃん注:「くにのうち」への漢字ルビ。]、忽に、とこやみとなりしかば、心あるも、こゝろなきも、驚き怕れずといふもの、なし。

[やぶちゃん注:「天明六年丙午の春正月元日の巳のとき」天明六年丙午元旦午前十時。同日はグレゴリオ暦で一七八六年一月三十日。斎藤月岑(文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年:江戸の町名主で考証家)の編になる「武江年表」を見ると(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、この日は、

   *

午一刻より未一刻迄、日蝕皆既、闇夜の如し【筠庭云、曆面とは違ひて、八分計の日蝕なりしと也。】。

   *

とあって、続けて、『○【筠補。】正月半頃より日每に風あらく、物のかはくこと、火にあぶるが如しといへり。』という異常乾燥状況を記して、読む現在の我々でさえ「ヤバそう」と思うところに、『○正月二十二日、晝九時、湯島天神裏門前牡丹長家より出火、西北風、烈しく、』として、大火事となっていることが記され、翌日二十三日、また、二十四日夜、二十七日午後零時頃にも火事の記載が続く(これは以下で馬琴も綴っている)。この時の部分日食はかなり大きく太陽を遮蔽しており、例えば、嘉永五(一八五二) 年 十一月一日にも日食が起こっているが、同書のその日の記載では、『○十一月朔日、巳刻日より日蝕九分なり【闇夜にはならず、往來の時、行燈を用る程にはあらず。】。』と記されていることから、この天明六年の日食では、行灯(あんどん)を用いなければ、往来を歩けないほどの闇夜のようであったことが判る。何より、ここで馬琴は問題にしていないが、この天明六年の日食は「午」の「一刻」(午前十一時)から「未」の「一刻」(午後一時)まで続いた、とあることである。ここにも「午未」の不吉な符合が出現しているのである(以上は北区立中央図書館の「北区の部屋だより」の二〇一二年七月発行の「第36号 修正版」の「北区こぼれ話  第35回 江戸時代の日食」PDF)の説明を元に以上を私が調べたもの)。なお、「筠庭」(いんてい)「筠」は江戸の国学者・考証家であった喜多村節信(ときのぶ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の号。名は信節(のぶよ)とも称した。江戸町年寄の子で、博覧強記を以って聞こえ、学は和漢に通じ、書画もよくした。著書には民間風俗の宝庫として名高い「嬉遊笑覧」を始めとして「武江年表補正略」・「筠庭雑考」などがある。

「くにのうち(六合)」「六合」は「りくがふ(りくごう)」で、天地と四方とを合わせて言い、「世間・世の中・天下・世界」の意である。]

 この故に、殿中にても、總出の時刻などを、例年にはたがへさせて、蝕し果てゝ後にこそ、年のはじめの御禮を受けさせ給ひし、と聞えたれ。

 かくて、この日、火災あり。これより後、雨は稀にて、風の、しばしば、吹けばにや、江戶の中、日每々々に、こゝかしことなく、兩三ケ所づゝ失火・延燒してければ、人みな、駭(おどろ)き惑ひつゝ、ぬりごめ《土庫》[やぶちゃん注:漢字ルビ。土蔵。]をもてるは、家財・集具を、索(なは)もて、からげ、衣裳・調度を葛籠(つづら)・簞笥におしいれて、所せきまで、積みかさねつゝ、今燒けぬと、待つがごとし。こゝをもて、いまだ類燒せざるものも、「燒きいだされ」に異ならず。客ある家[やぶちゃん注:主人以外の親族の意であろう。]の、ともすれば、茶碗にすら、ことをかきたり。さればとて、おのもおのも、遠謀遠慮あるにはあらで、人、ぞよめきの勢ひなれども、これも時變の一端なるべし。

 かう、罵り、さわぐこと、正月・二月、甚しく、三月に至りても、なほ、人こゝろ、しづかならず。四月なかばになりてこそ、世は、やゝ、のどかになりにたれ。されば、南畝子の「四方のあか集」にあらはれたる「春日泉亭詠雜煮餠狂歌」[やぶちゃん注:「春日、泉亭に、雜煮餠(ざうにもち)を詠ずる狂歌。」]の序にも、

「ことしは、ひのえのわらは竹、うまにのれるとしなめりと、人々、つゝしみ、おそれしが、はたして、春日野(かすがの)のとぶ火にはあらで、もるてふ水の手、あやまちより、市人(いちひと)のかりずまゐも、野守がいほの心地し侍りて、今、いくか、ありて、ざれごといひてん、など、いひしらふも、ほいなし。」

と書かれたり。

[やぶちゃん注:「わらは竹」「童」が竹を折り取って、竹「馬」にする、年になることと、「午」を掛けたもので、「丙午」の世間共通に厄年認識を言っている。

「春日野(かすがの)のとぶ火に……」「古今和歌集」の巻第一の春歌上に「読み人しらず」で載る一首(十八番)、

 春日野の飛ぶ火の野守(のもり)出でて見よ

     今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ

をパロったもの。「春日野の飛ぶ火」は、本来は和銅五(七一二)年に緊急連絡のために設置された軍事用の烽火を上げる狼煙台(のろしだい)を指すが、ここは単に禁園の野守(番人)に、趣のない外敵の番などせずに、七草に若菜の育ち具合を見て、「後、何日経ったら、若菜が摘めるようになるか?」と洒落たものである。しかし、南畝はそれを「春日」(しゅんじつ)の「飛ぶ火」(盛んに起こる火事が突風で延焼するさま)としてブラッキーに変じて言ったものであろう。「もるてふ水の手、あやまちより」は「手に盛る」(掬う)「水」が「漏れ」て火を消すに至らぬ「過ち」によって、燎原の火となった江戸の火災の惨事を言ったものであろう。]

 とにもかくにも、この春は、花見て、くらす人は、稀にて、只、火事の噂をしつゝ、ありくらしゝも、うるさかりき。

 當時(そのとき)、「燒原場所附(やきはらばしよづけ)」とかいふものを賣りあるきしも多かりけれど、見たるも忘れて、思ひいでず。今もなほ、好事の家には、藏弃(ざうきよ)したるも、あらんかし。

[やぶちゃん注:「燒原場所附」とは恐らく、瓦版の一種で、度重なる火災で焼け野原となった町・火事場をリストとして並べた号外のようなものではないかと推測する。後で馬琴が洪水後の報知のそれを載せている。調べたところ、烈しい複数個所への落雷があったりした際にも同じような所附が出ており、その実物画像の確認も出来た。

「藏弃」整理せずに或いは捨てたつもりで所蔵しているもの。]

 かくて、夏にもなりにければ、火災の噂はやみ《寢》[やぶちゃん注:「やみ」への漢字ルビ。]たりしに、この年七月十二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦八月五日。]より、雨のふりそゝぐこと、おびたゞしかりしに、十四日より十六日に至りて、又、洪水のわざはひ、あり。まづ、江戸は本所・深川・木場・洲﨑・竪川筋・牛島・柳島のほとりの洪水、いへば、さらなり。下谷・淺草・外神田、いづこも、水に浸されぬは、なし。

 予が叔父田原米嶽翁は、本所林町なる武家に仕へたりしが、その身は、主(しゆう)の先途(せんど)に立ちて[やぶちゃん注:底本は『その身は立のき先途に立ちて』で判り難い。「馬琴雑記」の本文を用いた。]、家族《ヤカラ》を見かへるに、いとまあらず。家の内のものどもは、長屋の屋根に登りつゝ、そが儘、船に乘りうつりて、からくして、脫れしとぞ。

 又、次の叔父兼子翁は、御船手組(おふなてぐみ)の同心なれば、水のうへに、こゝろを得て、船も亦、自由なれば、これも、やからを、いちはやく、所親(しよしん)[やぶちゃん注:親元。]がり、遣しゝに、危きことはなかりし、といへり。

 又、予がめのをんなは、大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】の母うへに、みやづかヘせしころなりければ、これも又、御徒町なる邸中より、船に乘せられしが、「しのばずの池」のはたなる同家加藤氏の邸中へ、みまへに倶して參りしに、かしこも水の中なりき、といへり。

[やぶちゃん注:「予がめのをんな」馬琴の妻は元飯田町中坂(現在の千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現在の築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む、会田家の未亡人百(三十歳)の婿となったが、会田姓を名乗らず、滝沢清右衛門を名乗った。

「大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】」この翌年に第十代大洲藩主となった加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年?~文政九(一八二六)年)。九代藩主加藤泰候(やすとき 天明七年没)の長男。幼名は作内で、最終官位は従五位下・遠江守。大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)。]

 予もはらからも、當時、みな、山の手にをりしかば、この水難にはあはねども、親戚のうへ、心もとなし。ゆきて訪はばやと、思ふものから、永代橋・大川橋は、往來をとめられて、柳橋も亦、人を、わたさず、この他、大橋の中の間、破損して、和泉橋は落ちたり。只、恙なきものは兩國橋一ケ所なれども、本所・深川の水高ければ、船ならざるもの、ゆくこと、得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞の当て漢字。]ならず。凡(およそ)、下谷は「いづみ橋」筋・「あたらし橋」筋・外神田御成道など、商人の見世さきを、船にて、往還しつる事、しらざるものは、そらごとゝや思はん。只、これのみにあらずして、小石川御門外・牛込揚端・「どんど橋」の邊りまでも、前もて聞かぬ出水(でみづ)、高くて、溺死のものも、少からず。

 かくて、兩三日のゝち、牛込の水の退(ひ)きしを、仲兄鶴忠子が、「見ん。」とて、ゆきし折、

 けさひきしわだちの水のふなかはら泥鰍《ドゼウ》ふみこむ跡もどろ龜

當時、鮒・泥鰌なんどの、泥に塗れてありけるを、まのあたりに見て、よまれしなり。さは、この狂歌は絕筆にて、次の月の初の四日に、ときのけ[やぶちゃん注:「馬琴雑記」に『時疫(ときのげ)』とある。流行り病ひ。]にて、身まかりにき。享年廿二歲なり。いとかなしとも、かなしかりしを、身にしみじみと忘れがたさに、言のこゝに及べるなり。

 只、此わたりの水のみかは。日本堤を、うちこえて、田町へ、水のおしたれば、聖天町・山の宿・淺草反畝[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『淺草田圃』とある。]もひとつになりて、金龍山[やぶちゃん注:浅草寺。]の裙(すそ)を遶(めぐ)れり。まいて、千住・松戶の邊、葛西・行德(ぎやうとく)・千葉のわたり、熊谷・浦和に至るまで、みな、この水を受けぬは、なし。

 されば、十七、八日のころよりして、「水見まひ」の良賤(りやうせん)[やぶちゃん注:身分の高い者と賤しい者。]、奔走しつゝ、辨當・偏提《サヽヱ》[やぶちゃん注:水や湯を入れる金属製の容器。それ自体で温めることも出来る。]・坐具・調度を、おもひおもひに齎(もた)らして、ゆくもの、ちまたに、陸續たり。

 又、關東御郡代伊奈氏のうけ給はりて、馬喰町のあき地に假屋をしつらひ、水厄(すいやく)のものを入れおかせて、日每に粥を下されけり。

[やぶちゃん注:「關東御郡代伊奈氏」関東郡代は正式な徳川幕府の役職としては、江戸時代に一時期、二度だけ設置した臨時役職を指すが、ここは、それ以前にそう名乗って権勢を揮った「関東代官頭」伊奈氏のことで、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄し、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また、将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っていた。陣屋は、当初は武蔵国小室(現在の埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋で、後、寛永六(一六二九)年に同国赤山(現在の埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後、十二代二百年間に渡って伊奈氏が関東代官頭の地位を世襲した。元禄五(一六九二)年に飛騨高山藩領地が天領となった際には第六代忠篤(ただあつ)が飛騨郡代も一時的に兼務した。第七代忠順は富士山の「宝永大噴火」の際に砂除川浚奉行に任じられている。本来、関東代官頭は勘定奉行の支配下にあったが、第八代忠逵(ただみち)の代の享保年間には、鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、享保一八(一七三三)年には勘定吟味役を兼任しており、関東代官頭は老中の直属支配下に入ることになった。さらに第十二代忠尊(ただたか)は天明五(一七八五)年に奥向御用兼帯となり、その二年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。ここに出るのはこの忠尊である。伊奈氏の「関東郡代」の自称も、こうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。しかし、この直後、伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって寛政四(一七九二)年三月に忠尊は関東代官頭を罷免された上、改易されてしまった(以上はウィキの「関東郡代」に拠った)。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 靈智

 

  靈   智

 

ふるへる

微光のよるに

いつぱつ

ぴすとるを擊つ

遠方に

金の山脈

かすかな

黑燿石の發光。

 

[やぶちゃん注:底本は初出を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。前の「永日和讃」と同時掲載である。筑摩版全集でも同誌同月号として、以下の初出を示す。

 

 靈智

 

ふるへる、

微光のよるに、

いつぱつ、

ぴすとるを擊つ、

遠方に、

金の山脈、

かすかな、

黑燿石の發光。

 

黒曜石(英語:Obsidian(オブシディアン:英名の元はエチオピアでオブシウス (Obsius)という人物がこの石を発見したとするプリニウスの「博物誌」のラテン語記述による呼称)は「黒耀石」とも書き、近代作家でも野村胡堂などが「黑燿石」と表記し、私は寧ろ、ガラス質の石質の輝きから、「黒耀石」「黒燿石」(「耀」「燿」は孰れも「かがやく」の意)の方が字面からはしっくりくる(但し、「曜」もやはり「かがやく」の意だが、私は寧ろ「黒曜石」とは書かない)から、何ら問題ない。強迫神経症の筑摩版全集校訂本文は「黑曜石」に変えてある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 永日和讃

 

  永 日 和 讃

 

ひとのいのりはみなみをむき

むぎはいつしん

うをはいつしん

われはしんじつ

そらにうかびて

ゆびとゆびと哀しみつれ

たましひは

ねもごろにほとけをしたふ。

 

[やぶちゃん注:底本は初出を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。筑摩版全集でも同誌同月号として、以下の初出を示す。

 

 永日和讃

 

ひとのいのりはみなみをむき、

むぎはいつしん、

うをはいつしん、

われはしんじつ、

そらにうかびて、

ゆびとゆびと哀しみつれ、

たましひは

ねもごろにほとけをしたふ。

 

「讃」は、ここでも、正字「讚」ではない。実は「讃」の字は、中世・近世でも「讃」の表記が既に有意に見られ、また、近代作家でも、「讚」ではなく、「讃」と書く作家は有意に多く、明治期の刊行物でも「讃」となっているものが散見されるのである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 鑛夫の歌

 

  鑛 夫 の 歌

 

めざめよ

み空の金鑛

かなしくうたうたひ

なみだたれ

われのみ土地を掘らんとす

土地は黥靑

なやましきしやべるぞ光る。

 

ああくらき綠をやぶり

天上よりきたるの光

いま秋ふかみ

あふげば

一脈の金は空にあり。

 

めざめよ

み空の金鑛

かなしくうたうたひ

なみだたれ

われなほ土地を掘らんとす。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正三(一九一四)年九月二日作で同年十月発行の『地上巡禮』初出とする。筑摩版全集でも、「拾遺詩篇」に同誌同月号として初出を載せる。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 鑛夫の歌

 

めざめよ、

み空の金鑛、

かなしくうたうたひ、

なみだたれ、

われのみ土地を堀らんとす、

土地は黥靑、

なやましきしやべるぞ光る。

 

ああくらき綠をやぶり、

天上よりきたるの光、

いま秋ふかみ、

あほげば、

一脈の金は空にあり。

 

めざめよ、

み空の金礦、

かなしくうたうたひ、

なみだたれ、

われなほ土地を堀らんとす。

              ―九月二日―

 

なお、「黥靑」であるが、見かけない熟語ではあるものの、「入れ墨」は「刺靑」とも書くから、「黥靑」でも意味は同義と判る。我れなる鑛夫が、内なる秘かな内面の土地を掘る刻すのを、「刺靑」に譬えたのは腑に落ちる。但し、ここで萩原朔太郎がこれを何と読んでいるかは、判らない。彼が、ひらがなの「てふてふ」(蝶々)をそのまま発音するべきだと言ったのは有名だが、「生活」に「らいふ」とたまさか振ってみたりと、漢字にはトンデモないルビを附すことでも知られる(因みに、ここでも「掘」を「堀」とするように(これは実は他の作家の原稿でもしばしば見られる慣用使用である)、萩原朔太郎の漢字の誤りや慣用使用は実に呆れるばかりに多く、その誤字使用を確信犯で内的に慣用化しているとしか思われない偏執的な特定文字も、ままある)。ここは「げいせい」か「いれずみ」であるが、音声として聴いた際には「げいせい」では、この漢字二字を直ちに想起出来る人間は皆無と思われ、されば、これは視覚上の面白さを狙いつつ、読みは「いれずみ」と読んでいると採るべきである。

 なお、同様の印象を与える、本底本で後掲される「土地を掘るひと」があるが、これは詩想として無縁とは言えぬものの、直接的ヴァリアントではない。また、先行する「純銀の賽」の草稿題はよく似た「坑夫の歌」であるが、内容は全く異なる。]

2021/10/25

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その1)

 

[やぶちゃん注:発表者は馬琴で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻第三下編の頭には「天明丙午水同丁未飢饉の記」があるのだが、吉川弘文館随筆大成版と比較してみると、明らかに「兎園小説」版の方が遙かに詳しく、整序されてあり、絵図も二つ附属している(「馬琴雑記」絵図は甚だ粗雑であるので省略した旨の編者の割注がある)ので、ここは吉川弘文館随筆大成版を底本とし、読みに於いて大いに参照させて貰うことにした。非常に長いので、分割し、段落を成形し、今回は「馬琴雑記」で確認出来たものも含め、歴史的仮名遣でオリジナルに難読部に( )で読みを附した。ごく僅かにある底本のルビは《 》で示した。なお、標題の読みであるが、「ひのえうまひのとひつじ」でも構わぬのだが、内容が悲惨を極めた「天明の大飢饉」(広義には天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする)中の天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未の水害と飢饉を綴ったもので、どうも訓では申訳がない気がする。冒頭で漢文を引用して示していることからも、ここは「へいごていび」と読むべきである。なお、董青氏の論文「日中禁忌文化の比較」(「大谷大学学術情報リポジトリ」名義でPDFでダウン・ロード可能)が学術論文として興味がそそられる。因みに、以下の前振りの漢文の電子化と訓読とさわりの注だけで、九時間余りを要した。] 

   ○丙午丁未

 愈文豹[やぶちゃん注:底本は「意文豹」であるが、「馬琴雑記」で訂した。]吹剱錄云、可丙午丁未年。中國遇ㇾ之。必有ㇾ災。謝肇淛五雜俎載是言。曰。亦有盡然。粤攷淸王士禎池北偶談。又有其辯云。丙午丁未。從ㇾ古以爲厄歲陰陽家云。丙丁屬ㇾ火。遇午未而盛。故陰極必戰。亢而有ㇾ悔也。康煕丙午冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海[やぶちゃん注:底本は「藪納海」であるが、「池北偶談」原本陰影と「馬琴雑記」によって訂した。]。督撫尙書王登聯等搆死。丁未春災祲疊見。彗星出。太白晝見。白眚[やぶちゃん注:底本は「白星」だが、同前で訂した。]西北經二月餘。是歲七月。輔臣蘇克薩誅死。吾友程職方謂。予欲輯前史所ㇾ載丙丁災變徵應一書。頃見宋理宗淳祐中。柴望所ㇾ上丙丁龜鑑十卷。自秦莊襄王五十二年丙午[やぶちゃん注:底本では「午」は「丁」であるが、同前で訂した。]。迄五季後漢天福十二年丁未。通一千二百六十載。中爲丙午丁未者二十有一。備摭事實[やぶちゃん注:「摭」は底本では(れっか)部分が「从」になっているのだが、これは「池北偶談」に同文字列を発見し、「馬琴雑記」もこれなので、この字に代えた。]。係以論斷。元至正中。又有續丙丁龜鑑者。補宋元事之闕。前人已有此二書。當考據。故明三百年中事應。以續二書之後

と、いへり。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。必ずしも、「馬琴雑記」の訓点には従っていない。

   *

 愈文豹(ゆぶんへう)が「吹剱錄」に云はく、『丙午丁未(へいごていび)の年、中國、之れに遇へば、必ず、災ひ、有り。』と。謝肇淛(しやてうせい)が「五雜俎」に是の言れを載せて曰はく、『亦、盡(ことごと)く然(しか)らざる者、有り。』と。粤(ここ)に淸の王士禎が「池北偶談」を攷(かんが)ふれば、又、其の辯、有り。『丙午丁未は、古へより、以つて厄歲と爲す。陰陽家の云はく、「丙・丁、火(くわ)に屬す。午・未に遇ひて、盛んなり。故に、陰、極まれば、必ず、戰(あらそ)ふ。亢(こう)して悔ひ有るなり。」と。康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海・督撫尙書王登聯等、搆死(こうし)す。丁未の春、災祲(さいしん)、疊(しき)りに見ゆ。彗星、出づ。太白、晝、見ゆ。白眚(はくせい)、西北に出で、月餘を經(ふ)。是の歲七月、輔臣蘇克薩、誅死す。吾が友、程職、方(まさ)に謂ひて、「予、前史に載する所の丙・丁の災變・徵應を裒輯(ほふしふ)し、一書に爲(な)さんと欲す。頃(この)ごろ、宋の理宗淳祐中、柴望、上(あぐ)る所の「丙丁龜鑑」十卷を見るに、秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで、通して、一千二百六十載、中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一。備(つぶさ)に事實を摭(ひろひと)り、係(かか)るに、論斷を以つてす。元の至正中、又、續く「丙丁龜鑑」の者、有るを、宋・元事の闕(けつ)にて補ふ。前人、已に、此の二書、有り。當に考據すべし。故に、三百年中の事應、明かにし、以つて二の後に續く。」と。』と。

   *

『兪文豹「吹剱錄」』撰者は南宋の人であること以外は判らなかった。史料で、「外集」もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、元末明初の学者陶宗儀の漢籍叢書「説郛」の巻二十七PDF)の40コマ目右丁二行目で引用部が確認出来る。

『謝肇淛「五雜俎」』既出既注であるが、再掲すると、「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻一の「天部一」に、

   *

又「吹劍錄」載、丙午・丁未年、中國遇之必有災、然亦有不盡然者。卽、百六、陽九亦如是耳。

   *

とあるのを指す。これを含む一節全体は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。

『王士禎が「池北偶談」』清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部が視認出来、これによって、最後までが、本書からの長い引用であることがわかる。則ち、思うに、この冒頭の漢文全体は、馬琴が引用に少し、言葉を添えて繋げたものと推定出来る。

「康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】」康煕五(一六六六)年。

「搆死す」「搆」は「引く・構える・組み立てる・計画する」の意であるが、まあ、死を迎えたの意でよかろう。本字は「構」にも通じ、「構」には「強いる」の意もあるので、帝君から「死を強いられた」と読むことも可能で、「そうであったかどうか、調べても判らんだろう」と思いつつも、試みてみたところが、図に当たった! 「維基文庫」の「清史稿 卷一百二十」の中の「田制」の条に、「戶部尙書蘓納海」と「督撫尙書王登聯」について(漢字表記が不統一なので正字化した)、

   *

戶部尙書蘇納海・總督朱昌祚・巡撫王登聯、咸、以不如指、罪至死。

   *

とあった。「咸」は「皆」の意で、「總督朱昌祚」は「池北偶談」ではカットされているから、「等」が腑に落ちるわけだ! あきらめんでよかった!

「災祲」(さいしん)「祲」の字は原義が「災いを起こす悪い気・不吉な気」で、他に「太陽の周りにかかる暈(かさ)」の意もある。後者は「ハロ」或いは「ヘイロウ現象」(halo)として知られる光学現象だが、中国では古代より、「白虹が太陽を貫く」ことは、恐るべき「兵乱・大乱の兆し」とされた。「白虹」(白い龍)は「干戈」を、「日」は「天子」を表わすとされる。

「疊(しき)りに」「馬琴雑記」の送り仮名と、「疊」の持つ意味から類推して訓じた。

「白眚(はくせい)」「黑眚」は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で述べたが、それ自体が幻獣であり、白黒(びゃくこく)の色とあり、そのアルビノと考えていいだろう。禍いを齎す悪獣である。以下の叙述から、それまでなかった位置に突如、現れ、一ヶ月以上消失しない、白い光を放つ星と読め、巨大なこちらに頭を向けた流星、或いは、超新星か?

「程職」不詳。

「裒輯(ほふしふ)」(ほうしゅう)は「集めること」及び「編集・集録すること」の意。

「宋の理宗淳祐中」「理宋」は南宋の第五代皇帝。「淳祐」は彼の治世の一二四一年~一二五二年の元号。

「柴望」(一二一二年~一二八〇年)は南宋の詩人。彼はこの「丙丁龜鑑」五巻(実に、秦の昭王五十二年丙午(紀元前二五五年)から、五代の後漢の天福十二年丁未(九四七年)までの丙午丁未の厄災・凶兆を拾い出したものらしい。「池北偶談」は十巻とするが、調べる限りでは五巻である)を淳祐六(一二四六)年に上表した結果、世に不安を広げるものとされ、獄に下っている。数年で出獄してようで、後には官職を得て、史料編纂などをやっているか。死の前年に南宋は滅び、元が建国したが、その招きには応じなかった(中文の「百度百科」の彼の記載を判らない乍らも参考にした。一部の不審な箇所は訂した)。

「秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで」「莊襄王五十二年」は秦の第二十八代君主にして第三代の王である「昭襄王」の「池北偶談」の誤りと思われる。それでも「通して、一千二百六十載」というのはおかしく、数えで一千二百三年にしかならないのだが、記載通りの「莊襄王」では、昭襄王の次の次の代の王(紀元前二四九年~紀元前二四七年)で、更に閉区間年が短くなってしまう。前の「百度百科」での西暦記載を信ずることとする。

「中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一」計算すると、紀元前二五五年から紀元後九四七年の間のそれは確かに正確に孰れも二十一回である。

「摭(ひろひと)り」「拾ひ採り」。

「係(かか)るに、論斷を以つてす」それに「關はる」ところの各個的な厄災や凶兆とある事柄を確定し、「丙午丁未」の持つ災厄性に就いての論を展開している。

「元の至正中」元の順帝(恵宗:トゴン・テムル)の治世で用いられた元号。一三四一年 から一三七〇年まで。一三六八年、元が大都(現在の北京)を追われ、明が成立するが、後も、「北元」の元号として使用された。

「宋・元事」柴望以後の宋及び元の厄災などの事実。

「闕にて補ふ」欠けた部分として追加して補っている。

「此の二書」「丙丁龜鑑」及び「續丙丁龜鑑」(こちらは撰した人物は未詳のようである。一巻か。後補された年月では「丙午丁未」七回である)。

「三百年中」「池北偶談」の序は一九〇一年であるから、明の成立する一三六八年からは、五百三十三年も隔たるが、この一三六八年に三百を足すと、一六六八年になる。さて、大清帝国は一六一六年に満洲に最初に清として建国されたが、一六四四年に中国本土とモンゴル高原を支配する統一王朝となった(一九一二年滅亡)。王士禎は一六三四年生まれであるから、「池北偶談」出版の一九〇一年当時は満で五十七ほどである。この彼の友人である程職の言葉には、ある種の気負いがあって、もっと前の若さを感じる。例えば、これを三十年ばかり遡って二十代の王と程(同年代と考えてである)を考えてみる。すると、一八七一年頃となる。さて、そこで、大清帝国になってからの「丙午丁未」を、例えば、この一八七一年ま頃でで見ると、それでも、四度もあるのである。しかし、そうすると、「三百年中」の意味が齟齬する。それに拘って、これを一六四一年までに区切ったのだとすると、「丙午丁未」は、実は、ただ一度の一六六六年と一六六七年だけなのである。さすれば、これは単なる推理となるが、この程職なる人物は、実は、清代になってからの丙午丁未については、「丙丁龜鑑」で柴望が処罰されたことを鑑み、実は扱うのを憚ろうと思ったか、或いは、向後の中・長期的展望を待つとして災厄を特定するのはやめようとしたのではなかったろうか? と私は考えるのである。但し、程職の手になる「續々丙丁龜鑑」は書かれなかった、書けなかった、或いは程職はその後にその幻しの書の執筆を叶えることなく、白玉楼中の人となったのかも知れない。その思い出と彼への哀悼を籠めて、ここに長く彼の生の台詞を記したのではなかったか?……などと勝手な妄想をしてしまったのである。]

 

 解(とく)いはく、「天朝も、いにしへより、丙午丁未の年每に、さる、しるし、のこりけるにや。いまだ、考索にいとまなければ、見ぬ世の事は、姑(しばら)く措(お)きつ。

 只、予が親しく耳に聞き、目に見えしまゝをもてすれば、天明丙午の火災・洪水、丁未の饑饉[やぶちゃん注:底本は『饉饉』。「馬琴雑記」で訂した。]に、ますもの、なし。こは、遠からぬ世の事にて、五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり。まいて、今より後の人は、昔がたりに聞きながして、警(いまし)め愼むこゝろ、薄くば、遂に又、荒年の備へに[やぶちゃん注:底本に「備へに」なし。「馬琴雑記」で補った。]懈(おこた)ることもあるべし。この故に、只、見聞のまゝに記してもて、後生(こうせい)に示すのみ。しかれども、老邁(らうまい)[やぶちゃん注:老化が進んでいる状態を指す。]、よろづに遺忘(ゐばう)多くて、記憶の壯年に及びがたきを、いかゞはせん。かゝれば、漏らすも多かるべく、思ひたがへし事も、あるべし。

[やぶちゃん注:「五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり」天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未は、この「兎園会」発会の文政八(一八二四)年十月二十三日からは、六十八、七年も前のこととなる。]

 抑(そもそも)、この歲の凶荒は、京の人、

「原氏が、「五穀無盡藏」とかいふものに、しるしつけたり。」

とは聞きしかど、予は、いまだ、その書を見ざりき。さばれ、只、その書には、諸國の米の價(あたひ)をのみ、をさをさ、しるしゝものと、なん。しからんには、予が編の、いと淺はかにて、疎鹵(そろ)[やぶちゃん注:おろそか。疎漏。粗略。]なるも、考據(かうきよ)の爲になるよし、あらんか。

 されど、乙巳のみな月には、わが身、失恃(しつじ)[やぶちゃん注:底本は「異特」。「馬琴雑記」を採った。自負心を損じること。]の憂あり。又、丙午の葉月には、仲兄、夭折せられたり。かく、うれはしく物がなしき折なりければ、世上の事を、只、よそにのみ聞き捨てゝ、書きつけおきしことはなきを、こゝに、はつかに思ひ出でゝ、その大かたを、しるすよしは、嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編にちなみて、なん。

[やぶちゃん注:『原氏が「五穀無盡藏」』「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」の書誌データによれば、版本は本篇の八年後の天保四(一八三三)年に京都で上原無休なる人物の著として板行されている。『飢饉に備えて豊作の時にも五穀を疎かにするべきではないと、重農主義の論を説いた書。用意すべき糧物や施行の仕方についても記されている』とある。「日本古典籍ビューア」のこちらで原本が画像で読める。ざっと見る限り、馬琴が貶すような瘦せたキワモノなんぞではない、しっかりしたものである

「乙巳のみな月には、わが身、異特の憂あり」「乙巳」天明五年乙巳。一七八五年。「失恃」の具体な内容は不明。丙午の前年。

「丙午」天明六年丙午。

「仲兄、夭折せられたり」次兄興春。ウィキの「曲亭馬琴」によれば、天明五(一七八五)年の母の臨終後に、『貧困の中で次兄が急死する』とある。天明六年なら、馬琴は数え二十であった。

「嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編」第六集の山崎美成の発表の「奧州南部癸卯の荒饑」(本会の五回前の文政八(一八二四)年六月十三日発会の「兎園会」)を指す。]

2021/10/24

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天台靈空是湛靈空

 

   ○天台靈空是湛靈空 平安 角鹿桃窻

享保・元文の頃ほひ、沙門光謙、字は靈空といふ天台宗の學匠たり。近年、皆川淇園翁、一たび、其文章を賞せしより、其名、ますます、あらはれぬ。その書もまた、奇逸なるものなり。また寶曆・明和の頃、淨土宗に靈空、字は是湛といふ僧あり。寬政十一年の刻本、平捃印補正に、比叡山光謙、字靈空と載せ、靈空、是湛の二印を出だせるは、頗、杜撰なり。こは、かの是湛、靈空の印にして、天台靈空の印には、あらず。是、湛靈空は、晚年、寺町今出川の邊、西山派の寺に住せり。此二僧、書風、かつて似るべくもあらぬを、など、誤り傳ヘたるにや。

[やぶちゃん注:「享保・元文」一七一六年から一七四一年。

「沙門光謙、字は靈空」(れいくう 承応元(一六五二)年~元文四(一七三九)年)は天台僧。光謙(こうけん)は名。号は幻々庵。筑前国福岡の出身。十七歳で比叡山に登り、その後、比叡山西塔の星光院の院主となった。二十七歳の時、妙立慈山(みょうりゅうじざん)に師事し、元禄三(一六九〇)年に妙立が没した後は、その弟子を率いて、比叡山の僧風復興に努めた。江戸中期には、南北朝時代に始まった本覚思想の口伝法門が広まり、天台教学・僧儀の退廃が目立ってきたことから、定・慧の二学を刷新し、戒律学に於ける四分律兼学による律儀を導入するなど、僧風の是正につとめた。元禄六(一六九三)年、彼に帰依していた輪王寺宮公弁法親王の命により、比叡山横川飯室谷の安楽院を、天台・四分律兼学の安楽律院に改め、安楽院流の祖となった。元禄八年に「法華文句」を講じた際には日に千人の聴講者がいたと伝えられる。

「皆川淇園」(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)は儒学者。ウィキの「皆川淇園」によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。

「寶曆・明和」一七五一年から一七七二年。

「靈空、字は是湛」生没年は判らなかったが、浄土宗西山禅林寺派の僧として確認出来た。伊勢市古市にある同派の「大林寺」の公式サイトの歴代住職のリストで第六世が享保二(一七一七)年とし、第八世が享保一九年とあって、間の第七世が、『霊空』『是湛上人』とあった。しかし、これが当該人物となると、非常に早くに上人となっており、しかもそれなりに長生きしたことになる。

「寬政十一年」一七九九年。

「平捃印補正」【2021年10月25日改稿】いつも御助力をいただくT氏より、『「平」は分かりませんが』、以下は『石隠編の「捃印補正」』(くんいんほせい)のことで、『国会図書館の「捃印補正」(二巻)上の73コマ目』(左丁左端に「比叡山光謙字」(「あざな」?)「靈空」とあり、上の篆書陰刻が「靈空」、下方の陽刻が「是湛」)にかくあり、『書誌に享和二(一八〇二)年刊』とし、『又、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「捃印補正」巻之一・二の、こちら「上」の72コマ目』に同一のものを確認出来、『早稲田の書誌には「序」が細合方明(寛政十一年(一七九九年)、「跋」が木村孔恭(寛政十二年)とあり、前掲の享和二年刊の再刻』で、『共同刊行』は『柏原屋清右衛門(浪華心斎橋筋順慶町)と書いてあります』とメールを戴いた(木村孔恭は、先般、電子化注を終えた「日本山海名産図会」の木村蒹葭堂である)。印譜が見られるとは、思わなかった。T氏に感謝申し上げる。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 品革の巨女(オホヲンナ)

 

[やぶちゃん注:目次は「品河の巨女」。画像は底本のものをトリミング補正して用いた。私は筆者と同じくこの「おつたさん」がしみじみ哀れに感じたれば、懇ろに清拭し、画像サイズも実物大に限りなく合わせておいた。段落を成形した。]

  ○品革の巨女(オホヲンナ)

 文化四年丁卯の夏四月のころより、世の風聞にきこえたる、品川驛の橋の南なる【こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり。】鶴屋がかゝえの飯盛女に、名を「つた」といへるは、その年廿歲にて、衣類は、長さ六尺七寸にして、据をひくこと、一、二寸に、すぎず。膂力ありといへども、そのちからを、あらはさゞりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「文化四年丁卯」一八〇四年。

「品川の橋の南」「こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり」これは品川宿の南の目黒川に架かる現在の品川橋(グーグル・マップ・データ)で、その南に渡った地域を「川向かふ」「橋向かふ」と呼称した。これは、「あっちは江戸ではない」という江戸庶民の差別的呼称であることは言うまでもない。目黒川河口右岸である。正規の品川宿は左岸であるが、右岸にも非正規の旅籠屋や客相手の曖昧宿(飯盛旅籠)があった。

「飯盛女」(めしもりをんな)は、本来は旅籠屋での接客をする女性のことを指すが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道に早く、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)である。飯盛女を抱える旅籠屋を「飯盛旅籠屋」といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき、二人までを許可しており、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、次第に宿内や近在、特に助郷(すけごう:宿駅常備の人馬の不足を補充するために宿駅近傍の村々が伝馬人夫を提供させられたこと、また、それを課された郷村を指す。最初は臨時で宿の周囲二、三里までの村に課されただけであったが、参勤交代などで交通量が増大し、恒常的となり、十里以上まで課され、金銭代納が多くなり、一種の租税ともなった。これは農村疲弊の一因となり、百姓一揆が頻発することとなった。ここは「旺文社日本史事典」に拠った)の村々の農民を対象とするようになり、宿と助郷間の紛争の種となった。明治五(一八七二)年、人身売買や年季奉公が禁止されたことにより、形式上は解放された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「六尺七寸」二メートル三センチメートル。]

 世に稀なる巨女なれども、全體、よく、なれあふて、しな・かたち、見ぐるしからず、顏ばせも、人なみなれば、

「この巨女に、あはん。」

とて、夜每にかよふ嫖客、多かり。

[やぶちゃん注:「嫖客」(へうかく(ひょうかく))は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や芸者買いをする男を指す。]

 當時、その手形を家巖におくりしもの、あり。すなはち、草して左に載せたり。

 その手は中指の頭(サキ)より、掌の下まで、曲尺六寸九分、橫幅、巨指(おほゆび)を加へて、四寸弱なり。その圖、左のごとし。

[やぶちゃん注:「曲尺六寸九分」二十・九センチメートル。

「四寸弱」十二センチメートル弱。]

 

Otuta

 

 件の「つた」は、出處、駿河のものなり、とぞ。『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」にあらねども、阿漕の浦に引く網のたびかさなれる客ならねば、手を袖にして、あらはさず、足さへ、見するを、恥ぢし、とぞ。

[やぶちゃん注:「『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」」「ひが事」(ひがごと)は「道理に合わないこと・事実に合わないこと・不都合なこと」の意。直接は、鴨長明作とされる紀行「伊勢記」にある、

いづみ野とは、尾張の津島より京へのぼる道を、舟に乘りてゆく。甲斐川を越えて、弓削原村にいづる。

 伊勢人はひがごとしけり津島より

      かひ川行けばいづみのの原

に基づくか。但し、この書は、「方丈記」執筆以前の若き日に、長明が伊勢へ旅した際の和歌と紀行文とされるものの、本文は散逸しており、抜粋などで残存するものを集めたものに過ぎず、一部では偽作ともされる。但し、平安末から鎌倉初期にかけて、かの「伊勢物語」の「伊勢」の名の語源説として、藤原清輔や、彼の養子であった顕昭によって、『伊勢人は僻事(ひがごと)す』という風説に基づく書名とする説が、元にあるようである。

「阿漕が浦に引く網」「人知れず行う隠し事も、たびたび行えば、広く人に知れてしまうこと」の喩え。「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所であり、古くから神聖な漁業域として、一般人の漁は許されていなかったが、「阿漕の平治」という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をし、遂には見つかって簀巻きにされて海に投げ込まれたという伝説に拠る。因みに、「強欲であくどいさま」を指す「あこぎ」も同根。詳しくは、私の「諸國里人談卷之三 阿漕塚」の私の注を参照されたい。]

 これらは、をなごの情なるべし。

 あまりに、いたく、はやりにければ、瘡毒を傳染して、あらぬさまなりしかば、千鳥なくのみ、客は、かよはず。

「いく程もなく、その病にて、身まかりにき。」

と、いふものありしが、さなりや、よくは、しらず。

[やぶちゃん注:「瘡毒」(さうどく(そうどく))は梅毒のこと。]

 又、その翌年【文化五年。】の冬のころ、湯島なる天滿宮の社地にて、「おほをんなのちからもち」といふものを見せしこと、あり。

 予は、なほ、總角にて、淺草の「としの市」のかへるさに、立ちよりて、それをば、見けるに、よのつねのをんなより、一岌、大きなるは、偉きかりしが、品川の「つた」が手形にくらぶれば、いたく見劣りて、さのみ、多力なるものとは、見えざりき。

[やぶちゃん注:「總角」(あげまき)は、元は古代の少年の髪の結い方の一つで、髪を左右に分け、両耳の上に巻いて輪を作る、角髪(つのがみ)とも呼ばれたそれを指すが、ここはそれから転じた「少年」の意。馬琴の長男であった滝沢宗伯(そうはく)興継は寛政九(一七九八)年十二月二十七日生まれであるから、当時は恐らく未だ満六歳であったと思われる。

「一岌」(いつきふ(いっきゅう))は、ここでは、一際、背が高いことの意。

「偉き」「えらき」或いは「おととけき」と読めるが、前者でよかろう。「勇ましい」とか、「猛く勇ましい」の意だが、ここは、単に「一般的な成人女性の標準体躯の程度を遙かに超えている」の意。]

 『彼「品川のおほをんな」は、是なるべし。』と、おもはする、「紛らしもの」としられたり。

 かばかり、はかなきうへにだも、贋物、いで來たる、油斷のならぬ世にこそありけれ。

 こゝに、すぎこしかたを思へば、十八、九年のむかしになりぬ。

 時に、筆硏の間、亦、戲れにしるすといふ。

  文政八年乙酉小春念三     琴 嶺

乙酉霜月兎園會

[やぶちゃん注:「文政八年乙酉小春念三」この発会日。文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 巡禮紀行 / 附・草稿詩篇

 

  巡 禮 紀 行

 

きびしく凍りて

指ちぎれむとすれども

杖は絕頂(いただき)にするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる山峽(はざま)たどる。

 

しだいに四方(よも)を眺むれば

遠き地平を超え

黑き眞冬を超えて叫びせんりつす

ああ聖地靈感の狼ら

かなしみ切齒(はがみ)なし

にくしんを硏ぎてもとむるものを

息絕えんとしてかつはしる。

 

疾走(はし)れるものを見るなかれ

いまともがらは一列に

手に手に銀の鈴鳴りて

雪ふる空に鳥を薰じ

涙ぐましき夕餐(ゆふげ)とはなる。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月とし、初出は翌大正四年一月発行の『異端』とする。筑摩版全集でも同じく同誌の一月号とする。初出を以下に示す。標題の「順禮」も含めて誤字・誤植と思われるものは総てママ。

 

 順禮紀行

 

きびしく凍りて、

指ちぎれむとすれども、

杖は絕頂(いただき)にするどく光る、

七重の氷雪、

山路ふかみ、

わがともがらは一列に、

いためる心山峽(はざま)たどる。

 

しだいに四力(よも)を眺むれば、

遠き地平を超え、

黑き眞冬を超えて叫びしんりつす、

あゝ聖地靈感の狼ら、

かなしみ切齒(はがみ)なし、

にくしんを硏ぎてもとむるものを、

息絕えんとしてかつはしる。

 

疾走(はし)れるものを見るなかれ、

いまともがらは一列に、

手に手に銀の鈴鳴りて、

雪ふる空に鳥を薰じ、

涙ぐましき夕餐(ゆふげ)とはなる。

          ――一九一四、一〇――

 

これには、編者注があって、『十七行目は「鈴なりて」「鈴ふりて」の兩樣に記した草稿がある』としつつ、『他の草稿も勘案して』校訂本文は『「鈴ふりて」と訂した』とあった。そこで、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』にある、「巡禮紀行(本篇原稿三種五枚)」を以下に電子化する。歴史的仮名遣の誤りや「×」はママ。□は底本の判読不能字。

 

  聖地巡禮紀行

 

きびしく凍りて

指ちぎれんとはすれども

わが杖はいたゞきにするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる心一途をはざまをはしるたどる。

ああともがらはいたゞきにとほく

しだい

よもをながむれば

わがともがらはいたゞきに

しだいによもをながむれば

地平をこえに×

みよみよいま地平その牙をとぎふくみ

やぶ  朧齒がみ鳴らし

×疾くきたれるものは狼なり行しきたるものは

餓えし狼

いのり哀しみ

黑き眞冬をこえてひとびとさけびしんりつ震慄す、

地平にあらはれ

にくしんをやぶり硏ぎて來れるものを

靈感至烈の飢狼ら畜類ら

息絕えんとしてかつはしる

ひとああわがともがらはいたゞきに

ああわが手に銀の杖鳴りて→を鳴らし ふり鳴りて

雪ふる空に 鳥を薰

淚ぐましき一念をもて

眞冬をこゑて

ひそかに十字をきりあ ぐる、

光る氷を かみ 喰みくだく

一念無想の瞳をとづる

飢えもこゞゑも しだい ひそかにかたる

いま 名殘の瞳をとづる、

ひそかに十字をきりむすびしつつ

いまはや

淚ぐましき夕餐とはなる。

 

 

  聖地巡禮

    巡禮紀行

 

きびしく凍りて

指ちぎれんとすれども

杖はいただきにするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる心、山路はざまたどる。

 

みよ、疾行しきたるものは飢えし狼

しだいによもを望むれば

遠き地平をこゑ

疾行し黑き具冬をこえてさけび□震りつす

地平 ああ靈 感の 北光 極光を

  ああ□靈の狼ら微光飢慾の狼

至烈

  みよ 極地聖地靈感の狼

[やぶちゃん注:以上の「ああ」及び「みよ」の二行は「至烈」の下方に並置。]

いの 哀しみ哀しみはがみなし

飢えかつえ

にくしんの金屬をもとめて疾行しを硏ぎてもとむるものを

息絕えんとしてかつはしる、

ああ、→みよ わがみよともがらはいたゞきに

みよやわが手に銀の枝鳴りわたり

雪ふる空に鳥を薰じ

淚ぐましき夕餐とはなる、

 

以上から、私は底本は初出だけではなく、草稿をも参考したのではないかと思う。それが強く疑われるのが、七行目の「いためる山峽(はざま)たどる。」で、これは初出も「いためる心山峽(はざま)たどる。」である。されば、これは小学館の編集者は草稿二種をも参考にした際、「心」が孰れも下方の削除部分に含まれると判断した結果ではあるまいかと思うのである。しかも、この「心」の除去は必ずしも詩篇を意味不明のものにするよりも、一見、前の「わがともがらは一列に/いためる山峽(はざま)たどる。」と、意味上の躓きを齎さないかのように読めてしまうからである。しかし、「心」がないと「いためる」は「損(いた)める山峽(はざま)」ということになり、「ともがら」の心境を、少なくとも直には示さない点で(但し、暗示的感知は可能である)、やはり「心」は必要である。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 厩

 

  

 

高原の空に風光り

秋はやふかみて

鑛脈のしづくのごとく

ひねもす銀針(ぎんばり)の落つるをおぼえ

ゆびにとげいたみ

せちにひそかに

いまわれの瞳の閉づるを欲す。

 

ここは利根川、

その氾濫(はんらん)のながめいちじるく

靑空に桑の葉光り

さんらんとして遠き山里に愁をひたす

あはれ、あはれ、われの故鄕(ふるさと)にあるなれば

この眺望のいたましさ。

眼もはるに見ゆ。

村落の光る厩(うまや)のうへに

かがやく愛の手は伸びゆきて

われの身は銀の一脈

ひそかに息(いき)づき生命(いのち)はや絕えなんとする。

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年九月七日の制作とし、同年翌十月発行の『地上巡禮』(第一巻第二号)初出とするが、筑摩版全集でも初出は同じ。初出形を示す。

 

  厩

 

高原の空に風光り、

秋はやふかみて、

鑛脈のしづくのごとく、

ひねもす銀針(ぎんばり)の落つるをおぼえ、

ゆびにとげいたみ、

せちにひそかに、

いまわれの瞳の閉づるを欲す。

 

ここは利根川、

その氾濫(はんらん)のながめいちじるく、

靑空に桑の葉光り、

さんらんとして遠き山里に愁をひたす、

あはれ、あはれ、われの故鄕(ふるさと)にあなれば、

この眺望のいたましさ。

眼もはるに見ゆ。

村落の光る厩(うまや)のうへに、

かゞやく愛の手は伸びゆきて、

われの身は銀の一脈、

ひそかに息づき生命(いのち)はや絕えなんとする。

             ―九月七日―

 

同一稿と推定する。大きな違いは「あんなれば」と「あなれば」であるが、これは、同一の連語で、動詞「あり」(在・有)の連体形に伝聞推定の助動詞「なり」の付いた「ありなり」の音便形「あんなり」の「ん」の無表記である。但し、中古より、この「なり」は断定の意でも使用例が普通にあり、ここもそれである。小学館の編者によるお節介な消毒であろう。なお、掲載誌『地上巡禮』は北原白秋によって、まさにこの前月に創刊されたものであった。筑摩版年譜によれば、この『『地上巡禮』をはじめ、當時の雜誌に室生犀星、大手拓次、朔太郞が肩を竝べて作品を發表したことから、「白秋麾下の三羽鴉」と呼ばれたという』とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 偏狂

 

  偏   狂

 

あさましき性のおとろへ

あなうらに薰風ながれ

額に綠金の蛇住めり

ああ我のみのものまにや

夏ふかみ山路をこゆる。

かなしきものまにや

のぞみうしなひ

いつさいより靈智うしなひ。

さびしや空はひねもす白金

はやわが手かたく合掌し

瞳はめしひ

腦ずゐは山路をくだる。

ああ 金性の肉のおとろへ

みやま瀧ながれ

靑らみいよいよおとろふ

いのれば銀の血となり

肉やぶれ谷間をはしる。

金性のわがものまにや。

               ―吾妻山中にて―

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年五月発行の『詩歌』初出とするが、筑摩版全集では、大正三(一九一四)年九月号『詩歌』初出とするので、底本の書誌は誤認であろう。初出を示す。

 

 偏狂

 

あさましき性のおとろへ、

あなうらに薰風ながれ、

額に綠金の蛇住めり、

ああ我のみのものまにや、

夏ふかみ山路をこゆる。

かなしきものまにや、

のぞみうしなひ、

いつさいより靈智うしなひ。

さびしや空はひねもす白金、

はやわが手かたく合掌し、

瞳(め)はめしひ、

腦ずゐは山路をくだる。

ああ 金性の肉のおとろへ、

みやま瀧ながれ、

靑らみいよいよおとろふ、

いのれば銀の血となり、

肉やぶれ谷間をはしる。

金性のわがものまにや。 ――吾妻山中にて――

 

最後の添え辞位置は、ママ。既注であるが、同年の前月、四万温泉積善館に避暑している際の詠。読点・読みの除去及び添え辞位置の変更は小学館版編者によるもので、同一稿であろう。但し、「め」のルビの除去はいただけない。]

2021/10/23

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女

 

[やぶちゃん注:目次では「虛舟の蠻女」。「うつろぶねのばんぢよ」。琴嶺舍滝沢興継の発表であるが、例によって、馬琴の代筆である可能性が高い。私は既にサイト「鬼火」のホーム・ページ上に「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーンの『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』として私の高校教師時代のオリジナル授業案の冒頭に電子化しているが(二〇〇五年)、今回は画像も注も改めてブラッシュ・アップした。実際に横浜緑ケ丘・横浜翠嵐・藤沢総合高等学校で古文の授業として実践したもので、最初の授業は二〇〇四年以前に行ったものと記憶している。この話は、小学校高学年頃に、子供向けに書き直したものを読んで、高校時代に元の本篇を読み、それ以降、ずっと気に入っていた作品である。二〇〇四年当時は、一部の出版物で民俗学的史料としてあった以外は、概ね江戸時代のUFOの漂着事件として「キワモノ」的に扱われていたに過ぎなかったが、教員になった一九七九年以来、ずっと関心を持ち続けていたものであった。現在は、種々の民俗学的考証が行われるようになった。古いものでは、柳田國男の「うつぼ舟の話」(大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された)が良く知られ、それは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で全七回で電子化注してある(関連した柳田國男の「うつぼ舟の王女 (全) 附やぶちゃん注」(昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された)も電子化してある)。「キワモノ」性が好まれ、ネット時代に入ってからは、多くの記事が散見されるようになり(一部は後注で示した)、学術的には、岐阜大学名誉教授田中嘉津夫(かずお)氏(但し、専門は光情報工学)「うつろ舟」伝説研究の第一人者として知られ、二〇〇九年に加門正一のペン・ネームで『江戸「うつろ舟」ミステリー』(楽工社刊)を出版されているものが、刊行物として第一次史料となろうか(田中氏の研究紹介は当該書の刊行直後にテレビで見たが、手頃なものでは、サイト「ニッポンドットコム」の『UFOと日本人:江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って』(二回連載)がよい。但し、私は未見である。ただ、買いそびれているだけである)。正直、二〇〇〇年以降(私が自身のサイトを作ったのは二〇〇五年六月である)の本件のネット上での氾濫を見るに至って、その瞬間、「人が盛んに云々し出したものをことさらにディグするのは、ちょっと厭だな」と感じた。しかし「これではいかん」と思い立って作ったのが、上記の授業案であった。今回はその授業案をベースにしつつ、当該事件の別記事なども注で電子化して添えおくこととした。今回は底本に従い、段落は成形しなかった。但し、句読点は今まで通り、適宜、追加・変更してある。太字は底本では傍点「ヽ」。最後に言っておくと、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って、漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人で、UFO研究もどきを、やらかしていた人間である。三島由紀夫も入会していた日本最初のUFOの研究団体であった旧「日本空飛ぶ円盤研究会」の主宰者であった荒井欣一氏に友人の目撃報告書を提出し、お礼の手紙を頂戴したこともある。]

 

   ○うつろ舟の蠻女

享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、當時、寄合席小笠原越中守【高四千石。】知行所常盤國「はらやどり」といふ濱にて、沖のかたに、舟の如きもの、遙に見えしかば、浦人等、小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけて、よく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)[やぶちゃん注:「盒」のみのルビ。「かうばこ」。]のごとくにして、まろく、長さ三間あまり[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]をもて、塗りつめ、底は鐵の板がねを、段々(ダンダン)、筋のごとくに張りたり。海巖[やぶちゃん注:「かいがん」で岩礁・暗礁のこと。]にあたるとも、打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隱れなきを、みな、立ちよりて見てけるに、そのかたち、異樣なる、ひとりの婦人ぞ、ゐたりける。

  その圖、左の如し。[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 

Uturobune

 

Bajyo

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。今回は大きなサイズで取り込み、清拭も周到に行った。実際には右下方に「うつろ舟」、その左上に「蠻女」の絵が配されてあるが、分離して見易いようにした。キャプションは、「うつろ舟」の方が、右下方から時計回りで(カタカナをひらがなにした)、

「鉄にて張りたり。」

これは、本文によって、円盤状ヴィークルの外側の底が鉄板を何枚も段々になるように張り合わせた構造であることを指す。図を見ると、黒い部分に大形の釘、或いは、ボルト状の打ち込みのようなものが確認出来る。因みに、ボルト・ナットは西洋では一七〇〇年代半ば以降の産業革命によって既に普及していた。

「長さ三間餘。」

これは直径。

「硝子障子。外は『チヤン』にて塗りたり。」

とあるが、この「外」とは本体上部のガラス障子の組み込まれた、その辺縁部の接合箇所(図の二重線になっている箇所)を指しているものと私は採る。

最後に、右上方に驚くべき奇体な四種の記号のような文字を、四つ、縦に別に添え描きして、指示線を添え、

「如此、蠻字、舩中に多く有之。」

(此(か)くのごとき、蠻字(ばんじ)、舩中(せんちゆう)に、多く、之れ、有り。)とある。次に「蠻女」の方は、右側腰の辺りに指示線をして、

「『ねり玉』、青し。」

とある。「ねり玉」とは、練り物で作られた飾り玉で、薬物や卵白(但し、それを用いた「明石玉」の発明は本篇時制より後の天保年間(一八三一年~一八四五年)以降とされる)のを練って固め、或いはそれらを繊維に染み込ませて丸め、珊瑚や宝石に似せた飾り玉、或いは、そのように見える立体的な玉状の浮き模様の服装飾である。

左上方に、髪の様子を、

「假髻、白し。何とも辨しかたきものなり。」

とする。これは「假髻(すゑ)、白し。何とも、辨じがたきものなり。」で、「假髻」(すえ)とは元は奈良・平安時代に女性の髪を豊かに見せるために添えた他者の髪で作った添え髪のこと。「髻」 は単独では「たぶさ」で、「頭髻(たきふさ)」の変化したものかとされ、髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。「もとどり」とも称する。後半は、白髪のそれは(白髪の入れ髪自体が特殊であったろう)特異なもので、何で出来ているのか、判別出来なかった、則ち、人毛製ではない、ということを意味している、と私は読む。

左に指示線を添え、

「此箱、二尺許四方。」

(此の箱、二尺許(ばか)り四方)で、約六・〇六センチメートル四方の四角い正方形の箱としかとれないが、図のそれは御覧の通り、長方形の箱であって不審。寧ろ、後で掲げる後代の随筆「梅の塵」の図の箱の方が、このキャプションに相応しい。]

 

そが眉と髮の毛の赤かるに、その顏も桃色にて、頭髮は假髮(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり【解、按ずるに、「二魯西亞一見錄」「人物」の條下に云、『女の衣服が筒袖にて、腰より上を、細く仕立云々』。『また、髮の毛は、白き粉をぬりかけ、結び申候云々』。これによりて見るときは、この蠻女の頭髮の白きも、白き粉を塗りたるならん。魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ、考ふべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。そは、獸の毛か、より糸か、これをしるもの、あることなし。迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。音「テツ」。]言語(コトバ)の通ぜねば、「いづこのものぞ」と問ふよしも、あらず。この蠻女、二尺四方の筥[やぶちゃん注:「はこ」。]を、もてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくも、はなさずして、人をしも、ちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢[やぶちゃん注:「けみ」。]せしに、

[やぶちゃん注:以下、「食物あり。」までは、底本では全体が二字下げ。]

水二升許、小甁に入れてあり【一本に、二升を二斗に作り、小甁を小船に作れり。いまだ、孰か[やぶちゃん注:「いづれが」。]、是[やぶちゃん注:「ぜ」。正しいこと。]を知らず。[やぶちゃん注:この割注は「一本」から、本話のソースが、少なくとも二つはあったことを明らかにしている。]】。敷物、二枚あり。菓子やうのもの、あり。又、肉を煉りたる如き食物、あり。

浦人等、うちつどひて評議するを、のどかに見つゝ、ゑめるのみ。故老の云、「是は、蠻國の王の女の、他へ嫁したるが、密夫ありて、その事、あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに、王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虛舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を、天に任せしものか。しからば、其箱の中なるは、密夫の首にや、あらんずらん。むかしも、かゝる蠻女の、うつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしこと、ありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる、人の首の、なまなましきが、ありけるよし、口碑に傳ふるを、合せ考ふれば、件[やぶちゃん注:「くだん」。]の箱の中なるも、さる類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]のものなるべし。されば、蠻女が、いとをしみて、身をはなさゞるなめり。」と、いひしとぞ。「この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば、突き流したる先例もあれば。」とて、又、もとのごとく、船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ、推し流したり、となん。もし、仁人の心をもてせば、かくまでには、あるまじきを、そは、その蠻女の不幸なるべし。又、「その舟の中に、□□□□[注:先に出した「うつろ舟」の図の右上方に書かれた四文字が入る。但し、底本では上から二文字目の文字が異なり、「王」のような字の「王」で言うと、三画目の右手から四画目の右端に繋がる線で描かれている。底本の単なる誤りに過ぎないと思われる。後に述べる「弘賢随筆」の同一内容の本文では、このような異同はないからである。等の蠻字の多くありし。」といふによりて、後におもふに、ちかきころ、浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字、ありけり。かゝれば、件の蠻女は、イギリスか、もしくは、ベンガラ、もしくは、アメリカなどの、蠻王の女なりけんか。これも亦、知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖說共に、疎鹵[やぶちゃん注:「そろ」。おろそか。疎漏。粗略。]にして、具(ツブサ)ならぬを憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:「享和三年癸亥」(みづのとゐ/きがい)「二月二十二日」この年は閏一月があったため、一八〇三年四月十三日に相当する。この頃は、幕藩体制の解体が進み、対外情勢の緊迫に伴い、国是の鎖国政策そのものが動揺をきたし始めた頃に相当する。この七年前の寛政八(一七九六)年九月二十八日には、英国船プロビデンス号が松前藩領下の絵鞆(えもと:現在の室蘭)に来航し(ロバート・ブロートン船長は松前藩医加藤肩吾と地図を交換し、十月一日に出港、千島列島のシムシル島に到達したが、厳冬のため、マカオに向かい、冬を越すことにした。翌年五月十七日に沖縄の宮古島沖で座礁沈没するが、マカオで体制を整え、八月十二日に、再び、室蘭を訪れ、港内の測量を行っている。ブロートンは帰国後、「北太平洋探検の航海」を出版し、有珠山や駒ケ岳の様子から「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、蝦夷地に良港があることを世界に広めた。また、絵鞆アイヌとも交流し、その風貌・生活習慣・和人との関係などを随所に書き残している。さらに、ブロートンはヨーロッパ人で初めて津軽海峡を横断、蝦夷地が日本の島であることを実証している。以上は「まちぶらNAVI 室蘭市」のこちらのページの「鎖国時代に英国船が入港していた」を参照した)、翌年の文化元(一八〇四)年九月には、ロシアからの使者ニコライ。レザロフが長崎に入港、通商を要求してくるのである。異人の女の漂着奇談が、まさに開国の機運がここに切って落とされた頃のことであるのは、甚だ興味深いと言えよう。なお、本発表は文政八(一八二五)年十月二十三日であるから、二十二年前と、かなり古い。

「寄合席」「旗本寄合席」(はたもとよりあいせき)。旗本の内で番方・役方に就かない者の呼称。禄高三千石以上が基本であるが、例外もある。「席」は「地位」の意。

「小笠原越中守」ちょっと内容が、新事実の登場のフライングになるので、迷ったが、示すこととする。優れた本事件の研究サイトの一つとして、昔からよく読ませて貰ったサイトに「やじきたcom.」の「江戸時代の浮世絵にUFO? うつろ舟の謎」がある。admin氏の著になる全九回で、私の所持しない資料も細かに考証してあって、頭の下がる数少ない本事件サイトである(本事件サイトの多くは、オカルト系の記者が多く、古文献の判読が出来ないのに、史料だけをバンバン貼り付けて、面白く感じながらも、誤りが致命的にひどいものが、これ、甚だ多く、この事件から、一時、距離を置いたのは、そうしたいい加減さが目に余ったからでもあった。しかし、そういう点では、このadmin氏の考証はディグの仕方が正鵠を得ており、殆んど、文句の言いようがないほど優れているので、早晩、紹介しない訳には行かないので、ここでリンクした。そのシリーズの第五回「■事件は常陸の国ではなかった?」で、admin氏がこの人物を突きとめておられるのである。小笠原越中守宗昌(むねのり)で、四千五百石、知行地は伊勢と常陸とある。しかし、admin氏は、そこで、『常陸の国での小笠原越中守の知行地は、実は内陸部であって、沿岸部ではない』とするのである。しかして、房州(安房)を知行した小笠原安房守正恒という人物が示されてくるのである。……しかし……ここは常陸であって、安房ではない……ここに新発見の候補地がクロース・アップされて、admin氏の怒涛の「蛮女」の追跡が始まるのである……或いは、そのままadmin氏のシリーズを読まれた方が面白いかとも思うが……まあ、どちらを選ばれるかは、読者にお任せしよう。

「知行所」旗本が支配地として給付された土地。但し、支配地とは言っても、実際に赴くことは稀れであった。但し、知行地内での事件(本件も、当然、含まれる)・不始末については、定期的に人を遣わして調べておかないと、由々しき事態では管理不届きとして罰せられることもあった。

「常陸國」現在の茨城県。

「はらやどり」後掲する酷似した話を載せるずっと後の随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序)では「原舍濱(はらとのはま)」と記載する。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名としては孰れも存在しない。但し、先の二〇〇五年の授業案では、『最近、大洗と鹿島の中間地点のある大竹海岸に、この話をもとに遊具を兼ねた円盤形のモニュメントが作られた』(後に撤去されたようである)。また、『インターネット情報では、子生(こなぢ)海岸という』『かなり』『を発見した。この』場所は、『そのモニュメントが』あった『海岸から北へ五、六キロ行った場所であ』り、『海岸線を辿っていくと、そこが』その『子生海岸』で、『ここには子生弁天があって、ここにお参りすれば子供を授けてくれると、古くから信じられているという』(当時の内田一成氏のサイト内に拠った)『とあって、伝承といい、名称といい、これは同定としては極めて信憑性が高いと思われる』と記した。そのライター内田一成氏の姓名から、現在の内田氏のブログ「レイラインハンター日記」の「はらやどり浜と子生(こなぢ)弁天」を見つけた。それによれば、

   《引用開始》

 この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。[やぶちゃん注:中略。]

 かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。[やぶちゃん注:中略。]

 はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。

 子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命[やぶちゃん注:「いちき(いつき)しまひめのみこと」。]で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。

 国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。[やぶちゃん注:中略。]

 周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るという[やぶちゃん注:脱字があったので補正した。]考え方も風水の発想と同じだ。

 はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。

   《引用終了》

なんとなく懐かしい旧友に逢えたような感じがした(但し、私はレイ・ラインについては強く懐疑的である。メルカトル図法を始めとして我々の使用している普通の地図上の直線は実際には厳密には直線ではないし、任意の地点から無作為に地図上に直線を引けば、特定の擬似共時対象の施設・地形・伝承を、その線上や周辺に「ある」とすることは実は誰にでも可能で、ごく簡単に出来てしまうことだからである。私の知人にもそうしたレイ・ライン信望者が複数いるが、黙って笑って聞き流すことにしていることは言っておく)。内田氏の記載に従って調べて見ると、茨城県鉾田市の大竹海岸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、ここから海岸線を六キロ半ほど北へ行ったところが、子生(こなじ)(子生郵便局が確認出来る)の海岸域で、地図上では内陸の子生地区の南の端の東方の海岸が野田海岸、同地区の北の、内田氏の指摘される厳島神社の真東の海岸が玉田海岸である。同社地図のサイド・パネルのこちらの写真の說明板によれば、『承暦弐年』(一〇七八年)『安藝の宮島より勧請せしと言われて』おり、『享保弐年』(一七一七年)『領守岩田廣道奉る神鏡の刻文に世々相伝されて』あり、『「安産をこの神に祈らば則ち安泰なり」故に子生村と号すと言い伝えられており、領守崇敬の神社である』とある。

 さて、以下、私は授業案では、《地名の表記に隠されたもの》と題して、

――実はさりげないこの表記にこそ、この話の内包する民俗学的或いは諧謔的な意味が隠れていはしないだろうか。まず、「常陸」は「常盤」「常磐」「ときは」で、本来、実在の地名ではなく、中世の草子や説経節等の語り物などに出現する、この世ならぬ国を示すことに注意しなくてはならない。それは、戌亥(北西)の方角に存在し、そこには祖先の霊がおり、富や豊饒をもたらしてくれるユートピアと考えられた。「常陸」=「ときは」とは「常にその性質を変えずに存続し続ける岩石」の意味であるが、「常」の字の共有から「常世」と混同され、ほぼ常世と同意に用いられたと考えられているのである。すなわち、この伝承自体は、この世の事ではない「常世」の国の出来事として、本来、作話された可能性があるということである。そう読んだ時、「はらやどり」という名称も、妙に気にかかるのである。「はら」は「やどり」との関係から考えて「腹」であり、これはまさに「うつろ舟の腹(内部)に宿っていた(乗っていた)」女が』(誕生する=)『上陸するに格好な名称ではないか。先に紹介したインターネット情報で子生海岸を同定した内田氏は、そこで、『子生の弁天様にお参りして、子供が腹に宿る。まさに「はらやどり」そのままではないか。兎園小説がまとめられてから二〇〇年あまり、「はらやどり浜」は鹿島灘のどの海岸を指すのか謎だったわけだが、それが、いともあっさり解明されてしまった。もっとも、それをまた検証してみなければ、はっきりと解明されたとはいえないわけだが、謎解きは、得てして、そんな風に気抜けするほど、悩みに悩んだ答えがあっさり見つかったりするものだ。それに、「はらやどり浜」=「子生浜」という図式は、自分の中で正解だという手ごたえが感じられる』と述べておられたのであるが、逆に、そのような子宝伝説のもとに、この「うつろ舟の蛮女」の伝説が作話されたと考えることも出来よう(これは勿論、子生の弁天の由来の考証をする必要がある)。――馬琴は稀代の戯作作家である(本作を私はまさに馬琴の代作と考えている。その根拠は頭書と地の文の相補性と文体の連続性である)。恐らくこのような民俗学的な言語パロディを面白く思っていたに違いない。しかし、考証オタクでもあった彼は、書くうちに現実的解釈を続々と追加してゆく。その中で、彼はこれを事実の物語と変成させてゆくのである(明らかに後代の作品である「梅の塵」が完全な事実談として記載しているのは、まさに、この江戸の都市伝説が信じられる噂話として変化していったであろう証である)。――誤解してもらっては困るのだが、私はこの話をフィクションだと言っているのではない。まさにこのエピソードは、虚実皮膜の面白さと、その後の典型的な流言の変遷過程を示す格好の資料という側面を、まずは持っていると言える、ということを確認したかったのである。民俗学的考察や心理学的分析とは、そのようなパラレルなものであることを知ってもらいたいのである。――(一部を改変した)

と教え子の高校生に向けて述べたが、その気持ちは今も変わらない。

 しかし、その後、別に新たな有力な新候補地が出現した。

 二〇一四年五月二十六日附『茨城新聞』の『UFO「うつろ舟」漂着地名浮上 「伝説」から「歴史」へ一歩』という記事(鹿嶋支社・三次豪記者)に(私の蒐集したネット・アーカイブから)、『江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない』。『「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した』(中略)。『それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字』(じあざ)『としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある』。『現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある』。『田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い』(以下略)とあって、別な候補地が出現しているからである。この記事には別な同じ『茨城新聞』の先行記事(同じ三好記者)があって、当該新発見の記録には、『漂着地は「常陸原舎(ひたちはらしゃ)り濱(はま)」と記されている。江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)に当たる』。所持しておられる『川上さんは「先祖は参勤交代の警備などにも当たっていた。江戸時代の外国船が入ってきたころに、各地の情報や風聞などを集めた文書の一つではないか」と話』し、田中氏によれば、『紙や筆跡から』、『江戸末期から明治時代に書かれた文書で、最後に』「亥(い)の年」(享和三(一八〇三)年)『二月二十六日」と書かれ、これまでの史料の中で最も古い文書か、またはその写しとみられる。過去に見つかった史料でも、漂着したのは同年222日とある』。『新史料の漂着地は「如斯(かくのごとき)の船常陸原舎り濱と申す處(ところ)」と実在地名が記されているが、過去の史料には地図などで一致する地名はなく、ばらつきもあった』。『日立市内で2012年、江戸時代の海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家で見つかった史料は「常陸原舎濱」、兎園小説は「はらやどり濱(原舎濱)」となっていた』。『田中名誉教授は「実在の地名『常陸原舎り濱』が、伝言ゲームのように間違って伝わったのではないか」と分析する。新史料について「これまでの色々な文書、伝説の元になった文書の可能性が高い」とみている』。『新史料のそのほかの内容は過去の資料とほぼ同じ。奇妙な円盤型の物体の絵や記号のような奇妙な文字、変わった衣装を着た女性の絵など描かれ、不思議な物体が流れ着いたという事件について記されている』とある。

 その新候補地である神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさきしゃりはま)は、ここである。御覧の通り、犬吠埼に近い場所である。サイド・パネルには二〇一八年に投稿されたナマ臍出しの妖艶な女性とカップ・ラーメンみたような奇体な漂着再現写真があるぞ!

 確かに「原舍濱」(はらしゃりはま)の文字列は「はらやどり」(「腹舍(はらやどり)」)と読んだとしても突飛とは言えない。寧ろ、私は後者で訓読してしまうかもしれない。但し、かといって、私は、以下の理由から、これが決定的なロケーションだと安易に賛同することはとても出来ない。田中氏はそこで『江戸末期から明治時代に書かれた文書』と鑑定しており、後者であれば、逆にこれが氏の言う『伝言ゲーム』によって、後に派生した、作り替えられた後代の代物の一つの写しに過ぎない可能性を排除出来ないからである。しかも、『舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう』となると、この漁師らによる発見・引き揚げ・当地の漁民らによる集団議論・突き放しという、本話のモブな騒擾的シチュエーション自体が非現実的なものとして、逆に信じられなくなるからである。

「香盒(ハコ)」正しくは、これで「かうがふ」(こうごう)と読み、香料を入れる容器を指す。漆塗・蒔絵・陶器などがある。但し、「香合」「香箱」とも言うので問題はない。円盤状を成す。

「チヤン(松脂)」通常は瀝青炭を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる松脂もこのように言ったのであろう。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。

「假髪」図の私の注を参照。髪を結う時に添え入れる髪。いれげ。鬘(かつら)の一種である。

「解」「とく」で滝沢馬琴の本名。もとは「興邦」(おきくに)と言い、後に「解」と改めた。

「二魯西亞一見錄」作品を同定出来なかった。但し、思うに最初の「二」は「按ずるに」の「に」の衍字ではないかと私は思う。しかし、この文字列の「魯西亞一見錄」というのは見当たらず、「魯西亞見聞錄」という書名をネットでは見出せるが、これもまた、今回も、この正確な書誌情報を見出すことは出来なかった。

「筥」「はこ」と読めるが。本来、この字は、四角い箱の意味の「筐」の対語であって、「筒状の丸い箱」を指し、図のそれとは異なる。

「菓子やうのもの」パンかクッキー様のものであろう。

「肉を煉りたる如き食物」腸詰(ソーセージ)の類か、もしくは、レバー・ペーストであろうか。保存食ならば、燻製肉か干肉であろうが、「煉」は「ねる」であって、そのような意味はない。

「虛舟(ウツロブネ)」は「うつほぶね」「うつおぶね」等とも表記する。漢字は「空舟(船)」とも。本来は、「大木の中を刳り抜いて造った丸木舟」を指す。但し、ここでは、中が中空になった海上に浮かぶ舟様の建造物を言っている。

「雜費も大かたならぬ」このような事件の場合、幕府からやって来る官憲の出張や、その接待の費用は、総て現地の人々の負担となった。寒漁村にとっては、大いに迷惑であったのである。

「ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船」「兎園小説」成立の一八二五年より以前で、このような事実を調べると、文政元(一八一八)年五月(文化十五年は四月二十二日に改元)のイギリス人ゴルドンの浦賀来航を指していると思われる。「打払令」によって撃退(イギリス船と誤認)された著名なアメリカの商船モリソン号の来航は天保八(一八三七)年六月二日のことであって、違う。

「歇(カヽ)りたる」この字は「やむ」「つく」としか訓じないが、この字の「やすむ」「とどまる」の意味で、「繋留」の「繋」の訓を借りたものと思われる。

「ベンガラ」縦糸が絹糸、横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。

 

 ここで、話をスムースに続ける関係上、何度か言及した、同じ事件を記した随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序。「兎園小説」の本篇の発表の文政八(一八二五)年十月二十三日から十九年後)を吉川弘文館随筆大成版(第二期第二巻所収)のそれから、例の通り、漢字を恣意的に正字化して示す。図も新たにトリミング補正し、清拭した。句読点は私が追加・変更し、一部に私の推定読みを《 》で歴史的仮名遣で補った。丸括弧のものは原本のルビである。なお、著者は長く本名不詳・事績不詳であったが、ネット上の信頼出来る書誌データには上記の名前だけはやたらに確認出来る。同書は無窮会専門図書館蔵ともある。しかし、それ以外の長橋亦次郎なる人物は未だにやはり不明である。

   *

    ○空船の事

 

Umenotri

 

享和三年三月二十四日、常陸の國原舍濱(はらとのはま)と云《いふ》處へ、異船、漂着せり。其船の形ち、空(うつろ)にして、釜の如く、又、半《なかば》に釜の刄《は》[やぶちゃん注:見ての通り、羽釜の袴のこと。]の如きもの、有、是よりうへは、黑塗にして、四方に窓あり。障子は、ことごとく、チヤンにて、かたむ。下の方に筋鐵(すじかね)をうち、何《いづれ》も、南蠻鐵の最上なるもの也。總船《さうせん》の高さ、一尺貳寸[やぶちゃん注:三・六四メートル弱]、橫(よこ)、徑(さしわたし)一丈八尺[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]なり。此中に、婦人、壱人ありけるが、凡《およそ》、年齡二十歲許《ばかり》に見えて、身の丈、五尺[やぶちゃん注:約一・五一メートル。]、色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後《うしろ》にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計《いふばか》りなし。身に着《つけ》たるは異(こと)やうなる織物にて、名は知れず。言語は、一向に、通ぜず。また、小《ちひ》さ成《なる》箱を持《もち》て、如何なるものか、人を寄せ付《つけ》ずとぞ。船中、鋪物(しきもの)と見ゆるもの、二枚あり。和らかにして、何と云《いふ》もの乎《か》しれず。食物は、菓子と思鋪(おぼしき)もの、幷《ならび》に煉《ねり》たるもの、其外、肉類あり。また、茶碗一つ、模樣は見事成る物なれども、分明(わか)らず。「原舍(はらとの)の濱」は、小笠原和泉公の領地なり。

 

■やぶちゃん注

 この「梅の塵」の方は、記載量が少なく、事後のことも記載しない不完全なものであるが、幾つかの必要条件としての基本情報に決定的違いが見られ、また、微妙に「兎園小説」の不明部分を補完しているとも言える。その点で、これは「兎園小説」とは別ソースの同話の情報・記録・風聞から得たものとも思われる。

・「三月二十四日」:「兎園小説」の二月二十二日より三十二日後で、グレゴリオ暦では五月十五日である。

・「舟の高さ一尺弐寸」:「兎園小説」にはない貴重なデータである。

・「橫徑一丈八尺」:単位が異なるだけで、「兎園小説」と一致する。

・「凡、二十歲許」:新情報。

・「身の丈、五尺」これも「兎園小説」にはないデータ。

・「色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計りなし」「兎園小説」とは髪の描写が全く異なる。言語を絶する美人であったことを記している点にも、着目すべきである。但し、決定的相違点に見える髪の描写も、私は、当時、ヨーロッパで男女に普通に流行していたシルバーの鬘(かつら)に着目した「兎園小説」と、その下に流れ垂れている実際の長い髪に着目したのが本編と考えるならば、必ずしも違和感はないように思う。

・「鋪物」敷物。これに限らず、総じて「兎園小説」よりもヴィークルと謎の女の観察が行き届いていて、こちらの方がリアリスティクに記されてある。恐らくは高級なベルベットかタペストリー状の厚い織物であったのであろう。この女性の高貴な出自を感じさせる重要なファクターでもある。

 

 さて。ここで、以下に私の授業案の考証部を一部改変して記す。

   *

《海上に不時着した「空飛ぶ円盤」?――「うつろ舟」の形状》

 超常現象を否定する識者も、やや、この「うつろ舟」の形状には頭を悩ますに違いない。以上「梅の塵」と合わせて見ても、これがまさにUFOの定番の如き「空飛ぶ円盤」状を成し、その直径五メートル四、五十センチメートル内外、それに比例させて、人が入れることを考慮すると、「梅の塵」の方に高さ約三メートルとあるのは物理的に腑に落ちる数値で、実際に作図して見ると分かるが、「梅の塵」が載せている円球状ではなく、実は「兎園小説」の図以上に、お約束的な横にスリムな円盤状となるのである。更にご丁寧にも「梅の塵」の図ではフライング・ソーサー染みた周辺翼(はかま)も付属した、かなり巨大なものなのである。

 かくの如き船型は、それこそ現代のエアー・バルブの大型救命ゴム・ボートにならあるが、古来の伝統的な通常の洋船・和船には見られないものである(樽船や「たらい船」があるが、このように上面を完全に覆った円盤状のものは、少なくとも私は寡聞にして知らない)。

 但し、これが「兎園小説」の古老の言うように、刑罰を目的とした特殊なものであって、そのようなものが他国にあった可能性は否定出来ない気はする。

《白人美形の宇宙人は宇宙人とのコンタクティを称したジョージ・アダムスキーの逢った金星人? 「うつろ舟の女」は何者か?》

 しかし更に言えば、これは刑罰ではなく、ある種の宗教的儀礼に用いられる神聖な(従って実用的形状ではないと言える。当時の操船技術から考えても、この形状が航行可能な船舶の形状とは思われない)船、死者を異界へ流し送る精霊船(しょうりょうぶね)、或いは補陀落(ふだらく)渡海(以下で説明する)の僧を流したそれと同じようなものであった可能性もあると私は考えている。

 本邦でも、一時期、補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの漢音写)に向かって決死の船出をする、熊野以南の補陀落渡海信仰があった。屋形船の木製コンテナの中に幾ばくかの食物を入れて渡海の上人を釘で逃げられぬように密閉し、沖へと送り出したのである。実際に琉球に生きて漂着し、仏法を普及させた渡海上人もいる、実際に行われた無謀な信仰仕儀である。

 そしてそもそも、「古事記」の倭健命(やまとたけるのみこと)の神話中で、走水の海渡りの際、神を鎮めるために、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が彼に代わって入水した例に示されるように、古今東西、海洋系の神は、女の生贄を好むものなのである(船乗りが女性の乗船を嫌うのは、一見、逆に見えるが、これは後代、海神が弁財天のように女神化されたために、嫉妬すると考えられたからではないかと思われる。何より実際には、和船においては、古くから、航海の無事を祈って、船底に密かに祭られる呪物が、女性の髪の毛や陰毛であったりする事実は余り知られていない)。

 まさに女神の性質を感じさせる地名である「はらやどり」の村人たちが、自分達の村の平穏のために「推し流し」たように、この女性もそのような神への供儀として「推し流」されてきた者、一種の生贄の巫女(シャーマン)であったとさえ言い得るのではなかろうか? 今後は、このような民俗習慣がロシア辺り(後述する文字検証を参照)にあったかどうかを考証する面白さが残ると言えよう。

 私には、村人の談合を、黙って、ちょっと微笑みつつも見つめている寂しげな彼女の姿は、ある種の宗教的諦観に裏打ちされた、崇高とも言える美しくも哀しいシーンであるようにさえ、思われるのである。

《鉄人二十八号の金田正太郎少年の無線操縦機? タブーの箱は何?》

 彼女の所持する箱は、これ、最大の謎だ。しかし、二尺四方というのは、抱えるだけでもちょっと難儀な大きさではないか? 「梅の塵」では《小さな箱》と表現しており、もう少しコンパクトであったのかもしれない。私は前記のように彼女が巫女であったという推測から、これはある種の神文、或いは、呪具や、神への祝詞に類するものが封印されたものと考えるのだが、「兎園小説」の古老の《処刑された愛人の首》が入っているという考察は、なかなかに文学的浪漫的な味わいがあり、このエピソードを魅力的にしている最大の山場であろうと思う。しかし、同時に、それだけ、曲亭馬琴の創作部分の臭いが、プンプンしてくるところでもあるのである。この謎は、この「作品」の「文学的眼目」とも言えよう。この謎あってこそ、この話は永遠にエンターテインメントとして我々を楽しませてくれるのである。

E.T.の宇宙文字? 奇体な電子的記号にしか見えない蛮字の検討》

 次に、この図に見える奇態な文字について考察してみよう。

 そもそもこの絵自体の資料性は、「兎園小説」の図の婦人図のキャプションで「四方」と言いながら、指示線の先にある箱はトンデモ長方形をしている点や、ヴィークルの、かなり細部まで描き込まれてある船底の細部(ボルト状の構造物や鉄板の白黒の有意な描き変え等)についての説明が全くない点など、検討に値するものとは言えない面があるのであるが、作者滝沢興継自身(実は父馬琴)が、この字体に対して、後日、この字から強い現実的な考証の意欲を示しているわけで、作者のそのような興味を喚起するだけの、ある種の強い実際の西洋言語表記文字との「類似性」を、この図の文字は持っていたのだと考えざるを得ない。即ち、この字形は、いい加減に創作されたものではないと考えてよいと思われるのである。

 まず考えられるのは、これらが実見されて書かれたものであるとすると、当時の日本人の習慣から、船中に書かれた文字を、日本風に縦に見たに違いないと推理されるということである。とすれば、これは連続した意味ある単語ではなく(「等の蛮字の多くあり」という記述がそれを物語っている)、横書された各文字列の内、記憶に残り易かった特徴的な字(大文字或いは装飾性の高い字等)を選び出して、それを、知らずに☆横転☆させて写したものと考えるのが自然であろう。

 そうだとするなら、これらの文字は、横にして検証すべきなのある。

 「梅の塵」の記載では、船底にはベルベットかタペストリー状の敷物があったとあり、文字は船の下半分の内部側面に記載されていたと考える時、一層その妥当性が示唆される)。

 それでは、まずは次の二種類の文字を見ていただこう。

 

  Ж ж   Ф ф

 

如何であろう、記載された文字の中央の二字と極めてよく似ていると感じられるであろう。これは、それぞれ、ロシア語のキリル文字

  Ж ж

  ジェ(英語にはない。「ジェット機」の「ジェ」の音に相当する文字)

  Ф ф

  エフ(英語の「F」相当で、ギリシャ語のファイ(φ)由来の文字)

である。現代の日本人でも、英語にない、これらの英語にない字形は、初めて見ても、印象に残り易い。さらにその上下(両脇)の字も、同じくロシア文字の、

  Д д

  デ (英語の「D」相当。現代の若者はこれを絵文字に使っている)

  Я я

  ヤ (英語にはない。日本語の「や」、別発音では「い」に似た発音)

を、ゴシックのような装飾体や装飾された筆記体で記したものに似ているように思えるのである(このデルタ形の上下の○は装飾字体や草書のカーブ部分を感じさせる)。

 馬琴は文中、「イギリス船にも、これらの蛮字、ありけり」と英語の文字と同じものだと言っているのだが、装飾されたり、ゴシック体で書かれた英語のアルファベットは(それが全く異なった言語体系のロシア文字であったとしても)、それは日本人にとって恐らく全く同じ印象を与えたに違いないのである。ここに於いて、俄然、この女性の故郷がロシア又はその属国という馬琴の考証の確かさが伝わってくるではないか。

 ちなみに、面白いことにヨーロッパ・ロシア地域で、嘗つて頻繁に目撃されたとされるUFO(未確認飛行物体)の特徴の一つが、船底に「王」「Ж」の字を刻んだ円盤であったことを思い出すのである。ご丁寧に「ウンモ星人」という宇宙人の名前(?)も分かっている!? 例えば、サイト「ミステリーニュースステーションATLAS」の『イベントでUFO召喚にも成功!?様々なUFO事件に関わる「ウンモ星人マーク」とは』を参照されたい。そこでは本篇にも言及しているのである。但し、この写真は複数の学術的なUFO研究者によって、既に偽物と断定されている。しかし、心理学的・民俗学的には、「王」の字のようなこの奇体なマークをフェイクのUFOに仕込んだという点では、「空飛ぶ円盤」という大真面目な精神分析学書を書いている、かのユングの言う集団的無意識説から、別な興味が湧いてくる。

 ともかくも、二百年を隔てて、我々の前に同じ「王」のマークが出現した(偏愛する「ウルトラQ」の、「鳥を見た」で一の谷博士が言う台詞だ!)ことが、何だか、それだけで、ゾクゾクするキッチュな面白さを感じるではないか!

 それにしても我々は、常世から漂着する賜物を受け取りながら、その実、厄介になりそうなものを必ず海に「推し流し」て生きて来た。海洋汚染をし続ける現在も構造は同じである。そうして海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれるはずのニライカナイは、我々に望まざる返礼をしてくるとも言えるのではあるまいか?

   *

この最後の二十一年前の自分の考えは、全く変らない。それどころか、より激しく次のように言い換えたい。

 それにしても、我々は、常世から漂着する物・者を賜物(たまもの)として都合よく受け取りながら、その実、厄介になりそうなものは、必ず、海に「推し流し」て、生きて来たではないか! 海洋汚染をし続ける現在も構造は全く同じであり、もっと深刻である! 福島原発事故で生じた多量の高エネルギー核廃棄物である汚染水を、平然と、押し流そうしている日本人は、「はらやどりの浜」の漁民たちと、立ち位置に於いて、全く同じ、全く進歩していないどころか、遙かにタチが悪いではないか! そうして、かく海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれたはずの海の彼方のニライカナイは――我々に望まざる返礼――究極のカタストロフ――を齎す――とも言えるのではあるまいか?!

と。

 

 さて。これで終わっては、私の古い授業案の単なる焼き直しに終わってしまうことになる。そこで、以下、幾つかの本篇と同じ事件を扱ったものを画像で示し、且つ、電子化注して示し、比較したいと思う。

 まず、一つは、本篇が転載されてある、別な書物で、「兎園会」会員の江戸幕府御家人(右筆)で故実家であった輪池堂屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)が、後年、手元にあった雑稿を取り纏め、全六十冊に綴った随筆「弘賢随筆」のそれから始めよう。現在、その中の当該部である「うつろ舟の蛮女」は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」こちらで写本を見ることが出来、画像もパブリック・ドメインで使用許可が出ている。これは「兎園小説」の本篇を、ほぼそのまま、写した内容で、多少の表記の違いはあるものの、本文はほぼ同じであるから、電子化はしない(写しで崩し字だが、かなり読み易いのでご自身で読まれたい)。しかし、これが素敵なのは、図が彩色で描き直されてある点である。なお、本文の異同の内、注記すべき箇所は、

○「段々(ダンダン)」→「段〻(ダンダラ)」

○「頭髮は假髮(イレガミ)なるが」→「頭髻(タフサ)は假髮(イレガミ)なるが」

○馬琴によるものと思われる頭書はない。

○「檢せしに」→「檢(ケミ)せしに」

○「孰か是を知らず」→「孰か是(ヨキ)をしらす」

○「敷物二枚あり」で改行している。

○「蠻國の王の女」→「蠻國の王のむすめ」

○「虛舟(ウツロブネ)」→「虚(ウツロ)舟」

○「合せ考ふれば」→「合し考ふれば」

○私の推定した通り、本文に示された奇体な「王」の字みたような二番目のそれは、図と同じであることが判った(吉川弘文館随筆大成版の本文の画像組み込み時の誤りということになろう)。

○「アメリカ」「ベンガラ」「アメリカ」には傍点等はない。

○「蠻王の女」→「蛮王の女(ムスメ)」

○「憾」→「憾

である。以下に図を示す。トリミングをしてもいいようだが、所有者である「国立公文書館」の文字の入った全画面で示した。かなりサイズが大きいが、これでもダウン・ロードしたサイズを五十%に減量したものである。

 

Koukenzuhituuturobune

 

キャプションは表記上の若干の違いがあるが、注記すべきものではない。但し、婦人の絵は大いに異なる。まず、地毛は赤毛であり、垂れた鬘は真っ白である(「梅の塵」の著者が本書に本図を全く見ていないことが判る)。さらに、服の模様が全く描かれておらず、「ねり玉、青シ」の指示線は、上着の前の合わせ部分に複数認められる鈕(ボタン)の一つを明確に指していることが判る。「兎園小説」の図では、その指示線は上着のところで切れており、あたかも、その服の全体の模様の解説のように見えてしまう(私は前の図注では、そうした上下衣服全体にそれが及んでものとして注したのだが、これは「ねり玉」として鈕を指していることが判明する)。さらに、スカート様のものの裏地が赤いことと、靴の底の周囲がやはり赤いこと、箱は黄色或いは黄金色であることも判る。

 

 続いて、久松松平家の家臣で、幕閣老中筆頭を勤めた松平定信に三十年の永きに亙って仕えた駒井鶯宿(おうしゅく 明和三(一七六六)年~弘化三(一八四六)年:名は乗邨(のりむら)。彼は定信の先代の養父であった定綱系久松松平家松平定邦から定信・定永・定和・定猷(さだみち)に至る五代に仕え、それは延べ実に六十八年に及んだという)が広く書籍を渉猟して書写した膨大な叢書「鶯宿雑記」(文化一二(一八一五)年、鴬宿五十一歳の時の起筆で、その後三十年間で全六百巻を書き続けた)に載る本事件である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(自筆本)の左丁の後ろから三行目から始まる。以下に電子化する。発生日時と場所が異なる。句読点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で振った。かなり判読しづらい部分があった。

   *

   うつろ舟の蛮女

享和三年八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦、小笠原越中守、知行所より、訴出候に付、早速、見屆に參候処、右、漂流舩其外、行へ、一向に相分り不申候付、幸大夫之(の)遣(つかひ)候由(よし)也(なる)「紅毛通し」[やぶちゃん注:紅毛通詞。]も參り候へ共、相分り不申候由也。ウツロ舩の内、年の[やぶちゃん注:ここで改丁。]比(ころ)、廿一、二才相見候女、一人、乘玉(たまひ)て、美女也。舩の内に、菓子・淸水も沢山に有之。喰物、肉漬の樣成(やうなる)品、是、又、澤山に有之候由。白き箱、一つ、持(もち)、是は、一向に見せ不申。右の箱、身を放さす、無理に、「見可申(みまうすべし)。」と申候ヘは、甚、怒候由。

[やぶちゃん注:以上の前丁には画像を見て戴くと判る通り、頭書(最後は最終行の左手を侵して下方まで続く)がある。本文に出る幸大夫についてのそれである。以下に電子化する。■は判読不能字。最初の「■■■」は書名であろうが、判らぬ。「舩頭」の後も判らなかったが、約物「乄」であろうと、一応、踏んだ。最後の「經世(よをふること)、久し」は無理矢理、捻じ込んで読んだ。大黒屋光太夫(こうだゆう 宝暦元(一七五一)年-文政一一(一八二八)年)は「幸太夫」とも書く。伊勢白子の神昌丸(しんしょうまる)の船頭として、天明二(一七八二)年、江戸に向う途中、遭難、アムチトカ島に漂着した。ロシアの首都ペテルブルグでエカテリーナⅡ世に謁見し、寛政四(一七九二)年にラクスマンに伴われて、根室に帰着、江戸で第十一代将軍徳川家斉の面前で取り調べを受けた後、番町の薬園に、生涯、留め置かれた(と言っても、比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われた後半生であったわけではなかった。詳しくは当該ウィキを読まれたい)。桂川甫周(ほしゅう)の「北槎聞略」ほくさぶんりゃく)は光太夫の見聞録として有名。]

【「■■■」に、『幸大夫は勢州白子(しろこ)の舩頭乄(して)、オロシヤへ漂流しゝ幸大夫なるへし。今、小石川御菜園御差置(おさしおき)。予もオロシヤ文字を手習有て、經世(よをふること)、久し。】

 

Ousyuzakkiuturobune

 

[やぶちゃん注:挿入図。当該丁と次の二行の本文までトリミング補正して示した。キャプションは、上のヴィークルの右上に、

「ウツロ舩図」

円盤の頭頂頂点に丸印を打ち、そこから指示線を左に出して、

ラムスリヲトル穴

これが読めない。思うに、水がなければ、外洋に出た際に、瞬く間に死んでしまう。とすれば、ここに真水を採るための穴(及びその装置)があったと考えるが、妥当であろう。そうするち「ラム」は「ラムビキ」で「ランビキ」に親和性があることが判る。ランビキはポルトガル語の「alambique」が語源で当て漢字で「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具。陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るものであるが、漁師などは、漂流した際に海水から水を得るためにも用いたからである。しかし、「スリ」が判らん。『「ラム」ビキで「スイ」(水)を採る穴』だったら、解決なんだが。判らん! 識者の御教授を乞う。

左下方に奇体な文字四つ。本篇に奇体な字とは明らかに違うが、しかし、また、明らかに同系統の文字であることは判るように思われる。

下方に箱を持つ蛮女の絵。右手で左の前の袷を上に掲げて、箱を隠そうとしている。その動作の瞬間を描いているため、箱の形状が判然としない。体の状態からは、四角な箱、しかも木箱であると私は見た。]

 

舩、惣(そう)朱塗。窓は「ひいとろ」也。大(おほい)さ【建(たて)八間餘[やぶちゃん注:十四・五四メートル超。]。橫十間餘[やぶちゃん注:十八メートル超。本篇のそれより、遙かにバカでっかい円盤だ!]。】

右は、予、御徒頭にて、江戶在勤のせつの事也。江戶にて、分かり兼(かね)、長崎へ被遣(つかはされ)しと聞しか、其の後、いつれの国の人か、分かりしや、聞かさりし。

   *

さても! この記事の素晴らしい部分は、「蛮女」に最初に会話を試みるために、ロシアに漂流して生還した大黒屋光太夫の派遣した通詞を最初に行かせていることである。本篇には一言もない、ロシアとの接点が、通訳不調に終わっているものの、確かに出現していること、則ち、私が二〇〇五年に、本篇に奇体な四つの文字をロシア語であると断じたことと、遂にリンクしている点にあるのである! また、ここでの「蛮女」は人間的で、怒りを露わにしている点でも、かえってそこにリアルなものを感じさせるのである。また、リアリズムは、この図にのみ示されるランビキらしき装置の記載にも、しっかりとあると言えるのである。

 

 さて。お次は、西尾市岩瀬文庫蔵になる万寿堂(詳細事績不詳)編「漂流記集」(天保六(一八三五)年以降の成立とされる漂流・漂着譚十四篇から成る)にあるやはり本事件を記した、またしても彩色図附きの「小笠原越中守知行所着舟」である。残念ながら、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像は、正確に判読出来る大きさとは言えないのだが、しかし、そこで新字体で本文主文部分の翻刻が成されてあった(但し、脱落があった)。さらに、実はウィキの「虚舟」には、この部分の不完全な後半の部分画像がかなりの高画像で、パブリック・ドメインとして出ているのも発見したので、以下に掲げて、その部分の底本とし、加えて、「岩瀬文庫」の「Iwase Bunko Library」(公式サイトではなく、要は同文庫のDVDの販売促進のサイトであるが、同文庫から公認されたサイトではあるのである)の「漂流記集 近世後期写 万寿堂/編」の動画も部分であるが、精密に写し出しているので、それも参考にした。而して、それらを武器として冒頭部分から小さな画像を見ながら、確認して電子化を試みる。読みは推定で私が附し、句読点も添えた。

 

Hyouryukisyu

 

   *

    小笠原越中守知行所着舟

常陸國舍濱と申所へ、圖之(の)如くの異舟、漂着致候。年頃(としのころ)、十八、九か、二十才くらいに相(あひ)見へ、少し靑白き顏色にて、眉毛、赤黑く、髮も同斷、齒は至(いたつ)て白く、唇、紅、手は、少しぶとうなれと[やぶちゃん注:「太(ぶと)うなれど」。]、つま、はつれ[やぶちゃん注:「褄(つま)、解(は)つれ」で、褄(長着の裾の左右両端の部分の端が解けていたが、それがまた、みすぼらしくなくて、の意であろう。]、きれい。風俗、至て宜しく、髮、乱(みだれ)て、長し。圖のことくの箱に、いか成(なる)大切の物や入(いり)たりけん、知す[やぶちゃん注:「しらず」。]。大切の品の由候て、人寄申(まうさ)じ。音聲、殊の外、かんばしり[やぶちゃん注:ママ。「かんばしき」で「立派な感じの語り方で」の意であろう。「癇走」ったは考え過ぎか。]ものいゝ、不通(つうぜず)。姿は、じんぜう[やぶちゃん注:「尋常」。]して、器量、至て、よろしく、日本にても、容顏、美麗といふ方(かた)にて、彼(かの)国の生れともいふべきなり。

 

一 鋪物、貳枚。至て和らかな物。

一 喰物。菓子とも見へ、亦、肉ニテ煉りたる物、有之。喰物(くひもの)、何といふ事を不知(しらず)。

一 茶碗樣のもの、一ツ。美敷(うつくしき)もよふ、有之。石とも、見へ[やぶちゃん注:ママ。]。

一 火鉢らしき物、壹ツ。■[やぶちゃん注:虫食いで判読不能。「小」にも見えるが、下に熟語として続かぬ。]明ほり、有、鉄とも見。亦、ヤキモノ共(ども)、見。

 

一 舩中、改候所、如斯の文字、有之。

[やぶちゃん注:ここに本篇と酷似する文字が出るが、御覧の通り、本篇の三字目が、分離して五文字になっている。ここのみ、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像ページにある部分画像を使用させて貰った。]

 

Hyouryukisyumoji

     右之通訴出申候

[やぶちゃん注:この左下に朱の落款があるが、これはとても見えない。

 以下、図のキャプションを示すと、ヴィークルの最右に指示線を出して、

「下地、鉄朱ヌリ。」

その左下方に、

「竪壱丈壱尺。

 橫差渡三間。」

とある。ヴィークルの最長高は約三・三三メートル。直径は約五・四五メートルである。

ヴィークルの右下方に指示線をして、

「惣、鉄。」

「惣」は「すべて」(総て)。その左にやはり指示線をして、

「筋合ナシ。」

とある。これは「すぢあはせ、無し」で、ヴィークルの下方は鉄板を組み合わせてあるのであるが、その繋ぎ目の隙間や弛んで溝筋となっている箇所が全くなく、ぴったりと接合されていることを意味している。

次にヴィークルの上方を見ると、本体の右上端に沿って文字があるが、画像が粗く、下方に汚損があり、判読が出来ない。最後の判読不能字数も推測に過ぎない。

「檀樹・『シタン』ノ樣子見へ候■■■■■■。」

「檀樹」は「白檀」(びゃくだん:現代仮名遣)でビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。

「シタン」は紫檀。マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

上部右手で、円形の網格子の窓に指示線して、

「フチ、黒ヌリ。明タテ、自由。」

とある。「フチ」は窓の「縁」、「明(あけ)閉(た)て」の意。

上部中央頭頂部に指示線して、

「此所、水晶。」

とあり、左側の格子型の四角い窓のところに、

『窓、「ビイドロ」ニテ、格子、「スイセウ」。』

水晶の格子にガラスが嵌め込まれているというのは、とんでもない精巧な造りである。

次に、「蛮女」の図。彼女の右方で指示線をして、

「此箱、弐尺四方、白木ニテ、至テ木目ヨシ。」

と言いながら、本篇同様、箱は長方形である。白木で木目がとてもいいというのは、細かな描写として着目出来る。左方では同じく指示線で、上着の鈕を確かに指して(先が鈕の半分を丁寧に半弧で指示してある)、

「此小ハゼ、スイセウ。」

とあって、本篇の「ネリ玉」とは異なっている。

右方下方には、下半身に穿いている着衣について、指示線をして、

「『ビロウド』ニテ、金ニテ、『マダラ』ニ、筋、有之。」

とあり、左下方に、大きな字で、

「惣躰、綿の樣子成る織物にて、シカト、不分明。

     色ハ『モヘギ』。」

と記してある。この「蛮女」の服装は、どれよりも異国風で、下に履いている独特の網目模様が強烈で、一目見ると、忘れられない。上着にか星形や円形の刺繡のような模様が散らばっており、襟には、カフスの風の止め金具のようなものさえも見える。頭髪は長いが、白い鬘は認められない。但し、頭頂は有意に丸く髻状に突き出ており、入れ髪をしている感じはする。因みに、その髻の下方を白い紐のようなもので括ってはある。

 

 本篇の電子化注を初めて既に二日目の夜になった。いい加減、疲れてきた。他にも紹介したい資料はあるが、原画像を入手出来るものが限られているから、前記の「漂流記集」のものを、木版摺物にした瓦版(作者不明・船橋市西図書館蔵)が、ウィキの「虚舟」にパブリック・ドメインとして載っている(但し、そのキャプションの「長橋亦次郎の描いた虚舟」というのは、大間違いである。「長橋亦次郎」は「梅の塵」の作者だから、先に出した方をここに入れねばおかしいのだ!)ので、それを掲げて、電子化して終りとする。句読点を独自に打った。なお、この瓦版の画像は「ADEAC」のここで精密画像として見られる。

 

Utsurobune

 

[やぶちゃん注:冒頭に例の奇体な文字列。但し、三字目が、ここでは「○」と「(┓)と(━)を重ねた記号」と「○」に致命的に分離されてしまっている。なお、次の一文は一字下げとなっているのはママ。]

如此の文字舩の中にあり。

[やぶちゃん注:以下、書き出しの「一」は頭出しで、後は元画像では、字下げである。「一」の後は一字空けた。]

一 去亥二月中、かくのことくの舟、沖に相見へ申候所、又、しばらく見不申候。然此度 小笠原越中守樣御知行所常陸國かしま郡原舍濱へ、同八月のあらしにて、吹つけ申候。「うつろふね」、其内に、女、壱人、年の頃、十九、廿才程にて、身のたけ、六尺余り、かほの色、靑白く、まゆ毛・髮、赤黑く、ふうぞく、頗るうつくしく、きりやうは、悉、美女也。おんせい[やぶちゃん注:「御聲」。]は、かんばしりて、大おん也。又、しら木の弐尺ばかりの箱、はなさす、かゝい[やぶちゃん注:「抱え」。]、大切なるものや、あたりへ决而[やぶちゃん注:「して」、]、人を、よせつけぬなり。

一 敷物、一枚、至て、やはらかな物。

一 食物、肉(にく)るいて、ねりたる物。

一 茶わんのやう成もの、一ツ。うつくしき、もやう、あり。石とも見へす。

一 火鉢らしき物、一ツ。鉄とも、見へず。

 

[やぶちゃん注:右の「蛮女」の右方に、指示線を添え、

「錦なるやうのおりもの、色、『もえき』也。」

「もえき」は「萌黃」。

その左方に、

「こはぜ、すいせう。」

とある。「こはぜ」は「鞐」(こはぜ)で、「布に縫い付けられた爪型の小さな留め具」のこと。

その下方に指示線を添えて、彼女の下穿きに対して、

「きんのすじ。びろうどなり。」

とある。

次に、ヴィークルのキャプションで、上部の円形窓の右に、

「ふち、黑ぬり。」

とあり、上部中央には、

「いづれ、木は、『したん』・『びやくたん』。」

とする。その左の四角い窓の脇に、

「まど、『びいどろ』。すいしやう也。」

とある。

 ヴィーグル上部下方の縁の有意な出っ張り部分に、右から左に、

「鉄にて、『朱ぬり』。橫、三間なり。」

とあり、ヴィーグル下方右手に指示線を出して、

「すじかね、『なんばんてつ』也。」

とし(「すじかね」の「じ」はママ)、反対の左手に、

「ふねの高サ、壱丈壱尺。」

とある。]

 

 以上、私は視認でき、読者が確認出来るものだけを、電子化注した。ネットにはもっといろいろなものが氾濫していることは既に述べた。田中氏が示された最新のそれも小さな画像で示してあるページも見つけたが、記載が見えず、鼻白むだけであったので、紹介しない。

 私は、私の出来得る限りに於いて、読者も、同時に、判読出来るものだけを、ここでは選んだのである。

2021/10/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門

 

   ○梅が香や隣は荻生惣右衞門

といふは、其角が句のよし、世人の口碑に傳ふれども、近頃、京傳が書けるといふ「奇跡考」に、「其角がいづれの集にも見えず。」と出だせり【解云、「この發句、口碑に傳ふとのみ云へれども、其角が口調に疑なし。且、「梅がかや」云々といひし梅が香は、御能役者梅若氏をいふよしにて、當時、茅場町に、これかれ、相隣てをりし時の事とも、いへり。其角と徂徠と近隣なり、といふ作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。其角は寶永四年に沒せしとかや。然るに、徂徠は、六年までは吾藩の内に住居せしかば。其角と近隣なるべきやうや、あるベき。

今玆乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の二月二日のころ、野州那須郡大田原に囘祿ありて、城のこりなく、災にかゝりしに、城下の民家にて、三日、鳴物を、みづからつゝしみて、籠居せしとかや。四日めに及びて、有司のものより、命じて、常に復せしめて、各々、稼業を行ひしは、古國とて、いと、たうとき事なりき、災、しづまりし後、民家より。造營の費を、おのおの、所望して、調進せんことを爭うて請ひしかば、有司にて造營の失脚の勞、聊、なかりしは、文王の靈臺にも齊しき、めでたかりしためしなり。これによりて、速に造營をうながすに、「國主、ゐまさざれば、あしゝ。」とて、六月中に歸國すべきを、囘祿によりて、二月中に歸國を請はれしかば、縣官にて、「在所の囘祿にて、歸國を、はやく請ひしためし、なし。」とて、其沙汰に、閣老方、困り給ひし、とかや。さりながら、二月末には、請の如く、ゆるしありて、歸國ありしとかや。事新しきためしなりき。

  乙酉冬十一月朔       荻生蘐園記

[やぶちゃん注:発表者は会員荻生蘐園(けんゑん)。本名荻生維則、本姓は浅井。拘っている理由は、彼が荻生徂徠の孫鳳鳴の養子であるからである。二十余歲で、郡山藩儒官を継ぎ、家の通称で荻生惣右衞門を称していたのだから、なおさらであった。馬琴は詠みぶりから其角の句に間違いないとブイブイ言わせているが、サイト「インターネット俳句 末成歳時記」の本句のページによれば、『宝井其角による句とされ、当時は大変に有名となり、多くの人が口遊んだという。また、時代は下って夏目漱石は、この句をもとに「徂徠其角並んで住めり梅の花」と詠んでいる。ただ、「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり』(以下も引用)、

『茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。』

『とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後』二『年が経過した』明和六(一七〇九)『年である。其角と荻生徂徠に面識はないという』。『今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう』。『其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」がある。現在になってこの』二『句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる』とある。

『京傳が書けるといふ「奇跡考」』浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の「奇蹟考」は享和四・文化元(一八〇四)年刊の考証随筆(自序は文化元年三月。享和四年二月十一日改元)「近世奇跡考」(「跡」は吉川弘文館随筆大成版の版本刷の字を用いた)。なお、ウィキの「山東京伝」によれば、『この頃から曲亭馬琴の読本と大きな影響を与え合うようにな』ったとあり。この「京傳が書けるといふ」と書く辺りに、既にしてライバル意識が臭ってくる。吉川弘文館版で確認した。巻之三の「榎本其角の傳」にあった。

「御能役者梅若氏」観世流シテ方の五十一世梅若六郎氏暘(うじあき)か、その先代辺りか。

「茅場町」其角の旧居跡がドットされてあった(グーグル・マップ・データ)。

作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。

「其角は寶永四年に沒せしとかや」其角は宝永四(一七〇七)年二月或いは四月没とされる。享年四十七。

「失脚」これは「脚」を「金銭」の意の「あし」に通わせたもので、「かかった費用・失費」の意。

「有司」仙台藩の役人。

「文王の靈臺」周の文王が建てた物見台。遺跡は陝西省西安市にある。

「縣官」幕府の役人のことのようである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 明善堂討論記

 

   ○明善堂討論記

[やぶちゃん注:以下「乃記其言諸篋笥云。」までは底本では全体が二字下げ。]

文政七禩六月朔日。予與門人敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋。約爲會讀。預期自曉七鼓而始。至黃昏而終也。適予友櫟葉散人。携其徒十數人來共討論。乃記其言諸篋笥云。

[やぶちゃん注:訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 文政七禩(のとし)六月朔日、予、門人の敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋と與(とも)にし、約して會讀を爲す。預(あらかじ)め期を曉七鼓(あけななつ)よりして始め、黃昏に至りて終るなり。

 適(たまた)ま、予が友、櫟葉散人(れきえふさんじん)、其の徒、十數人を携へて、來たり、共に討論す。乃(すなは)ち、

「其の言を記して、諸(もろもろ)、篋笥(けふし)に藏む。」

と云ふ。

   *

「禩」は音「シ」。殷代に於いて「年」を意味した漢字。

「曉七鼓」不定時法で午前三時頃。

「篋笥」(きょうし)は長方形の箱。文書を入れる箱。

 以下の漢文には句点以外の訓点は存在しない。]

六月一日。晨各蓐食。巢於明善堂。天將曉。月未落。焚篝燈倚九案[やぶちゃん注:右に『几カ』と傍注。]。櫟葉散人忽到。散人者武州金杉根岸人。常好讀日本記事。其於正史稗說。無所不硏究。能辯我邦治亂。論其興廢。言辭滔滔。若决江河。若驟雨暴至。沛然無禦之者。以予酷好西土書策。每往來會讀難問。此日方讀史記伯夷傳。櫟葉曰。嗚乎。夷齊。不食周粟而餓則可也。何輙食其土薇。詩曰。普天之下。莫非王土。薇亦非周土之生乎。夷齊之義。不食周粟。則薇亦不可食焉。孔子方稱夷齊賢。吾甚感焉。且孟子論武王曰。聞誅一夫紂。未聞弑君。孟子何出此言也。夫紂雖無道而親戚背之。猶爲天子也。安得等之匹夫乎。敬齋揖櫟葉而進曰。甚哉。子言之過高也。夷齊不食周粟。乃是夷齊之僻。孟子所以爲隘之也。足下不知其爲僻。而貴食其薇。足下亦是僻之又僻耳。必如足下言。則雖巢文許由卞隋務光。未以嗛於足下心也。若其充足下之心者。其於陵陳仲子乎。所謂蚓而充橾者。我孟子之所不取也。足下坐未嘗讀聖經。是故出此言。退讀聖人之書。而後會我輩。强齋在側。抗然大言曰。二子之言皆失矣。二子愕然曰。何。强齋曰。夫道一而已。分爲二爲三以往。復散爲千爲萬。故有陰則有陽。有剛則有柔。有君必有臣。有仁必有義。其所遇或異。則其所行亦殊。是以事雖萬殊。於其歸道一也。譬之忠質文。三代所向不同。其及合於禮。未嘗同也。武王之伐紂。夷齊之諫武王。其迹雖異。各盡其道。始非有二致也。武王見天下之溺。不極之。不免楊朱爲我之謗。夷齊扣馬諫。不免賊其君之誚。聖賢之心。無所偏倚。隨物而應者。孰不規矩。何不準繩。以夷齊之準繩論武王。而曰不平。曰不直。亦其宜也。以武王之規矩。議夷齊。而曰出方圓之外復亦其宜也。又譬之。武王之德。大陽之輝也。夷齊之行。大陰之光也。微武王不能爲夷齊之光。武王亦不得夷齊。則不得著。其德輝也。二聖之在天下。猶日月之互行。而不相戾也。孔子盛稱之。不亦宜乎。盖孔孟之所毀譽。必有所試。又何疑其言。然足下疑孟子命紂爲一夫。是何其意也。紂雖稱天子。親戚衆臣。及四海内。無一人助之者。則非一夫何。著者宋高宗。亦與足下同癖。問時碩儒尹焞曰。孟子何以謂之一夫紂。尹焞對曰。此非孟子之言。武王牧師之辭也。曰。獨夫受。洪惟作威。由是觀之。孟子非敢新言之。假令孟子言之。孟子聖人也。如何廢其言乎。足下實有蓬心乎。吾丁寧反覆雖頻提子耳。而大聲告之。子固褒如充耳。豈有益其是非乎。如子之人。謂之兼襲與瞽宜哉。不得其觀日月之光。聞大雅之音。於是三人相爭相怒。或瞋目或握拳喧豗良久。謙齋猶然笑。徐々前席曰。三子之言。倶有理。雖然未得其所處也。夫聖之道。區以別之。則有時者。有仕者。有和者。如淸者。如伯夷者。所謂聖之淸者耳。伯夷之好淸潔。猶顏子之好學。伯倫之嗜酒也。天地開闢一人也。於是櫟葉又怒曰。子嘗孟子之餘唾。將折我言。雖孟子再生來。我猶將說却之。亦况於足下輩乎。退哉退哉。謙齋亦怒。四人猶戰場爭死生。市中貪羸利也。乾齋曰。予有一說。足下輩安意聽之。四人同曰。如何。乾齋曰。盡信書如不無書。書且尙疑之。則史記不能無疑焉。吾聞之。史記者大史公之未定之書。而且多攙入。今取一二證之。其攙入者。司馬相如傳贊曰。揚雄以爲靡麗之賦。勸百諷一。趙翼辯駁之日。雄乃哀平王莽之時人。史遷固武帝時之人。而何由得預知百年下揚雄者。又自在岐互處。朱建傳謂。黥布欲反。建諫之不聽。事在黥布傳中。今黥布傳無此語。是亦古人辯駁之。由此觀之。未定之書。未足信之矣。雖然如伯夷傳。明確高論。非後人攙入。唯夷齊叩馬而諫之事。殊不見經。則疑是流傳之言。若果爲流傳之言。未足信之也。且明王直辯駁也。子輩知之乎。若未則熟視之。察之而後正其是非。盖爭者事之末。其言雖有義理。終損君子之操。願暫聽吾說。莫【莫當作勿。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とする。]爭莫譁。於是座中哄然笑。讀如故。畢伯夷傳。次讀春秋左傳。至莊公九年。齊管仲請囚之章。櫟葉門人大瓠。昭然歎曰。噫。漢土之人。何薄於忠義乎。管仲怯儒而無義魯殺子糾。召忽死之。管仲不死。以余觀之。召忽可謂之能終事君也。然孔子特稱管仲。吾竊惑之。昌齋應之曰。子惑宜矣。昔者。子路之果敢。而不能無此惑。况於足下輩乎。夫孔子之不稱召忽。而稱管仲者。稱其功業也。盖召忽一夫之材。若不死於子糾。三軍之虜也。管仲王佐之材。死子糾則不免溝瀆之死也。故孔子美其不死。而稱其功業。鳴呼。管仲功業之益於民。平王東遷。諸候内攻。夷狄外侵。周室之不亡如線。向無管仲相桓公振霸業。則中國之不被髮左袵無幾矣。可不謂非仁乎。雖然於其爲人。孔子亦賤之。傳所云。不一而足。管仲之器小哉。焉得儉。管仲不知孔。由此觀之。孔子之稱管仲。所謂門上挑之。而在夷狄則進之。猶如稱文子之淸。美藏文仲之智也。亦何怪之管仲也。且子言曰。魯殺子糾。疎漏甚哉。經云。齊人取子糾殺之。殺子糾者齊也。非魯也。大瓠擊節乾笑曰。子席讀唐土之書。偏僻于唐人。一何甚。夫仁者而必有仁之功。智者而必有智之功。既云管仲不知禮。智者而不知禮。可乎。又云。焉得儉。仁者必儉。管仲不得儉。則可謂之仁乎。昌齋曰。聞之錦城先生。曰。夫酒有淸濁之別。有醇醪之品。飮淸醇者亦醉。飮濁醪者亦醉。於爲醉之功則丁也。爲其物厚薄則異也。管仲之功。濁醪之醉也。堯舜之仁。淸醇之醉也。今夫淸醇與濁醇。固有差別。霸與王。功同而本異。然至其一匡天下一也。傳云。君子成人之美。不成人之惡。故夫子盖其不知社與器小。而特稱其功。如足下之言吹毛求疵。責人而無止。而與我聖人之道大有逕庭。於是大瓠言下敬。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

豐民云。予記此事。既在客歲。自後以來。有定期。而爲此討論。又每會必筆。而藏諸篋笥中。今適搜篋笥中得之。亦以呈兎園社友、若有頑說。幸見敎焉。敬而受敎。

 于時文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識

[やぶちゃん注:暴虎馮河で訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 六月一日。晨(しん/あした/あさ)、各(おのおの)、蓐食(じゆくしよく)し、明善堂に巢(つど)ふ。天、將に曉(あかつき)ならんとするも、月、未だ落ちず。篝(かがり)を焚き、倚、九案に燈(とも)す。

 櫟葉散人、忽ち到れり。散人は武州金杉(かなすぎ)根岸の人。常に、好んで日本の記事を讀み、其の正史・稗說に於けるや、硏究せざる所、無し。能く我が邦の治亂を辯じ、其の興廢を論ず。言辭、滔滔として、江河の决せるがごとく、驟雨の暴(ある)るに至るがごとし。沛然として、禦(ふせ)ぐるところの者、無し。以つて、予(かね)てより、酷(ひど)く西土の書の策を好めば、每(つね)に會讀に往來して難問す。

[やぶちゃん注:「蓐食」早朝に何かをする際に寝床で食事を済ませることを言う。

「明善堂」江戸のそれは不詳。

「九案」傍注に従えば「九几」で九つの机となる。二十人を超える人数が集まるので長机でないと困る。

「武州金杉根岸」現在の台東区根岸には嘗て金杉村があったが、「明暦の大火」で焼失したらしい。現在の広域の谷中地区内にあった。

「决せる」決壊する。]

 此の日、方(まさ)に「史記」の「伯夷傳」を讀む。櫟葉、曰はく、

「嗚乎(ああ)、夷・齊、周の粟(あは)を食はずして餓う、則ち、可なり。何ぞ輙(すなは)ち其の土(ど)の薇(ぜんまい)を食はん、と。「詩」に曰はく、『普天の下、王土、非ざる莫し。』と。薇も亦、周土の生(しやう)非ずや。夷・齊の義は、周の粟を食はざれば、則ち、薇も亦食ふべからず。孔子、方(まさ)に夷・齊の賢を稱す。吾、甚だ感じたり。且つ、孟子、武王を論じて曰はく、『一夫の紂(ちう)を誅するを聞くも、未だ君を弑(しい)するを聞かざるなり。』と。孟子、何をもつて此の言を出だすや。夫れ、紂、無道にして、親戚も之れに背(そむ)くと雖も、猶ほ、天子たるなり。安(いづく)んぞ、之れ、匹夫に等しきを得んや。」

と。

 敬齋、櫟葉に揖(いふ)して進みて曰はく、

「甚しきかな。子の言の過(あやま)ちの高きや。夷・齊、周の粟を食はざるは、乃ち、是れ、夷・齊の僻(ひがごと)なり。孟子の以つて爲す所は、之れ、隘(せま)きなり。足下は、其の僻たるを知らず、而して、其の薇を食ふを貴しとす。」。

と。

[やぶちゃん注:「揖(いふ)して」(ゆうして)は両手を前で組んで会釈することを言う。唐風の礼儀。

 私はここで切れて、再び櫟葉散人の台詞として採った。]

「足下も亦、是れ、僻の、又、僻のみ。必ず、足下のごとく言はば、則ち、巢父(さうほ)・許由・卞隋(べんずい)・務光と雖も、未だ以つて、足下の心に嗛(た)らざるところ、あらざるなり。若(も)し、其の足下の心を充(み)たせる者は、其れ、於陵の陳仲子か。所謂、『蚓(みみず)にして操(みさを)を充(み)たす者』なり。我れ、孟子の所(いふところ)を取らざるなり。足下、坐して、未だ嘗つて、聖經を讀まず。是れ故、此言を出だす。退(しりぞ)きて、聖人の書を讀め。而して後、我が輩に、會へ。」

と。

[やぶちゃん注:「巢文」「巢父」の誤判読。中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという。

「許由」同時代の隠者。前の「巣父」とセットで語られることが多い。聖天子と仰がれた堯が、許由の高潔の士であることを聴いて「天下を譲ろう」と言ったところ、許由は「汚れたことを聴いてしまった」と言って潁水(えいすい)の川水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れた。さらに巣父も堯から天下を譲られようとして拒絶した隠者であったが、その耳を洗っている許由を見、「そのような汚れた水は飼っている牛にさえ飲ませることが出来ぬ」と言い放って、引いていた牛を連れて何処かへ去ったという故事である。「荘子」の「逍遙遊」や、「史記」の「燕世家」などに見える。

「卞隋」「務光」孰れも同前の厭世隠遁を望んだ賢者。湯王が暴虐残忍な桀王を討伐するに際し、卞隋、次に務光に相談したが、まるで相手にしなかった。桀を滅ぼした湯王がそれぞれの才覚を見込んで、順に王を譲ると言ったところ、その忌まわしい話に驚愕して、二人が二人とも、入水して命を絶ったという。「荘子」第二十八「譲王篇」にある。サイト「肝冷斎日録」のこちらが、非常に判り易く説明しているので、お勧め。

「於陵の陳仲子」斉の栄誉の家臣の家系であったが、兄の得ている莫大な禄を不義のものとして、兄と母を避けて於陵(現在の山東省)の山中に遁世したが、三日間、何も食べず、餓えた。道端に李の樹を見つけ、虫が実を半分以上食っていたが、それでも這って行って拾い取り、三口、食べて、やっと耳が聞え、目が見えるようになったという。「孟子」の「滕文公章句下」に出る。但し、孟子のそれに対する議論(そこで孟子は、陳仲子のような輩は「蚓而後充其操者也」(蚓(みみず)となりて後(のち)、其の操(みさを)を充(み)たしむ者なり。)と言い放っている。なお、本文の「橾」は「操」の誤判読である)は私は甚だ不快に感じる。サイト「我読孟子」のこちらを読まれたい。]

 强齋、側に在り、抗然として、大言(たいげん)して曰はく、

「二子の言、皆、失す。」

と。

 二子、愕然として曰はく、

「何ぞ。」

「何ぞ。」

と。

 强齋曰はく、

「夫れ、道は一つのみ。二つ爲(な)り、三つ爲りを以つて、分かちて往くも、復た、散りて、千爲り、爲萬りたり。故に、陰、有りて、則ち、陽、有り。剛、有りて、則ち、柔、有り。君、有りて、必ず、臣、有り。仁、有りて、必ず、義、有り。其の所遇、或いは異なれり。則ち、其の所行も亦、殊なれり。是れを以つて、事、萬殊と雖も、其の歸る道に於いては一(いつ)なり。譬へば、之れ、『忠』の質の文に、「三代、向ふ所、同じからず。其れ、禮に合するに及びても、未だ嘗つて同しからざるなり。武王の紂を伐するや、夷・齊、武王を諫むるに、其の迹、異なると雖も、各(おのおの)、其の道を盡くす。始め、二つの致れるの有るに、非ざるなり。武王、天下の溺(おぼ)れるを見るも、之れを極めず。楊朱が爲我(ゐが)の謗りを免れず。夷・齊、馬を扣(ひきと)めて諫むるも、其の君の誚(そしり)を賊(そこな)ふを免れず。聖賢の心、偏倚なる所、無し。物に隨ひて應ずる者は、孰(いづれ)か規矩によらざる。何ぞ準繩(じゆんじよう)せざる。夷・齊の準繩を以つて武王を論ずるは、而して『不平』と曰ひ、『不直』と曰ふも、亦、其れ、宜(むべ)なり。武王の規矩を以つて、夷・齊を議すれば、而して出ずる方、圓の外なりと曰ふは、復(また)、亦、其れ、宜なり。又、之れを譬ふれば、武王の德。大陽の輝きなり。夷・齊の行は、大陰の光なり。微かに、武王、夷・齊の光を爲すに、能はず。武王も亦、夷・齊を得ず。則ち、著き得ざるなり。其の德は輝(き)なり。二聖の天下に在るは、猶ほ日月(じつげつ)の互ひに行くがごとし。而して相ひ戾らざるなり。孔子、盛んに、之れを稱すは、亦、宜ならざるか。盖(けだ)し、孔・孟の毀譽せしむ所は、必ず試ましむ所、有り。又、何ぞ其の言を疑へる。然れども、足下、孟子の命(めい)の、紂を一夫と爲すを疑ふ。是れ、何ぞ、其の意、繆戾ならんや。紂、天子を稱すると雖も、親戚・衆臣、及び、四海内に、一人として之れを助はんとする者、無し。則ち、一夫に非ずして何ぞ。宋の高宗を著せる者、亦、足下と同じ癖なり。時に問ふ、碩儒尹焞(いんとん)曰はく、『孟子、何を以つてか、之れを「一夫の紂」と謂ふか。尹焞、對して曰はく、此れ、孟子の言に非ず。武王が牧師の辭なり。曰はく、「獨り、夫のみ、受く。洪(おほ)いに、惟(こ)れ、威を作(な)す。」と。』と。是れに由りて、之れを觀るに、孟子、敢へて、新らに之れを言ふに非ず。假令(たとひ)孟子、之れを言ふとも、孟子は聖人なり。如何にして其の言を廢せんか。足下、實(げ)に、蓬心、有らんか。吾れ、丁寧に反覆すと雖も、頻りに、子に提(かか)ぐるのみ。而れば、大聲に、之れを告げたり。子、固(もと)より、褒(ほめそや)すこと、耳を充(ふさ)ぐがごとし。豈に、其れ、是非の益、有らんや。子のごとき人、之れを謂ふに、兼ねてより、襲ねて、瞽(めくら)と與(くみ)するが宜(よろ)しきかな。不得其れ、日月の光を觀るを得ず。大雅(だいが)の音を聞け。」

と。

[やぶちゃん注:「楊朱」(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。伝記は不明で、老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命とその安楽の保持にある」と説いたとされる。

「爲我」自分の利益のみを考え行動すること。

「繆戾」(びゅうれい)は、誤って道理から外れることを言う。

「宋の高宗」事実上の北宋最後の皇帝。

「碩儒」大儒。

「尹焞」北宋末・南宋初の儒者。

「牧師」武王の教授・祭祀師の意であろうが。不詳。

「蓬心」欲にとらわれた心。

「大雅」「たいが」とも。 非常に気高いこと。また、極めて正しいこと。]

 是に於いて、三人、相ひ爭ひ、相ひ怒る。或いは、目を瞋(いか)らし、或いは、拳を握りて喧豗すること、良(やや)、久し。

[やぶちゃん注:「喧豗」(けんかい)は喧騒に同じ。]

 謙齋、猶ほ、然れども笑へるがごとし。徐々に前席に曰はく、

「三子の言、倶に、理、有り。然りと雖も、未だ、其の所處、得ざるなり。夫れ、聖の道、區を以つて、之れを別く。則ち、時の有る者、仕(つかまつ)ること有る者、和すること有る者、淸きがごとき者、伯・夷のごとき者。所謂、聖の淸き者のみ。伯夷の好み、淸潔。猶ほ、顏子の好學なるがごとし。伯倫の酒を嗜むなり。天地開闢の一人なり。」

と。

[やぶちゃん注:「顏子」孔門十哲第一の清貧の賢者。

「伯倫」竹林の七賢の劉伶。]

 是(ここ)に於いて、櫟葉、又、怒りて曰はく、

「子、嘗つて、孟子の餘唾(よだ)として、將に我が言を折らんとす。孟子と雖も、再び生來(しやうらい)す。我れ、猶ほ、將に、說きて、之れを却(しりぞ)かんとす。亦、况んや、足下の輩をや。退(の)けや、退けや。」

 謙齋、亦、怒りて、四人、猶ほ戰場に死生(ししやう)を爭ひ、市中に羸利を貪(むさぼ)るがごとし。

[やぶちゃん注:「羸利」では意味が通らない(「羸」(音「ルイ」)は「瘦せる・病み疲れる・弱る」の意)。ここは「贏利」(えいり)でともに「儲ける・利益を得る」の意になるので、その誤判読ではないか。

 乾齋、曰はく、

「予、一說、有り。足下の輩、意を安んじて、之れを聽け。四人、同じく曰ふは、如何(いかん)ぞ。」

と。

 乾齋、曰はく、

「盡く、書を信じて、書の無きに如(しか)ず。書も、且つ、尙、之れを疑ふ。則ち、「史記」疑ふ無からざる能はず。吾れ、之れを聞くに、「史記」は大史公の未だ定まらざるの書なり。而も、且つ、多く、攙入(ざんにふ)あり。今、一、二を取りて、之れを證す。其の攙入は、「司馬相如傳」の贊に曰はく、『揚雄、以爲(おもへ)らく、「靡麗の賦」に、百を勸め、一(いつ)を諷(あてこす)れり。』と。趙翼、之れに辯駁して曰はく、『雄は、乃(すなは)ち、哀・平の王莽の時の人なり。史遷、固より、武帝の時の人。而して何の由(ゆゑ)を得て、百年の下(しも)の揚雄をば、預り知れるや。』と。又、「自在岐互處」に、『「朱建傳」に謂ふ、『黥布、反(そむ)かんと欲して、建の諫めの聽かず。事、「黥布傳」中に在り。』と。今、「黥布傳」に此の語(こと)、無し。是れ亦、古人、之れに辯駁す。』と。此れに由りて、之れを觀るに、未だ定まらざるの書なり、未だ、之れ、信ずるに足ず。然りと雖も、「伯夷傳」のごときは、明確にして高論たり。後人の攙入に非ず。唯だ、夷・齊、馬を叩(ひきと)めて諫めし事、殊には經に見えず。則ち、疑ふらくは、是れ流傳の言たり。若(も)し、果して、流傳の言たらば、未だ、之れ、信ずるに足らざるなり。且つ、明王が直辯の駁なり。子輩、之れを知るか。若し、未だ、則ち、之れを熟視せざらば、之れを察して、後に其の是非を正す。盖し、爭ふは、事の末たり。其の言、「義理、有り。」と雖も、終(つひ)に君子の操(みさを)を損ず。願はくは、暫く、吾が說を聽け。爭ふ勿れ、譁(かまびす)しくする勿れ。」

と。

 是に於いて、座中、哄然と笑ふ。讀むこと、故(かく)のごとし。「伯夷傳」を畢(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「攙入」「竄入」に同じ。文中に不要な字句などが紛れ込むこと。以下で乾斎が挙げているのは清の趙翼の著になる中国の正史二十二史の編纂形式・構成・内容について考証し論評した「二十二史箚記」(にじゅうにしさっき:「箚記」とは「読書雑記を箇条書きしたもの」の意。一七九五年の自序がある)に拠る。

「揚雄」(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人・学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。示すのも馬鹿々々しいが、司馬遷は前漢中期の人物で生年は紀元前一四五或いは一三五年?で、紀元前八七或いは八六年?である。

「哀・平」前漢の第十二代皇帝から第十三代皇帝

「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「爭ふ勿れ」頭書に従い、前と後の「莫」は「勿」に代えた。]

 次いで、「春秋左傳」を讀む。莊公九年に至り、齊の管仲の囚を請ふの章、櫟葉が門人大瓠。昭然と歎じて曰はく、

「噫(ああ)、漢土の人。何ぞ忠義に薄きか。管仲、怯儒にして、義、無くして、魯の子糾を殺す。召忽(せうこつ)、之れ、死すも、管仲、死せず。以つて、余、之れを觀るに、召忽、之れ、能く、事ありて、君の終れるを、謂(おも)ふべかりしなり。然れども、孔子、特に管仲を稱す。吾れ、竊かに、之れに、惑ふ。」

と。

 昌齋、之れに應じて曰はく、

「子、惑ふ、宜なるかな。昔者(むかし)、子路の果敢にして、此の惑ひ、無きこと、能はず。况んや、足下の輩に於いてをや。夫れ、孔子の召忽を稱せずして、管仲を稱するは、稱は、其の功業なればなり。盖し、召忽、一夫の材にて、若し、不子糾に死せざれば、三軍の虜(とりこ)となるなり。管仲、王佐の材たり。子糾、死して、則ち、溝瀆(こうとく)の死を免れざるなり。故に、孔子は其の死なざるを美とし、而して其の功業を稱せり。鳴呼(ああ)、管仲の功業の、民に益するや、平王、東遷して、諸候、内攻し、夷狄、外侵し、周室の亡ばざること、線(いと)のごとくなるに、向ふもの無き管仲の相と、桓公が霸業を振ふ。則ち、中國の『被髮(ひはつ)・左袵(さじん)せざる無きは幾(いくばく)ぞ』ならん。謂ふべからざる「非仁」か。然ると雖も、其の爲人(ひととなり)に於いてや、孔子も亦、之れ、賤たり。傳ふる所に云はく、「不一にして足れるも、管仲の器は小なるかな。儉(けん)をんか得。管仲、孔を知らず。」と。此に由りて、之れを觀るに、孔子の管仲を稱すや、所謂(いはゆる)、門の上に之れを挑げて、夷狄、在れば、則ち、之に進むるに、猶ほ、「文子(ぶんし)」の淸を稱するがごとし。「美藏文仲」の智なり。亦、何ぞ、怪の管仲や。且つ、子言曰はく、『魯、子糾を殺すは、疎漏、甚しきかな。』と。經に云はく、『齊人(せいひと)、子糾を取りて、之れを殺す。子糾を殺ししは齊なり。魯に非ざるなり。』と。「大瓠擊節」、乾笑曰はく、『子、席に唐土(もろこし)の書を讀む。偏へに唐人に僻(へき)して、一つなる、何ぞ甚しき。夫れ、仁者は必ず仁の功有り。智者は必ず智の功有り。既に云ふ、「管仲は禮を知らず、智者にして禮を知らず。」と。可ならんか。』と。又、云はく、『儉を得んか。仁者は必ず儉なり。管仲、儉を得ざらんか。則ち、之れ、仁を謂ふべきか。』と。」

 昌齋曰はく、

「之れを聞くに、錦城先生曰はく、『夫れ、酒に淸濁の別、有り。醇醪(じゆんろう)の品、有り、飮むに淸醇なれば、亦、醉ふ。濁醪なるを飮まば、亦、醉ふ。醉ひの功に於いて爲(せ)ば、則ち、丁(てい)なり[やぶちゃん注:同じように強いものである。]。其の物の厚薄に爲ば、則ち、異(い)なり。管仲の功。濁醪の醉ひなり。堯・舜の仁、淸醇の醉ひなり。今、夫れ、淸醇と濁醇と、固より、差別有り。霸と王と、功は同じくして、本は異なれり。然れば、其れ、一たび匡(ただ)すに至らば、天下一なり。傳へて云ふ、『君子の人と成れる、之れ、美し。人と成らざるは、之れ、惡(あ)しし。』と。故に、夫子、盖し、其の社(ほこら)と器(うつは)と小なるを知らずして、特に其の功を稱す。足下の言、毛を吹きて、疵(いず)を求むるがごとし。人を責めて止まず。而して、我と聖人の道は、大いに、逕庭(けいてい)、有り。是に於いて、大瓠(おほふすべ)、言下に敬ふ。』

と。

[やぶちゃん注:「管仲」管夷吾(かんいご ?~紀元前六四五年)は春秋時代の斉の政治家。桓公に仕え、彼を覇者に押し上げた人物として知られ、一般には字(あざな)の仲で知られ、旧友で同じく斉を支えた官僚鮑叔との「管鮑の交わり」で知られる。ここの話は当該ウィキの以下の引用の後半で状況が簡明に記されてある。『管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している』。『「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が』、『逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合と』、『そうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが』、『彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時』、私の同僚であった『召忽は殉死したが』、『私は囚われて辱めを受けた。だが』、『鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」』と。『二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ』。『二人は斉』(せい)『に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし』、『時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は』、『糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった』。『ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て』、『車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり』。「春秋左氏伝」『などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして』、『車を走らせて』、『その場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は』、『自分の死を確認する刺客が』、『再度』、『到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため』、『管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白と』、『その臣下たちが』、『既に国内を纏めており、管仲と公子糾は』、『やむなく』、『再び魯へ退却した』。『斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく』、『軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と』、彼を支えた二人の重臣『管仲』及び『召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した』(☜)。『しかし、管仲は斉に入ると』、『拘束を解かれ』た。『魯を攻めるにあたり、桓公は初め』、『糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒』(こうけい)の二『人で十分です。しかし』、『天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて』、『考え直したためである』とある。

「溝瀆の死」汚ない「みぞ・どぶ」の中での無益な死を言う。故事成句「溝に縊(くび)る」「溝瀆に縊る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)が知られる。

「平王」周の第十三代の王(在位:紀元前七七一年~紀元前七二〇年)。彼以降、周は縮小した東周となった。ここは突然、原初が儒教の理想国家とされる周王室とその滅亡の比喩を比喩らしくなく、突如として挿入しているのである。これは、「論語」の「憲問第十四」にある以下に出る、『子曰、「微管仲、吾其被髮左衽矣。」。』(子曰く、「管仲、微(な)かりせば、吾れ、其れ、被髮(ひはつ)・左衽(さじん)せん。」と。)に基づく。「被髪」は、結髪しない「ざんばら髪」、「左衽」は着物を左前に着ることで、「異民族に支配されていたであろう」ということを指す。

「論語」「八佾(はちいつ)第三」 の「子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉。然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。」(子曰はく、「管仲の器は小なるかな。或るひと曰はく、『管仲は儉(けん)なるか。』。曰はく、『管氏に三歸(さんき)有り。官の事ことは攝(か)ねず。焉(いづくん)ぞ儉なるを得ん。』と。『然らば、則ち、管仲は禮を知れるか。』と。曰はく、『邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦、樹して門を塞ぐ。邦君は兩君の好(よし)みを爲すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦、反坫、有あり。管氏にして禮を知らば、孰(たれ)か禮を知らざらん。』と」と。)に基づく。「儉」は倹約。「三歸」は「三つの邸宅」或いは「三つの姓の女を娶ったこと」とも言う。「家の事」家臣としての事務。「邦君」一国の君主。「樹塞門」土塀を門の内側に築いて目隠しとした。「樹」は衝立、「塞」は「蔽」の意。「兩君」両国の君主。「反坫」土で作った盃(さかずき)を置く台で、献酬が済んだ盃をそこに裏返しにして置いたが、これを自邸に置くのは諸侯にのみ許されたものであった。

「文子」老子の弟子で道家の書「文子」を書いたとする人物がいるが、それか。

『「美藏文仲」の智』不詳。「美」しく艶めいたものを内に「藏」(かく)し、「文」子のような老子のお「仲」間という逃げ道を隠した「智」恵という謂いか。

『「大瓠擊節」乾笑』書名も人物も不詳。以下の内容からは江戸時代の読本らしいが。

「錦城先生」乾斎中井豊民の師匠である儒者太田錦城。

「醇醪」混じり気のない濃い酒。

「丁(てい)なり」「同じように強いものである」の意。

 以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

 豐民云はく、

「予、此の事を記すは、既に客歲(かくさい)たり。自後、以來、定期、有りて、此の討論を爲す。又、每會、必ず、筆して、諸(もろもろ)の篋笥の中(うち)に藏(をさ)む。今、適(たまた)ま、篋笥の中を搜すに、之れを得たり。亦、以つて「兎園」が社友に呈す。頑ななる說、有るがごとし。幸ひにして敎へらる。敬して敎へをも受くものなり。

 于時(ときに)文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識す

   *

「客歲」去年。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「小春念三」陰暦の十月二十三日。

 以上の訓読は全くの我流で、判ったような振りをしているだけの箇所も、勿論、ある。おかしな部分や、よりよい訓読があれば、御指摘戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。

2021/10/20

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高須射猫

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。これ、実は五年前に、「柴田宵曲 妖異博物館 化け猫」の注で、一度、電子化して、注も附してある。今回、再度、一からやり直してあるが、そこで行った考証注は、基本、修正を必要としないと判断した。但し、リンクの不備や、少し情報を追加して作り直しておいた。

 

   ○高須射猫

 

 某候【鳥井丹波守。】の家令高須源兵衞といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年【甲子。】のいつ比にや、ふと、行方しれずなりぬ。

 その比より、源兵衞が老母、人に逢ふことを、いとひて、屛風、引きまはし、朝夕の膳も、その内におし入れさせて、給仕もしりぞけて、したゝむるを、かひまみせしかば、汁も、そへものも、ひとつにあはせて、はひかゝりて、くふ。

「さては。むかし物がたりに聞きしごとく、猫のばけしにや。」

と、いぶかりあへる折から、その君の、ゆあみし給ひて、まだ、ゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん眞黑なるもの、飛び付きたり。君、こぶしをもつて、つよくうたれしかば、そのまゝ、迯げ去りぬ。

 その刻限より、かの老母、

「せなか、いたむ。」

と、いひければ、いよいよ、うたがひつゝ、親族に、

「かく。」

と告げゝれば、

「ものゝふの身にて、すておくべきに、あらず。心得有るべし。」

と、いはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して、屛風をあげさせたれば、老母、おきなほりて、むねに、手をあて、

「とても、母をいるべくは、こゝを、射よ。」

と、いふに、ひるみて、矢を、はづしたり。

 又、親族にかたらひけるは、

「それは、射藝のいたらぬなり。すみやかに、いとめよ。」

と、いはれて、このたびは、たちまちに、きつて、はなちたれば、手ごたへして、母、にげ出で、庭にて、たふれたり。

 立ちより見るに、母にたがふ事、なし。

 やゝしばし、まもり居たれども、猫にもならざれば、

「こは。いかにせむ。腹きりて、死なん。」

と、いふを、おしとゞめて、

「あすまで、まち、見よ。」

と云ふ人、有り。

 心ならず、一夜をあかしたれば、もと、かひおける猫のすがたになりぬ。

 其のち、たゝみをあげ、ゆかを、はなちて、見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。

 いかにか、なしかりけん、このこと、ふかくひめて、人にかたらざれば、人、しるものなし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 評云、「この鳥居の家老高須氏は、關潢南の、しる人、なり。はじめは定府なりしが、今は勤番にて去歲より、江戶にあり、といふ。又、當主は、今玆十五歲にならせ給ふなり。右の物語り、かたく、いぶかし。もし、在所にての事か、さらずば、昔の事を、今のごとくとりなして、人のかたり聞かせしに非ずや。」。

[やぶちゃん注:「鳥井丹波守」後に「去年【甲子。】」とあるのが不審で、本発会は文政八(一八二五)年十月二十三日で、前年は文政七年甲申であるから、「去年」は「去る年」の意ととるしかない(干支の誤りは資料としては致命的で、それだけで嘘と批難されても文句が言えないのが近世以前の語りのお約束である)。これ以前の甲子は文化元(一八〇四)年である。そうなると、これは下野國壬生(みぶ)藩(藩庁壬生城は現在の栃木県下都賀(しもつが)郡壬生町(まち)にあった)第四代藩主鳥居丹波守忠熹(ただてる 安永五(一七七六)年~文政四(一八二一)年:鳥居家第二十七代当主)ということになる。

「高須源兵衞」鳥居家をずっと遡った信濃高遠藩の初代藩主で鳥居家第二十二代藩主鳥居忠春(寛永元(一六二四)年~寛文三(一六六三)年)の代の筆頭家老に「高須源兵衛」なる人物がいたことが、LocalWiki  伊那」の「大屋敷町」の記事によって判る。彼の後裔と考えられないことはない。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。既に曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草』でも注した。彼は兎園会の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は海棠庵の名で兎園会のメンバーであったかったから、屋代の知人でもあった。

 さて、本話、屋代も不審を示している通り、この話、どこか奇妙で、何となく実在人物を臭わせながらも、それがまた変に非リアルな漢字を与える作りとなってしまっているように私には思われてならない。屋代が「又當主は今玆」(こんじ:今年)「十五歳」と言っているのは、報告当時の文政八(一八二五)年のことで、この時は鳥居家は改易・立藩・移封を経て壬生藩藩主となり、先に示した第四代藩主鳥居忠熹の次男である鳥居丹波守忠威(ただきら 文化六(一八〇九)年~文政九(一八二六)年)の治世であった。更に屋代の謂いも(重箱の隅をほじくるようだが)おかしく、文政八年当時、忠威は数え「十五歳」ではなく「十七歳」である(翌年に夭折)。ともかくも、屋代の言う如く「在所にての事か」或いは「昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせし」ものという、如何にも都市伝説臭の強いものである可能性が極めて濃厚であると言える。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 越後烈女

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○越後烈女        輪  池

 ことし八月の末つかたに、小石川水道端に住める與力藤江又三郞の宅に、强盜入りしことあり。

 あるじは、やも男[やぶちゃん注:「やもを」。「鰥夫」「寡男」。]にて、俳諧の會に行き、老母は親類がり行きて、下女と下男のみ、留守に居たり。

 よる亥の刻過ぐる比、門をたゝく音す。

『あるじのかへりたるならん。』

と思ひて、男、出でて、あけたれば、白刄を提げしもの、五人、おし入りて、この男をしばりあげ、部屋に入れて、二人は、まもりをり。三人は内にいらんとせしを、下女、窓よりのぞきみて、とみに歸り入り、燈火をふきけし、

「誰、おきよ。かれ、起きよ。」

と、有合ひもせざる人を、あるがごとくによばゝり、さて、雨戶を、音たかくあけて、うしろのかたにさけ、椽を下りて、庭に出で、玄關の前に行きて、うかゞふに、人影、なし。

 あたりをみれば、稻荷の祠の垣のかげより、さきにみし、ぬす人三人、出でたり。

 女、少も、さわがず、

「こなたへ、き給へ。みづから、道びきすべし。いざ。」

とて、先に立ちて、刀を前にさげて、椽をあがり、物かげにかくれて、まちゐたり。かくて、ひさしくまてども、入りきたらず。

『いかゞせしならん。』

と、もとの如く、庭にいでゝみるに、さらに、かげも、なし。

 垣のかげを、のぞきみても、あらず。

「さては。にげさりしならん。」

と、あけたる門の戶をたて、戶ざしする音を聞きて、男は、ふるへ聲にて、女を、よぶ。女、

「いかゞせしや。」

と、とへば、

「かく、しばられたり。ときて、たべ。」

と、いふ。すなはち、繩をときながら、

「此有さまを、かならず、人にかたるまじ。あるじにも申すまじ。」

と、いひきかせて、うちに入り、子過ぐる比に、あるじかへりたれば、事、ゆゑなきさまにて、やすませたり。

 あくる日、あるじ、錢湯にゆきたれば、となりの同僚に逢ひたり。

 同僚の、いはく、

「夜邊は、そこには、何ごと、有りしや。」

と。あるじ、

「それがしは他行して、しり侍らず。」

と。

「いかゞなる事にや。たゞならぬ物おとしければ、耳たてゝきゝをり、『猶、物おとせば、出で逢ふべし。』と、身がまへせしが、その内に、納りたれば、うちやすみぬ。」

と。

 あるじ、かへりて、

「かのひとの、かくいはれしは、なにごとか有りし。」

と、とへば、

「しかじか。」

と、こたふ。

「さばかりのことを、いかで告げざるや。」

と、いへば、

「さん候。ぬす人、おしいりたるのみにて、物も、うせず、人もあやまたず候へば、申す迄もなし、とおもひしなり。」

と、こたへて、打ち過ぎぬ。

 わがちかきあたりに、この家あるじの姊あり。長月なかばに、この女、つかひにきたり、姊がいふやう、

「さきに、ぬす人しりぞけしは、たぐひなき、ふるまひなりき。その時、いかゞの覺悟にて有りしぞ。」

と。

 女は、

「堅固の田舍人にて、覺悟と申すことは、しり侍らず。おしはかりても、み給へ。白刄さげしものゝ、いくたりも、入りきたれば、みづからが命は、なき物と、おもひしのみにて侍り。」

と、こたへし。

 越後のむまれにて、年廿あまり三になる、とぞ。酉彥といふものゝ、かたりきかしゝなり。

[やぶちゃん注:最後の方は、当家主人の姉が、直に、その下女に問うたところが、下女が、かく答えたのを、その姉が、たまたま訪ねて行った輪池屋代弘賢に話したというシチュエーションであろうととった。

「小石川水道端」文京区小日向一丁目及び水道一・二丁目。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

ブログ・アクセス1,610,000突破記念 梅崎春生 ピンポンと日蝕

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年一月号『新潮』で、後の短編集「黒い花」(同年十一月・月曜書房刊)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 本作では主人公の日記が引用されるのだが、その部分は全体が一字下げで示されてある。ブログでは、そうした字下げが上手くいかないので(やれるんだろうが、やる気が起きない)、その引用部分を太字で示すことにした。

 文中にオリジナルに注を挿入した。若干、梅崎春生の実体験の事実と齟齬する部分があるのを指摘してある。五月蠅いかも知れない。だったら、私の注は取り敢えず飛ばして読んで、読み終わってから、やおら、注を読まれたい。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日深夜、1,610,000アクセスを突破した記念として公開する。ここのところ、夜には作業をせず、酒も切り上げて、驚くべき早い時間(へたをすると八時頃)に就寝することが多く(その代わりに朝は未明に起き、すっきりとした意識の中で作業に入れる)、今朝も、昨日に続きのテクスト注を完成することのみ気に掛かって、アクセス突破にずっと気づかず、記念テクスト公開が、ここまで遅れた。【20211020日 藪野直史】]

 

   ピンポンと日蝕

 

 その頃はつまり、こんなことをしていた。行軍将棋というやつに夢中になって、下宿の親爺を相手に毎晩指してみたり、探偵小説に凝(こ)るとなると、貸本屋から次々借りてきて、丹念な犯人容疑者のリストを作ってみたり。とにかく情熱の発し方が、常套ではなかった。ひとつのことに、ひどく偏執する傾きが出てきていた。その癖ふとしたはずみに、それが厭になると、徹底的に厭になった。思い出すのさえ、厭で厭でたまらなかった。子供の頃の偏食の結果が、今どきこんな妙な形として出てきたのだと、私は半ば本気で考えていた。何しろ、困ったことだ。時計の分解につよい興味をもって、夜中に下宿の大時計をそっと外(はず)してきて、情熱をこめて完全に分解し、こんどは元通りに組立てが出来なくて、一晩中大弱りに弱ったこともあった。[やぶちゃん注:「行軍将棋」軍人将棋のこと。]

 どういうものか、生産的なことには、一向興味が湧かなくなっていた。自分の精神や肉休を浪費したり虐使したり、そんなことだけの生甲斐を私は覚えていた。そして私は私の貧しさや弱さをも、うすうすと感じ始めていた。それはそれは、いろんな意味をふくめた、こみ入った形として。

 ピンポン。こんな他愛のない競技をも、ある日突然好きになったような気がする。その動機は今は忘れた。幸か不幸か私の勤め先には、古ぼけたピンポン台が一台備えてあって、やるとなると、執務時間でも仕事をすっぽかして、私は給仕や同僚を相手にして、球を打ち合ったりした。課には好きなのが三四人はいた。そんな無茶をやっても、クビになるおそれはなかった。なにしろ戦争中で、だんだん人手がなくなって行く頃だったから。仕事の成績はあまり問わず、員数のことばかりに汲々(きゅうきゅう)としている役所だったから。そしてこの私ですらも、この課にとっては、重要な人的資源のひとつであったのだから。人が一人減るということは、課の勢力がそれだけ減るということであった。そしてその補充はほとんどつかなかった。だから上司はにがい顔はしても、私たちを追い出す訳にはいかなかったのだ。もともと気は弱いくせに、そんな条件を、私は最大に利用していた。

 こんな妙な職場が、あの頃にはあちこちにあっただろう。戦争がおそらくそんな妙な状態を作ったのだろう。私がいたのは、教育を司(つかさど)る役所であった。近頃評判になった、庶務課長を殴ったというあの可笑(おか)しな教育委員長が、その頃私の役所の局長補佐か何かをやっていたと思う。その頃あの男は、酷薄な顔付きをした、策士型の紳士だったようだ。今はどうだか知らないけれど。[やぶちゃん注:事実である。梅崎春生は昭和一五(一九四〇)年三月(満二十五歳)に東京帝大文学部国文学科を卒業後(卒論は「森鷗外」(八十枚))、東京都教育局教育研究所に勤務していた(昭和一七(一九四二)年一月の一回目の召集で対馬重砲隊に入隊するも、気管支カタルを肺疾患と判断されて即時帰郷となって療養生活をしたのを挟みつつ、昭和一九(一九四四)年の三月頃まで)。]

 こうして私はまことにピンポンが上手になった。街を歩いていても、掌がひとりでにバットを握る形になっていたりする程、私はピンポンに中毒していた。これで上手にならない訳がない。私は左利(き)きであったし、運動神経も人並み以上に発達していたし、人の盲点をつく才能もあったし、それに手も長かった。ピンポンには、うってつけの条件がそろっていた。こんな条件は、掏摸(すり)にも適するようである。ピンポンと掏摸とは、どこか似たところがあるのだろうと思う。ピンポンの専門家には悪いけれども。

 課の連中同士でやっていても仕方がないというので、ひとつ大会に出て見ようじゃないか、ということになった。私が言い出した訳じゃない。ひとりでにそうなったのだ。私はそんなお祭り騒ぎは、昔から好きではなかった。今でも全く好きではない。つい出場する気持になった経過は、その頃の古い日記帳を開いても、どこにも書いてないようだ。いきなりその日のことだけが書いてある。

 

『九月二十一日。日曜日

 七時に起きた。寝不足で、すこし頭も痛いし、痔(じ)の具合もよろしくない。朝食を済ませて外に出た(朝食。ワカメの味噌汁、海苔(のり)のツクダ煮、小魚の干物。沢庵(たくあん)。評点六点五分)。今目は、築地国民学校で、市区職員の卓球大会が開かれるのである。空の色がきれいであった。膜のような薄い雲を含んで、もはや秋の空のかたちである。休日で静かな本郷の下宿屋街の路地々々に、あかるい光がさんさんと入っていた。太陽は黝(くろ)い屋並の果てに懸っていた。あの太陽が、今日虧(か)けるのだなと思った。ふとそう思っただけで、特別の関心はなかった。煙草を吸いながら、正門前の方角にゆっくり歩いた。――』[やぶちゃん注:日食の記事によって、この日記が昭和一六(一九四一)年九月二十一日(日曜日)の日記であることが判る。この日、日本(当時の日本統治下の台湾・アメリカ領北マリアナ諸島・マーシャル諸島の一部を含む)・ソ連・中国で日食(一部で皆既日食)が観測された。日本では先島諸島に月の本影が懸かり、石垣島・西表島・与那国島で皆既日食が見られ、島の南部を中心線が通った石垣島では、皆既状態が三分以上も継続したという。真珠湾攻撃の二ヶ月半余り前のことである。]

 

 路地から歩み出る二十六歳の自分の姿を、私は今でもありありと思い出せる。その内側に入りこんでではなく、今は外側から眺めた感じとして。独身の下宿住いだから、手入れもろくに行き届かぬくたびれた背広を着て、明るい光の中をそろそろと動いてゆくのだ。痔のために、幾分辛そうな足どりで。また眉根をちょっと寄せたまま。

 この日から半年余り前になるかしら。私は召集を受け、対馬要塞の重砲隊に呼び出され、この病気のために即日帰郷となっていた。あの寒い吹きさらしの検査場。裸になると、どんなに歯を食いしばっていても、がたがたと顫えがくるのだ。都会生活者の私のやせた尻は、毛穴が青黒くぶつぶつと開き、患部は冷えて赤く垂れた。よつん這いになって無抵抗な私の患部にたいし、中年の頑丈な衛生下士官が、言葉と手指で、最大限の罵りと侮辱を加えた。即日帰郷の恩典を得る代償みたいに、若い私はひどく侮辱され、また殴打されたりした。即日帰郷になって後もしばしば、彼等が侮辱を加えたのは、私の患部に対してであって、私の精神に対してではない、と考えたりしたが、そう思いこもうと努力する反面のぼんやりした恐怖と憤怒(ふんぬ)がは、はっきりした形をなさないまま、私の全身ににぶく滲んでいた。この気持を、私は誰にもしゃべろうと思わなかった。うっかりしゃべると、非国民だと言われそうだったから。で、即日帰郷になったことについても、その当座は、肩身が狭いという表情を、無理にでも作っていなければならなかった。そういうことには、私はぬかりはなかった。[やぶちゃん注:年齢は正しいが、先に示した通り、梅崎春生に一回目の召集があったのは、この翌年の昭和七(一九四二)年一月のことであり、事実とは齟齬する。後の展開上の操作である。]

 そんな痔であるから、仲々なおらない。薬を買ってつけることも、ろくにやらないようである。痛む時は、眉をしかめて歩くだけ。しかしその頃、肉休の一部が壊れているという自覚は、生きている感じを妙に強く私にもたせていた。ピンポンや探偵小説などに、自分のすべてを浪費したい衝動、そこに生甲斐をかんじる気持のからくりにも、それはどこかで繋がっていたようだが。[やぶちゃん注:既に注した通り。痔で即日帰郷は真っ赤な噓の創作。]

 とにかくこのような私は、正門前で市電に乗る。

 

『尾張町で乗り換え、八時半に築地についた。講堂に卓球台を四台置いて、もう七、八人の男たちが練習を始めていた。課からの出場選手は、まだ来ていない。私はすみっこの平均台に低く腰をおろして、皆の練習を眺めた。広い講堂に、激しく打ち合う球の音や、跫音(あしおと)や、話声が、高い天井や硝子(ガラス)窓にそうぞうしく反響した。変に神経をいらだたせる雰囲気があった。

 買ってきた朝刊を読もうとして、電車に置き忘れたことに気がついた。窓からさしこむ光が微塵をうかべている。その微塵をゆるがして、外れ球を慌だしく拾いにくる。すみっこにいる私の足もとにも、白い球は生き物のように弾んでころがってくる。私のすぐ近くで、試合の支度をしている男。その脱ぎすてたシャツにただよう、家畜のような体臭。遠くでは、不自然にはしゃいで、気取った球の打ち方をする若者たち。下駄穿(ば)きのままで平気な顔で、講堂に入ってくる給仕風(ふう)の少年。

 そんなような情景を、ぼんやりと目に入れるともなく入れながら、ここに来たことを後悔する気持が、かすかに胸に起伏し始めるのを私は感じた。馴染(なじ)めないこの厭な雰囲気が、私の心を硬くした。暫くしてAが来、そしてOが来た。同じように講堂の入口に立ち止って、ぐるりと場内を見渡し、すみっこにいる私を認めて近づいてきた。ただ言葉すくなく、やあ、やあ、とあいさつした。

 試合はなかなか始まらなかった。私たちも少し練習しておこうと思って、それぞれ用意をした。四台ならんだ一番端の台に行った。そこでは練習試合をやっていた。顔が魚に似た反歯(そっぱ)の若い男が、カウントをとっていた。私はその男に近づいて、こちらも練習したいから、台を半分貸して呉れ、と頼みこんだ。

 その男は、ちらと私たちの顔を見たが、すぐ視線をゲームに戻して、返事もしなかった。一ゲームが終ると、すぐ自分が代って入り、球を打ち合い始めた。私達は佇立(ちょりつ)して、その男の顔を眺めていた。その男は、明かに私たちの視線をさけて、意識した厭なわらい声を立てながら、球を打ちかえしていた。球がくる度に足を大袈裟(おおげさ)にばたばたと床にたたく、みにくい滑稽なプレイ振りであったけれども、その甲(かん)高いわらい声に、聞いても身がすくみそうな、いやな響きがあった。私は、自分の不快さを確かめるような気持で、AとOの横顔をぬすみ見ていた。

 そのうちに、定刻にずいぶんおくれて、開会式が始まった。委員長というぼんやりした顔付きの男の、要領を得ない開会の辞があった。そして整然と並んでいた人々の列が、騒然とくずれたと思うと、練習しているのか試合しているのかわからない状態の中で、もう試合が始まったらしい。カウントをとる鋭い声が、あちらこちらで聞え出した。

 組合せの関係で、私たちは不戦一勝となっていた。長い間待たせられた揚句(あげく)、十一時過ぎになって、私達はやっと試合をすることになった。相手は市立のどこかの病院の医局である。相手はすでに一回戦を勝ち残ってきていた。その試合振りを見ても、彼等の技倆は私たちより遙かにすぐれているのが判った。一番先にAが出た。次にOが出た。私は台に近づかず、講堂のすみっこに立ち、遠く試合を眺めていた。相手の病院からは、応援が何人も来ていた。AやOがしくじるたびに、激しい拍手や声援が起った。若いAやOの姿は、毛をむしられた鶏のように傷ましく、台側をあたふたと動いていた。肉親のものが群集の中でいじめられている、それを見る気持にも似ていた。試合は三人制だから、AもOも負ければ、私は出なくてすむ。その事が瞬間、私の頭をかすめた。出なくても、済むように。――台の周囲から激しい拍手がおこる度に、私は気弱く試合から眼を外(そ)らしていた』

 

 『私たちは、校庭で足を洗って外に出た。尾張町の方にむかって歩きながら、皆いつもより少し饒舌(じょうぜつ)になっていた。自分らの敗因や、相手の特徴について話し合いながら歩いた。その話し方も、お互いをいたわり合うといった気持で支えられ、一人が何かを言い出すと、あとがあわててそれに賛成するという風な会話であった。しばらくしゃべりながら歩いている中に、この共通な敗北感につらぬかれた親近な感じが、ふっと私に厭なものに思われてきた。私は歩度をおとし、何となく空を見上げた。雲が出ていた。その濃淡の雲の層を縫って、太陽が動いている。――

 銀座に出て、ブラジルで三人が珈琲(コーヒー)をすするとき、日が虧(か)け始める時刻がきたらしい。給仕女たちは、黒くいぶした硝子をもって、店を出たり入ったりして、落着かない風(ふう)であった。

 「戦争に行っても、今日のことは思いだすだろうな」

 若いAがぽつんと言った。Aも四、五日前召集今状がきて、明後日出発することになっていた。

 「忘れてしまえよ」

 とOが即座に答えた、どんな意味だかよく判らなかった。それから召集のことをちょっと話し合った。私が経験者だというので、Aは私にいろんなことを聞きたがった。しかし即日帰郷だから、私も軍隊の内部のことは、何も知らない。

 「皆がやる通りやればいいんだよ」

 などと私はこたえた。大人ぶった顔をしてるのが、自分でも感じられた。そのうちにAは、心細そうにだまってしまった。店の表では、空を仰いでいる男女の姿が見える。話はしぜんと日蝕のことにうつっていた。

 「この前の日蝕の日のことを、君は覚えているか?」』

 

 この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである。雲が厚くて、ときどき小雨を落している日であった。その頃の私には、まだ健康な好奇心があった。日蝕が見られないことが、ひどく残念で、取りかえしのつかぬ事のような気がした。私は大学生であった。その日も制服制帽をつけ、学校の構内を横切り、改築前のだだっ広い本郷座に、映画を見に行った。その映画は、私の記億に間違いなければ、あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画であった。見終って外に出て、マリネロという妙な名の喫茶店で、ひとりで熱い茶を飲んだ。そこの給仕女に、私は少しばかり参っていたのである。その日その女は、なぜか店を休んでいた。茶を飲みながらも、映画で聞いたマルタエガルトの声が、いつまでも私の頭のすみに残って、響きつづけるのを感じた。喫茶店を出て、本郷の街をあるきながら、厚い雲の層の彼方で、今壊れかけている太陽のことを私は思った。そして、青春のいろどりとでも言ったようなものが、この自分を包んでいることを、私はぼんやりと感じた。その感じを私は、昨日のことのようにはっきり思い出せるのだが。――[やぶちゃん注:「この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである」一九三六年六月十九日の日食である。この二ヶ月前の四月、春生(満二十一)は東京帝大に入学しており、親友霜多正次らと同人誌『寄港地』を発刊した月でもある(創刊号に春生は名篇「地図」(リンク先は私のサイトのPDF縦書版)を発表している。しかし、同誌は二号で廃刊となった)。「学校の構内を横切り」春生は自身で留年した一年を含め、殆んど講義には出なかった。「本郷座」当時は松竹の映画館。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。『あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画』カルミネ・ガローネ(Carmine Gallone)監督のミュージカル映画「おもかげ」(Casta Diva :「カスタ・ディーヴァ」=「清らかな女神よ」)。イタリアのシチリア島生まれの作曲家で主としてオペラの作曲家として知られたヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメロ・フランチェスコ・ベッリーニ(Vincenzo Salvatore Carmelo Francesco Bellini 一八〇一年~一八三五年:パリ近郊で没)を主人公としたフィクション。原題はベッリーニ作曲の一八三一年初演の全二幕からなるオペラ「ノルマ」(Norma )のソプラノのアリアに基づく。「マルタエガルト」「おもかげ」の主演女優マルタ・エゲルト(Marta Eggerth:本名Eggerth Márta(エッゲルト・マールタ) 一九一二年~二〇一三年)。ハンガリー出身の女優・歌手。彼女はシューベルトを主人公としたオーストリア映画の名作である、ウィリー・フォルスト(Willi Forst)監督の「未完成交響楽」(Leise flehen meine Lieder :一九三三年)で、一躍、有名になった。]

 

『ブラジルを出て、二人に別れた。

 太陽はぎらぎら輝きながら、薄い雲の周辺にあった。眩しいので、形ははっきり判らない。私は銀座四丁目から、電車に乗った。入口のところに立って、外を眺めていた。

 道では、店々から出て来た男や女が、それぞれの形の硝子を黒く塗って、しきりに空を眺めていた。そして電車がある停留場にとまった。

 路地があった。その入口のところに石があって、若い、十七、八のせむしの女がそれに腰を掛け、小さな硝子片をかざして太陽を眺めていた。少し仰向いた姿勢のために、背中の隆起がなお大きく見えた。そのままで動かない女の姿勢を、かたわらに五つ位の着物を着た男の児が立っていて、鋭い眼付きでながめていた。それは好奇の眼付きであったかどうかは、私にはとっさには判らなかった。そして電車が動き出した。

「何故あんな眼付きをしていたのだろう」私は、吊革に下ったまま、そう考えた。電車は轟々(ごうごう)と反響を立てながら、壊れた太陽の下を走って行った』

 

『佗(わび)しい一膳飯屋で、塩辛い魚の煮付と、大根おろしで、貧しい昼食をたべた。紅がらの剝(は)げた樽(たる)が腰掛けの代りになっているのである。お茶を何杯も代えて飲んだ。

 客は私一人であった。飯屋の少女がわざわざ私の為に熱い茶の代りと一緒に、すすを塗った硝子を持って来て呉れた。私は外に出てそれをかざした。

 ――硝子を通した空は暗くて、太陽の色は血のように赤かった。その斜下の部分が三分の一ばかり虧(か)けていた。薄黝(ぐろ)い雲の影が日の面をゆるやかに動いて、太陽は虚しい速度で廻転しているように見えた。寝不足の瞼(まぶた)に、血のような陽の色がちかちかとしみ込んで来た。

 硝子をかえして、私は街を歩いた。どこというあてはなかった。そのうちに小さな映画館の前に出た。私は、絵看板の前に立って長い間見ていた。

 私はぼんやりと見てたんだと思う。三分ぐらい経って始めて、その絵看板が映画「おもかげ」のそれであることに気がついた。その偶然におどろくよりは、先ず不吉に似た感じが私に来た。私は思わず四辺をふりかえった。へんてつもない白日の街が、そこにひろがっていた。

 やがて私は決心して、切符を買い求めた。入って見ると、館内は満員であった。

 そうだ、今日は日曜だったんだなと、初めて気が付いた。廊下にまで人があふれていて、仕方がないから私は喫煙室に行って腰をおろした。疲労が私の肩に、その時重苦しくのしかかって来た。真昼間に映画館などに入っている自分の姿が、何か歯ぎしりでもしたくなるほど腹が立って来た。

 私は煙草に火を点けた。それを待っていたかのように、喫煙室のすみにいた私くらいの若い男がにじり寄って来た。

「済みませんがお火をひとつ――」

 私は、黙ったまま身動きもしなかった。徹底的に黙殺したらどんなものだろう。そういう残酷な興味が私をそそった。私は意地悪く聞えないふりを装っていた。

「済みませんが、火を――」

 手を伸ばして、私の煙草に指をかけようとした。私は身を引いて、相手の顔を見た。丸顔のその男の顔に、血がのぼって来るのがわかった。

「――貸さないのですか」

 男は、のしかかるように私にせまった。私は心弱くもうっかりと、煙草を渡してしまっていた。ふん、と言った表情で、男は自分の煙草に火を点けたと思ったら、いきなり私の煙草を灰皿の中に投げ込んで、肩を怒らせるような歩き方で出て行った。

 激しい憤怒をじっと押ししずめて、私は新しい煙草に火をつけた。舌がざらざらになっていて、不味(まず)かった。私は点けたばかりの煙草を捨てて客席の方に出て行った。

 人々の肩ごしに、灰色に動くスクリーンの人影を見たとき、そしてマルタエガルトの歌声を聞いたとき、不意に瞼を焼くような熱い涙が二粒三粒私の目から流れ出た』

 

 そして私は路地奥の下宿に戻ってくる。痔が痛い。北向きのうす暗い部屋に坐って、ぼんやりしている。何もすることがない。日曜日の夕方の憂鬱が、だんだん強まってくる予感がある。

 夕風が屋根瓦をこすって吹きすぎる音がする。この部屋の真上で、夕方の衰えた光をふくんで、屋根瓦がくろぐろと鎮(しず)もっているありさまを、私はぼんやりと思い浮べている。そしてこの屋根の果てるところに、いかめしい顔の鬼瓦が、必死の表情で傾斜を支えている姿を、私は眼に描いている。このような夕方も、誰も起きていない夜々も、月の夜も、雨の朝も、その鬼瓦はその位置でうごかない。表情も動かさない。ただ必死にしがみついているだけだ。そんなことを、私は考えている。突然私はたまらない感じになって、立ち上る。部屋をうろうろ歩き廻り、帽子をかぶって、部屋を飛び出す。

 

『夕焼の色が次第に褪(あ)せはじめた険しい坂路を、私は蹌踉(そうろう)と餌差町の方に下りて行った。

 通りすがりの果物屋で、私は、一番上等の梨を一箇買った。それを弄(もてあそ)びながら、大通りから入った暗い通りにある居酒屋ののれんを肩で分けて入って行った。腰をおろして、お酒を註文した。

 私は独りで飲むことは少ないが、それでも月に一、二回は此の居酒屋で一人でのんだ。肩を張らない此処の雰囲気が、不思議に私をひきつけるのである。汚れた卓子に梨を置いて、分厚なコップから熱い酒を飲んだ。かけた皿から蚕豆(そらまめ)をつまんで、皮を土間にはき出した。そして、またお代りのお酒を注文した。

 酒を飲んだ翌朝は、御飯が不味(まず)くて食えないから、その時のために買った梨であった。

 酔ってくるにつれて、そうした素面(しらふ)の時の周到さが次第に哀しいものに思われて来だした。私は頰杖を突いたまま、眼を据(す)えてあれやこれやと考えていた。今日一日の出来事が、何か遠く遙かなものに思われた。それと同時に、場末の居酒屋で独り酒を飲んでいる自分の姿が、妙にたよりなく惨(みじ)めなものに思われて来た。

 やがて私は今日の日蝕のことを考えていた。黒い硝子を通して血のように赤く、下辺を脱落させた太陽の形を思い出していた。しかしあの壊れた太陽が、今の私とどんな関係があるのだろう。どこで結び合えばいいのだろう。この疑間はなにか孤絶した感じを、私の胸に運んできた。そして私はAのことを考え、ピンポンのことを考えていた。あのAは今から戦地に行って、自分が言ったように、この日蝕の日のことを、どんな形で思い出せるのだろう?

「もうピンポンも、今日でおしまいだな」

 と私は口に出して呟いた。明日からもうピンポンが、徹底的に嫌いになるだろうという予感は、確かな動かしがたい形で胸にあった。私は卓の下で、そっとバットを握る手付きをこしらえてみた。情緒の変化をはかってみるもののように、オナニイの後のような鈍重な不快感が、私にたちまち落ちてきた。私はあわてて、掌をひらいた。そしてまた卓をたたいて新しいお酒を注文した。

「また別に溺れるものを、おれはやがて見つけるだろう」

 感傷的になってくるのが、自分でも判った。感傷的になることで、酔いを充分廻らせるのが、独りで飲むときの私の方法であった。私は感傷をそだてようとした。そして自らたくらんだ何時ものコースに、今夜もうまく乗れそうであった』

 

『もはや数杯のコップを並べていた。意識がへんにこじれて、それが酔いの頂点にまで達しているようであった。もう頭や手足がすっかり酔っているくせに、極度につめたいところがどこかに残っていて、コップを目に持ってゆく手付きや、飲みほす時の表情などを、じっと見守っているようであった。私はおもむろに掌で内ポケットを触った。明日開かれる役所の会合の金を、私はあずかっていた。今それがここにある。今夜費消しても、明日給料を貰うから、それで埋めればいい。その考えが突然、強く私の心をこすった。――今行けば、まだ間に合う。狭い路地の窓々に、女の顔が花のように咲いている。美しく醜い色情のさまざまな思い出。

(この瞬間を、私は酔いの始めから待っていた!)

 これと同じ場面。居酒屋の親爺の今の姿勢、ものうげに動いている時計の振子、油じみた卓子、きらきら光るこぼれ酒、そしてコップを握る私の手付き、――この瞬間の風景が、そっくりこの前の時の、またその前々の、繰り返し繰り返しの過去の幻像と、ぴったり重なり合った。そして同じ形で、いま私が腰掛けから立ち上ろうとする。……

 よろめきながら、金をはらって、外に出た。ポケットの梨が、つめたく手に触れた。暗い道が、それに続いた』

 

 昭和十×年九月二十一日の日記は、これで終っている。暗い道がそれから、どこへ、何時まで、続いて行ったのか私は知らない。記憶にもない。おそらくは、長い長い距離を、数箇年の間。

 

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 遍路道心 / 現在知られた「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「遍路道心」とは別原稿と推定される

 

  遍 路 道 心

 

きのふにかはるわれの身のうヘ

ゆびはゆびとて十字をきりし

手にも香華(かうげ)はおもたくしをれ

いちねん供養の山路をたどる

ああ道心の秋の山みち

こほろぎの死は銀を生み

つめたく岩魚(いはな)はしりて

遠見(とほみ)に瀧みづのすだれを掛く。

この山路ふかみ

日のぼるれども光を知らず

いちねん供養の坂みちに

われただひとり靑らみて

絕え入るまでも目を閉づる。

絕え入るまでも目を閉づる。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年を大正三(一九一四)年九月九日と限定し、『遺稿』とする。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の中に、同義題名と判断出来る非常によく似た一篇を見出せる。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 偏路道

 

いかなればこそ

きのふにかわる我の身のうヘ

ゆびはゆびとて十字をきりし

手にも香華は重たくしほれ

いちねん供養の山路たどる

ああ道心の秋の山路

こほろぎの死は銀を生み

つめたく岩魚はしりて

遠見に瀧水のすだれを懸く

この山路ふかみ

日のぼるれども光を知らず

いちねん供養の坂路に

われたゞ一人靑らみて

絕え入るまでも瞳をとづる

絕え入るまでも瞳をとづる。

 

しかし、これ、比較して見ると、細かな部分で表記の異同が異様に多い。誤字・歴史的仮名遣・踊り字は補正(三ヶ所ある)としても、尋常ではなく、神経症的に、ある、のである。以下の前の頭の数字は削除を含めた上記のノート版の行数を指し、後者は本篇のそれである。

3「きりし」→2「切りし」

4「重たく」→3「おもたく」

5「山路たどる」→4「山路をたどる」

6「山路」→5「山みち」

8「岩魚」《ルビなし》→7「岩魚(いはな)」《ルビあり》

9「瀧水」→8「瀧みづ」

9「懸く」→8「掛く。」《漢字の相違と句点の有無》

12「坂路」→11「坂道みち」

13「一人」→12「ひとり」

14「瞳」→13「目」

14「とづる」→13「閉づる。」《漢字の相違と句点の有無》

15「瞳」→14「目」

14「とづる。」→13「閉づる。」

もある(十三箇所で、先の補正箇所を含めると、実に十六箇所にも及ぶ)。これは、いっかな、いい加減な編集者でもやらかしようのないものであり、本篇は現在知られている「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」と同じものを起こしたものとは、到底、思えない代物であるのである(なお、筑摩書房版全集では、校訂本文で「日のぼるれども光を知らず」を「日のぼれども光を知らず」と消毒している)。これは、今は失われた別な草稿によるものと考えるのが自然である。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 合唱

 

  合   唱

 

にくしん

にくしん

たれか肉身をおとろへしむ

すでにうぐひす落ちてやぶれ

石やぶれ

地はするどき白金なるに

にくしん

にくしん

にくしん

にくしんは蒼天にいぢらしき涙をながす

ああ なんぢの肉身。

                  ―吾妻にて―

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年八月の作とし、翌大正四年一月の『水甕』初出とする。筑摩版全集でも、当該雑誌の同年一月号とする。初出を示す。歴史的仮名遣の誤り・誤字(誤植)はママ。

 

  合唄

 

にくしん、

にくしん、

たれか肉身をおとろへしむ、

既にうぐゐす落ちてやぶれ、

石やぶれ、

地はするどき白金なるに、

にくしん、

にくしん、

にくしんは蒼天にいぢらしき淚をながす、

ああ、なんぢの肉身。

             ――八月作――

 

当初、底本の「にくしん」の後半の単独の三連呼は、編集者の誤りの可能性が高いようにも思われたが、後書の「吾妻にて」は初出とは異なる別原稿である可能性をも示すものである。実際、筑摩版年譜を見ると、この大正三年八月に例の群馬県吾妻郡中之条町四万の四万温泉積善館に避暑しているからである(十三日に前橋に帰った)。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の最後には活字化せずに、注で、『合唱(本篇原稿四種八枚)』とし、『本篇原稿は「――女と共にうたへる――」の傍題が附されている。また末尾に【――一九一四・ハ 吾妻山中ニテ――】の注記がある。』とする。この「女」は謎で全く不詳。恐らくは朔太郎お得意の意味深長にやらかしたイカサマだろう。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 墓參 /詩集「蝶を夢む」の「輝やける手」の初出形

 

  墓   參

 

おくつきの砂より

けちえんの手くびは光る

かがやく白きらうまちずむの屍蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ 故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かがやき指はひらかれ

石英の腐りたる

我れが烈しき感傷に

けちえんの らうまちずむの手は光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。なお、最終行の「らうまちずむ」には傍点はない。「らうまちずむ」は自己免疫疾患の一つで機序がよく判っていないリウマチ(rheumatism:英語のカタカナ音写は「リュマティズム」が近い)のこと。関節・骨・筋肉の強張り・腫 れ・痛み・変形などの症状を呈する疾患の総称。古代には「悪い液が身体各部を流れていって起こる」と考えられ、名は「流れる」の意のギリシャ語に由来するほどに古い。現在は主に「慢性関節リウマチ」を指す。「リューマチ」「ロイマチス」とも表記する。底本では、大正三(一九一四)年八月二十日の作とし、翌大正四年一月の『異端』初出とする。筑摩版全集でも、当該雑誌の同年一月号とする。初出を示す。歴史的仮名遣の誤り・誤字はママ。

 

 墓參

 

おくつきの砂より、

けちゑんの手くびは光る、

かゞやく白きらうまちずむの屍臘の手、

指くされども、

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ、

手にも秋くさの香華(かうげ)おとろへ、

靑らみ肢體に螢を點じ、

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ、おくつきに銀のてぶくろ、

かゞやき指はひらかれ、

石英の腐りたる、

われが烈しき感傷に、

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

           ――一九一四、八、二〇――

 

さて、この詩篇は、後の萩原朔太郎の第三詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月十四日新潮社刊)に、「輝やける手」と改題して、以下のように載る。ルビは一切ない。

 

 輝やける手

 

おくつきの砂より

けちゑんの手くびは光る

かゞやく白きらうまちずむの屍蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かゞやき指はひらかれ

石英の腐りたる

われが烈しき感傷に

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

 

やはり最終行の「らうまちずむ」に傍点はない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 空中樓閣 (附・同草稿及び未発表詩篇「月光」)

 

  空 中 樓 閣

 

みそらに都會あり

靑は衣裝

紅は音樂

黃は聖母

菫は榮光

 

みよ魚鳥遠(とほ)きに商(あきな)はれ

ふんすゐをせきめぐるの小路

往來風ながれ

紙(かみ)製の果物ぞならぶ

 

ああしばし

わが念願は鈴をふり

遊樂はみどりなす出窓にいこふ

 

音もなきみ空の都會

しめやかに みなみへながれ行方を知らず

はれるや。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年を大正三(一九一四)年八月とし、『遺稿』とする。筑摩版全集では、「未發表詩篇」にある。以下に示す。

 

 空中樓閣

 

みそらに都會あり、

靑は衣裝、

紅は音樂、

黃は聖母、

菫は榮光、

 

みよ魚鳥遠(とほ)きに商(あきな)はれ、

ふんすゐをせきめぐるの小路、

往來風ながれ、

紙(かみ)製の果物ぞならぶ、

 

ああしばし、

わが念願は鈴をふり、

遊樂はみどりなす出窓にいこふ、

 

音もなきみ空の都會、

しめやかにみなみへながれ行方を知らず、

はれるや。

 

とある。同一の原稿と考えてよかろう。

 なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、以下の二種の草稿(標題は孰れも「虹」)が示されてある。脱字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

  

 

さびしけれども

みそらに都會にあり[やぶちゃん注:編者は「にあり」を『あり』の誤りとする。]

影は女ひとの影 往來に喇叭ふき

紅は衣裝は音樂

靑は音樂

いろは聖母

みどりは運河→軽舸→でん→魚鳥  巡禮

 

往來に風ながれ

紙製の果實はならぶ

 

 

  

 

みそらに都會り[やぶちゃん注:編者は「り」は『あり』の脱字とする。]

靑は衣装

茶は音樂

黄は聖母

綠は巡禮

みよきに魚鳥商はれ

ふんすゐをせきめぐるの小路

女は晶玉

往來八月風ながれ

紙製の果物はならぶ

みよ女は 一連の つらなる晶玉

さびしくしてはしやげる

せはしなき かげ 影のいとなみ

┃み空に都會あり

みよ はやせわしなき影のいとなみ

┃はやわれの戀情に遠 力の力の出窓に立てり

うれひに しづむ→しづめる ぬるるみ空の都

ああ 往來音もなきみ空の都會ありうれひのかげのゆきかひ

さびしけれども

夕風に消ゆる

時計は壁につめたく

┃戀情は、遠き出窓にきゆ夢と消ゆ

[やぶちゃん注:最後の「┃」は私が引いた。以上の十行がソリッドなものとして並列されていることを示す。]

 

   *

編者注があり、『右の兩草稿は、未發表詩篇「月光」と同一用紙に書かれている。』とある。序でに、同全集から、それを引く。

   *

 

 月光

 

峯々の谷は金銀

みほとけの頭金銀

月光

水ながれしより

月に河鹿けぶる

 

   *

編者注があり、『12の數字は作者が附したもの。』とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 交歡記誌 / 附・草稿

 

  交 歡 記 誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ ひとびときたる

遠方より魚を光らし

遊樂の戯奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああいま新らしき遊戯は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年七月『創作』初出とする。筑摩版全集では、同年同月号の同雑誌を初出とする。初出形を示す。

 

 交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

先頭にある指もで十字を切るごとし

女は左に素脚をひからし

男は右にならびて杖をとがらす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、ともがらはしんあいなり

遊樂は祈禱の沒落

靈肉の音の交歡

いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

であるが、編者注があり、『右の十二――十五行、十七――十九行を削除し、十二行目の冒頭に「ああ、」を加えている掲載誌が殘っている』とある。それに従って、整序したものを以下に示す。

 

  交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

この読点二箇所を除去し、「淫樂」を「遊樂」にすると、本篇となることから、これは、同じ修正雑誌をもとにしつつ、初期形にあった「遊樂」を「淫樂」に取り違えたもののように思われる。因みに、「戲奴」は道化で「ジョーカー」と読んでいるものと私は思う。仮にルビを想起するなら、「ジヨーカー」「ヂヤウカア」「ヂヤオカア」などがあるようである。

 なお、筑摩版全集の草稿詩篇「拾遺詩篇」に本篇の草稿『(本篇原稿一種一枚)』として載っている(無題)。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  

 

みどりにふかく手を泳がせ

涼しきところに齒をかくせ

いま白く風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすいのほとりに家畜を先導し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

きみはまた舞妓たちを排列し

きみはおんみら……

この夫人と少女(おとめ)の會員

とく水色の藤椅子に酒をそそぎてよ

ああ、ひとびときたる

先頭に ありて たちて遠方にあるは魚肉を捧ぐるは我の戀びと

┃戀びとは路に逍逢

┃戀人の步道にむかひむ道路

步道は銀の

┃戀人の路を

[やぶちゃん注:「┃」は私が附した。以上の四行は並置残存であることを示す。後注参照。]

その みよ指はやさしく十字をきるごとし

行く行く指もて十字きるごとし

┃路はぎらら銀をはる

[やぶちゃん注:以上の三行は並置であるが、二行目の「┃行く行く指もて十字きるごとし」と三行目の「┃路はぎらら銀板をはる」の頭の「┃」は底本では繋がっている。編者の附したもので、一行と二・三行目が二つの候補として並置残存していることを示すものである。]

女は左より來りてに素足光らし

男は右にならびて杖を光らす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を嗚らせり

あゝともがらはしんあいなり

 

最後に編者注があり、『以下の原稿はない。本稿の欄外に次の三行が記されている』とあって、

 

 遠方より魚肉を捧げ

 先頭にあるは指もて十字をきる如し

 したいに銀張の步道をすべり

 

とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 純銀の賽 / 附・草稿

 

  第三(『月に吠える』時代)

 

 

  純 銀 の 賽

 

みよわが賽(さい)は空にあり

空は透靑

白鳥はこてえぢのまどべに泳ぎ

卓は一列

同志の瞳は愛にもゆ

 

みよわが賽は空にあり

賽は純銀

はあとの「A」は指にはじかれ

緑卓のうへ

同志の瞳は愛にもゆ

 

みよわが光は空にあり

空は白金

ふきあげのみづちりこぼれて

わが賽は魚となり

卓上の手はみどりをふくむ。

 

ああいまも想をこらすわれのうへ

またえれなのうへ

愛は祈禱となり

賭博は風にながれて

さかづきはみ空に高く鳴りもわたれり。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本巻末の「詩作品年譜」では、大正三(一九一四)年八月三十一日の制作年月日を示し、大正三年十月の『地上巡禮』を初出とする。筑摩版全集でも「拾遺詩篇」に同雑誌同月号を初出として載る。初出形を示す。

 

 純銀の賽

 

みよわが賽(さい)は空にあり、

空には透靑、

白鳥はこてえぢのまどべに泳ぎ、

卓は一列、

同志の瞳は愛にもゆ、

 

みよわが賽は空にあり、

賽は純銀、

はあとの「A」は指にはじかれ、

綠卓のうへ、

同志の瞳は愛にもゆ。

 

みよわが光は空にあり、

空は白金、

ふきあげのみづちりこぼれて、

わが賽は魚となり、

卓上の手はみどりをくむ。

 

ああいまも想をこらすわれのうへ、

またえれなのうへ、

愛は祈禱となり、

賭博は風にながれて、

さかづきはみ空に高く鳴りもわたれり。

            ―八月三十一日―

 

本篇とは、第三連の最後が異なる。しかし、これは筑摩版の方が正しいようである。「含む」ではイメージとしてはおかしいとは言えぬものの、どうも前との連関が悪く、「汲む」ですんなりと読める。

 また、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に「坑夫の歌」と題した本篇の草稿とする『本篇原稿一種一枚』とあるものが載る。以下に示す。誤字・脱字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  坑夫の歌

 

ああ、いまも思ひを凝らす我のうヘ

またえれなのうヘ

トバクは白金の祀禱となり風にながれ

愛は祈禱となり宴は光る魚となり

さかづきは高く高く空に合さる

み空に高く玻璃はあはさる

み空に玻璃は鳴りもわたれり

[やぶちゃん注:以上二行は並置。

   すゞしくも君にぬぐはる、

淚は

   おんきみの脣(くち)にぬぐはる、

[やぶちゃん注:以上の後半の前後は二行並置。]

みよ 見よ、いま、かゞやく空 より賽は投げられ

みよ空いまわが賽は空にあり

その銀は魚となり

その銀はいさなとなり

尾ひれきらめき

てえぶるは水をたぎらす

水をたぎらす綠卓のうヘ

するどく落ちて破るゝもの

純銀の賽のやぶるもの

ああ ああたゞたゞわが瞳のみそれを知る

えれなよ

わが君よ

[やぶちゃん注:以上二行は並置。

いまぞ靑空に向ひて破璃を鳴らせよ

[やぶちゃん注:また、編者後注によれば、この『「わが君よ/いまぞ靑空に向ひて破璃を鳴らせよ」は線でかこまれている』ともある。]

えれなよ

ああわが賽はすでに投げられ

そのするどさに肢體は やぶれ きゝづき 額は足はきゞつき

ああ瞳は光にめしひ

ああはや床に晶玉やぶれ

わがああはやトバクは風にながれて

さかづきは空に光れり「ちゝら」と靑空に鳴りもわたれり。

 

最後に編者注があり、『本稿下欄に次の記載がある』として、以下を示す。

 

 えれなよ

 瞳は光にめしひ

 そのするどさに足 やぶれ きゞゝき

 床に晶玉やぶれて

 見よいま空より賽は高くなげられ、

 えれなよ

 ああわが春はいたく投げられ

 2そのするどさに瞳はめしひ

 3 肉やぶれきゝづきやぶれ

 4床に晶玉やぶれつれども

 5はやわがトバクは風に流れて

 さかづきはちちとに靑空に鳴りもわたれり、

 

後注に、以上の下欄の記載については、『行頭の數字は著者の附したもの』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 白猿賊をなす事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○白猿、賊をなす事

 佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり。此役所を預りをる大山十郞といふ人、先祖より傳來する所の貞宗の刀を祕藏して、每年、夏六月に至れば、是を取り出だして、風を入るゝ事あり。

 文政元六月[やぶちゃん注:一八一八年。文化十五年四月二十二日に仁孝天皇即位のために改元されていた。同年の六月はグレゴリオ暦の七月とほぼ一致する。]、例のごとく、座敷に出だし置きて、あるじも、かたはら、去らず、守り居けるに、いづこより、いつのまに來りけん、白き猿の三尺ばかりなるが、一疋、來りて、かの貞宗の刀を、奪ひ、立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじも、

「やゝ。」

と、いひつゝ、おつとり刀にて、追ひかけ出づるを、

「何事やらん。」

と、從者共も、あるじのあとにつきて走り出でつゝ、追ひゆく程に、猿は、其ほとりの山中に入りて、ゆくへを、しらず。

 あるじは、いかにともせんすべなさに、途中より立ち歸り、この事、從者等をはじめとして、親しき者にも告げしらせ、翌日、大勢、手配りして、かの山にわけ入り、奧ふかくたづねけるに、とある芝原の廣らかなる處に、大きなる猿、二、三十疋、まとゐして、其中央にかの白猿は、藤の蔓を帶にして、きのふ、奪ひし一腰を帶び、外の猿どもと、何事やらん、談じゐる體なり。

 これを見るより、十郞はじめ、從者も、刀をぬきつれ[やぶちゃん注:ママ。「連れ」も考えたが、続きから考えると、一番穏当なのは「つゝ」の誤判読であろう。]、切り入りければ、猿ども驚き、ことごとく迯げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を、拔はなし、人々と戰ひけるうち、五、六人、手負たり。白猿の身に、いさゝかも、疵、つかず。度々、切りつくるといへども、さらに、身に通らず。鐵砲だに通らねば、人々、あぐみはてゝ見えたるに、白猿は、猶、山、ふかく迯げ去りけり。

 夫より、山獵師共を、かたらひけるに[やぶちゃん注:彼らを相手に話を聴いてみると。]、此猿、

「たまたま見あたる時も候へども、中々、鐵砲も通らず。」

と、いへり。

 此後、いかになりけん。今に、手に入らざるよし。

 その翌年、かの地の者、來りて語りしを思ひ出でゝ、けふの「兎園」の一くさにもと、記し出だすになん。

  文政乙酉孟冬念三    文寶堂散木記

天 正 兎 園

[やぶちゃん注:『佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり』佐竹氏の久保田藩(秋田藩)が藩領内の山域の林業管理・保全・警備のために置いた出先の役所。正式には「木山方役所」(「きやまかたやくしょ」と読むか)で、狭義のそれは「能代木山役所」・「銅山木山役所」であるが、広義には木山方吟味役が配置された「御薪方役所」も含まれるであろう(以上は芳賀和樹・加藤衛拡氏の論文「19世紀の秋田藩林政改革と近代への継承」PDF・『林業経済研究』第五十八巻・二〇一二年春季大会論文)に拠った)。前者の担当域は以下の阿仁銅山を除いた、現在の能代市及び男鹿半島一帯に及ぶ山間部であるが、「能代木山役所」の位置は他の文書も見たが、よく判らなかった(感触的には木材運搬に利用した米代川中流の両右岸山間部の麓辺りかと思われる)。後者は旧「阿仁鉱山」を中心とした山間にあった。

「貞宗」サイト「刀剣ワールド」の「貞宗」によれば、『鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。相州伝を代表する正宗の門人で、技量を見込まれ』、『養子になったと伝わっています』(以下は専門用語がよく判らぬが引用しておく)。『大摺上の太刀は身幅が広く、鋒/切先の形状は「大鋒」(おおきっさき)の物が多いのが特徴。地鉄(じがね)は板目に杢が入り詰み、地沸厚く付き』、『地景が盛んに入り、刃文は大湾(おおのた)れを主にし、小乱れや互(ぐ)の目のついた作例が多く、刃中の働きは金筋・稲妻・砂流しが激しくかかっています』。『太刀・短刀とも師・正宗に比べて穏やかな作風。片切刃造と二筋樋は、貞宗から始まっており、現存する日本刀は、すべて無銘で在銘作はありません』とある。

「天正」よく判らぬが、これ、天正の年号の元とされる「老子」の「洪德第四十五」にある「淸靜爲天下正」(淸靜(しやうじやう)なるは天下の正と爲(な)る)」で、この発会の文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)は、冬晴れのピーカンであったのかも知れない。]

2021/10/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐の祐天

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○狐の祐天

 文政三庚辰年[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋、大傳馬町二丁目、きせる問屋升屋善兵衞といふものゝ娘【年十八、名は「ゑい」。】に、祐天僧正のゝりうつり、此むすめ、俄に六字の名號をかき、名をば、則、

「祐天」

と、かきて、花押まで、少しもたがはざれば、

「名號を書きて貰はん。」

「十念を、うけん。」

「昔、羽生村の累女を得脫させし僧正の、再び來らせ給ひし。」

とて、愚痴無智の老若男女、升屋が門に、市をなせり。

 此むすめ、名號をもかき、十念をも出だせど、來り給はぬ時は、常の娘にて、平日に、かはること、なし。

「此娘の、かきたる名號なり。」

とて、元飯田町藥店小松三右衞門より、もたせこしたり。

 ひらきみれば、表裝は赤地の錦にて、いと立派に仕立たる絹地の竪物に、

  南 無 * ※ 位 佛    祐 天 ★

[やぶちゃん注:「*」と「※」は崩しでよく判らぬ字であり、「★」は華押なれば、画像で示す。

「*」(「彌」であるべき字)は ↓

Mi_20211019164501

「※」(「陀」であるべき字)は ↓

Da

祐天の華押とする「★」は ↓

Yutenkaou

である。祐天の華押の本物を捜したが、見当たらない。見つけたら、示す。]

かくのごとく、「彌陀」の二字、たがへり。これを借り得て、南畝翁に見せけるに、折ふし、酒宴の時なりけり。

「貴き名號なれば、今、腥き口にては、親鸞ならば、貪着は有るまじけれど、祐天には、ちとは、ふむきなり。」

とて、口そゝぎて、一軸をひらき、よくよく見られて、

「此『彌陀』の二字をかへたるは、まさしく狐狸のわざならん。憚りて、わざと、かく書きたがへしものなるべし。口そゝぎて、やくなき事をしたり。」

など、いひつゝ、又、盃をかたぶけて例の口、とく、

 祐天がのりうつりたる名號のひかりをみたの二字にこそしれ

 此娘の沙汰、

「あまりに、いぶかしき事なり。」

とて、大傳馬町名主馬込氏、みづから、升屋かたへゆきて、委しく聞き糺し、夫より、娘に面會して、さまざまに詮議して、問ひつめければ、是非なく、本性をあらはしたる處、狐のつきたるに相違なければ、馬込、いよいよ、きびしく問答し、つめて、此きつねを退けたりとぞ。

 此娘に「きつね」をつけたる事は、此升屋の後家なるもの、上州より、年々、來て、滯留せる絹商人彌三郞といふ者と密通して、此「絹うり」のたくみなるよし。

 此事、既に露顯に及びければ、絹賣は出奔しけり。

 後家をば、親里へ預け、娘「ゑい」をば、親類方へ引きわたし、當主、幼年なれば、事、落着まで、是迄の通り、支配人持とせり。これ、皆、馬込のはからひなるよし。

 此頃、馬込の取沙汰、よく、

「宿老は、かく有りたきものなり。」

と、人々、いひあへり。

 これにつけても、名號を、一度、見られて、

「狐狸のわざ。」

と、はや、さとられし南畝翁の先見、明らかなりと、いふべし。

 狂詠に、「名號のひかりをみたの二字」と「しれ」とは、もとより貴き彌陀の二字なれば、その光りにおそれて、書きかへたれば、則、『此二字にて、怪しきものゝ所爲なるをしれ』と、よまれしものなるべし。

[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸最大の繊維問屋街として知られた。ここでも「絹商人彌三郞」で親和性がある。

「祐天」江戸最強のゴースト・バスター祐天上人(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。浄土宗大本山増上寺第三十六世法主にして大僧正。陸奥の人。号は明蓮社顕誉。徳川綱吉・家宣らの帰依を受けた。ここでも「昔、羽生村」(はにふむら)「の累女」(かさねぢよ)「を得脫させし僧正」とあるように、当該ウィキに、『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話』「死靈解脫物語聞書(しりやうげだつものがたりききがき)」で、『この説話をもとに多くの作品が創作されており、曲亭馬琴の読本「新累解脫物語」や、『三遊亭円朝の怪談』「眞景累ヶ淵」(この「しんけい」は「神経」に通わせた洒落である)『などが有名である』。この「死霊解脱物語聞書」は実は江戸で最も流行った怪談で、知らぬ者はいなかった。筆者は殘壽(ざんじゅ)という僧で、彼は祐天上人の直弟子の浄土宗の説教僧と考えられている。元禄三(一六九〇)年板行である。私は、人に江戸怪談では何がお薦めかと聴かれると、第一にこの「死霊解脱物語聞書」を挙げるのを常としている。一九九二年国書刊行会刊の「江戸文庫 近世奇談集成(一)」で読んだ時には、読み終わるが惜しいほどに感激したものであった。いつか、電子化したい。

「元飯田町」(もといいいだまち)は現在の千代田区富士見一丁目及び九段北一丁目

「南畝翁」大田南畝。

「貪着」(とんぢやく(とんじゃく))拘ること。

「やくなき事」「益無き事」無益で、つまらないこと。

『此娘に「きつね」をつけたる事は、此升屋の後家なるもの、上州より、年々、來て、滯留せる絹商人彌三郞といふ者と密通して、此「絹うり」のたくみなるよし』というよりもだな、この弥三郎……恐らくはかあちゃんの後家に飽きてしまい、この「ゑい」(多分「榮」か「衞」であろう)に手をつけたんだろうぜ……されば、こそ、神経症かヒステリーになった彼女が「狐憑き」を無意識に演じたと考えた方が、遙かに信じられるってえもんだぜい!

「宿老」江戸時代、町内の年寄役を、こう呼んだ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佐久山自然石

 

  ○佐久山自然石

 

Sakuyamasizenseki

 

[やぶちゃん注:底本からトリミング補正した。キャプションは、

南無日蓮大菩薩

と、

野州那須郡佐久山箒川出現御影

である。薬師如来三尊像の脇侍(脇侍を言う時には主尊と同じ向きになって左右を言う)の日光・月光菩薩の配置に従うなら、向かって右手(左脇侍)が日輪であり、左手(右脇侍)が月輪である。]

 

野州佐久山【福原家采地。】中町にすむ、「住吉や爲八」といふもの、當文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の四月のころ、おのれが裏なる地面に、「鯉の魚溜を作る。」とて、まはりの石垣に用ふる石を、ちかきほとりの箒川より、取り寄せける。そが中に、丸き石に、自然と、二分程も高く、佛像、現れ、左右に、日輪・月輪めくもの、あるを、見出だしたり。「奇なるものなり。」とて、同州太田原城下の日蓮宗住持に見せけるに、「祖師上人の御すがたに、違ひなし。」と驚嘆せしかば、此爲八、瘤[やぶちゃん注:「こぶ」。]の、いできありしを、立願[やぶちゃん注:「りふぐわん」。]なせしに、頓に、いえけり。是よりの後、近國より聞き傳へて、日々、參詣、群集しつ。「このごろは、いとにぎやかなり。」とて、福原家の臣原某が、右の石の搨本をおくりてかたりき。

  乙酉仲冬集初冬念三     海 棠 庵

[やぶちゃん注:「野州佐久山」栃木県大田原市佐久山(グーグル・マップ・データ)。

「魚溜」「うおだめ」と読んでおく(瀧の名で「うをどめ」と読むケースがあったが)。これは生簀、或いは、普通の池の意であろう。

「箒川」(はうきがは(ほうきがわ))は佐久山の北端を流れる。

「月輪」は仏教絡みなので「がちりん」と読んでおく。満月。

「太田原城」ここ。位置関係が判るように、下方中央に佐久山を配した(佐久山小学校の名が見える)

「搨本」(たふほん(とうほん))は拓本のこと。

「仲冬集初冬念三」「仲冬」は冬の真ん中で十一月の異称。「集」は「つどひ」で「兎園会」集会を指すものでそれが、この会は従来、各月の一日に催されているのだが、理由は判らぬが、目次によれば、十一月分の「集(つど)ひ」を、少し繰り上がって「初冬」=十月の「念三」=二十三日に行ったことを記しているものである。会場も海棠庵邸であったから、ホストとして最後に異例の発会日を敢えて記したものなのであろう。或いは、海棠庵の都合で、こうなったものだったのかも知れない。因みに文政八年十月二十三日はグレゴリオ暦一八二五年十二月七日であった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蝦夷靈龜 蝦夷靈龜考異

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。主文は海棠庵関思亮であるが、馬琴が、自分の知っている話とかなり違いがあるため、馬琴自身が、ブイブイと途中に五月蠅く「考異」(同じ事件を異った話と比較して考えたこと)を裁ち入れているために、甚だ、話のリズムが悪くなっている。馬琴のそれを太字にしたので、最初は、そこを飛ばして読んだ方が私はいいと思う。]

 

   ○蝦夷靈龜

 江戶坂本町小村屋平四郞といふもの、松前東蝦夷地アツケシ【松前城下より行程四百里ばかり。】といふ場所、受負人にて、手代惣助といふもの、當文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]正月に、はやく松前へ渡海してけり。

[やぶちゃん注:「アツケシ」現在の北海道釧路総合振興局厚岸町(グーグル・マップ・データ)。

 以下の一段落は底本では、全体が一字下げ。]

 考異に云、「アツケシは三千石目運上請負の獵濱なり。又、惣助は平四郞が子にて、松前へ渡り、蝦夷地へ往來するものとぞ。手代には、あらず。」。

 おなじく四月よりアツケシヘ赴きて、漁獵の事、よろづ、手くばりしてをりしに、六月にもなりければ、漁事、いそがはしく、日に日に、蝦夷人、うちまじりて、網をおろしなどする程に、あるとき、彌三郞とて、獵事の頭取をするもの、惣助が許に來て、

「今日の漁獵は、殊によき勝利したり。濱邊に出て、見給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 考異に云、「アツケシは、春三月ごろより、漁獵をすなり。大龜を獲たるは、四月ごろといふ[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では同年四月一日は五月十八日。]。且、彌三郞は、この漁場をあづかるものにて、所謂、支配人なり。是、惣助がためには老僕なり。

「いかなるものを得しやらん。」

とて行きて見れば、長さは弐間にあまり[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル超。]、橫幅一丈餘もあらんとおぼしき大龜【龜といへど、鼈の類にて、方言に「トツキ」といふものなり。】の網にかゝりてあり。

[やぶちゃん注:「鼈」スッポン(爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポンPelodiscus sinensis 。しかし、スッポンは海には棲息しないから、ここは単に水産の大亀の謂いであろう。]

 濱邊にあぐるには、五人、十人のちからに、かなふべくもあらねば、船を引く「ろくろ」といふものにて、からくして、引きあげたり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 考異に云、「この大龜は俗にいふ「海坊主」「正覺坊」の類にあらず。又、常陸の海よりあがる「浮木」の類にもあらず。全體、脂膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]多く、且、『その甲のへりを、細工にも、つかふ。』といふ。又、云、「『トツキ』は、五、六尺のもの、たゝみ弐疊敷ばかりなるは、をりをり、網にかゝることあり。さばれ、如此、大きなるは、稀に得がたし。」とぞ。おもふに黿の類なるべし。」。

[やぶちゃん注:「海坊主」「正覺坊」カメ目ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas の異称。

「浮木」条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola の異称。

「トツキ」不詳。いかにもな印象だが、アイヌ語ではないようである。

「黿」音「ゲン」。これはアオウミガメ或いはマルスッポン(スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii )を指すので、話が判らぬ。他の作品を見ても、個人的印象だが、馬琴は水産生物にはちょっと踈い感じがする。他のウミガメはウミガメ科アカウミガメ亜科アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta ・潜頸亜目ウミガメ上科オサガメ科オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea ・ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata がいるが、アオウミガメも含めて、三種とも分布域が温帯から熱帯域を主分布とする。しかし、ウミガメの行動範囲は流動的であるから、あってもおかしくない。オサガメは甲羅が発達せず、甲羅を細工に使うという点で除外される。鼈甲材料とされるアカウミガメが一番の候補であり、実際、ネットで検索すると、海水温の上昇のせいか、最近では北海道でしばしばアカウミガメが網に掛かったり、保護されたりしている記事が、複数、確認出来る。]

 よく見るに、その頭も、又、ふたかゝへもありぬべし。この龜、惣助を見て、淚を流しつゝ、哀を請ふありさまなれば、惣助、つらく思ふやう、

『かくまで巨大なる龜の、いくばく、年を歷しやらん。「龜の齡は萬歲を保つ」としも聞くものを。さらば、又、このものも千載を經しものにこそ。』

と、おもふに、そゞろに、かはいくおぼえて、さて、龜にむかひ、いふやう、

「汝は齡の長からんを、殺さんことの不便さよ。この濱は、ちかきころ、としどしに、不獵のみにて、わがうへ[やぶちゃん注:私の立場上。]、いたく、仕合[やぶちゃん注:「しあはせ」。]わろし。汝、助命のめぐみをおもうて、海のさち、あらせんや。」

と、さながら、人にものいふごとく、おもひ入りつゝ說き示すに、龜は、いよいよ、淚をながし、首(カウベ)をあげて、

「キヽ。」

と、なく。

 そのさま、こゝろ得たるごとし。

『さては。はや、聞きわきたりな。さるにても、不思議なれ。』

と思ふに、不便[やぶちゃん注:「ふびん」。]、いや、まして、又、

「しかじか。」

と說き示せば、龜も亦、かうべをもたげて、

「キヽ。」

と、なく。初のごとし。

 これにより、惣助は、彌三郞に、よしを告げて、

「放ちやらん。」

と、いひけるを、彌三郞、從がはず。

「あの龜の油をしぼらば、三十金にもなりぬべし。甲も又、二十金にはなるべきを、放ちやるべきことかは。」

と、うち腹立て、爭ふにぞ、惣助、かさねて、

「大なる漁獵を業にすなるものが、はつかなる金の爲に。助けやらんと思ひしものを、殺さんは、不便なり。」

といふを、彌三郞、聞きあへず、

「あの龜より、ちひさきを、さきの年に得たりしときだに、云々[やぶちゃん注:「しかじか」。]の利のありけるに、ふたゝび、得がたき大龜を得て、又、捨つるは、えうなし。」とて、從ふ氣色、なかりしかば、惣助が、又、いはく、

「まづ、あの龜をよく見て、後にともかくもせよかし。」

とて、さらに、兩人、つれ立ちゆきて、龜に向ひて、はじめのごとく、

「しかじか。」

と說き示すに、龜のありさま、又、同じ。

 彌三郞も、此體たらくに、あはれみの心おこりて、

「放ち給へ。」

と、いひしかば、惣助は、よろこびて、

「後々のしるしに。」

とて、甲のはしを少しけづりて、又、かの「ろくろ」もて、卷おろさせ、そがまゝ、はなちつかはしければ、龜は海底にしづみつゝ、凡、十町ばかり[やぶちゃん注:千九十一メートル。]にして、波の上に浮きあがり、こなたに向ひて、かうべを動かし、又、沈みつゝ、はるかの沖にて、浮きあがること、始のごとく、忽、みえずなりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下同前の字下げ。ただ、かなり長い(太字終了まで全部)ので、改行を加えた。]

 考異に云、「アツケシの濱、近年、不獵にして、三千石目の運上に引きあはず。これにより、請負人は、借財なども、多くいで來しかども、

「今年は、よき獵、あらんか。明年は仕合のなほらんか。」

とて、からく、とりつゞきたれども、この兩三年、いよいよ、小獵なるにより、

『とてもかくても、この乙酉の年を限に、弗と[やぶちゃん注:「ふつと」。]やめん。』

と思ひゐたり。

 かくて、惣助、ある日、獵場を見𢌞りしに、支配人彌三郞が云、

「けふは、よきトツキ【大龜の方言。】がかゝりて候。これまで稀に網に入りしは、五、六尺のものなるに、それには五倍のものにこそ。」

といふ。

 惣助は濱邊にゆきて、件の龜をよく見るに云々【この間は、この本文に、いへるがごとし。】。

 さて、立ちかへり、又、彌三郞にいふやう、

「われ、今行きて、『トツキ』を見たるに、實に大きなることは、實に未曾有のものなり。しかれども、われは、彼を助けて、放ちやらん、と思ふなり。」

といふ。

 彌三郞、驚きて、その故を問へば、惣助、答ふること、本文のごとし。

 彌三郞、又、いはく、

「人を見て、『キヽ。』となくは、いづれの『トツキ』も、みな同じ。よく思うても見給へかし。向に[やぶちゃん注:「さきに」]得たる『トツキ』どもは、五、六尺四方なりしすら、あぶらを絞り、甲を賣れば、三十金、或は四、五十金になるものありけり。さるをあの『トツキ』は、その五倍なるをもて、二百金か。よくせば、二百五十金にもなるべし。近年、不獵にして、借財も多かるに、大金になるべきものを、放ちやることや、ある。おん身のごとく、女らしき『あはれみ』の心をもてせば、いかでか、あの『トツキ』のみならんや。凡、網に入る魚を、みな、はなちやるべきや。まことに沙汰の限りなり。よう、みづから、思ひね。」

と、たしなめしを、惣助、かさねて、

「否。わが思ふよしは、しからず。もろもろの魚を網するは、わが渡世なれば、何とも思はず。汝も亦、よく思ひみよ。けふの網は、あの『トツキ』をとらん爲に、あらず。しかるに、わがほりする[やぶちゃん注:「我が欲(ほ)りする」。]魚は入らずして、思ひもかけぬ『トツキ』のかゝりしは、これ、『から網』[やぶちゃん注:「空網」。]に異ならず[やぶちゃん注:「ことならず。」]。よしや、あの『トツキ』が、百金、二百金になりたればとて、それにて、生涯をすぎらるゝにも、あらず。大獵をなすものゝ、さのみ、小利を貪ることかは。」

といふに、彌三郞、なほ、從はず。

 惣助、又、いはく、

「われは、理もなく、思慮もなく、只、何となく、あの『トツキ』を、いと不便に思ふなり。そは、とまれ、かくもあれ、いざ、われと、もろともに、ふたゝび、ゆきて見よ。」と、いふに、彌三郞は、爭ひかねて、うちつれだちて、ゆきて見るに云々。これよりすゑは、本文にしるされしが如し。

 扨、その次の日より、漁獵の得もの、いと多く、これまでに、十倍せり。例歲の荷物、高三千石目に過ぎざりしに、今年は八千石目に餘りし、となん。秋は漁獵もなき場所なるに、思ひの外に得ものあり。その上、松前より使船の都合よく、十二分の利を得たり。

 これ、全く、惣助が慈愛の陰德より、忽、陽報ありしものか。

 彼[やぶちゃん注:「かの」。]惣助も、この冬は、江戶に歸る、となん。なほ、面談せば、くはしきはなしも、あらんかし。

[やぶちゃん注:同前。]

考異に云、「『獵得八千石目に及びし』と云ふは、方便のこと葉にて、そは秋中[やぶちゃん注:「あきうち。]、二、三ケ月に得たる利なり。實は此四月のころより、九月に至りて、二萬石目の利を得てければ、これまでの借財を貲ふて[やぶちゃん注:「あがなふて」。]、猶、あまりありし、とぞ。凡、一萬石めは、金三千五百兩なり。かゝれば、二萬石めは七千兩なり。かゝれば、その借財をつくなふて、猶、あまりありし事、さもありぬべく思ふかし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

 右野作、「異龜」の編、予が聞きしと、異同あり。彼此、みな、傳聞によるのみなれば、是非を、いづれと、定めがたし。しかれども、予が聞きし趣は、いさゝか、具なるに[やぶちゃん注:「つぶさなるに」。]似たれば、先夕、席上において、海棠庵主に、「しかじか。」と告ぐるに、「さらば、わが書に追記してよ。」と、いはるれば、もだしがたくて、燈下に禿筆を把りて、蛇足の說をなすにこそ。○再、いふ、「龜をはなちて善報を得たるもの、昔より、和漢に多かり。予、その故事の抄錄ありといへども、博雅の諸君、素よりよくしることならんを、こゝに贅すべくも、あらず。但、ちかごろ仙臺のちかきわたりで、このアツケシの大龜の事と、よく相似て、なほ、異なるものがたり一條、眞葛が「磯づたひ」といふ草紙に見えたり。餘紙なきをもて、これ又、贅せず、といふ。

  乙酉十月廿四日    著作堂痴叟追記

[やぶちゃん注:はいはい、馬琴はん! 贅せんでええんやて! わてが、電子化注してますよってな! 「磯づたひ」は!(「磯づたひ」ブログ・カテゴリ「只野真葛」横書電子化注附/一括縦書PDF版=私の個人サイト「鬼火」内電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」内の「磯づたひ」を読まれたい)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「孫七天竺物語」抄

 

   ○「孫七天竺物語」抄

 夫、今にして古をしらんは、書に、しく、べからず。又、居ながら、夷狄の風俗をしるも亦、書、なり。ふるくは、僧玄奘の「西域記」あり。近くは張鵬翮の「俄羅斯日記」の如き、目、其事を視、足、その地に至れり。此等の書、實に徵とするに足れりといふべし。其他、歷史中、載する所、外國傳、及、諸書に散見するもの、又、むねと、其事のみを記しゝ「東西洋考」・「西域聞見錄」等の如きも、多くは、みな、想像の言耳[やぶちゃん注:「のみ」。]。其中、たまたま、吾邦の事に及べるもの、妄誕、少からず。槪して、しるべし。

[やぶちゃん注:「張鵬翮」(ちょうほうかく 一六四九年~一七二五年)は清の雍正帝の治世の賢相で大学士。「俄羅斯日記」は「奉使俄羅斯日記」が正式書名らしい。「俄羅斯」はロシアのこと。

「東西洋考」明の文人張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)によって書かれ、一六一七年に発刊された明王朝期の中国人の南シナ海に於ける海上活動に就いての記録文書。全十二巻。最初は県令からの要請で始めたが一時中断していたところに府督からの直々の再請を受けて完成させた。巻一から巻六までの前半は「東洋」及び「西洋」各国についての記述で、巻七以後の後半は税・航路・外交文書等について述べられてある(当該ウィキに拠った)。

「西域聞見錄」清朝の東トルキスタン(後の新疆省、現在の新疆ウイグル自治区)関係の地誌。椿園七十一撰。全八巻。乾隆帝の治世の一七七七年に完成。別名で「新疆外藩紀略」「異域瑣談」などがある。筆者自らの現地調査に基づいた紀行文として独自の内容を持ち、「欽定皇輿西域図志」や「欽定新疆識略」などの官撰地誌には見られない重要な内容を含んでいるという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 扨、吾邦の舟人、時として颶風に吹きはなたれ、あらぬ國に別れるものゝ、歸ることを得て、ものがたるは、みな、目擊のことながら、一丁字をもわきまへぬ舟人なれば、事物はもとより、地名だに、詳には得おぼえぬものゝみ。痴人に夢を說くの思ひなきこと、あたはず。

 其中に「孫七天竺物語」といふ册子あり。

 明和三年【本書に「壬午年」とあり。寶曆十二年也。】[やぶちゃん注:以上は「明和三年」への右傍注。「寶曆十二年」は一七六二年。先の「筑前船漂流記」の冒頭にこの年に船を新造し、「伊勢丸」と名づけたことが書かれてあり、それを難破年に誤認したものらしい。]、筑前國の船頭重右衞門といふもの、「伊勢丸」といふ船に、廿人のりにて、漂流し、數月、海上にありて後、こゝかしこの夷人の手にわたり、果は孫七といふ者一人、天竺にいたり、商家に奉公して、九年を經て、安永三年八月十五日【本書に明和七年とあり。「廿六日」。】[やぶちゃん注:同じく年号の部分から右傍注。安永三年は一七七四年、明和七年は一七七〇年。帰国年は諸本で甚だしい齟齬があるようだ。]、故鄕に歸り來て、話せしを記したるにて、地名・人名はいふまでもあらず、方言さへ、詳に記したれば、此册子こそ、彼地の一斑をも窺ふべきものならんと、一わたりよみかうがへつるに、考據とすべきこと、なきにあらず、こゝをもて、今、其天竺のことに及べるものを、こゝに抄し、且、拙考の、一、二をも附記す、といふ。

[やぶちゃん注:所持する国書刊行会刊「江戸文庫 漂流奇談集成」の巻末にある「日本近世漂流記年表」によれば、何れも誤りであることが判った。明和元(一七六四)年十月、『筑前国志摩郡唐泊浦』(現在の福岡県福岡市西区宮浦。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の伊勢丸が函館から江戸へ航海中に鹿島灘で漂流、ミンダナオ島に漂着。』とあるのが事実である。これについて書かれた著作や記事(随筆の一節なども含む)は十五篇も挙げられてある。その中で似た系統らしき書名を見ると、「漂流天竺物語」・「吹流天竺物語」(「吹流」は「ふきながれ」。国立国会図書館デジタルコレクションの石井研堂編校訂「漂流奇談全集」博文館(一九〇八)年刊のここから読め、管見するに、奇体な地名に似たものが出、これは本篇で美成が参照しているものと系統が同じでることが判る。『筑前國唐伯浦孫七直述』と冒頭にある)・「孫太郎ボルネオ漂流記」・「筑前の人保爾尼に漂流し万死を出でゝ故郷に帰る」(「国文学研究資料館電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の同じ石井研堂氏の訳(但し、擬古文。しかし、ルビがあり、前者より遙かに読み易い)の「日本漂流譚」のここから当該話が読める。因みに「保爾尼」は「ボル子ヲ」(「子」はカタカナの「ネ」の代字)と読む)・「天竺物語」(中原善忠訳「日本漂流奇談」所収)等がある。また、ウィキに本主人公とその漂流の内容を纏めた「孫太郎」もあるので(かなり詳しく書かれてある)、事前に読まれると、以下を理解し易いかとも思われる。]

 六月【明和六年。】[やぶちゃん注:二行割注。]の初のころ、大船をしつらひて、「ソウロク」【地名、南天竺の内といふ。】。の小港にぞ、入りにける。宿の主が案内して、われわれ二人【孫七、幸五郞。】を、此舟に、つれ行きけり。

「いかなる國に、又もや。」

と、覺束なくも、乘りにける。

 のり合には、老若の女、八人、男は、廿二人なり。水主[やぶちゃん注:「かこ」。]、梶取のもの、廿人、都合、乘組五十人。

 いづくよりとも、夢心地、殘りし友のこと、問へば、さるに、行方も、しらざりける。名殘をしくも、見送り、見送り、沖津浪にぞ、走りける。

 女を見れば、枕も上らず、淚かわかぬありさまを、いかなる子細もしらざれども、後に思ひ合すれば、親にはなれ、兄弟に別れし人を盜みて、上荷に積み、遠き國に賣りに行く。その人々の心のうちこそ、思ひやられて、悲しけれ。

 舟には黑砂糖・黑胡麻なり。かくて日數も、廿日あまり、過ぎければ、兄と賴みし幸五郞【このもの、「伊勢丸」乘組廿人の内、孫七と此ものゝみなり。】、何とやら、煩ひ付き、食事も絕え、いろ、靑ざめ、たのみすくなく見えにける。

「死がいなりとも、納めん。」

と、舟の者にいひければ、

「海へ捨てよ。」

と、仕かたする[やぶちゃん注:ジェスチャーする。]。

 いと悲しく、とや角、いへど、幸ひ、泊り港にて、岡近く、「てんま」を寄せ、手を添へてと賴みけれど、つばき、はきして、かぶりをする故、是非なく、是非なく、獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]して、死がいを肩に、岡へ上り、「かい」にて砂をほり、よきほどに納めてこそは、船に乘る。

 思ひ暮して打ふすに、船のもの、氣遺うて、

「又も、煩ふか。」

とて、

「藥よ、水よ。」

と世話すれば、しほれぬ體して、くらしける。

 行き向ふ船も、たまたまにて、見馴ぬ帆かけ、吹き流し、島も珍しく、日本の道のりにて、海上、凡、弐千里ほど、日數も已に四十二日、しけにも逢はず。

 船は、ゆくゆく「みなと」とおぼしき川口に、十里ばかりぞ登りける。

 やがて、瓦の軒、見れば、碇を入れて、「てんま」をおろし、三十人の男女を乘せ、岡のかたにぞ、着にける。

 舟方は十人ばかり、岡に上りて、宿を極め[やぶちゃん注:「きめ」。]、町々、所々に人を賣りつけしとぞ聞えける。

 此所は、中天竺・黑房の國にて、「カイタニ」といふ國にして、「バンシヤラマアン」といふ處とかや。いつの頃よりか、始まりけん、中華・南京・福州・山東の商人、出店して借地なり。家作りは、みな、瓦葺。富家も多し。町々、總いたばりにして、往來の人、土をふむこと、なし。諸國の唐船、出入をあらそひ、「おらんだ船」も入津して、繁昌なるみなとなり。後には、山もあり。里々、廣く打ち續きて、前には大河あり。渡り二里ありて、甚、深し。大船、岸ちかく、つなぎならべて、水の流れ、なほ靜に見え、關戶・小倉の海の如し。川上は南天竺・龍砂の下まで續きて、その流、幾千里といふことをしらずとかや。此處の町、家千四五百軒、みな、商家なり。人の形、きれいにして、衣類にも目をさましける。

[やぶちゃん注:「中天竺・黑房の國」不詳。「中天竺」自体は中央インドを指すが、どう考えてもおかしい。ここは日本から西の中国ではない広域周縁を漠然と「天竺」と呼んでいるものと思われ、今の東南アジア(中国よりも有意に南方海辺及び海上)を指すように思われる。「黑房」は「くろばう」で「黒ん坊」(肌が黒く見える人種。黒人とは限らない)の縮約かと思ったが、後にその意でちゃんと「黑坊」が出るから、違う。黒髪を房のように垂らした様子か、螺髪の謂いかとも思ったが、どうもピンとこない。一つ、或いは人種名で、フィルピンにも同系統の民族が住むネグリト(Negrito)のことかも知れない。彼らは 暗い褐色の皮膚を有し、巻き毛と顎が尖るのを特徴とするが、「黑」と「房」はその膚の見た目の色と、巻き毛に親和性があるように思えたからである。

「カイタニ」ウィキの「孫太郎」に、彼らが最初に漂着したという村を「カラガン」というとあり、これか? 同ウィキでは『カラガン村があった島について』は、「漂流天竺物語」・「華夷九年録」では『「南天竺の内ボロネヲ」と記され、現在のボルネオ島』(インドネシア語の「カリマンタン島」のこと。ここ)『であると記されているが』、「南海紀聞」では『「マキンダラヲ」』、「漂夫譚」では『「マギンタロウ」と記され』、「南海紀聞」の『編者である青木興勝は漂着場所をフィリピン南部のミンダナオ島であるとしている。現在では』、「南海紀聞」の『説の方が正しいとされ、伊勢丸はミンダナオ島南岸に漂着したとするのが定説となっている』とあり、さらに、三『月頃、残された』七『人は家から出されて』、『船に乗せられた』。七『人は日本に帰れるかもしれないと淡い期待を抱くが、カラガンを出た船は西に向かい』、二十『日ほどでソウロクという場所に着いた。ソウロクは現在のスールー諸島の事であり』(ここ。ミンダナオ島とカリマンタン島の間のちょうど中間部分に相当する)、七『人は奴隷商人の家でしばらく暮らしたが』、四『月末に金兵衛、市三郎、貞五郎、弥吉、長太の』五『人は海賊の頭のもとに連行されることになり、孫太郎と幸五郎の』二『人だけが残されることになった』。二『人は』六『月中旬に別の島に連れて行かれ、ゴロウという海賊の持ち物となった。ここで』二『人は、結婚式の宴席で太鼓を持たされ』、『日本の歌を披露させられたりしたが、その後も他の者に転売され続け』、二『人はスールー諸島中を連れまわされることになった。やがて』二『人はボルネオ島南部のバンジャルマシン』(これが本篇に出る「バンシヤラマアン」であることは疑いようがない。ここ)『に連れて行かれることになったが、この航海中に孫太郎が兄と慕っていた幸五郎が病死した。幸五郎の亡骸は海に捨てられそうになったが、孫太郎はせめて海岸に土葬させてくれと懇願し、幸五郎の亡骸は孫太郎の手によって海岸近くの小高い丘に埋葬された』とあるのが、本篇の記載と見事に一致する。元に戻ると、「カイタニ」は「カラガン」とは似ていないが、考証対象はこちらの「カラガン」の方が資料的には有有利なようだから、試みに似た発音を調べてみると、ミンダナオ島北部のここに港湾都市「カガヤン・デ・オロ」があった。]

 孫七、三千世界を𢌞り來て、初めて人の風俗に逢ひ、

『何れに我も賣り付くべし。こゝにうれかし、買へかし。』

と、心にぞ思ひける。

 よきにつけても、幸五郞、たまたま道まで伴ひ來て、爰にも屆かず打ち捨てしは、殘り多きこそ、悲しけれ。

 大方、人も片付けるにや、

「われも、來れ。」

と、つれて行く。

 此町にても、大家と見えし萬店[やぶちゃん注:「よろづみせ」。]にぞ入りにける。

 我、月代[やぶちゃん注:「さかやき」。]も、なで付くばかり、まだらかみに、色黑く、目の内、丸く、見出しければ、家内の上下、打ちつどひ、日本人のめづらしくや、仕事を止めて、ながめ居る。

 我も又、口、ゆがめ、眉をしばめて見せければ、常には勝手に出でぬ嫁・娘、笑ひに傾く。髮の飾り、觀世音の樣に見えける。

 かくて、主とおぼしき人、船のものと物語し、臺所にて食事をさせ、夫より、船子は歸りける。

 家内の人數、廿四人。主人の名は「タイゴンクワン」、妻の名は「キントン」といへり。年十八。この春、此家へ嫁に來りしと、きく。 老母あり。主人の弟あり、「カンヘンクワン」といふ。手代頭「ハウテキ」・「ヒヤウコウ」のふたり。家内、よろづの裁判[やぶちゃん注:布地を裁つことであろう。]して、吳服を商ふ大店なり。

 外に下人十五人、その内「アルセン」・「モウセイ」・「カウセン」の三人は黑坊にて、朝夕の食事を、別所にて、つかみ喰ふ。

 下女「ハヒアラヽン」・「ウキン」・「コキン」の三人は、是も、遠國、黑坊の娘なり。

 我名を「日本」とよぶ。

 初のほどは、物每に仕形計[やぶちゃん注:「しかたばかり」。ジェスチャーのみ。]にて致させけるが、盆前なれば、いそがしく、

「言葉を、習ヘ。」

と、手を取らへ、物をとらへて、

「『コソサミヤア。』――『されば、なに。』と云ふものぞ。」

と、なり。

「『チナウサミヤア』――『なにを、いたす。』。」

と、なり。

 先[やぶちゃん注:「まづ」。]、二事を敎へてより、其後は言葉をおぼえ、天竺口狀、おぼえけり。

 主人も、家内も、慈悲ふかくして、常に勘辨を加へて、召仕はるゝ。

『我が命あらん限りは。』

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]心もとけて、仕へける。

 光陰、夢と移り行き、七月も朔日になり、此所は、今夕より、門口に燈籠を燈し、靈具を備へ、猪・羊・鷄の内を備へ、聖靈を祭ると見えにける。

[やぶちゃん注:現地の原始宗教に習合した仏教の盂蘭盆であろう。現在のカリマンタン(ボルネオ)島はイスラム教が基本だが(同島はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三ヶ国の領土であり、後の二者は国教がイスラム教である)、キリスト教・仏教の信仰者も多く、そもそもイスラムでは猪(ここは「ぶた」の意で、この漢字を用いているものと思う)は供物にタブーである。]

 十五日の夕は、又々、寺々の御堂の庭に、大なるせがき棚を拵置き、町々、われわれより[やぶちゃん注:それぞれの民が、おのずと。]、五升[やぶちゃん注:最大値表記であろう。]、思ひ思ひ、分限相應に、飯を炊き、大鉢に高く盛り、五色の紙に、その家の佛の名を書き付け、竹の串に挾み、飯の上に是をさし、くわし(果子[やぶちゃん注:漢字ルビ。])、色々の肉を備へ、燒酒[やぶちゃん注:粗製の焼酎か。]を器に入れ、施我鬼棚に備へける。寺より、大ぜい、僧、出て、讀經あり。經、終りて後、若者・子供等、大ぜい集りて、備へし靈具を取り爭ふ。持ちかへりて、家々の羊や犬に喰はせける。

 扨、十五日の夕ぐれより、一町々々、借合[やぶちゃん注:「かりあひ」か。担当人員を拠出することであろう。]にして大筏[やぶちゃん注:「おほいかだ」。]を拵へて、前なる大河に浮べて、われわれより、大蠟そく、いくらともなく、火をともし、靈具共に持ち出だし、件の筏にならべける。火揃ふと、つなぎし筏を切り放せば、水に隨ひ、ながれ行く。家々よりは佛の數、蜜蠟にて、一斤がけ、二斤がけも有りければ、風にも、雨にも、消えやらで、水上よりも、流れ來る。その火の光り、幾千萬、はるかの下まで見え渡るありさま、目をおどろかすばかりなり。

 扨、さまざまの踊あり、引物[やぶちゃん注:「ひきもの」で供養のために広く周囲の者たちに配る布施供物であろうか。当初は踊りの並列であるから、芝居の意かとも思ったが、「ひきもの」にその意味はないようだ。しかし、引幕からそれでも通用しそうなもんだが。]あり、賑やかなりし盆會なり。

 勿論、廟所は十三日の夕より、廿日の夕まで、燈籠をかけ、花を生うゑ[やぶちゃん注:「いけ、うゑ」か。]、香をつぎ、每夜の參詣、主人にも、父(テヽ)親、なく、餘人も、親の墓あれば、みな、如此すとぞ。

 同年の八月末に、近き町に、主人の一族あり。男、死し、我も、

「家内の働に。」

とて、遣しける。

 その葬禮を見るに、棺は長さ一間[やぶちゃん注:一メートル八十一センチメートル。]、厚さ二寸の板を以て拵へ、徑り二尺五寸の箱なり。内には金箔を敷き、ふとんを敷き、枕を置きて、死人には四重の衣裝をかさねてきせ、あをのけに採せ、巾着・煙草の道具等を入れ、又、そのうへに、金箔を餘分に置きて、葢を釘にて打ち付け、染絹にて上をおほひ、墓所に、かき[やぶちゃん注:「舁き」。]送るなり。

 扨、地を少しほりて、棺を納め、𢌞り、白土にて「しつくい」し、上の石を板瓦にて葺き、頭を酉[やぶちゃん注:「西」。西方浄土。]に埋みおき、石塔を立て、銘をほり、香花を備へて、是を、まつる。塀を見るに似たり。

 官ある人は、しらず、此町の人、みな、甲乙ありて、如此[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]家には佛具をかざり、魚肉・鷄肉を備へて、妻子は、是を食はず。勿論、その妻子は、百日迄、佛間にこもり、白き絹をかづきて、香具・金箔をも燒きて、生前のありさまを、語り、なげくこと、甚、痛ましきありさまなり。只、金箔を餘分に燒くを、

「未來の爲。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:これは中国の紙銭の変形であろう。同島には道教信者もいるようである。]

子としては、百日、墓に參り、香花を備ふ。三年は喪をつゝしみ、色の衣裝をきせず、音曲の席に至らず、

「これを、喪の中の禮とす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:底本では、ここで改行し、頭書終りまで全体が一字下げである。]

 美成云、「喪中に金箔を多くたくが如きは、蓋、夷狄の俗なり。しかれども、登遐せず[やぶちゃん注:「魂が天に」三年の間は「昇らず」という意か。]、且、三年の喪あり。親の喪の愼み、追慕の厚き、實に鄭魯の儒士と、何ぞ、別たん。誰か『諸夏のなきには、しかず』とや、いはまし。」【解云、「金箔をたくは、楮錢冥衣を燒く類なり。今も長崎にて來舶人、神佛及び先靈を祭るに、金箔・銀箔をおしたる寸楮を、金錢・銀錢となづけて、たくなり。これらの祭奠、「禮記」に見えたり。その金箔をたくは、彼土に金多き故なるべし。」。】[やぶちゃん注:底本に「頭書」とある。馬琴のお節介である。まあ、先に私も既にしてお節介したがね。]。

[やぶちゃん注:「鄭魯の儒士」孔子のことか。孔子は魯の生まれで、一時、鄭に逃れている。仮にがそうだとすると、美成の謂いは皮肉である。「論語」の中で孔子は鄭の楽曲には淫らなものが多いと批判していたからである。

「諸夏」「夏」は「大きい・さかん」の意。古く中国で四方の夷狄に対して、中国の中心地域やそこにある国々を誇って言った。転じて都を指す語となった。しかし、「論語」の「八佾(はちいつ)篇」では、それを批判的に用いているのであって、美成の謂いは的を外れている(誤読している)としか私には読めない。

「楮錢冥衣」「ちよせん(ちょせん)めいい」。「楮錢」は紙銭に同じ。「冥衣」は死装束と別に見た目は体裁よく作った安物の紙や布で作った儒者や官人の服(所謂、殭屍(僵尸:キョンシー)のケースは満州族のそれで新しい)。それを燃やして地獄の沙汰も金・服次第となるのである。]

 主人にも、父なく、母ばかりなり。常に佛間に靈具を備ふるに、魚肉・燒酒を備へける。日に三度、佛前に向ひて、親に孝行なること、かたるに、言葉なし。外の家々も是に同じとぞ聞えし。こゝも、暖國にて、常に、五、六月の氣候なり。單物にて、冬もよし。もはやに、九月、至りぬれど、氣候のかはる事も、おぼえず。九日の節句はなし。

 扨、野に出ては、十月の末に至り、二番稻あり。都て、山をひらきて、畑稻、多く飯に、油なく、三年米を喰ふに似たり。米は一升錢一文【弐拾文錢。】、獅子の繪あり。是よりも下直[やぶちゃん注:「げじき」。価格が安くなること。]なる年、多し。三文錢は壱文錢より、少し大きし。銀目百目の金錢あり。阿荼陀が走り舟(フネ)の繪あり。拾文錢は馬乘りあり。六十文錢は虎を畫く。銀は七十文にかへ、金錢は、みな、阿荼陀が持ち來る錢なり。

[やぶちゃん注:「阿荼陀」「国文学研究資料館電子資料館」の石井氏の訳のここで「オランダ」と読んでいる。

 以下は同前の字下げ。]

 美成云、「此にいふ所の錢、文を見ざれば、何れの國の錢といふことを、しるべからず。しかれども、西洋の錢は種類、甚、多し、獅子、走り船、騎馬等、くさぐあるが中に、獅子、尤、多し。虎といへるも、恐らくは獅子なるべし。猶、詳には、「西洋錢譜」を倂せ考ふべし。」。

[やぶちゃん注:「西洋錢譜」松本平助らが天明七(一七七〇)年に刊行した西洋の貨幣についての書物。朽木昌綱が寛政二(一七九〇)年に後刷したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらでPDFで読める。貨幣の図も附されてあって、興味深い。]

 又、此國に、「カハヤ」といふ鳥あり。是、燕に似て、少し大ぶりなり。この鳥の巢、川筋の岩窟の内に多し。その巢は、猿の腰懸に似て、甚、白し。くぼき内には、黑き羽などの付きたるもあり。此巢、いかなる藥やらん、おらんだより、入銀して、懸目[やぶちゃん注:秤(はかり)で測定すること。]壱斤に付、銀八十刄に代ふ。是により、國主より、みだりに取ることを禁ぜらるゝ。常に改の役人ありとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「こゝにいへる巢は『燕窩』なり。「泉南雜志」に云、『閩之遠海近蕃處有ㇾ燕云々。海商聞之土蕃云。蠶螺背上肉有兩肋如ㇾ楓。蠶糸堅潔而白。食ㇾ之可虛損巳勞痢。故此燕食ㇾ之。肉化而肋不ㇾ化。幷津液嘔出。結爲小窩石上。久ㇾ之與小雛鼓翼而飛。海人依ㇾ時拾ㇾ之。故曰燕窩。』。かく見ゆれば、此孫七がはなしと倂せて、その詳なることをしるに足れり【解、按に、燕窩の事、「茶餘客話」に詳なり。倂せ考ふべし。又、唐山にて、宴會に燕窩を上菜となすと、淸人の小說「鏡花緣」に見えたり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:「燕窩」「ツバメ」を名に含むが、全然、縁遠い「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliini)で、中でもその巣が高級品として珍重されるのは、

鳥綱アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Aerodramus 属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga 及びオオアナツバメ Aerodramus maxima

全長十~十五センチメートル の小型の鳥で、南アジア・東南アジア・熱帯太平洋・オーストラリア北部の海岸や島に分布する。最大の生息地は、まさにボルネオの大鍾乳洞群地帯である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)」を見られたい。

「泉南雜志」明の陳懋仁(ちんもじん)の書いた泉州(福建省にかつて存在した州。閩(びん)州)の地誌。引用を訓読する。「巳」は「已」の誤字である。

   *

「閩(びん)の遠海の近き蕃[やぶちゃん注:未開民族。]の處、燕、有り。」云々。「海の商(あきんど)、之(ここ)の土蕃に聞くに云はく、『蠶螺(さんら)[やぶちゃん注:蚕(かいこ)のような丸い貝のようなものの意であろう。]の背上、肉、兩の肋[やぶちゃん注:あばら骨のような物。]有りて、楓(かへで)のごとし。蠶糸は、堅く、潔にして、白し。之れを食へば、虛損・勞痢を已(や)め、補す。故に、此の燕、之れを食す。肉、化して、肋は化(かは)らず。津液(しんえき)[やぶちゃん注:血液を除いた体液。]を嘔き出して幷(あは)す[やぶちゃん注:悪しき体液を除去して正常な状態に合わせるの意か。]。結びて、小さき窩(あな)と爲し、石の上に附けり。之を、久しうして、小さき雛(ひな)に與(あた)へ、鼓翼(はばた)きて飛べり。海人、時に依りて、之れを拾ふ。故に、「燕窩」と曰ふ。

   *

一部に不審があるが(巣を餌として雛が食うという部分)、これは燕の巣の人間にとって効能があることからの類感呪術的な誤認であろう。

「茶餘客話」清の阮葵生(一七二七年~一七八九年)が一七七一年頃に完成させたとされれる元は全三十巻から成る総合的史料。特に清朝初期の制度や地名考証などの記載は史料価値が高く、人物伝や「元曲」や「水滸伝」・「琵琶記」・「金瓶梅」・「西遊記」などの戯曲・小説等も、多数、輯録されてある。

「鏡花緣」清の李汝珍作の白話体の長編伝奇小説。]

 今年も浮世の浪にたゞよひて、十二月大晦日にぞ成りにける。

 先づ、客の間の天井に、唐草の華布を縫ひ合せてはらせつゝ、壁のところも同じやうの木綿にて張り、町並の門口に、大燈籠を、夜な夜な、ともし明し、門戶を閉ぢて祝籠[やぶちゃん注:「いはいかご」。祝い事や宗教行事に於いて、布施の品や御札などを収めて運ぶ籠。]し、儀式なり。

 偖、七つ頃[やぶちゃん注:本邦の不定時法で朝七ツなら午前三時半頃である。]より、衣服をあらため、町内、ちやうちんにて、年頭の禮に出で【明和七年。】、外より、

「サラマツタ。」

といふ。内より、

「ホリロワラ。」

と答ふ。銘々、名札を門口にはるもの、多し。又は、兄弟近き一族は、戶をあけて、内に入り、年頭の祝儀をのべ、燒酒、肴にて、いはひけり。勿論、元朝餠[やぶちゃん注:「がんてうもち」。新年の元旦に搗く祝餅。]を廣む。白餠あり、黑餠あり。餠米を粉にして、砂糖の水にて、是を、こね、又、蒸して臼にて搗き、餠にちぎるあり、押し平めて、切るも、ありけり。白餠は白砂糖、黑餠は黑砂糖なり。年始初入とおぼしき客、來り、一族の交り等、我邦の町家に同じ。

 三月三日は、節句、儀式はありながら、芥餠[やぶちゃん注:芥子の実をまぶした「芥子餅」(けしもち)のことであろう。]は、なし。五月五日は糯米[やぶちゃん注:「もちごめ」。]を水に炊し、笹の葉に包むごとく、砂糖水にて、湯でるあり。又、砂糖水にてむすもあり。

 扨、町内を賣りありき、商人、品々を分つに、聲をたてず。燒酒賣は、さらを、すり、醬油賣は、鈴をふり、或は肉物【猪・羊・鷄。】等には、大鼓を打ち、みな、荷ひ人をつれて、あるくもの、多し。

 此所は黑坊の借地なれば、所のわかもの、常に來りて、我まゝなることあり。去れども、町より、隨ひける。

 常に盜賊事、絕えず、國主よりも、

「打ち捨てにせよ。」

となり。主人も、我等に、剱一ふり、鐵砲・鎗等をわたし置くなり。

 町每に、六人當り、每夜、番を、つとむ。

 しかるに、此大河に、不思議なるもの、住みけり。其貌、繪にかける龍のごとく、くちびる・鼻かまち[やぶちゃん注:その辺りの意。]、いかめしく、左右に長き髭あり。耳ありて、龍の角なきばかりなり。手足、四つ。爪、四つ。尾先に鰭のごとき剱あり。うろこ厚く靑く黑し。六尋・七尋より、十三尋を長とす。これを「ホヤ」といふ。春のころ、岡に上りて、卵を產む。大さ、手まりの如く、三十六に極まる。卵、ひらきて後、二尋[やぶちゃん注:三・六〇メートル。]ばかりになりて、川に入る。親、これを追ひまはすこと、波を起し、水を蹶立て、すさまじく、あたりに居るを喰ひ殺し、やうやう、迯ぐるを、只、一つ殘し置く。是を子として、大切に養育すること、類ひなし。子連のあたりを【此處、落字ある歟。】[やぶちゃん注:右傍注。]通る船あれば【「子連のあたりを」云々、この文、語をなさず。「子連て、あるくとき、このあたりを」云々などありしが、宇を脫せしなるべし。】[やぶちゃん注:頭書。]、甚、怒れる氣色あり。人みな、船をよせず。暖國なれば、常に下々は晝夜に兩三度も、川につかりて、水をつかひ、暑を凌ぐ。大海なれば、岸によせ、角柱を立てまはし通して、格子の如く搆へて、災をのぞく用心せり。

[やぶちゃん注:ここに登場する奇体な動物はカリマンタン島に限定されるから、イリエワニ(爬虫綱ワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ Crocodylus porosus )或いはマレーガビアル(クロコダイル科マレーガビアル属マレーガビアル Tomistoma schlegeliiであろう。特に前者は「人食い鰐」として知られるから、それか。現在は、分布域全体で、ともに皮革目的の乱獲により個体数が減少しており、特に後者はカリマンタン島では希少種となっている。]

 ある時、夜刑り番のもの、暑をしのがんと、ひとり、かこひの内の水を浴みけるに、柱の朽ちたるを押しやぶりて、件の「ホヤ」、内に入り、水より上らんとせし人を延上り、片足、股より、喰ひ切りける。悲しみ、

「わつ。」

と、さけぶ聲に、番人ども、追々にかけあつまり、聲々に呼はりければ、町々より、大ぜい出で、松明・ちやうちんにて、是を見るに、夜中といひ、聲々にさわぎける故にや、「ホヤ」は、元の出口を失ひ、搆の内を、うろたへける。鐵砲にて打つに、一矢も通らず。數十人、集り、棒にて、打ちなやし[やぶちゃん注:「萎し」。力を失わさせて。]、熊手にかけて、引き上げけるに、七尋[やぶちゃん注:十二・七メートル。イリエワニでも最大長は七メートル(マレーガビアルは標準最大長は五メートル)であるから、誇張の可能性が高い。]ばかり有りけり。腹のうろこ、少し赤く、舌はくれなゐ、眼、大きし。今迄、人を喰ひしこともなく、人も又「ホヤ」を殺す事なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「この『ホヤ』といふ魚は『鰐』なるべし。按ずるに、「飜譯名義集」に云、『善見云、「鰐魚長二丈餘。有四足。似ㇾ鼉齒至利。禽鹿入ㇾ水。齧ㇾ腰。卽斷。又翻殺子魚。廣州有ㇾ之。」。』と。おもふに、其長さ、及、形狀を『ホヤ』と同じきうへに、『禽鹿をかみ斷』といふも、そのさま、異ならず。しかのなみらず、『殺子魚』の名あること、此孫七が話なからましかば、得思ひとくまじきことぞかし。鰐の蠻名『カイマン』、又『コローコジ』など、いへり。『ホヤ』も此地の方言なるべし。『鰐魚』の圖、「紅毛雜話」に見えたり。」。

[やぶちゃん注:「飜譯名義集」南宋の法雲編になる梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。訓読する。

   *

善見云はく、「鰐魚、長さ二丈餘[やぶちゃん注:六メートル強。]。四足有り。鼉(だ)に似て、齒、至って利(と)し。禽鹿(きんろく)、水に入れば、腰を齧(か)み、卽ち、斷(き)れり。又、「殺子魚」とも翻(やく)す。廣州、之れ、有り。」と。

   *

[やぶちゃん注:「善見」不詳。

「鼉」ワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis 。現在の安徽省・江西省・江蘇省・浙江省の長江下流域に棲息する中国固有種。本種の性質は穏やかで、人間を襲った確実な記録は存在しない。

「禽鹿」鹿に代表されるいろいろな四足獣。

「殺子魚」「子」は人の意であろう。の

「カイマン」ワニ目アリゲーター科カイマン亜科 Caimaninae のカイマン類。但し、同科のワニは、中央アメリカ及び南アメリカにしか生息せず、体長も比較的小さく、殆んどの種は体長数メートルにしか達しない。

「コローコジ」ワニ目クロコダイル科 Crocodylidae のワニ類の訛りであろう。

「紅毛雜話」平賀源内の門人で、医者で戯作者・蘭学者・狂歌師でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)が天明七(一七八七)年に編した 海外事情を纏めたもの。「京都外国語大学付属図書館/京都外国語短期大学付属図書館」公式サイト内の「世界の美本ギャラリー」のこちらの記載によれば、書名は「オランダ人に聞いた話」「オランダの書に記してあった話」という意で、『巻一でオランダの歴史、風俗より始め、病院や飛行船のこと、巻二ではトルコの都城の話やジャワの地理的事情、巻三はアムステルダムよりフランス、スペイン、アフリカ南端を経て日本へ至る海路や、通過する国々の事情を述べ、さらに顕微鏡の話にまで及ぶ。巻四には流行病やオランダの画法、銅版印刷法。巻五ではエレキテルや大船などに関する記述、附録としてオランダの衣飾図を収めている』。『本書は蘭学史上の興隆期に刊行され、この内容を通して当時の学者たちの海外に対する関心や地理的知識を知ることができる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のこちらで「鰐之啚」が見られる。]

 當年の八月、主人の弟「カンヘンカン」[やぶちゃん注:右傍注で『(クワカ)』とある。]に、緣談、すみて、

「けふ。吉日。」

とて、嫁迎の用意ありけり。先つ程のかたより、嫁の所に送りける、その品々には、衣類を、三通り、箱に入れ【祝儀には三重、不祝義は四重なり。】、これ、一人にて、持ち、金の「指かぬ」[やぶちゃん注:指輪か?]六つ、手首にかくる金輪、二つ、箱にして、一人にて持ち、金のかんざし十二本、箱にして、一人にて持ち、金錢百二十文、箱にして、草履壱足、たび壱足、これまた、一人にて持ち、燒酒二甁、臺にすゑ、四人にて舁き、ろうそく二丁、弐人にて、これを持ち【五十斤がけ。但、蜜蠟。】[やぶちゃん注:三十キロゴラム。だが、後の「蜜蠟」は腑に落ちない。]、牝牡の猪二疋、鷄一番[やぶちゃん注:「つがひ」。]、家鴨一番、二人にて、是を、はこび、仲人・聟・同道なる人、上下、十八人なり。嫁の方に參り、祝儀、調ひ、暮六つ時[やぶちゃん注:不定時法で午後八時前。]になりて、

「嫁入。」

とぞ聞えし。かくて、嫁のかたより、送りける其品々には、巾着一通り、是は、嫁の手づから縫ひ仕立たるを、聟に土產とす。狐々の毛を付し笠一つ、是も土產、衣裝の入りし長箱壱つ、くゝり枕六つ【是、二通り。枕の長さ二尺。】、聟の方より贈りし金錢二文をとめ置き、百八十文は返しける。此外、猪・鷄・家鴨、共に、男をとめ、女をかへし、双方に分ち、

「料理に用ふ。」

と。いへり。大蠟燭二丁の内、一丁をとめ、一丁は返しける。

 扨、嫁入は、同じ年齡の女中、二人は絹をかづき、嫁は顏をあらはして、右の十二本の笄を髮にかざり、手に金の輪をかけ、衣裝をあらためて、天くわん[やぶちゃん注:不詳。「天竿」で日傘のことか?]をさゝせて、あるきける。目ざましきありさまなり。眞先に件の大蠟燭ちやうちん二張、先後[やぶちゃん注:「せんご」。前と後ろ。]に燈す。同道十二人ばかり。

 扨、聟のかたには、一丁、返せし蠟燭をともし、半切に米をもり、その中に押し立て、町の門口にぞ、出だしける。

 嫁の燈し來りし夜、一族は勿論、朋友・若もの、盃、めいめいに一斤がけ[やぶちゃん注:六百グラム。]、半斤がけの蠟そく、持ち來り、火をともして祝儀をいひ、ろうそくを、嫁の部屋に持ち行き、

「嫁を見ん。」

と、なり。後には、部屋にあまり、勝手・臺所まで、ともし、つらねけり。

 女子は、七歲より、戶外に出ださずして育て、今日、嫁入といふ、その夜は、ゆるして、顏を見するとぞ。

 飽まで、唄ひ舞して、歸りけり。

 去程に、孫七、思ひけるは、

『此に落ち付きて、凡、六年の春秋を暮しける【安永元年[やぶちゃん注:一七七二年。]、同二年。】。さのみくるしみもなく、不自由なることもなく、年を經たり。只、故鄕の戀しきこと、起きても、寢ても、忘れがたし。つくづく思ひめぐらすに、此所の風俗、父母兄に孝行なること、うへなければ、我、父母には、わかれ、兄一人を、父とも、母とも、賴みつれど、かねて『二親あり』とかたりければ、彌、この事をかたらん。』

と思ひ、まづ、主人の母親に語りけるやうは、

「我、多年、こゝに來り、御愍[やぶちゃん注:「おんあはれみ」。]に預ること、此うへや候ふべき。されど、我、日本には二親ありて、我、行末を案じくらし候べし。折ふし、夢にも見えて候。願くは、一度、日本の地へ渡り、親どもの命あらん内に、一寸、逢ひ見なば、いかばかりか悅び候はん。」

と、かたりければ、老母も淚ぐみ、

「道理也。」

とぞ、いひける。

 此事、やがて、老母より、主人にかたりければ、阿荼陀舟の出帆するに、主人、念頃に孫七を、たのみける。

 時、なるかな。時、來りて、この國をはなれ、九年の夏【安永三年。】午[やぶちゃん注:安永三年は甲午。]の四月十三日、家内にも、朋友にも、此世限りの暇乞、又、こん秋を賴むの扇だにも、鳴きてぞ、かへる、ふる鄕のそら、心の底の嬉しさも、久敷[やぶちゃん注:「ひさしく」。]馴染し旅の空、主人の情、ふかき江の、淚にくもる水鏡、蘆わけ船の、竿さして、見かへり、見かへり、阿蘭陀が、もと舟[やぶちゃん注:「本舟」。大きな船。]にこそ乘りにける。

[やぶちゃん注:以下、終りまで同前。]

 猶、この物語の前後の省けるところ、又、こゝに記したる中にも、いさゝかづゝの考、いと多けれど、ことごとく書きいでんも、わづらはしければ、今、又、贅せず。

  文政乙酉十月廿有三日    山崎美成記

 解、云、「この本文のうち、鰐の『ホヤ』の事、又、嫁のかたより草履・足袋、各一双づゝ、聟へおくる事、この外にも、予が考あり。これらは別にしるすべし。

2021/10/18

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 罪の巡禮 / 本篇を含む四篇が記された原稿を復元 「第二(淨罪詩篇)」~了

 

  罪 の 巡 禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とするが、これは幾つかの理由から大正三年の可能性が高い(以下に述べるように、同じ原稿に大正三年に書かれたと推定される「春日詠嘆調」が記されてあるからである)。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

 

  われは罪の巡禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ

 

と最後の句点を除き、相同である。編者注があり、『以上「窓」「(指と指とをくみあはせ)」「罪の巡禮」と拾遺詩篇「春日詠嘆調」の草稿の四篇は同じ原稿用紙に書かれている』とある。この「窓」は、先の

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]」

の注で、

「(指と指とをくみあはせ)」も「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(指と指とをくみあはせ)」

でそれぞれ電子化してある。「春日詠嘆調」の草稿も

『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 述懷 (「春日詠嘆調」の草稿)』

の注で電子化した。煩を厭わず、原稿を復元してみよう。順番は編者注に従い、各詩篇の間は二行空けた。無題のものの傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 

 たそがれ

 

 

犯せるつみのかさしさよ

日もはやたそがれとき

3いえすの素足やわらかに

4ふりつむ雪のうへをふみゆけり

2うすぎの窓にたれこめて

1犯せるつみのかさしさよ

ざんげの淚せきあへず

1 2日もはやたそがれにちかけれづけば

 

 

  

 

あなたのとほとき奇蹟(ふしぎ)により

~~~~~~~

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

かゝるあはれいのりの手のうえに

まさをの雪はまさにふりつみぬ、

 

 

  われは罪の巡禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ

 

 

  

 

ああいかれはこそきのふにかはる

きのふにかわるわが身のうへとはなりもはてしぞ

けふしもさくら芽をつぐのみ

利根川のながれぼうぼうたれども

あすはあはれず

あすのあすとてもいかであはれむ

あなあはれやぶれしむかしの春の

みちゆきのゆめもありやなし

おとはてしみさろへすぎし雀の子白雀の

わが餌葉をばゆびさきに羽蟲などついばむものをしみじみと光れるついばむものを。

 

 

  述懷

     ――敍情詩集、滯鄕哀語扁ヨリ――

 

ああいかなればこそ、

きのふにかはるわが身のうへとはなりもはてしぞ、

けふしもさくら芽をつぐのみ、

利根川のながれぼうぼうたれども、

あすはあはれず、

あすのあすとてもいかであはれむ、

あなあはれむかしの春の、

みちゆきのゆめもありやなし、

おとろへすぎし白雀の、

わがゆびさきにしみじみとついばむものを。

 

   *

現在、これらを一緒に纏めて見ることは、出版物では不可能である。しかし、或いは、ここにこそ、萩原朔太郎の詩作の共時的感覚が見えてくると言えないだろうか?

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]

  

 

犯せるつみの哀しさよ

うすぎの窓にたれこめて

日もはやたそがれにちかづけば

いえすの素足やはらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集には「窓」というちゃんと題名を持った酷似するもの(整序すると順序が異なるが、各詩句は相同)が載るが、原稿は複雑を極める。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 たそがれ

 

 

犯せるつみのかさしさよ

日もはやたそがれとき

3いえすの素足やわらかに

4ふりつむ雪のうへをふみゆけり

2うすぎの窓にたれこめて

1犯せるつみのかさしさよ

ざんげの淚せきあへず

1 2日もはやたそがれにちかけれづけば

 

行頭の数字は朔太郎自身が附したもの、という注がある。しかし、この最後の詩句は朔太郎が一行目或いは二行目に配するか、並置した記号と読める。筑摩版の校訂本文では、それについて何も言わず、以下のように消毒・整序してしまっている。

 

 

 

犯せるつみの哀しさよ

日もはやたそがれにちかづけば

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やはらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

編者は「1 2」を――「1」と「2」間に入れる――と解釈したとしか思われないのだが、果してこれでいいのだろうか? だったら、前の数字を削除して書き換えるであろう。先の私の推理によるなら、

   *

 

 

 

日もはやたそがれにちかづけば

犯せるつみの哀しさよ

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やわらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

   *

か、或いは、

   *

 

 

 

犯せるつみの哀しさよ

日もはやたそがれにちかづけば

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やわらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

の孰れかに迷ったものと考えられる。小学館版の編者は、同じ詩稿を見て、「1 2」を――1」と「2」後に入れる――と解釈したのであろう。最早、朔太郎に聴くわけにはゆかぬが、個人的には「うすぎ」(「薄黃」或いは「薄絹」の略か)「の窓にたれこめ」るものは「たそがれにちかづ」いた「日」の残光なのではなく、「犯せるつみの哀しさ」なのだと思う。さすれば、小学館版が私にはしっくりくる。とんだパズルだが、それぞれの読者にお任せしよう。にしても、「窓」という題名を記さない本篇は、或いは、最早、失われた推敲原稿なのかも知れない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 行路

 

  行   路

 

わがゆくときにいぢらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

わがゆくときにほこらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

みんなみにあをきうみありて

われのこひびと

われのやそ

つねにみなみをさしたまふ。

 

[やぶちゃん注:太字「やそ」は底本では傍点「ヽ」。底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に載る。以下に示す。

 

 行路

 

わがゆくときにいぢらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

わがゆくときにほこらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

みんなみにあほきうみありて

われのこひびと

われのやそ

つねにみなみをさしたまふ。

 

で、「あほき」はママである。推定年も齟齬はしないであろう位置にはあるが、大正三年の可能性もある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(指と指とをくみあはせ)

 

  

 

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

あはれいのりの手のうへに

雪はまさにふりつみぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』として推定で大正四(一九一五)年作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に所収するものがあるが、ちょっと問題がある。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  

 

あなたのとほとき奇蹟(ふしぎ)により

~~~~~~~

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

かゝるあはれいのりの手のうえに

まさをの雪はまさにふりつみぬ、

 

とあり、編者注で『本稿一、二行目は第三行目以下とつながらないので、抹消されていないが』、『上欄本文には採らなかった』として、校訂本文は一・二行目と波線を除去し、歴史的仮名遣を修正、最後の読点を除去した形で載っている。本篇はこれと同じ原稿を整序したものと推定される。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 秘佛

 

  秘  佛

 

つゆしものうれひはきえず

わづかなるつちをふむとて

あなうらをやぶらせたまふ。

 

[やぶちゃん注:底本では初出を『風景』大正三(一九一四)年三月とする。筑摩版全集でも同誌同月号としてある。初出形を示す。

 

 秘佛

 

つゆしものうれひはきえず、

わずかなるつちをふむとて、

あなうらをやぶらせたまふ。

 

「秘」の字体はママ(本篇同様)、一・二行目末の読点はママ、「わずかなる」の「ず」の誤りはママである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(きのふけふ) / 筑摩書房版全集編者注に甚だ不審あり!

 

  

 

きのふけふ

われのたましひはけがされたり

いやはてにかさねしつみをばいかにせむ

いえすよ

きみがゆくゆくころものすそにしあらば

かなしみの音をだにひくくしぬびて

ふりつむ雪のうへをけりゆきたまひへ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』として推定で大正四(一九一五)年作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に所収するものがあるが、微妙に異なる

 

  

 

日のたそがきのふけふ

われのたましひはけがされたり

きのふけふ

いやはてにつみはかさねしつみをばいかにせむ

ああいかなれば

あなた、いえすよ

あゆみゆく ゆくゆくきみがゆくゆくけごろものすそもて→うすからば→さむく→すそづますそにしあらば

かなしみのいぬを音をひくゝだにひくゝおと→おとなひゆく→雪 ふむか→雪つむうへをしぬびて

ふりつむ雪のうへをすりけちゆきたまひへ

 

削除部分をカットして示す。

 

 

  

 

きのふけふ

われのたましひはけがされたり

いやはてにかさねしつみをばいかにせむ

あなた、いえすよ

きみがゆくゆくけごろものすそにしあらば

かなしみの音をだにひくゝしぬびて

ふりつむ雪のうへをけちゆきたまひへ

 

本篇との異同は、三行目の「あなた、」があること、「ころも」が「けごろも」(毛衣)であること、「ひくゝし」と踊り字が使用されていること、「けりゆきたまへ。」が「けちゆきたまへ。」となっていることである。踊り字と「けちゆき」は誤字として書き換えたとしても、有り得ぬことではないが、前二者は有意に異なり、別原稿が存在した可能性を排除出来ない。さらに実は、そこには、

『* 「頌」「祈」(「われの犯せる罪」草稿詩篇)及び「(きのふけふ)」の三篇は同じ原稿用紙に書かれている。』

とある。これは同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』にある本篇の草稿とする「祈」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや脱字・誤字は総てママである。
   *

 

  

われのおかせるつみを

ちちちちははのとがめ給へぬごとく

おほがみはとがめたまはじ つみしたまは ★ゆるしたまはん、//つみしたはぢ、★

[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。「ゆるしたまはん、」と「つみしたはぢ、」(恐らくは「つみしたまはじ」の誤記)の二つが、並置残存していることを示す。

 なお、以上の「頌」「われの犯せる罪」については既にリンク先で電子化してある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 われの犯せる罪 / 附・「月に吠える」の「笛」の草稿の一部及びそれと本篇が載る原稿用紙の復元

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを

ちちははのとがめたまはぬごとく

おほがみは罪したまはじ

ゆるさせたまへ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とある。筑摩版全集では、「未發表詩篇」にある。以下に示す。

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを、

ちちははのとがめたまはぬごとく、

おほがみは罪したまはじ、

ゆるさせたまへ。 

               淨罪詩扁完

 

これは編者注があり、『本篇は原稿用紙の左半分に書かれ、「淨罪詩扁完」』[やぶちゃん注:「扁」はママ。]『とある。右半分には『月に吠える』の「笛」の「けふの霜夜の空に冴え冴え」以下五行が記されている』とあり、前半の記載に基づき、「淨罪詩扁完」を以上のように再現した。しかし、この注記は後半分は不親切で、正確には、

「月に吠える」の「笛」の草稿の中の『「けふの霜夜の空に冴え冴え」以下五行が記されている』

でなくてはいけないからである。詩集「月に吠える」の決定稿、及び、その初出には、「けふの霜夜の空に冴え冴え」という詩句自体が存在しないからである。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛』を見られたい。注で初出(決定稿とは激しく異なる)も総て挙げてある。

 されば、ここで、その「笛」の草稿を以下に再現しておくことにする。これは、本篇のためには余り意味をなさないとは思われようが、「月に吠える」の「笛」の草稿・初出形・決定稿の推敲課程を知る重要な一つとなるからである。歴史的仮名遣の誤り・脱字はママ。

 

  

     ――既に別れし彼女にE女に――

 

あほげば高き松が枝に琴かけ鳴らす

小指には銀の爪をに紅をさしぐみて

ふくめる琴をかきならす

ああかき鳴らす人妻琴の調べにあはせ音にもあはせて

                    つれぶき

[やぶちゃん注:「あはせて」と「つれぶき」は並列配置。]

いみぢしき笛は天にあり

わが戀もゑにしも失へり

けふの霜夜の空に冴え冴え

松の梢を光らして

哀しむものゝ一念に

 

懺悔の姿をあらはしぬ

      凍らしむ

[やぶちゃん注:「あらはしぬ」と「凍らしむ」は並置。]

わが横笛は  天にあり

いじみき笛

[やぶちゃん注:「わが横笛」と「いじみき笛」(「いみじき笛」誤字であろう)のは並置。]

 

E女」はエレナであろう。序でなので、元の原稿用紙を復元してみる。

   *

【原稿用紙・右】

 

けふの霜夜の空に冴え冴え

松の梢を光らして

哀しむものゝ一念に

 

懺悔の姿をあらはしぬ

      凍らしむ

わが横笛は天にあり

いじみき笛

 

【原稿用紙・左】

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを、

ちちははのとがめたまはぬごとく、

おほがみは罪したまはじ、

ゆるさせたまへ。 

 

               淨罪詩扁完

   *

私はしかし、この「われの犯せる罪」と「笛」とが無関係とは思っていない。それはこの二篇が書かれた同一原稿用紙の最後に萩原朔太郎が「淨罪詩扁完」と擱筆した意図に於いて、である。我々は萩原朔太郎の草稿原稿を見る機会は極めて稀れである。極端に当該詩篇に特化して整序・分離されてしまった刊行本では知り得ない創作の秘密が、そこには、まだ眠っているものと考える。

 なお、全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に以下の本篇の草稿と考えてよい「祈」(本篇原稿二種二枚の一つ)と題する一篇がある。歴史的仮名遣の誤り。脱字はママ。

   *

 

 

 

われのおかせるつみを

ちちちちははのとがめ給へぬごとく

                    ゆるしたまはん

おほがみはとがめたはじ  つみしたは

                    つみしたはぢ

[やぶちゃん注:「ゆるしたまはん」と「つみしたはぢ」(「つみしたまはじ」の誤記)は並置残存。]

ゆるしたまへ

 

   *]

2021/10/17

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 頌

 

  

 

いとたかきところにいませるかみを

いとひくきつちよりいでてほめよ ひとびと

はれるや

かみはさかえなり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に(歴史的仮名遣の誤りはママ)、

 

  頌

 

いとめづらしきたかたかきところにゐませるかみを

いとひくきつちよりいでゝほめよひとびと、

はれるや

かみはさかへなり、

はれるや

 

とある。同全集の配置からは先の底本の推定制作年は穏当である。底本は、この筑摩版の原稿と同じものを整序したものであろう。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(わがみしところのものは聖なる柱なりき)

 

  

 

わがみしところのものは聖なる柱なりき

にしよりひがしよりきたり ひとびとそのめぐりにたちぬ

あふげばそらはうつくしかりき

そのとき主のふしぎあらはれ、つみあるもののうつたへすべて主にきかれぬ きけ、 われのなやめる手は黃金もて像(かたち)にきざまれぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年の作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に、以下の形で載る。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 

 

わがみしところのものは聖なる柱なりき

にしひがしよりひがしよりきたり、ひとびとそのめぐりにたちぬ。あほげばそらはうつくしかりき。そのとき主のふしぎあらはれ、ひとびとつみあるものゝ ひだりの手うつたへすべて金字もて柱にきざまれたりき。主にきかれぬ。われは きけああわれのつみなやめる手は黃金もて像(かたち)にきざまれぬ。

 

さて、これに編者が注して、筑摩版のこの直前に並べて置かれてある、既に電子化した『「(樹のうへのあやかしをみよ)」』と、この『「(わがみしところのものは聖なる柱なりき)」の二篇は、同一用紙に書かれている』とあり、先の『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(樹のうへのあやかしをみよ)』の注で最後に述べた通り、この詩篇も底本の推定する大正三年ではなく、大正四年五月以降の作と推定されていることが判る。なお、前後してしまったが、底本の詩篇は、この筑摩版と比較して見るに、句読点に微妙な違いは見られるものの、「そのとき」以下が特異的に長い一節になっていること、「像」の「かたち」のルビ等から、小学館版と筑摩版の元原稿とは、同じものであろうと推測する。小学館版はそれを整序したものと考えるのが妥当であるように思われる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 たびよりかへれる巡禮のうた

 

  たびよりかへれる巡禮のうた

 

いすらへるよりかへり われはゆきのうへにたちぬ。

 

[やぶちゃん注:底本に大正四年五月発行の『卓上噴水』からとする。筑摩版全集でも『拾遺詩篇』に同書誌で初出とする。そこには全集編者によって、『掲載誌では、題名がなく「たびよりかへれる巡禮のうた」は詞書のように扱われているが、これを題名とした著者自筆原稿が残っているのでそれに從った』として、

 

  たびよりかへれる巡禮のうた

 

いすらへるよりかへり われはゆきのうへにたちぬ

 

とある。最後の句点がないので、掲げておく。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(樹のうへのあやかしをみよ)

 

  

 

樹のうへのあやかしをみよ

いますべてのあしきことはをはり そのかたちあらはれぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年とするが、筑摩版全集の「未發表詩篇」にある以下が、ほぼ同一である。以下に示す。

 

  ○

 

樹のうへのあやかしをみよ、

いますべてのあしきことおはり、そのかたちはあらはれぬ。

 

[やぶちゃん注:「お」はママ。こちらでは他に、二箇所の読点と、「そのかたちあらはれぬ」が異なる。さらに、筑摩版の「未發表詩篇」は未発表の詩篇を推定して編年順に並べてあるのであるが、この詩篇よりも前に『一九一五、四』のクレジットを持つ「步行して居る人の印象」が配されていることから、筑摩版は推定で大正四年五月以後に本篇は記されたと推定していることが判る。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 祈禱

 

   第二(淨罪詩篇)

 

 

  祈   禱

 

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください

あなたのふしぎをもて牢獄(ひとや)の窓をあけてください

あなたのおほみこころのみまへに

わたくしの懺悔(ざんげ)をささげまつる。 亞眠(ああめん)。

 

[やぶちゃん注:「亞眠(ああめん)」の前は句点がしっかり一字分で組まれており、見た感じも「空いてるな」と感じさせるように確かに認識出来る。しかし、ブラウザではその感じを出すには、半角を添えてもだめだったので、句点の後に新たに全角一字分の空きを加えるしかなかった。しかし、これが見かけ上、最も近い。さて、底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年とするが、筑摩版全集の「拾遺詩篇」に、大正四年六月発行の『街上』を初出とするものが、詩篇本文はほぼ相同である。初出形は、

 

  祈禱

 

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください、

あなたのふしぎをもて牢獄(ひとや)の窓をあけてください、

あなたのおほみこころのみまへに、

わたくしの懺悔(ざんげ)をささげまつる。 亞眠(あーめん)。

                ―淨罪詩篇―

 

である。「亞眠(あーめん)」の前は筑摩版全集でも同じ感じで配されてあるので、同じ処理を施した。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」には、以下の本篇の草稿(無題で二種)がある。

   *


  

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください
あなたのめぐふし

 

  

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください
あなたのふしぎをもて牢獄の窓をあけてください
あなたのおほみこころのまにまにみまへに
 わたくしのさんげをさゝげまつる、主よ。

 

   *

最後に編者注があり、『本稿は「拾遺詩篇」の「たびよりかへれる巡禮のうた」草稿と同一用紙の前半に書かれている。』とある。「たびよりかへれる巡禮のうた」はこちら。]

伽婢子卷之十 了仙貧窮 付天狗道 / 伽婢子卷之十~了

 

了仙貧窮(れうせんひんくう) 《つけたり》天狗道(てんぐだう)

 

Ryosen1

 

[やぶちゃん注:今回は細部の状態がいい「新日本古典文学大系」版の挿絵(三幅)をトリミング補正した。右奥に立つのが、栄俊。因みに、主人公了仙は、輿に載っていて、見えない。]

 

 釋の了仙法師は播州賀古郡(かこのこほり)の人なり。いとけなくして、父母におくれ、郡(こほり)の草堂に籠りて、出家し、十七歲して、關東におもむき、相州足利の學校に三十餘年の功を積(つ)み、内外(《ない》げ)二典(じてん)に渡り、神哥(しんか)兩道にたづさはり、博學多聞(たくがくたもん)の名をほどこし、所々の談林に遊ぶ。論義辯舌ありて、諸人、皆、かたぶき伏(ふ)して、更にこれに敵する事、かなひがたし。然(しか)れば、その天性(むまれつき)、逸哲佯狂(いつてつようきやう)の風あり。命分(めい《ぶん》)、甚だ薄く、一重(《ひと》へ)の紙衣(かみこ)をだに、肩に、まつたからず。墨染の衣は、袖、破れ、その日を暮すべき糧(かて)に乏(ともし)し。

[やぶちゃん注:「釋」は「釋氏」の略で、僧侶のこと。

「了仙」不詳。架空人物であろう。

「播州賀古郡」現存する加古郡は兵庫県中南部にあるが、元は加古川以東を占めており、旧郡域は広大で、西部は現在の加古川市・高砂市に相当する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くは「賀古」「賀胡」とも書き、播磨国十三郡の一つであった。

「相州足利の學校」ママ。「伽婢子卷之八 邪神を責殺」の「相模の國足利の學校」の私の注を参照。

「内外二典」仏教用語で「内典」は広義の仏教典籍・仏典を指し、「外典」仏教以外の書を広く指すが、本邦では主として儒学の教典を指す。

「神哥(しんか)兩道」宗教としての神道と、和歌の道(歌道・歌学)。

「逸哲佯狂(いつてつようきやう)」読みの後半は底本では「しやうきやう」。元禄版に拠って訂した。但し、正しくは「やうきやう」でなくてはならぬ。現代仮名遣は「いってつようきょう」。「逸哲」は「新日本古典文学大系」版脚注の言うように、「一徹」の当て字であろう(江戸時代には「一鐡」の当て字も広く行われた。ただそれで出すとエンディングの如何にもな伏線になるので、了意は敬遠したのかも知れない)。思い込んだり、言い出したりしたら、是が非でも押し通そうとする気の強い性質。一刻者。「佯狂」偽って狂気を装うこと。古く中国の隠者が世俗の人間を遠ざけるために振る舞ったポーズである。

「命分」本来は既に与えられている寿命の意であるが、ここはそれを転じて「運命」「幸不幸を含む生涯の巡り合わせ」の謂い。

「一重の紙衣」単衣の薄い寝具。「紙子」とも書く。和紙を蒟蒻糊で繋ぎ合せて柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解してから縫った和服。防寒衣料や寝具として用いられた。ここはそれさえも擦り切れ、肩をさえ覆うことが出来ぬというありさまを言う。]

 

 此故に、學智の功は、かさなりながら、長老・上人にもならず、綱位(かうゐ)の數にもあづからぬ平僧にて、年月を重ぬるまゝ、名利(みようり)の心、さらに絕えがたし。

[やぶちゃん注:「綱位」僧綱(そうごう)のこと。本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。]

 

 みづから、深く嘆きて曰く、

「了仙よ、了仙よ、汝、學問、よく勉めて、才智あり、心ざし、邪(よこしま)なく、名は世に聞こえながら、いかに、身一つを過《すぎ》わび、一寺の主(あるじ)ともならざるや。」

と。

[やぶちゃん注:「身一つを過わび」「かくも、おのが身一つしかなきに、それをたった一日でさえ、養うに、困りて果て」。]

 又、みづから、解(げ)して曰く、

「安然(《あん》ねん)は堂の軒に飢えて、桓舜(くはんしゆん)は神の社に祈りし。これ、道義の不足ならんや。役(えん)の小角(せうかく)は豆州(づしう)にながされ、覺鑁(かくばん)は根來(ねごろ)に苦しみし。これ、行德のおろそかなるにあらず。敎因(けういん)は僧戶(《そう》こ)・封祿(ほうろく)ありて、安海(《あん》かい)は綱位(かうゐ)にいたらざりし。これ、智と愚との故ならず。沙彌(しやみ)は溫(あたゝ)かに衣(き)て、飽(あく)まで、喰(くら)ひ、主恩(しゆおん)は飢寒(きかん)にせまりぬ。これ、才能の不敏(《ふ》びん)なるによらんや。これ、すでに、過去世の因緣なり。儒には天命といふ。了仙、不幸にして、此《この》そしりを、うく。何ぞ因果の理《ことわり》に迷うて、みだりに名利《みやうり》を求めんや。」

とて、みずから、問答して、心を慰みけり。

[やぶちゃん注:「みづから、解(げ)して曰く」禅の修業によく見られるもので、独り、自ら問いを発して、また、自らそれに解答を与えることを指す。

「安然」平安前期の天台宗の僧安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江生まれ。最澄と同族と伝えられている。初め、慈覚大師円仁に就き、円仁の死後は遍昭に師事して、顕密二教の他、戒学・悉曇学をも考究した。元慶元(八七七)年に唐に渡ろうとしたが、断念。元慶四年に「悉曇蔵」を著した。元慶八年に阿闍梨となって元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建し、天台教学・密教教学の研究に専念した。彼は「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて「台密」(天台宗に於ける密教)を大成した人物として知られる。地方伝承として、山形県米沢市にある塩野毘沙門堂の本尊を開眼し、その後、南陽市時沢にて入滅したといった話があり、南陽市には「安然入定窟」が伝えられてある(当該ウィキに拠る)。「新日本古典文学大系」版脚注では、『その伝記に定まらない部分があって、「堂の軒に飢て」の詳細も不明。「安然和尚、天下ノ智者、猶業貧ニシテ餓死セラレケリト云ヘリ」(雑談集五)が近い』とある。

「桓舜」(かんしゅん 天元元(九七八)年~天喜五(一〇五七)年)は平安中期の天台僧。父は備後守源致遠(文徳源氏)。月蔵房と号する。天台座主慶円に天台教学を学び、貞円・日助・遍救とともに「比叡山の四傑」と称された。一時、世俗を嫌って、伊豆国で修行していた時期もあるが、後に比叡山に戻った。長和五(一〇一六)年、藤原道長の法華三十講の講師となって以来、朝廷の貴族の間で活躍した。長元八(一〇三五)年に権律師、長暦三(一〇三九)年に極楽寺座主、次いで法性寺座主と昇任し、天喜二(一〇五四)年には権大僧都に至った(当該ウィキに拠る)。歴史的仮名遣は「くわんしゆん」が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「神の社に祈りし」は、『福徳を日吉山王に祈り、さらに稲荷大社に祈って霊験を蒙った』という『古今著聞集一、沙石集一、元亨釈書五など』に記された事績を指すとある。

「役(えん)の小角(せうかく)」修験道の祖とされる「役の行者」のこと。七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。「役小角(えんのおづぬ)」とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、讒言により秩序を乱したとして、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。山岳仏教のある各山に伝説が残る。

「覺鎫(かくばん)」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、当該ウィキに拠った)。「根來(ねごろ)に苦しみし」については、「新日本古典文学大系」版脚注に、彼は『高野山伝法院にあったが、山徒の排斥にあい、根来寺に移り、その地で没した(密厳上人行状記・下)』とある。

「敎因(けういん)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『伝未詳』とのみある。

「僧戶(《そう》こ)」公式な僧籍。

「封祿(ほうろく)」俸禄に同じ。公的に授けられた扶持米及びそれに代わる食物や物品の給与。

「安海」生没年未詳の平安中期の天台僧。京の人。比叡山の興良について出家し、長保五(一〇〇三)年、源信が宋の智礼に二十七条の質問状を送る際、安海は「上・中・下」の解答を事前に想定して作り、智・礼の解答は「中」か「下」であろうと予言し、結果は、その通りであったという。参照した講談社「日本人名大辞典」には、当時の二大学匠を評したものに、「源信は、広いが、浅いので、着物を捲くって渡れる。覚運は、深いが、狭いから、跨いで越えられる。」という格言があるそうである。「綱位(かうゐ)にいたらざりし」とあるのは、「新日本古典文学大系」版脚注に『若死にした』とあることと関係があろう。

「沙彌」サンスクリット語の「シュラーマネーラ」の漢音写。「息慈」などと訳す。出家して沙弥十戒を受け、比丘となるまでの修行中の僧。女子は「沙弥尼」と呼ぶ。年齢によって三種に分け、七〜十三歳を「駆烏(くう)沙弥」、十四〜十九歳を「応法沙弥」、二十歳以上を「名字沙弥」と呼んだ。また、「未だ修行が未熟な者」の意から、形は法体(ほったい)でも、妻子を持ち、世俗の生業に従っている者、つまり、「入道」とか「法師」と呼ばれる市井にある仏教者を、日本では広く「沙弥」と称した。中世の沙弥には武士が多い。沙門(=僧)とは明確に区別された呼称であった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を参照した)。

「主恩」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『平安中期の興福寺の学僧』の名とし、『筑前博多に流謫されてことがあり、「飢寒にせまりぬ」はそれを指すか』とある。

「不敏」才知・才能に欠くこと。

「天文の末の年」天文(てんぶん)は天文二四年十月二十三日(ユリウス暦一五五五年十一月七日)に弘治に改元している。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く寺に勤める役僧を指す。

 

 所化(しよけ)の伴頭(ばんとう)榮俊(えいしゆん)といふものは、學問の友として、久しく斷金(だんきん)の契(ちぎり)をいたせしが、ある時、藤澤邊(へん)に出《いで》ける道にして、了仙に行合《ゆきあひ》たり。

[やぶちゃん注:「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く、寺に勤める役僧を指す。

「伴頭」ここは修行僧衆の中でも筆頭に立つ僧の意。

「榮俊」不詳。同じく架空人物であろう。

「斷金の契」固く結ばれた友情の喩え。元は中国の北魏の地誌「水経注」(全四十巻。撰者は酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年の成立と推定される)の巻三十一にある「淯水」の末尾にあるエピソードに基づくとされるが、その濫觴は「易経」の「繫辭(けいじ)伝」で、「二人同心、其利斷金」(二人、心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。)である。]

 

 漆塗の手輿(たごし)にのり、白丁(はくてう)八人に、かゝせ、曲彔(きよくろく)・びかう・朱傘(しゆからかさ)、おなじく白丁にもたせ、同宿、七、八人、うるはしく出立《いでたち》、雜色(ざふしき)に先を拂はせ、さゞめき來るよそほひ、往昔(むかし)に替りて巍々堂々(ぎぎだうだう)たる事、ひとへに國師・僧正の儀式に似たり。

[やぶちゃん注:「白丁」元は下級武士の着用する狩衣の一種で、白の布子張りであったので「白張」とも書いた。律令制の諸官司・神社・駅 (うまや) などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取など仕丁がこれを着たところから、貴人に従う下人を、広く、かく称した。

「曲彔」主として僧侶が法会式などで使う椅子の一種。背凭れの笠木(かさぎ)が曲線を描いているか、または、背凭れと肘掛けとが、曲線を描いた一本の棒で繋がっているのが特徴である。「曲彔」は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を削(はつ)る(削ぎ落とす)」の意であるから、「木を削って曲線を造形した椅子」の意となる。鎌倉時代に中国から渡来したもので、最初は、専ら、禅宗で用いられたが、後には他の宗派や、仏教に拘わらず一般でも使うようになった。特に桃山時代には大流行した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。最初の挿絵の左幅の行列の最後で白丁が肩に載せているのがそれ。]

「びかう」「鼻高履」。「鼻廣履」「鼻荒履」(これらは歴史的仮名遣は「くわう」となる)とも書いた。僧侶が法衣に合わせて用いる履(くつ)で、革製で、先端を高く反って作った浅沓(あさぐつ)。鼻高。

「朱傘」地紙を朱色に染めた差し傘。長柄を附け、戸外の法会式などで、導師などに差し翳して日を除ける用とした。公家も盛んに用いた。先の挿絵の「曲彔」の前で白丁が肩にかけて持っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、サイズを『柄八尺、大きさ三尺二寸』とする。

「同宿」同じ僧坊に住む僧。挿絵では二人のみ描かれている。

「雜色」貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。白丁より格下。

「巍々堂々」姿が堂々としていて、厳(いか)めしく立派なさま。

「國師」天皇の導師となる僧位を指す。

「僧正」僧綱の最高ランクである法印大和尚位(だいかしょうい)の大僧正の次席。]

 

 了仙は、九條の袈裟に、座具、取そへて、身に纏ひ、檜扇(ひあふぎ)さし出し、

「和僧は、榮俊ならづや。」

とて、輿より、おり下り、手をとり、淚を流して、昔今《むかしいま》の物語りす。

[やぶちゃん注:「九條の袈裟」尼の着る三種の袈裟「三衣」(「さんえ」或いは「さんね」)の最も正式で豪華な僧伽梨(そうぎやり)。「大衣」「九条衣」とも呼び、布九幅を横に綴って誂えた袈裟。これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着である。後の二種は「鬱多羅僧」(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)と「安陀会」(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。比丘六物(三衣と鉢・尼師壇(にしだん:坐具)・飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)の六つ)の一つでもある。

「檜扇」檜(ひのき)の白木のままの細長い薄板を重ね、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。儀礼用の所持具であって、煽る実用のものではない。]

 

 榮俊、いひけるは、

「君と別れ隔たる事、わづかに半年ばかりの間に、よく、みづから、綱位たかく、靑雲の上にのぼり、封祿(ほうろく)あつく、朱門のうちに交はり、衣服・袈裟の花やかなる出《いで》たち、手輿、同宿のさかんなる有樣、まことに、學智、秀(ひい)でたる所、心ざしを遂ぐる時也。僧法師の本意《ほい》は、こゝに極まれり。羨しくこそ。」

といふ。

 了仙、答へて曰く、

「我、今、一職(《いつ》しよく)をうけて勉め行ふ。更に隱すべきにあらず。その形勢(ありさま)、見せ奉らん。こなたへ、おはせよ。」

とて、光明寺の堂に行到《ゆきいた》る。人、さらに、見咎むる事、なし。

[やぶちゃん注:「藤澤邊」(私の住まいはまさにその辺で、寝室の窓の外の裏山は藤沢市であり、そもそもが私のいる辺りは大船でも元は藤沢に属していた)での邂逅から、突然、直線でも七キロメートル以上離れた由比ヶ浜東の光明寺(了仙の墓所がある)が出ること自体が、既にして異界に栄俊は立ち入っていることを意味する。]

 

 夜《よ》、すでに後夜(ご《や》)[やぶちゃん注:夜半から夜明け前の頃。現在の午前四時前後。]に及ぶ。

 了仙、語りけるは、

「我、つねに慢心あり。然れども、更に非道をなさず。平生、貧賤なる事を怨み憤りて、因果の理《ことわり》としりながら、これに惑へるを似て、死して天狗道に落ち、學頭の職に選ばれ、文を綴り、書を考へて、その義理を、あきらめ、傳ゆ。

 わが天狗道は、魔道なりと雖も、鬼神に橫道(わう《だう》)なきが故に、人をえらび、器量によりて、その職をつかさどらしむ。

 人間《じんかん》は、たゞ賄(まひなひ)を以て、ひいきをなし、追從(ついしやう)輕薄の者を『よし』と思ひ、外《そと》の形(かたち)を用ひて、内をしらず。人のほむるを用ひて、其《その》才能を、いはず。是によりて、公家も、武家も、出家も、同じく追從輕薄奸曲(かんきよく)佞邪(ねいじや)をもつて、官位奉祿に飽滿(あきみ)ちて[やぶちゃん注:ここは本来は逆接でブレイクが入るべきところ。]、よき人は、皆、その道の正しきを守る。此故《このゆゑ》に、人をへつらはず、輕薄、なし。こゝをもつて、長く埋(うづも)れて、世に出《いで》ず。麒麟は、いたづらに糞車(ふんしや)をかけられて、草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え、駑馬(ど《ば》)は、時を得て、豆粥(とうじゆく)に飽きたり。鳳皇(ほうかう)は枳(からたち)の中にすみて、鴟・梟(とび・ふくろふ)は蘭菊(らんきく)の間に、さえづる。こゝをもつて、公家も、武家も、出家も、賢者は、頸(くび)、やせて、髮、かれつゝ、溝瀆(かうとく)の『ほそみぞ』にころび、死すれども、知人なく、愚人奸曲の輩《ともがら》は、世にあはれて、時めく也。これより、風俗、惡しくなりて、治れる時は、少なく、亂る日は、多し。

 わが天狗道は、たゞ、よく、その器量をえらび、その職を、あてがふに、誤らず。

 凡そ、世の人、貴賤をいはず、少《すこし》も慢心ある者は、皆、死して、魔道に來る。その中に、君《くん》に不忠あり、親に不孝するものは、必ず、大きなる責めを受け、善を積み、德を施せし者は、皆、その幸ひを、かうぶる。輪𢌞因果のことわり、皆、僞りならず。天子・公卿・武士・出家、世に名を知られたる輩《ともがら》、わが道に入《いり》て、或は大將となり、或は眷屬となり、世の人の心だてによりて、或は障㝵(しやうげ)をなし、或は守護をなす。それ、太上は、德を、たて、その次は、功を、たつ。その次は、言を、たつ。これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。

 我は、德もなく、功もなし。

 こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。

 その、慢心のむくひを、見給へ。」

とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり。

[やぶちゃん注:「天狗道」天狗の住む天界・鬼道。増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道。仏教の六道に倣って後付けで附属された魔界。地獄思想の細分が中国で偽経によって捏造されたものであるから、付けたりは幾らでもバラェティーに富む。

「糞車」肥桶を運ぶ荷車。

「かけられて」「驅(か)けられて」。引き駆けるために使役されて。

「草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え」草や水さえも僅かしか与えられずに、飢え渴つえて。

「駑馬」足ののろい馬。また、才能の劣る人の喩えでもあり、前の対の「麒麟」(ここでは聖獣というよりも、一日に千里を走る名馬を指す)を才人の喩えとして、優れた人物も、年老いては、その働きや能力が普通の人にさえ及ばなくなるの意の「騏驎も老いては駑馬に劣る」をパロったもの。この故事成句は「戦国策」の「斉」に見える。紀元前四世紀、戦国時代、秦以外の国々に遊説して合従策を唱えた弁論家蘇秦の台詞。斉の王に向かって、「騏驎の衰ふるや、駑馬、之れに先だつ」(どんな名馬も年をとると、そのへんのつまらない馬の方が速く走るようになる)と述べて、安易な突出した秦への対外政策を戒めた。

「豆粥」豆の入った粥(かゆ)。

「鳳皇」了意の書き癖で聖鳥「鳳凰」のこと。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を見られたいが、そこに「天下、道有るときは、則ち、見る。其の翼、竽(う)のごとく、其の聲、簫(せう)たり。生ける蟲を啄まず、生ける草を折らず、羣居せず、侶行(りよかう)せず、梧桐に非ずば、棲まず、竹の實に非ざれば、食はず、醴泉(れいせん)に非ざれば、飮まず」とある。それが、棘だらけの「枳(からたち)の中にす」むのは、世が致命的に腐敗していることになる。

「溝瀆(かうとく)」みぞ。どぶ。故事成句「溝瀆(こうとく)に縊(くび)る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)をさらにダメ押しして「『ほそみぞ』にころび、死す」とやらかしたもの。

「障㝵」障碍・障害に同じ。正常な様態を阻害すること。

『「これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。我は、德もなく、功もなし。こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。その、慢心のむくひを、見給へ。」とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり』この大どんでん返しは劇的でよく書かれてある。]

 

Ryosen2

 

[やぶちゃん注:縁側で惨状を見る栄俊。地面に座っているのが、異形に変じた了仙。彼の左手で大きな柄杓(本文の「銚子」)で以って、盃に何やら(ネタバレのため言わない)を注ぐ法師(裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」を穿いている)。]

 

 鼻高く、まなこより、光り輝き、すさまじき形に變ぜし所に、虛(そら)より、鐵(くろがね)の釜、

「ふらふら」

と、おちて、其中に、熱鐵の湯、わきかえる。

 それにつゞきて、法師、一人、くだり、銚子(てうし)に、熱鐵の湯を、もりいれ、盃にいれて、了仙に渡す。

 了仙、怖れたるけしきにて、これを飮み入るゝに、臟腑、もえ出《いで》て、下に燒けくだり、地にまろびて、うせにければ、堂にありし、白丁も、同宿も、皆、きえうせて、夜はほのぼのと、あけ渡れば、光明寺中の堂には、あらで、「榎(え)の島」の濱おもてに、榮俊、一人、坐したり。

 それより、歸りて、佛事、いとなみ、道心深く、後世《ごぜ》を怖れ、諸國行脚して、菩提心を祈りけり。

 

伽婢子卷之十終

[やぶちゃん注:「熱鐵の湯」高温で溶かされて液体となって煮え滾っている液体の鉄である。似たようなものは「叫喚地獄」で、溶けた銅を飲まされるのが、お約束である。

『「榎(え)の島」の濱おもて』現在の片瀬東浜。またしても光明寺から直線で六キロメートルも跳躍した。リンク地図の中央全体が本篇メインのロケーションを総て含んでいる。]

2021/10/16

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(なでしこの花むらがり咲ける) / 「第一(「愛憐詩篇」時代)」~了

 

  

 

なでしこの花むらがり咲ける

磯山の小松ばやしにわけ入れば

砂地にぬるる靴も鳴きいで

朝まだ早く松露の土をほりあぐる。

 

いさみて丘をはせ

ひそかに海を念ずれば

うみもかたむき湧きいでぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。本篇を以って「第一(「愛憐詩篇」時代)」は終わっている。

「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ属ショウロ Rhizopogon roseolus 。二針葉のマツ属 Pinus の樹林で見出され、それらの細根に、典型的な外生菌根を形成して生活する。安全且つ美味な食用茸の一つとして古くから珍重されてきたが、発見が容易でなく、希少価値が高い。さらに現代ではマツ林の管理不足による環境悪化に伴って産出量も激減し、市場には出回ることは極めて稀れになっている。栽培の試みもあるが、未だ商業的成功には至っていない。詳しくは参照したウィキの「ショウロ」を見られたい。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(あはれしんめんたる雨の渚路に)

 

  

 

あはれしんめんたる雨の渚路に

たましひはひたにぬれつつ步むらむ

くねりつつうちよする浪

浪の音のきえさり行けば

うちよする浪の音の

浪の音の消えさりゆけば

たましひは砂丘の影に夢むらむ。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(あはれいたみの烈しさにたへずして)

 

[やぶちゃん注:本文内にある「*」は本書の小学館の編集担当者によるマーキングである。後の編集者による「編註」を参照。]

 

  

 

あはれいたみの烈しさにたへずして

日の下に今日も我が身の踊れるなり

齒痛は金の砥石を破りいで

にほひするどく高原に光らしむ

かけのぼれ かけのぼれ

わが眺望はいたましく

うちわたす耕地整理の畑には種まく人の影もなし

かけくだれ かけくだれ

高壓線の電柱に怒り泣き

街道にあかあかと自轉車ぐるまくねりゆく

あはれわが齒痛はエレキの如く

身うちをしびれ皮膚をこげしむるぞ

ひとりこの高原にたかぶりいかり

哀しみにやぶれ

地上に坐して光れるむし齒をぬかんとす

胸の奧よりして孤獨にとがるる齒痛なり

わが心臟の幼芽より發するごとくなり。

 

    *

 

人々

むらがりつどひ ふんすゐに水をのまんと

水は芽生をはぐくみて

白き瓦あげんとす

ふんすゐにむらがりつどひければ

ほとばしる水を受け

みなこころにめざめつつ

みよ痛みの烈しさにたへずして

いぢらしく唇我が身のひとり踊りいづるなり。

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体がポイント落ちの半字下げで、註本文は二行目からは本文開始位置まで下がっている。後者を再現するために、一行字数を減じて、改行した。実際は二行で終わっている。本底本の国立国会図書館デジタルコレクションの初版(前年刊行。表紙違いだが、本文は同じ)の本篇をリンクさせておく。]

編註 本篇は數葉のノオトに走り書され、

   未だ定稿とは言ひ難いと思はれる。

   十一行目の「瓦」は意味不明なる

   も、ひとまづ原稿に從ひそのままと

   した。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(いづかたに行き給ふらむ) / 「斷章」の第一章の失われた推敲稿か?

 

  

 

いづかたに行き給ふらむ

深山路に雪をふみわけ

雪をふくみて夕暮の

旅のつかれをいやすらむ

君やいづこに

いくばくの陽光さし

君はかくもものしづかなる

いかなればかくもしづかに

しとやかに君はありしぞ

やみがたき旅にしあれど。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」に、既に「(無題)(ふところに入れたる手よ) / 筑摩書房版全集不載の一篇」の注で引用した「斷章」の一章目が酷似する。

     ×

いづかたに行き給ふらむ

深山路に雪をふみわけ

雪をふくみて夕暮の旅のつかれをいこひやすらむ

いかなればかくもしづかに

しとやかに、したしげに君はありしぞ。

     ×

この断章と比較すると、整序されて、一篇としては本篇の方の完成度が高い気がする。失われた推敲稿か。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 決鬪 / 附・草稿

 

  決   鬪

 

空と地とに綠(みどり)はうまる

綠をふみてわがゆくところ

靴は光る魚ともなり

歡(よろこび)樹蔭におよぎ

手に輕き利刃(やいば)はさげられたり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年の作とする。筑摩版全集を見るに、これは大正三年十月号『詩歌』に発表した「決鬪」決定稿の草稿である。まず、決定稿初出を示す。傍点「ヽ」は太字に代えた。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 决鬪

 

空(そら)と地(つち)とに綠はうまる、

綠をふみてわが行くところ、

靴は光る魚ともなり、

よろこび樹蔭におよぎ

手に輕き薄刄(やいば)はさげられたり。

 

ああ、するどき薄刄(やいば)をさげ、

左手をもつて敵手(かたき)に揖す、

はや東雲(しののめ)あくる楢の林に、

小鳥うたうたひ、

きよらにわれの血はながれ、

ましろき朝餉をうみなむとす。

 

みよ我がてぶくろのうへにしも、

愛のくちづけあざやかなれども、

いまはやみどりはみどりを生み、

わがたましひは芽ばへ光をかんず、

すでに伸長し、

つるぎをぬきておごりたかぶるのわれ、

おさな兒の怒り昇天し、

烈しくして空氣をやぶらんとす、

土地(つち)より生るゝ敵手のまへ、

わが肉の歡喜(よろこび)ふるへ、

感傷のひとみ、あざやかに空にひらかる。

 

ああ、いまするどく鋭刄(やいば)を合せ、

手はしろがねとなり、

われの額きづゝき、

劍術は靑らみついにらじうむとなる。

 

「揖す」は「しふす」(しゅうす)で会釈することを指す。次に以上の詩篇の草稿詩篇を同全集から示す。脱字はママ。

 

  决鬪

 

空と地とに綠(みどり)はうまる

綠をふみてわがゆくところ

靴は光る魚ともなり

歡(よろこび)樹蔭におよぎ

手に輕き薄刄(やいば)はさげらたり

 

これだけである。最終行の「刄」は筑摩版全集は「刅」の最右翼「ヽ」のない「刃」の正字体であるが、これは筑摩版全集が勝手に統一字体として本文校訂に唯一採用したものであって、しかも、汎用出来る字体としてワープロやネットではフォントとして作られていない。初出を見て貰うと判るが、そこでは「刄」の表記であるから、私はそちらで示した。

 さて。これと本篇を較べてみるに、これは別原稿とはちょっと思われない。小学館版の編集者が、この草稿に手を加えて載せたものとみるのが穏当であろう。「利」は「薄」の崩しがひどくて判読出来ず、「利」としたに過ぎないのでは? とも思われる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 街道 / 幻の「街道」の初期形か?

 

  街   道

 

道路は樹木を凍えしむ

うらがれとがれ

りんりんと梢に高く光れる針葉

しんに針葉の並木は哀しく

下に道路はうちふるへ

くねりつつ白くつらなり遠きに山脈の浮べるあり

背をまろくして街道を流れゆく見ゆ

いま眞珠のくだのごときもの

しきりに路上に燃えたちしが

ややありて光なき日輪に及ばんとす

この低き屋並をこえ

道路のうへにまたがり

いと高きにありてめんめんと愁ふるもの

絕えず愁ふるものをきく

そはぷろぺらのうなりのごとく

氷山のひび入るごとくにもきこゆれど

そのひびき遠き道路に及ばねば

尙も夕日の中にむらがり

あまたうないらは哀しげに遊び居るなり

 

はやたそがれ近き冬の日の道路に

らくだに似たる物象の長き列は近づきぬ

見よいまもきのふも

街道はくねりつつえいゑんの遠きにはす

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」にかなり似た「街道」がある。以下に示す。誤字・錯字・歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

 

  道路街道

 

道路は樹木を凍えしむ

うらがれとがれ

りんりんと梢に高く光れる針葉

しんに針葉の並木はさびしく

下に道路はうちふるへ

ふとくしねりつつ遠きにはす。

遠きに高原の山脈ゆめと浮べるあり

旅びとゝむれくらく流れいで

音もなくうこのことろをすぎ行く見ゆ。

いま眞珠のくだの如きもの

しきりに路上にもえ立ちしが

やゝありて光なき日輪に及ばんとすびなんとす。

この低き屋並を越え

樹木をこえ

いと高きにありてめんめんと愁ふるひいづるも

そはぷろべらのうなりの如く

氷山のひゞいる如くにもきこゆれ共

その響、遠き地上に及ばねば

いまも夕日の中にむらがり居て

あまたうなひらは悲しげに遊び居るなり。

みよかゝる日の街道に

わが■■憂愁ははてしなき軌道を步む。みいづ。

 

■■」判読不能の抹消字である。思うに、これは本篇を更に推敲したもののように感じられる。最早、現存しない幻の「街道」の初期形と言うべきか。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 鐡橋々下 / 附・同時初出併載詩篇「早春」

 

  鐡 橋 々 下

 

人のにくしといふことば

われの哀しといふことば

きのふ始めておぼえけり

この市(まち)の人なになれば

われを指さしあざけるか

生れしものは天然に

そのさびしさを守るのみ

母の怒りの烈しき日

あやしとさけびかなしみて

鐵橋の下を步むなり

夕日にそむきただひとり。

               ―滯鄕哀傷篇より―

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では酷似した詩篇が「拾遺詩篇」にある。初出は大正三(一九一四)年三月二十四日附『上毛新聞』である。如何に初出形を示す。標題のルビの後半の「けう」は踊り字「〱」。

 

 鐡橋々下(てつけうけうか)

 

人(ひと)のにくしといふことば

われの哀(かな)しといふことば

きのふ始(はじ)めておぼへけり

この市(まち)の人(ひと)なになれば

われを指(ゆび)さしあざけるか

生(うま)れしものはてんねんに

そのさびしさを守(まも)るのみ

母(はゝ)のいかりの烈(はげ)しき日(ひ)

あやしくさけび哀(かな)しみて

鐵橋(てつけう)の下(した)を歩(あゆ)むなり

夕日(ゆうひ)にそむきわれひとり

                (滯鄕哀語篇より)

 

筑摩版全集の注に、『新聞發表の際は「夢みるひと」の筆名で』、筑摩版全集の本篇の前に掲げられた「早春」という詩篇とともに掲載されたと記されてあるので、その「早春」も掲げておく。全集の位置から、掲載はこの「早春」の方が手前にあるということであろう。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 早春(さうしゆん)

                夢みるひと

なたねなの花(はな)は川邊(かはべ)にさけど

遠望(えんばう)の雪(ゆき)

午後(ごゞ)の日(ひ)に消(き)えやらず

寂(さび)しく麥(むぎ)の芽(め)をふみて

高(たか)き煉瓦(れんぐわ)の下(した)を行(ゆ)く

 

ひとり路上(ろぜう)に座(すは)りつつ

怒(いか)りに燃(も)え

この故鄕(ふるさと)をのがれいでむと

土(つち)に小石(こいし)を投(な)げあつる

監獄署裏(かんごくしようら)の林(はやし)より

鶫(つぐみ)ひねもす鳴(な)き鳴(な)けり

            (滯鄕哀語篇より)

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集初版の本詩篇の初期形表示は杜撰で、改頁に当たっている部分が行空けのはずなのだが、後のページの行空けは、下方の初出ではなされていない。後の差し込みで訂正している。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 砂金

 

  砂  金

 

くもり日のうちしめれる渚をつたひ

ひとりしくしくと步みしが

つかれてまた砂丘に倒れ伏し

さびしく掌に砂をすべらしむ

さびしきたはむれはけふも掌に砂をすべらし

ねむれる渚に鷗をおどろかしむ

われは砂より生れ砂よりいでて

光りをみがく砂金なり

みよ かすかに指のあひだにうごめき

くすぐるごとく踊れるものあり

砂金は砂の中より

かなしき聖歌を唄へるなり

主よ

主はめぐみにみてり。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

只野真葛 むかしばなし (43)

 

 父樣、仙臺へ御立とて、荷物をからげて居(をり)し時、

「今、木挽町で、藝者が、きられた、きられた。」

と、人々、いひさわぎし故、からげかけて、男ども、行てみしが、切ころされて、かた息に成、たふれてゐし所を見て來りしが、町人に、其藝者故(ゆゑ)、身を仕廻し人、有。其家の居候に成て、藝者の三味線箱かつぎに成て、下人のごとく、草履直しなどして、つかへしを、母も娘も、うるさがりて、いろいろ、あしくせしを、いきどほりて、湯から出がけを追かけて、ころびし所をきりしよしなり。こんなことはいくらも有ものなれど、いかゞしたることにや、大評判と成て、「はやりうた」にも、洒落本も、うるさきほど、いでゝ有し。「おとよ」といふ女なり。

 仙臺の旅宿には、かの鑄錢(《ゐ》せん)を願(ねがひ)し町人、ねがひのうへ、宿をせしたりしとぞ。

[やぶちゃん注:父工藤平助は藩命によって仙台藩に赴き、貨幣の鋳造や薬草調査等を実施し、一時期は仙台藩の財政をも担当したという(当該ウィキに拠る)。但し、以下に出る還俗は、或いはこれよりも早かったと思われ(さればこそ医師ではない全く異なる財政方面での活動も出来たと考えられる)、真葛の記憶に前後の齟齬がある気もする。]

「料理上手、一たいの服よく、江戶、はづかし。」

と被ㇾ仰し。其内、わけて御感じ被ㇾ成しは、雪ふり、寒夜、御下りのおそかりしこと有しに、亭主、留守にて有しを、歸りて

「御膳の仕度、何々ぞ。」

と聞しに、妻、

「何々。」

と、こたふれば、

「それは。にくさりに成て、いくまじ。いで。」

とて、白かゆに、田樂いだし上(あげ)たりしが、

「扨。腹うけ、よかりし。」

とて、度々、仰出られて御ほめ被ㇾ遊し。其料理は、御下(おした)のもの[やぶちゃん注:下男。供人(ともびと)。]に、くはせたりし、とぞ。

 御供は樋口司馬と、安兵衞といひし新參者なりしが、この安兵衞、

「つとめがら、よろしき。」

とて、御下り早々、大人役に仰付られしが、廿二にて有し。御目がね程有て、よき人なりしが、おしきかな、中年より、らい病やみいでゝ、つかいがたく、髮をそり、「じやうゑん」と名をかへて、草津の湯治場にて、淺間山のやけぬけし頃は、草津に有て、ちかく見物せしよし、委細そのさまを書(かき)て、奧に、

  信濃なる大めしがまのにひこぼれ上州ものはあびて往生

と書付て有し。草津は風上にて有し故、見物に、よかりし、とのことなり。

 ワ十四のとし[やぶちゃん注:安永五(一七七六)年。]、「はしか」はやりて有しが、其年あたりや、東屋を立られしは。

 仙臺より、御下り、間もなく、還俗、仰付られし。

[やぶちゃん注:父平助は安永五(一七七六)年頃に仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って自由に活躍するようになった。]

 其頃、又々、地面、御かりたし、御普請被ㇾ遊しが、攝津守樣、御のぼり被ㇾ遊て、普請びらき早々、いらせられし。

[やぶちゃん注:「攝津守樣」不詳。当代の先代藩主伊達重村は陸奥守である。]

 庭の櫻、御覽、御大名方よりも、數々、被ㇾ下て有し。出羽樣よりは、「淺黃ざくら」、是は、めづらしきのみにて、花、よろしからず。周防樣より被ㇾ下し「大ざくら」、勝(すぐれ)てよかりしが、おそく被ㇾ下し故、角(すみ)にうゑしを、「すみの櫻」とて、もてはやしたりし。「ひさるせ」の印にて大きな猿をそへて被ㇾ下し。其外、たかき、いやしきをいはず、櫻をおくられし中に、賀茂季亮、其頃は市右膳とて、

「かすかなりしが、人數(にんず)に、いらん。」

とて、三尺ばかりの山ざくら、花が、所々に、一、二輪、有(ある)に、

  色なしと人なとがめそさくらばな散けふことのゆゝしくてこそ

と斷書(ことわりがき)をして、付たり。三島自寬、吉兵衞といひしが、ことさらに、まねかれぬを、ふくづみて、文(ふみ)、有。詞書は、おほへず[やぶちゃん注:「覺えず」であろう。]。

 「とへとしもいはぬにもへば君がやの櫻は八重に咲にや有るらん

 春もむなしく」[やぶちゃん注:鍵括弧は底本のママ。]などや有けん。父樣、かへしはおぼへねど、趣向ばかりは、人に御はなし被ㇾ遊し故、おぼヘし。今其心をもておぎなはゞ、

  しるしらぬ・おしなべて・花を尋ねてとふやどをよそに見すぐす君よあやしき

【是等の、そのうち、よろしきを、とるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

といふやうなことなりし。今おもひよりて書けば、よくもしらべず。かへしの哥、まさりしと御じまん被ㇾ成しかば、かくにはあらじ。

[やぶちゃん注:「出羽樣」不詳。

「周防樣」以前の「むかしばなし (7)」の考証では、岩見浜田藩藩主で周防守であった松平康定(延享四(一七四八)年~文化四(一八〇七)年)を同定候補とした。

『「ひさるせ」の印にて』「さる」は以下の「猿」に「去る」を掛けているようだが、意味不明。平助は医師だから「やまひさる」(病ひ去る)など考えたが、「せ」が続かぬ。「世」?

「大きな猿をそへて」「日本庶民生活史料集成」では『大きなくゝりさるをそへて』である。本物の大きな日本猿では大迷惑だから、ここは庚申信仰に習合した三猿信仰辺りから生じた紐で吊るした猿の作り物の「くくり猿」(猿ぼぼ・身替わり申(さる))を桜の枝に吊るしてあったとなら、腑に落ちる。ご存知ない方のために、グーグル画像検索「くくり猿」をリンクさせておく。

「賀茂季亮」「市右膳」なんだか妙に似たような名の人物で同時代人に、歌人・国学者・古典学者にして京都賀茂別雷(上賀茂)神社の祠官であった京生れの賀茂季鷹(かものすえたか 宝暦四(一七五四)年~天保一二(一八四一)年)がいる。彼は平助や真葛と昵懇だった村田春海と親しかった。本姓は山本で、「右膳」を名乗った。「亮」・「市」と「鷹」・「本」は妙に崩すと似ている気がする。

「三島自寬」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家。「むかしばなし (6)」や同「(28)」で既出既注。]

只野真葛 むかしばなし (42)

 

 其頃、公儀御内證[やぶちゃん注:側室。]樣の御年寄女中[やぶちゃん注:江戸城大奥女中の役職の一つで、二番目に位置するが、事実上は奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する大役。将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」の位であった。]に、玉澤といひし人、有し。天下をうごかせし才人なり。此人、もとは山の手の旗本衆の内かたなりしが、夫ばくちの大道樂者にて有しが、提重(さげぢゆう)・たばこ盆・組(くみ)さかづきなど、小道具の仕入、木地より、塗(ぬり)までなり。小細工を渡世にして、代々、小普請にてくらせし人なりしが、玉澤、才人故、其頃はお袖といひしとなり。はじめは、おしへて、させしが、後々は、妻にばかり、こしらへさせて、其身は、ばくち打、いろいろ、放埒して居しに、外の旗本がたの奧樣と不義のこと、あらはれ、かけおちして、家つぶれしに、お袖、不仕合(ふしあはせ)には、里も、先達(さきだち)て、つぶれて、行所(ゆきどころ)なき故に、其やうな所にも居たりしなり【赤坂邊なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 其妹子、赤井藤九郞樣といふ六百石ばかりとる旗本のかたへ緣づかれしに、是も、里なしのうへ、夫、死去、子もなしに若後家なりし。

 其弟、兄の跡をつがれし人が、其(その)藤九郞樣なり。此人、勝(すぐれ)たる人にて、お袖をふびんにおもひ、引とりて、やしないおかれしとぞ。妹子さへも、里があらば、かへるくらいな若後家、まゝ弟子にかゝりて有しうへ、よしみもうすき姊まで、其緣につれて世話になること故、氣の毒の山をつかね、下女同前に、はたらきてゐられし。

 其時より、父樣は御ぞんじなりしとぞ。

「信あれは[やぶちゃん注:ママ。「ば」であろう。]、德、有。」

とかいふことは、此藤九郞樣のことなり。

 少しも、心おきのないやう、居にくゝないやうに、取あつかわれしとぞ。

 藤九郞といふ人は、心だて、よく、器用にて、書もよめ、手も書、繪も、よほどならず、かゝれしを、廿二才にて、中風して、惣身、きかず、飯もやしなはれて食(くふ)やうなことに成、いきたばかりにて、有し。

 お袖は口ぐせのよふに、

「御奉公に出たし、御奉公に出たし。」

と、いひて有しとぞ。

 其頃のていは、隙《ひま》なく、しきし[やぶちゃん注:「色紙」。衣服の弱った部分に裏打ちをする布地。]當(あて)たる布子の、油賣のやうに垢付しを着てゐられしとぞ。

 やうやう、御本丸のおもて使者に、少々、手つぎ有て、其人の世話にて御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」に上(のぼ)られしが、運のひらけはじめなりし。手も、よくかゝれしとぞ。しゆんめう院樣御代のことなりし。

[やぶちゃん注:『御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」』恐らくは、幕府の右筆の間で取り交わされる文書に添える表書きのことであろう。「書札礼」(しょさつれい)という語があり、これは公的な書状の形式・用語などを規定した礼法式を言う。小学館「日本大百科全書」によれば、『手紙を取り交わす両者の身分的相違による礼儀を重視しようという考えから生じたもの』で、『公家様(くげよう)と武家様の二様ある。元来は中国の』「書儀」(しょぎ)『などによっていたが、平安後期には公式様(くしきよう)文書が衰退し、私(し)文書の発達や有職故実』『学の発展に伴って』、「明衡往来」(めいごうおうらい)『などの書状の模範例文集がつくられるように』なった『一方、公家様の書札礼の書も著されてきた。それが確立されたのは』弘安八(一二八五)年に『一条家経(いえつね)らによって編まれた』「弘安礼節」(こうあんれいせつ)『によってである。この書は宮廷関係の礼節を定めたものであったが、書札礼について一項を設け、それが後の書札礼の典拠となった。武家様の書札礼は、公家様から派生したものであり、鎌倉末には』、『すでに』、『できあがっていたらしい。室町時代になると』、三『代将軍足利義満』の頃に『整備され、武家様が書札礼の中心となった。それとともに』、『文章作成を職業とする右筆(ゆうひつ)の力が強くなり、各家がそれぞれの流儀による書札礼を伝授するようになった。初期の』「今川了俊書札礼」や、後期の「細川家書札抄」・「大館常興(おおだてつねおき)書札抄」・「宗五大草紙」(そうごおおぞうし)などが『代表的なものである。以後、武家様の書札礼は地方に波及し、戦国大名諸家もそれを受容し、自らの書札礼を定めていった。織豊』『政権下でも同様で、多少の改変はあったが』、『維持され、江戸幕府も徳川家康が』慶長年間(一五九六年~一六一五年)『に永井直勝(なおかつ)に命じて制定させたものが』、『江戸時代を通じて行われた』とある。

「しゆんめう院樣」「御代」と言っているので、第十代将軍徳川家治(在職:宝暦一〇 (一七六〇)年~天明六 (一七八六)年)のことであろう。彼の諡号は「浚明院」で戒名は「浚明院殿贈正一位大相国公」である。但し、読みは「しゆんめい」である。これは「明」の呉音「みやう(みよう)」を誤ったものであろう。]

 御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ、大納言樣の御腹のお部屋、御臺樣がはりにて、派をふるはれし人の、かたヘぬけたりしが、はじめ、おやとひにて出し時、

「藝百色まで有し。」

と、奧中、となひなり[やぶちゃん注:「唱ひ成り」か。評判になり。]、殊の外、御意に入(いり)て、すらすら、出世し、老女にまで成しなり。「ばくち打の女房ほど拔目なきものはない」といふを、勝(すぐれ)し才人にて、何をみても、目の鞘が、はづれ、心が黑かりし故、ぬけ出(いで)しなるべし。

[やぶちゃん注:「御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ」家治の正室は閑院宮直仁親王第六王女倫子(ともこ 元文三(一七三八)年~明和八(一七七一)年)。寛延二(一七四九)年に江戸城浜御殿へ入り、宝暦三(一七五三)年に縁組披露、翌四年十二月一日(既に一七五四年)に江戸城西の丸へ入り、婚礼の式を挙げた。宝暦六年に家治との間に長女千代姫を産んだが、姫は二歳で夭折、宝暦一〇(一七六〇)年に江戸城本丸へ移り、御台所となり、九月に家治が征夷大将軍を拝命した。翌十一年には次女万寿姫を出産するも、家治が側室出生の子も御台所の御養としたため、側室お知保の方(蓮光院)が生んだ世子徳川家基(幼名竹千代。第十一代将軍として期待されたが、満十六歳で鷹狩の帰りに急死した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながら、将軍の位に就けなかったため、「幻の第十一代将軍」とも呼ばれる)の養母となった。御台所となってから、十一年後に三十四歳で逝去している。その後、家治の側室お品の方(養蓮院)が次男貞次郎を生んだが、生後四ヶ月で早逝してしまい、家治は天明元(一七八一)年、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の長男豊千代(後の第十一代将軍徳川家斉)を自分の養子とした。こうした不幸の連続の中で大奥の勢力図が大きく変化したことが素人目にも判り、真葛の言うように、この混乱の中、権謀術数を以って「玉澤」は、大奥に於ける事実上の権力者たる御年寄女中にまでのし上がったのである。

「大納言樣」權大納言であった家治のこと。]

 其お部屋御内證樣とて、上分にならせられし時、年中御規式を玉澤が一了簡にて書出(かきいだ)せしが、いづかたにても[やぶちゃん注:底本は「「いづだにも」。「日本庶民生活史料集成」版で訂した。]、點のうち手なかりしとぞ。是等が、表立て、名の上りし始なり。玉澤といへば、老中も、心をおき、とぶ鳥もおつるほどの派きゝと成し故、藤九郞樣も御下故、めいぼく[やぶちゃん注:「面目」の別読み。]をほどこし、昔の恩は百倍にかへされしなり。一生、夫婦寢もならぬ人の所へ、玉澤に引をもとめたきばかりに、三千石とりの旗本衆より、娘を出(いだ)してこされなどして、すさまじきいきおひにて有しなり。

 ワ十一ばかりの時[やぶちゃん注:安永二(一七七三)年前後。]、御本丸へ御普請出來、御内證樣御うつり前、西の丸にいらせられしに、お狂言拜見に上りしこと有し。玉澤樣はかゝりにて、萬事御世話被ㇾ成て有し。髮の結直しなど、壱人にて被ㇾ成しよし。あくる朝、よべの召物、かさねしまゝにて有しを見しに、上は、紫ちりめん、芭蕉に雪ふゞきのかたぬき模樣、相(あはせ)は、紅の紋ちりめん白無垢に、帶は、黑じゆすの縫有[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]にて有しが、みな、油だらけに成て、袖口などは黑ぬりのやうで有し。

「おすたりなり。」

と部屋の者、いひし。昔の姿にくらべては、けしからぬことなり。

[やぶちゃん注:この最後の部分、よく意味が判らない。なお、ここで言う「御内證樣」は、倫子の死(明和八(一七七一)年)後に御部屋様となったお知保の方のこと。]

 其年より五年ばかり過て、御やど下りの時、藤九郞樣への土產に、なぐさみのため、御殿の藝者どもをつれて御下り、素人狂言してみせられしこと有し。宿下りの入用二百兩ばかりかゝりしよしなり。父樣にも、

「何ぞ、御目にかけん。」

とて、かの女力持[やぶちゃん注:「むかしばなし (41)」参照。]をつれて、いらせられし。一日の賃五兩にてやとわれしを、あのかたにて、金、相わたされし時、

「『殘金五兩、たしかに、うけとりし。』と、文之助、こたへしは、『やとひ賃のたけを、人にしらさじ。』と、心はたらかせしこたへなり。」

と被ㇾ仰し。玉澤にも、殊の外、珍らしがられて、

「見世物にでぬ先にしらば、御覽にもいるべかりしを、おしきこと。」

と、いはれしとぞ。此頃が、この人の榮の極にて有しなり。自由のきくにまかせて、表のことまでも、玉澤、加判せられし故、白河樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世、おもき御とがめをうけて、老女役御免、平人お袖と成て、御内證樣、御大病、是かぎりの時なりし故、御看病を申上て有しと聞し。

[やぶちゃん注:お知保の方は寛政三(一七九一)年三月八日に五十五歳で死去した。なお、蓮光院となった彼女は三十七年後の文政一一(一八二八)年に従三位を追贈されている。御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(当該ウィキに拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻二上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。とんでもなく長いので、段落を成形した(それだけ、実は彼女のことが馬琴には気に掛かっていたことの証左である)。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点に代えた。書簡の引用部であることが判るように、当該部はダッシュで挟んだ。なお、表記は底本を忠実に再現してあり、歴史的仮名遣の誤りはママである。但し、吉川弘文館随筆大成版と校合し、明らかな底本の誤りと認めたものは、特に注して改めてある。主人公、只野真葛、本名工藤綾子(あや子・あや)については、私のブログ・カテゴリ「只野真葛」の、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を見られたい。本篇に筆者である滝沢馬琴との関係も記してある。馬琴は「老女(おうな)」と呼んでいるが、この「兎園会」発会当時(文政八年十月一日(一八二七年十一月十九日))、真葛は実は既に白玉楼中の人となっていた。馬琴はそれを知らずにこれを書いているのである。但し、終りの方に翌文政九年に書き添えた頭書に、それを知ったことが記されてある(年は誤り)。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、この文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に仙台で没した。享年数え六十五(私と同じ)であった。因みに馬琴瀧澤解は明和四(一七六七)年六月九日生まれで真葛より数えで五つ年下であるから、「老女」とするに違和感はない。

 

   ○眞葛(まくづ)の老女(おうな)

 眞葛は才女なり。江戶の人、工藤氏(くどううぢ)、名を綾子(あやこ)といふ。性(せい)、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、瀧本樣の手跡さへ、拙か(つたな)からず。

[やぶちゃん注:「瀧本樣」書道の「瀧本流」。江戸前期の石清水八幡宮別当であった滝本坊昭乗(「寛永の三筆」の一人)が始めた書道の一流派。「松花堂流」「式部卿流」とも呼ぶ。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 父は仙臺の俗醫士工藤【本姓源氏。】平助、諱(いみな)は平(たひら)、母は菅原氏とぞ聞えし。先祖は別所黨(べつしよたう)にて、播磨の野口の城主、長井四郞左衛門より出でたり【長井の族を、加古右京といふ。幷に「太閤傳」天正七・三木合戰の條にみえたり。】。その子孫、零落して、攝津の大坂に、をり、數世の後、長井大庵(たいあん)に至れり。是れ、則ち眞葛の祖(おほぢ)、平助の父なり。大庵は醫をもて、業(わざ)としたりしかば、江戶に到りて、紀州公に仕へまつりぬ。男子(をのこ)三人まで有けるに、只、武藝をのみ、學ばせて、子ありとだにも、聞えあげざりしかば、ある時、公、ちかく侍らして、

「汝が齡(よわい)、既に四十(よそぢ)にあまりたらんに、子ども兩三人ありと聞きぬ。などて、家督を願ひ申さぬぞ。」

と問はせたまひしかば、大庵は、あと、さがり、額つく程に、はふり落ちんとせし涙を、拭ひて答へ申すやう、

「いと有りがたきまで、忝(かたじけな)き御意(ぎよい)を蒙ふり奉りし事、身にあまりて覺え候へども、かねて申しあげし如く、先祖は一城の主(ぬし)で候ひしに、たつきの爲に、かく、長袖(ながそで)になりたるだにも、口をしく候ものを、子どもをすら、親の如くにし候はんは、先祖へ、めいぼく[やぶちゃん注:ママ。]なく思ひ候へば、不肖の某(それがし)一代のみ、めし仕はせ給へかし。子どもは、よしや、浪々の飢えに臨み候ふとも、武士にせまほしくこそ候へ。」

と、まうしゝかば、公、感じ思し召して、

「さらば、方伎(ほうぎ)は大庵一代たるべし。」

と仰せ出だされて、跡をば、武士になされたり。

[やぶちゃん注:「別所黨」別所氏。播磨の戦国大名を輩出した氏族で、播磨の守護大名であった赤松氏の庶流で、播磨国美嚢(みのう)郡三木(現在の兵庫県三木市上の丸町)にあった三木城(グーグル・マップ・データ)を本拠とした。

「公」紀州藩第六代藩主徳川宗直と思われる。]

 これにより、その長男は長井四郞右衛門と名のりたり。澁川流の「柔術(やはら)とり」にて、師の允可(いんか)を得たれども、生涯、事にあはざりければ、名をしらるゝよしも、なかりき。

 次を長井善助といひけり。こは「さし箭(や)」の射手にて、いさゝか、世に知られたり。この同胞は紀州に仕へ奉りぬ。平助は三男なるをもて、

「さのみは。」

とて、仙臺候の醫師工藤某に贅(ぜい)して、そが養嗣(やうし)にぞしたりける。されば亦、平助も實父の志をうけ嗣ぎて、圓頂(ゑんちやう)長袖の身たらん事をば、羞ぢしかば、侯に願ひ奉りて、俗體にて有けれども、衛生の術には、おろかならず。思ひを蘭學にひそめて、發明する所も多かりしにぞ、その名も粗(ほゞ)聞えたりける。

 かくて、平助が子ども、數人(すにん)あり。

 長女は綾子、所謂、眞葛、是れなり。

[やぶちゃん注:工藤家のこの兄弟姉妹には、後に出る通り、真葛が、草花の雅名をつけて呼んだ。綾子自身は「葛」であった。]

 次を工藤太郞といひて、才子なりと聞えしに、父に先だちて、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:長男長庵元保(幼名は安太郎。「藤袴」。綾子の二歳下。二十二で早逝。]

 その次は女子(めのこ)、又、其次も女子也。これらも、よすがもとめて、後(のち)、いく程もなく、世を、はやうしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:二女しづ子。「朝顔」。雨森家に嫁した。三女つね子。「女郎花」。加瀬家に嫁した。二人とも婚姻後、二十代半ばで亡くなっている。]

 その次を工藤源四郞元輔(もとすけ)とぞ、いひし。和漢の才子にて、詩をよくし、歌をさへよみけるに、方伎(ほうぎ)も亦、庸(よのつね)ならず。惜しくは、短命にして、子のなかりしかば、はつかに名跡(みやうせき)の遺(のこ)れりといふ。

[やぶちゃん注:工藤源四郎鞏卿(きょうけい)元輔。幼名は四郎。「尾花」。平助が将来を託した子であったが、文化四(一八〇七)年、医業の過労により、病没した。その経緯は「只野真葛 むかしばなし (5)」の私の注で詳しく書いた。綾子より十一年下。「方伎」の陰陽道の占法を以って吉凶災福を察知し、これに処するための呪術作法を行うこと。所謂、本邦で変形して発展した陰陽術(おんみょうじゅつ)である。]

 その次は、女子にて、名を「栲(たへ)」といひけり。こは越前の姬うへに、年來(としごろ)、みやづかへまつりしに、姬上(ひめうへ)、なくなり玉ひしかば、比丘尼になりて、瑞祥院と法號せり。今なほ、鐵砲洲の邸内にあるべし。

[やぶちゃん注:四女拷子(たえこ 生没年未詳)。「萩」。彼女は結婚せず、文化九(一八一二)年に剃髪し、「萩尼」と号した。真葛の頼みで、馬琴へ直接に真葛の諸原稿を齎した人物である。]

 又、その次も女子なりしを、ある醫師に妻(めあは)せられしが、こも亦、はやく身まかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:五女照子。「撫子」。仙台の中目家に嫁した。あや子より二十三歳下。現在、電子化注を進行中の「むかしばなし」は、年の離れた末っ子の彼女が、自家の思い出が数少ないことを嘆いたため、真葛がそれらを祖父母の代まで遡って、自身に記憶に基いて語る形で書き始められたものである。]

 この同胞(はらから)、七(なゝ)たり。

 才も貌(かたち)も、とりどりなりけるそが中に、乙(おと)の子[やぶちゃん注:ここは源四郎。]の、みやけの御まへに、給事(みやづかへ)にとて、まゐれるとき[やぶちゃん注:父の伝手で仙台藩御近習となった。後、父と同じく藩医となった。]、兄の元輔が、後(のち)のおこたりをいましめて、

「よく勤めよかし。ふた親のめぐみをおもふに、雨露(うろ)のごとく、ひとしきを、うけたる身の、心々(こころこころ)にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たり。」

とて、

  おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり

と、よみて、とらせたりしを、後(のち)に、綾子の、傳へ聞きて、

「よくも、いさめたるものかな。さらば、その七草(なゝくさ)の花にたとへんに、『藤ばかま』は、かぐはしといへば、太郞よ。その次なる女、かほ、よければ、『朝がほ』。その次は『をみなヘし』。『をばな』は、そこにこそ、をはさめ。越の御まへなるは『萩』、乙子(おとこ)は『なでしこ』となるべし。『葛ばな』は、めづるばかりのものならねども、葉のひろければ、はらからを、さしおほふ子の上にしも、似つかはしかるべくや。」

と定めたりしより、物には、綾子を「眞葛」と唱へ、拷は「萩」と唱へ、祝髮(しゆくはつ)の後(のち)は「萩(はぎ)の尼(あま)」ともしるしたり。

 かゝる、めでたき同飽(はらから)なりしに、五人は、命、長からで、文化の末(すゑ)には、眞葛と、萩の尼【瑞祥院。】のみぞ、のこりたりける。

 そが中に、眞葛は、いと、をさなかりしころより、異(こと)なる志(こゝろざし)ありけり。

 明和壬辰の大火の比、

「物のあたひの、にはかに、勝(のぼ)りて、賤しきものは、いよゝ窮する。」

と傳へ聞きて、ひとり、つらくおもふやう、

「いかなれば、商人(あきうど)の心ばかり鬼々(おにおに)しきものにはある。あはれ、民の父母たる身にしあらば、かく淺ましきことはあらせじを、悔しくも、女に生れたることよ。」

とは、歎きたり。

[やぶちゃん注:「明和壬辰の大火」「明暦の大火」・「文化の大火」とともに江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生した大火。目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。当該ウィキによれば、この二十九日午後一時頃に『目黒の大円寺から出火した炎は』、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、午後六『時頃に本郷から再出火』し、『駒込、根岸を焼いた』三十日の『昼頃には鎮火したかに見えたが』、三月一日の午前十時頃、『馬喰町付近から』、またしても『再出火』し、『東に燃え広がって』、『日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は』九百三十四町、『大名屋敷は』百六十九邸、『橋は』百七十本、『寺は』三百八十二寺を『数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した』。『死者は』一万四千七百人、『行方不明者は』四千人を『超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼し』ている。なお、大事なことは、この時、真葛は未だ数え九歳だったことである。]

 これよりの後、

『われは、必ず、女の本(ほん)になるべし。』

と、おもひおこしつゝ、とにかくに、身をつゝしみ、己(おのれ)をうやうやしうすることは、さらなり、

「女子(をなご)は、おもてこそ、肝要なれ。」

とて、愛敬づきたらんやうにも、しつ。又、「から文」を讀ままくほりせしに、父、いたく禁(とゞ)めて、

「女子(をなご)の博士(はかせ)ぶりたらんは、わろし。草紙のみ見よ。」

と、いはれしかば、「源氏物語」・「伊勢物語」などを、常に枕の友としつゝ、年十六の時、はじめて、和文(わぶん)といふものを、一(ひと)ひらばかり綴りたりしに、父の平助、これを、村田春海に見せしかば、いたくめで、よろこびて、

「その師、なくて、かくまで綴れるは、才女(さいぢよ)なり。」

と、いひしとぞ。

[やぶちゃん注:「村田春海」(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。真葛の母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)が優れた古典研究家で、彼女の書いた「宇津保物語考」を非常に高く評価したのがこの村田であり、真葛の父平助とも親しかった。因みに、「宇津保物語考」に於ける年立ての研究は、同作の本格的・先駆的考証作品であり、それは昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに収載されるほどに、現在のレベルでも学術的価値の高い論考であった。また、その中でやよ子が作成した系図は、本邦の国文学研究に於いて複雑な人間関係を見事に図示した最初のものとさえ言われているのである。真葛にはそうした血が流れていたのである。詳しくは、「只野真葛 むかしばなし (6)」の「桑原ばゞ樣」の私の注を参照されたい。]

 みづからは、只、「伊勢物語」を師として綴りてけるに、譽められしことの、けやけきに恥ぢて、このゝちは、親にすら、見せざりしかど、

『猶ほ、よくせん。』

と、おもひたり。

 手跡は、叔父なりける人、瀧本樣(やう)の能書なりければ、その手を學びて、大かたは極めたれども、五十(いそぢ)ちかきころ、右の腕(かひな)の痛む疾(やまひ)おこりしより、物かくことも、わかき時には劣り、目もかすむこと、常になりたれば、細書(さいしよ)の草紙は得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て漢字。以下でも、多数、出現する。]よまずといへり。いづれも、いづれも、「女の本(ほん)にならん」とほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ、

『人のうへに就きて、心のゆく所を考へ果さばや。』

と、おもふ心も、つきにけり。

 かくて、弟元輔に、四書の講釋といふことをせさせて、只、一とたび、問くことを得たり。これにより、

『孔子・聖人(ひじり)[やぶちゃん注:この読みは吉川弘文館随筆大成版で補った。]の敎へは、すべて、かゝるすぢにこそ。』

と、聊かたのもしく思ひたり。

 佛のをしへも、よくはしらねど、

『念ずれば、必、利益(りやく)あり。』

と思ひとりて、年來(としごろ)、觀音と不動を信じ奉りけり。

 是より先に、とし十六、七なりし頃、仙臺候の御まへに、みやつかへにのぼせられし折り、

『みやづかへは、「獨り勤めなり。」と思ふこそ、よけれ。いくたりの同役ありとても、「勤むることは、われ、一人なり。」とおもはゞ、うしろ、やすかりけん。』

と覺期(かくご)せしかば、傍輩(はうばい)にも、憎まれず、人のおこたりを咎むる心も、なくして、果して、後(のち)やすかりし、といへり。

 又、をさなかりしころ、奴婢(ぬひ)の秘事(みそかごと)をするが、ものゝいひざまと、けしきとに、しらるゝをうち見て、

『あな、おろかにも、立ちふるまふものかな。「人にしらせじ。」と思ふことを、なかなかに、「人、しれかし。」と、いはぬばかりなるは、いかにぞや。かく淺はかなる心もて、しのびあふものどもの、後々まで、いかでか、遂げん。慾にまよふものゝ心ばかりおろかなるはなかりき。』

と、おもふ程に、果して、その事、顯(あらは)れて、追れしものゝありし、とぞ。

 かくて、給事(みやづかへ)の身のいとまを給はりて、宿所にまかりし比(ころ)、母のなくなりしかば、猶をさなかりし妹(いもと)どもの「うしろ見」をも、しつ、内(うち)治むることをさへ、うち任するものゝなかりしにより、三十(みそぢ)を、なかば過ぐるまで、人妻(ひとつま)とも得(え)ならでありしに、

「同胞(はらから)のうち、いづれまれ、國勝手(くにかつて)なる人の妻とせば、元輔が爲に、よろしかるべし。」

と、父の、年來(としごろ)いひつれども、「われ、仙臺へ赴かん。」といふものは、なかりしを、眞葛は、

「父の仰せには、もれ侍らじ。ともかくも、はからせ玉へ。」

といひしにぞ、父、よろこびて、あちこちと所緣(よすが[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では本文に『よづる』とある。この場合は「世蔓」か。])もとめつゝ、當時、勤番にて、江戶番頭なりし只野伊賀とて、祿千石を領する人の後妻(うはなり)に、えにし、定まりしかば、仙臺河内(かはち)支倉(はせくら)とて、仙城(せんじやう)の二の丸に程ちかき、只野氏(たゞのうぢ)の屋敷へ遣嫁(よめら)せられけり。

[やぶちゃん注:以上は真葛の事蹟を馬琴は極端に圧縮・省略(以下に示す初婚の事実は真葛が馬琴に送った文書類で馬琴は、知ってはいたが、哀れに思って意識的に書かなかった可能性が高い)してしまっている。その間の事蹟を当該ウィキから引く。かなり長くなるが、彼女の半生(本格的な著述に至るプレの部分としてのそれである)を知る上で甚だ重要である(五月蠅いとなら、ここの太字部分を無視すれば、本文の続きに飛べる)。十五『歳ころから縁談の話も出てきたが、祖母、父、母いずれも消極的であった。とくに母は、義母ゑんも実母やよ子も奥づとめの経験があったのに対し、みずからはその経験がなかったことに引け目を感じており、また、当時の結婚生活が女性には負担の大きいものであったことなどから早婚には反対で、あや子には奥女中奉公をすすめた。こうして』安永七(一七七八)年九月、十六歳で仙台藩上屋敷での奉公がはじまり、第七『代藩主伊達重村夫人近衛氏年子に仕えることとなった。彼女のこの時期の記録はほとんどのこっていないが、のちに、自分に朋輩はないものと考えて懸命に勤めたこと』、『また、町家から勤めにあがった者たちの話で、町人がいかに武家を憎んでいるかを知り、封建身分相互の間には埋めがたい対立のあることに気づいて驚愕したこと』『などを記している』。天明三(一七八三)年、『選ばれて重村の息女詮子(あきこ)の嫁ぎ先彦根藩井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、ときの権力者田沼意次であったという。これに前後して、父平助は』天明元(一七八一)年四月に「赤蝦夷風説考」『下巻を、天明』三『年には同上巻を含めてすべて完成させた。密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」を『老中田沼意次に提出した』。『これらの情報は、松前藩藩士前田玄丹』、『松前藩勘定奉行湊源左衛門、長崎通詞吉雄耕牛らより集めたもので』、翌天明四(一七八四)年には、『平助は江戸幕府勘定奉行松本秀持に対し』、「赤蝦夷風説考」の『内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これにより、父工藤平助は』、『いずれ』、『蝦夷奉行に抜擢され、幕府の直臣になるという噂が流れた』。天明二年或いは三年頃、『平助はあや子に対し、おまえは結婚適齢期』(当時は二十歳頃とされた)『ではあるが、自分はこの先どれだけ出世するかわからず、いま結婚すると』、『妹たちの方が高い家格の人との縁談にめぐまれることも出てくるので、いま少し辛抱して奥づとめを続けるようにと諭されたという』。『平助や松本秀持の努力の甲斐あって天明』五『年には』、『田沼政権のもと』、『蝦夷地調査隊が派遣された』。しかし、翌天明六年は、『工藤家にとって災難の重なった年であった。国元は前年からの凶作(天明の大飢饉)で藩財政は厳しさを増した』。二『月には』、『平助の後継者として育てられてきた上の弟長庵が、火災後の仮住まいにおいて』二十二『歳で没した。幼いころから利発で思慮深く、将来を嘱望されていたが、病弱であった』。八『月には』、十『代将軍徳川家治の逝去がきっかけとなり、平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた田沼意次が失脚し』、十『月、幕府は第』二『次蝦夷地調査の中止を決定した。これにより』、『平助が蝦夷奉行等として出世する見込みはまったくなくなった。田沼のライバル松平定信の政策は、蝦夷地を未開発の状態にとどめておくことがむしろ国防上』、『安全だという考えにもとづいていた』。『築地の工藤邸は天明』四『年に焼失してしまうが、その後、築地川向に借地して家を建てはじめた。しかし、世話する人に預けた金を使い込まれてしまい、普請は途中で頓挫した。そうした』中、天明七(一七八七)年の『倹約令の影響で景気も急速に冷え込んだため、家の新築は見通しが立たなくなった。こののち、日本橋浜町に住む幕府お抱えの医師木村養春が平助に同居を持ちかけたので、工藤一家はここに住むことになった』。二『月、あや子のよき相談相手であった祖母ゑんが浜町宅で死去し』、『同じ年の』七月十一日には、『詮子の夫井伊直冨が病のため』二十八『歳で急死した。最後の手当に呼ばれて調剤した薬を差し上げたのが平助だったため』、『家中での評判がわるくなり、あや子も剃髪した詮子の傍らで仕えるのが心苦しくなった』ことから、天明八(一七八八)年三月、「身を引くべき時来りぬと覚悟して」病気を理由に勤めを辞した。彼女の奉公は、仙台藩上屋敷]五『年、彦根藩上屋敷』五『年の計』十『年におよんだ』。『奥づとめを辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった。この家からは、しず子が津軽藩家臣雨森権市のもとに嫁している』。寛政元(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は平助より、かねて懇意としている磯田藤助が、藤助のいとこにあたる酒井家家臣と彼女との縁談を世話すると言っているので嫁に行けと言われ、あや子は父に従った』。二十七『歳になっていた』。しかし、『この結婚は惨憺たる結果であった。相手はかなりの老人であり、夫としてはじめて口にしたことばが「おれは高々五年ばかりも生きるなるべし。頼むはあとの事なり」だという。これが自分の一生を託す夫であり、自分ののこりの人生かと思うと情けなく、泣いてばかりいたあや子は結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それもあや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の「先は老年と聞が、其方も年取しこと」の言葉も彼女を傷つけた』。『離縁したあや子が数寄屋町に戻ったころより』、『次第に母が病いがちとなり、あや子は母になり代わって弟妹の世話をするようになった』。寛政二(一七九〇)年、三女つね子が加瀬氏に嫁いだ(つね子は』二十『歳代半ばで没している)。同年、雨森家へ嫁いで一子を産んでいた次女のしず子が病んで衰弱したのを知り、工藤家で治療のため』、『引き取ったところ、数日ののち』、『没してしまう出来事があった。あや子は、しず子の苦労続きの結婚生活を知り、雨森家の仕打ちに憤慨している』。寛政四(一七九二)年、三十歳の時、『母が亡くなった。末の照子はこのときまだ』七『歳であった。弟の源四郎は工藤家の家督を継ぐべく修行中の身であったが、あや子とは大人同士の会話を楽しめる』十九『歳の若者に成長していた』。『父からは漢学の学習を禁じられたあや子であったが、源四郎からは四書』『の手ほどきを受けている。年は離れていたが』二人は互いの『学識や向学心に敬意を払い』、ともに『理解しあえる仲のよい姉弟であった』。『また、地主の三島自寛とは、国学や歌文を共通の関心事として個人的な交流があり』、二『人はしばしば手紙をやり取りすることもあった』。寛政五(一七九三)年、『父工藤平助は弟子にあたる松前藩医米田元丹』『を通じて、ロシア使節アダム・ラクスマンの根室来航とともに帰国した大黒屋光太夫から』、『米田が直接聞いた光太夫の体験談やロシア情報などを知る機会を得た。こののち平助は』「工藤万幸聞書」として、『その情報をまとめた。父のかたわらにあった彼女は、これらの情報にふれたと思われる』寛政九年二月、『父工藤平助は医書』「救瘟袖暦」(きゅうおんんそでごよみ)『(のちに大槻玄沢による序が付せられた)を著し』、七『月には斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』十『代藩主伊達斉宗)が熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた』。寛政九年、三十五『歳のあや子は仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の只野行義』(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称が只野伊賀)『と再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村の世子松千代の守り役を』、一旦、『仰せつかったが』、寛政八年八月の『斉村の夭逝により』、『守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や』、『漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより平助は、源四郎元輔の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが』、『仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より』、『平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため』、『只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の身はいたづらに消えんとすらん

[やぶちゃん注:以上は漢字を恣意的に正字化した。]

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられていた』。一旦、『江戸に招き寄せ』ていた『家族も』、『急遽』、『仙台に帰して』おり、この時の『行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた。なお、のちに末妹の照子が仙台の中目家に嫁いでいる』。寛政九(一七九七)年九月十日、『あや子は仙台へ旅立った。このときの心境を、彼女は』二十『年後に振り返って』、

「友を捨て、父兄弟のわかれ、樂(たのしみ)をたちて、みちのくの旅におもむきたりし。かく、おもひたちしはじめより、『父に得し體にしあれば、いさぎよく、又、かえすぞ。』と思ひとりて、『三十五才を一期ぞ。』と、あきらめ、二度(ふたたび)歸らぬ旅立(たびだち)も、死出の道には增(まさ)りけりと、ことならず思ひ、此地にくだりて[やぶちゃん注:以下略。ここは独自に一九九四年国書刊行会刊の鈴木よね子校訂「只野真葛」の「独考(ひとりかんがへ)」の「独考巻の下抄録」を参考に恣意的に正字化して示した。]

『と述べており、悲壮な決意であったことを記している』。『また、結婚直後にあや子が行義にあてた手紙がのこっており、このなかで、くれぐれも工藤家への配慮を願っており、「これよりはいくひさしく御奉公申し上げ候」のことばも綴られている』、八『年後、あや子は父平助への思いを』、

 はしきやし君がみことをかゞふらば火にもを水にも入らんと思ひしを

『の歌で言い表しており、父のことばであれば』、『火中・水中に入ることも辞さなかったと詠っている』。『仙台行きには、夫只野行義は職務の都合により』、『同行できず、弟源四郎が付き添った。仙台只野家に到着したのは』九月二十二日で、『屋敷は仙台城二の丸近くの元支倉扇坂(現在の東北大学構内)にあった』。『只野家では』、『行義の老母、おば、きょうだい、息子たちがそろって待機しており、彼女と』、『にぎにぎしい対面を果たした』、『これ以後、あや子は終生』、『仙台で暮らすこととな』った。『行義には先妻とのあいだの男子』三人がおり、十四『歳の嗣子只野由治(のちの図書由章)、次男由吉(のちの真山杢左衛門)、三男由作(早世)であった。ほかに四男にあたる養子(のちの大條善太夫頼秀。行義の父只野義福の妾腹の子)がいた。行義は翌』寛政一〇(一七九八)年二月に『仙台に帰り』、翌寛政十一年には、『嗣子由治をともなって再び江戸に旅立った。このように、行義はその後も職務の性格上』、一『年おきに江戸と仙台を往復する生活を送った。行義が仙台に戻った際には、あや子に江戸のようすをこまごまと話してきかせた。行義はあや子の影響で和歌を詠むようになり、彼女もしだいに行義に対し』、『深い愛情をいだくようになった。また、仙台の屋敷にのこった子どもたちもよくなついた』寛政十年には、『桑原純と思われる叔父より』、『多数の書籍が贈られており、そのなかの賀茂真淵の著作』「ことばもゝくさ」に非常に『感銘を受けている』。『この頃より』、『あや子はいっそう熱を入れて本格的に国学関係の本を読むようになったと思われる』。同年『冬、あや子は宮城郡の塩竈神社に詣でており、紀行文として』「塩竈まうで」を『著している。これを江戸の父平助に送ったところ、村田春海に見せたという知らせが届き、あや子は』大いに『恥じ入っているが、春海より思いがけない称賛を受け、「そぞろにうれしき事かぎりなかりき」』(「独考」)『との感想をもらしている。また』、寛政十一年には、『結婚からこの年までの日記文』「みちのく日記」が完成を見ている、とある。

 人、或(ある)は、これを諫めしものゝありしに、眞葛、答へていはく、

「遠く仙臺へよめらせんと欲[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版によれば、『ほり』とひらがなで記されてある。]するは、これ、父のこゝろなり。又、遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ、子の心を、心として、親の情願(じやうぐわん)に背(そむ)くべき。われは、『三十六歲を一期(いちご)として、死したり。』と思へば、うれひもなく、うらみも、あらず。死して、すぐせ、わろくば、必、地獄の呵責を受くべく、且、親同胞(おやはらから)にあふに、よし、なかるべし。仙臺は、もとも厭(いと)はしき所なり。且、聲、だみて、むくつけきをとこに、かしづき、『詞(ことば)がたき』[やぶちゃん注:「和歌や文章について対等に語り合う相手」の意であろう。]もなき宿を、生涯、うちまもりたらんも、地獄の呵責には、ますこと、なからんや。」

と、いひしとぞ。

 さて。年ありて、父平助も身まかり、眞葛の良人(おつと)伊賀も世を去りて、前妻(もとつめ)の嫡子只野圖書(たゞのづしよ)の世となりにたり。

[やぶちゃん注:工藤平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日に享年六十七で病没した。真葛数え三十八の時であった。そして真葛五十歳の時、江戸詰となっていた夫只野行義が江戸で急死した。文化九(一八一二)年四月二十一日のことであった。]

 この家、いとかたくなゝる家則(かそく)多くて、傍らいたき事のみなれども、繼母(けいぼ)の事なれば、何事も得いはず、

『いとおろかなるわざかな。』

と思ひつゝ、そが、まにまにせずといふこと、なし。はじめ、

『女の本(ほん)にならん。』

と思ひしを、得果さず。をのこ・はらからの、世をば、はやくせしことのかなしくて、

『よしや、わが身、女[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では平仮名で『おうな』とある。]なりとも、人に異(こと)なる書(ふみ)を著はして、世にも知られ、乃祖(ないそ)[やぶちゃん注:祖父或いは先祖。]の名をも、顯はさばや。』

と思ふに、今の諸候の多くは、財主の爲に苦しめられながら、嬖妾(へいしやう)[やぶちゃん注:「愛妾」に同じ。]に費えを厭ひ玉はず。或は、職位(しよくゐ)を望みて、そがなかだちするものに、謀(はか)られ、あたら、黃金(こがね)を失ひ玉へることなどをはじめとして、經濟の可否を論ずること、數篇(すへん)、全書三卷を「獨考(ひとりかんがへ)」と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、眞葛五十五歲の著述とぞ聞えし。此他、「奧州ばなし」一卷、「磯づたひ」一卷あり。予が、こゝにしるしつけたるは、眞葛の、予が爲に書きておこせし「昔がたり」・「とはずがたり」・「秋七くさ」・「筆のはこび」などいふ草紙の意をうけて、畧記しつるものなり。

[やぶちゃん注:「奧州ばなし」「磯づたひ」は既にブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を完遂しており、それらの一括縦書PDF版も私の個人サイト「鬼火」内の電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」で、それぞれ、「奧州ばなし」及び「磯づたひ」として公開してある。

 以下は、底本でも改行してある。一つの切れめでもあるので、一行空けた。]

 

 予は、近き頃まで、眞葛をしらず、文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の春きさらぎ下旬、家の内のものどもの、年の始めのことほぎにとて、親族許(しんぞくがり)ゆきたりし日、齡(よはひ)五十(いそぢ)ばかりなる比丘尼の、從者(ずさ)ひとりいたるが、來て、おとなふ有けり。とりつぐものゝなき折なれど、うちも、おかれず、みづから出でて、

「いづこより來ませしぞ。」

と問ふに、比丘尼のいはく、

「尼は、牛込神樂坂(うしごみかぐらざか)なる田中長益(ちやうゑき)といふ醫師(いし)に由緣(ゆかり)あるものに侍り。主人(あるじ)に見參(けんざん)せまほし。」

と、いひつゝ、にじり上りたり。

 予は、文化のはじめより、客を謝し、帷(ゐ)を垂れて、常に人と交はらず、をちこちの騷客(そうかく)の、多(さは)に來訪せらるゝも、舊識(きうしき)の紹介(ひきつけ)なければ、病ひに托(たく)して、逢はざりしに、

『ついで、わろし。』[やぶちゃん注:「面会の次第が乱暴でよくないな」。]

と、思へども、せんかたのなきまゝに、

「いな、主人は出でゝ、今朝より、あらず。家の内の人ども、いつちヘか、ゆきたりけん、己(おのれ)は、しばし、留守するもの也。何事まれ、仰せおかれよ。歸らば、傳へまゐらせん。」

と、惟光(これみつ)がほに、答へたり。

[やぶちゃん注:面白い表現だ。ただ、考えて見れば、自身を光源氏に譬えているわけで、ちょっと憎い感じはする。]

 その時、比丘尼は、ふところより、一通の封狀と、「さかな代(だい)」と、しるしたる「こがね」一封(いつふう)と、「ふくさ」に包みたる草紙三(み)まきを、とり出でゝ、

「こは、みちのくの親しきものより、『あるじに、とゞけまゐらせよ。』とて、おこしたるなり。草紙は、『をんなの書きたるを、こゝの翁の筆削(ひつさく)をたのみ侍る。』とよ。猶、つぶさには、此消息(せうそこ)にこそ、あらめ。あまは、今宵、田中許(がり)止宿(ししゆく)し侍れば、翌(あす)のかへさに、又、とぶらひ侍りてん。『その折りに、一筆(ひとふで)なりとも、此かへしを賜はれ。』と傳へ給へかし。」

といふ。

 予、答へて、

「そは、こゝろ得て侍れども、主人は、年來(としごろ)、『筆とる技に倦(う)みつかれたれば。』とて、いづ方より、よざし玉ふも、かゝるものは、うけ引き侍らず。殊更、留守の宿(やど)なるに、あづかりおかば、叱られやせん。又、折りもこそあるべきに、こは、もてかヘらせ玉へかし。」[やぶちゃん注:「よざし」「よさす」は元は上代語で後世には「よざす」とも表記する。四段活用動詞「寄(よ)す」の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いたもので、「おまかせになる・ある事柄をある人に委任なさる」の意である。ここは、その「す」が使役の意に転じた用法で、二重敬語ではあるまい。]

と、いなむを、比丘尼は聽かずして、

「そは、宣(のたま)ふことながら、おん身の心ひとつもて、おしかへされんことには、あらじ。とまれ、かくまれ、あづかりて、たべ。翌の朝は、巳(み)の比[やぶちゃん注:午前十時頃。]に、またこそ、來(き)め。」

と、期(ご)をおして[やぶちゃん注:再来の刻限を定めて。]、いとまごひして、まかり出でにけり。

 予も亦、書齋に退(しりぞ)きて、まづ、その狀を、ひらきて見るに、いひおこしたる趣きは、比丘尼のいへるに同じけれども、ふみの書きざま、尊大にて、

――馬琴樣 みちのくの眞葛――

と、のみありて、宿所などは定かにしらせず、いぶかしきこと、限りもなければ、獨り、つらつら思ふやう、

『此(この)年來(としごろ)、貴人(あてびと)より、書を賜はりし事のあれども、かくまでに尊大なるは、いかなる人の妻やらん。仙臺侯の側室(そばめ)にて、「御部屋(おへや)」など、唱ふるもの歟。遙々と、よざしぬる草紙は、何を書きたるやらん。』

と、思へば、やがて繙(ひもと)きて見れば、經濟の可否を論じて「獨考」と名つけたる「ふみまき」の稿本(したがき)なり。

『その說どもの、よき、わろきは、とまれ、かくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。只、惜しむべきことは、眞(まこと)の道をしらざりける、不學不問の心を師として、ろ論じつけたるものなれば、傍らいたきこと、多かり。はじめより、玉工の手を經て、飽くまで磨かれなば、かの「連城(れんじやう)の價(あたひ)」におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾(たまぼこ)の、みちのくに埋(うづ)みぬることよ。』

と、おもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり。

[やぶちゃん注:「連城の價」「連城の璧(たま)」が一般的。秦の昭王が十五の城と交換したいと申し入れたという趙の恵文王の所蔵していた玉璧(ぎょくへき)。転じて「またとない宝物」の比喩。「和氏璧(かしのたま)」或いは単に「連城」とも。]

 さは、さりながら、人妻か、母か、もしらぬ一老婆(いつらうば)の、その宿所だに定かならねば、需(もとめ)に應ずべくもあらず。

『いでや、わが志を見しらして、その後に、ともかくもせんすべあれ。』

と、おもふになん、その夜、「かへし」をものするに、

――己(おのれ)は、いとはやくより、市(いち)にかくれて、婦幼童(をんなわらんべ)のもてあそびものとなるよしは、刀自(とじ)にもしられたるなるべし。さばれ、こたみ、よせられしおん作の『さうし』は、それらのすぢにはあらぬを、世の人の、われをしれるものと、異(こと)なる見どころあるにあらずば、江戶には、名だゝる儒者も、國學者も多かるに、己には、たのみ玉はじ。さるこゝろもて、せられなば、などて、いと尊大なる。大凡(およそ)、人にもの問ふには禮節あり。いにしへの人は、一字(いちじ)の師をだも、猶、おろかには、せざりき。もし、まことに問はん、とのみ、こゝろあらば、かくはあらじを、馬琴とだに、たゝへられしは、いかにぞや[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『馬琴とさへものせられしはいかにぞや』で、その方が腑に落ちる。]。曲亭も、馬琴も、予が戲號(げがう)なれど、戲作・狂詩・狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに、咎むべき事にはあらず。もし、實學正文(じつがくせいぶん)のうへをもて交はる友に、なほ『曲亭』とたゝへられ、『馬琴』といはるゝは、是、われをしらざるものに似たり。いかでか、予がこゝろに耻づること、なからんや。かゝれば、刀自も、よく、予をしり玉へるに、あらざるなめり。近頃、平賀源内が、儒學・蘭學のうへには『鳩溪(きうけい)』と號し、戲作には『風來山人』と稱し、淨瑠璃本の作あるには『福内鬼外(ふくうちきぐわい)』と、しるしけり。又、太田覃(おほたたん)[やぶちゃん注:底本では「覃」に「せん」とルビするが、誤りなので訂した。大田南畝の本名であるこれは訓読みして「ふかし」である。ただ、尊敬を示して音読みすることは普通に行われる。]は、儒學に「南畝」と稱し、狂詩に「寢惚先生(ねぼけせんせい[やぶちゃん注:ルビは「ね」がない。補った。])」と稱し、狂文・狂歌に「四方赤良(よもあから)」「四方山人(よもさんじん)」「巴人亭(はじんてい)」「杏花園(きやうくわゑん)」などもしるし、晚年には「蜀山人」と號したれども、戲作・淨瑠璃のうへならでは、「鳩溪(きうけい)」を「風來」とも「鬼外」とも稱するものなく、狂文・狂詩・狂歌のうへならで、「南畝」を「寐惚(ねぼけ)」とも、「四方」とも、「巴人亭」とも稱するものは、あらざりき。よしやその著(いちじる)きをのみ、呼びなれて、虛實の號を混ずるとも、眞(まこと)によくその人をしれるものは、こゝらに、心を用ふべき事歟。刀自は、よく予をしらず、予は、素より、刀自を知らず。男女(なんぢよ)、みづから、授け、受けざるは、「禮」也。刀自は人の妻歟、母歟。その宿所だも、つゝみ玉ふには、われ、答ふる所をしらず。こゝをもて、只、わが志(こゝろざし)を述べて、おどろかし奉るのみ。――

と、書きしるしつ。

 かくて、妻(め)のをんな[やぶちゃん注:馬琴の妻。]を呼びて、

「翌の朝、しかじかの比丘尼、來つべし。『主人は、けふも、未明(はやき)に出て、あらず。こは、きのふの「おんかへし」なり。』と告げて、わたせよ。」

といふに、こゝろ得て、しか、はからひつ。

 この後(のち)、二十日ばかりを經て、又、かの比丘尼より、御宰(おさい)めきたる使ひをもて[やぶちゃん注:「御宰」江戸時代に奥女中の供や、買い物などの雑用をした下男。但し、通常、その場合は「ごさい」と読む。]、

「みちのくよりの消息を屆け侍る。」

とて、おこしたるに、「栲(たへ)の尼」と、しるしたる添へふみも、ありけり。

 まづ、眞葛の狀をうちひらきて見るに、こたみは、いと、おしくだりて、文(ふみ)の書きざまの、ねもごろなりし。そが中に、

――よろづに、あはあはしき[やぶちゃん注:「淡淡しき」。いかにも軽薄で浮わついた。]をんなの、よそをだに得しらねば、今は『やもめ』にて、いとおよすげたる[やぶちゃん注:たいそう老けた感じの。]身にしあれど、『をとこに物いはんに、ねもごろぶりたらんも[やぶちゃん注:「いかにも心を込めて丁寧に記すのも」の意であろう。]、なかなかに、無禮(なめげ)なるべし。』と思ひとりしより、『禮(ゐや)なし』と見られにけん。露(つゆ)ばかりも、そなた樣をあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびを、たのみ奉ることやはある。この後(のち)とても、心づきなき事、多からんを、敎へられんとこそ、ねがひ侍れ。『こなたのうへを、しらせよ。』とあるに、いかで、つゝみ侍るべき。眞葛はしかじかなり。又、さきにわらはが消息(せうそこ)を、もてとぶらひ侍りしは、妹(いもと)にて、しかじか。――

と、その身のうへをも、妹『拷(たへ)の尼(あま)』の名どころをも、つぶさに書きしるして、別に「昔かたり」といふ草紙一巻(ひとまき)に、その先祖の事さへ、しるしつけて、みせられたり。

 又、その消息に、

――こゝには、『詞(ことば)がたき』もなく侍れば、只、あけくれに、物を考へ見かへすることの、癖となり、病ひともなり侍りたり。さて、思ふやう、何の爲に生(な)り出でつらん。女一人(をんなひとり)の心として、世界の人の苦(く)を助けまほしく思ふは、なしがたきことゝしりながら、只、この事を思ふが故に、日夜、やすき心もなくて苦しむぞ、無益(むゑき)なる。今は『やもめ』にもなりつるに、なげきをのこさん子とても、なし。息のかよはん限りは、この歎き、やむこと、あたはじ。長く生きてくるしまんより、息をとゞむるぞ、苦をやすむるの、すみやかなるべしと思ひて、ひたすら死なんことを願ひ侍りしに、時は秋のことなりき、曉(あかつき)がたの夢に、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、和歌の上句の後は、そのまま続いてしまっている。]

 秋の夜のながきためしを引く蔦(つた)の

といふ歌の上の、おのづから、ふと、聞えたるは、多年信じ奉る觀音菩薩の、しめさせ給ふと覺えて、夢ごゝろに忝(かたじけな)く、此下のつけやうにて、おのが一世の占(うら)とならん、とまで、しめさせ玉ふ、とおぼえて、いとうれしく、心、いと、あわたゞしきものから、世々に榮えんとこそ、いはめ、と思ふ程に、さめはて侍りき。

『四の句、いと、大事ぞ。』

と思ひつゝ、やゝ程(ほど)ありて、

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行(字下げはなし)であるが、同前。]

 たへぬかつらは

と、つけ侍りし。

[やぶちゃん注:「たへぬ」はママ。

 ここは底本でも改行で一字下げであるが、同前。]

 秋の夜のながぎためしにひく蔦のたへぬかつらは世々に榮えん

と、一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かく、たえず、物をのみ思ひ積みし故によりて、病者(びやうしや)となり侍りて、身もよはく、心もきえきへにのみ、なり增さりしは、不動尊を信じ奉りて後、漸(やうや)く、病も、うすくなり侍りしかども、今に、右の手のいたみて、筆取ること、心のまゝならず、眼(め)、くらくして、細書(さいしよ)をみること、あたはず。是は『老(おひ)の病ひ』とぞ覺え侍る。この近きわたりに、「岩不動」と申し奉るが、たゝせ玉ふ。年每(としごと)の五月廿八日には、このわたりなる幼童(わらんべ)どもの、集合(つど)ひて、御輿(みこし)をかき荷(にな)ひ、御旗(みはた)、あまた持ちて、遊ぶが如く、もて渡り侍り。我も赤色(あかいろ)なる御旗をたてまつりしを、御先(みさき)に持ちてわたりしかば、御心につかせ玉へるならめと、有がたく思ひ侍りしに、宵過ぎて、うすねふたきに[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『うすねむたきに』とあり、「薄眠たきに」(少し眠気がさしてきた頃)の意であることが判る。]、

『いざ、ねばや。』

と思ひて、端居(はしゐ)しながら、籠(かご)にこめたる螢(ほたる)の、やすげなくふるまふをまもりつゝ、何心(なにごゝろ)もなくてありしほどに、

[やぶちゃん注:底本でも改行一字下げ。但し、文は後に続く。]

 ひかりある 身こそくるしき思ひなれ

といふことの、耳にきかれて、めさむるこゝちもしは、

『此(この)御佛(みほとけ)の御しめしぞ。』

と、有りがたくて、

[やぶちゃん注:同前。]

 世にあらはれん時をまつ間(ま)は

と、又、下をつけそへ侍りし。

 此二歌(ふたうた)をちかくに、

『さらば、心にこめしことどもを、書きしるさばや。』

と思ひ立ちて、いと、おほけなき[やぶちゃん注:身のほど知らずな。身分不相応な。]ことどもを、いひ出だせるに侍るなる。書き果てて後に、

『誰(たれ)に「しらげ」をたのまばや。』[やぶちゃん注:「しらげ」「精(しら)げ」で「精(しら)ぐ 」(他動詞ガ行下二活用)で、精米するように、「磨きをかけて仕上げる・鍛えて一層良くする」の名詞形で、「校閲して貰ってブラッシュ・アップすること」を指す。]

と、久しう思ひ煩ひて侍りしに、

「かゝる人に見せよ。」

と、不動尊の御しめしありし故、

そなたに、ことよせ侍りしにこそ。おろそかならず、考を添へ給はらんなんど、ねんじ奉りぬ。今の此身は、譬へば、小蛇の(せうじや)の、物に包まれて、死にもやらず、生きもせず、むなしき思ひ、のこれるに、ひとし。

『君(きみ)、雨となり、風となりて、こゝろざしを、引きたすけ玉はらば、もし、天に顯はるゝことのありもや、せん。』

など、ありて、こたみは、瀧澤解(とく)大人(だいじん)先生樣御もとへ 綾子――

と、書かれたり。

 この長文(ながぶみ)を見る程に、おもはず淚は、はふり落ちて、あはれむこゝろになりにたり。

 名を諱(い)む事は、「からくに」の制度なるを、國學などのうへにては、ふかく、いむよしも、あらず。たとひ、今は、なべて忌むとても、戲號(げがう)を唱へらるゝには、はるかにまして、ほいに稱(かま)へり。但し、「大人先生」などたゝえられしのみ、當(あた)りがたきことなれば、「大人先生」のわけをしるして、かたく、とゞめたりけれども、猶、あやにくに[やぶちゃん注:予想以上に厳格で。馬琴先生、実は、また真葛に使って欲しかったわけね!]、用ひざりけり。こは、羹(あつもの)に懲りしものゝ、韲(あへもの)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『スノモノ』とルビする。「韲」は「膾」「鱠」に同義。]を吹くたぐひならまし。そもそも、この眞葛の刀自は、「おのこだましひ」あるものから、をさなきよりの癇症の凝り固まりしにもや、あらん。さばれ、心ざま、すなほにて、人わろからぬ性ならずば、予がいひつることゞもを、速かに諾(うべな)ひて、遠祖(とほつおや)の事をさヘ、しるして見することやは、せん。かゝる婦人のたのめる事を、猶、いなまんは、さすがにて、しかじかと、ことうけ、しつる。

 そのをりの、予がかへしに、

――「海(うみ)なす御心の廣からずば、木の枝に鼻をすらるゝ。」といひけん如き、予が言(こと)ぐさを、諾(うべな)ひ容(い)れて、しかじかとは聞え玉はじ。およそは、こたみの御消息にて、あし曳(びき)の山の井のかげさへみゆるこゝちし侍れば、淺くは思ひ侍らねど、『不動尊の示現(じげん)によりて』など聞え玉ふばかり、うけられね。そは、とまれ、かくもあれ。たのまれ奉りし一條は、よくも、わろくも、なし果て、おん笑ひにこそ、備(そな)ふべけれ。しかれども、生業(なりはひ)の爲めに、たのまれたる書きものゝ多かれば、今年の暮れまで、待たせたまへ――

など、しるして果て、妹の尼の添ふみを見るに、

――陸奥(みちのく)よりの消息(せうそこ)とゞけ奉る。さても、いぬる日、ふたゝびまで、とぶらひまつりしは、

『人づてに、な、せそ。みづからゆきて、しかじかと傳へよかし。』

と、みちのくより、いひおこせたりしにこそ。さるを、次のあしたにも、あはせ玉はぬにて、しか、侍りぬ。かの留守居(するゐ)の翁(おきな)こそ、こゝろにくけれ。かゝれば、奧のたより每に、尼がその消息をもてゆきて、とゞけまゐらするも要(えう)なし。此のちは、いつも使ひをもて、すべきに、「禮(ゐや)なし」とて、な咎めたまひそ。――

と、ゑんじたるふみの書きざまなれば、予は、何とも、そのことのいらへはせで、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、同じく文は下に続く。]

 ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるゝ君かも

と、よみてつかはしゝかば、後のたよりに、かへし、

[やぶちゃん注:同前。なお、「かへし」の行の下方インデントで以下の名前はあるが、改行した。]

                 萩の尼

 やぶしわかぬ君が心しはるならばわりことくさもかれずやあらまし

と、ありしに、又、予がかへし、

 ことくさを花とし見ればとゞめあへずきのふおしみしはるはものかは

と、よみて、つかはしけり。こは、卯月朔日のことにぞ有りける。

 この「萩の尼」瑞祥院も、多く得がたき才女(さいぢよ)にて、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、走り書き、うるはしくて、手すぢは姊(あね)の眞葛に似て、瀧本樣(やう)なるも、めでたし。

 程へて、予が「ことくさ」の歌をたゝヘて、

[やぶちゃん注:同前。]

 ことの葉のしげきいほりの下つまやふるえの萩をはなとなすらん

と、よみておこしたりき。[やぶちゃん注:この一首、吉川弘文館随筆大成版では、三句目が『下つゆや』である。]

 又、このとしの冬、萩の尼より、ものをつゝみておこしし服紗(ふくさ)を、あやまちて、火桶の中へとり落したりけるを、わびつゝ、かヘしつかはす、とて、

[やぶちゃん注:同前で、「解」の名の位置は先と同じ処理をした。以下、五月蠅いばかりなので、歌では、この注をしない。]

                   解

 こがれつゝわたしかねたる川舟(かはふね)のかぜのふくさにいとゞくるしき

と、いひしに、萩の尼のかへし、

  「やけふくさ」といふことを

と、はし書きして、

 よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戶にかへすこゝろは

と、ありし。こは予が遣はしたる、かへの服紗をかへせし折の事になん。

 是より先に、彌生のころ、眞葛のせうそこに、

――御生業(おんなりはひ)の爲めに、筆とらせ玉ふにて、いとまなきに、しばしば、わづらはし奉るを、『こゝろなし』とや、おもはれ侍りてん――

などありしに、「かへしす。」とて、よみてつかはしける、

 わが宿のはなさくころもみちのくの風のたよりはいとはざりけり

ほど經て、眞葛の、かへし、

 あやまたず君につげなんかへる雁かすみかくれにことつてしふみ

こは、その家の「おきて」あれば、予に消息(せうそこ)をおくれる事を、誰々(たれたれ)にもしらせずとか。嚮(さき)に聞きたることもあれば、歌の心も、しられたり。是より後、かねて書きつゞりたりし物をば、妹(いもと)の尼に淨書せしめ、又、予が爲に綴れるものをば、眞菖の、みづから淨書して、くさくさ[やぶちゃん注:底本は「くさしく」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]、おくりて見やられたり。

 この餘、その消息のはしにも、眞淵・春海(はるみ)・宣長・大平(おほひら)などを論ぜしあり。いと、けやけくおもほゆるを、「さのみは。」とて、しるしも、つくさず。

[やぶちゃん注:「大平」本居大平(もとおりおおひら 宝暦六(一七五六)年~天保四(一八三三)年)であろう。伊勢松坂生まれの国学者。旧姓は稲懸。十三歳の時に本居宣長の門に入り、「茂穂」と称した。宣長に愛され、四十四歳で、その養子となり、宣長の死後、失明した宣長の子春庭(はるにわ)に代って、家を継ぎ、紀伊藩に仕えて国学を講じた。門人も多く、宣長の思想の普及に力を尽した。著書に「古学要」・「神楽歌新釈」・「万葉集合解」などがある。]

 かゝりし程に、このとしも、はや、霜月になりしかば、

――「獨考」のことは、忘れ玉はずや。かねての約束をたがへたもふな――

など、いひおこせること、しばしばなれども、

『今さらに、そのふみを引きなほさん事、易からず。もし、そのわろきを刈りとらば、殘らんことの葉、すくなかるべし。こは、此まゝにうちおきて、別に、諭(さと)すに、ますこと、あらじ。』

と、思ひにければ、原本は假名づかひのたがへると、眞名(まな)の寫しあやまれるに、いさゞか雌黃(しわう)を施して、別に「獨考論(どくこうろん)」二巻(ふたまき)を綴りたり。

 その言(こと)、露ばかりも謟(へつら)ひかざれる筆を、もてせず。その是非を、あげつらふに、敎訓を旨として、高慢の鼻をひしぎしにぞ。いと、おとなげなきに似たれど、

『かくいはで、かたほめせば、いよいよ、さとるよしなくて、にぶし、といふとも、予が斧(をの)をうけたる甲斐は、あらざるべし。人に信(まこと)をもてするに、怒りを怕(おそ)れて諫めざらんは、交遊の義にあらず。』

と、かねておもふによりて也。

[やぶちゃん注:「雌黄」元は硫化砒素からなる鉱物(黄色で半透明、樹脂光沢を持つ。鶏冠石に伴って産することが多く、有毒。雄黄(ゆうおう)に同じ)のこと。これを、昔、中国で、文字の抹消に用いたところから、「詩文を改竄・添削すること」を指す。]

 かくて、廿日ばかりにして、その書、やうやく成りしかば、みちのくへ、つかはすとき、

「いついつまでも、まじらひし事、うけたまはり度(たく)思ひ侍れど、をとこ・をみなの交りは、「かしらの雪を冬の花」と見あやまりつゝ、人もや、咎めん。且、わが生業(なりはひ)のいとまなきに、年來(としごろ)思ふよしもあれば、いとふるき友すら、疎(うと)くなり侍りたり。かゝれば、おん交はりも、是を限りとおぼし召されよ。」

など、いひ、つかはしゝに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて、「萩の尼」の屆けられたり。

 くだんの尼は、予が論の書きざまを譏(そし)れりと見て、うらみにけん。

 怒りは、筆に、あらはれにき。

 こは、あねにおとりて、むねせまき婦女子の氣質と、しられたり。

 眞葛は、さもあらずして、いと、いたく、よろこび、うけたる、消息のまめやかにて、――おんいとまなき冬の日に、書肆(ふみや)どものせめ奉る、春のまうけのわざをすら、よそにして、かう、ながながしきことを綴りて、敎へ導きたまはせし、御こゝろの程、あらはれて、限りもなき幸ひにこそ、侍れ。なほ、永き世に、此めぐみをかへし奉るべし――

と、書かれたり。

 このとき、越前の「御くにかみ」[やぶちゃん注:「御國紙」か。特産の特殊な和紙であろう。]とて、賣物には絕えてなき小形(こがた)の美の紙[やぶちゃん注:「みのがみ」。]十五帖と、おなじ國の「はさみ」、陸奥名とり川なる「うもれ木」の栞(しをり)、「もとあらの萩の筆」などを、贈られしにぞ、明けの春、きさらぎの頃、そのよろこびを、一筆(ひとふで)書きてつかはせしに、かしこのかへしは來(き)にたれど、久米路(くめぢ)の橋の、なか、絕えて、ふみ見ることは、なくなりぬ。

「いとかなし。」

とも、かなしかりしが、かく遠ざかりぬる事を「いかにぞや」と思ふ人の爲めには、いふもえうなきわざながら、

『彼(かの)同胞(はらから)は才女(さいぢよ)なり。齡(よはひ)は、かれも小動(こゆるぎ)のいそぢを過ぐる程なりとも、迭(たがひ)におもてをしらずして、親しく年をかさねなば、李(すもゝ)の下に冠(かむり)を正(たゞ)し、瓜の園(その)に履(くつ)をいるゝ人の疑なからずやは。且、彼家のぬしには、しらさで、みそかにす、といはるゝをしりつゝ、交るべくも、あらず。いと捨てがたき思ひありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならん。』

と、かねてより、おもひしなり。

 これよりの後、まどろまぬ曉(あかつき)每(ごと)に思ひ出で、そのあけの朝、消息(せうそこ)さへ、とり出だしつゝ見る每に、淚は、胸にみちしほの、ふかきなげきとなりにたり。

 この後(のち)、三(み)とせばかりの程は、

「『萩の尼』が御宰(おさい)をもて、予が家の『奇應丸(きわうぐわん)』を求めさせつる事、折々ありし。」[やぶちゃん注:息子の松前藩医員の興継が調合した市販薬であろう。]

と、むすめどもの、いひつるにて、

『扨は。予が安否のほどを、みちのくへ告げんとての、わざか。』

と思ふも、いと、はかなし。

 いかで、われ、眞葛の草子を刻本(ゑりまき)にして、世にあらはさんとは思へども、彼(か)の「獨考」は禁忌に觸るゝこと、多かり。まいて、予が「獨考論」などは、人に見すべきものには、あらず。されば、

「此二書は、そゞろに、な、人に貸(か)しそ。」

と、興繼をすら、いましめたり。

 又、「奧州ばなし」などいふものも、憚るべきこと、まじりたれば、刻本には、なしがたし。只、「磯づたひ」の一書のみ、その文の、特にすぐれて、且、めづらかなる說もあり。禁忌にふるゝことのなければ、

『是をこそ。』

と、おもふ物から、いまだ時の至らぬにや、書肆(ふみや)と謀(はか)るいとまなかりき。

 眞葛の齡(よはひ)を縷(かゞな)ふるに、予に、四つばかり[やぶちゃん注:数えでなければ正しい。]の姊(あね)なりければ、今もなほ、恙なくば、六十(むそぢ)あまり三ッにやならまし【眞葛は文政七年某の月日に、身まかりしとぞ。今玆三月、尾張の友人田鶴丸が、松島、見にゆきしをり、ことつけしに、眞葛と、うとからぬ仙臺の醫師にたつねしよしにて、はつかに、その訃聞えたる也。丙戌四月追記。[やぶちゃん注:冒頭注に記した通り、文政七年は誤り。真葛はこれが発表された十月一日から三ヵ月余り前の文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没していた。享年六十三であった。]】。

[やぶちゃん注:「かがなふ」は漢字は「僂」が正しい(吉川弘文館随筆大成版では正しくそうなっている)。これは、副詞「かがなべて(「日数を重ねて」の意)」を「指を折りかがめて数えて」の意に解したところから、「指折り数える」の意で用いられた。]

 おもふに、いぬる文化のはじめつかた[やぶちゃん注:「文化」は十五年まで。一八〇四年から一八一八年まで。]、尾張の某氏の後室が、「新潟」といふ草紙物語を書きつめて、予が筆削を乞ひけるも、かたく辭(いろ)ひて[やぶちゃん注:「いなびて」の誤り。吉川弘文館随筆大成版では、正しく『辞びて』とある]還(かへ)したり。又、近き頃、本鄕なる田中氏の女(むすめ)の、予が敎へを受けんと願ふこと、既に十年(とゝせ)に餘りぬと聞えしも、いなみて終(つい)にうけ引ざりき。まいて男子(をのこ)の予が、をしへ子たらんと請ひし人々は、かゞなふに遑(いとま)なきを、意見を述べ、推し禁(とゞ)めて、いづれも、需(もとめ)に應ぜざりけり。予が、人の師とならざるは、柳宗元に倣(なら)ふにあらねど、素より思ふよしあれば也。さるを、只、この眞葛の刀自のみ、婦女子には、いとにげなき經濟のうへを論ぜしは、紫女(しじょ)・清氏(せいし)にも立ちまさりて、「男だましひ」あるのみならず、世の人は、えぞしらぬ、予をよくしれるも、あやしからずや。されば、予が、陽に袪(しりぞ)けて、陰に愛(め)づるは、このゆゑのみ。かゝる世に稀なる刀自なるを、兎園社友(じやいう)にしらせんとて、いといひがたきことをすら、おしもつゝまで、しるすになん、秋も、はや、けふのみと、くれゆく窓の片あかり、風さへ、いとゞ身にしみて、火ともす程を、まつまゝに、かくなん、思ひつゝけける。

[やぶちゃん注:中唐の詩人柳宗元のもとに、韋中立という若者が入門を志願してきたのに対し、それを辞退することを述べた書簡「答韋中立論師道書」(韋中立に答へて師道を論ずる書)を指すものであろう。全文が載るわけではないが、松本肇氏の論文「韓柳友情論」PDF・一九八四年十二月発行『文藝言語研究 文藝篇』巻九所収)が非常に判り易い。そもそも柳宗元は当時としては稀れに見る強力な無神論者・唯物論者・合理主義者であり、「論語辯」では、「論語」が孔子の直弟子によって編纂されたものではないことをまことにクールに解析し、その中で「師」なるものは単なる一方的な尊崇のイメージがあるだけの仮想であるというようなことをさえ言っているように私は思う。私は高校一年の時に「江雪」を読んで以来、彼のファンである。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 うらみきと思ふもわびし眞葛葉(まくずは)に今もなごりのあきの夕風

 予は、例の、「ふみ屋」らにせめられて、かゝるもの、かくいとまなきを、そのいとまなき折に、いと長々しう書かんこそ、まことに書くにはあるべけれど、思ふも、老のしはみたるなり。瘤(こぶ)を見するに似て、われながら、いといと、をかし。されば、きのふ巳(み)[やぶちゃん注:午前十時。]のころに、はじめて筆を把(と)りしより、さて書くとかく程に、夜も、はや、二更の鐘[やぶちゃん注:午後十時或いは午後十一時頃。]を聞きつゝ、このはたひら[やぶちゃん注:原稿を指しているが、語源不明。]を綴り果てにき。もちろん[やぶちゃん注:底本「ん」なし。吉川弘文館随筆大成版で補った。]初藁 (しよかう)[やぶちゃん注:「稿」の異体字。]のまゝにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝(けさ)、はじめより、讀みかへして、纔(わづ)かに誤脫を補ふものから、拙きうへに、なほ拙きが、巧みにして、けふのまとゐの、間にあはぬには、ますらめと、みづから、ゆるすも嗚呼(おこ)なるべし【文政八年乙酉冬十月朔藁】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後に『愚山人解稿』とある。

 にしても、この、馬琴が事実を書いて、その中で馬琴自らが、真葛との文通の絶えた折りに、涙を流したことを、素直に記したこれは、馬琴が自身について書いたものの中でも、恐らくはとんでもない特異点であろう。電子化しながら、私も目頭が熱くなった。

 以下、例の底本編者の依田百川の評言。「兎園小説」には、無論、載らないのだが、真葛評が載るので電子化する。]

百川云、眞葛の父工藤平助といへえるは、世に名高き竒士(きし)林子平(りんしへい)が從弟(いとこ)なりとか聞しことあり[やぶちゃん注:こんな話は聴いたことがない。ガセネタであろう。]。さればこそ、この眞葛の老女も丈夫氣(ますらをぎ)あるならめ。余、「獨考」といふ書を一讀するに、當時、藩主が商人(あきんど)等(ら)の爲に、國財を管理せられて、己が自由に民政を行ふ事を得ざるを痛みたる論あり、又、婦人の爲に政事を紊(みだ)らるゝ事[やぶちゃん注:ママ。何となく言葉遣いと内容がおかしい気がする。]など擧げて、論ぜし處もありき。又、金銀寶貨(はうくわ)などは經濟の才ありといひつべし。曲亭は博學なれども、經濟の才に至りては、眞葛に及ばざる處もあらん。されば、多くの人と交りたれども、實に感服せしもの、少なきに、獨、この老女を推稱(すいしやう)して、口に容(い)れざる[やぶちゃん注:深く入り込んでは語ろうとしない。]如きをもて見れば、世に珍しき婦人なるべし。此傳と先に載せられたる蒲生の傳[やぶちゃん注:「兎園小説」正編の最終第十二集の掉尾に置かれた馬琴の「蒲の花かたみ」を指す。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる)の評伝。フライングされたい方は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」第一上のここから読める。]と、男女一雙の叙事の竒文(きぶん)なるかな。世に傑士・賢婦少なきにあらねども、竒文をもて傳ふるもの、稀れなり。かの二人の竒節(きせつ)をもて、曲𠅘の竒文を得て、これをしるす。實に古今の一大竒觀とすべし。

2021/10/14

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(のるうゑいの海のいはほに)

 

  

 

のるうゑいの海のいはほに

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はくもりて うすきなるに

またその貝殼をかみては食ふかきざめの姿をみたり

かくしてしだいにふぶきの空ともなりゆき

日本の都にもくらき雪をもてきたりしが

われは室内の讀書をやめず

よるもひなかも扉をひらかずして

しんみに烈しきなやみを抱きつめたり。

 

[やぶちゃん注:「うすき」は恐らく以下に示す原稿からは「薄黃」の意味であろうと思われる。別に私は表記を「うすぎ」だと主張する気は全くない。

「かきざめ」私は坂口安吾の「安吾の新日本地理 消え失せた沙漠――大島の巻――」(昭和二六(一九五一)年七月発行の『文藝春秋』初出。「青空文庫」のここで読める)以外では見かけたことがない名前のサメだが、そこで大島の魚屋が作者に見せて呉れたのは、『長さ一米ぐらいの怪魚「カキザメ」という私が見たことのない怪物』で、『サンショーウオを平たくしたような奴で、全身をマムシの斑紋の大きいようなのが覆い、陸上の動物には見られないトゲのような怖ろしい歯がゴシャゴシャ生えて』おり、『魚屋の土間に腹ばいになって人間を睨みつけて、物凄い口をあき、食い殺すぞという殺気マンマンたる形相を示し』ている奴で、『せいぜい一米ぐらい、一貫から三貫までぐらいの小さいサメだそうだが、こんな怖るべき形相の魚を見たのははじめてであった。肉はうまいということだ』とあったのを読んだ時には、私は大島というローケーションと、その細部描写から、幼少期から魚介類に興味のあった私は即座に「生きている化石」のそいつを思い出し、「ラブカだね」と呟いたのを覚えている。軟骨魚綱カグラザメ目ラブカ科ラブカ属ラブカ Chlamydoselachus anguineus である。詳しくは当該ウィキを見られたいが、さて、では、果して萩原朔太郎がラブカを知っていたかというと、かなり怪しい。見たことはないであろう(と言う私も長くホルマリン漬と剥製でしか見たことがなく、自然の深海で泳いでいる映像を見たのも、そう古くはない)が、話として知っていた可能性はある。適当に想像した架空の鮫の名前だとして注などする必要がないと言われればそれまでであるが、例えば、私の場合、ここで「かきざめ」=ラブカと直覚した場合、そのイメージは恐らく誰の脳内イメージよりも本詩篇は幻想化されて、すこぶる素敵に慄っとするのである。しかも言っておくと、ラブカの分布は甚だ広く、本邦では相模湾や駿河湾で比較的多く見られ、上記ウィキにはちゃんと、『東大西洋ではノルウェー北方』にも棲息が確認されているとあるのだから、博物学的にも現在の魚類学的にも萩原朔太郎の「かきざめ」が「ラブカ」であっても、何ら、不思議も矛盾もないのである、ということを言っておきかったのである。

「しんみ」「心身」。

 さて。底本では出所を『ノオト』とするのみであるが、これは筑摩版全集では、「未發表詩篇」の中に載る校訂本文に、相同と言っていいものがあり、さらにその未確定語を整序したものと思われる。原稿は削除が甚だしいので、特異的に同全集の校訂本文版を、まず示す。

 

 

 

のるうゑいの海のいはほに

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はくもりてうすぎなるに

またその貝殼をかみては喰ふかきざめの姿をみたり

かくしてしだいにふぶきの空ともなりゆき

日本の都にもくらき雪をもてきたりしが

われは室内の讀書をやめず

よるもひなかも扉をひらかずして

しんみに烈しき★なやみ//いたみ★を抱きつめたり

 

最終行の「★」「//」は私が附した。「なやみ」と「いたみ」は並置で、どちらもそのままで削除はされていないことを示す。「日本の都にもくらき雪をもてきたりしが」は原稿復元版を見て戴くと判るが、「日本の都にもくらき雪をもてきたしが」であり、校訂で消毒されてある。

 次に、以下、削除を含めたものを以下に復元する。脱字・誤字は総てママである。

 

 

 

扉(とびら)をあけてみた りかど

しぜのるうゑいの海岸では→から→を→になぎさにいはほに

とほいこなゆきふりつむ日に

やぶれた汽 笛の

氷りて こほりをやぶりて魚をつるひとびとあり

このうつむる額はくらく

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はひねもうすぐらくしてくもりてくらくうすあかきにぎなるに

またその貝殼をかみては喰ふくかいかきざめのきたる たぐあり姿をみたり

しだい 貝の生味はくらはれて

浪まを きりて すぐるくかしてしだいに冬はふゞきはきたりての空ともなりゆき

海をすぐる

ああかなたの沖をすぐる汽船の上に

たまたま水夫のさけべる群をきけ

この日本の都にもくらき雪をもてきたしが

ああわれは室内の讀書をやめず

よるもひなかも椅子にもたれ→疊にすわり→町にあゆまず扉をひらかずして

しんみに烈しきなやみをかんず うれい★なやみ//いたみ★を抱きつゝくらつめたり

 

最後の記号と意味は同前。

 さて。以上から、底本編者が別な原稿を見たとする可能性は少ないように思われる。当該人物が、或いは「うすき」と誤判読してしまい、「きたしが」を「きたりしが」と消毒していまい、「なやみ」を選んでしまったというのは、それほど突飛ではないようにも思われる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 器物 / 現在の習作草稿「器物」の失われた初稿或いは別稿

 

[やぶちゃん注:十行目の頭の「*」については、底本では本詩篇末に『編註 * このところ一字不明。』とある。先に示しておく。後掲する別稿を参考に考えるなら。「*」は「交互(かたみ)」である可能性は高いことにはなろう。「交互」を潰してしまい、そのよこに「かたみ」と雑に崩して繋げてルビした場合、それは奇体な難解な漢字にしか見えないからである。]

 

 器   物

 

戀人よ ありとあらゆる器(うつは)の吐息をきき給ヘ

たとへばそのリキユル・グラスのいとぞこに

絲のごとくひびのあり

そこより何事かうつたへんとするを

戀人よ 君の心につつましき

なくはいかにせむ みようつはあらましつめたれども

その心はげしき怒りにもえ

かれはすべてさびしくもだし

いとはるかなるところにありて

*より來れる友をまつなり

いま我が乎に捧げられ

また君がお指にふるるとき

このうつはは君の白き指にふれ またわが强き手に捧げらる時

つねにつねに

みよわが手に高く捧ぐるとき

もとより君がお指もてそのへりをなでるとき

このうつははかくもよろこび踊り

言葉なき嘆きを發す

そのさびしさにいぢらしくも白く光れるなり

戀人よ このあへかなる灯の下にして

今夜

わが君を思へることを語りなば

この盃は歡喜に破られ

かしこの甕はさけびて倒れ

葡萄酒のそそぎこぼれて

むざんに君が白き手を破らんことを怖る。

 

[やぶちゃん注:底本では『ノオト』とのみある。「リキユル・グラスのいとぞこ」老婆心乍ら、「いとぞこ」は「糸底」で、通常は陶磁器の底の部分、成形の際に糸で轆轤から切り取った底部を、また、広く一般の焼物の安定的に底座させるための部分を指す。私は何種かのワイン・グラスやリキュール・グラスを持っているが、グラス全部が完全に陶器製のものや、ステム(持ち手)からプレート(フット)までの下方が木製・陶製・金属製で、その上にガラス製のグラス上部のボウルが組み込みになっているものなどを持ってはいる。但し、ここは次行で「ひび」(罅)がプレートの部分に入っているのが光って見えるのでなくてはならぬから、やはりこのグラス、全体がガラスでなくては、絵にならない。されば、「いとぞこ」はガラス製のプレートの部分を意味することになる。

 さて、この詩篇、題名が同じで、前半部がしごくそっくりなものの、次第に変わった表現が付随・浸透している詩篇が筑摩版全集に存在する。「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」の「器物」である。以下に示す。濁点落ち・衍字(らしきもの)・脱字(らしきもの)はママ。

 

 器物

 

戀人よ

ありとあらゆる器物(うつは)の吐息をきゝたまヘ

たとへはそのリキュールグラスのいとぞこに

縷のごとくひびのあり

そこより何ごとか訴へんとはするとも

戀人よ

君の心につゝましき虔愁なくばいかにせむ

みよ器は槪觀(あらまし)つめたけれども

その内容(うちは)はつねに烈しき怒りにもゆ

かれはすべて寂しき慣れ

いとはるかなる處より交互(かたみ)に友を呼ばへり。

いま我が手に捧げられ

また君がお指にふるるとき

このうつははかくもよろこび踊り

しんに言葉なき嘆を發す

その白き嘆のいぢらしさに

空しきところのばんぶつ

さびしく淚をそゝぎてこのものを光らしむるなり、

しかれども

       戀びとよ

さあれ

[やぶちゃん注:「しかれども」と「さあれ」は並置。]

このあへかなる燈灯(ともしび)のもとにして

我が友がらを愛(め)づることをし語りいでなば

こゝの盃は歡喜に破られ

かしこに甕はさけびて倒れ狂ほしく𢌞りいで

ものみなむざんなるさけびをあぐるにより

我はいたく恐る

もしや素直なる家鳩の君が手を逃れ出でずやはと。

 

「虔愁」「けんしゆう(けんしゅう)」であろうが、見たことがない熟語である。敢えて言うなら「慎ましく内に秘めた愁い」であるが、前の形容と屋上屋で何か別な漢字の誤記のようにも読める。

 本底本の「器物」と比較した時、明らかにこの「習作集」版の方が複雑に細密に、神経症的になっており、詩篇としては「習作集」版が推敲形という気はする。にしても、どちらがいいかというと、私はリリシズムの流れから言えば、底本の方が好きだ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 中川喜雲京童の序の辯 謠曲中の小釋

 

[やぶちゃん注:本文に標題はない。以上は目次から採った。孰れも客篇で靑李庵のもの。]

 

乙酉初冬兎園    京    角鹿 桃窻

明曆四年[やぶちゃん注:一六五八年。]の卯[やぶちゃん注:四月。]、本、「京童」六卷は、中川喜雲の序ありて、其作なりと思ひしに、森許六が「歷代滑稽傳」に、『雛屋立圃は野々口氏なり。貞德門人にして、撰集、數多あり。畫を能くす。「京童」といふ名所記、自畫なり。立圃、發句あり。』とみえたり。しかれば、喜雲作にして、圖と發句は立圃なるにや。「京童」の序に、『そもそも、やつがれは、丹波の國馬路といふ村にそだち、牛の角もじさへしらず、無下に、かたくなゝり。』などあり。もとは丹波の人にして、京に住せしや、立圃門人なりしや、なほ、考ふべし。

乙酉十月兎園會   平安   角鹿 桃窻

[やぶちゃん注:「京童」(きやうわらべ:六巻六册)は京都名所案内記の嚆矢とされるもの。以上のように書かれてあるが、古田雅憲氏の論文「『京童』挿絵小考(その一)――巻一「誓願寺」と「和泉式部」――」(検索によりPDFでダウン・ロード可能)によれば、やはり『作者はのちに芸州浅野家に仕えた医師中川喜雲、俳諧や仮名草子をよくしたという。画者は野々口立圃説、吉田半兵衛説などあるが、その署名はなく、いまのところ不詳とすべきか』と記しておられる。

「中川喜雲」(寛永一三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)は仮名草子作者・俳諧師・医師。名は重治。山桜子と号する。父中川仁右衛門重定の出身は丹波の郷士で、一旦は仕官したが、松永貞徳や小堀遠州らと交わり、狂歌や俳諧をよくする風流人であった。喜雲もその影響を受け、若くして貞門に入った。貞徳没後は、その後継者安原貞室に近づき、同人撰「玉海集」には父重定は一句、喜雲は六句を入集している。早くに京都に出て、医師となった喜雲は、その医業による生活だけでは何か満ち足りず、それを俳諧や狂歌で、さらには名所記などの仮名草子制作で満たしていたのではなかろうか、と平凡社「世界大百科事典」にはあり、同事典でも「京童」の作者を彼とする。しかし、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の次に注した雛屋立圃の詳細な資料集成(本篇も引用されてある)に、複数の史料で――「京童」は『自画』(これは本文ともに雛屋立圃の作という意味にしかとれない――とする記載が認められる。

「雛屋立圃」(ひなやりゅうほ 文禄四(一五九五)年~ 寛文九(一六六九)年)は京都で活動した絵師で俳人。当該ウィキによれば、姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)。雛屋立圃は商売の屋号と俳号。『絵師としては狩野派に属する』。『先祖は地下侍といわれる。京都一条に生まれ、父の代に丹波国桑田郡木目村から京へ上り、雛人形を製造・販売していたため、雛屋を称す』。『松永貞徳に俳諧を学び、猪苗代兼与に連歌を、烏丸光広に和歌を学んでおり、また、尊朝流の書を能くしていた』。『絵画は狩野探幽あるいは俵屋宗達に学んだとも、また土佐派を学んだともいわれるが未詳である』。『特に土佐派を基調にしたうえ、宗達流の墨法を交えて立圃独自の俳諧趣味を加味した古典画題の作品、墨画、風俗画、俳画、奈良絵本などと多方面に画作を残した』。寛永八(一六三一)年に「誹諧口五十句魚鳥奥五十句草木」を』纏めて貞徳に認められ』、寛永十年には「誹諧発句集」を『上梓した。この作品は』「犬子集」と並ぶ、『貞門の句集として名高いものである。以降、多くの句集を出している。そしてまた』、寛永十三年には俳諧論書「はなひ草」『(「花火草」「嚔草」とも記す)を刊行しているが』、『これは、江戸時代初期の、史上初めて印刷公刊された俳諧の式目・作法の書』『として、俳諧および俳句の世界では極めて重要な位置付けにある』書とされる。万治四(一六六一)年には「源氏物語」の梗概を纏めた「十帖源氏」を『著し、作画している。なお、この頃の仮名草子の多くを立圃が書いたともいわれるが』、『詳細は未詳である。他に奈良絵本』「文正草子」・「俳諧絵巻」の『作画もしている。俳文や紀行文なども多く手がけたようで、後に江戸に下ったりする間に弟子を増やした。晩年は俳諧を』ものしつつ、『備後福山藩の水野家に仕えた。寛文』(一六六一年~一六七三年)『の頃に執筆』・『刊行した版本に』「休息歌仙」・「小町躍」が『あり、ほかにも多くの版本を手がけている』とある。

『森許六が「歷代滑稽傳」』蕉門の辛辣な俳論家でもあった森川許六が著した俳諧史。正徳五(一七一五)年刊。「滑稽」は「俳諧」の意。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書写本PDF)の6コマ目にこの記載がある。

『「京童」の序に……』』早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「京童」初版の第一冊PDF)の3コマ目左丁二行目下方から四行目で、その下りが確認出来る。

そもそも、やつがれは、丹波(たんば)の國、馬路(むまぢ)といふ村(むら)にそだち、牛(うし)の角(つの)もじさへ、しらず、無下(むげ)に、かたくなゝり。

とある。「馬路村」は旧京都府南桑田郡にあった村で、現在の亀岡市馬路町(うまじまち:グーグル・マップ・データ)に当たる。「牛の角もじ」は「牛の角文字」で、平仮名の「い」の字のことを指す。その字体が牛の角に似ているところにより、「徒然草」六十二段の「ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君は覺ゆる」の歌に由来する、判じ物の文字遊び言葉であるが、ここは「いろは」の「い」も知らぬ文盲であったという謂い。因みに、「ふたつもじ」は「こ」の字を、「すぐなもじ」は「し」の字を、牛の角文字「い」を挟んで並べると「こいし」(恋し)の意となるというのが言葉遊びである。「徒然草」の例は「ひ」の字を指すという説もあるが、江戸以降は、手習いの「いろは」文字の筆頭の「い」の字を当てるか、「恋し」の洒落として使われてきた経緯がある(「牛の角文字」は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

「芭蕉」の謠曲に、『近水樓臺先得月。向陽花木易爲春。』とす。『宋人蘇麟が作にして、「淸錄」に出でたり。』と、「孔雀樓筆記」に見ゆ。また、「三井寺」の謠曲に、『月は山かせぞしぐれに鳩の海』といへるは、宗祇の發句なるよし、「幽遠隨筆」に載せたり。

[やぶちゃん注:「芭蕉」小原隆夫氏のサイト内の『宝生流謡曲 「芭 蕉」』で解説と本曲のテクストが読める。以上は終盤のクセの地歌で(引用は「新潮日本古典集成」の「謡曲集 下」を参考にした)、

〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向へる花木(かぼく)は又 春に逢ふこと易きなる その理りもさまざまの げに目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(くる)風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺の軒(のき)の草 忍とすれど古へも 花は嵐の音(おと)にのみ 芭蕉葉(ばせうばの)の もろくも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變はらん

の頭の部分。参考した同書のこの部分の頭注に、『〈水辺の高楼はいちはやく月を見、南向きの花木はいちはやく春に逢って花咲く〉』として、以上の漢文を載せ、引用元を金春流に伝来する資料「断腸集之抜書」とする。

「蘇麟」(九六九年~一〇五二年頃)は北宋の詩人。専ら、この詩句の作者として知られるらしい。七絶で、

近水樓臺先得月

向陽花木易爲春

半生苦覓終如愿

柳暗花明見海津

が原詩。

「淸錄」不詳。

「孔雀樓筆記」儒者清田儋叟(せいた たんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年:名は絢。孔雀楼は号の一つ。京の儒者伊藤竜洲の三男。父の本姓清田氏を称した。長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた。青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ。寛延三(一七五〇)年三十一の時、福井藩に仕えたが、主として京に住んだ。当初は徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じた。以上は当該ウィキに拠った)の随筆。

「三井寺」同じく小原隆夫氏の『三井寺 (みいでら)』を見られたい。

「月は山かせぞしぐれに鳩の海」中間部の「上ゲ歌」の地歌、

〽月は山 風ぞ時雨(しぐれ)に鳰(にほ)の海 風ぞ時雨に鳰の海 波も粟津(あはづ)の森見えて 海越(うみご)しの 幽かに向ふ影なれど 月はますみの鏡山(かがみやま) 山田・矢走(やばせ)の渡し舟(ぶね)の よるは通ふ人なくとも 月の 誘はばおのづから 舟も こがれて出づらん 舟人もこがれ出づらん

の冒頭。但し、前掲書の頭注では、宗祇ではなく、『二条良基の『石山百韻』の発句』とある。

「幽遠隨筆」町人で国学者の入江昌喜(まさよし 享保七(一七二二)年~寛政一二(一八〇〇)年:大坂の商人で、隠居後、本格的に国学の研究をした。契沖に私淑し、歌人小沢蘆庵と親しかった。通称は榎並屋半次郎)の随筆。安永三(一七七四)年刊。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 阿比乃麻村の瘞錢

 

[やぶちゃん注:底本は、ここでは、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」巻第四下のここから載るものに拠った。段落を成形した。一部の読みを送り仮名で外に出し、それらの一部では吉川弘文館随筆大成版を参考にして挿入した。]

 

   ○阿比酒麻村(あひのまむら)の療錢(うづめぜに)

 松前領エサシの近鄕、アヒノマ村の民、立之助が母は、質樸慈善のものなり。人、綽號(あだな)して、「オカツテ婆々」と呼びぬ。はじめ、オカツテ村より嫁(か)し來れるをもつて也。又、立之助が妻の名を、「よす」と、いひけり。こも又、朴素寡欲のものとぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「松前領エサシの近鄕、アヒノマ村」北海道檜山郡江差町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、「アヒノマ」に相当するような地名を見出せない。

「オカツテ村」現在の江差追分漁港付近に五勝手(ごかって)地区(グーグル・マップ・データ)が存在し、旧村「五勝手村」の確認、国土地理院図によって、この地区を流れる川の名の「五勝手川」も確認出来た。]

 かくて、文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]、夏六月のころ、件(くだん)の「よす」は、

「畑(はた)を打たん。」

として、ひとり田野(のら)に出でたるに、この日、畑のめぐりなりける土手の下(もと)にて、思はず、古錢(こせん)を掘り出だしけり。勉めて掘りなば、いくばくも出づべかりしを、素より寡欲のものなれば、扨、おもふやう、

「われはこの錢の爲にとて、こゝへ來りつるにあらず。さるを、この爲に畑の稼(かせ)ぎを、おろかにすべきことかは。」

とて、鍬にかゝれば、取り、かゝらね共、求むるこゝろは、なかりけり。

 しかれども、とかくして、三貫文あまりの古錢を獲(え)たりしかば、そを簣(あじか)にうちいれて、宿所(しゆくしよ)へもて歸る程に、ちひさなる蛇の、わがしりに踉(つ)きて來るあり。

 はじめの程は、みかへりながら、追ひやらひたれども、猶、あやにくに來るを、こゝろともせで、わが門に及べるころ、蛇は見えずなりぬ。

 かくて、その黃昏(たそがれ)に、立之助も、よそよりかへり來にければ、「よす」は。

「しかじか。」

と告ぐるに、立之助は、よろこびて、

「その錢を、いかにしつる。」

と問ふ。

「かしき桶にいれたるを、蓋して、かしこにあり。」

と答ふ。

「いでや、われ、よく見ん。」

とて、納戶やうの處に至るに、その桶の上に、ちひさき蛇の蟠りて、をり。

「しやつ、憎し。などて、こゝへは、入りたるぞ。」

とて、きせるをもて、拂ひ落しつゝ、終(つひ)にうち殺して、背門(そと)へ棄てけり。

 其夜、立之助は、件の錢をかぞへ果てて、「よす」にいふやう、

「求めて掘らば、いくらも出づべき錢ならんには、畑は、うたでも、取るベき者を、等閑(なほざり)にしつるおろかさよ。翌(あす)は夙(つと)めて、しるべを、せよ。われ、ゆきて、あらん限り取りて、みすべきぞ。」

と罵りたり。

 かゞりし程に、立之助は、夜の明くるを待ちわびつゝ、未明(まだき)より、妻を先に立たして、きのふの處へ、ゆくゆく、掘れども、掘れども、錢は、ひとつも、出でざりければ、

「處まどひや、しけん。」

とて、いらちて、「よす」を罵(のゝし)れども、

「正(まさ)しく、こゝなり。」

といふに、きのふ掘りたる跡もあれば、『さなるべく』と思ひかへして、日ぐらし、掘りに掘りたれば、土手の据のみ、ほり崩しつゝ、一錢だにも得ることなくて、手を空しくして、かへりにけり。

 さばれ、きのふ、「よす」が獲たるは、めでたき古錢のみなれば、ヱサシ人の、傳へ聞きて、價(あたひ)よく買ひぬ、といふ。

 村民、時に批評していはく、

「『よす』が三貫の古錢を獲たるば、その寡欲なりけると、『オカツテ婆々』が、年來(としごろ)の慈善の陽報(やうはう)にてもあるべし。もし、『よす』にのみ任(まか)しおかば、錢は、猶、日々に出づべきを、立之助が貪婪(たんらん)なる、靈蛇さへ擊ち殺せしかば、出べき錢の、出ずなりぬ。いと惜むべきことなりき。」

と、いはぬもの、なかりける。

 『彼(か)の太山(たいざん)に貨(たから)あり。たからに、こゝろなきもの、これを得る。』と、「老子經」に見えたるすら、思ひ出でられて、ことわりにこそ聞えたれ。

 或ひはいふ、

「むかし、アヒノマのほとりに、數千貫(すせんくわん)の錢を埋(うづ)めたるものありしよし、故老の口碑に傳へたり。『よす』が掘出せしは、むかし人の埋めたる三千貫文のうちなるべし。」

と、いひしとぞ。三千貫といふよしは、いかなる故にかあらん。猶、たづぬべし。かゝるものを掘り出せば、私にものすることにはあらぬを、邊鄙村落(へんぴそんらく)の事なれば、領主へ訴(うた)へまうさゞりしかば、今玆(ことし)、やうやく、其の事、聞えて、老侯も、はじめて知ろしめされしとて、太田九吉といふ使ひをもて、家嚴(ちゝ)に告げさせ給ひしとき、家嚴のいはく、

「むかし、『前九年』・『後三年』など聞へたる奧の戰(たゝかひ)より、近世、天正のころまでも、落武者どものヱサシヘも野作地(のさち)へも、逃(のが)れたるが、多かるべし。かゝれば、そのともがらの、埋づめ置きたる錢にても、ありけんかし。恨むらくは、當時(そのかみ)、領主へ聞えあげざりしかば、その錢文(ぜんもん)をだも、見るに、よしなし。今も猶、その錢をもちたるものあらば、見まく欲(ほ)しきものにこそ候へ。」

と、まうしゝかば、老候、やがて、

「しかじか。」

と、松前へ傳へさせ給ひしとぞ。

「異日(いじつ)、もし、其錢を老候へまゐらするものあらば、家嚴にも、分かち賜ふべし。」

と仰せられたりとばかりにして、久しうなれども、今に何ともうけたまはらぬは、有れども、「無し。」と申して出ださゞる歟、實(まこと)になきにてもあるべし。

「唐の黃巢(くわうさう)が敗れて後、閩越(びんえつ)の深山中(しんざんちう)に、あまたの錢を埋(うづ)め置きしを、宋の時に至りて、樵夫(きこり)、ゆくりなく、その錢を得たり。只、多くして、一人の力にかなはず、次の日、

『又、取らん。』

とて、其處(そのところ)に至るに、巨蛇(きよじや)ありて、錢を見ず。樵夫、おそれて逃げかへりし、といふ事、所見あり。「宛委餘篇(えんいよへん)」なりしかと思へど、暗記せず。抄錄したりと覺ゆれば、他日、見出だすべし。」

と、家嚴、いへり。

 興繼、按ずるに、蝦夷は何にまれ、その寶とするものを、山野に埋(うづ)め藏(おさ)めて、妻子にも知らせず、そのもの、にはかに死する時は、子孫といふとも、是を取るに、よしなし。星霜(としつき)を經て後に、ゆくりなく、他人の爲に掘り出ださるゝことあり、といふ。アヒノマの古錢も、そのたぐひなるべし。又、蝦夷地なるオコシリにても、今より九年ばかりさきつころ【文化十四年歟。】、「古錢を掘り出だせし」といふ奇談あり。この他、オコシリには、異聞(いもん)も多かれど、おのれ、連日、持病の手腕(たなくび)、搖動(ようどう)して、筆を把(と)るに、自在ならず。かばかりの短篇だも、からくして、綴りたり。こゝに漏せることどもは、後の「兎園」にしるすべし。文政八年陽月朔琴嶺瀧澤興繼

[やぶちゃん注:「老候」当時の第九代松前藩藩主松前章広の父で、隠居した前第八代藩主松前道広。

「前九年」前九年の役(永承六(一〇五一) 年~康平五(一〇六二)年)。源頼義と子の義家による陸奥の俘囚長安倍氏の討伐戦。

「後三年」後三年の役(永保三(一〇八三)年~寛治元(一〇八七)年)。「前九年の役」の後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて、清原家衡・武衡を滅ぼした戦い。これよって清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年にヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦された。

「唐の黃巢が敗れて」「黄巣の乱」は八七五年から八八四年の唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流、四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は、八八〇年、長安に入って、国号を「大斉」(だいせい)とし、皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受け、泰山付近で敗死したが、この乱は唐朝滅亡の契機となった。

「閩越(びんえつ)」「閩」は福建省の、「越」は現在の浙江地方の古名。

「宋」北宋(九六〇年~一一二七年)。

「宛委餘篇(えんいよへん)」明の官僚で学者の王世貞が著した史書。同書が原拠かどうかは確認出来なかった。

「オコシリ」現在の奥尻島(グーグル・マップ・データ)。

「文化十四年」一八一七年。

「おのれ、連日、持病の手腕(たなくび)、搖動(ようどう)して、筆を把(と)るに、自在ならず。かばかりの短篇だも、からくして、綴りたり」

「文政八年陽月朔」一八二五年十月一日。「陽月」は陰暦十月の異称。陰が極まって陽を生じる月という。本「兎園会」(「兎園小説」第十集)発会の日附。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(わがよろこびは身うちより) /「上京當日」の幻の別稿か?

 

  

 

わがよろこびは身うちより

銀の小針をぬきすつる

いさみて行けば淺草や

鋪石路(しきいしみち)に落つる日は

灯(ともし)もゆるごとく烈しかり

橋の酒場の磨かれし

玻璃の扉ひらくとき

わが身につらき故鄕は

いまぞ消えさるごとくなり

ひとり酒場に眼を伏せて

君戀しやと唄ふなる

消え去るものを哀しみて

はるかに都へ來つれども

またも涙をせきあぐる

はるばる鳥のすぎ行ける

都の空は茜さす

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみで制作年を示さない。ただ、この詩篇、中間部の「ひとり酒場に眼を伏せて/君戀しやと唄ふなる/消え去るものを哀しみて/はるかに都へ來つれども/またも涙をせきあぐる」の五行を抜いて詰めると、「習作集第九巻」にある「上京當日」(添え題「都に來りて」)と、表記を問題にしないなら、ほぼ相同に近い。以下に示す。

 

 上京當日

      (都に來りて)

 

わがよろこびは身うちより

銀の小針をぬきすつる

いさみて行けば淺草や

舗石路に落つる日は

灯燃ゆる如く烈しかり

橋の酒場の磨かれし

玻璃の扉を開くとき

我身につらき故卿は

いまぞ消えさる如くなり

はるばる鳥のすぎ行ける

都の空は茜さし。

 

この前後の強い相似性から、本詩篇は「上京當日」の、既に原稿は失われた、初期形或いは別草稿或いは推敲形と考えてよい。さらに、この標題と添え題から、これは萩原朔太郎が成人して上京、長期に滞在したその時の印象を(恐らくは後に)詩篇に創り上げたものと推定される。その最初の長い上京は、朔太郎数え二十六歳の明治四四(一九一一)年一月二十九日に始まる東京放浪である(同年三月から四月中旬の間で前橋に帰った)。この後は翌明治四十五年二月十六日から七月二十五日であり、「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」の書写年代が大正二年九月から、ほぼ翌年十二月頃とされるのとは近いのであるが、仮に後者が実際の創作時期であるにしても、そのカルチャー・ショックの喜悦や、内的な故郷喪失の孤独感は前者の初期体験にこそ相応しい。]

2021/10/13

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 鶴の稻 供大人米考

 

   ○鶴の稻         輪  池

この稻は、十數年前に奧州白河領に、鶴のくはへ來て、おとしゝ稻穗なり。これをうゑて、種、とりて、こゝにも、つたはりしを、淺草、關氏の園中に、うゑて、みのりしなり。穗の長さ九寸ばかり、粟粒、凡、八十五、六、七。粒の長さ三分五厘、廣さ一分二厘ほどあり。或人の、「もち米なり。」といひしほどに、やがて、ねり、試みしが、至りて、淡味なり。「これは、朝鮮の種なるべし。」と、いひあへり。

平田篤胤曰、「藁、よはくて、用に堪へざれば、異國の產なる事、明かなり。」と、いへり。西敎寺曰、「鶴は、朝鮮より、わたる、と聞き及べり。さて、かくばかり大粒なる米をみし事は、あらず。もしは、「慈恩傳」にみえし『大人米』なるべきか。」と、いへり。按ずるに、「慈恩傳」にも、『大人米は、烏豆より、大なり。』と、みえたれば、いかゞあらん。高田與淸曰、「駿河國に『米官』といふあり。『いにしへ、異國より渡りし。』とて、烏喰豆よりも、大なる米を、神體とせり。これ、『大人米』なるべし。」と、いへり。

[やぶちゃん注:「西敎寺」不詳。

「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」。唐の釋慧立撰になる玄奘三蔵の伝記。

「大人米」以下の「大唐西域記」に出る「摩揭陀國」(マガダ国:紀元前四一三年から紀元前三九五年に、ガンジス川下流域(現在のビハール州附近と北ベンガル相当)に位置した国で、古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ(現在のパトナ))に於いて、上流階級が食し、僧侶らに特別に与えられた高級な米の一種らしい。後に出る「獨供國王及多聞大德。故號供大人米。」(獨り、國王及び多聞(たもん)・大德(だいとこ)に供さる。故に號づけて「供大人米(きやうだいじんまい)」といふ。)や「王及知法者預焉。」(王及び法(ほふ)を知れる者のみ預れり。)がその証左である。日本語で詳しく記されたデータに行きあうことが出来なかったのでそれ以上は判らない。悪しからず。

「高田與淸」(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)は国学者。本姓は小山田。後に高田家の養子となった。漢学を古屋昔陽に、国学を村田春海に学んだ。考証学に通じた蔵書家として知られ、「群書捜索目録」を編纂した他、知られた考証随筆である「松屋筆記」や、「擁書漫筆」・「十六夜日記残月鈔」などの著作がある。

「米官」これは「米宮」(よねのみや)の誤り。現在の静岡県富士市にある米之宮浅間神社(よねのみやせんげんじんじゃ)のこと。当該ウィキによれば、『旧社司錦織氏の古記録によると、天武天皇の白鳳四年に勅使である大江長元がこの地を訪れ、祭祀を行ったことから始まるという』。『往古は』一寸八分(五・四センチメートル)の『米粒を御神体とした万民に米食の服田を与え恵み給う神として「米之宮」を称し、大同年間』(八〇六年~八〇九年)『に噴火した富士山を鎮めるため、山霊の木花開耶姫命を勧請して浅間神社になったという』。『また』、『江戸後期の「駿河国新風土記」では、祭神を「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第八御子神、浅間第十八御子神に比定しており、「八」と「十八」を合せると「米」になることから「米之宮」と称されるようになったと記載されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「烏豆」「烏喰豆」この二種の表記から一番親和性があるのは大豆(マメ目マメ科マメ亜科ダイズ属ダイズ Glycine max )の品種の一種で、豆の外皮が黒いものである。「がんくいまめ」で、「雁喰豆」の表記もある。]

   ○供大人米考

「西域記」八曰、『摩揭陀國周五千餘里。城少居人。邑多編戶。地沃壤。滋稼穡。有異稻種。其【頭書。「其」、恐「奇」誤。】粒麤大。香味殊越。光色特異。彼俗謂之供大人米。』。

「慈恩寺三藏傳」三【十三左。】、『大人米一斤。其米大於鳥豆。作飯香鮮。餘米不及。唯摩揭陀國有此秔米。餘處更無、獨供國王及多聞大德。故號供大人米。』。

「續高僧傳」四【廿右。】曰、『大人米一斤。大人米者。秔米也。大如烏豆。飯香百步。惟此國有。王及知法者預焉。

「新唐書」二百廿一上【十九左。】曰、『摩揭陀國。一曰摩伽陀。本中天竺屬國。環五千里。土沃宜稼穡。有異稻。巨粒。號供大人米。』。

[やぶちゃん注:「稼穡」(かしよく(かしょく))は穀物の植付けと取り入れ。「滋」は「うるほふ」か。

「麤」「そにして」と読んでおく。これは玄米ではなく、文字通りの「黒い米」のことであろう。

「秔米」粳米(うるちまい)のこと。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 濃州仙女

 

   ○濃州仙女        輪  池

今年は、雨、多にて、濃州も前月十四日夜、水災、長良川、殊に溢決いたし、尾州領も、堤三千間も溢決申し候。溺死も今日にて百人計も相分候へども、いづれも二百人からの儀と相聞候。總ては八百人とも千人とも申候。可憐事ども、いはん樣も無之候。

[やぶちゃん注:「今年」文政八(一八二五)年。

「前月十四日」同年八月十四日は一八二五年九月二十六日。

「溢決」「いつけつ(いっけつ)」は、川が溢れ、堤などが決壊すること。

「三千間」五キロ四百五十四メートル。]

大垣領にや、北美濃越前境にもや、根尾野村山中に、仙女、住居申候。初には、「齋藤道三の女子也。」と申し傳へ候所、さにはあらで、越前の朝倉が臣の妻、懷姙の身にて、朝倉沒落の時、山中へのがれ、女子を出產せし。その女子、幽穴中にて成長し、今年は二百六十歲計、顏色は四十歲の人と相見え申候。髮はシユロの毛の如しと申候。寫眞も不遠來り可申存候。詳なる事は、未、所々水災にて、誰も誰も、途中の決口を恐れ、得往觀不申候也。奇な事に候。

  九月四日

 右、尾張公儒官秦鼎手簡なり。

[やぶちゃん注:「根尾野村」山深いところとなると、岐阜県本巣(もとす)市根尾(ねお)地区(グーグル・マップ・データ)か。

「二百六十歲計」単純計算すると、永禄九(一五六六)年に当たる。天正元年八月(一五七三年九月)の「一乗谷城の戦い」で織田信長に攻められて朝倉義景は自刃し、越前朝倉氏は亡んだ。「計」(ばかり)だから、まぁ、いいっしょ。

「得往觀不申候也」「え往(ゆ)き觀ること申さざるなり」。「得」は不可能の呼応の副詞の当て字。

「秦鼎」(はたかなえ)は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となった。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしている鼎は名。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 銀貨を放つ人

 

  銀貨を放つ人

 

夕日にそむきたる

いと丈高き

この人の手をすべり

砂のごとくに流れ落つる銀貨

銀貨はかぎりなくうづもりて落ち

その高き人の膝(ひざ)に及ばんとす

光のちらちらとかがやける

かかる地上に伸長する銀貨の堆積

あやしき貨幣の表には

名も知らぬ草花の姿を刻しあり

その花よりくしき精氣をはらみ

くるめく波のしぶき四方に香氣をふきあげしぞ

みよや この人のかなしみ裂くるが如く

さばかり掌をあげしにより

空に 山に むらがりいで

一時に燕鳥の列を

さんさんと銀色の雨つらなめて

いなごのごとく遠きにかけ去り行く見ゆ

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(ふところに入れたる手よ) / 筑摩書房版全集不載の一篇

 

  

 

ふところに入れたる手よ

じつとぬくもりていづることなく

わが手はつねに深きうれひにしづむ

この右の手はうれひ哀しむ

ひとり鐡橋の下を步めば

落日は背(そびら)に赤し

夕日にもゆる

鐵橋の支柱(ぴいす)の下に。

 

つねにつねに

この屋根低き道の行きつくすはても知らねば。

 

[やぶちゃん注:底本は出典を『ノオト』とするのみで、制作年も不明である。しかも、筑摩版全集には、この詩篇は載らない。但し、冒頭の三行のみは、「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」にある、「斷章」と題するもの第二章と一致する(但し、三行目には句点がある)。以下に示す。例によって誤字はママ。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 

 斷章

 

     ×

いづかたに行き給ふらむ

深山路に雪をふみわけ

雪をふくみて夕暮の旅のつかれをいこひやすらむ

いかなればかくもしづかに

しとやかに、したしげに君はありしぞ。

     ×

ふところに入れたる手よ

じつとぬくもりて出づることなく

手はつねに深きうれひにしづむ。

     ×

五月となり

わが風景を呼ぶ聲はいよいよするどし

街より出づるものは

みなその衣裝をあかるくせり。

     ×

五月となり

わが風景をよぶ聲はいよいよするどし、

みよ都會より出づるものは(都會(まち))

その衣裝もつともあかるし。

     ×

ひそかに海を念ずれば

海も傾むき湧きいでぬ

磯松原をわが行けば

都をのがれわが行けば

朝まだ早くしめじめと

松露は地を堀りあぐる。

     ×

にこちんのどくしみこめる

いろくろきわがみの哀傷は

いんらんの鏡をくもらしめ

ふしぎなる草木の種をとぐ。

     ×

ことばすくなく生れたる

わが身のうれひしんじつは

ゆうぐれかけて燃えあがる

火の見梯子のうすぐらき。

露路の

 

筑摩版全集解題によれば、「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」の書写年代は大正二年九月から、ほぼ翌年十二月頃とある。ざっと見ただけだが、現行の筑摩版全集には、ソリッドなこの詩篇は載らない。そもそもが、この最終行の「鐵橋の支柱(ぴいす)の下に。」の「支柱(ぴいす)」のルビはいかにも朔太郎好みだが、他の彼の詩篇で使用しているのを見た経験が私にはことがない。因みに、「ぴいす」は「一片・一本」の意のそれであろうが、「piece」自体には「支柱」の意はないから、朔太郎のハイカラ好みの、感覚的な当て読みである(「支柱」は「prop」或いは「post」である)。言っておくと、個人的には彼が「生活」に「らいふ」と振ったりするのは生理的に厭な感じを持ち続けている。最も偏愛する「さびしい人格」でやられた日には、虫唾が走るのである(リンク先は私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 さびしい人格』で、その注の最後で記しているが、実はこの「らいふ」のルビは昭和三(一九二八)年三月に第一書房から刊行された「萩原朔太郎詩集」の「さびしい人格」にのみあるルビである。これを「らいふ」と読むのを中学時代の最初の朔太郎体験の時に見たら、私は彼を好きにならなかったとさえ今は思うのである)。

 閑話休題。この詩篇も、既に原稿が失われた幻の一篇なのであろうか?]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(しづかにのびよ)

 

  

 

しづかにのびよ

新綠の芽生のごとく

ふきあげの水も靑くぬれいでて

髮のにほひ薰ずるものぞかし

おしなべてかかる日ぐれの公園に

われは行く行くあらせいとうの花の下かげ。

 

     *

 

芽生のごとく心よ

 

ふきあげの水にも靑くぬれいでて

心をじつと抱きしめよ

六月はじめの公園に。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(永日のかなしみせきがたく)

 

  

永日のかなしみせきがたく

ひとり靑竹をきりて

笹をつくる

ひねもすわが側に來り

しきりに芽をのぶる幼樹あり

さて岸邊にはまた舟夫を呼べるあり

そこはかと土くづるる音し

石垣のかげに人足(ひとあし)の行きかふけはひもす

うちみればはるかなる赤土の丘にしも

われひとり坐り居て

しきりにさびたる鉈をふるふなりけり

いともしづかなる日の下に

わが哀想は靑竹の笹をつくりあぐ

ひねもすわが側に來り

幼樹はしきりにその芽をのぶ

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 小春

 

  小   春

 

やはらかい土壤の上に

ぢつと私が坐つて居る

涙ぐましい日だまりに

白い羽蟲のちらちらもえ

遠い春日のちらちらもえ。

 

麥よ芽を出せ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、制昨年を推定で大正三(一九一四)年とするが、ほぼ相同の詩篇が筑摩版全集の「拾遺詩篇」に載り、そこでは初出を大正四年六月発行の『街上』とする。以下に初出形を示す。

 

  小春

 

やはらかい、土壤の上に、

ぢつと私(わたし)が座つて居る、

淚ぐましい日だまりに、

白い羽蟲のちらちらもえ、

遠い春日のちらちらもえ。

麥よ芽を出せ。

 

底本のそれは、最早、失われた原稿によるものか。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」には、以下の本篇の草稿の三種ある内、二種が載るので、以下に示す。アラビア数字は朔太郎自身が打ったもの。歴史的仮名遣の誤りや誤字などは総てママ。

   *

 

  小春
     ――叙情小曲


1 やはらかい土壌の上に
私のぢつと私がすわつて居る
 ああけふもひねもす遠く
 遠山のが光るよ
 遠い 越後の山に 山の雪が光るよ
 指さきのきずがいたいよむぞよ
6 ああ麥よ芽を出せ
7 麥よ芽を出せ
 ああこゝの羽蟲のちらちらもえに
3 ああけふの春の日ちらちらもえて
 遠山なみの 羽蟲羽光り
4 遠山なみの雪どけに ごろにころに
5 ぢつとみつめるわがこゝろ

 

  小春

やはらかい土壌の上に
ぢつと私が座つて居る
こゝの春日のちらちらもえ
こゝの羽蟲のちらちらもえ
麥よ芽を出せ
麥よ芽を出せ

 

   *

孰れも、本篇とは異なる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 冬

 

  

 

遠夜の空にかがやける

りんりんとしてかがやける

光る柳の木ぬれより

われのいのちのもゆるより

樹上の白きむらすずめ

やぶるるごとく飛びたちぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年作とする。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に無題で載る。原稿で、一度、書いた詩篇の頭に番号を記してある。以下に見る通り、「冬」という題名らしきもの(或いは詩篇の冒頭かも知れぬ。判らぬ)書いて抹消してある。朔太郎の推敲をリアルに読み取れるもので、面白い。以下に示す。脫字が複数あるのはママ。

 

3光る柳の木ぬれより

4あらゆるものをちらしめよわれのいのりをかけしめよちのもゆるより

1遠夜の空にかゞやける

 白き柳のかゞやける

2りんりとしてかがける

5樹上の白きむらすゞめ

6やぶるゝごとく飛びたりぬ

 

さらに、同じ原稿に本篇の草稿と思われるものがあり、それは筑摩版全集では、『草稿詩篇「未發表詩篇」』のパートに『○(遠夜の空にかがやける)』として置かれてあるものがそれらしい。以下に示す。

 

  

 

遠夜

冬きたるがに

柳の木すゑぬれ光りをみがき

樹木 幹よりも

遠夜の空にかゞやける

いたゞき高くりんりんとしてかゝけける

しかもあまたの鳥禽をして

そのいたゞきに舞ましむる

柳の木ぬれ光をとぎ

 

而して、編者が注するに、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「縊死」と關連するところがある』と記す。この「縊死」とは「月に吠える」の決定稿「天上縊死」(リンク先は私のブログ版『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版』)の草稿を同全集第一巻に附帯するそれを指す。以下にその全部を示す。書誌に『本篇原稿七種八枚』とする。「→」は書き換え。歴史的仮名遣の誤りや誤字・脱字は総てママ。

 

  縊死

 

遠夜に光る木々松の木の

松にもいのちをかけしめば

遠夜の空に光れる柳ちり松をたれかしる

もえづるみどりしたゝりて

天上の松にくびをかけ

     *

柳をすぎて

くるしむものゝ行く路に

松のうら葉をしてを光らしむ

遠夜の宅に光らしむ

     *

遠夜の空に

白く光れるま白く光る柳の木

柳の木ぬれかゞやける

そが

     *

遠樹の上に

ほそきくびはさげられをさげ

長き手は下にさげらをさげ

柳の木ぬれかゞやける

      *

柳の木ぬれかゞやける

遠夜の空にくびをかけ死は光る

柳の木ぬれかかゞやける

ま白き樹々のかゞやける

遠夜に人の→夜途に我の死は光る

柳の木ぬれかゞやける

      *

   

ま白き柳かゞやける

遠夜の空に死は光る

柳の木ぬれかゞける

 

[やぶちゃん注:ここに編者注で、『以上の斷片は一枚の原稿用紙に書かれている』とある。]

 

 

  屍體

  天上縊死

遠夜に光る松の葉に

殲悔の淚したゝりて

遠夜の空にいちぢるき(しもしろき

[やぶちゃん注:丸括弧閉じるがないのはママ。]

天上の松にくびをかけつり

          たれ

[やぶちゃん注:「つり」・「たれ」は並置。]

天上の松に凍る→戀ふる→こがれ懸ふるより

光れる松の木末より

合掌のさまにつるされぬ

いのれる

[やぶちゃん注:「合掌の」・「いのれる」は並置。]

光れる松を戀ふるより

天上の

[やぶちゃん注:「光れる」・「天上の」は並置。]

いのれるさまにつるされぬ

          十二、二十七、

 

  ○

 

夕日の松に首を縊(つ)る

祈り靑ざめ懺悔をはれる人ひとり

手に妖光銀のアルバムを手にさげしが

頰に靑き紐をかけまきつけ

額の上には

あはれあはれ

天上の松に首を縊るとらんと思ふ

合掌し懺悔おはれるひとひとり

そのはや肢體はしだれ

そのひとの眼はめしひ

松にかかれば

身肉たちどころに電光發し

あはれあはれ

夕日さんさんたる梢につられ

この哀しむ哀しめる、

罪びとの手はあはされぬ、さげられぬ、

 

  天上縊死

     ――第二 屍體 白金屍体

  白金屍體

     ――天上縊死續扁――

夕日遠夜の松に首を吊る

懺悔にくるゝ→おはれるに果つる人ひとり

手に綠金ひとり銀のアルバムをひつさげしが

はや頰に靑き紐をまきつけ

あはれあはれいまこそはやはや

天上の松に首を吊らんと縊ると

懺悔に果つる人ひとり

そのラジウムの→長き丈高き肢體はしだれ

そのラヂウムの瞳はめしひ

身肉たちどころに電光したゝり宙に吊りあげられ

あはれあはれあげられあげられ

夕日光さんさんたる松の梢に吊られ

この哀しめる、罪人の手はさげらぬ、

遠夜の空にうすあかりあかねさし。

         ――淨罪詩扁

 

最後に編者注して、『別稿に「夜の松縊死屍體の言語」という題がある』とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 月夜

 

  月   夜

 

なにを知るべに君とはん

月夜に

しのびて歌やうたふべき

しのびてわれがうかがふに

きみは月夜に

きみは月夜にふしどをはなれ

かきつばたの花をかぎたまふ

なにをくるしみたまふがに

なやめる夢をかぐなかれ。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年を推定で大正三(一九一四)年とし、『遺稿』とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に酷似したものがあるが、微妙に違い、以下に見る通り、未完で放置された詩篇であることが判る。歴史的仮名遣の誤りや誤字はママ。

 

  月夜

 

なにを知るべに君がりとはん、

月夜に

あほ ぎて虫

しのびて唄やうたふべき

しのびてわれがうがゝふに

きみは月夜に

きみは月夜にふしどをはなれ

かきつばたの花をかぎたまふ

なにをくるしみたまふがに

なやめる夢をかぐなかれ、

われは月夜に

 

底本のこれは、この草稿を整序したものとみてよかろう。

「かきつばたの花をかぎたまふ」私はカキツバタ(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata )の花の匂いは青臭い印象しかないのだが、日本花菖蒲協会公式サイト「花菖蒲」の、夢 勝見氏の「こちらあやめ漫談 その4 カキツバタ」に、『カキツバタには青臭い香りをもつものがいくつかあるが、一部の実生に、甘い香り(スウィート)と辛い香り(スパイシー)を出すものがあ』る、とあった。いつか、嗅いでみたい。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(かぎりなく白き器物を懷かしむ)

 

  

 

かぎりなく白き器物を懷かしむ

されど器物はものいはず

うつはを抱けばしんしんと

白きつめたさ身にしみぬ

とまれ かくまれ

ものいわぬうつは よしなよし

うつはめづる そのこころ

やがて

おみなのくみめづるなり

 

[やぶちゃん注:「おみな」はママ。底本では出典を「ノオト」とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。筑摩版では、六行目の「よしなよし」は「よしなし」の誤記とする。]

只野真葛 むかしばなし (41) / 「三」~始動

 

むかしばなし 三

 

  むかしをおもひいでつゝふるときはわかがへりたるこゝちこそすれ

 

[やぶちゃん注:以下「おもひをのべたり。」までは、底本ではぜんたが二字下げ。]

 此卷は、分て、父樣・おぢ樣の御間のことを、委しくあらわしたり。世のたとへに恥をいはねば利(理)がしれぬと申ごとく、後々にいたりては、おぢ樣は、おとなしい顏を、よくして、他人にみせられし故、すでにそなた樣などさへ、幼年より他所に御出、もとのことを心得られぬは、父樣の和されぬが、氣よわきやうに見へつらん。其むかしより、こまやかにあだを被ㇾ成しをしりては、人に、しか、おもはるゝが、くやしかりしおもひを、のべたり。

 隣、内田の地と成しは、ワ、十二、三の頃なり。三、四月のことなりしが、夜中、奧方の聲とて、庭かよひ路の戶を、たゝきながら、

「周庵さま、一寸おいで被ㇾ下、おいで被ㇾ下、」

と、しきりによぶ聲、仕たり。

 父樣。おきいでゝ、

「何事ぞ。」

と御とひ被ㇾ成しに、

「玄松、急死なり。」

とて、はだしにて、かけ付してい[やぶちゃん注:「體」。]故、早速、御出で、先《まづ》、やう、御覽有しに、おびたゞしき吐血にて、こと切(きれ)なり。

 奧方とは、ひとへ唐紙をへだてゝやすまれしが、うなり聲、つよく聞へし故、おきて見られしに、其通のことにて有し、とぞ。

 此大變にて、目がさめて、俄に、鬼門屋敷も、いやに成、折釘を打てより、家鳴のせしこと、玄松、淫亂になられしことなど、おもひあたり、をちをちも、翌年までは居られしが、大勢の子達、奧醫師の役料、ひけて、とりつゞきかね、ちりぢりばらばらに成て、其あとへ奈須玄信は、ちかしき親類故、家守、心に賴れて、來られし人なり。

 玄松死後、下女に、狐、付て、いろいろ、口ばしりしに、とがもなき宮をこぼち、散錢をおし取て、釘、打しことなど、うらみのゝしりしこと有し、となり。

 是を聞て、俄に宮をたてゝまつり、わびごとしたれば、狐は、おちたりし。

 翌年、「はしか」はやりて、姊むすめ、死(しし)たりしが、其前夜、例の下女の夢に、また、狐きたりて、

「此女、此女。」

と、おこしたりし故、おどろき、枕をあげしに、

「是、あね娘、此度、死(しし)は、天命なり。わがせしことに、あらず。」

と斷るとおもへば、まことに夢さめしとぞ。

 是も狐のせしごとくいはれんことを察し、かく、つげしも、をかし。さすがに狐も「ぬれぎぬ」をば、いとひしなり。

 玄信殿、隣へこされしが、父樣、御運のつき、〆《しめ》がのろひの、しるしなるべし。

 眞のおごり人にて、道樂のずるひのといふことを、はじめしほどのことなりし。

 母樣は、かたいかたい、とても上なし偏屈に御そだちの人、萬事、ふうぎ、あはず。此人のこされぬ前は、世の中には「質(しち)」といふものおくといふ事有と、音に聞て有しを、奈須流[やぶちゃん注:玄信のこと。那須姓。]は、其身も、奧方も、立つたまゝにて、仕立おろしの黑ちりめん、かずくなり。普段着なり。着物をこしらへてゐること、大きらい、

「どこぞへ行時は、其ときのはやりのものをこしらへてきるがいゝ。」

といつて、さらに、たくわへ、なし。

 金𢌞のよき時分、奧方へ其頃のはやり黑手八丈の無垢に、紫金打かたの下着ちりめんの二ッがさね、緋《ひ》ぢりめんついた毛儒絆、その時はやりの帶と、あたらしく、さつぱりこしらへ、きせる。奧方、悅、夜晝かゝつて仕立仕𢌞、火のしをかける時、

「コウ、其着物を質屋へやつて、金をかりてみやれ。いくらかすか。」

奧方も餘りのこと故、『をどけ』と、心得、わらつてござる所が、中々は、てつかず、とうとう、やかましくいつて質屋へ行(ゆく)になり、にがわらひして居るうち、金を持てくると、おもひの外、

「よくかすものだ。これ齋治【そばの使ひの小僧なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、是で『九年ばう』をかつてこい。」

とて、一兩なげだし、「くねんぼ」をかはせて、家中の男女に、

「いくら、くらはれるか、食てみろ。」

とて、其夜のなぐさみなり。

[やぶちゃん注:「九年ばう」「くねんぼ」は「九年母」でムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属マンダリンオレンジ品種クネンボ Citrus reticulata 'Kunenbo'。沖縄ではクニブと呼ばれる。当該ウィキによれば、『東南アジア原産の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされた。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭、テレピン油臭)がある。果実の大きさから、江戸時代にキシュウミカン』(ミカン属キシュウミカンCitrus kinokuni )『が広まるまでには日本の関東地方まで広まっていた。沖縄の主要産品の一つだったが』、一九一九年に『ミカンコミバエの侵入で移出禁止措置がとられてからは、生産量が激減し、さらに』、一九八二年に『柑橘類の移出が解禁されてからは、ほとんどウンシュウミカンやタンカン』(桶柑・短柑。ミカン属タンカン Citrus tankan 。ポンカン(椪柑・凸柑。ミカン属マンダリンオレンジ変種ポンカン Citrus reticulata var. poonensis )とネーブルオレンジ(ミカン属 オレンジ Citrus sinensis )の自然交配種のタンゴール (tangor) の一種)『などが栽培されるようになった。現在は沖縄各地に数本ずつ残っており、伝統的な砂糖菓子の桔餅や皮の厚さと香りを利用したマーマレードなどに利用されている』。『クネンボは日本の柑橘類の祖先の一つとなっている。自家不和合性の遺伝子の研究により、ウンシュウミカンとハッサク』(八朔。ミカン属ハッサク Citrus hassaku )『はクネンボの雑種である事が示唆された。この事からクネンボが日本在来品種の成立に大きく関与している事が明らかにな』り、二〇一六年十二月、『農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)果樹茶業研究部門が、DNA型鑑定により、ウンシュウミカンの種子親はキシュウミカン、花粉親はクネンボであることが分かったと発表した』。因みに、『古典落語に九年母という噺がある。九年母をもらった商家でそれを土産として丁稚に持って行かせる。丁稚は九年母を知らず、不思議に思って袋の中を見ると入っているのはミカンにしか見えない。その数がたまたま』九『個であったので勝手に納得し、その』一『つを懐に入れ、「八年母を持ってまいりました」。向こうの旦那が怪しんで袋を覗き「これは九年母ではないか」と問うと、猫ばばがばれたと思い慌てて懐の』一『つを取り出し』、『「残りの一年母はここにございます」と下げる』とある。]

こんなつゐへのことも、おもひきつてならぬものなるべし【おく樣は、仕立たばかりの損となりし。おもひきつて、かくはならぬものと、殊外、感心被ㇾ成しを、女心には、『いやなことをおほめ被ㇾ成』と、おもひし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

「律儀にくらすよりは、このかたは、氣がつまらずに、よい。はて、おもしろい氣風の人。」と、父樣、珍らしく思召たるより、まよひだして、ずるけて、おごる心にならせられしは、惡魔の見入しならん。是より、一きわ、手びろに成て、千兩のうきがねも、たらぬ樣に成しなり。奈須は其通、ぐわらり、ぐわらりと、あと先見ずの人故、其身の地でもなひものを、むせうに、

「かりたくば、いくらでも、かす、かす。」

といはれし故、地面五十つぼ程、かりたして、東屋をたてゝ、櫻を、おほく、うゑられしが、榮のはじまりなり。其よく年、また、地をかりたして、二階作の座敷をたてられしは、おぼしめし、たがひなりし。庭ばかりなら、地を立られし時、心やすかるべきに、家が有故、ことむつかしかりし。

 父樣四十ばかりの時、仙臺より「めし」有て、十月初、御くだり被ㇾ遊し。其二年ばかり前に、仙臺の町人、鑄錢(《ゐ》ぜに)の願、有て、父樣をたのみしが[やぶちゃん注:「むかしばなし (40)」の注の父平助の事蹟の引用を参照。]、ことすみし故、

「御禮。」

とて、金子など、上しこと、有し。其時は、父樣、少々、御不快にて、おしづまりいらせられしに、其町人、來りて、御禮を申上しうへ、金包を床の下へ、さし入て、歸りしとなり。程なく、御こゝろよくならせられしかば、無駄につかいてよい故、心ひきなり。其金を懷中被ㇾ成、

「何ぞ、目につく物も有や。」

と近所、御步行(おあるき)、二町まち邊まで、いらせられしに、きのうから、

「葺屋町河岸へ、女の力持ちがでた。」

とて大評判故、御覽被ㇾ遊しに、目見へには、きれいの女、打掛にて出、口上、終、百目懸のやうそく[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「蠟燭」。]を碁盤にて、あふぎ、けす。片手にてなり。

[やぶちゃん注:「二町まち」「二丁町」。日本橋の堺町・葺屋町の二町の併称。堺町に中村座、葺屋町に市村座があり、ともに芝居町として知られた。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 つぎは、四斗樽へ、人をあげて、さしながら、はしごを上る【終に樽の口を明て、水をだして見するなり。から樽ならぬ證なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]など、いろいろ、藝、有。

 相手は「文之助トサマヨト」[やぶちゃん注:「ト」は「と」で引用の格助詞の誤記か。]いふものなり。元來、文之助、ちから持なり。小男にて、色白く、筋太(すぢぶと)なりし。見世物にいだせしは、此者、おもひ付にて有し、とぞ。

 女の名は「ともよ」と、いひし。元來、氷川とやらの女なりしが、ある日、にわか夕立して有りしが、米揚(こめあげ)、大きにこまりて有しを、見かねて、かけ出し、米の入たる臼を、かるがると、もちて、内へいれてやりしを、文之助、通がけに見て、ふと、おもひ付、女をうけ出して、藝を仕込み、みせ物にせしなり。

 女の力持、たへてなかりし時故、珍らしく、はやりしなり。

 この力持、御氣に入て、度々、手前へも、めして、客のもてなしに被ㇾ遊たりし。

 文之助、腕や股などへ、ぬれ紙をはりて、よくきれる小がたなにて、すんすんに、きれども、身に、疵、つかざりし。ちから强(つよき)故、刄物うけぬ、となり。

只野真葛 むかしばなし (41) / 「二」~了

只野真葛 むかしばなし (41)

 ヲランダより根付の中に入(いれ)て、角《つの》にて引たる蟲のやうなる、蛇の樣なもの、はじめて、わたりし事、有。

 

Baneganngu

 

ちゞみたる所はこの樣にて、引のぶれば、一間餘[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル越え。]に成、なげだせば、

「ぶるぶる」

と、うごきなどして、氣味わるく、又、めづらしき物なりしを、御工夫にて、ろくろ引に被ㇾ成しこと、有し。常八など、日々、來て引たりし。今も、其形の物、折々、見かくることあり。

[やぶちゃん注:思うに、小さな頃に欲しかった(結局、言い出せなかった)バネで出来た階段などを自ずと繰り返し降りて行く玩具の「スリンキー(Slinky)」(リンク先は当該ウィキ)みたようなものの小型のもので、根付に接続して可働するものらしい。底本からトリミングした。]

 龍尾車なども、御くふうにて有しを、常八、覺て、公儀御用に立(たて)しことも有し。

[やぶちゃん注:「龍尾車」水を低い位置から上へ引き揚げるための装置。螺旋形に削った軸を、木製の円筒の中に内側がよく密着するように挿し入れておき、それを上で回転させることで、管に入った水を螺子(ねじ)の回転に沿って引き揚げるもの。サイト「大地への刻印」の「水を汲む、揚水具」を参照されたい。挿絵画像がある。]

 引染のかみ、御くふう被ㇾ遊しはじまりは、ある人、唐紙を、「一まる」、進物にせしが、いくらつかひても、へらざりしより、思召なりしと被ㇾ仰し。「一まる」とは、一本とて、一包ヅヽにしたるを、唐より渡りしまゝの「ひつ」なり。後に、きせるの相御覽被ㇾ成、よく當りしは、御ぞんじなるべし[やぶちゃん注:この一文、意味全く不明。]。

[やぶちゃん注:「引染」染色模様をつけた飾り紙。

「ひつ」不詳。「筆」記用の紙?]

○築地は毛利兵橘と申(まうす)三百石とりの旗本衆の地にて有し。むかふは稻葉樣御やしき、地主は左隣、右隣は外の人の地なりし。此右隣、角屋敷にて、南うけ[やぶちゃん注:南向きか。]、しごくよき所なれども、

「鬼門なり。」

とて、明地にて有し。其故は、きらいて、人のすまぬことなりし。

[やぶちゃん注:「毛利兵橘」同姓同名の人物について、円城寺健悠氏の記事で『「毛利兵橘」について』があるが、この人物の後裔か?]

 百つぼの地一面に御ふしん被ㇾ成し故、庭なけれど、南のかたに、大(おほ)あき地有(ある)故、ひろびろとしてよかりしなり。少しの山などは、奧より、むかふに見へしとぞ。それを内田玄松樣といふ派きゝの[やぶちゃん注:「日本庶民生活史料集成」版では『はばきき』とあり、これと並べると、奥医の中でも相応の力(「派」閥として有意に「利(き)き」=勢力)を持った、という意味でとれそうだ。]奧醫、五百坪の内、二百坪ばかり、かりうけて、普請せられ、すまはれし。其折、餘り庭なし故、隣の地を三尺通(どほり)、かり入被ㇾ成しと聞し。かんじんの見はらしよき奧の垣ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]へ、二階づくりの藏をたてられ、富士のかはりに、白壁を見るごとく成し。

[やぶちゃん注:「内田玄松」江戸医学館の幕末の調合藥役に「内田玄勝」の名を見出せはする。

「派きゝ」「日本庶民生活史料集成」版では『はばきき』とあり、これと並べると、奥医の中でも相応の力(「派」閥として有意に「利(き)き」「幅利き」(勢力))を持った、という意味でとれそう無きはする。]

 是は、ワなど、生れぬ先なるべし。

 奧の庭は、むかふへ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりにて、橫四間[やぶちゃん注:七・二七メートル。]ばかり有し所へ、八重紅梅一本【しごく見事にて、花おほく咲(さき)たり。實は、ひとつも、ならざりし。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]「ずばい桃」と梨一本、有し。此三本の木、いづれも勝(すぐれ)たる物なりし。梅は、花、たぐひなく、春海が、

 春雨にひもとく梅のくれないはふりすてゝこそ色まさりけり

と、よみしを見ても、おもひいでらるゝやうなりし。桃は、味、勝て、よく、夏桃にて、世にめづらしき時、じゆくす故、賞翫せられたり。梨は勝たる水梨、殊の外、あまく、少しも口中に、のこるものなく、雪をくう[やぶちゃん注:ママ。]やうに、齒[やぶちゃん注:「に」の脱字か。]、もろし。後、終に、このごとき梨を食(くは)ず。其三本の木と、こなたの日ざし戶に、物ほし棹を懸たりしをおもひば[やぶちゃん注:ママ。]、庭の間數(けんすう)しらる。

[やぶちゃん注:「ずばい桃」バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina 。皆さんご存知の、ネクタリン(Nectarine)のことである。

「春海」「只野眞葛 いそづたひ」で既注の、国文学者で歌人の村田春海(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)。]

 「さかい垣」は、わり竹にて、それに付(つけ)て、一重《ひとい[やぶちゃん注:ママ。]》の山吹を、

「ひし」

とうへて有し。中は花壇にて、草花、かれこれ、有し。ならびの明地を、少々、御かりㇾ遊て藥園に成て有し[やぶちゃん注:レ点位置はママ。「御かり被ㇾ遊」の脱字(誤植)であろう「日本庶民生活史料集成」では『ㇾ被遊』でまたまたおかしなことになっている。]。後に庭中に大槐《ゑんじゆ》の木有しは、やはりその藥園に有しまゝなり、

 地主の毛利と裏あはせに、龜井樣とて、二、三萬石の小大名有し。其家老の名、嶋田傳八といひし、父樣と同年にて、殊の外、くわうくわうとして[やぶちゃん注:この歴史的仮名遣ではピンとくる形容動詞がない。「かうかう」ならば、「皞皞」で「心が広く、ゆったりとしているさま」でしっくりくる。]、よき人、大御懇意にて有し。其隱居夫婦、かの鬼門やしきの角をかりて、

「どうで隱居の身故、長命のぞみなし。」

とて、普請して引こしたりしが、手ぜまにて勝手よく、さて、きれいの家なりし。小家の家老はくり合よく[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。]ものにて、藝者・役者・角力取など、日ごとのやうに出入して、にぎやかにて有し。ばゞ樣につれられて、二、三度も行しをおぼへたり。

 庭は、色々のうつくしき木草をうゑ、よきたのしみの福隱居なりしが、三、四年住て、死去、

「其家を、ほごすも、おしゝ。」

とて、傳八、引うつりて、すみしが、「三日ぼうづ」といふ病はやりて、人、おほく死したりし時、傳八も喉がはれしと聞しが、三日目に、ころりと死去、父樣、大病にて、樣子御覽被ㇾ成かね、大ちからおとしにて有し。

[やぶちゃん注:「三日ぼうづ」これは、成人では、高齢では重症化することがしばしばある風疹(風疹ウイルスによる急性熱性発疹性感染症)、一般に日本では「三日ばしか」と呼ばれるそれではあるまいか。私も教員になった翌年年初に生徒に移されて(当時、多数の生徒が罹患して欠席していた)罹患し、出勤停止となり、当時数万円したγグロブリンを打たれ、採点した学年末テストは焼き捨てるように医師に言われ、終業式の日に間に合い、出勤したところ、生徒たちから「タネ無し」と揶揄された。顔の右頰の上に今も瘢痕が残る。]

 其庭に有ししだれの八重、ひどふ見事なりしを、ばゞ樣、隱居不幸の時分、かたみに御もらひうゑられしが、うゑかひ時、あしくて、つかざりし。

 是に見ごりて、又、すむ人なく、明地にて有しを、玄松樣ばかりは、いよいよ、さかんにつとめられしが、地主のかたへ相談有て、かへ地をいたし、其地を内田の屋敷にせられたりし。其地に地守の家來【追考、此地守のたちしは、内田の地に成しよりは、六七、年前にて有し。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、夫婦ものにて、子なきが、年久しくすみて有し。夫婦とも、しごく、りちぎものにて、菜園《さえん[やぶちゃん注:ママ。]》をして野菜をうり、亦《また》、樽拔の柿なども、手前にてして、うりなどして有しが、ワどもあそび所にて、日ごとに行しを、かく成て、家、ほごし、たち行(ゆく)が、かなしくて、なきて有し。八ッばかりの時なりし。明地の時分、紺屋の張場《はりば》などに、かして有し時は、手間取(てまとり)ども、かへると、行て、しゐしをひろひしに、一反張るほどは、たちまち、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]て有し。

[やぶちゃん注:「樽拔の柿」「樽柿(たるがき)」のこと。渋柿の渋抜き法の一つで、また、この方法で渋抜きした柿のこと。本来は、酒の空樽を用い、酒樽に残っているアルコール分を利用して渋を抜いていた。渋の主成分である水溶性のタンニンは、アルコールにより不溶性となり、味覚に渋味を感じなくなる。

「手間取」手間賃で一時的に雇われた者。

「しゐし」「伸子・籡」の音変化(表記に「しいし」もあり、ブレが見られる)で、本来は「しんし」と読む。洗い張りや染色の際に織り幅の狭まるのを防ぎ、一定の幅を保たせるように布を延ばすための道具。両端に針がついた竹製の細い棒で、これを布の両端にかけ渡して用いる。そこに布地の一部が切れて付いていたものであろう。]

 島田の隱居庭の角へ、ちいさき稻荷の宮を作、散錢を揚て、信心せしは、鬼門をいむためなるべし。其宮を、玄松殿、こぼちて、川へながしやり、散錢六百文ほど有りしをとりて、折釘をかはせ、家の内、所々へうたれしとぞ【急死のまぎれ、家ばかり引て、「いなりの宮」迄は片付(かたづけ)ざりしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 それより有しに、玄松殿、殊の外、淫亂と成て、女ども十人餘、めしたきかけて[やぶちゃん注:意味不明。]有しを、のこらず、手を付られしとて、下々、ひやうばんなりし。

[やぶちゃん注:真葛は稲荷の祟りと暗に言いたいようである。]

 奧方の一腹に、十人餘、子達、有しが、惣領は、十八、九にて、外へかた付(づけ)、嫡男十五とおぼへし。次には、「とし子」なるべし。おなじ「よはひ」のやうな子たちなりし。女三人、男七人ばかり、有しやうなり。

 父樣、手習の師にて、淸書、持(もち)てこられしを覺たり。梨の木の下の所に路地有て、兩〆りにして、行かよひて有し。しごく、心やすく成されて有し。

2021/10/12

只野真葛 むかしばなし (40)

 

 父樣は三十代が榮の極めなるべし。日に夜に、賑ひ、そひ、人の用ひも、ましたりし。御名のたかきことは、醫業のみならず、其世には、おしなべて、仁愛をたかきことにせしは、それが、その世の、はやりなり。

 しかるを、人なみならぬ、ひとからき[やぶちゃん注:他人につらく接するタイプであった。]養ぢゞ樣[やぶちゃん注:父平助の養父なので、こう表現したもの。]のおしへにて、只、半年をへずして立はしる書を明らめられしは、天なり、運なり。時に叶ひて、世の人の目をおどろかせしは、からくりのごとき、生立[やぶちゃん注:「きだて」。「気立て」であろう。]にて有し故なり。【「からくり」とは一字文盲の人、半年に書を見習われし敎への仕樣なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。才智くふうのすぐれし人も、仁愛にばかり、おぼれ、十二、三まで、筆もとらせず、書もよませずしておかれし故、

「いで。」

と心をはげましては、こまを廻すごとく、才も、のびしならん。人のからだのつりあい、やはり、からくりのごとくにして、とりあつかふ人の上手・下手、又、うちだしの細工によるものならし。

[やぶちゃん注:「半年をへずして立はしる書を明らめられし」「時に叶ひて、世の人の目をおどろかせし」というのは、知る限りでは、父工藤平助が天明元(一七八一)年四月に書き上げた「赤蝦夷風説考」の下巻であろう(この後の天明三(一七八三)年には同書の上巻を含めて総て完成させている。ウィキの「工藤平助」によれば、『「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。また、天明』三『年には密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」をも書き上げて幕閣に『提出している』。但し、この書き出しの「三十代」というのとは合致しない。彼は享保一九(一七三四)年生まれで、天明元年で彼は満四十七になっているからである。「三十代」云々の部分とは切れていると読むなら、特に違和感はないし、彼がこれらの書によって経世家として広く知られるようになったことも事実である。いや、寧ろ、それらの書物を書くための「知」の蓄積期が三十代終りから四十代初めから始まるので、この謂いに違和感はないと言ってもよい。安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩主『伊達重村により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようにな』ったからである。その後、『藩命により』、『貨幣の鋳造や薬草調査なども』行い、『また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学、西洋医学、本草学、長崎文物商売、海外情報の収集、訴訟の弁護、篆刻など』、『幅広く活躍する才人であった』。かくして『工藤平助の名は、すぐれた医師として、また、その広い視野や高い見識で全国的に知られるようになり、かれの私塾「晩功堂」には遠く長崎や松前からも門人となるため来訪する者も少なくなかった』(☜以上と以下は次の段落の内容とも見事に合致する☞)。十八『世紀後期にはロシア帝国の南下が進み、ロシア軍の捕虜となった経験をもつハンガリーのモーリツ・ベニョヴスキー伯爵が在日オランダ人にあてた書簡のなかで、ロシアには侵略の意図があると記したことをきっかけとして北方問題への関心が高まって』おり、『松前からも』、『裁判のため、知恵者として知られていた平助の力を借りようと頼る者もあらわれ、平助は、彼らから』、『北方事情や蝦夷地での交易の様子、ロシア情勢等について詳細に知ることができた。また、長崎の吉雄耕牛やその縁者からは、オランダの文物が送り届けられることも多く、平助はそれを蘭癖大名や富裕な商人に販売して財をなした一方、ロシアも含めた西洋事情一般にも通じるようになった』とあるのである。]

 「御才人なり」といふ名の廣まりしは、日本中にこへて、外國迄も聞えし故、國のはてなる長崎・松前よりも、人のしたひ來りしなり。そのもと、物おぼへせられし頃は、さかり過て、消がたの時なり。虹の大空にあらはれしを、人のはじめて見つけてあふぎしごとくにて有し。諸國にてもてあましたる公事沙汰の終をたのみにくることにて有し。服部善藏、隣に住居せしも、

「まさかのとき、知惠をかるに、よき。」

とて其陰にやどりせしなり。高野の北寶院なども、度々、公用の下地を、たのみに來し。

[やぶちゃん注:「そのもと」「そこもと」。「そなたが」の意。直接の聴き手として措定されている末の妹照子(平助五女)のこと。彼女は真葛より二十三年下であるから、天明五(一七八五)年かその前年頃の生まれで、彼女が物心つくのを五歳前後とするなら、寛政二(一七九〇)年前後となるが、この頃は、天明六年の第一〇代将軍徳川家治の逝去により、何かと華々しかった「田沼時代」は終わりを告げており、平助の経世家としての名望も失われ、彼の期待した海防を含む蝦夷地開発計画も頓挫し、平助に話があった「蝦夷奉行」内定の話も、結局、沙汰止みとなっていたのである。かの林子平の「海国兵談」(寛政三(一七九一)年)も版木を没収された上、発禁処分となり、子平自身も、幕府から仙台への蟄居を命ぜられることとなる。但し、それでも、ウィキの「工藤平助」によれば、『平助はその後も江戸で医師としての活動をつづけ』、寛政五(一七九三)年には『弟子の米田玄丹』『からロシア情報を得て』、「工藤万幸聞書」を著し、寛政九年には医書「救瘟袖暦」を『著した。これは、のちに大槻玄沢による序が付せられることとなる。同』『年』七月には第八代藩主『伊達斉村』(なりむら)『の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎』(後の第十代藩主伊達斉宗)『が熱病のため重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜され』ている、とある。

「服部善藏」平助が漢学を学んだ儒者服部栗斎(元文元(一七三六)年~寛政一二(一八〇〇)年)か。名は保命で、通称は善蔵である。平助の師ではあるが、平助より二歳年下である。上総飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の子として生まれた。若くして大坂の五井蘭洲に師事、中小姓として勤仕してからは、主に久米訂斎ら崎門(きもん)派の儒者に教えを受け、江戸では村士玉水に兄事した主君保科正富と、その子正率に書を講じたが、正率(まさのり)に疎まれて三十八で致仕し、浪人中は築地の家塾信古堂に教えた(ここは平助の家に近い)。寛政三(一七九一)年、幕府は学問所の直轄教授所を深川・麻布・麹町に設置したが、特に才を認められ、栗斎は麹町教授所の長を命ぜられた。崎門派の朱子学者であったが、字義・文義を抜きにして理を説きがちな崎門末流には批判的で、詩文に遊ぶ雅人でもあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「高野の北寶院」不詳。]

  築地の門跡[やぶちゃん注:築地本願寺のこと。]より、

「宗名、改めたし。」

とて、公儀へ願書いだせしこと有し。其おほむねは、

「當宗名、品々にとなへ來り、亂りがわしく候故、一名に、いたしたし。元來は淨土眞宗なるを、一向宗、又、門徒宗、又、淨土新宗とも、文字に書候ことにて、抑(そもそも)、當宗は淨土眞宗と、となふるぞ、たゞしき名なる。其證は祖師のうたに、『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふこと有(あり)。」

など、品々、おもふほど、書つらねてさし出せしに、世は田沼大しよく[やぶちゃん注:「大職」で「老中」のことであろう。ここは「政策をすっかり田沼に奪われていた御世の」の意。]の人々、無學文盲にて、ことのよしも味はへず、

「寺のことは、寺を、たのめ。」

と、かたむけて、

「此事、いかゞ。」

と增上寺[やぶちゃん注:同寺は浄土宗である。]へ御相談有しとぞ。

 僧法師は、宗のかたへは、俗よりも、いどみ、もじるものと、心つかざりしなり。

 門跡のかたは、其子孫にて、跡をつぎて、他宗を見ぬ故、おのづから世の樣に、うとし。他宗の出家は、諸國雲水して、世上の樣に、立はしりものならでは、上にたたねば、爰に黑人[やぶちゃん注:「くろうと」。玄人。]・素人の、たがひ、有、文言などの器用・不器用、くらべがたし。さらぬだに、門徒宗の格式よきをにくみて有しを、

「こと、かなふ、元。」

と、手づくろひして有(あり)。すこむる手こきの出家たち、

「よきなぐさみよ。物見せん。」

と、御家やうの俗筆にて、いかにも俗の氣のつく樣に、へたと書てさし上しを、公儀にて、

「一々、尤。」

と思召、門跡へ訴狀かへさるゝに、

「是には、今更、相あらためがたきことなり。增上寺より、とひかけたる難事のこたへ、申上べし。」

と有しとぞ。其難事は三ケ條なり。一ッは、

「元來、門徒宗は、當宗より、いでたることなれば、「新宗」と申は、さもあるべし。なぞや、「眞」の字を用べき。それにては乍ㇾ憚御公儀樣、御宗旨よりは、まことなりと申にて、おそれおほき事なり。いくへにも御ゆるし有がたきことなるべし。『宗名、色々にて、みだりがはし。』といふも、願上るにも、たらぬことなり。それをよろしからずおもは、年々、御あらため有(ある)宗旨證文に、宗名、何と書ても、印判いたし來りしは、いかに。」

 今一ッ、

「『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふ和讃を證に取しは、おかしき事なり。此和讃は、親鸞上人の、其(その)師をほめてうたへる歌なり。されば、當家をさして『眞宗』とは申されたり。其家のことならず。其元をもわきまへず、みだりに訴狀奉られしは、いかに。」

 今一ヶ條、有しが、わすれたり。おもひいでば、書て、くはふべし。文言は、其書、見もせねば、たゞ父樣御はなしをもて、つくりしことなり。

 門跡にては、願(ねがひ)かなはぬは、さておき、增上寺への返答に、

「はた」

と、つかへ、あとへも、先へも、ゆかれず、願書の文言せし人を、おしこめなどしてみたれども、つまらず、當惑の時、壱人、おもひよる人、有て、

「それ。むかふ築地の工藤周庵は、天下一の才といふ、きこえ、有。なるか、ならぬか、たのみて見ん。」

と、夜中、ひそかに來りて、委細の事、申(まうし)、談(だんぜ)ぜしに、父樣、一通(ひととほり)、御聞うけ、

「いかやうにか、工夫致見候はん。さりながら、一向しらぬ佛法のこと、少々、佛書をひらきみて、筆、取申べし。」

とて、かへされしとぞ。其時、少々、佛書御覽有しなり。

 御佛學被ㇾ成しは、是が、もとなり。

 それより

「ひし」

と御引こもり、御くふう被ㇾ成しが、一ヶ月七十兩の筆耕料(ひつ《こ》れう)上(あがり)し、と御はなしなり。

 さて、雙方のかけ合の書をてらし御覽ずるに、いかにも門跡は不吟味、增上寺は、しらべ、よし。

 それは、さておき、新御くふうの答に、『年々、改め來りし宗旨證文に、何と書ても、印判仕來りしは、いかゞ。』と有(ある)に、

「當家は、他家とちがひ、子孫にて名をつぎ候間、幼少の主(あるじ)おほく、宗名をも見分ず、印判いたし來り候に付、みだれ候を、一名に、いたしたし。」

と申上しことなり【此こたい[やぶちゃん注:ママ。「答へ」。]、妙なる事と、うかゞひし。實にさぞ有けんを、かへりて、其宗にては、こゝろつかずしならん。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。

 また、和讃をとがめしこたへ、

「實に、是は、しんらん上人の、師をほめてうたへる事は、誰(たれ)もしること故、くわしく書上ざりしなり。されど、『せんじやく本願のべ給ふ』とまで、書ていだせしは、我がことならぬ證なり。わがことを『給ふ』とは、いはず。」

と、いひ分の御くふう被ㇾ成しとぞ。

 「此『給ふ』の一字なくば、誠にいひわけがたかりし。」

と被ㇾ仰し。三ケ條とも、ことなく、すみしかば、門跡にては、大悅にて有しとぞ。

 されど、

「宗名は、あらためられぬに、かたまり切(きれ)し。」

とのことなり。これは、ふと何かの序に、うかゞひしことにて有し。

 病用の外にも、公事沙汰、權門方にて、御いとま、なかりし。

[やぶちゃん注:個人的は親鸞が好きなので、後半の話は非常に面白く読んだ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 素馨花

 

[やぶちゃん注:輪池堂屋代弘賢の発表。「素馨花」はジャスミンの起原植物であるシソ目モクセイ科ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum のこと。当該ウィキによれば、『落葉性の灌木で』、『オオバナソケイ(大花素馨)とも呼ばれる。英名、中国名が多く、英名はSpanish jasmineRoyal jasmine、中国名は素馨、素馨花、素英、耶悉茗花、野悉蜜、玉芙蓉、素馨针など』。『南アジアのインドや、パキスタンのSalt Rangeという山とラワルピンディ地区』の五百~千五百メートルの『標高に自生』するが、『 ヨーロッパへは古代ペルシャを、日本へは中国を通って伝わった』。『インドで、葉が広く使用されている。アーユルヴェーダの漢方薬、花は女性のヘアスタイルを飾るために利用される。庭木や観賞植物として広く栽培されている。花からとれる香油をジャスミンといい、香料として使用される』。『中国、五代十国時代の劉隠』(八七四年~九一一年:唐の節度使で後梁の南海王。本貫は汝南郡上蔡県だが、遠祖はアラブ系という説もある。賢士・名士を好み、唐末や後梁の混乱で、中央から逃れてきた多くの人材を登用し、十国南漢の基礎を作り上げた人物)の『侍女に素馨という名の少女がいて、死んだ彼女を葬った場所に素馨の花が咲き、いつまでも香りがあったという伝説が由来という説』や、『花の色が白く(素)、良い香り(馨)がする花という意を語源とする説』『がある』。一~四メートルの『高さに生長する。葉は長く』、五~十二センチメートルで、『奇数羽状複葉になる。小葉は卵状楕円形で』二~四『対ある。花は枝先や上部の葉腋に直径約』三・五センチメートルで、七~十一月に『咲き、白く、独特で甘い香りがする』。『温帯や亜熱帯地域でよく生育する』とある。]

 

   ○素馨花

素馨花は、遠からぬ世に、はじめて渡りしとて、いまだ世に稀なるを、この比、手に入りたれば、になく[やぶちゃん注:「二無く」。この上なく。]、めづるあまりに、本草のたぐひを書きうつしつゝ、かうがへ合するに、「花鏡」に、『花郁李に似て、香・艷、これに過ぐ。』といへる誌には合ひたれば、『葉桑よりも大なり。』といふと、「綱目」および「岸芳譜」に、『花、四辨。』といふに、あはず。疑なきにあらざるなり。

[やぶちゃん注:「花鏡」(かきやう(かきょう))は清初の一六八八年に刊行された園芸書。当該ウィキによれば、『園芸植物の栽培法を述べた実践的な書物としては中国最初のものとされる。中国では』「花鏡」、日本では以下に出る「祕傳花鏡」と『称することが多い。著者名は従来、版本にしたがって』「陳淏子」(ちんこうし)『と記されてきたが、近年』、「陳淏」『という本名が明らかになったため、中国ではこれを用いる例も出てきている』。著者陳淏は『浙江省杭州府銭塘県の人』。当初、「花鏡」は「陳淏子」の『名で刊行されたため、近時まで長らく本名も生涯もほとんどわからないままであった』が、一九七八年に、『誠堂と署名した短文が林雲銘「寿陳扶揺先生七十序」をもとに著者陳淏子の生年の誤りをただすとともに』「花鏡」の『序文から想像されてきた著者の人物像が修正されるべきことを指摘した』。『これを端緒として名、字、号がただされ、その生涯、人物像もある程度まで解明されるにいたった』。本書は『よく読まれた書物で、中国で版を重ねたのみならず、日本にも舶載されて数度にわたって和刻本が出された』。『和刻本では、安永』二(一七七三)年に『刊行された』日本平賀先生校正「重刻祕傳花鏡」(六巻六冊)が『最初で』、『平賀先生とは平賀源内である。丁序・張序・自序がそろっているなど、文治堂の原刻本』(中国で最初に版本として刊行されたもので一六八八年の序がある)『をもとにしたと認められる。序・本文に訓点を施し、項目にあげられた植物名の大半に和名を書き加えてある。この源内校正本はその後』、文政元(一八一八)年・文政一二(一八二九)年・弘化三(一八四六)年と『版を重ねた』とある。本「兎園会」文政八年十月一日発会であるから、初版か再版を元にしている。『日本では木下順庵』(元和七(一六二一)年~元禄一一(一六九九)年:江戸前期の儒学者。名は貞幹。京都出身。柳生宗矩に従って、一時、江戸に出たこともあるが、帰洛後、加賀国金沢藩主前田利常に仕え、後に幕府儒官となり、第五代将軍徳川綱吉の侍講を務めた。その間、「武徳大成記」を始めとした幕府の編纂事業に携わり、林家の儒家らとも交流している。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。教育者としても知られ、元禄六(一六九三)年)に徳川綱豊(後の第六代将軍徳川家宣)の使者高力忠弘が、甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は門人であった新井白石を推薦している)『・新井白石・松平綱豊』が、本書の『最も早い読者であったと思われる。順庵が白石をとおして綱豊に薦めたものであるという』。『順庵存命中』、則ち、元禄十一年以前には「花鏡」は『舶載されていたわけで、貝原益軒は元禄』十二『年正月にこれを読んでいる』。『京都本草学について言えば、山本亡羊あたりから師承関係をさかのぼって小野蘭山、松岡玄達、稲生若水とたどると、これらの博物学者はいずれも』「花鏡」との『関係が密接である。玄達、若水の時代はあたかも』「花鏡」『舶載の初期にあたるが、特に若水は自分の著作にこれを最大限に活用して』おり、元禄十四年三月、『金沢において前田綱紀に』、「毛属」十冊と「鱗属」・「羽属」の拾遺二冊を『献じた若水が翌』四月七日に『葛巻新蔵に提出した書類に「私一見仕り候分」としてあげた』十一『種の「花果類ノ書」の一つは』「花鏡」であった。若水が大著「庶物類纂」の『「花属」「果属」の編纂に参照した書籍という意味であろう』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、文政十二年版原本の六巻が視認出来る。]

「祕傳花鏡」

    素馨花

素馨花。一名耶悉茗花。俗名玉芙蓉。木高二三尺。葉大於桑而微臭。蟻喜聚其上。花似郁李。而香艷過之。秋花之最美者。性畏寒喜肥。幷殘茶不結實。自霜降後。卽當護其根。來年年便可分栽。黃霜時扞亦可。廣州城西彌望皆種素馨。僞劉時美人葬此。至今花香。甚於他處。

[やぶちゃん注:同前の第五巻PDF)の39コマ目で視認出来る。訓点に従い、訓読する。一部推定で読みと送り仮名・濁点を補った(なお、リンク先の原本は一部の漢字表記(例えば「耶」が「那」)が違っている)。

   *

    素馨花

素馨花。一名は「耶悉茗花」[やぶちゃん注:「ジヤスミン」の漢音写に「花」を附けたもの。現代中国語をカタカナ音写すると、「イエ・シィー・ミィン・フゥア」である。]。俗に「玉芙蓉」と名づく。木の高さ、二、三尺。葉、桑より大にして微(すこし)く臭し。蟻、喜んで其の上に聚(あつま)る。花、郁李(いくり)[やぶちゃん注:庭梅。バラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica 。同じく江戸時代に原産地中国から渡来した。]に似て、香・艷、之れに過ぐ。秋、花の最も美なる者。性、寒を畏る。肥(こえ)幷びに殘茶を喜(この)む。實を結ばず。霜降るの後、卽、當に其の根を護るべし。來年年[やぶちゃん注:衍字か。]、便(すなは)ち、分栽すべし。黃霜(わうさう)[やぶちゃん注:霜にうたれて葉が黄色に変色すること。霜葉(そうよう)。]の時、扞(おほ)ふも亦、可なり。廣州城の西、彌望、皆、素馨を種(う)ゆ。僞劉[やぶちゃん注:先に注した劉隠のことらしい。]の時、美人を此に葬(はふ)るに、今に至るまで、花、香しきこと、他處より甚し、と。

   *]

「本草綱目」【「茉莉」附錄。】

素馨【時珍曰。素馨亦自西域移來。謂之耶悉茗花。卽酉陽雜俎所載野悉密花也。枝幹裊娜葉似末利而小。其花細瘦四辨。有黃白二色。釆花壓油。澤頭甚香滑也。】。

[やぶちゃん注:確かに巻十四の「草之三 芳草類」の「茉莉」の「附錄」にある。「茉莉」は本邦では「まつり」と読み、ジャスミンの近縁種である「茉莉花(まつりか)」(アラビア・ジャスミンとも呼ぶ)ソケイ属マツリカ Jasminum sambac 、或いはジャスミンの異名でもある。訓読しておく。なお、「密」は「蜜」の誤りである。

   *

素馨【時珍曰はく、「素馨も亦、西域より移し來たる。之れを「耶悉茗花」と謂ふ。卽ち、「酉陽雜俎」に載する所の「野悉蜜花」なり。枝幹、裊娜(だうだ)[やぶちゃん注:「じょうだ」は「しなやかなさま・なよやかなさま」の意。]、葉、末利[やぶちゃん注:「茉莉」に同じ。]に似て小なり。其の花、細瘦にして、四辨。黃・白の二色有り。花を釆(と)り、油を壓(しぼ)り、頭を澤(ぬら)して、甚だ香滑なり。」と。】。

   *]

「二如亭群芳譜」花部

素馨 一名耶悉茗花。一名野悉蜜花。來自西域枝幹裊娜。似萊裊而小。葉纖而綠。花四瓣細瘦。有黃白二色。須屛架扶起。不然不克自竪。雨中嫵態並自媚人。

[やぶちゃん注:「二如亭群芳譜」は明の王象晋(一五六一年~一六五三年)が自らの栽培体験と広範な文献収集によって編撰した十七世紀初期の多種作物生産及び生産に関する問題について論述した大著。各植物の特徴と品種・園芸技術・関連する植物及び、その典故や詩歌まで載せる。清代になって増補を経て、「四庫全書」に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションで原本(明版本)のここから。参考出来る資料が全くないが、前の二篇が参考になるので、それで訓読しておく。最後の部分は力業で読んだ。「萊」は「茉」の誤りである。

   *

素馨 一名「耶悉茗花」。一名「野悉蜜花」。西域より來たれり。枝幹、裊娜たり。茉に似て、裊として小さし。葉は纖(ほそ)くして綠なり。花、四瓣にて、細瘦たり。黃・白の二色有り。須らく、屛(べう)を架(かけわた)して扶(たす)け起すべし。然らざれば、自(みづか)ら竪(た)つるに、克(た)へず。雨中の嫵(みめよ)き態(すがた)の並ぶは、自(おのづか)ら人に媚びたり。

   *

最後は「媚びるに似たり」と読みかった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 人のあまくだりしといふ話

 

   ○人のあまくだりしといふ話

文化七年庚午[やぶちゃん注:一八一〇年]の七月廿日の夜、淺草南馬道竹門のほとりへ、天上より、廿五、六歲の男、下帶もせず、赤裸にて、降り來りて、たゝずみゐたり。町内のわかきもの、錢湯よりかへるさ、之を見て、いたく驚き、立ち去らんとせし程に、かの降りたる男は、其儘、そこへ倒れけり。かくて、件のありさまを町役人等に告げしらせしかば、みな、いそがはしく來て見るに、そのものは、死せるがごとし。やがて番屋へ昇き入れて、介抱しつゝ、くすしをまねきて見せけるに、脉は異なることもあらねど、いたくつかれたりと見ゆるに、「しばらく、やすらはせおくこそ、よからめ。と、いへば、みな、うちまもりてをる程に、しばしありて、件の男は、さめて、かうべを擡げにければ、人みな、かたへに、うちつどひて、ことのやうを尋ぬるに、答へていはく、「某は京都油小路二條上る町にて、安井御門跡の家來伊藤内膳が忰に安次郞といふものなり。先、こゝはいづくぞ、」と思ふ。「こゝは江戶にて、淺草といふ處ぞ。」と答ふるに、うち驚きて、頗りに淚を流しけり。かくて、なほ、つぶさに尋ぬるに、「當月十八日の朝四つ時[やぶちゃん注:不定時法で午前九時半前頃。]比、嘉右衞門といふものと同じく、家僕庄兵衞といふものをぐして、愛宕山へ參詣しけるに、いたく暑き日なりければ、きぬを脫ぎて、凉みたり。その時のきるものは、花色染の四つ花菱の紋つけたる帷子に、黑き絹の羽織、大小の刀を帶びたりき。しかるに、その時、一人の老僧、わがほとりへいで來て、『おもしろきもの見せんに、とく來よかし。』と、いはれしかば、隨ひゆきぬと、おぼえしのみ。其後の事をしらず。」といふ。いともあやしき事なれば、そのものゝはきたる足袋【白木綿の足袋なり。】を、あたり近き足袋あき人等に見せて、「こは、京の足袋なりや。」と、たづねよ[やぶちゃん注:ママ。]、「京都の仕入に、たがひなし。」といへり。その足袋に、すこしも泥土のつかでありけるも亦、いぶかしきことなりき。「江戶にては、かゝる事あれば、官府へ訴へ奉るが、町法なれば、何と御沙汰あるべきか、その事も、はかりがたし。江戶に知音のものなどの、ありもやする。」と、たづねしに、「しる人とては、絕えてなし。ともかくも、掟のまにまに、はからひ給はれ。」と、いふにより、町役人等、談合して、身の皮を拵へつかはし、官府へ訴へまうしゝかば、當時、御吟味の中、淺草溜へ御預けになりしとぞ。其後の事をしらず。いかゞなりけんかし。

  文政乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]冬十月朔 文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:「淺草南馬道竹門」「南馬道」現在の台東区浅草二丁目三十四及び三十五番の各一部で、「竹門」は延命院・吉祥院・徳応院の三寺院を指す。いつもお世話になるサイト「江戸町巡り」の「【浅草②】浅草南馬道町」及び「【浅草②】浅草北馬道町」の記載に拠った。「古地図 with MapFan」で旧三寺院の位置を確認、現在のこの中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に相当することが判った(延命院はその敷地内に現存する)。

「京都油小路二條上る町」現在の京都府京都市中京区二条油小路町

「愛宕山」ここ

「淺草溜」(あさくさだめ)は浅草にあった、牢内で重病になった者や十五歳未満の者などを収容した施設を「溜(ため)」と称した(品川にも同様の施設があった)。参照した当該ウィキによれば、『象形町の西、浅草寺から田畑を経て日本堤にいたる路辺にあった』。貞享四(一六八七)年三月、『北条安房守が悪党』二『人を非人頭にあずけ』、五『月、甲斐庄飛騨守が罪人をあずけたことにはじまり、非人小屋に罪人をあずけおくのが増えたので』、元禄一二(一六九九)年七月に、この附近の畑地に二『棟の長屋をたてて』「溜」とし、『惣板敷きに畳をしき、竈をおいて煮炊きを自由にさせ、病囚、幼囚を収容し、非人頭の車善七がこれを』管理した。『 溜内は上座、下座をへだてず、朝夕の食事は重病者には粥をだした。 溜上番人は毎日、夕七つ時』(不定時法で夏で午後五時過ぎから冬は午後三時半頃)に『溜内にはいって状態を検した。 薬用は囚人の家から煎じとどけるさだめで、したがって上番人は宿の者と顔見知りとなるから、囚人が宿々へ内通がましいことをしない』掟(おきて)『があった』とある。「譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事」の本文及び私の注を参照されたい。より詳しく注してある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 述懷 (「春日詠嘆調」の草稿)

 

  述   懷

 

ああいかなればこそ

きのふにかはるわが身のうへとはなりもはてしぞ

けふしもさくら芽をつのぐみ

利根川のながればうばうたれども

あすはあはれず

あすのあすとてもいかであはれむ

あなあはれむかしの春の

みちゆきのゆめもありやなし

おとろへすぎし白雀の

わがゆびさきにしみじみとついばむものを。

              ――滯鄕哀語篇――

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「つのぐむ」は「角ぐむ」で、草木の芽が角のように出始めることを言う。「白雀」スズメのアルビノ。底本の「詩作品年譜」では、『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年とする。この詩篇、本文が、現在、「春日詠嘆調」と題するものと、ほぼ相同で、恐らくは、その失われた草稿かと推定される。「春日詠嘆調」は大正三年五月『時代』に発表されている。以下にその初出を示す。

 

 春日詠嘆調

 

ああいかなればこそ、

きのふにかはるわが身の上とはなりもはてしぞ、

けふしもさくら芽をつぐのみ、

利根川のながれぼうぼうたれども、

あすは逢はれず、

あすのあすとてもいかであはれむ、

あなあはれむかしの春の、

みちゆきの夢もありやなし、

おとろへすぎし白雀の、

わがゆびさきにきてしみじみとついぼむものを。

 

「つぐのみ」「ついぼむ」はママ。渡辺和靖氏の論文「萩原朔太郎の不安――『月に吠える』後半の課題(二)」(『愛知教育大学研究報告』一九九四年二月発行所収・PDFでダウン・ロード可能)の「⑵ 『月に吠える』公刊への道」の中で、この「春日詠嘆調」を採り上げられ、以下のようにその執筆過程と制作年代を推定されておられるので、以下に引用する(コンマを読点に代えた。〈 〉は筑摩版全集の抹消字を示す記号)。

   《引用開始》

 冒頭の二行は、「習作集第九巻」の後半部分に配列された、大正三年四、五月頃に制作されたと推定される、未発表の作品「みちゆき後扁[やぶちゃん注:上にママ注記。]」に見える、「あゝいかなれば〈ぞ〉こそ、われら/〈いかなればこそ〉/きのふに変る身の上とはなりもはてしぞ」(同第2卷、501頁)というフレーズと、ばぼ共通する。さらに、「みちゆき後扁」は、「あきらめられずこのことばかり」「よべどもせんなききのふの生活も/あまりなるに/はやはや君をかへさしめよと」と、失われた恋への未練を綿々と歌うというテーマにおいて、「春日詠嘆調」と共通している。

 また、「習作集第九巻」で「みちゆき後扁」より少し前に配され、『創作』大正三年五月号に揭載された、末尾に「(室生犀星氏に)」の付記のある「利根川の岸辺より」も、「春日詠嘆調」と類縁の深い作品である。利根川の川辺を歩くという全体の構図が共通するほか、「やよひもはや桜の芽をふくみ」が「けふしもさくら芽をつのぐみ」と共通している。また、「こゝろにひまなく詠嘆は流れいづ」という冒頭の一行に見える「詠嘆」の文字は、「春日詠嘆調」という題名そのものと共通する。[やぶちゃん注:中略。]ちなみに、「みちゆき後扁」には、「(詠嘆調)」という副題が付されており、この三篇が同一のモチーフによって結ばれていることは疑いない。

 「述懐」と題する「春日詠嘆調」の草稿には、「――叙情詩集、滞郷哀語扁[やぶちゃん注:上にママ注記。]ヨリ――」の付記がある。[やぶちゃん注:中略。]朔太郞が「滞郷哀語扁」の總題を使用したのは、大正三年三月に『上毛新聞』に発表した「春の来る頃」「早春」「鉄橋々下」の三篇と、同年十月号の『アララギ』に発表した「畑」の、計四篇である。「春日詠嘆調」は、そのスタイルやリズムにおいて、「畑」よりも、『上毛新聞』揭載の三篇と類縁が深い。以上の考察から、「春日詠嘆調」は、大正三年の前半に制作された旧作であると推定される。

   《引用終了》

以下、渡辺氏の挙げた、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の中にある「春日詠嘆調 (本篇原稿二種二枚)」を挙げる。御覧の通り、最初は無題で、後半のそれははっきりと「述懷」という題が明記されている。不審な錯字・脫字・清音・歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

 

  ○

 

ああいかれはこそきのふにかはる

きのふにかわるわが身のうへとはなりもはてしぞ

けふしもさくら芽をつぐのみ

利根川のながれぼうぼうたれども

あすはあはれず

あすのあすとてもいかであはれむ

あなあはれやぶれしむかしの春の

みちゆきのゆめもありやなし

おとはてしみさろへすぎし雀の子白雀の

わが餌葉をばゆびさきに羽蟲などついばむものをしみじみと光れるついばむものを。

 

 

  述懷

     ――敍情詩集、滯鄕哀語扁ヨリ――

 

ああいかなればこそ、

きのふにかはるわが身のうへとはなりもはてしぞ、

けふしもさくら芽をつぐのみ、

利根川のながれぼうぼうたれども、

あすはあはれず、

あすのあすとてもいかであはれむ、

あなあはれむかしの春の、

みちゆきのゆめもありやなし、

おとろへすぎし白雀の、

わがゆびさきにしみじみとついばむものを。

 

以上から、底本の本篇は、この最後に示した原稿を元に整序したものと推定出来る。]

2021/10/11

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 掘地得城壘 (現在の東京大学構内に存在した謎の城跡の記載)

 

Umenogoenato

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは右から上下で、順に左に移動しながら、同じく上下で電子化する。

「北」

「幅十間」(十八・一八メートル)

「東」

「此所、下水ト見エ、石垣ノ外ノ土ハ赤土ニテ石垣ノ内ハ黒土ナリ。」

「奥殿」

中央右寄り上に、

「半丁」(約五十四・五五メートル)

同真ん中に、

「貳町半余」(約二百七十二・七四メートル)

中央上部に、

「石ハコノ山ノ下ニ、猶、有ルヘケレド、コヽニテ止」(やみ)「ヌ」

「半丁」

「巾六間」(約十・九一メートル)

「深」さ「八尺」

「南」

中央左寄り上から、

「此石丸石ニテ五十人持」

「半丁」

「四十間」(約七十二・七二メートル)

「紅葉山」

「山蔭ニ一里塚アリ」

「榮螺山。頂ヨリ、沖ヲ見ル」

左端上から、

「壱町余」(凡そ百十メートルほどか)

「西」

最も下方少し上の端に、

「泉水」

とある。標題は読む必要もあるまいが、「地を掘りて城の壘(るい)を得る」である。]

 

   ○掘地得城壘

加州侯本鄕の上屋敷、「梅の御殿」といへるがありし跡も、此度、御守殿の御庭となし給ふにより、植木うゑんとて、今玆文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年]二月廿八日、手の木方、覺太夫・古太夫といふもの、土中六尺ばかり掘る程に、石垣に掘り當りにけり。これにより、大工棟梁、甚藏・古兵衞・吉藏といふもの、件の石を掘りとる事を請負に、同三月二日より日每に六十人、七十人、或は百人ばかりの人足をもて、七月廿日まで掘りたるに、石は、皆、丸石にて、面、少しづゝ、つきて、あり、その數、凡、三萬餘、掘り出だしけり。その石一つに、銀弐匁五分づゝの請負賃にて、大小に拘らず、同屋敷内へとり片づけたり、とぞ。何人の城郭なりしや尋ぬべし【解、按ずるに、こは、むかし、豐島信盛が一族、丸塚某などの城郭にはあらぬか】。よりて、その圖を下に出だしつ。

      加州普請奉行  關田十郞左衞門

              松 原 半兵衞

      大  工  頭    中 村 半 次

      同  頭  取    西 田 淸 平

      手木方【初めて石にほり當て候もの、此兩人。】

              服 部 覺太夫

              石 出 古太夫

      大工頭【湯島天澤寺前松吉屋の裏。】

              甚     藏

      本鄕金介町   吉  兵  衞

      同 所     吉     藏

右一條は、加州邸へ、日々、入り込みたる傭夫のはなしなり。

[やぶちゃん注:「加州侯本鄕の上屋敷」「梅の御殿」現在の東京大学構内の御殿下グラウンド(グーグル・マップ・データ航空写真)とほぼ一致する。

「豐島信盛が一族、丸塚某」不詳。「日本の城巡り紀行 MARO参上」の「本郷城 | 東京大学本郷キャンパスに残る謎の城跡伝説」で、本篇らしきものを『東京都文京区の東京大学構内は、かつて城塞のようなものがあったと、江戸時代後期に「南総里見八犬伝」の著者として有名な滝沢馬琴たちが豊島氏の城と語ったとされるそうです』と紹介しつつも、『しかし、この一帯はかつて後北条家の家臣・太田康資(江戸城で有名な武将・太田道灌のひ孫)が所領したとされる資料があるそうで、実際には太田康資の城であったと考えられるそうですが、どちらの説も確証はないそうです』。『本郷城としての遺構は残念ながら残されてはいません』とある。]

同年二月三日・四日のころ、右同藩の家老村井又兵衞、小屋にて、玄關前なる柱の下より、大工勘右衞門といふもの、石の地藏を掘り出だせり。同月初午の日、稻荷の社地へ堂を建立して納めけり、とぞ。其圖、左の如し。

 乙酉初冬朔        海 棠 庵 記

 

Isijizou

 

[やぶちゃん注:同前。キャプションは右手上に「長サ」(像高)「三尺許」、右下方に指示線が短くあって恐らくは像下方の直径を「二寸許」とするが、これは地蔵なら、異様にスマートである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 立石村の立石

 

[やぶちゃん注:発表者は海棠庵。この石、現在も東京都葛飾区立石八丁目にある立石児童遊園内に存在する(グーグル・マップ・データ)。そのサイド・パネルで、葛飾区教育委員会のものと、東京都教育委員会による説明板の二種の解説が読める。現在は、同パネルを見る限り、小さな玉垣に囲まれた裸の地面から僅かに数センチメートル露出しているのが現認出来るだけであるが(祠はその背後に少し離れて建っている)、後者によれば、この周辺には複数の古墳が存在し、古墳時代に古墳の石室を作るのに持ちこまれたものと推定しており、しかし、実際にはそれに使用されず、ここが、墨田から市川の国府台(こうのだい)に通じていた古代の東海道の通過点附近であることから、転用されて道標として建てられたものと考えられているという解説が載る。そこでは江戸中期の愛石家木内石亭の「雲根志」の記載として、当時は高さは六十・六センチメートルはあったとあり、それが、磨り減った理由も懇切丁寧に書かれてあるのがいい(但し、私の偏愛する「雲根志」の巻之一全篇の「立石十七」には、正確には『南北三尺東西壹尺五六寸高さ地より六尺余出』とあるので、江戸中期の表出部分の大きさは相当にデカかった)。また、『電気通信大学山の会会報』の一九七九年入学の島田明氏のコラム記事(PDF・掲載誌発行日不詳)「葛飾立石散歩 -立石村の立石様って何?-」は、本篇を電子化された上、現代語訳を載せ、しかも、何んと! ここに出る「名主新右衞門」が、この筆者島田氏の先祖の一人だというのだから、驚きである。読み物として、とても面白い。なお、この際だから、「雲根志」の巻之一全篇の「立石十七」を電子化しておこう。読み易く句読点と記号を補った。

   *

     立石(たていし)十七

下總國葛飾郡立石村南蔵院の畑中にあり。其大さ南北三尺、東西壹尺五、六寸。高さ、地より六尺余(よ)出。「此石に、俗、供物して、諸願を祈るに、其しるしあり」と。此邊、里人(りじん)、云傳ふ。「此石、金輪際より生出(おひいで)て土際(つちぎは)より下へ大木(たいぼく)のごとき根あり」と。何(いづ)れの時にや、好事のもの、あつまり、『石の根を見ん』とて根をほりたるに、云傳ふごとく、黃色なる木の根のかたちなる石、土中(どちう)にはびこりたる、たちまち震動して、前後をしらず。手傳ふたるものども、大に病(やみ)たり。其後、此石を、うがち、せゝる事を、大にましむる、と。「州圖副記」の「承受石(せうじゆせき)」、是なり。

   *]

 

   ○立石村の立石

下總國葛飾郡立石村【龜有村の近村なり。】の元名主新右衞門が畑の中に、むかしより、高き壱尺計の丸き石、一つ、あり。近き比【年月未詳。】當時のあるじ新右衞門、相はかりて、「さまで、根入りもあるべくも見えず、この石なければ、耕作に便りよし。掘り出だし、のぞきなん。」とて、掘れども、掘れども、思ひの外に、根入り、深くて、その根を見ず。とかくして、日も暮れければ、「翌、又、掘るべし。」とて、その日は、止みぬ。翌日、ゆきて見れば、掘りしほど、石は、はるかに引き入りて、壱尺ばかり、出でゝあり。「こは、幸のことぞ。」とて、そがまゝ、埋みて、歸りぬ。又、その次の日、ゆきて見れば、石は、おのれと、拔け出でて、地上にあらはるゝこと、元の如し。こゝにおいて、且、驚き、且、あやしみ、その凡ならざるをしりて、やがて祠を石の上に建て、稻荷としてあがめまつれり、といふ【一說に、石のめぐりに、只、垣のみ、してあり、祠を建てたるにはあらず、とぞ。】。今も「石を見ん」と乞ふ人あれば、見するとなん。右新右衞門は木母寺境内にをる植木屋半右衞門が緣家にて、「詳に聞きし。」とて、半右衞門、かたりき。おもふに、この村に、この石あるをもて、古來、村の名におはせけん。猶、尋ぬべし。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十集) 庫法門

 

[やぶちゃん注:非常に長いので、段落を成形した。この「庫法門(くらほふもん(くらほうもん))」「御庫門徒(おくらもんと)」というのは、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、浄土真宗の異端的一派で、「御庫秘事」(おくらひじ)「土蔵秘事」「布団被り」「内証講」「御杓子講」「隠念仏」 (かくしねんぶつ)などの異称があり、浄土真宗の異安心 (いあんじん:仏教各宗派に於いて、祖師の伝承に基く正統な説とは異なった見解・領解(りようげ:悟り)を指す。「異流」「異義」「異計」「邪義」とも呼ぶ。特に、浄土真宗では正統の安心を重んじて異安心の排除に熱心であった。真宗における異安心は、既に親鸞の在世中、その門下に「一念・多念」或いは「有念・無念」等の論争があり、「誓名別執」「造悪無碍(むげ)」「専修賢善」といった異義があった。本願寺を開創した覚如は、親鸞の正意の発揮に努め、仏光寺系の「知識帰命」や、唯善の「無宿善往生」の異安心を排した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った) の一種で、秘事法門の代表的なもので、土蔵の中で弥陀の本身を拝し、在野の宿善の者のみに、親鸞が特にその子善鸞(後に父親鸞によって義絶された)に伝えたという深義を説くとされ、名古屋一帯を中心に関東でも行われた、とある。学術的には『真宗研究』第十九号(一九九八年発行)の菊池武氏の論文「近世に於ける越後長岡異法義始末記」(ここPDFでダウン・ロード出来る)が、これと同じ浄土真宗の異端信仰者の越後長岡での摘発の経緯を記している。さても。本篇は、いかにも、今のファンダメンタル系異端集団や、怪しい新興宗教及びニュー・サイエンスなどの巧妙な勧誘法や、精神医学書の典型的なヒステリー事例としてのトランス状態や、その集団感染の様子を哀れに髣髴させるリアリズムな筆致なので、記号等も多用した。]

 

    庫 法 門

 往昔、世に「庫法門」【俗に「御庫門徒」と云ふ。】とて、あやしき宗旨ありしが、ある人、その宗を、いとあやしみて、彼法に入り、委しくその勸むるてだてを試み、いよいよ、直ならぬ敎なりければ、官府へ訴訟し奉りしかば、やがて、これをいましめおきてさせ給へり。其訴へ申しゝ人の、其宗門の勸むるさまを詳に記し、「庫裏法」と題せし册子あり【又、「二樵閑話」とて、かの庫法門のことを記したる、此二書にて、彼宗はつまびらかにしらるべし。】。其序に云、

『自ㇾ古邪說惑ㇾ人多矣。而庫裏法之行也。亡慮百年焉。人間無一人知ㇾ之。則其怪祕藏者可レ知也。此書一出耶徒屛息。冷謄無ㇾ所ㇾ施其術。其功不亦偉乎。』

と、いへり。

 予、このごろ、何くれのわざ、しげくて、いまだ「兎園」の料を得ざりき。こゝに於て、嘗て「庫裏法」を鈔し藏めたりしを、寫しいでつ。徂徠翁の「畸人十篇」に題して云、『遂俾一通以爲燃ㇾ犀照ㇾ怪之具云。』と。予が此書においても、亦、いへり。

――敎主を善兵衞といふ。元來、行德村の者にて、幼少より傳馬町中野屋と申す鼈甲細工致すものゝ方に奉公せしが、身持あしくて、彼宗を追ひ出だされ、芝居役者の聲まねを申して、齒磨など商ひたり。其後、此宗をひろむ【按に、「二樵閑話」に云、『善兵衞、法名は善生、一人なり。外に源右衞門とて、神田に在り。これを神田方といへり。】。

「傳來も四代迄は、姓名覺えたれど、其以前は名をしらず。」

と云ふ。

 尤、みな、俗形[やぶちゃん注:「ぞくぎやう」。]にて、僧には無之よし。

 勸め方の次第は、江戶・田舍ともに、右信仰のものどもの内にて、譬へば、親族にても、他人にても、『此ものを勸め込み可申』と心付候へば、事の序に、世話人へ、はなし、世話人、承り、其勸めんと申者の行狀、又は、宗旨、その外、氣質まで、とくと承り、誤もあるまじく思ひ候へば、勸めさせ申候へども、至りて大事に不調法無之樣、申含候。

 夫より、晝夜不懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。]、附まとひ、何につけても、深切に實情を盡し、神道信仰の人は、六根淸淨の祓など、神祕がましきことをほのめかせ、儒學など聞きはつりしものへは、

「顏子[やぶちゃん注:孔子最愛の弟子顔回。]が所樂は何事ぞ。」

など申す。

 そのものゝ心を引動し[やぶちゃん注:「ひきうごかし」。]、又、人の貴賤を擇まず[やぶちゃん注:「えらまず」。]、賤者の、ことに貴く存候譯は、我々が樣なる下賤のものを、

「御同行[やぶちゃん注:「ごどうぎやう」。]よ、行者衆よ。」

と、歷々の人と同じく致候事、誠に利を貪る爲にもなく、外聞をおもふにても、なし。只、

「此報恩には、金錢は力に及ばず。」

など、人を勸むべき手だてをめぐらし、敎訓し、又は、佛法者なれば、

「人々は、佛法、信仰し給へども、いまだよき智識に逢ひ給はぬゆゑ、誠の事を聞き給はず。殘り多きことなり。」

など申し候故、

『扨は。道德勝れし出家などに近付きて、人しれず、貴き敎などを聽聞致すもの。』

と存じ、

『何卒、かゝる智識あらば、我も近よりて、法談にても、聽聞したき。』

と思ふこゝろ、出來、密に承り候へば、始は、わざと、隱す樣に、もてなし、

「成程、尊き師のおはしまし候。扨、引き合せ吳候。」

樣に愼み候へば、何かに付き、日を延し、爰彼[やぶちゃん注:「これかれ」。]、この同行へ、しる人に致候て、法義、物語りし、

「誠の道を求むるには、志淺くては至りがたく、不惜身命の心にて求め候はゞ、終には志願成就の時も可有之間、只、心にたゆみなく、手足を、はこび、家にありても專念し、我信ずる佛菩薩にも、誠の智識にあはせ給へと、一心に念じ給へ。」

など申し聞え候まゝ、理に至極して、敎の通り、怠りなく念ずる内に、

「何卒、片時も、はやく、智識の人に逢ひ申し度。」

と、せちに賴み、無餘儀ときは、

「京に至りて、信心の同行の招にて上京し給ふ。」

の、或は、

「みちのく。」

又は。

「そこの田舍。」

などと申し延して、

「待ち遠くおぼすべし。智識に逢ひ給ふまでにありしが、法談を、先、聞せ申すべし。」

とて、高弟の辯舌あるものに、いはせ候。

 是を「下催促」と名付候なり。只、

「求むる心の、たゆまぬ樣に。」

と、のみ、心はげませ、引き立て候。是、深き謀なり。

「近内、智識、江戶へ渡り給へば、案内申すべし。」

とて、その日になれば、彼引立の同行、伴ひて、同行の内とおぼしく、人、あまた、つどひたる處にゆきぬ。一間に、檀、しきて、經机など置きたるは、智識のおはする、まうけなり、と見ゆ。凡、三、四十人も集りより、こぞり居る體、あやしく、めづらかなり。

 辰の刻[やぶちゃん注:午前八時頃。]ばかりに、

「智識、來り給ふ。」

など、ひそかに、いひあへり。

 かのまうけの座につくを見れば、若き男なり。

『こは、いかなることにか。』

と思ふに、

いづれ、いづれ、此程、同行衆の各、いひ通じて、佛法のこと、せちに求めおはする。」

由を、うけ給はりて、奇特に思ひ侍り。

「とく、あひ來るべきを、さはることありて遲なはり侍る。」

よしなど、ねんごろに云ふことの體、なめげならず、うやうやし。

 是、善兵衞なり。

 扨て、いふやう、

「佛法の一大事は、法衣まとひし老僧の申し侍るべきを、在俗の、年若き者の、まみえ奉れば、あやしく思召べし。是には、段々、譯のあることなり。先、蓮如上人の御歌。」

とて、

 說く人の姿を見るな聞く人の理り聞きて身の德とせよ

と申す歌をかたり、八宗九宗[やぶちゃん注:「はつしゆうくしゆう」。平安旧仏教(「南都六宗」の「華厳」・「法相」・「三論」・「成実(じょうじつ)」・「倶舎(くしゃ)」・「律」の南都六宗に「天台」・「真言」の平安(京都)二宗を加えた「八宗」(はっしゅう)に、広義の「禅宗」を加えたものが「九宗」(くしゅう)。]の大意、神儒の極意などこそ、申し聞せ候。愚昧のものは、

「至極の法門。」

と、驚き入り候。

「今の一向宗とは、我慢・愚癡にして、自力をことゝす。我、傳ふる處は、蓮如上人より江州金が森の道西へ傳へ、嫡々、相承して、某に至れり。御文[やぶちゃん注:「おふみ」と訓じておく。]、八十一通あり。其内、肝要なるをよむべし。」

とて、「月の御文」を讀む。

 坊主を戒めの御文なれば、さきの詞に引き合せて、京都樣[やぶちゃん注:蓮如のことであろう。]をも譏り奉る趣き、明らかなり。

 又、異かたにて、座を設くるも、きのふの如し。

 はや、きのふ、說き勸められて、淚にくれ給ひたる故、けふは、淚の落つること、はやし。

 辰の刻より、午の刻の頃までに、法談、畢れば、男女、殘りなく、

『啼きさけぶ外に、かゝるためし、あるべしや。』

と思へり。

 夫より、扇を持ち、地をうちて、「虎と見て石に立つ矢もあるものを」といふ歌をいひ、「『命を捨つる程に』といひしは、いまだ、御志の、しれ侍らざればなり。誠は、命、生きて歸らせ給ふことは、難きなり。命なくなり給ふなれば、ゆめゆめ、くい給ふべからず。父に兄弟、金銀何にても思ひ給ふことあらばとて、歸り給へり[やぶちゃん注:底本にま「へり」の右にママ注記がある。]。」

と、强くいひ、誓言を立てさす。是を「懺悔(ザンゲ)」[やぶちゃん注:ごく近世までこの「懺悔」という語は仏教では「さんげ」と読むのが普通であり、現在でも仏教では「さんげ」である。通常は明治以降にキリスト教が一般に広まるにつれて「ざんげ」の読みが普通となったから、この「ざんげ」というルビは極めて特異的な読み表記と言える。]といへり。

 夫より、「五重の消息」[やぶちゃん注:不詳。「庫法門」内に伝わる誰彼の五通の書簡か。]をよみ聞かせ、はや、法談は止め、智識の前へ、ひとり、ひとり、出でゝ、手を組み合せて、鳩尾の下をしつかりとおさえ、目をふさぎ、扨、いひ聞するは、

「『南無』といふは、『たすけ給ひ』といふ詞なり。是を、いく度も、いく度も、唱へ給へ。扨、その程に、如來、たより、信心、治定せしめ給ふ故、あみだ佛の、おのが身へ宿り給ふなり。是、『南無』と賴む機と、阿彌陀佛の法と、機・法、一體にて、南無あみだ佛、全く備り給ふなり。世に『南無あみだ佛』とばかり唱ふるは、笑ふべきことなり。」

など、理り、こまやかに、いひきかせ、扨、廣き座敷に、幾人も、幾人も、手をくみ、目をふさぎ、

「たすけ給へ……たすけ給へ……」

と、いひて居るに、後を、屛風にて、かこひ、斯する程に、志の强きは、唱ふる聲も、力を入れて見ゆるを、『世話』といふもの、後の方より、兩脇へ手を入れ、抱きて、藏へつれ行くなり。

 藏の内に、佛壇ありて、前に燈明・線香・樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の花を備へたり。

 右の方に、善兵衞、冬にても、單衣に、「すそほそ」をはき、左に、行悅、又、稻葉屋などいふ、宗徒、居れり。緣とりたる敷ものゝ上に、抱へ來れば、行者に、善兵衞、向ひ、

「目を開き給へ。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「すそほそ」「裾細」で野袴の一種で裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」のこと。]

 始めて見れば、思ひもかけぬ座に直り居て、ことやうなるものども、あまた居るゆゑ、たれも、たれも、驚く。

 かくて、善兵衞いふ樣、

「尊像あみだ佛に向ひて、前のごとく、目を閉ぢ、人の詞につき、『たすけ給へ……たすけ給へ……』と唱ふべし。いか程くるしきことありとも、退く心あるべからず。」

と云ひ敎へて、數多の人、かはりがはり、

「たすけ給へ……たすけ給へ……」

と唱ふ。

 そのこゑに付きて唱ふるに、始は、ひきく[やぶちゃん注:「低く」に同じ。低く小さな声で。]、次第次第に、高く唱ふる程に、助音するものは、大勢にて、唱ふるものは一人なれば、苦しさ、いはんかたなし。

 又、信ずるものは、少しもためらはず、

『はやく、死ばや。』

その心にて、たゆまねば、やがて、面も、かはり、さながら、死せるものゝ如し。

 女などは、髮、面にかゝり、さけぶさま、信なくて見つれば、淺ましき事、いはんかたなし。

 かの行者を、とらへ、引きあふのけ、耳に口をあてゝ、

「助けたり。」

と、いふ。その時の聲、始めて、耳に入り、

『はや、往生の業、成就したり。』

と思ふにや。

「はつ。」

といふ聲を揚げて、啼き出だす。

 傍なる智識も、

「よくしたり。」

とて、悅びあへり。かくて、人、伴ひて、藏を出で、靜なる所に臥さしめ、介抱す。

 扨、人々かたりあふは、

「今までは、訪ひ申すべきも、禁しめなれば、餘所にのみ見侍りしが、はや、そのかた樣の人となりし。」

とて、ものがたりす。近きあたりの人は、酒くみなど、せり。

 すべて、これを「終の日[やぶちゃん注:「つひのひ」。]」と定め、七々の法事・一周忌・三囘より、つねに異なること、なし。

「夫より後は、强ひて、まみゆることもなく、布施など、おくる煩ひも、なし。一紙半錢にても、人より、とり給ふ智識に、あらず。」

[やぶちゃん注:「一紙半錢」(いつはんせん(いっしはんせん))は「一枚の紙切れと半文(はんもん)の銭(ぜに)。極僅かの金銭の喩え。仏家では寄進の額が少ないことに用いる。]

など、いへど、大きなる僞りにて、參詣の者、

「施物・香奠を奉り度。」

由、かの引立どのに、いへば、とく厭ひ給ふを、

「まのあたり奉り給はんはいかゞなり。去ながら、志のほど、せちに思ひ給はゞ、我等がするごとくし給へ。佛間の中に、小き穴、あり。是へ、志のほど、落とし入れて歸り給へ。さらば、御手へ屆く事もあるべし。よしや、そのまゝむなしくなればとて、そこの志は佛こそ知り給ふらめ。志、あつく、人々にあるじせられしむくいをせざらんは、犬猫にもおとれりと思ふは、人情のつね。」

など、いひて、衣類・米・麥等、寄附するは、寺院に異なること、なし。

 その術中に入りぬる人は、いかで理をわきまへ知らんや。實に、淺ましき、かなしむべき事、此ことに止れり。

  文政乙酉孟冬朔      山﨑美成識

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 この「おくら門徒」は、はじめ延寶・天和[やぶちゃん注:一六七三年~一六八四年。]のころ、盛なりしが、露顯して、その繼は流刑せられたり。多賀潮古が、八丈島へながされしも、この故なりとぞ。かくて明和中、また、盛になりしを、ある人【天明中[やぶちゃん注:一七八一年~一七八九年。]、狂歌をもて、その名、聞えたる町人なりとぞ。憚りて、こゝに記さず。】、訴訟まうしゝかば、やがて、罪なは[やぶちゃん注:「罪なふ」は「処罰する」の意の動詞。]せ給ひてより、絕えにたるは、いと、めでたし。近ごろ、又、「富士講」といふもの、あり。寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、停止せられしが、今もなほ、あり。されば、この「富士講」の行者は、御廓内はさらなり、御門々々を過ぐることをゆるされずとぞ。

[やぶちゃん注:「多賀潮古」かの偏奇の画家英一蝶(承応元(一六五二)年~享保九(一七二四)年)の剃髪後の名乗り「多賀朝湖」(たがちょうこ)の誤り。彼は一度、元禄六(一六九三)年に罪を得て入牢したが、二ヶ月後に釈放されている(罪状は不明)が、元禄一一(一六九八)年に、表向きの罪状は町人の分際で釣りをしたことで「生類憐れみの令」に違反となり、三宅島へ流罪となっている。宝永六(一七〇九)年の将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦で許され、十二年振りで江戸へ帰った。ウィキの「英一蝶」の「島流しに至る経緯」を見ると、複数の真相説が載るが、その中に、『大田南畝が伝えるには、当時禁教とされていた不受不施派』(日蓮宗のファンダメンタルな一派)『に与したため、とされている』とあった。なお、英一蝶のフル・ネームの名乗りも、出家も帰府後の晩年である。

「富士講」私の「耳嚢 巻之九 駒込富士境内昇龍の事」の「駒込富士」の注を見られたい。途中から富士講の注となっている。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(こほれる利根のみなかみに) 「冬を待つひと」の草稿の一つ

 

  

 

こほれる利根のみなかみに

ひねもす銀の針をたれ

しづかに水に針をたれ

さしぐみきたる冬をまつ

ああその空のうすぐもり

かみつけの山に雪くれば

ひそかに魚は針をのみ

涙は芝をうるほしぬ。

ひとり岸邊に針をたれ

さしぐみきたる冬をまつ。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」では、『遺稿』とし、制作年を推定で大正三(一九一四)年とする。さて、これは筑摩版全集を調べて見ると、酷似した(相同ではない)詩篇が「冬をまつひと」の題で、大正四年一月号『遍路』に以下のように出ることが判った。

 

  冬を待つひと

 

こほれる利根のみなかみに、

ひねもす銀の針を垂れ、

しづかに水に針を垂れ、

さしぐみきたる冬を待つ。

ああ、その空さへもうすくもり、

かみつけの山に雪くれば、

魚らひそかに針をのみ、

ま芝は霜にいろづけど、

ひとり岸邊に針を垂れ、

來らむとする冬を待つ。

 

また、この初期形が「習作集第九巻」に、

 

  冬を待つひと

 

こほれる利根のみなかみに

ひねもす銀の針を垂れ

しづかに水に針を垂れ

さしぐみきたる冬をまつ

ああその空もうすぐもり

かみつけの山に雪くれば

ひとり魚らひそかに針をのみ

ま芝は霜にいろづけど

ひとり岸邊に針をたれ

きたらんとする冬をまつ、

 

の形で出、さらに、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の中に「冬を待つひと (本篇原稿二種二枚)」とある後半の二種目に(「→」は書き換えを示す)、

 

  ○

こほれる利根のみなかみに

ひねもす銀の針をたれ

しづかに水に針をたれ

さしぐみきたる冬をまつ

ふるさとのああその空さへものうすぐもり

遠山なみにかみつけの山に雲[やぶちゃん注:ママ。]ふれば→ふりづれば[やぶちゃん注:ママ。]くれば

ひそかに魚は針をの

こほれる利根の水上に。

われは淚をもよほしぬ

淚は草→柴芝をうるほしぬ。

ひとりしづかに岸べに針をたれ

さしぐみきたる冬をまつ、

 

があった。本篇はこの最後のそれを整序したものと推定出来る。

 なお、この草稿の前にある本篇の別草稿は、中間部の残存並置が異様に多く、電子化が難しい。そこで、その中間部のみを筑摩版全集から画像として取り入れ、上下二段で切れいていることから、合成した画像で示した。これは引用のレベルで許されるものと判断する。そこで使用されている記号を全集の同パートに「凡例」を参考に注しておくと、{ }はともに抹消されずに残った箇所を示し、〈 〉は抹消字を指し、《 》は〈 〉内の抹消に先立って推敲抹消された箇所を示す(「先立って」というのは、そのように推定されるとすべきであると私は考えている)。なお、上部にある横線であるが、これは、『數行つづきの詩行が對應し、ともに抹消されていない場合は、對應する』(ここも、そのように推定されるとすべきところであろう)『詩行の上部にそれぞれ橫線を引き、それぞれ{ }でくくった。』とある。前後は私が電子化し、今まで通り、抹消部は抹消線で示した。なお、題名は「菊」である。最終行の「泳けり」はママ。

   *

 

 菊

 

遠鳴る海の音にさへ

うす雪のさしぐむものを

こほれる利根のみなかみに

ひねもす銀の針をたれ

しづかに水に針をたれ

うれひにわがふるさとの[やぶちゃん注:以下、行空けなしで画像の最初(右)に続く。]

Huyuwomatuhitokikububunntyuukanbugousei

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きみを思へば[やぶちゃん注:画像の最終行に行空けなしで続く。]

うすゆきの空のさしぐむものを、

靑き松葉に霜はかゝれり、

さやさやと魚すいすいと小魚(いさな)泳けり

 

   *]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(われの故鄕にあるときは)

 

  

 

われの故鄕(ふるさと)にあるときは

市(いち)びとのうしろゆびさし

ちちははの哀しみしげく

あはれまた家を出でんと

利根川の岸邊に立てば

はつ霜の磧のなかに

いろ赤き草の實光る。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」では、『遺稿』とし、制作年を推定で大正三(一九一四)年とする。これは筑摩版全集では、第三巻の「未發表詩篇」に掲載されてある。同内容だが、読点が打たれてあるので、以下に示す。

 

  

 

われの故鄕(ふるさと)にあるときは、

市(いち)びとのうしろゆびさし、

ちちははの哀しみしげく、

あはれまた家を出でんと、

利根川の岸邊に立てば、

はつ霜の磧のなかに、

いろ赤き草の實光る。

 

 なお、さらに調べると、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『○われの故鄕にあるときは(本篇原稿二種三枚)』としつつ、以下を掲げる(ここで言っておくと、同全集のこの場合の「二種」というのは、採用する価値がないものを含めての謂いである)。

   *

 

  

 

われのふるさとにあるときは

市びとのあざけるときうしろ指さし

ちちはゝの哀むときにみしげく

われ一人

あはれまた家をいづればでんと

利根川の岸邊にきたりに立てば

はつ霜の磧のなかに、

利根川も白くこほりて

霜枯れし畑のうへに雀

うすゆき 磧の中に

いろ赤き草の實をつむ光る、

 

   *

「磧」は「かはら」で河原に同じ。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 もみぢ

 

  も み ぢ

 

しもつききたり

木ぬれをそむるとおもひしものを

庭にあづまやの遠見をそめ

うすべにさせる魚をそめ

わかるるきみのくちをそめ

あはれもみぢば

さびしきわれのいのちをそめ。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」では、『遺稿』とし、推定として制作年を大正三(一九一四)年にクレジットする。以下で示す通り、これは「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」のそれを整序したものである。但し、この詩は推敲されて大きくカットして書き直したものが、同題で、大正四年九月号『沙羅樹』に以下の形で初出している。まず、その初出形を示す。

 

  もみじ

 

霜つききたり

木ぬれをそむると

おもひしものを

庭にあづまやの

遠見をそめ

うすべにさせる

魚をそめ

わかるるきみの

くちをそめ

 

次に「習作集第九巻」の初期形を示す。

 

  もみぢ

 

しもつききたり

木ぬれをそむるとおもひしものを

庭にあづまやの遠見をそめ

うすべにさせる魚をそめ

わかるゝきみのくちをそめ

あはれもみぢば

さびしきわれのいのちをそめ、

 

私は思うのだが、萩原朔太郎の連用中止法は彼独自の余韻を示す常套手段であり、それは本底本や筑摩版がほぼ一律に行っている詩篇末の句点校訂は正しくないと考えている。朔太郎にとっては、断言して終了し、二度と振り返ることのない感懐はそれほど多くないと感じている。さればこそ、私は、彼の草稿や一部の決定稿でも盛んに用いられる読点は、通常の詩篇や文章では句点とすべきところであっても、それを安易に句点に変えてよいものではない、と考える人種であることをここに表明しておく。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 早春 附・酷似する詩篇「春の來る頃」原稿推定復元版

 

  早   春

 

なじかは春の步みおそく

わが故鄕(ふるさと)は消え殘る雪の光れる

わが眼(め)になじむ遠き山山(やまやま)

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙の見えざる淺間はかなし。

今朝(けさ)より家をのがれ出で

木ぬれに石をかくして遊べる

をみな來りて問ふにあらずば

なんとて家路を敎ふべき。

 

はやも晝餉(ひるげ)になりぬれど

ひとり木立にかくれつつ

母もにくしや

父もにくしやとこそ唄ふなる。

               ――滯鄕哀語篇――

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」には『遺稿』とし、推定として制作年を大正三(一九一四)年にクレジットする。しかし、筑摩版全集には同標題の相似詩篇は存在しない。しかし、完全相同ではないものの、極めて酷似する詩篇「春の來る頃」が「拾遺詩篇」にあり、それは大正三年三月二十四日附『上毛新聞』を初出とする。それを以下に示す。今回は総ルビも再現した。歴史的仮名遣の誤りはママ。「やまやま」のルビの後半は踊り字「〱」。

 

 春(はる)の來(く)る頃(ころ)

 

なじかは春(はる)の步(あゆ)み遲(おそ)く

わが故鄕(こけう)は消(き)え殘(のこ)る雪(ゆき)の光(ひか)れる

わが眼(め)になぢむ遠(とほ)き山々(やまやま)

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙(けむり)の見(み)えざる淺間(あさま)は哀(かな)し

今朝(けさ)より家(いへ)を逃(のが)れいで

木(こ)ぬれに石(いし)をかくして遊(あそ)べる

おみな來(きた)りて問(と)ふにあらずば

なんとて家路(いへぢ)を敎(おし)ふべき

はやも晝餉(ひるげ)になりぬれど

ひとり木立(こだち)にかくれつゝ

母(はゝ)もにくしや

父(ちゝ)もにくしやとこそ唄(うた)ふなる。

            (滯郷哀語篇ヨリ)

 

筑摩版の編者注記に『「夢みるひと」の筆名で發表』とあって、さらに『但し殘つている原稿に基き、』校訂本文を示してある(大きな異同点は「故鄕」のルビと後半の行空けである)。但し、校訂本文が例の歴史的仮名遣の誤りを訂正している可能性を考え、上記の初出形と校合し、歴史的仮名遣の誤りや踊り字を保存したままで、以下に示す。校訂本文のルビは以下の通り、二箇所のみである。なお、言わずもがなであるが、当時の新聞・雑誌に限らず、多くの出版物のルビは、実は作家の意志とは無関係に編集校正植字者らが、勝手に附したものが圧倒的に多い。

 

 春の來る頃

 

なじかは春の步み遲く

わが故鄕(ふるさと)は消え殘る雪の光れる

わが眼になぢむ遠き山々

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙の見えざる淺間は哀し

今朝より家を逃れいで

木ぬれに石をかくして遊べる

おみな來りて問ふにあらずば

なんとて家路を敎ふべき

 

はやも晝餉になりぬれど

ひとり木立にかくれつゝ

母もにくしや

父もにくしやとこそ唄ふなる。

            (滯鄕哀語篇ヨリ)

 

筑摩版編者は、どこからこの標題の、この詩篇を見つけだしたものか? これは「春の來る頃」の初期形なのか? 最早、判らぬ。【2022年2月27日削除追記】筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の最後に「春の來る頃」について当該草稿を活字化していないものの、注で『(本種原稿一種二枚)』と掲げた上で、『本篇原稿の題名は「早春」とある。』あった。その原稿と同じか、同時期のそれであると考えてよい。

「木ぬれ」「木末」。「木(こ)の末(うれ)」の音変化で、「樹木の先端の部分・梢(こずえ)」のこと。万葉語に「木末隱る」(こぬれがくる)があるが、これは「梢に隠れる・枝先の蔭に隠れる」の意であり、「木ぬれに石をかくして遊べる」という一節は、私にはその「石をかくして遊べる」の様態がよく判らない。そういう遊び或いは悪戯があったものか? ご存知の方は御教授願いたい。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ぎたる彈くひと 附・自筆原稿版初期形及び草稿断片

 

  ぎたる彈くひと

 

ぎたる彈く

ぎたる彈く

ひとりしおもへば

たそがれは音なくあゆみ

石造の都會

またその上を走る汽車 電車のたぐひ

それら音なくして過ぎゆくごとし

わが愛のごときも永遠の步行をやめず

ゆくもかへるも

やさしくなみだにうるみ

ひとびとの瞳は街路にとぢらる。

ああ いのちの孤獨

われより出でて徘徊し

步道に種を蒔きてゆく

種を蒔くひと

みづを撒くひと

光るしやつぽのひと そのこども

しぬびあるきのたそがれに

眼もおよばぬ東京の

いはんかたなきはるけさおぼえ

ぎたる彈く

ぎたる彈く。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十一月号『鈴蘭』。底本の「詩作品年譜」にそう明記されてある。ところが、筑摩版全集の本篇は、校訂本文下の本来は初出形をそのままに載せる位置の末尾には、『掲載誌未入手のため、右は小學館版「萩原朔太郞全集第一卷」、昭和十八年九月刊』によった』ものが載せてある。これは今、私が使用している底本の親本であり、恐らくは、今、使用している底本は、それをコンパクトにしつつ、さらに増補した(推定)遺稿詩群の一冊として新たに出版されたものと考えられる。さて、そうすると、以上の形が、普通に考えれば、初期形ととれる(則ち、小学館版が編集された際には、雑誌『鈴蘭』の当該号が確認出来たということである)。しかし、重要な注記がまだ続き、校訂『本文の各行に付した讀點は、著者自筆原稿に從った』とあることである。されば、ここでは、謂わば、私が筑摩版全集で疑問に思っている(歴史的仮名遣誤りや、奇体な異体字・俗字・噓字及び踊り字を徹底的に正字にしたりしていること)校訂本文版が、実は初期形原稿版としてそれを採用し得るという、特異的な事態がここに発生しているのである。されば、それを――本詩篇の初期形原稿版――として、以下に示すこととする。

 

 ぎたる彈くひと

 

ぎたる彈く、

ぎたる彈く、

ひとりしおもへば、

たそがれは音なくあゆみ、

石造の都會、

またその上を走る汽車、電車のたぐひ、

それら音なくして過ぎゆくごとし、

わが愛のごときも永遠の步行をやめず、

ゆくもかへるも、

やさしくなみだにうるみ、

ひとびとの瞳は街路にとぢらる。

ああ いのちの孤獨、

われより出でて徘徊し、

步道に種を蒔きてゆく、

種を蒔くひと、

みづを撒くひと、

光るしやつぽのひと、そのこども、

しぬびあるきのたそがれに、

眼もおよばぬ東京の、

いはんかたなきはるけさおぼえ、

ぎたる彈く、

ぎたる彈く。

 

「ああ いのちの孤獨、」の感嘆詞の後に読点はないのはママである。また、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の中に「ぎたる彈くひと」に本篇の原稿が、

 

  

 

ぎたる彈く、

ぎたる彈く、

ひとりし想(も)へば、

たそがれは音なくあゆみ、

石造の都會、

またその上を走る汽車、電車の、たぐひ、

それら音なくして過ぎ行くごとし、

わが愛のごときも、

永遠の步行をやめず、

み空に工場の煙ながれゆきかひ、

魚肉のにほひ、

まだ知らぬ食慾をいざなふたはかれ、

ゆくもかへるも、

やさしく淚にうるみ、

ひとびとの瞳(め)は街路にとぢらる、

 

という草稿断片が載る。最後に編者注があって、『本篇には以下の原稿は殘っていない。別の一枚は冒頭五行のみの斷片である』とある。]

2021/10/10

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「ひなるべし」作者自序の辯 (及び、わけの判らない一条を併載) / 第九巻~了

 

[やぶちゃん注:客員会員の京都の青李庵角鹿清蔵のもの。標題は目次のもので出した。文頭に出る「なるべし」は「南留別志」で、「兎園小説」第一集の馬琴の「ひやうし考」に既出既注であるが、再掲しておくと、荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したものである。一方の、「ひなるべし」は「非南留別志」で国学者富士谷成章(ふじたになりあきら 元文三(一七三八)年~ 安永八(一七七九)年:京都生まれ。元は皆川姓で、儒者皆川淇園の弟。柳河藩京都留守居富士谷家の養子となった)が徂徠の「南留別志」と徂徠の門人らが記したと思われる同系統の作品「可成三註」を合わせて、その内容を批判した考証ものである。出版は天明三(一七八三)年。因みに、以上の書は私は吉川弘文館随筆大成版で総て所持している。]

 

文政酉[やぶちゃん注:一八二五年。]九月兎園會 京 角鹿比豆流

徂徠翁の「なるべし」を難ぜしものに、「ひなるべし」といふ、あり。こは、わが都人富士谷成章がかけるものにて、自序あり。近ご、ろなにはなる「高芦屋」が梓にせしより、やゝ世に行はるゝことには、なりにけり。さるを、いかなる故にや、此本に成章が名をあらはさず、かつ、其自序をも、はぶけり。余、終に世人の知らざらん事をゝしみて、其序文を、こゝに、かゝぐ。

荻生先生の「なるべし」といふふみ、かゝれたるがありとは、はやく聞き置きたる故、このごろ、人にかりてみるに、是、「なるべき」は、すくなく、「非なるべき」、おほし。中について、甚しきかぎりを、かきいだして、「非なるべし」と、なづく。おほかた、かの先生、初より、我道に入りたゝれざりければ、只、かたはしを、うかゞひて、ひがこゝろを、えられたる事どもにぞ、あるべき。たとたどしく、難ずべき書のさまにもあらねば、本義どもの、なかなか、しかるべきは、とゞめつ。かの先生の名に、きゝおぢたる人の、『是をさへ、よし。』と、おもふべければ、たゞ、すこしかきつけたるなり。

   ○明和元年秋        成 章

 

[やぶちゃん注:実はこれで「兎園小説」第九集は終わっているのだが、目次を見ても、第九集にはないが、以下の訳の分からない大田南畝のパロディ漢詩や狂歌が載るんですけど……わけ分んないんですけど……取り敢えずは、ここに置いておく。因みに、「新日本古典籍総合データベース」の写本でも、確かに、この第九集の最後に、これらが、記されてはある。わけの判る方は御教授下されい。漢詩は一列四句だが、一段組みにして、詩の間を一行空けた。]

 

文化 壬申年[やぶちゃん注:字空けはママ。九年。一八一二年。]九月八日より、新吉原中の町より、水道尻まで、菊を植えたり。南求翁の詩歌あり。

 

南山不見東籬下

西日將曛北里中

整々斜々門種菊

三々五々袖翻風

 

五街燈月菊花芬

黃白交枝曳絳裙

中有颯纚長袖子

宛如野鶴在雞群

 

新買金菓一萬根

滿街佳色溢倡門

藏家常價爲之貴

不似柴桑貧士村

 

菊は花の隱逸なりと唐人のいひしはたはけみよ中の町

 

[やぶちゃん注:因みに、これらは総てが、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」のこちらで、大田南畝が文化九年(一八一二年九月十三日)に読んだものであることが確認出来る。まず、狂歌が、

   北里に菊を植しときゝて

菊は花の隠逸なりと唐人の

   いひしはたわけ見よ仲の町(「放歌集」)

と見え、漢詩は、

   北里の菊花

新買金英一万根

満街佳色溢倡門

藝家常価為之貴

不似柴桑貧士村

「其の二」が、

南山不見東籬下

西日将曛北里中

整々斜々門種菊

三々五々袖翻風

「其の三」が、

五街燈月菊花芬

黄白交枝曳絳裙

中有颯纚長柚子

宛如野鶴在鶏群

「其の四」(これは「兎園小説」には載らない)が、

湘簾半向曲中開

擬引清香泛酒盃

解事丫鬟揮袂起

剪将華燭掇英来

最後に(これも「兎園小説」には載らない)、

「壬申九月十三夜、北里種菊一万茎余 一茎価銀七分、雑費金三百両、芸圃菊価為之貴 浅草大悲閣亦種菊」

とある(一部の表記に違いがあるが、調べる気はさらさらない。悪しからず。しかし、加藤氏の方が正確という感じはする)。「南畝集」十八の漢詩番号三六八二から三六八五で、最後の日録のようなものが「壬申掌記 下」にあるもの、とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 九月 /「立秋」の別稿か? 附・萩原朔太郎「大沼竹太郞氏を送る言葉」(全文)

 

  九   月

 

きのふ山よりかへれば

紫苑はなしぼみて

すでに秋の愁ひをさそふ

友よ

やさしく胡弓をすり

遠くよりしも光を送れ

ああ わが故鄕にあるの日

ひねもすいかり うゑを感じ

手をたかく蒼天のうへに伸ぶ。

 

[やぶちゃん注:これは底本の「詩作品年譜」に『遺稿』とし、推定で制作年を大正三(一九一四)年とする(以下の初出によってこれは正しい)。「大沼竹太郞」は岩手県紫波(しわ)郡紫波町生まれで、ニコライ神学校成果学校出身のクリスチャンで音楽家。前橋にはハリストス正教会の「詠隊教師」として赴任してきたとされる。朔太郎のマンドリンの先生であり、音楽仲間であった。この大沼氏は、かの朔太郎の永遠の恋人「エレナ」との出逢いとも関係する人物と目されている人物でもある(以上は渡辺和靖氏の論文『萩原朔太郎――「愛憐詩篇」から「浄罪詩篇」へ――』(『愛知教育大学研究報告』第三十九輯・一九九〇年二月発行。ここからPDFでダウン・ロード可能)を参考にさせて戴いた)。国立国会図書館デジタルコレクションで彼の著になる「世界の名曲を面白く聽けるレコード音樂の解說 第一輯」(十字屋楽器店大正一三(一九二四)年刊)を全篇読むことが出来る。

「紫苑」双子葉植物綱キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus

 さて。筑摩版全集では、この「九月」というタイトルの詩篇は存在しない。ただ、大正三年八月十七日附『上毛新聞』に発表された「大沼竹太郞氏を送る言葉」という文章中に出現する「立秋 ―大沼竹太郞氏ニ捧グル詩―」という以下の詩篇が、途中からかなり強い相似性(相同性と言ってよい)を示す。詩本文は総ルビであるが、読み(歴史的仮名遣の誤りはママ)は一部に留めて、まず、その詩篇を示す。なお、ここは同全集の第三巻の「拾遺詩篇」にあるものを底本とした。

 

 立秋

       ―大沼竹太郞氏ニ捧グル詩―

 

遠く行く君が手に、

胡弓(こきう)の箱はおもからむ。

きのふ山(やま)より摘(つ)みてかへれば、

紫苑(しおん)はなしぼみて、

すでに秋の愁ひをさそふ。

友よ、

やさしく胡弓(こきう)を磨(す)り、

遠くよりしも光(ひかり)を送れ。

ああ、わが故鄕(こけう)にあるの日(ひ)、

終日(ひねもす)怒(いか)りうゑを感じ、

手を高く蒼天(さうてん)のうへに伸(の)ぶ。

          ―一九一四、八、十四―

 

次に、その「大沼竹太郞氏を送る言葉」全文を、筑摩版全集の第十四巻をもとに示す。初出は総ルビであるが、それは再現されていない。前の抽出で打った読みはここでは除去した(底本第十四巻にも全くない)。また、表記の一部を校訂本文では全集編者が手を入れているが、校異に従って初出形に復元しておいた。太字は底本では傍点「ヽ」である。

   *

 

  大沼竹太郞氏を送る言葉

 

 大沼先生。

 あなたが、前橋を去つたといふことは、私にとつては耐えがたい悲哀である。

 あなたは、私の、唯一の伴奏者であり、同時に合奏者であり、そして又唯一の敎師であつた。私が吾妻の山中から歸つた時に、あなたは既に此の町を去つて居た。あれ程あなたの別れを惜んで戀ひしがつて居た此の故鄕の町にも、もはや秋らしいつめたい風が吹いて居た。

 いま、私は至純な詠嘆な氣分になつてひとりで、自分の樂器を鳴らさなければならない。その樂器の絲も無慘に切れはてて居る。

 旅に立つ前の日に、親しく私に話された、あの感傷的な、忌はしい御言葉を思ひ出す。ああ、迫害。

 戀びとのやうに懷かしいと言はれた、この第二の故鄕を、すげなく追はれてゆく藝術家の心、中年の音樂家の心を私はよく察することが出來る。

 私共は何故に、いつもいつも善良であるかわりに、いつもいつも寂しい人々であらねばならないのか。

 私は、どんな送別に際してもきまり文句の祝辭や、輕薄な淚をながすことが出來ない。何故ならば、私は自我主義者(えごいすと)であるから。エゴイストは他人のために淚をながさない。けれども自分のために流す淚は、他人のために流すそれよりも、どれほど尊いかわからない。それが人閒の、ほんとうの淚である。

 私はいま、なにも言はない。ただ眞實が生んだ一篇の詩を遠く居る、あなたの手許にささげる。

 

      立秋

        ――大沼竹太郞氏ニ捧グル詩――

 

遠く行く君が手に、

胡弓の箱はおもからむ。

きのふ山より摘みてかへれば、

紫苑はなしぼみて、

すでに秋の愁ひをさそふ。

友よ、

やさしく胡弓を磨り、

遠くよりしも光を送れ。

ああ、わが故鄕にあるの日、

終日怒りうゑを感じ、

手を高く蒼天のうへに伸ぶ。

        ――一九一四、八、十四――

 さらば、幸福なれ、わが友。

   *

因みに、私は萩原朔太郎は惜別文や追悼文の名手である思っている。この詩を含む文章もまことに素晴らしい。なお、その最たるものは「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古いサイト版)をおいて他にはあるまいと考えている。

 次に、「習作集第九巻」の「立秋」を示すと、

 

 立秋 

       大沼氏に送る

 遠く行く君が手に

胡弓の篋は重からむ

きのふ山よりつみてかへれば

帰京すでに花しぼみ

はや秋のうれひを感ずさそふ

君よ

やさしく胡弓を磨り

遠くよりしも光を送れ

ああ、わが故鄕にあるの日

ひねもす怒り飢ゑを感じ

手を高く蒼空のうへにのぶ。

 

である。底本の編集者がどこから探してきたか判らぬが、既に失われた「九月」と題した別稿があった可能性を排除することは出来ない

 なお、「筑摩版全集」の第三巻の『草稿詩篇「習作集第八巻・第九巻」』パートの冒頭に、本篇「立秋」の草稿『(本篇原稿三種一枚)』(総て無題)が総て載る。以下に示す。第一種の幾つかの行頭にあるアラビア数字は朔太郎が順序を示すために打ったものである旨の編者後注がある。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

  ○

1旅ゆく君が手に

2胡づ弓の箱は重からむ さげされからむ[やぶちゃん注:「さげされ」はママ。筑摩版編者は「さげられ」の誤字とする。]

  れ、うゑを感ず

ああきのふ山よりかへ るの日れば

 われの肉あほざめ

 けふものはまず笛ふかす[やぶちゃん注:同前で「ず」の誤記とする。]

 うれひ樹蔭に祈

 いかり、哀しみ

 ひねもす手をもの→主→蒼→秋天のうへに伸ぶ、

 すでに秋なり。

すで 手に紫苑いろおとろへはなしぼみて

5すでにまた秋のうれひを感ず

 ああ故鄕に秋ふかく

 ああわれの肉あほめ[やぶちゃん注:同前で「あをざめ」の誤記とする。]

 けふ笛ふかず

 ひねもす手を蒼天のうへ伸ぶ

 

  ○

旅ゆく君が手に

胡弓の箱は重からむ

きのふ山よりかへれば

紫苑はなしぼみて

すでにまた秋のうれひをさそふ

ああ、友よ、はげしきいかりをやめよ りをかんずること勿れ

ああ、わが故鄕にかへるあるの日

ひねもす怒り、笛ふかず

れ、うゑをうゑを感じ

哀しくさびしくも手を蒼天のうへにのぶ

やさしく胡弓をすり、

きみよいまやすらかにあればき方より光をおくれ

 

  ○

遠く行く君が手に君が手に

君手にさげられ胡弓の笛は今もからむ

きのふ山よりかへれば

紫苑はなしぼみて

すでにはや秋のうれひをさそふ

友よ

やさしく胡弓をすり

きよりくよりしも光を送れ

ああ、わが故鄕にあるの日

ひねもすいかり、うゑを感じ

わかれ、うゑを感じ

さびしらにもえ 哀しく手→ひとり哀しく→さびしく手をたかく蒼天のうへに伸ぶる

   *

最後の第三種の末尾には、『この詩の冒頭數行分の下書きとして、「✕」で抹消された次の五行がある』として、

 

 はや秋となり

 わが肉はみどりをふくむ

 おんみよ

 われ 谷  かに

 われ靈智をもて瀧をきづかむ

 

とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 山頂

 

  山   頂

 

かなしければぞ

ながめ一時にひらかれ

あがつまの山なみ靑く

いただきは額(ひたひ)に光る

ああ 尾ばな藤ばかますでに色あせ

手にも料紙はおもく

夏はやおとろへ

絕頂(いただき)は風に光る。

               ――吾妻にて――

 

[やぶちゃん注:底本「詩作品年譜」に制作年を大正三(一九一四)年八月とし、『遺稿』とする。しかし、初出があり、筑摩版全集で大正四年一月号『銀磬』とある。以下に示す。

 

  山頂

 

かなしければぞ、

眺め一時にひらかれ、

あがつまの山なみ靑く、

いただきは額(ひたひ)に光る。

ああ 尾ばな藤ばかますでに色あせ、

手にも料紙はおもたくさげられ、

夏はやおとろへ、

山頂(いただき)は風に光る。

            ――一九一四、八、吾妻ニテ――

 

筑摩版年譜によれば、この八月、前に出た四万温泉の積善館に避暑し、八月十三日に前橋に帰っている。因みに、私は七年前に、これを電子化注していたのを、すっかり忘れていた。そこで私は、『この前年辺りに永遠のエレナ(馬場ナカ)との悲恋が始まっている。この詩には、その陰鬱な影が落ちているように私には思われ、またそのイマージュは後の「月に吠える」の「淋しい人格」後半部分の淵源のようにも思えるのである。』と記している。思わず、「ああ! 嘗ての私は、今より、もっと鋭敏な感覚を持っていたなあ!」と独りごちた――

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の最後に詩稿は挙げずに、『山頂 (本篇原稿一種二枚)』として、『本篇原稿は清書原稿で、二行目が「ながめ」、六行目が「おもし、」、八行目が「絕頂(いただき)」となっている。』とあったが、それとも違う。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 幼き妹に

 

  幼 き 妹 に

 

いもうとよ

そのいぢらしき顏をあげ。

みよ兄は手に水桃(みづもも)をささげもち

いつさんにきみがかたへにしたひよる

この東京の日くれどき

兄の戀魚は靑らみてゆきて

日每にいたみしたたり

いまいきもたえだえ

あい子よ

ふたり哀しき日のしたに

ひとしれず草木さうもくの種を硏ぐとても

さびしきはげに我等の素脚ならずや。

ああいとけなきおんみよ。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」に制作年月日を大正三(一九一四)年五月三日とする(初出クレジット参照)。この妹は五女のアイ。明治三七(一九〇四)年二月二十二日生まれで、朔太郎より十八歳も年下であった。当時、アイは満十歳、朔太郎はこの年の十一月一日で満二十八であった。初出は大正三(一九一四)年六月号『創作』。以下に示す。

 

 幼なき妹に

 

いもうとよ、

そのいぢらしき顏をあげ。

みよ兄は手に水桃(みづもゝ)をさゝげもち、

いつさんにきみがかたへにしたひよる、

この東京の日くれどき、

兄の戀魚は靑らみてゆきて、

日每にいたみしたゝり、

いまいきもたえだえ、

あい子よ、

ふたり哀しき日のしたに、

ひとしれず草木(そうもく)の種を硏ぐとても、

さびしきはげに我等の素脚ならずや。

ああいとけなきおんみよ。

          ―一九一四、五、三―

 

草稿は現存しない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 春日

 

  春   日

 

戀魚の身こそ哀しけれ

いちにちいすにもたれつつ

ひくくかなづるまんどりん

夕ぐれどきにかみいづる

柴草の根はうす甘く

せんなや出窓の菫さへ

光り光りてたへがたし。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」(以下同じ)。この二行目は、恐らく、小学館の編者が原稿の「いよす」を「いす」と誤読したものである。以下を見られたい。初出は大正三(一九一四)年五月号『詩歌』。以下に示す。

   *

 

  春日

 

戀魚の身こそ哀しけれ、

いちにちいよすにもたれつつ、

ひくゝかなづるまんどりん、

夕ぐれどきにかみいづる、

柴草の根はうす甘く、

せんなや出窓の菫さへ、

光り光りてたえがたし。

 

   *

「習作集第九巻」の初期形は「春愁」の題名で、

   *

 

  春愁

 

戀魚の身こそ哀しけれ

いちにちいよすにもたれつゝ

とりくくかなづるまんどりん

夕ぐれときにかみいづる

柴草の根はうす甘く

せんなや出窓の菫さへ

光り光りてたえがたし。

            (一九一四、四、一〇)

 

とあり、創作年月日が判明する。底本の「詩作品年譜」には制作年月日の記載がないので、底本は『詩歌』からの採録と推定されるものの、読点の有無と踊り字が全体に異なっているのは不審である。「たえがたし」はママ。

「いよす」は「伊予簾」。平安時代から伊予国上浮穴郡(かみうけなのこおり)『露峰に産するゴキダケで編んだ簾。ゴキダケは二メートルぐらいに達するものが多く、枝はなく、細いものを上質とした。一年目の枝のない稈(かん)をさらして竹簾に編む。いよ。いよす。』(以上は小学館「日本国語大辞典」)。貢献物産として古くから知られた。現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町(くまこうげんちょう)露峰(つゆみね:グーグル・マップ・データ)。小学館「日本大百科全書」によれば、『都の貴族の邸宅で日よけとして使われ、風情あるものとされたらしく』、「枕草子」に「庭、いと淸げにはき、伊予簾掛け渡し、布障子など張らせて住ひたる」とあり、「詞花和歌集」には、「逢事(あふこと)はまばらに編めるいよ簾いよいよ人を佗(わび)さする哉(かな)」とあり、幕末の今治藩医で国学者でもあった半井梧菴(なからいごあん)が書いた地誌「愛媛面影」(えひめのおもかげ)には、「伊予國むかしより、簾を出(いだ)す。名産なり。篠(しの)もて荒々と編(あみ)たり」と『ある』。『露峰』『のイヨス山』六十六『アールの地に自生している直径』三『ミリメートル、長さ』二『メートル』ほどの『イヨダケという細長い竹を原料とする。江戸時代大洲(おおず)藩に属し、製品は大坂あたりへも出されたが、現在は民芸品として地元でわずかに生産されている』のみであるとある。この竹の正式標準和名はスダレヨシ(簾葭)で、学名は単子葉植物綱タケ亜科メダケ属 スダレヨシ Pleioblastus argenteostriatus である。「ゴキダケ」の別名は、これを箸や楊枝のような御器(ごき:食器)の材料にすることによる。しかし、調べたが、なかなか、実際の伊予簾は見つからない。やっとサイト「note」の大野喜久夫(きっずゼミ)氏の記事「源氏物語と久万郷」の中に、すだれ資料館所蔵の「伊予簾」の写真を見出せた。

「柴草」三重県四日市市羽津(グーグル・マップ・データ)地区の「羽津地区公式WEBページ」の『羽津の昔「子どもの遊び」』にある「シバの根」の項に、『「つばな」の出る茅』(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica )『のことを「チワラ」といい、これの根を「シバの根」とか「甘根」とか称して、噛むと甘い味がした。土の中から、白く細い根を掘りだすと、洗いもせず』、『手で土をしごき落としたままで、口に入れて噛み』、『残りの繊維は吐き出した』とあり、ウィキの「チガヤ」にも、『この植物は分類学的にサトウキビとも近縁で、根茎や茎などの植物体に糖分を蓄える性質がある』。『外に顔を出す前の若い穂はツバナといって』、『噛むとかすかな甘みがあって、昔は野で遊ぶ子供たちがおやつ代わりに噛んでいた』。『地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある』。『晩秋』の十一月から十二月頃に『地上部が枯れてから、細根と節についていた鱗片葉を除いた根茎を掘り起こして、日干しまたは陰干したものは』「茅根(ぼうこん)」『と呼ばれる生薬で、利尿、消炎、浄血、止血に効用がある薬草として使われる』とあった。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 遠望

 

  遠   望

 

さばかり悲しみたまふとや

わが長く叫べること

煉瓦の門に入りしこと

路上に草をかみしこと

なべてその日を忘れえず

いはむや君が來し方を指さし

かの遠望をしたたむる

あはれ あはれ

わが古き街の午後の風見よ。

             ――廐橋暮日篇より――

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年五月号『創作』。以下に示す。「廓橋」はママ。

 

 遠望

 

さばかり悲しみたまふとや、

わが長く叫べること、

煉瓦の門に入りしこと、

路上に草をかみしこと、

なべてその日を忘れえず、

いはむや君が來し方を指さし、

かの遠望をしたたむる、

あはれ、あはれ、

わが古き街の午後の風見よ。

            (廓橋暮日篇より)

 

「習作集第九巻」の初期形を示す。

 

  遠望

 

さばかり悲しみ給ふとや

わが長く叫べること

煉瓦の門に入りしこと

路傍に草をうえしこと

なべてその日を忘れえず

いはむや君が來し方を指さし

かの遠望をしたゝむる

あはれ あはれ

わが古き町の午後の風見よ。

             (厩橋暮日扁より)

 

「廐橋」現行は「厩橋」で「まやばし」と読む。旧上野国中央の利根川左岸の群馬郡の旧地名。もと「うまやばし」だったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらにこれが江戸初期に「まへばし」から「前橋」と記されるようになって定着、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれてある。東山(とうさん)道の「群馬駅」(くるまのえき)近くの川(利根川の前身)に架けられた橋の名から起こったともされる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 利根川の岸邊より

 

  利根川の岸邊より

 

こころにひまなく詠嘆は流れいづ

その流れいづる日のせきがたく

やよひも櫻の芽をふくみ

土(つち)によめなはさけびたり。

まひる利根川のほとりを步めば

二人步めばしばなくつぐみ

つぐみの鳴くに感じたるわが友のしんじつは尙深けれども

いまもわが身の身うちよりもえいづる

永日の嘆きはいやさらにときがたし

まことに故鄕の春はさびしく

こらへて山際の雪消ゆるを見ず。

我等利根川の岸邊に立てば

さらさらと洋紙は水にすべり落ち

いろあかき魚のひとむれ

くねりつつ友が手に泳ぐを見たり。

              ――室生犀星氏に――

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年五月号『創作』。以下に示す。

 

 利根川の岸邊より

 

こゝろにひまなく詠嘆は流れいづ、

その流れいづる日のせきがたく、

やよひも櫻の芽をふくみ、

土(つち)によめなはさけびたり。

まひる利根川のほとりを步めば、

二人步めばしばなくつぐみ、

つぐみの鳴くに感じたるわが友のしんじつは尙深けれども、

いまもわが身の身うちよりもえいづる、

永日の嘆きはいやさらにときがたし、

まことに故鄕の春はさびしく、

ここらへて山際の雪消ゆるを見ず。

我等利根川の岸邊に立てば、

さらさらと洋紙は水にすべり落ち、

いろあかき魚(いさな)のひとむれ、

しねりつゝ友が手に泳ぐを見たり。

            (室生犀星氏に)

 

以下、「習作集第九巻」の初期形を示す。

 

  利根川の岸邊より

 

こゝろにひまなく詠嘆は流れいづ

その流れいづる日のせきがたく

やよひもはや櫻の芽をふくみ

土(つち)によめなはさけびたり

まひる利根川のほとりを步めば

二人步めば鶇どりしばなくつぐみ

つぐみの鳴くに感じたるわが友のしんじつは尙深けれども

いまも我身の身うちよりもえいづる

永日の嘆はいやさらにときがたし

まことに故卿の春はさびしく

こゝらへて遠山の雪消ゆるを見ず

我等利根川の岸邊に立てば

さらさらと洋紙は水にすべり落ち

いろあかきいさなのひとむれ

我が手に

しねりつゝ友が手に泳ぐを見たり、

               (室生犀星氏に)

 

以上から、底本の十一行目の「こらへて山際の雪消ゆるを見ず。」は「ここらへ山際の雪消ゆるを見ず。」が正しい(「此處(ここら)經(へ)て山際の雪消ゆるを見ず。」の意)ことが判る。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 黎明と樹木

 

  黎明と樹木

 

この靑くしなへる指をくみ合せ

夜あけぬ前に祈るなる

いのちの寂しさきはまりなく

あたりにむらがる友を求む。

そこにふるへ

かくれつつうかがひのぞく榎あり

いのりつつ 一心に幹をけづりしに

樹々(きぎ)はつめたく去り行けり。

みなつらなめて逃れゆく

黎明の林を出づる旅人ら

その足並に音はなけれど

水ながれいでて靴のかかとをうるほせり。

かくばかり我に信なきともがらに

なにのかかはりあるべしやは

空しく坐して祈り

遠き遍路に消え殘る雪を光らしむ

いのちはひとりのもの

ただ我が信願をかくるにより

木ぬれにかかり

有明の月もしらみてふるへ悲しめり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年五月号『創作』。以下に示す。表記は総てママである。

 

  黎明と樹木

 

この靑くしなへる指をくみ合せ、

夜あけぬ前に祀るなる、

いのちの寂しさきはまりなく、

あたりにむらがる友を求む。

そこにふるへ、

かくれつゝうかがひのぞく榎あり、

いのりつゝ、一心に幹をけづりしに、

樹々(きぎ)はつめたく去り行けり。

みなつらなめて逃れゆく、

黎明の林を出づる旅びとら、

その足並(あしなみ)に音はなけれど、

水ながれいでゝ靴のかかとをうるほせり。

かくばかり我に信なきともがらに、

なにのかゝはりあるべしやは、

空しく座して祀り、

遠き偏路に消え殘る雪を光らしむ、

いのちはひとりのもの、

ただ我が信願をかくるにより、

木ぬれにかかり、

有明の月もしらみてふるへ悲しめり。

 

初期形は現存しない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 浮名

 

  浮   名

 

浮名をいとはば舟(ふね)にのれ

舟はながれゆく

いま櫓櫂(ろかい)の音(おと)を絕え

風も雨も晴れしあけぼのに

よしあしぐさのみだるる渚をすぎ

舟はすいすいと流れゆくなり

ああ舟にのりて行かば

くるほしきなみの亂れもここちよく

ちのみごの夜びえする

あやしきこゑもきかであるべきに

ふるとせひとにかくれて

わがはぐくみしいろぐさのはや涸れぬとぞ

けふきけば薄葉(うすえふ)に涙しほるる

よしゑやし

悲しきものはあだがたき 君ならなくに

はやも我が世をのがれいでばや

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年五月号『創作』。以下に示す。

 

 浮名

 

浮名(うきな)をいとはゞ舟(ふね)にのれ、

舟はながれゆく、

いま櫓櫂(ろかい)の音(おと)を絕え、

風も雨も晴れしあけぼのに、

よしあしぐさのみだるる渚をすぎ、

舟はすいすいと流れゆくなり。

あゝ舟にのりて行かば

くるほしきなみの亂れもここちよく、

ちのみごの夜びえする、

あやしきこゑもきかであるべきに、

ふるとせひとにかくれて、

わがはぐくみしいろぐさのはや涸れぬとぞ、

けふきけば薄葉(うすやう)に淚しほるる、

えしやえし、

悲しきものはあだがたき、君ならなくに、

はやも我が世をのがれいでばや。

 

筑摩版全集校訂本文では、十三行目「しほるる」を「しをるる」と訂する。「習作集第九巻」の「浮名」は、

 

 浮名

 

浮名をいとはゞ舟にのれ

舟はながれゆく

いま櫓櫂の音(おと)を絕え

風も雨もはれしあけぼのに

よしあしぐさの亂るゝ渚をすぎ

舟はすいすいと流れゆくなり。

あゝ舟にのりて行かば

くるほしき浪のみだれもこゝちよく

ちのみごの夜びえする

あやしき呪もきかであるべきに。

ふるとせひとにかくれて、

わがはぐくみしいろぐさのはやしほれぬかれぬとぞ

けふきけば薄葉に淚しほるゝ

えしやえし、

哀しきものはあだがたき

君ならなくに

はやもわが世をのがれいではや。

 

である。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 双生合體 一足の雞 双生合體追記

 

[やぶちゃん注:前の二篇は著作堂馬琴の発表で奇形連関、三篇目は文宝堂の「双生合體」への直追加発表であるから、奇形連関で纏めて示す。読み易くするするために、段落を成形し、記号も入れた。]

 

   ○双生合體

 文化十年癸酉[やぶちゃん注:一八一三年。]の夏のはじめに、尾張の民、銀之右衞門[やぶちゃん注:あまり見かけぬが、「ぎんのゑもん」で名であろう。]が妻、異形[やぶちゃん注:「いぎやう」。]の子を、うみにき、といふ。

 當時同藩の陪臣、山田生が、ある人におくりし消息に、いはく、

[やぶちゃん注:以下の頭の三行はずっと下方に配置されているが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。最後のクレジットと署名も同前の仕儀を施した。]

   *

大番澤井圖書組松平傳右衞門知行所

 尾州中島郡奧村 百姓 銀之右衞門 酉三十一歲

        同人妻 き   を 酉二十一歲

右きを儀、當酉四月。致出產候處、異體のもの、出生、男子にて、頭、二つ、手足、四本づゝ有之、軀(ムクロ)は一つに御座候。無事に致生育候、御勘定所へも申達、此間、御見分御座候由、右之趣に御座候。實に異體の者にて、全く二子の別れ不申者と見え申候。

右之通り承り、珍敷事故、申上候。

 六月六日          山田定之丞

   *

 この山田生は、尾張御家老石河土州の留守居なり。

 同年八月十一日、愚息興繼が一友人より、借、抄して見せけるを、題記中に、のせおきしかば、とう出て[やぶちゃん注:ずっと以前にその記録を出版したのであるが。]、ふたゝび、こゝに錄しつ。

 こは、攣胎(フタゴ)合體したるに、疑ひなし。

 按ずるに、方書に、『果實の双仁なるは毒あり、食ふべからず。』といへり。果子すら、かくの如し。まいて、人倫・鳥獸の双生合體なるものは、毒惡の氣の致すところ、不祥なること、しるべきのみ。

[やぶちゃん注:結合双生児(conjoined twins)の報告である。近代になって「シャム双生児」と呼ばれるが、これは著名な結合双生児であった「チャン&エン・ブンカー兄弟」(タイ出身の有名な腹部結合体の二人で、一八〇〇年代中頃、サーカスなどで「フリークス」(freaks:異形のものたち・奇形)の見せ物としてイギリスやアメリカを旅した。後年、ノースカロライナ州に定住して農業を営み、二人の妻との間に二十一人の子をもうけている。結合双生児を「シャム双生児」と呼ぶのは、彼らの興行名の「The Siamese Twins」から来ている)の出生地がたまたまシャム(現在のタイの旧名)であったことに由来しているに過ぎず、好奇なニュアンスを附帯してしまっている一種の差別表現と捉えており、私は使うべきではないと考えている。なお、この上申書を見るに、頭部と手はそれぞれ二対あり、下の体幹胸部以下の胴は一つで、腰から下に及ぶと、足は二対あるということになる。所謂、胸部と腹部の結合体のようだが、出生直後の報告であるから、或いは胴の部分は二人分が結合しているだけで、心臓・呼吸器・消化器は実は独立して癒着している症例なのかも知れない。万一、それらが二対なく、完全に一人分しかないとなると、所謂、現在でも分離不能な重合体ということになる。

「攣胎(フタゴ)」「攣」には「つる・ひきつる」や「かがまる・手足が伸びない」の意以外に、「係(かか)る・繋がる」の意がある。

「双仁」狭義の果実の中の種が二つあるもの。

「方書」「はうしよ」で医術の処方を記した書物の意の一般名詞。]

 「書紀」仁德紀に云、

『飛驒國有一人宿儺。其爲ㇾ人、一體有兩面。各相面背頂合無ㇾ項。』

[やぶちゃん注:知られた「日本書紀」第十一の記載全体は以下である。本文の引用は、最後の部分がおかしく、「面各相背、頂合無項」である。

六十五年、飛驒國有一人曰宿儺。其爲人壹體有兩面。面各相背、頂合無項。各有手足。其有膝而無膕踵。力多以輕捷、左右佩劒、四手並用弓矢。是以不隨皇命、掠略人民爲樂。於是遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。

(六十五年、飛驒國に一人有り、宿儺(すくな)と曰ふ。其の人と爲(な)り、體(むくろ)、壹つにして、兩の面(おもて)、有り。面、各(おのおの)相ひ背(そむ)き、頂(いただき)、合ひて、項(うなじ)、無し。各、手足、有り。其の膝、有りて、膕(よほろ)・踵(くびす)、無し。力、多くして、以つて輕捷(はやわざ)し、左右(さう)に劒を佩びて、四つの手並みに、弓矢を用(つか)ふ。是れを以つて、皇命(きみのみこと)に隨はず、人民を掠略(かす)めて、樂と爲(な)す。是に於いて、和珥臣(わにのおみ)の祖、難波根子武振熊(なにはのねこたけくま)を遣して之れを誅さしむ。)

「膕」は「ひかがみ」(「ひきかがみ」の音変化)膝の背後の窪んでいる膝窩(しっか)のこと。「よぼろ」とも。さて。国家統制を主眼とする以上では、朝敵で異形の首魁として描かれているが、現地の伝承ではまるで異なる。「岐阜女子大学」公式サイト(「私立大学研究ブランディング事業」)内の「飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ 両面宿儺」(円空の両面宿儺像の写真複数有り、必見!)によれば、『飛騨や美濃の伝説では、宿儺は武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあった』。『当時の大和朝廷の支配は、畿内中央の最高首長が各地の有力な首長と同盟・連合の関係を結びながら、内外の軍事・外交活動を主宰し、各地の首長に貢納・奉仕を強要する形で勢力を結集していた。朝廷は宿儺に対して、飛騨の人々を引きつれて大和に参上するように求めたのであろうが、宿儺は拒否して戦ったのである』。岐阜県高山市丹生川町下保にある高野山真言宗袈裟山『千光寺では』(ここ。グーグル・マップ・データ)『その開山を両面宿儺とし、飛騨一之宮水無神社では「位山』(くらいやま)『の主は両面宿儺である」と伝えている。また日面』(ひよも)『地区の善久寺には宿儺菩薩が畏敬の念をもって祀られる。また』、岐阜県『関市下ノ保の日龍峰寺』(にちりゅうぶじ)『には「蛭なし川の伝説」があり、両面宿儺が当山に住む悪龍を退治した時、悪龍の血が滝のように流れ、農民の血を吸』う『蛭が』、『これを吸』うや、『蛭は全部』、『死んでしまったといい、今も蛭はいないという』とある。私は若き日に両親とともにこの千光寺を訪れ、丁度、建造途中であった「円空仏寺宝館」の中を住職が親切に案内して下さり、この両面宿儺を始めとする円空仏の写真の撮影も許可して下さった。私はこの瞬間、円空仏に魅せられ、出不精乍ら、近くにあると聞けば、必ず見に行く。千光寺公式サイトの「円空仏寺宝館」も必見。]

この宿儺は、凶猛多力にして、朝命に背きしよし、六十五年の條下に見えたり。

 この他、双頭の子をうみしもの、和漢の書史に見る所、皆、是、攣兒の合體なるべし。

 又、按ずるに、双頭・兩頭は、蛇に多かり。蚖蛇は、もとも[やぶちゃん注:「最も」。]毒あるもの、その毒惡の氣に感じつゝ、遂に胎を受けたること、これによりても、曉り[やぶちゃん注:「わかり」。]易かり。

[やぶちゃん注:「双頭」は頭部が分裂して二つある奇形(その程度には一つの頭部に眼が三つ以上あるものから、完全に二股に分かれたものまで含まれる)。「兎園小説」第六集の「双頭蛇」(琴嶺舎発表)、及び、そこの図を参照。

「兩頭」は尻尾がなく、前後に頭がある奇形(或いは、そのように見えるもの)。「兎園小説」第二集の「兩頭蛇」(海棠庵発表)、及び、そこの図を参照。

「蚖蛇」元は仏典が出所で「毒を持った蜥蜴と毒蛇」の意のようである(「諸國百物語卷之四 十二 長谷川長左衞門が娘蟹をてうあひせし事」及び「金玉ねぢぶくさ卷之七 伊吹山の水神」の私の注を参照。前者はマニアックな注で長く、後者はさらっと簡潔。お好きな方をどうぞ)あるが、ここではニホンマムシを指していると考えてよい。]

 

   ○一足雞(いつそくけい)

[やぶちゃん注:【2021年10月21日本文改稿】本篇のみが国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」の巻第二上のここから載っていることを忘れていたので、ここで改めて、この部分に限って題名・本文を校訂し直した(こちらの方が読みが附されているからである・但し、読みの一部は送りがなに出した)。但し、トップの標題は目次に則り、「の」を挿入した。

 文化十一年の夏の比(ころ)、飼鳥(かひどり)、あきなふもの、雞(にはとり)の雛の一足(いつそく)なるをもて來て、

「これ、買ひたまはずや。」

と、いひしかば、引きよして、よく見るに、實(じつ)に一足なることは、寔(まこと)に一足なるものから[やぶちゃん注:逆接の確定条件の接続助詞。]、その足(た)らざる左の足は、『皮肉の間にあり』と、おぼしく、運動にしたかふて、腹の皮、うごもちたり[やぶちゃん注:「墳(うごも)つ」は「うこもつ」とも言い、「土などが高く盛り上がる」或いは「ゆるみふくらむ」の意。私はここでは寧ろ、「うごろもち」(モグラ)が地面の下で動いて土の表面が蠢くような意とする方が、判りがいいと考えている。]。これ、尫弱[やぶちゃん注:「わうじやく」。ひ弱なこと。]不具にして、眞(まこと)の一足なるもの、ならず。

 よりて、鳥屋に示して曰はく、

「汝、惠子(けいし)の言(こと)を聞かずや。『雞三足』といへり。語は「莊子」に見えたるなり。蓋し、彼(か)の惠子がこゝろ、『雞(にはとり)は二足[やぶちゃん注:ここは底本は「三足」だが、ここは吉川弘文館随筆大成版を採った。]なれども、その足を使ふもの、内に、亦、ひとつあり。故、『有三足』と、いひにき。もし、その理(り)をもていはゞ、三足も、尙ほ、足らず。宜しく、もつて、四足となすべし。いかにとなれば、凡そ、手足の運動は、魄(はく)、其用をなす每に、心、まづ、魂(こん)に傳へ、魂、速かに魄に指揮して、その進止(しんし)を自由にす。これによりて推(お)すときは、雞(にはとり)の二足なるも、これを使ふもの、内にも亦、ふたつ、なければ、足の用をなしがたし。かゝれば、「四足」といふこそ、よけれ。惠子が言のごとくならば、足を動かす魂のみありて、是を指揮する魂なきもの也。もし、かくの如くならば、進退、その度を失ふて、そのゆくところを知らざること、風に輾(まろ)べる瓢(ひさご)に同じ。これに似たるは、狂人のみ。狂人の進退は、神識(しんしき)[やぶちゃん注:精神状態の意のようである。]、衞(まも)りを失ふ故に、その動靜、夢寐(むび)[やぶちゃん注:眠って夢を見ている状態。]と異ならず。かくの如くなるものは、二足にして、三足也。その魂、位(くらゐ)を失ふ故のみ。この餘は、すべて、四足とすべし。吾、三足の說をすら、排斥すること、既に久し。汝は、この鳥をもて『一足なり。』といふめれど、われは、則ち、四足とす。虁(き)[やぶちゃん注:中国神話上の龍の一種、或いは、牛に似たような一本足の妖獣、或いは、妖怪の名。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)」の「犩牛(き〔ぎう〕)」の注の引用を読まれたい。]をすら、一足といふ謬說(びうせつ)は、「風俗通」に辨じたり。豈に一足の鳥あらんや。ゆきね、ゆきね。」

と追ひたつれば、鳥あき人、嘆じて曰はく、

「なべての鳥は、二足なり。只、この鳥のみ一足なるに、君は惠子の語(ご)を引きて、三足といひ、四足とす。わが一足といふよしは、目に視るまゝを、いへるなり。君が四足といふよしは、形(かたち)を取らで、理(り)を推(お)すものか。その理の、隱れて見えざること、なほ、この鳥の一足の皮肉に籠りて出でぬが如し。細人(さいじん)は理に疎(うと)かり。欲するものは、只、利のみ。君が、いはゆる、『あし、多かる。』も、われ、その足を取るよしなければ、魄(はく)のみありて、魂(こん)なきごとく、還らば、妻子に『虛走。』と、いはれん。足乎(あしか)、足乎、われ、又、赴くところあり、いとま申す。」

と、いひかけて、籠を挑(かゝ)げて、まか出にけり。

 此あき人は、さるもの歟、「野夫(やぶ)にも功者(こうしや)あり」といはまし【乙酉九月朔草】。

[やぶちゃん注:以下、例の「馬琴雑記」の編者依田百川の評が載る。この注の後に電子化しておくが、百川を批判している通り、正直、この馬琴に一文は甚だ不快だ。これは実は一本脚の鷄の雛の奇形をダシにして、馬琴が自身の捩じれた偏屈論理学を開陳したかっただけのものである(本当に一本足の雛を売りに来たのかどうかも怪しい。何となく「漁父之辞」の辛気臭いパロディのような気もしてくる)。何をかいわんやで、全く注する気にならない。こういった、人を煙(けむ)に巻くことを好む馬琴の一面は、正直、嫌いである。

 まあ、一つだけ注しておくと、ここに出る「惠子」の言っているそれは、「荘子」の最後の最後に置いてある「雑篇」の「天下篇 第三十三」の荘子と親しかった恵施が属した論理学派の弄んだそれの一つで、公孫龍の「雞三足」という命題である。判り易く言うなら、実際の「物質としての足」は「二」足だが、「概念としての足」がもう「一」つあるわけだから、併せて「三足」である、というのである。これは同じ公孫龍の「白馬非馬論」が有名で、且つ、判り易い。「白馬」という概念は、視覚の持つ色彩感覚によって捉えられた「白」という概念と、視覚 の形態把握の感覚によって捉えられた一箇の物質的存在としての「馬」という概念に分離して分析認知されるから、「白」+「馬」=「白馬」というのは「馬」ではない、という命題である。命題としてはアウフヘーベンの全くない偽であることは言うまでもない。

 なお、以下の評は底本では全体が一字下げである。]

 百川云、此文は戯れに題を設けて作りしものに似たり。然らざれば、かゝる竒物は、よくその理を辨(わきま)へて記するものなるべきに、只、その空理のみに趨(はし)りて、絕えて事物の形容によりて、一足の竒を推考すること、なし。それ事物百變にして、窮まるりなし。されど、その物あらば、必ず、そのゆゑよし、無きこと能はず。よく物を見るものは、徒らに空理に拘泥せずして、その實理を究むるを專らとす。西洋窮理說、是れなり。曲亭の才知をもて、何物か推考し得ざらんこと、あらん。しかるに、一偏(いつぺん)の空理をもて、此文を綴りしは、寓言にして、實(じつ)に、その物、無きなるべし。

    *

   「双生合體」追記

 

Ketugousouseijiitai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをトリミング補正して使用した。]

 

 文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]二月十七日、本所柳島十軒川へ漂流したる異形嬰兒之圖

[やぶちゃん注:以下は底本では最後まで総て全体が一字下げ。]

 長一尺許、產毛、色濃く、頰の邊まで生ひ、臍、四つ、股の眞中にあり。尤、女にて、陰門、兩方にあり。

 予が伯父なるもの、本所淸水橋にあり。この伯父に使はるゝ林右衞門といふ者、近所の事なれば、當時、十軒川へゆきて見たるまゝを、うつし來つるなり。この小兒の亡がらは、柳島のほとりなる何がし寺に葬りしといへり。

 著作堂主人のしるされし「双生合體」と、いさゝかも違はず。

 それは文化の酉のとし、是は文政酉の年、年はかはれど、一周の同支にあたりて、同物の異形あらはれしは、尤、奇といふべし。よりて、こゝに追記す。

             文寶堂 しるす

[やぶちゃん注:「本所柳島十軒川」この現在の柳島橋附近であろう。北十間川と横十間川が交差する。

「女にて、陰門、兩方にあり」結合双生児は一卵性双生児の発生機序に於ける受精卵の分裂異常に起因するので、男女のそれは存在しない。江戸川乱歩の小説に出てきたってか? 私のマニアック注附きのブログ・カテゴリ「江戸川乱歩 孤島の鬼【完】」をよく読みいな! あれはあ、人工的に作った悪魔的なものだぜい!

「本所淸水橋」ここ。]

2021/10/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 窮鬼 《本文リロード》

 

[やぶちゃん注:全くの物語で、長いので、段落を成形した。琴嶺舎滝沢興継の発表だが、馬琴の手になることは見え見え。20211010日本文全面改稿】うっかりして国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」巻第二下のここに所収しているのを見落としていたので、公開から一日経ったが、改めてそれで本文を総て校訂し直した。読みの一部は送り仮名で出した。

 

   ○窮 鬼(きうき/ビンバウガミ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])

 文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八二一年。]の夏のころ、番町なる、四、五百石ばかりの武家の用人、大かたならぬ主用(しゆうよう)にて、下總(しもふさ)のかたほとりなる知行所へ赴くこと、ありけり。

[やぶちゃん注:「番町」現在の東京都千代田区にあった一番町から六番町まで。但し、現在のそれと江戸時代のそれは一致しないので、注意が必要。サイト「TokyoRent」の「コラム」の「Vol.17 地名で読む街の歴史【 麹町・番町編 】 Area History」の「麹町・番町マップ」が一目瞭然でお勧めである。

「下總のかたほとりなる知行所」以下で「草加の宿」(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)、さらに「越谷」(ここ)も出る。明らかにここの話柄の主人公は、真っ直ぐ北へ北へと向かっているから、旧下総国の東端を南北に占める旧葛飾郡、或いは、その東北の旧猿嶋(さしま)郡、更にその東北の下総国の最北端の旧結城郡、或いは、その南にある岡田(豊田)郡に主人の知行所があったと考えてよかろう。]

 江戶をたちて、ゆくゆく、草加の宿のこなたより、一個(ひとり)の法師にあへり。

 見るに、年の齡(よはひ)は、四十あまりなるべし。面(おもて)は青く、又、黑く、眼(まなこ)深くして、世にいふ「鐵壺(かなつぼ)」[やぶちゃん注:「金壺眼(かなつぼまなこ)」のこと。落ち窪んで丸い目。一般に怒った目つきや貪欲な目つきの邪眼系を指す。]めきたるが、頤(おとがひ)、尖りて、いと瘦せたり。身には「溷鼠染(どぶねづみそめ)」とかいふ栲(たへ)の單衣(ひとへきぬ)のふりたるを、褸[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『褄』。](つま)はさみして、頭(かしら)には、白菅(しらすげ)の笠を戴き、項(うなじ)には頭陀袋(づたぶくろ)を掛けたり。

[やぶちゃん注:「溷鼠染」「丼鼠染(どぶねずみぞめ)」。溝鼠(どぶねずみ)の毛色に似た暗い灰色。不潔な印象を避けるため、本来の「溝」ではなく、「丼」の字が当てられることが多い。「墨の五彩」を表わす「焦・重・濃・淡・清」の中の「濃」に当たる色で、江戸中期頃の常用色であったとされる。サイト「きもの用語大全」のこちらに拠った。リンク先で色も確認出来る。

「栲(たへ)」吉川弘文館随筆大成版ではルビは「タク」。梶木(かじのき:バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )又は楮(こうぞ:コウゾ属ツルコウゾ Broussonetia kaempferi ・ヒメコウゾ(コウゾ) Broussonetia kazinoki (種小名からこれをカジノキと誤り易いので注意)・雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × papyrifera があるが、本邦では、古くから今に至るまで、一般人は「梶の木」と「楮」を殆んど区別していないので、孰れを指すかは不詳である。ここの場合はそれらの樹皮をを打ち伸ばして作った布を指す。一般にはこの「栲」で「たえ」「たく」と呼ばることが多い。]

 跡につき、先にたちてゆく程に、烟草の火などを借(か)られしより、物いふことも、しばしばなり。

「さて。和僧は、何處(いづこ)より何所(いづち)へ赴きたまふにか。」

と問ふに、法師、答へて、

「われは、番町なる某(それ)の屋敷より、越谷(こしがや)へゆく。」

といふ。

 用人、聞きて、ふかくあやしみ、

「そは、いはるゝことながら、われは、その屋敷の用人なり。わが素(もと)より見

知らぬ人の、わが屋敷にをることやは、ある。出家には、似げなくも『そら言』をいはるゝよ。」

と、爪彈(つまはじき)をして、あざ笑へば、法師も亦、あざ笑ひて、

「なでふ、和殿(わどの)をあざむくべき。和殿が、吾を、見しらぬなり。そもそも、われを何とか見たる。われは、世にいふ『貧乏神』なり。和殿は譜第(ふだい)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『譜代』。]のものならねば、むかしの事は、しらぬなるべし。われは、三代已前より、和殿の主(しゆう)の屋敷に、をれり。さるにより、彼家には、病みわづらふもの、常に、たえず。先代両主(りやうしゆ)は短命なりき。只、是のみならず、よろづにつきて、幸ひなく、貧窮、既に世をかさねて、祿はあれども、なきが如し。かくても、家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔、和殿の主家(しゆうか)には、しかじかの事、有しなり。近頃は又、箇樣々々。」

と、人にしらさぬ、秘事(ひめごと)を、見つるが如く、說(と)き示すに、用人、いたく駭き怕れて、嘆息の外、いらへも得(え)せず[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の漢字表記。]。

 窮鬼(きうき)は、これを見かへりて、

「さのみ、おそるゝことには、あらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ、貧窮至極したれど、その數(すう)、やうやく、竭(つ)きたれば[やぶちゃん注:「盡きたれば」。]、われは、他所(たしよ)へ移るなり。今よりして、和殿の主人は、さきくおふる家となりて、世をかさねたる借財なども、皆、返すべきよすがは、いで來ん。秘(ひ)めよ、疑ふベからず。」

[やぶちゃん注:「窮鬼」は「極めて貧しい者」或いは「貧乏神」を指す(別に「生きている人間の怨霊・生霊」の意もある)。

「さきくおふる」「幸(さき)く負ふる」或いは「幸く生ふる」であろう。

「秘(ひ)めよ」吉川弘文館随筆大成版では『ゆめよ』で聊か不審だった。後と同じで「ゆめ、な」で禁止の呼応の副詞、或いは「ゆめゆめ」の踊り字の判読の誤りかと思ったが、こちらなら、躓かない。]

といふに、用人、心おちゐて、

「しからば、君は、いづ方へ遷(うつ)らせたまふにや。」

と問ふ。

 窮鬼、答へて、

「さればとよ、わが行くところは、遠くもあらず。和殿が主の近隣なる、何某(なにがし)の屋敷にをらん。その移轉(わたまし)の程、一両日、いさゝかの暇(いとま)あれば、越谷わたりに相識(あいし)るものを詢(と)はんとて、出て來たれど、翌(あす)は、彼處(かしこ)に移る也。見よ、見よ、今より彼(か)の屋敷は、よろづの事に、さち、なくなりて、遂に貧窮至極せんこと、和殿の主の、今玆(ことし)まで、頭(あたま)を擡(もたげ)ぬ如くに、なりてん。ゆめ、な洩しそ。」

と、さゝやきつゝ、はや、越谷まで來る程に、あやしき法師は、いづちゆきけん、忽ち、見えずなりしとぞ。

 いはれしことのしるしにや、かくて、件(くだん)の用人は、知行所へ赴きて、村役人等(ら)と、かたらふに、

『たびたびの借財なれば、成(な)り易(やす)からじ。』

と、あやぶみたるに、事(こと)、立ちどころにとゝのひて、思ひしより、物、多く、

借り得て、かへりけるとなん。

 この一條(ひとくだり)は、同じ年六月の下つかた、蠣崎波響(かきざきはきやう)の說話なり。

 彼用人と親しきもの、波響にも亦、踈(うと)からねば、渠(かれ)より傳へ聞きし、と、いへり。

 かの武家、幷に、用人の姓名も定(さだ)かにて、まさしき竒談なるよしなれども、世にはばかりの關(せき)に任(まか)せて、そこらのくだりは、具さに記さず。猶ほ、遠からぬ程なれば、知りたる人もあらんかし。

[やぶちゃん注:「蠣崎波響」(宝暦一四(一七六四)年~文政九(一八二六)年)は松前藩家老で、画家としても知られた。彼から松前藩医員であった興継が聴いた話というのは事実であろうが、かく物語として整然と成形したのは、どうみても、父馬琴である。

 以下は底本でも改行されてある。]

 ちなみにいふ、世に「福の神」とて祭れるは、富貴(ふつき)を禱(いの)る爲めなれば、「貧乏神」といふもあるべし。且つ、福は禍ひの對、貧しきは富みの偶(ぐう)なるをもて、神史(しんし)に「幸(サチ)の神」あれば、又、「柾津日(まがつ)の神」もあり。佛書にも「吉祥天」あれば、又、「黑暗天(こくあんてん)」もあり。

[やぶちゃん注:「柾津日の神」「禍津日神(まがつひのかみ)」。日本神話に登場する災厄神の名。「禍」(まが)は「災厄」、「つ」は上代語の格助詞「の」、「日」(ひ)は「神霊」の意。

「黑暗天」「黑闇天」(こくあんてん)。サンスクリット語の「カーララートリ」の漢訳で、仏教における天部の一尊で、黒夜天・黒夜神・黒闇・黒闇天女・黒闇女などとも呼ばれる。ウィキの「黒闇天」によれば、『吉祥天の妹。容姿は醜悪で、災いをもたらす神とされている』。『密教においては閻魔王の三后(妃)の』一『柱とされる』。『彼女の図画は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に確認でき、その姿は肉色で、左手に人の頭が乗った杖を持っている』。「涅槃経」十二には、『「姉を功徳天と云い』、『人に福を授け、妹を黒闇女と云い』、『人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある』そうである。]

 唐山(からくに)には、これを「窮鬼(きうき)」といふ。東坡に「送窮(そうきう)」の詩あり。歲(とし)の十二月下旬、彼(かれ)にて[やぶちゃん注:中国に於いて。]、家の内を掃除して、新年を迎へるを「送窮」と云ふ。この方(はう)の「煤拂(すゝはらひ)」と相ひ同じ。「送窮」の事は、「荆楚歲時記」・「五雜俎」等に見えたり。又、「耗(もう)」[やぶちゃん注:磨り減ること。減衰消耗。]といひ、「眚(せい)」[やぶちゃん注:禍い。]といへるも、こゝにいふ、「ひんぼうがみ」と相同じ。「耗」は類書に載せたる「唐逸史」【この書、傳らず。】に、玄宗の夢に見えし終南山の鍾馗の靈が劈(つんざ)き啖(くら)ひしといふ鬼の名也。「耗」は、卽、「虛耗」の義なり。よりて、皇國(みくに)にて、彩布の「にほひ」の[やぶちゃん注:見た目のその優美さが。]、うするに[やぶちゃん注:「失(う)するに」。]、「耗」の字を當てたる也。「耗」は破財の鬼(かみ)なるべし。又、「眚」は、「牛に似たる獸(けもの)にて、よく、禍ひをなす。」といふ。黑眚(こくせい)の、祟ありしは、「宋元通艦(そうげんつがん)」・徽宗紀(きそうき)に見えたり。これ、宋の衰へる兆しなりければ、「耗」も「眚」も「びんぼうかみ」とよみて、その義に稱(かな)ふべしと、曩(さき)に家嚴(ちゝ)のいはれし事あり。

[やぶちゃん注:先の「鍾馗」の条に出るが、そこでは注をしなかったので、ここでウィキの「鍾馗」から引いておくと、『鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している』。『ある時、唐の』『皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり』、『床に伏せた』。『玄宗は高熱のなかで夢を見』、『宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく』、『大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間」(六一八年~六二六年:初唐。唐の建国は一般に六一八年に当てる)『に官吏になるため』、『科挙を受験したが』、『落第し、そのことを恥じて』、『宮中で自殺した。だが』、『高祖皇帝』(唐の初代皇帝李淵(五六六年~六三五年))『は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた』。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付』き、『感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』という。かくして、『玄宗の時代から』、『臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録が』実際にあり、『宋代になると』、『年末の大儺』(たいな:追儺の原型)『にも貼られるようになり』、十七『世紀の明代末期から清代初期になると』、『端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた』とある。

「黑眚」(こくせい)は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」を参照されたい。

「宋元通鑑」宋・元の編年体通史。明の薛應旂(へきおうき)の撰。全百五十七巻。一六二六年序。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにあり、その「徽宗」(きそう)のパートはここPDF)だが、ちょっと調べて、諦めた。なお、徽宗は北宋の第八代皇帝であるが、一一二六年の末に金によって開封が再包囲され、徽宗とその長子で第九代にして最後の皇帝欽宗(南宋で即位した高宗の長兄)は北へと連れ去られ、二度と帰還することなく、北宋は滅亡している。]

 近世、江戶、牛天神(うしてんじん)の社(やしろ)のほとりに、貧乏神の禿倉(ほこら)有けり。こは何がしとかいひし御家人の、窮して、せんかたなきまゝに祭れるなり、といひ傳ふ。さるを、何ものゝ所爲(わざ)にやありけん、その神體(しんたい)を盗みとりて、禿倉のみ、殘れりと、「四方(よも)の赤(あか)」に見えたり。はじめ、これを祭りしもの、敬して遠ざくる意(こゝろ)ならんには、咎むべきことにもあらねど、貧乏神を盗みしは、いかなる心にか、ありけん。こは、「借金を質におく」といふ諺と佳對(かつい)なり。笑ふべし。

[やぶちゃん注:「四方の赤」「四方(よも)のあか」。大田南畝が文化七(一八一〇)年に刊した、本近世に於ける個人の狂歌狂文集の集成の濫觴とされるもの。]

 「四方の赤」にて、おもひ出たり。天明のころ、四方山人(よもさんじん)が、「窮鬼」の像贊(ざうさん)に、

 おのれやれ富貴になさでおくべきが貧乏神の勅(ちよく)をそむかば

と、よまれしを、ある人、難じて、

「この歌一首、『自・他(じ・た)』なれば、語をなしがたし。『おのれやれ云云』といへる上の句は、『自』なり。『貧乏神の云云』といへる下の句は、『他』にあらずや。」

と、いはれしには、山人も、いひときがたくて、怠狀(たいじやう)[やぶちゃん注:詫び証文。]を出されたり。さればとて、難ぜし人の賢(けん)にして、よみ人の拙(つたな)きにも、あらず。

[やぶちゃん注:この批判の意味は、私が馬鹿なのか、よく判らない。]

 古人も、かゝる謬(あやまり)あり。譬へば、芭蕉が發句に、[やぶちゃん注:底本はここで改行して一字下げしているが、句の後の説明を繋げてしまっている。]

 梅さくらさぞわが衆(しゆ)かな女かな

と、いへるも、「てにをは」、あはず。「にてわか 衆かな 女かな」といへば、難(なん)なし。

 又、其角が發句に、[やぶちゃん注:同前。]

 この人數(にんず)舟(ふね)なればこそ凉(すゝ)みかな

と、いへるも、「てにをは」、あはず。「船(ふね)なればこそ凉(すゞ)みなれ」といふべしと、家嚴(ちゝ)、いへり。

[やぶちゃん注:「梅さくらさぞわか衆かな女かな」引用の誤りで「千慮の一失」っでっせ!

 梅柳さぞわか衆(しゆ)哉(かな)女かな

天和二(一六八二)年芭蕉三十九の時の一句。「武藏曲(むさしぶり)」所収。

「この人數」(にんず)「舟なればこそ凉みかな」「江戶名所圖會」の「卷之一 天樞之部」の「両國𣘺(りやうこくはし)」の二枚目の図の上部雲形の部分に、

 此人数舟なれはこそ凉かな

とある。サイト「アラさんの隠れ家」の「歴史散歩 江戸名所図会 巻之一 第二冊」の「両国橋、伝馬町、永代橋、佃島、新橋」のページの、こちらの画像を見られたい。]

 皆、是、「千慮の一失」にて、「英雄、人を欺(あざむ)く」に、ちかし。これらは過庭(かてい)の餘聞なるを、筆のついでに、しるすのみ。

[やぶちゃん注:「過庭」吉川弘文館随筆大成版では『家庭』であるが、この「過庭」でよい。「家庭での教育・父親からの教え」という意の「過庭之訓」(かていのをしへ)の縮約だからである。「過庭」は「庭を横切ること」で、孔子は、自分の息子の孔鯉(こうり)が庭を横切る際、呼び止めては、「詩」や「礼」を学ぶことの大切さを諭し、鯉もそれによく従ったという故事に基づく故事成句である。

 底本もここで改行。]

 再、いふ、鼠(ねづみ)をも、「耗」と、いへり。鼠は何(なに)にまれ、噬み(か)み、損ふものなれば、「破財」の義を取りて、しか、異名せしなるベし。沈存中(ちいそんちゆう)が「筆談」に、

『慶曆中【宋、仁宗、年號。】、有一術士姓トイフ。多功思一。ヲモテタリ舞鍾馗。高二三尺。右手セタリ鐵簡。以香餌クニ鍾馗左手中。鼠緣ㇾ手ㇾ食。則左手ㇾ鼠。右手ンデㇾ簡ㇾ之。以獻セリ荊王云々。』【見。第七卷。】。

この鍾馗の機關(からくり)に、鼠を敺(う)ち斃(たふ)させしも、鼠の事を「耗」といへば、彼(か)の「唐逸史」中なる「虛耗の鬼」に、よりところあり。

[やぶちゃん注:『沈存中が「筆談」』北宋の科学家で政治家の沈存中(一〇三一年~一〇九五年)の全二十六巻からなる随筆集「夢溪筆談」のこと。

「慶曆」一〇四一年~一〇四八年。

 以下、底本も改行。]

 予、つねに、人の家に至る每に、心をつけて、これを見るに、その家、盛りなるは、陽氣、必ず、室(しつ)に充ち、又、衰ヘたる家は、陰氣、必ず、室に充てり。夜分(やふん)は燈火(ともしび)の明暗にても、その盛衰は、しらるゝものなり。

 およそ、人の盛衰は、時運に係るものながら、主人の心術(しんじゆつ)・行狀(ぎやうじやう)によらずといふこともなければ、業(ぎやう)を勤めて、奢(おご)ることなく、朝、とく、起きて、陽氣な迎へ、埃を掃(はら)ふて、陰氣を送らば、窮鬼も憑(よ)ること、なかるべし。

 しかれども、眞(まこと)の貧富を推(お)すときは、あながち、貴賤によるにしも、あらず。

「道をしるもの、おのづから貴(たふと)く、足(た)ることを知れば、富めるが如し。かの愚福(ぐふく)にして蠢壽(しゆんじゆ)なるも、貨(たから)を積みて、散らすことを、しらず、老ひて、讓(ゆづ)れる子のなきものは、臨終正念、こゝろもとなし。もし、顏淵・原憲が志(こゝろざし)ありて、且つ、貧しき家には入らんとしつる貧乏神も、鼻をつまみて、必、迯げん。」

と、家嚴は、をりをり、いへるなり。

[やぶちゃん注:「蠢壽」見たことのない熟語だが、「愚福」(あくまで物質的レベルでのみ福を感じて満足していること)と同じで、この「蠢」は「愚か」の意であり、「外見(そとみ)でもいかにも内実のない下らない人生であることを認識せずに、ただただ、長生きすること」の意であろうと私は読んだ。

「顏淵」孔子が最も期待した高弟顔回。清貧に甘んじ、その才能は「十哲」中、第一とされたが、早世した。

「原憲」孔子の門人中で才能があった「七十子」の一人に数えられる子思。顔回と同じく清貧に甘んじ、同門の子貢が贅沢な姿で訪れた際、それを厳しくたしなめたという故事が「荘子」譲王などに見える。]

 さりけれども、「巖居水飮(かんきよすいいん)」、浮世に疎(うと)く、富貴を見ること、糞土(ふんど)の如きは、是、人情にあらずかし。

 窮達(きうたつ)・貧富を時に任して、生涯、毀譽なく、命(いのち)、長きは、是、天命を保(やす)んずる大福長者(だいふくちやうしや)といふべきのみ。

  文政八年乙酉九月朔      琴嶺興繼識

[やぶちゃん注:「巖居水飮」「荘子」達生篇の一節。元は「嚴居而水飮、而與民共利、行年七十而猶有嬰兒之色」(「嚴(いはほ)に居(きょ)して、水を飲み、民と利を共にし、行年(かうねん)七十にして猶ほ嬰兒の色、有り。」)で、以下、話が続くが、それは、サイト「肝冷斎日録」のこちらを読まれたい。

 にしてもこれを読んでいると、言いたくなることがある……

……興継よ……君は「予、つねに、人の家に至る每に、心をつけて、これを見るに、その家、盛りなるは、陽氣、必ず、室(しつ)に充ち、又、衰ヘたる家は、陰氣、必ず、室に充てり。夜分(やふん)は燈火(ともしび)の明暗にても、その盛衰は、しらるゝものなり」と言い、他人の盛衰をさえも敏感に感じとれたらしいな……しかも……「およそ、人の盛衰は、時運に係るものながら、主人の心術(しんじゆつ)・行狀(ぎやうじやう)によらずといふこともなければ、業(ぎやう)を勤めて、奢(おご)ることなく、朝、とく、起きて、陽氣な迎へ、埃を掃(はら)ふて、陰氣を送らば、窮鬼も憑(よ)ること、なかるべし」という通り、養生法には、とりわけ、気をつけていたらしいじゃないか……じゃあ……何でお前さんは、ずぅっと病弱だったんだね?……父馬琴が期待していた武家への返り咲きの大事な一歩だった松前藩医員もやめざるを得なくなり、挙句の果て、三十九の若さで親父を残して死んだんだよねぇ?……

……馬琴さん、よ……「老ひて、讓(ゆづ)れる子のなきものは、臨終正念、こゝろもとなし」だって?……そう心得ていた、あんた自体が、結局、そうなっちまったじゃねえか!……『興継と妻「みち」の子には太郎がいたはずだ』だって?……おう、確かにな、太郎は祖父であるあんたの初名と同じ「興邦」を名乗ったがね……あんたの亡くなった翌年の嘉永二(一八四九)年に亡くなって、遂に滝沢家の男系は、これ、絶えちまったのさ……「もし、顏淵・原憲が志(こゝろざし)ありて、且つ、貧しき家には入らんとしつる貧乏神も、鼻をつまみて、必、迯げん」ってか?!……確かに、あんたは膨大な著作で金には困らなかったろうから、貧乏神は憑かなかったかな?……でもさ、期待の息子興継は早々に病没しちまうし、晩年のあんたは失明してるぜ?……「臨終正念」……「心もとなし」……で、す、か……

 以下、例の編者依田百川の評言(底本では全体が一字下げ)。「兎園小説」にはないが、電子化しておく。]

 百川云、こゝにいふ窮鬼の談は、妄談不稽(もうだんふけい)[やぶちゃん注:荒唐無稽に同じ。]にして取るに足るべしとも思はす。漢土(かんど)の小說にはかゝる事、おいくらもあり。こは、用人が己が巧を神にせんとての造り物語か。さらずば、琴嶺が古書によりて、戲れに作りしもにやあらん。されども末段の議論は、實に、その理、あり。貧富は、財の多少によるにあらず。足ることを知つて節儉し、常に債主(さいしゆ)にはたられ[やぶちゃん注:借金その他をしきりに取り立てられ。]ざらむこそ、眞(まこと)の富(とみ)とはいふべけれ。百萬の財を庫(くら)に積むとも、それを足れりとせず、機會に投(たう)じ、一擧して、萬々の富を得んと、反(かへ)りて、一錢をも留(とゝ)めざるに至るもの、近世(ちかきよ)に往々(まゝ)、これ、あり。これ等は、まことの窮鬼(きうき)に魅入(みいら)れしものなるべし。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佛敎腹籠の古書

 

[やぶちゃん注:標題は「ぶっきやう、はらごもりのふるがき」と読んでおく。「腹籠り・胎り」及び本文の「みくら」は、この場合、仏像などの腹の中(胎内)に観音像や経典・造立に係わる祈願や文書などを入れ籠めてあるものを指す。実際には、よく見られるものである。]

 

   ○佛敎腹籠の古書

野州西鹿沼村【當時、番町藪主膳殿、知行所なり。】の畑の中に、古堂あり。其後堂に釋迦の木像あり。「此『みくら』を、ぬきて見る時は、立どころに盲目となる。」と、いひ傳へて、誰も『みくら』を拔きて見るもの、なかりしに、蒲生伊三郞といへる儒者、その寺へ斷りて、佛像の『みくら』をぬきて、腹の内へ、手を入れ、さぐり見るに、一通の書あり。とり出だし、ひらき見れば。

    金 箔      五百目

     爲再建令寄附之者也

      元弘元年二月  藤原少將 公 綱

と、ありしよし。野州杤木町渡邊某よりの文通に、いひおこしたれば、こゝにしるす。

  文政乙酉長月朔      文寶堂抄出

[やぶちゃん注:「野州西鹿沼村」現在の栃木県鹿沼市西鹿沼町(にしかぬままち:グーグル・マップ・データ)。

「藪主膳殿」一橋家の家老に藪主膳忠久なる人物がいる。その後裔か。

「蒲生伊三郞」同姓で同じ通称を持つ知られた儒学者に蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年)がいる。彼は天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者であり、海防論者としても知られ、同時代の仙台藩の林子平や、上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人と讃えられた。参照した当該ウィキによれば、『赤貧と波乱の人生を送りながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は』、天明八(一七八八)年十七歳の時、『祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘』が『身重』であったため、『宇都宮に残し、それから』四『代目が』君平の『父の正栄』であった『という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵』とある。『下野国宇都宮新石町(栃木県宇都宮市小幡一丁目)の生まれ』で、『父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営』んでいたとある。なかなかに面白い事績は、リンク先を読まれたい。ロケーションからも彼であろう。なお、ファナティクな尊王の廃仏派の儒家なら、こんなことは平気の平左である。水戸光圀がそうだった。かの黄門は、生涯一回ぽっきりの旅行で鎌倉に赴いた途次も、横浜の金沢辺で、地蔵菩薩像を見つけて、突然、怒りだし、縄でぐるぐる巻きにして、引き廻した末に捨てている。

「元弘元年二月」一三三一年。鎌倉幕府滅亡の二年前。

「藤原少將公綱」宇都宮氏第九代当主にして宇都宮城城主宇都宮公綱(きんつな 乾元元(一三〇二)年~正平一一/延文元(一三五六)年)。名将楠木正成に「坂東一の弓取り」と評されて恐れられるほどの武勇を誇ったと伝えられる人物。「元弘の乱」の初期には幕府側として楠木正成と戦ったが、後、後醍醐天皇方に従い、建武政権では雑訴決断所一番の奉行となった。同政権が崩壊後も、南朝方に組みして、各地を転戦した。吉野の行在所にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任されている。後に出家し、益子町大羽(おおば)に隠栖したが、晩年は不遇だったともされる。事績は当該ウィキを見られたい。

「野州杤木町」栃木市栃木市内であろう。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 鼠の怪異

 

[やぶちゃん注:怪奇談なので、面白く読み易くするため、段落を成形し、記号を挟んでみた。]

 

   ○鼠の怪異

 今玆【文政乙酉。[やぶちゃん注:一八二五年。]】四月、奧州伊達郡保原といふ所の大經師松聲堂【俗稱・福井重吉、俳名・萬年。】の物語に、

――おのれ事は、南部の產にて、此春、親族の方より消息して、世にめづらしき事を、しらせ、おこしたり。

 そは、南部盛岡より、凡、二十里許おくに、福岡といふ所にて、そこに靑木平助といふ舊家あり。其家作のふるき事、五、六百年前に造りなしたるが、そのまゝにて、代々、住居來れり[やぶちゃん注:「すまゐきたれり」。]。

「げに、其家、今やうの造りざまにあらず、いかにも、由あるものゝ末ならんと、おもはるゝ。」

と、なり。

 しかるに、此春二月の比、あるじ兵助の夢に、棟の上に一塊のほのほ、炎々と、もゆ、と見て、驚きさめて、ふと、仰ぎ見れば、こは、そも、いかにぞや、夢に見たるに、つゆ違はず、おのれが寐たる上の棟に、火、燃えゐたりければ、あわてふためき、起き上り、手ばやく、はしごを、ものして、手ごろなる器に水を入れ、水をそゝぎかけなどしければ、忽に、火はきえて、させる事、なし。

 あるじ、とゞろく胸は、やゝしづまりしかども、

『いかなることにて、このあやしみのありけるにや。』

と思へば、さらに心安からねど、

『かゝる事を、家の内のものに告げしさらば[やぶちゃん注:ママ。「しらさば」の錯字か。]、「さこそ、『ものゝけ』、『たゝり』ならん。」と、いひのゝしりて、うるさかるべし。何にまれ、今少し、試みばや。』

と、ひとり、むねにをさむるものから、その曉まで、いもねられで、あかしゝとぞ。

 かくて、あけの朝、起き出でゝ、例のごとく、うがら[やぶちゃん注:「親族(うがら)」。]、うちよりて、朝いひ、たふべんとする折、かの宵に、ことありし棟とおぼしき處より、物の、

「はた」

と落ちたり。

 思ひもかけぬ事なれば、女・わらべなどは、

「あれ。」

と、さわぎて、飛びのきつ。

 あるじは、心にかゝるふしもあれば、

「さて、こそ。」

とて、

「き」

と、そのものを見とむるに、いと年ふりて、大きなる鼠のおなじ程なるが、その數、九つ、尾と尻と、つき合せて、わらふだの如く、まろくなりつゝ、かたみに、手あしをもがきて、かけりのがれんと、するなりけり。

[やぶちゃん注:「わらふだ」「藁蓋・圓座」(わろうだ)。藁・藺・蒲・菅 などを縄に綯(な)い、渦巻き状に編んで作った円い敷物。]

 しかるに、その鼠、いかにもがきても、その尻と尻、つながりて、はなれず、只、ひたすらにかけ出でんとするのみにて、

「くるくる」

と、おなじ所をめぐるのみなれば、人みな、おそれおどろく中にも、亦、興ある事におぼえて、

「こは、けしからぬ物なり。いかにして、かくまで、同じ鼠の九つ、よくも揃ひけん、それすらあるに、尻と、尻の、はなれぬは、いかなる故ぞ。」

と、のゝしりつゝ、

「とりはなして、にがしやらんか。」

「うちも、殺さんや。」

など、いひどよみて、わりきやうのものをもて、兩三人、左右より、引きわけんとするに、得はなれず。

[やぶちゃん注:「わりきやう」不詳。「割經木」のことか。薄い木の板を細く割ったもの。「割り木樣」ともとれなくはないが、割り木では大き過ぎるので私は採らない。

「得」不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]

「こは、おかしき物なり。」

とて、つよく引きたて見れば、あやしむべし、此鼠の、尾と、尾の、からみあひたる事、あじろをくみたらん如くにて、

「つよく物せば、しり尾も、ぬげんずらん。」

など、いふ人もあれば、そがまゝに置きたるを、ちかきわたりの人々、聞き傳へ、つどひきて、

「扨も、めづらしきものを見つるかな。われらに得させ給へ。」

とて、竹の先に引きかけて、處々、もちあるきて、なほ人に見せたる果は、川へや、流しけん、土中にや埋みけん、

「そのゝちに、又、怪しきことの聞えなば、なほ、又、告げまゐらせん。」

など、いひおこしたり。――

と、語りし、よし。

 友人の傳聞にまかして、けふの「兎園」の數に入れ侍るになん。

[やぶちゃん注:鼠の子どもらが母鼠の尾に繋がることはあると思うが、これは明らかに成体のそれであるから、不審。鼠に似た他種も考えたが、梁の上で、特に挙げ得る別種は私は想起出来ない。

「奧州伊達郡保原」現在の福島県伊達市保原町(ほばらまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「大經師」経師屋・表具師の称。

「松聲堂【俗稱・福井重吉、俳名・萬年。】の物語に、

「福岡」距離から見て、岩手県二戸市福岡であろう。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奇夢

 

   ○奇 夢

いぬる八月廿五日[やぶちゃん注:本「兎園会」は文政八(一八二五)年九月一日の発会。]の夜半に、日向、稱名寺【淨土眞宗にて、廣國山と號す。余が菩提寺なり。】といへるに、盜賊入りたり。このごろは、その邊、處々に、賊の入るよし、人々、心を付くる折なりしに、其夜、納所の僧義山といふもの、いかゞしけん、子の刻過ぐるまで、いねられずありしに、丑の時ばかりに、ぬるともしらず、まどろみし夢に、賊四人、おし入り、各、手に白刄を提げて、義山をおし伏せ、刄をつきつけ、「住持の居間に案内せよ。」と責めらるゝ、と、見て、おどろき、さめぬ。總身に流せし汗をぬぐひても、轟くむねは、なほ、おちつかず、「かゝる時には、用心に、しくこと、なし。」とて、火そくして、あなたかなたを搜索のいとまなさに、此事を記して、けふの「兎園」に充つるになん。

  乙酉九月朔      海 棠 庵 誌

[やぶちゃん注:う~ん、本物の賊と鉢合わせしたところが描かれていないのは、ちょっとどころか、大いに食い足りぬ。まあ、義山は怪我なしではあったのであろうけれども。

「日向、稱名寺」文京区小日向にある浄土真宗本願寺派廣國山一心院称名寺(グーグル・マップ・データ)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 遊女高雄

 

[やぶちゃん注:以下は輪池堂屋代弘賢の発表であるが、実は私はここで彼が「みちのくざうし」と称しているもの、只野真葛の「奥州ばなし」をブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を終えており、明らかに、それは同書の「高尾がこと」であり、しかもそこで、全体に詳細なオリジナル注を附し、さらにこの以下の本文を正字化して注で示してある。今回、今一度、この本文を改めて校閲し(リンク先では、底本のままに正字化しただけ)、さらにそちらと差別化するために、段落を成形し、記号を加えて読み易さを図り、新たに不足していると思われる注を施した(「高尾がこと」で附した注は再掲しないので、まずそちらで読まれたい)。なお、只野真葛の事蹟と、実際には本資料の前半を弘賢に提供した滝沢馬琴と彼女との関係については、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を参照されたい。

 

   ○遊女高雄

 著作堂の珍藏に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して、仙臺に在りしが筆記なり。

 その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄說を正すに、たれり。曰、

   *

 昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへて、「くるわ」を出だし給ひて、御たち[やぶちゃん注:「御館」。御屋敷。]までも、めし入れられず、「中す川」【「中す」。「中」は「中洲川」にて、則、三派の事なり。後までも「中洲」といふをもて知るべし。】[やぶちゃん注:以上は情報提供者にして「兎園小説」主催の馬琴による頭書。]、にて、切りはふらせ給ふと、世の人、思へるは、あらぬことなり。是は、うた・上るりに、おもしろし事、添へて、作りなどして、やがて、誠のごとく成りしものなり。

[やぶちゃん注:「中す川」現在の東京都中央区日本橋中洲附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧名。ウィキの「日本橋中洲」によれば、『中洲は』、『もともと』は『文字通り』、『隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため』、『一帯は』「みつまた」(或いは「三派」(☜)「三ツ俣」「三つ股」『など表記が多数』、『存在する)とも呼ばれたが、具体的に』、『どの流れを指したかについては諸説あ』り、一定しない。『また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため』、「別れの淵」とも『呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった』。万治二(一六九五)年に『吉原の遊女』二代『高尾太夫が中洲近くの船上で』第三代陸奥仙台藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)の意に従わなかったため、『吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある』(但し、真葛が否定しているように、真偽不明の怪しげな風聞の一つに過ぎない。「高尾がこと」の「高尾」の注を参照)とある。]

 高雄は、やはり、御たちに、めしつかはれて、のち、老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又、新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて【祿、玄米六百石。】、今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。

 只野家、近親なる故、ことのよしは、しれり。

 杉原家にても、

『世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし。』

と、思ふべけれど、

『「我こそ高尾が末なり」と名のらんにも、おもたゞしからねば、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。「押し默る」。]、聞きながしをる。』

と、なり。

[やぶちゃん注:「おもたゞしからねば」ママ。「面正(おもただ)し」は「面立(おもたた・おもだた)し」の誤用の慣用化したものかと思われる。「面立し」は「身の光栄に思う・面目が立つ・晴れがましい」の意。]

 これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號・葬地等の書付を、

「著作堂の主にしめさん。」

とて、こゝに、のす。その記に曰、

『「仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりて、もちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたり。」とて、島田某の見せたるを、しるす。

   *

 二代目 享保元丙申年

   ○ 淨休院妙讚日晴大姉

  三巴の紋十一月廿五日   杉原常之助

    于時正德五年二月二十九日

     逆修 源範淸義母 行年七十七歲

[やぶちゃん注:「杉原常之助」「逆修」以下は底本では下インデント四字上げであるが、何れも引き上げ、後者は「于時正德五年二月二十九日」の下にあるが、改行した。

「享保元丙申年」「十一月廿五日」一七一七年一月七日。同年は閏二月があるため、グレゴリオ暦では十一月十九日が一九一七年一月一日になる。この年は正徳六年六月二十二日(一七一六年八月九日)に第七代将軍徳川家継の死去のため、享保に改元している。

「淨休院妙讚日晴大姉」戒名から判る通り、後に出る「仙臺荒町、法龍山佛眼寺」(ぶつげんじ)は日蓮正宗である。ここ

「三巴の紋」がここにあるという解説である。

「正德五年二月二十九日」一七一五年。

「逆修」生前に、予(あらかじ)め、死後の菩提を祈願して仏事を修すること。没後に他人により行われる「追善」の対語。逆は「予め」の意。

「源範淸義母 行年七十七歲」この逆修塔を作った際に数え七十七であることから、彼女は延宝七(一六三九)年生まれであることが判る。]

   *

 右の碑、仙臺荒町、法龍山佛眼寺に在り。

 仙臺の人のいふ、

「高尾、實は國侯に従ひて、奥州に、いたる。杉原常之助といふは、義子[やぶちゃん注:養子。]にて、名跡をたて給ひたるに、いひ傳ふ。享保元年七十八歲にて、天壽を終ふ。」

と、いふ。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 暮春 / 筑摩版全集に不載の幻しの一篇か?

 

 暮   春

 

うすらあかりのさしそへる川べりづたひ

利根川の川なみ白きほとりより

われはや哀しき聲をあぐ

けふしも土筆つむにはあらねども

くらき河原にあるはわれひとり

石垣の堤に倒れ伏し

長く背脚をふるはせてしのび泣く

ああいかなればぞきのふにかはる身の上とはなりもはてしぞ

くめどもつきせぬ哀傷の涙の瀧川

げにあきらめられず

あきらめられず このことばかり

ああ故鄕に光ぞ

かくもさくらばな咲きづるころほひに

もつとも裂くるが如くなり

よべどせんなききのふの生活

あまりなるに

はやはや君をかへらしめよと。

 

[やぶちゃん注:この詩篇、底本巻末の「詩作品年譜」には出所を「ノオト」とする。ところが、筑摩版全集のどこを探しても、この詩篇は存在しない。索引は勿論(「暮春」はない)、詩篇の原稿散佚篇や膨大な「ノート」も管見したが、載らない。似たような詩篇はあっても(彼は利根川べりをロケーションとした詩篇を非常に多く書いている)、この文字列のものは、ざっと見ても載らないのである。新潮社版全集(底本の前に出たもの)の「遺稿上」から三十二篇を引いた「原稿散逸詩篇」パートがあるが、やはり似たようなものはあっても、この詩篇は載らない(これは私が底本とする本書が、その後、新たに本書のために探索をし、見つかったものをも加えたものである可能性が高いからと言えるように思われる)。全集各巻の月報の補遺や、差し込みの追記も見たが、ない。というより、私は初版全集(筑摩書房・一九七五年~一九七八年刊行)のそれ以外に、一九八九年の同全集補訂版刊行時に新たに「補卷」として加えられたその巻(その巻だけ買った)も所持しているが、これの補遺にも存在せず、新たに作られたその「補卷」の索引にも「暮春」のタイトルは存在しないのである。則ち、天下のかの完璧と思われた今ではなかなか考えられぬ漢字正字表記(編者解説もである。但し、そちらは流石に歴史的仮名遣ではない)の「萩原朔太郎全集」の完璧と思われた金字塔にも漏れがあったということになる。言わずもがなであるが、ネット上にも、本詩篇はみつからない(萩原朔太郎は私以上にフリークの方が多く、所謂、拾遺詩篇や未発表詩篇を電子化している方も多い)。私の不審を氷解して下さる情報(以上の探索は膨大な量なので、落ちがないとは、無論、言えない。但し、現在までの最新と思われる「索引」に詩篇「暮春」がない事実は重い)をご存知の方は是非とも、お教え願いたい。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 からたちの垣根

 

  からたちの垣根

 

からたちの垣根の中に

女のはしやぐ聲のする

夕餉の葱のにほひする

灯ともしごろ

からたちの垣根を過ぐる侘しさよ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年十二月号『創作』であるが、異同は全くないので略し、「習作集第九巻」にある初期形を以下に示す。

 

  からたちの桓根

 

からたちの桓根の中に

女のはしやぐ聲のする

夕餉の膳の音のする

灯ともし頃

からたちの桓根をすぐる哀しさよ

           (一九一三、一〇、二〇)

 

「桓」ママだが、「標(しるし)として立てた木・廻りに巡らせた木」(他に「勇ましいさま・ぐるぐる巡るさま」)の意があるので誤字とは言えない。底本の「詩作品年譜」にはない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 靑いゆき

 

  靑 い ゆ き

 

靑いぞ

ゆきはまつさを

もも さくらぎに花咲かず

靑いこなゆき

光る山路に泣きくらす。

靑いぞ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九二四)年十一月号『地上巡禮』。初出形を示す。

 

 靑いゆき

 

靑いぞ、

ゆきはまつさを、

もも、さくらぎに花咲かず、

靑いこなゆき、

光る山路に泣きくらす。

靑いぞ、

 

習作ノート等の初期形或いは類型詩篇は現存しない。]

2021/10/08

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 鍾馗

 

[やぶちゃん注:甚だ読み難いので、あまり真剣には判断せず、それっぽいところで段落を成形して、ブツ切りにした。漢字を捜すのに時間がかかり、しかも何となく不審に思って途中で原本に当たってみたりして、本文電子化だけで二時間近くかかり、甚だ疲弊して厭になったので、本文電子化だけでやめにする。無論、漢籍の引用が多く、私には不明な箇所も多々あるが、ともかく、この一条に関しては、食指も動かず、イヤになったのだから、仕方がない。悪しからず。そもそもが、始動時に私ははっきりと言っている。『全篇は長いので、例の如く、私の神経症的な注を附していると、転生しても終わらないだろうからして、原則、私がどうにも意味が分からず、躓いて動けなくなった箇所にのみ限定して附すこととする』と。それを初めて実行に移しただけのことである。一部の原本影印のリンクだけでも私はやった甲斐があったと思っている。なお、「鍾馗」については、私の電子化注では一番古いもので、「耳嚢 巻之十 滑稽才士の事」、一番新しいもので、『小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13ー2) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 二』に、ちょっぴり注してある。]

 

戌 月 兎 園         輪  池

   ○鍾 馗

 鍾馗を辯ぜし書、「升菴文集」七・「脩類草木日知錄」・「通雅」・「正字通」等、皆人の知る所なり。淸の逍翼が「陔餘叢考」に至りて、詳悉せり。その要を取りて、こゝに記す。

 六朝古碣に、「鍾馗」二字あり。「是、唐人にあらず。」といへり。

 「北史」、魏、『堯喧、本名、鍾葵。字、辟邪【「湧幢小品」に、「鍾」を「終」に作る。】。』。

 おもふに、「葵」字、傳へ訛る。提鬼之說、こゝにおこれり、といふ。

 其餘、

『宗慤妹、名鍾葵。』【沈括が「筆談」には、「葵」を「馗」に作る。】。

『魏文帝時、揚鍾葵、又張袞之孫。白澤、本名、鍾葵、于勁亦字鍾葵。』。

『孝文時、頓邱五、李鐘葵。』【「正字通」には、「馗」に作る。然れども、喬鍾葵の類、悉皆、「馗」に作りたれば、信じがたし。】。

『北齊武成時、官右宮、鍾葵。』。

『後主緯時、慕容鍾葵。』。

『隋煬時、喬鍾葵。』。

『隋宗室處絹之父、名鍾葵。』。

 又、別に、殷鐘葵あり。唐の時、「王武後、有將、張鍾葵。」など、かぞへたてたれども、「六朝古碣」と「沈括筆談」二・鍾馗の外は、みな、「葵」の字を書きたれば、おのづから、別なるが如し。

 さて、「天中記」、「唐逸史」を引きたる、明望の夢に入りし終南山の進士鍾馗の外、唐に張鍾馗といふ有り、

『龍飾淨土文言、唐張鍾馗殺雞爲ㇾ縈。忽見一人緋衣驅群雞來叫云、啄々四畔上啄兩目。流血受大痛苦。』

と、みゆ。

 これ、「王武後が將」とは、おのづから、別人にて、賤民とみえたり。

 さらば、まさしく「馗」の字を書きたる、六朝以來、四人なれども、淨土文のごとき人も、しらざる賤民に、同名有る時は、猶、幾人も有るべきなり。

 然るに、多く、鍾馗は、名か、字なるを、進士のみ、鍾は姓、馗は名なるべし。たゞ、これを異なりとす。

 要するに、「六朝に、鍾馗ある。」と、きく。「唐に、はじまるに、あらず。」といひ、「張說が畫、鍾馗を□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]する表、開元に先立ちて有り。」と、いひて、鍾馗、夢に入る事を、疑ふ。

 又、「唐逸史」、世に傳はらざれば、諸儒、疑ひて、妄誕とす。

 按ずるに、宋の郭若虛が「圖畫見問志」【「佩文畫譜」に引く。】に、

『吳道子畫。鍾馗衣藍衫。鞹一足。眇一目。腰笏[やぶちゃん注:底本は「笥」だが、「中國哲學書電子化計劃」の原本影印本の当該部で視認して特異的に訂した。]巾首而蓬髪以左手捉ㇾ鬼。以右手 [やぶちゃん注:底本は「扶」であるが、同前で訂した。]其鬼。自筆跡遒勁。實繪事之絕格也。』

とみえ、「正字通」に、

『宋禁中舊有吳道子。所ㇾ畫鍾馗。卷首唐人題云、「明皇開元講武驪山還宮上不懌[やぶちゃん注:底本は「忄」+「畢」であるが、「中國哲學書電子化計劃」の「正字通」の影印本の当該部の視認した感じ、及び、中文サイトの「古今文字集成」の「馗」にある当該部の電子化から、これを採用した。]痁佐夢大鬼。」。』。

 「制」に、『鬼命吳道子畫之。』など、みえたれば、明皇、吳道子に畫かせられし事は、實なり。又、土上老君、明皇の夢に入りて、眞容の所在を告げしかば、「夢眞容勅」を碑に建てられしも、開元中の事なれば、邊士の夢に入りし、類推して、しるべし。

[やぶちゃん注:以下、「有るべし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 「終葵」、「鍾馗」、同、音通とはいへども、「終葵」と名付けしは、「搥」の義を用ひ、「鍾葵」と名付けしは、「鍾」は「祭器」の義、「葵」は「百菜の長」といふ義を用ひしも、しるべからず。「大鍾」を姓となさば、「馗」は「九逵」の義にても有るべし。

 然るを、拐顧散人、幽明に通ずる事、あたはずして、たゞ目前の端直をいふにより、夢の跡を破して、鍾馗をも『「槌」の義なり』とす。實に然るべきや、予は荷擔しがたし、といふ。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 晩秋哀語

 

 晩 秋 哀 語

 

ああ秋も暮れゆく

このままに

故鄕にて朽つる我にてはよもあらじ

草の根を嚙みつつゆくも

のどの渴きをこらへんためぞ

畠より疲れて歸り

停車場の裏手なる

便所のほとりにたたずめり

日はシグナルにうす赤く

今日の晝餉に何をたうべむ。

            ――故郷前橋にて――

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年十一月号『創作』。それを以下に示す。

 

 晩秋哀語

 

あゝ秋も暮れゆく

このまゝに

故鄕にて※つる我にてはよもあらじ

草の根を嚙みつつゆくも

のどの渴きをこらへんためぞ

畠より疲れて歸り

停車場の裏手なる

便所のほとりにたたずめり

日はシグナルにうす赤く

今日の晝餉に何をたうべむ

             (故鄕前橋にて)

 

「※」は「朽」の六画目に五画目の下方に横画を入れたもの。「杇」の(つくり)の一画目と二画目の間を三画目のそれが二画目が貫いた字。植字製造工が誤って作ってしまった活字に過ぎないと思われる。

 次に初期形である「習作集第九巻」の「晩秋」を以下に示す。

 

 晩秋

 

あゝ秋も暮れ行く

このまゝに

故鄕にて朽つる我にてはよもあらじ

草の根をかみつゝ行くも

のどの渴きをこらへんためぞ

麥畑よりつかれて歸り
               (停車場の)
前橋驛の裏手なる

便所のほとりにたゝづめり

日はシグナルにうす赤く

今日の晝餉に何をたうべむ、

             (故鄕前橋にて)

個人的には、後半部に強く共感する。屎尿の臭いが極めて効果的である。これは、今の若者には判るまい。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 歡魚夜曲

 

  歡 魚 夜 曲

 

光り蟲しげく跳びかへる

夜の海の靑き面をや眺むらむ

あてなき瞳遠く放たれ

憩らひたまふ君が側へに寄りそへるに

浪はやさしくさしきたり

またひき去る浪

遠き渚に海月のひもはうちふるへ

月しらみわたる夜なれや

言葉なくふたりさしより

涙ぐましき露臺の椅子にうち向ふ

このにほふ潮風にしばなく鷗

鱗光の靑きに水流れ散りて

やまずせかれぬ戀魚の身ともなりぬれば

今こそわが手ひらかれ

手はかたくあふるるものを押へたり。

ああかの高きに星あり

しづかに蛇の這ひ行くごとし。

 

[やぶちゃん注:十三行目「戀魚」はママ。最後の初期形参照。初出は大正二(一九一三)年十一月号『創作』。まず、初出形を示すが、既に「秋日行語」で述べた通りの、あり得ない不幸な雑誌社側の校正編集ミスが生じている。

 

  歡魚夜曲

 

光り蟲しげく跳びかへる

夜の海の靑き面をや眺むらむ

あてなき瞳遠く放たれ

息らひたまふ君が側へ寄りそへるに

浪はやさしくさしきたり

またひき去る浪

遠き渚に海月のひもはうちふるへ

月しらみわたる夜なれや

言葉なくふたりさしより

淚くましき露臺の椅子にうち向ふ

このにほふ潮風にしばなく鷗

鱗光の靑きに水流れ散りて

やまずせかれぬ歡魚の身ともなりぬれば

今こそわが手ひらかれ

手はかたくあふるるものを押へたり。

ああかの高きに星あり

……………

しづかに蛇の這ひ行くごとし

父母の慈愛戀しやと歌ふなり。

 

四行目「息らひたまふ君が側へ寄りそへるに」及び十行目「淚くましき露臺の椅子にうち向ふ」はママ。に「秋日行語」で一部を引用したが、再掲すると、筑摩版全集には、『雜誌發表の際の最終行「父母の慈愛戀しやと歌ふなり。」は同時發表の「秋日行語」の最終行を誤って印刷したものと推定される。作者加筆の雑誌が殘されているので、それに基づきこの行を抹消、また十三行目の「歡魚」を「戀魚」と訂した。但し、十七行目の「……………」は、作者によって抹消されているがそのままのこした』という、何とも奇体な処理が施されているのである。何故、十五点リーダを抹消する手入れがあるのに、やらなかったのかは、後に示す初出形にそれがあるからに過ぎないのであって、私はその校訂本文を肯ずることが出来ない。朔太郎の決定稿では「……………」はナシなのだ。それに基づいて以下に独自に再現する。

 

  歡魚夜曲

 

光り蟲しげく跳びかへる

夜の海の靑き面をや眺むらむ

あてなき瞳遠く放たれ

息らひたまふ君が側へに寄りそへるに

浪はやさしくさしきたり

またひき去る浪

遠き渚に海月のひもはうちふるへ

月しらみわたる夜なれや

言葉なくふたりさしより

淚ぐましき露臺の椅子にうち向ふ

このにほふ潮風にしばなく鷗

鱗光の靑きに水流れ散りて

やまずせかれぬ戀魚の身ともなりぬれば

今こそわが手ひらかれ

手はかたくあふるるものを押へたり。

ああかの高きに星あり

しづかに蛇の這ひ行くごとし。

 

次に初期形である「習作集第九巻」のものを以下に示す。

 

  戀魚夜曲

 

ひかり蟲しげく跳び代へる

夜の海の靑きおもてをや眺むらむ

あてなき瞳遠く放たれ

息(す)らひたまふ君が側へに寄りそへるに

浪はやさしくさし來り

またひき去る浪

遠き渚に海月のひもはうちうるへ

月しらみ渡る夜なれや

言葉なく二人さし寄り

淚ぐましき露臺の椅子にうち向ふ

このにほふ潮風にしばなく鷗

鱗光の靑きに水流れちりて

やまずせかれぬ歡魚の身ともなりぬれば

今こそわが手ひらかれ

手はかたくあふるゝものを押へたり

あゝかの高きに星あり

……………

しづかに蛇の這ひ行くごとし

          (一九一三、五、鎌倉ニテ)

 

「息(す)らひ」「うちうるへ」はママ。前者は「やす」のルビの脱字、後者は「うちふるへ」の誤記。なお、上記初出形の底本の筑摩版全集では、『卷末の目次では「歡魚夜曲」との題名を附している』とある。いろいろ言いたいことはあるが、萩原朔太郎の手入れ本の現物を見られない以上、勝手な推論に過ぎなくなるのでこれでやめておく。

 なお、これは鎌倉の海岸のロケーションといい、やはり「秋日行語」で述べた、仮想された「エレナ」との、夜の如何にも幻想的なランデヴーの物語詩である。「海月」(くらげ)の「ひも」(紐)が「うちふるへ」(打ち顫へ)るのが、いい。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋日行語

 

  秋 日 行 語

 

菊もうららに咲きいでたれど

砂丘に宿りて悲しめり

さびしや海邊のおくつきに

路傍の草を手向くること

このわびしきたはむれに

ひとり樹木にすがりつき

たましひも消えよとむせびなく。

ああふるさとの永日に

少女子どものなつかしさ

たとしへもなきなつかしさ

やさしく指を眼にあてて

ももいろの秋の夕日をすかし見る

わが身の春は土にうもれて

空しく草木の根をひたせる涙。

ああかくてもこの故鄕に育ちて

父母のめぐみ戀しやと歌ふなり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年十一月号『創作』。

「少女子」「をとめご」と訓じておく。

 まず、初出形を示す。

 

  秋日行語

 

今日にて三日

菊もうらゝに咲きいでたれど

我身は巡禮の群よりのがれ

砂丘に寄りて悲しめり

さびしや海邊のおくつきに

路傍の草を手向くること

このわびしきたはむれに

ひとり樹木にすがりつき

たましひも消えよとむせびなく。

あゝふるさとの永日に

少女子とものなつかしさ

たとしへもなきなつかしさ

やさしく指を眼にあてゝ

もゝいろの秋の夕日をすかしみる

わが身の春は土にうもれて

空しく草木の根をひたせる淚。

あゝかくてもこの故鄕に育ちて

 

「子とも」はママ。しかし、全体にいかにも不審な印象が残るのだが、この詩篇と次に掲げる「歡魚夜曲」は、実は初出雑誌の校正・編集に於いて、致命的な誤りが生じていることが、筑摩版全集の注記で判明する。「歡魚夜曲」の注に、『雜誌發表の際の』、「歡魚夜曲」の方の『最終行「父母の慈愛戀しやと歌ふなり。」は同』雑誌に一緒に発表された本『「秋日行語」の最終行を誤って印刷したものと推定される。作者加筆の雑誌が殘されている』とあって、それによって、本詩篇と「歡魚夜曲」の正しい決定稿が校訂本文で復元されてある。以下にその校訂本文を示す。

 

  秋 日 行 語

 

菊もうららに咲きいでたれど

砂丘に寄りて悲しめり

さびしや海邊のおくつきに

路傍の草を手向くること

このわびしきたはむれに

ひとり樹木にすがりつき

たましひも消えよとむせびなく。

ああふるさとの永日に

少女子どものなつかしさ

たとしへもなきなつかしさ

やさしく指を眼にあてて

ももいろの秋の夕日をすかしみる

わが身の春は土にうもれて

空しく草木の根をひたせる淚。

ああかくてもこの故鄕に育ちて

父母のめぐみ戀しやと歌ふなり。

 

但し、私は本当にこれが萩原朔太郎の手入れの雑誌に忠実になされたものであるかどうかについては、その手入れ本を実見していないので、無批判にそれが萩原朔太郎の本詩篇の真の決定稿であるとするには躊躇を感ずる部分がある(特に頭の「今日にて三日」の削除に対してである。後述する。また、筑摩版は次の「歡魚夜曲」でも、おかしな校訂を行っているのである)。次に初期形である「習作集第九巻」のものを以下に示す。

 

  秋日行語

 

今日にて三日

菊もうらゝに咲きいでたれど

砂丘によりて悲しめり

さびしや海邊のおくつきに

路傍の草を手向くること

この佗しきたはむれに

ひとり樹木にすがりつき

たましひも消えよと咽び泣く

あゝ故鄕の永日に

少女子どものなつかしさ

たとしへもなきなつかしさ

やさしく指を眼にあてゝ

もゝいろの秋の夕日を透かし見る

わが身の春は土(つち)に埋れて

空しく草木の根をひたせる淚

かくてもこの故鄕に育ちて

ちゝはゝの慈愛(めぐみ)戀しやと歌ふなり。

 

この始まりの「今日にて三日/菊もうらゝに咲きいでたれど/砂丘によりて悲しめり」であるが、まず、底本の「砂丘に宿りて悲しめり」の「宿」は「寄」の字の原稿の判読の誤りと考えてよい。しかし、先に私が言った疑義は、二行目の末の逆接表現は、前に「今日にて三日」という表現があってこそ生きるものだからである。

 なお、「砂丘によりて悲しめり」以下の哀傷部から、この一篇は、明らかに、萩原朔太郎の永遠の恋人「エレナ」、朔太郎の妹ワカの友人で馬場ナカ(仲子とも。明治二三(一八九〇)年生まれで大正六(一九一七)年五月五日に没した。朔太郎より四つ年下。「エレナ」は彼女の後の洗礼名(受洗は大正三(一九一四)年五月十七日)で、朔太郎が十六歳の頃に出逢い、十九で恋に落ちた。後、ナカは明治四二(一九〇九)年に高崎市の医師と結婚して二人の子も儲けたが、結核に罹患、湘南地方に療養し、最後は鎌倉の七里ヶ浜附近の療養所で享年二十八で亡くなった)をこの大正二年二月に平塚の病院に見舞いに訪ねたものの、逢えなかった(既にそこに居なかったか、居ても逢えなかったか、拒絶されたか、それは一切不明である)という経験に基づくものである。私の「ソライロノハナ 附やぶちゃん注」PDF縦書版)を参照されたい。但し、そこでは、『あはれの人妻は一と月ほどまへ影のやうに此の世から消えてしまつたのである』と朔太郎は記している。しかし、現在、これは、萩原朔太郎による創作的歌物語であり、この謎の無名の女性が「エレナ」であることは、最早、間違いないとされているのである。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 郊外

 

  郊   外

 

かしこに煙の流るる

空はつめたくして

草はあたたかに萠えたり

手はくみて步めども

よそゆきの着物のにほひ佗しきに

秋はうららに落きたり

日南に樹木の愁ひちらばふ

晝餉どき

停車場のほとりに出で

わづかなる水をたうべしに

工人の居て

遠き麥畑を指させり。

 

[やぶちゃん注:「晝餉どき」は「ひるげどき」であろう。底本の「詩作品年譜」に制作年月日として大正二(一九一三)年九月二十四日をクレジットする。初出は大正二年十一月号『創作』。以下に初出形を示す。

 

  郊外

 

かしこに煙の流るる

空はつめたくして

草はあたたかに萠えたり

手はくみて步めども

よそゆきの着物のにほひ佗しきに

秋はうらゝに落ち來り

日南に幹木の愁ちらばふ

晝餉どき

停車場のほとりに出でゝ

わづかなる水をたうべしに

工人の居て

遠き麥畑を指させり

           (一九一三、九二四)

 

「九二四」はママ。初期形の「習作集第九巻」の「郊外」を以下に示す。

 

  郊外

 

かしこに煙のながるゝ

空はつめたくして

草はあたゝかに燃えたり

手はくみて步めども

よそいきのきものゝにほひ佗しきに

秋はうらゝに落ち來り

日南に樹木の愁ちらばふ

晝餉どき

停車場のほとりに出で

わづかなる水をたうべしに

工人の居て

遠き麥畑を指させり

 

筑摩版全集では注記して、『七行目の「幹木」は未詳』とし、『題名の右下にSSと書かれている』(初出誌『創作』を指す)とある。これによって、底本の「樹木」は編者による改変であることが判る

 さて、確かに、「幹木」という熟語は見慣れない熟語ではある。しかし、それを「樹木」とする底本は根拠に欠くと言わざるを得ない。

 寧ろ、「灌木」の誤字(萩原朔太郎はかなり噓字を多用する)とする方が遙かに腑に落ちるし、また、外に、種としての「肝木(かんぼく)」マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属セイヨウカンボク変種カンボク Viburnum opulus var. sargentii が存在する当該ウィキその他によれば(引用符内はウィキのもの)、同種は北海道及び本州の中部地方以北に分布する落葉広葉樹の小高木で、樹高は二メートルから七、八メートルほどになる。樹皮は暗灰褐色で厚く、成長するにつれて、『縦に割れ目が入ってくる』(不規則な剥離と表現する記載もある)。『小枝は赤褐色で』、『毛はなく、枯れた枝先がよく残っている』。『葉は枝に対生し、形は広卵形で』三『裂するのが特徴で、他の似た種との区別がしやすい。葉の先端は尖り』、『縁は全縁になる』。『花期は』五~七月につき、『白色の小さな両性花のまわりに大きな』五『枚の装飾花が縁どる。秋に赤い実をつける。冬になっても』、『赤い果実や果序の柄はよく残っている』とあり、さらに、『材は白色で香気があり、日本では』古くから『楊枝や房楊枝の材料として使われてきた』経緯があり、『また』、『枝葉を煎じた液は止血効果があるとされ、切り傷や打ち身を洗う民間薬として利用されてきた』。『「肝木」の和名は、薬用として用いられた歴史に由来するとも推定されている』とあって、朔太郎がこの木を指していないという断定も出来ない。作詩は秋であり、赤い実のそれは、本詩篇の表現によく馴染むと言うことも可能である。

 また、筑摩版全集は総てに於いて、校訂本文では、「日南」を誤字と断じたらしく、「日向」に改変してしまっている。しかし、小学館「日本国語大辞典」の「ひなた」(見出し漢字表記は「日向」)を見ると、例文として尾崎紅葉の「多情多恨」が引用されており、そこには『お種と保との不断着が魚を開いたやうに日南(ヒナタ)に並べて干してある』とある。さらに俳人飯田蛇笏は、この「日南」の語が好みで、句集「靈芝」では、四句に「日南」の語を用いている(ルビはない)。私はブログ・カテゴリ「飯田蛇笏」で「靈芝」を分割で総て電子化注しているが、総てを示すと、「明治四十年(十句)」(ここの注で「ひなた」と訓じていると私は判断したので読まれたい)・「昭和六年(四十一句) Ⅱ」「昭和七年(七十二句) Ⅷ」「昭和九年(百七句) Ⅻ」である。これらから、「日南」を「日向」の誤字と考えることは無理であると断言出来るのである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ものごころ

 

  ものごころ

 

ものごころ覺えそめたるわが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

ああこのうるほひをもておん身の髮を濡らすべきか

しからずばその手をこそ。

 

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ

おん身よ

なになればかくもわが肩によりすがり

いつもいつもくさばなの吐息もてささやき給ふや

このごろは涙しげく流れ出でて

ひるもゆうべもやむことなし

ああ友よ

かくもいたいけなる我がものごころのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さもさつさつとおとし來れり。

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。萩原朔太郎の書き癖(彼の誤った書き癖は固執的で多数ある)。初出は大正二(一九一三)年十月号『創作』。初出形を示す。

 

  ものごゝろ

 

ものごゝろ覺えそめたる、わが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

あゝこのうるほひをもておん身の髮を濡らすべきか

しからずはその手をこそ

 

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ、

おん身よ

なになればかもわが肩によりすがり

いつもいつもくさばなの吐息もてささやぎ給ふや

このごろは淚しげく流れ出でゝ

ひるもゆうべもやんごとなし

あゝ友よ

かくもいたいけなる我がものごゝろのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さもさつさつとおとし來れり。

 

「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」のものを以下に示す。

 

  ものごゝろ

 

ものごゝろおぼへそめたる、わが性のうすらあかりは

春の夜の雪のごとくにしめやかにして

ふきあげのほとりに咲けるなでしこの花にも似たり

あゝ このうるほひをもて おん身の髮を濡らすべきか

しからずば その手をこそ

ふくらかなる白きお指にくちをあて

やみがたき情愁の海にひたりつくさむ、

おん身よ

なになれば かもわが肩によりすがり

いつもいつも、くさばなの吐息もてささやぎ給ふや

このごろは淚しげく流れ出でゝ

ひるもゆうべもやむごとなし

あゝ友よ

かくもいたいけなる我がものごゝろのもよほしに

秋もまぢかのひとむら時雨

さも さつさつと おとし來れり。

 

これら、三種の比較によって、初出形の内、少なくとも、底本の第一連の最終行「しからずばその手をこそ。」の最後の句点、「さゝやぎ」の二箇所については、底本編者による恣意的変更である可能性が頗る高いことが推察出来る。なお、言っておくと、戦前までは、ベテランを自負する校正係や植字工が、歴史的仮名遣の誤りや表現がおかしいと感じたものを、作者に無断で変えてしまうことが普通にあった。それは作家デビュー前後の投稿作品のみに限らず、既に知られた流行作家となっていても同じであった。信じられない方のために言っておくと、「校正の神様」の異名で称された神代種亮(こうじろたねすけ 明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)がよく知られる。流行作家として引きも切らぬ状態にあった芥川龍之介は、特に彼に主作品集の校正を依頼していたが、その龍之介でさえ、彼が勝手に書き換えてしまうことを憤慨する書簡を書いている(サイト版「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡7 旧全集一二三六書簡 大正13(1924)年8月19日」を参照されたい)。

2021/10/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 慶雲 彗星

 

[やぶちゃん注:長いので、段落を成形する。]

 

   ○慶雲 彗星

 吾友外岡北海、ひと日、予を訪ひ來りて、いへらく、

「おのれ、さきの日、ゆくりなく慶雲を見ることを得たり。そのよし、いさゝかしるしたり。」

とて、予に示されし筆記に、

「去る八月五日午の一刻ばかりに、小石川傳通院の境内を通りかゝりしに、稻荷の祠前華表の前に、比丘、二、三人集まりて、大空を打ちながめゐたり。己、近よりて、

『何事のありて、空をばながめ居るぞ。』

と問へば、比丘の云ふ、

『あれ、見給へ。五色の雲の棚引なり。昔もの語にのみ聞きつるを、今、見ることの有りがたさよ。今少し、早くおはさば、色こき所を見給はんものを。さりながら、又も、色こくなり侍らんか。』

など、とりどりいへば、

『おのれ、何をいふ。』

と、あやしみつゝ、木の間より伺ひ見れば、げに、比丘のいふ如く、よのつねならぬ一村の白雲、日輪の傍に、長さ十丈あまり、廣さ四、五丈もあらんずらんとおぼしきが、薄く棚引きたるを、日光に映じて、たちまち、紅を、ときて、流すがごとく、其麗しきこと、いはんかたなし。然るに、その紅雲の裏より、紫・黃・靑・綠など、えもいはぬ、麗しき色、幷起りて[やぶちゃん注:「ならびおこりて」]、譬へば、鮑貝の彩を麗しくなしたらん如くにて、見るが内に、淡く、濃く、出沒變化なすこと、かぎりもなく、目ざまし、などいふも、中々、おろかなり。

『穴、うるはし、穴、うつくし。』

と、我しらず、よび出でられ、

『あはれ。かゝる折、相知る人もがな。呼びとゞめて、倶にめづべきものを。』

と、をしまれけり。

『抑、此雲、何地、行くらん。いで、その終る所まで、見とゞけばや。』

と、打ちまもりをりしに、纔、二刻計に、おのづから、うすくなりもて行きて、はては、只、一村の白雲となりて、其所をも去らず、消え失せにけり。彼比丘に、

『此雲、はじめ、何方より來りしぞ。』

と問へば、比丘の云、

『此雲、外より出でこしには、あらざるべし。己が見つけし時も、卽、こゝに、ありたり。』

と、いへり。

 いかにも珍敷ことなれば、

『必、外にても、此雲を見し人あらん。』

と思ひて、後、人々に問ひものすれど、さることありしといふ人は、ふつに、なかりし。」

とて、「日本後紀」などを引用せり。

[やぶちゃん注:「外岡北海」旧姓青木北海(ほくかい 天明二(一七八二)年或いは翌年~慶応元(一八六五)年)と称した国学者。越中富山藩士。早くに子に家督を譲り、江戸に住んだ。和漢の学や「易経」に通じ、和歌や書もよくした。また、工芸にも才能を示した。姓は後に殿岡或いは外岡と変えた。号は他に神通・海雲など。著作に「越中地誌」・「周易外伝神通放言」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った。他の記載でも本名は不明である)。]

 しかれども、予をもて、これを見るときは、我國に慶雲あらはるゝことは、

『文武天皇大寶四年五月、西樓上慶雲見云々』、『改ㇾ元爲慶雲元年。』

[やぶちゃん注:ウィキの「慶雲」によれば、『「慶雲」とは夕空に現れ』、『瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも』され、この二年前の大宝二(七〇二)年に『崩御した持統天皇の葬儀などが済んだ』この年に『藤原京において』慶雲が『現れ、改元され』たとある。]

と、史に見えたるぞ、始なるべき。これより後も、しばしばなり。

『北魏成帝興光元年[やぶちゃん注:四五四年。]二月、有ㇾ雲五色、所ㇾ謂「景雲太平」之應。』

なり。また、吾邦、

『稱德天皇天平神護二年八月、改元神護慶雲。』

[やぶちゃん注:「二年」は「三年」の誤り。天平神護三年(七六七年)八月十六日に「神護景雲」に改元している。編者は何故、ママ注記をしないかなあ!?!

詔に、

『甚奇久異雲(コトニ クスシク コトニ ウルハシキ クモ)、七色交立登[やぶちゃん注:「なないろに、まじはりて、たちのぼる」であろう。]。』

とも見えたり。

 北海子も又、五彩の雲をもて「慶雲」とせり。

 しかはあれど、「漢書」・天文志、及び、「延喜」治部省・祥瑞の條にいへるものを按ずるに、

『若ㇾ煙、非ㇾ煙、若ㇾ雲、非ㇾ雲。』

これによる時は、五色のいろどりある雲は、けだし、慶雲にあらざるに似たり。

 又、この比、人、

「その夜ごとに、彗星のあらはるゝ。」

よし、いひもて傳へ、

「そは、凶年のさがにや。」

など、いへり。

 按ずるに、彗星の名、始めて「春秋」に見えたり。しかれども、その狀を、いはず。其狀を記したるは、甘氏が「星經」などや、始ならん。其後、相承けて、「妖星」とし、これが應をいへるもの、漢儒に至りて、尤、甚し、といふべし。苟くも、年をわたりて、これが應をもとめば、必、應ぜざる者、なからんや。牽强と、いひつべし。

[やぶちゃん注:「甘氏」甘徳(かんとく 紀元前四世紀頃)は戦国時代の天文学者。斉の人。同時代の魏の石申とともに世界でも最古級の「星表」を記したと伝えられる人物。当該ウィキによれば、彼には「天文星占」・「甘氏四七法」・「歳星経」『などの著書があったとされるが、その大半は失われている。これらの著書の内容は』「史記」の天官書や、「漢書」の『天文志における記述を通して窺い知ることができる。また』、唐代に成立した占星術書「開元占経」には『「甘石星経」として』、『まとまった文献が収録されている』とあるので、美成はその辺りの記載を「星經」と言っているのであろう。]

 今、その一、二をいはゞ、漢土の事は、歷史中、「敬々雲」。しかれども、「五代史」・司天考に云、『蓋聖人不ㇾ絕天於人。亦不以ㇾ天參ㇾ人。絕天於人。則天道廢。以ㇾ天□[やぶちゃん注:底本の欠字或いは判読不能字。]ㇾ人。則人事感。故常存而不ㇾ究也。』と、いへり。知言といふべし。

[やぶちゃん注:「敬々雲」不詳。そもそも「々」は日本が勝手に作った繰り返し記号であるから、「敬敬雲」となるが、この文字列でも漢籍は掛かってこない。

『「五代史」・司天考』北宋の欧陽脩による歴史書「新五代史」(元の名は「五代史記」で一〇五三年完成したが、私撰であるため、家蔵されていたが、後に朝廷に献上された。乾隆帝時、先行する薛居正の「旧五代史」とともに正史とするため、欧陽脩の方をかく改称させた。後梁の九〇七年から後周の九六〇年までの歴史が記されてある)の「考」にある天体現象について綴った「司天考第二」の一節。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本が読める。六行目下方から。これによって、欠字は「參」であることが判明した。

「蓋聖人不ㇾ絕天於人。亦不以ㇾ天參ㇾ人。絕天於人。則天道廢。以ㇾ天」參「ㇾ人。則人事感。故常存而不ㇾ究也。」訓読を試みるが、自信はない。「蓋し、聖人は天に於いて人として絕えず。亦、天を以つてして、人を參らさざれば、天に於いて、人、絕え、則ち、天道、廢す。天を以つてして、人を參らさば、則ち、人事、感ず。故に、常に存りて、究めざるなり。」。よう、判らんな。]

 荷田氏も、又、云[やぶちゃん注:どこまでが荷田の言であるか、不明。取り敢えず、殆んど終りまでに採っておいた。]、

「蓋、古來、天變地妖を以て、禍の前兆とするは、人君を恐れしめん爲なり。凡、人恐るゝ所なければ、其行ふ所、矩を踰ゆる[やぶちゃん注:「こゆる」。]に至る。縱令ば、臣は君を恐れ、子は父を恐れ、弟は兄を恐れ、婦は夫を恐る。その恐るゝ所ある故に、行ふ所、矩を踰えず。若、矩を踰ゆることあれば、縱令ば、御家人以上は、國主に至るまでも、上より、これを刑せられ、祠官・僧尼は、寺社奉行、これを刑し、農民は、勘定奉行、これを刑し、商家は、町奉行、これを刑す。陪臣、及、私地の長商も、各、その本主・領主より、これを刑し懲すが故に、率土の濱、恣に[やぶちゃん注:「ほしいままに」。]法を犯すもの、なし。唯、天子に至りては、恐るゝ所なく、矩を踰え、法を犯しても、纔にこれを諫むる者あるに止まる。然れば、無道に陷り易し。故に妖孽を以て、これを恐れしめ、德を修めしむ。大戊の桑穀、高宗の雊雉、以下、皆、然り。其章(コトハ)云、『天子不德なる時は、天變地妖、頻に臻る[やぶちゃん注:「いたる」。]。』。又、云、『某星、見るゝときは、兵喪あり。某星、見るゝときは、水旱あり。』などいふ類、多端なり。其實を論ぜば、天は自天、人は自人【「天は、おのづから、天、人は、おのづから、人云々」。解云、「是、破道の說、君子の言にあらず。辯あり。そは、別にしるすべし。】[やぶちゃん注:頭に『頭書』とある。]、人の不德、天に拘ることなく、天の異常、また、人に及ぶこと、なし。古書に「天」と稱する者は、皆、物の自然にして、人力の爲すこと能はざる所を、天に托して、これをいふのみ。書の「舜典」に『惟時亮天功。』、「大禹謨」に『天降之咎。』、「詩」の「大保」に『天保定爾。』、「節南山」に『昊天降此鞠訩。』など、いふ。以下、六經に、「天」と稱するもの、みな、然り。」

といへり。見ん人、其これを、おもひねかし。

  文政八年秋九月朔     山崎美成識

[やぶちゃん注:「率土の濱」(そつとのひん(そっとのひん))は、陸地と海との接する果てで、転じて「国土」の意。「詩経」の「小雅」の「北山」に由来する語。

「妖孽」(えうげつ(ようげつ))は「不吉なことが起こる前触れ(凶兆)」。

「大戊の桑穀」「たいぼのくは」と読む。「大戊」は正しくは「太戊(たいぼ)」で、殷の第九代の王の即位名。「太平記」巻第三十の「吉野殿、相公羽林と御和睦の事付けたり住吉松、折るる事」の後者の一節で「史記」の「殷本紀」を引いて、「昔、殷帝大戊の時、世の傾んずる兆(しるし)をあらはして、庭に桑穀(くは)の木、一夜(いちや)に生ひて二十餘丈にがびこれり。帝大戊、懼(おそ)れて伊陟(いちよく)[やぶちゃん注:当時の宰相。]に問ひ給ふ。伊陟が申さく、「臣、聞く、妖は德に勝たず。君の政(まつりごと)の闕(か)くる事あるに依つて、天、此の兆を降(くだ)すものなり。君、早く德を修め給へ。」と申ければ、帝、則、諫めに從ひて、政を正し民を撫(な)で、賢を招き、佞(ねい)を退け給ひしかば、此の桑穀の木、又、一夜の中に枯れて、霜露(さうろ)のごとくに消え失せたりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに(以下略)」とある。なお、「太平記」は「桑穀」を二字で「くは」(クワ)と訓じているが、「史記」原本の「桑穀」は実は「桑」と「穀」(かうぞ(コウゾ))であって、二種二本の木が絡み合って生えたことになっている。

「高宗の雊雉」「書経」の第十五「高宗肜日(かうそうゆうじつ)」に基づく。「高宗」は殷の第二十二代の王。「肜」は「先祖を祀る祭儀」のこと。

高宗肜日、越有雊雉。祖己曰、「惟先格王正厥事。惟天監下民、典厥義。降年有永有不永、非天夭民、民中絕命。民有不若德、不聽罪、天既孚命正厥德。」。乃曰、「其如臺。嗚呼、王司敬民、罔非天胤典。祀無豐于尼。」。

(高宗の肜(ゆう)せる日、越(ここ)に雊(な)ける雉、有り。祖己(そき)[やぶちゃん注:高宗の子。後に第二十三代の王となった。]、曰く、「惟(こ)れ、先の格王は厥(そ)の事を正せり[やぶちゃん注:「古えの優れた王たちは、雉が鳴いて現われた際には自分の行動を正しくしたと聞いています。」の意。]。惟れ、天は下民を監(かんが)みるに、その義を典(つね)とす。降年には、永き有り、永からざる有るも、天の民を夭するにあらず、民の命を中絕するなり。民の德に若(したが)はず、罪に聽(したが)はざる有れば、天、既に、孚(まこと)に、厥(そ)の德を正さんことを命ず。」と。乃(すなは)ち曰く、「其れ、臺(われ)のごとし。嗚呼(ああ)、王の司るは、民を敬うことなり。天の胤典(いんてん)にあらざるなし。祀るに、尼(ちか)きを豐かにする無かれ。」と。)

以上の訓読は、サイト「肝冷斎日録」のこちらを参考にさせて貰った。そちらに判り易い訳もあるので、是非、読まれたい。

「舜典」「書経」の「虞書」五篇の第二。

「惟時亮天功」「惟(こ)れ、時(こ)れ、天功を亮(たす)けよ。」。

「大禹謨」同前の第三。「たいうぼ」と読む。

「天降之咎」「天、之れに咎(とが)を降(くだ)す。」。

「詩」「詩經」。

「大保」「詩経」の「小雅」の「天保」の誤り。

「天保定爾これは後句があって「天保定爾 俾爾戩穀」と続き、この返り点はおかしいように感ずる。これは二句で「天は定(くらゐ)を保(やすん)じて 爾(ここ)に戩穀(せんこく)[やぶちゃん注:福禄。]を俾(あらし)む」の意であろう。

「節南山」同じく「詩経」の「小雅」にある。

「昊天降此鞠訩これも引用がおかしい。「昊天不傭 降此鞠であろう。「昊天(かうてん)は不傭(ふよう)にして 此れ 鞠(きくきよう)を降(くだ)す」か。『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらによれば、意味は『大いなる天よりの幸いはなし。』『あるのはただ、不幸ばかり。』とある。

「六經」(りくけい)は漢代に官学とされた儒学に於ける経書の総称。「詩経」・「書経」・「礼記」・「楽経」・「易経」・「春秋」の六つの経書を指すが、このうち「楽経」は早くに失われてしまった。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋

 

  

 

白雲のゆききもしげき山の端に

旅びとの群はせはしなく

その脚もとの流水も

しんしんめんめんと流れたり

ひそかに草に手をあてて

すぎ去るものをうれひいづ

わがつむ花は時無草の白きなれども

花びらに光なく

見よや空には銀いろのつめたさひろごれり

あはれはるかなる湖うみのこころもて

燕雀のうたごゑも消えゆくころほひ

わが身を草木の影によこたへしに

さやかなる野分吹き來りて

やさしくもかの高きよりくすぐれり。

 

[やぶちゃん注:底本の巻末の「試作品年譜」の制作年月日を大正二(一九一三)年九月とクレジットしている。但し、それは決定稿であることが以下の習作集のクレジットであることが判る。初期形は八月二十三日である。初出は同年十月号『創作』。初出形を示す。三行目の「しんしん」「めんめん」は孰れも後半が踊り字「〱」である。

 

  秋

 

白雲のゆきゝもしげき山の端に

旅びとゝの群はせはしなく

その脚もとの流水も

しんしんめんめんと流れたり

ひそかに草に手をあてゝ

すぎ去るものをうれひいづ

わがつむ花は時無草の白きなれども

 

花びらに光なく

見よや空には銀いろのつめたさひろごれり

あはれはるかなる湖うみのこゝろもて

燕雀のうたごゑも消えゆくころほひ

わが身を草木の影によこたへしに

さやかなる野分吹き來りて

やさしくも、かの高きよりくすぐれり

            (大正二年九月)

 

二行目の「ゝ」は雑誌の誤植であろう。筑摩書房全集では、『「習作集第八卷」』『の「秋」』『參照』とある。以下にその「秋」を示す。九行目は途中の詩句候補を二種、並置して示してある。それぞれを《 》で括って挿入した。こちらでは踊り字「〱」は、「めんめん」のみに用いられてある。

 

  秋

 

白雲のゆきゝもしげき山の端に

旅びとの群はせはしなく

その脚もとの流水も

しんしんめんめんと流れたり

ひそかに草に手をあてゝ

すぎ去るものをうれひいづ

我つむ花は時無草の白きなれども

花びらに、光なく

見よや空には《秋のぎんいろ》《ぎんいろのつめたさ》ひろごれり

あはれはるかなる湖うみのこゝろもて

燕雀のうたごゑも消え行くころほひ

わが身を草木の影によこたへしに

さやかなる野分吹き來りて

やさしくも

かの高きよりくすぐれり

       (大正二年八月二十三日)

               四萬山中ニテ

 

編者注で『題名の右下にS.Sと記されている』とある。この「S.S」は初出誌『創作』の略号。

「時無草」「ときなしぐさ」と読むか。但し、こういう名の草は存在しない。一般には室生犀星の「抒情小曲集」の詩「時無草」に於ける犀星の造語とされているようである。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の埼玉県立久喜図書館の「室生犀星の詩「時無草」の〈時無草〉とは、どのような花か知りたい。」という質問に対しての答えとして、『室生犀星記念館に問い合わせ、「植物の固有名ではなく犀星のイメージによるもの」との回答を得る。根拠は、『日本近代文学大系 39』「時無草」注の「『時無草』は時節はずれに芽吹いた草」との記述と、補注の「『詩集』(『抒情小曲集』)目次には『たとえば三寸ほどの緑なり』とある」との記述による』とある。犀星の「抒情小曲集」は大正七(一八一七)年刊であるが、その詩篇は明治四二(一九〇九)年から明治四五・大正元(一九一二)年の間に創作された詩群であり、私は全集を持たないので、犀星の「時無草」の初出が何時であるかは判らぬものの、室生犀星記念館が明言するからには、犀星が最初に造語として使ったものの可能性が高く、その詩篇を見た萩原朔太郎が流用したということになろうか。この「秋」のクレジットは絶妙で、この大正二年の四月頃に萩原朔太郎は『朱欒(ザンボア)』に載った犀星の詩作品群に感動して手紙を送って以来、終生、変わらぬ友人となっている。因みに、実際に朔太郎が犀星に逢ったのは、翌大正三年二月のことで、筑摩版萩原朔太郎全集の年譜によれば、初会の際の犀星に対する朔太郎の印象は、『田舍書生といったふうで、胡散臭いやつが來た、という感じであった』とある。朔太郎は詩篇の清新さから、勝手に美少年を想起していたものと思われる。それが、あの無骨なな感じを与えるゴッツい顔の犀星だったのに、初対面では、内心、失望したもののと思われる。

「四萬山」群馬県吾妻郡中之条町にある四万(しま)温泉周辺をかく言ったもの。年譜によれば、この年の八月上旬に朔太郎は四万温泉の積善館(グーグル・マップ・データ)に滞在していた。但し、滞在中に発病し、父の見舞いを受けている。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ふぶき

 

  ふぶき

 

くち惜しきふるまひしたる朝

ああらんらんと降りしきる雪を犯して

一目散にひたばしる

このとき雨もそひきたり

すべてはくやしきそら涙

あの顏にちらりと落ちたそら涙

けんめいになりて走れよ

ひたばしるきちがひの涙にぬれて。

 

ああらんらんと吹きつけり

なんのふぶきぞ靑き雨ぞや。

 

[やぶちゃん注:「犯して」「涙」は底本のママ。初出は大正二(一九一三)年十月号『創作』。初出形を筑摩版全集で示す。

 

  ふゞき

 

くち惜しきふるまひしたる朝

あらゝらんらんと降りしきる雪を犯して

一目散にひたぱしる

このとき雨もそひきたり

すべてはくやしきそら淚

あの顏にちらりと落ちたそら淚

けんめいになりて走れよ

ひたばしるきちがひの淚にぬれて。

 

あらゝんらんと吹きつけり

なんのふゞきぞ靑き雨ぞや

 

三行目の「ひたぱしる」の「ぱ」はママ。雑誌の誤植であろう。筑摩書房全集では、『「習作集第八卷」の「ふぶき」』『參照』とある。以下にその「ふぶき」を示す。太字は底本では傍点「ヽ」。

 

 ふゞき

 

くち惜しきふるまひしたるあさ

あらゝん、らんと降りしきる雪を犯して

一目散にひたばしる

このとき雨もそひきたり

すべてはくやしきそら淚

あの顏にちらりと落ちたそら淚

けんめいになりて走れよ

ひたばしるきちがひの淚にぬれて

あらゝんらんと吹きつける

なんの吹雪ぞ靑き雨ぞや。

 

編者注で『題名の下にS.Sと記されている』とある。また、「犯して」は後の投げ込みで「冒して」に訂正強制変更が指示されてある。]

昭和二三(一九四八)年小學館刊 「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」 電子化注始動 / 表紙・背・裏表紙・扉・「遺稿詩集に就て」(編者前書) / 「第一(「愛憐詩篇」時代)」 鳥

 

[やぶちゃん注:所持する上記の詩集を電子化する。奥附は別刷で上部だけで貼り付けられていたものらしく、完全に剝がれてしまっていて、存在しない。但し、扉の標題、及び、旧所蔵者(私の高校国語教師時代の可愛がってくれた先輩の国語教師(故人)の、明治生まれの御尊父)の裏の見返しにある署名に添えられたクレジットに『1954719』とあることから、これは、

小学館の昭和二二(一九四七)年六月発行の初版の、翌昭和二十三年一月一日発行の再版本「萩原朔太郎詩集」第五巻「遺稿詩集」

と推定されるもので、サイズはB6版である(但し、画像で検索を掛けたが、同一物・同一シリーズの画像を発見は出来なかった)。初版本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで総て視認出来る(初版本はサイズは同じだが、表紙・が全く異なり、奥附は組み込みページで外れようがないものである)。

 以下、表紙・背・裏表紙・扉を電子化(字のサイズは再現せず)を添えて画像(カラー取り込み)で示し、次いで、小学館の本シリーズの編集部の手になると思われる(編集者の名前はない)「遺稿詩集に就て」を電子化した。或いはこれはパブリック・ドメインではない可能性も否定出来ぬが、本篇を読むに必須である時代区分編集の方針が記されてあるため、特に電子化した。万一、問題があるとならば、梗概記載に切り替える。因みに、小学館は昭和一八(一九四三)年三月から翌年十月にかけて、最初の「萩原朔太郎全集」(A6 版・本巻十巻・別冊二巻)を刊行しており、その別冊 遺稿上巻の詩集パートをブラッシュ・アップしたものが本書と思われる。従って、本書は本格的な肝煎りで作られているものであって、安易な廉価縮刷版ではないのである。寧ろ、こうした地道な全集作りが、後の創元社版や新潮社版、そして、完全正字表記の筑摩版という優れた(表記の手入れに許し難い恣意性があるが)全集を生み出す原動力となったと言えるのである。

 戦後の直後の出版であるが、基本、「遺稿詩集に就て」も含め、総てが歴史的仮名遣・正字表記であり、忠実に再現した。但し、扉の画像と電子化で判るように、そこでは活字として「郞」ではなく「郎」が、「館」ではなく「館」が用いられている。そうした部分もそのままに再現してある。

 なお、本書(シリーズ)の装幀は、かの恩地孝四郎である。

 なお、目次は省略した。また、巻末に「試作品年譜」として各詩篇の制作年月日(これはごく一部)・発表雑誌名・発表年月がリスト化されているが、それは電子化せず、それを参考にしつつ、所持する筑摩書房「萩原朔太郎全集」昭和五〇(一九七五)年~昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊)の当該詩篇の初出及びそのデータと校合して、各詩篇の後に附した。同全集では、当該詩篇の類型詩篇への参照附記がなされているものがあるが、それについても、可能限り、再現したいと思う。

 一言言っておくと、この本の書誌が、筑摩版萩原朔太郎全集の萩原朔太郎の没後の全集や編集本に全く載っていないことが非常に気になっている。而して以下、電子化するうちに、驚くべきことに、筑摩版全集に全く不載の詩篇が載っているのである! 思うに、筑摩版全集の編者は、この小学館版全集の後出しの「萩原朔太郎詩集」が、実は新たに追加して新発見の詩稿が載っていることに全く気づかず、それを参考にすることがなかったという結論に私は達した。則ち、ここで我々は、本書を読んだ人間以外、殆んど今まで誰も知らなかった詩篇に出逢うことになることになるものと思われる(私が不審に思った未見の詩篇をネット検索されたい。萩原朔太郎ファンは甚だ多く、未定稿や草稿を電子化している方もかなりおられるのだが、にも拘らず、どこにも載っていない初見の詩篇が複数あるのである!)。筑摩版全集を我々は伝家の宝刀の如く、萩原朔太郎の詩業の断簡零墨まで網羅していると勝手に思っているが、実際には酷似した詩稿を確認しながら、かなりの量の使用しなかった原稿があることは、同書の解説の端々にも書かれてはいる。しかし、私は「こんな詩稿があったのか?!」と驚くものが有意に出現することに驚きを隠せないでいるのである! 筑摩書房は次回の全集改訂時に、ずっと見逃してきた本書を、是非とも精査する必要がある、と強く感じている。

 

■表紙・背・裏表紙

 

Hagiwarasakutarouikousisyu

 

萩原朔太郞 遺稿詩集

 

小學館[やぶちゃん注:背の下方。裏表紙には中央に当時の小学館のマーク。]

 

 

■扉(左ページ)

 

Sakutarouikousisyutobira

 

萩原朔太郎詩集

      Ⅴ

遺稿詩集

 

[やぶちゃん注:恩地孝四郎のイラスト。]

 

小學館刊

 

 

[やぶちゃん注:以下、目次標題ページが独立して附された上で目次が続くが、省略する。なお、その末尾下方に『装幀 恩地孝四郞』と記されてある。]

 

 

    遺稿詩集

 

 

    遺 稿 詩 集 に 就 て

 

「愛憐詩篇」『月に吠える』當時の作品で、これまでいづれの詩集にも收錄されなかつたものは、およそ一二百篇ほどと推定される。このうち大正初期の雜誌に發表したものは約七十篇ほどらしく、他は原稿紙、ノオト、紙片などに書きつけられたまま、遂に顧みられなかつたものである。けれどもこのことは、これら作品がすべて完成度が低いことを意味するものではなく、從來詩集に收錄されなかつたのは、主として詩稿整理の煩はしさが原因であつたと思はれる。

 本卷の編纂に當つては、大正初期のころ發行された十數種の詩、短歌雜誌を調査したが、未だ充分とは言ひがたい憾みがある。殊に、當時とは既にほぼ三十餘年を距ててゐる時間的な關係からしても、もはや手に入りがたくなつてゐる雜誌もあり、これらの點で、雜誌發表作品にはなほ期待すべき幾篇かがあることと思はれる。

 原稿紙、ノオトなどに書きつけられた作品は殆んど剩すところなく調査し、この結果、百四十篇ほどの作品と、三十餘篇の未完成作品並に斷片を得、さらに判讀しがたい草稿三十篇ほどがあつた。本卷はこれら作品中より九十一篇を收錄編纂し、これを「愛憐詩篇時代」四十四篇[やぶちゃん注:読点落ち。改行で版組みにより当時は打てなかったせいによる。]「淨罪詩篇」十二篇、「月に吠える時代」三十五篇に分つた。遺稿にして標題なきものは、便宜上「○」を附して置き、目次、作品年譜に於てはカツコを附してそこへ最初の一行を書いてをいた。なほ各篇について略說すれば次の通りである。

 

 愛憐詩篇時代  本篇收錄の作品順序は、主として推定年代順に據つた。作品中には多少情感の異るものもあるけれど、全體として、年代的に見ても「愛憐詩篇」當時の作品であることが知られる。

 

 淨罪詩篇 『月に吠える』には、「從兄 萩原榮次氏に捧ぐ」といふ献辭が附してある。この人は熱烈な基督敎信者、少靑年時代の萩原朔太郞は、その精神生活に於ていちばんふかくこの人の影響をうけた。さうした關係からでもあらうが、遺稿のうちには罪あるひは懺悔といふ言葉をしるした作品が少からずあつた。そして「淨罪詩稿」と附記した作品は本篇の大部分のほか、『月に吠える』『蝶を夢む』收載の「天上縊死」「菊」「冬」「笛」「卵」「懺悔」「われの犯せる罪」その他がある。これは遺稿によつて判明したことである。

 

 月に吠える時代  ここに收めた三十五篇は、「愛憐詩篇」「淨罪詩篇」以外にも作品を網羅したもので、いくつかの詩風が混ぢりあつてゐる。しかしさういふ混合のなかから、それぞれの作品は詩人萩原朔太郞のいくつかの面を、ぞれぞれの言葉で語つてゐる。

 

 

 

      第一(「愛憐詩篇」時代)

 

 

 

 

夕暮れて

ほの痒き指のさき

坂をくだれば一群の

鳥は高きをすぎ行けり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年十月号『創作』。筑摩書房全集では、『「習作集第八卷」の「稚子他二篇」中、「△(夕ぐれて)』『參照』とある。以下に「稚子」全体を示す(筑摩版の校訂版本文ではなく、下方にポイント落ちで示された原表記版を示す。私が先に不満を示した校訂というのは、例えば、踊り字を正字に直す行為や句読点の除去を指す。例えば、以下の場合、三行目の「ものゝ影より」や七行目「こゝろ」の部分を、校訂本文では「ものの影より」・「こころ」とし、「稚子のこゝろをたれか知る、」の読点を除去している。これを私は正しい校訂とは絶対に思わない)。抹消部は取消線を施し(以下ではこれは注さない)、傍点「ヽ」は太字に代えた。歴史的仮名遣の誤りもママである(校訂本文はそれをも直して消毒してしまっているのである。これも私はダメだと思う)。

 

 稚子

 

大人の眼には見えがたき

子とろ子とろのばけものが

ものゝ影よりさしまねく

その怖ろしさ哀しさに

聲をかのどもさけよとおびへ啼(な)く

逢魔が時のやるせなき

稚子のこゝろをたれか知る、

            (ハイネのこどもさらひより)

 △

       

夕ぐれて

ほの痒き一群の

鳥は高きをすぎ行けり

 

 △

 

ちまた、ちまたを步むとも

ちまた、ちなたにちらばへる

秋の光をいかにせむ

この愁をばいかにせむ

 

なお、注記があり、『巻末の目次には「ちご、外小曲二篇」との題名を附している』とあり、『また「夕ぐれて」の詩の右下に、S.S及び』、

(たそがれどきのやるせなき)

(わが哀しみをいかにせむ )

『の附記がある』とある。丸括弧は上下とも、筑摩版全集では二行に渡る大きな一つの丸括弧である。詩句の候補附記である。「S.S」の意味はは底本解題によれば、雑誌『創作』の略号であるとあり、『發表を予定して附けられたものと思われる』とある。同「習作集第八卷」では他の詩篇の題名の下に「S.K」「S.B」「SB」「G.S」などの記号が記されてあるものがあるが、この内、「S.K.」は底本解題によって、雑誌『詩歌』の略号と断定されてある。他は不詳だが、安易に当時の萩原朔太郎のペン・ネームの頭文字とも採り難い。]

2021/10/06

伽婢子卷之十 鎌鼬 付 提馬風

 

   ○鎌鼬(かまいたち)提馬風(だいばかぜ)

 關八州の間に、「鎌(かま)いたち」とて、怪しき事、侍り。

 旋風(つじかぜ)、吹きおこりて、道行人《みちゆくひと》の身に、ものあらく、あたれば、股(もゝ)のあたり、竪(たて)さまに、さけて、剃刀(かみそり)にて切《きり》たる如く、口、ひらけ、しかも、痛み、甚だしくも、なし。又、血は、少しも、出ず。

「女蕤草(ぢよすゐさう)を揉みて、つけぬれば、一夜のうちに、いゆ。」

といふ。

 何者の所爲(わざ)とも、知り難し。

 たゞ、旋風(つじかぜ)の。あらく吹《ふき》て、『あたる』と、おぼえて、此《この》うれへ、あり。

 それも、名字(めうじ)正しき侍《さふらひ》には、あたらず。

 たゞ、

「俗姓(ぞくしやう)卑(いや)しき者は、たとひ、富貴(ふうき)なるも、是れに、あてらる。」

と、いへり。

 尾・濃・駿・遠(び・ぢよう・すん・ゑん)三州の間(あひだ)に、「提馬風(だいばふう)」とて、これ、あり。

 里人、あるひは、馬に乘り、あるひは、馬を引《ひき》てゆくに、旋風、起りて、砂を、まきこめ、まろくなりて、馬の前に立ちめぐり、車の輪の轉ずるがごとし。

 漸々(ぜんぜん)に、その旋風(つじかぜ)、おほきになり、馬の上にめぐれば、馬の鬣(たてがみ)、

「すくすく」

と、たつて、そのたてがみの中に、細き絲の如く、色赤き光、さし込み、馬、しきりに、さほだち、いばひ、嘶(いなゝき)て、うち倒れ、死す。

 風、その時、ちりうせて、あと、なし。

 いかなる者の業(わざ)とも、知《しる》人、なし。

 もし、つぢ風、馬の上におほふ時に、刀をぬきて、馬の上を拂ひ、「光明眞言」を誦(じゆ)すれば、其風、ちりうせて、馬も恙なし。

 「『提馬(だいば)風」と號す。』

と、いへり。

[やぶちゃん注:本話は本書の特異点で、怪奇談随筆で、物語となっていないし、挿絵もない。一応、「提馬風」については、種本の一つである「五朝小説」の「工部員外張周封言今年云々」とするが、本朝の民間伝承としての「提馬風」が、総て、漢籍のそれを濫觴とするとは私には実は思えない。私の電子化注記事では、「鎌鼬」と「提馬風」が概ねともに言及されてあるものが、全部で五つある。古い順に示すと、

「柴田宵曲 妖異博物館 提馬風」(最初に真剣に私が注で、この現象の真相を突き止めようとしたもの。実は注で本篇も電子化してある)

「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」(挿絵もあり、これが総合的には超お勧め!)

「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」

「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」

「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鎌鼬」

「鎌鼬」の方は総記事数は十を下らないが、そうさ、お勧めは、私が生涯でたった一度だけ、目の前で見た「鎌鼬」事件を記した、

「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」

であろう。私は擬似科学的な真空云々の「鎌鼬」現象の解説を全く信じていない。それは、実際のその体験に於いて頗る怪しい点が多かったからである。ウィキの「提馬風」は私の以上の注の解説と考証の方が遙かに科学的であり、遙かに細かいと自負する。ウィキの「鎌鼬」は真相の科学的諸説の検証が詳しいので、こちらは一読の価値がある。孰れにせよ、本篇は浅井了意の息抜きだったものか。まあ、「伽婢子」になくてよかった特異点の一篇と私は思っている。

「關八州」は相模 ・武蔵・安房 (あわ) ・上総 (かずさ) ・下総 (しもうさ) ・常陸 (ひたち) ・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) の関東八ヶ国の総称。

「女蕤草(ぢよすゐさう)」「新日本古典文学大系」版脚注はただ『未詳』とするが、私は、いつも植物同定でお世話になるサイト「跡見群芳譜」のこちらの記載を見ていると、この単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum  が確かな候補になりそうに思えてくる。本種の漢語別名は「萎蕤」「葳蕤」(イズイ)・「女萎」(ジョイ)である。ウィキの「アマドコロ」によれば、『薬用部位となる根茎には配糖体のコンバラリン、粘液質のマンノースなどを含んでいる』。『マンノースには、胃や腸の粘膜を保護する作用や消炎作用があるほか、分解して体に吸収されると』、『滋養になるといわれ』、明の李時珍の「本草綱目」(一五七八年)でも『滋養強壮、消炎薬として紹介されている』とあり、『伝統的な漢方方剤ではあまり使われず、日本薬局方にも収録されていないが、かつては民間薬として利用された。地上部の茎葉が黄変して枯れはじめる』十~十一月頃に『掘り、ヒゲ根や茎を取り除いて水洗いし、きざんで』、『天日乾燥させたものを』「萎蕤(いずい)」、漢方では「玉竹(ぎょくちく)」とも呼ぶ『生薬』とし、『かつて滋養強壮に用いられていたが、現在ではあまり使われていない』。『咳や疲労倦怠にも効果があるとされ』『服用される』。『打ち身、捻挫の薬として用いられることもあり、生の根茎をすり下ろしたものや、粉末または絞り汁は』、『食酢と小麦粉を加えて練り合わせてペースト状にしたものを』、『ガーゼや布に伸ばして、湿布として利用した』とある。

「尾・濃・駿・遠・三州」尾張・美濃・駿河・遠江・三河国。]

伽婢子卷之十 竊の術

 

Sinobinojyutu

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正した。左丁左端に前から声を掛けている男が熊若。前髪を残した元服前の髪型である。普通は十八で元服前というのは遅過ぎるが、彼は後で見る通り、透破(すっぱ)であり、賤民扱いであったから、違和感はない。それよりびっくりするのは早足の彼が裸足であることである。傘を被った中央の男が「古記和歌集」を盗んだ水野の透破。右丁の三人は熊若から犯人発見の報知を受けた飯富(おぶ)が派遣した捕り手の者たち。水野の透破の最後の切り口上から考えて、この捕り手の到着を待って彼の自白は撮り手に再び繰り返され、その上で殺害が執行されたと考えるべきであろう。そうしないと、飯富に真犯人ではないという猜疑を起こさせてしまうからである。そういう意味でも、この本文にはない捕り手の描き込みは必要なのである。]

 

   ○竊(しのび)の術

 甲陽武田信玄、そのかみ、今川義元の聟として、あさからず、親しかりけるに、義元、すでに信長公にうたれて後、その子息氏眞(うぢざね)、少し、心のおくれたりければ、信玄、あなづりて、無禮の事共多かりし中に、今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして、返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに、失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ、此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、甲信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞《きき》もとめさせらる。

「此所、他人、更に來《きた》るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「「古今」の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入《いる》を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣(とさま)も、手を握りて、怖れあへり。

 飯富(いひとみ)兵部が下人に、熊若(くまわか)といふもの、生年十九歲、心、利(きき)て、さがさがしく、不敵にして、しぶとき生れつきなり。

 そのころ、信州割峠(わりがたうげ)の軍《いくさ》に、信玄、馬を出《いだ》され、飯富、おなじく赴きしに、旗棹(はたさほ)を忘れたり。

 明日、卯の刻[やぶちゃん注:午前六時頃。]には、

「飯富、二陣。」

と定められしに、日は、早や、暮れたり。

「如何すべき。」

と、案じ煩ひしを、熊若、すゝみ出て、

「それがし、とりてまゐらん。」

とて、其のまゝ走り出たり。

 諸人、さらに實《まこと》と思はず。

 かくて、二時《ふたとき》ばかりの間に、やがて、旗棹、取て歸り來《きた》る。

「さて。いかにして取來れる。」

と問はれしに、熊若、いふやう、

「『早くとりて來らん』と思ふばかりにて、手形をも、印をも、とらずして、甲府に走り行《ゆき》ければ、門をさし固め、中々、人の通路(つうろ)を、かたく、いましむる故に、壁を傅ひ、垣をこえ、ひそかに戶を開くに、更に、しる人、なし。やがて、亭(てい)に忍び入《いり》て、とりて來り侍べり。」

といふ。

 飯富、聞きて、

『これより甲府までは東路(あづまぢ)往來百里に近し。是れを、ゆきて歸るだにあり、まして、用心嚴しき所を、人知れず忍び入ける事よ。定めて、此間の「古今集」もこの者ぞ、盜みぬらん。後に聞えなば、大事成べし。』

と思ひ、熊若を、かたはらに招き、

「汝、かゝるしのびの上手、道早きものとは、今まで、露も知らず。此ほど、信玄の定家の「古今」を盜みたるは、汝か。」

といふ。

 熊若、答へていふやう、

「それがしは、たゞ、道を早く行て、忍びをする事をのみ、得たり。しかれば、我、いとけなき時より、君に召し使はれ、故鄕の父母、いかになりぬらんとも知らず。願はくは、我にいとま給はり、故鄕に返して給はらば、其盜みたる者を、あらはし奉らん。」

といふ。

「それこそ。いと易けれ。いとまは、とらすべし。かの盜人を捕ゆる迄は、沙汰すべからず。」

とて、割が峠歸陣(がいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の後(のち)、熊若をもつて、これを覘(うかゞ)はせしに、西郡《にしのこほり》において、たゞ一人、ゆく者、あり。早き事、風の如し。熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり。

「熊若に欺(あざむ)かれて、恥みる事こそ、やすからね。「古今」を盜みける事は、信玄公の寢(ねや)を見んため也。あはれ、今、廿日をのびなば、甲府をば、亡ぼすべきものを。運の强き信玄公かな。我は上州蓑輪の城主、永野が家に仕へし竊(しのび)のもの、もとは小田原の風間(かざま)が弟子也。わが主君の敵なれば、信玄公を殺さんとこそ計りしに、本意《ほい》なき事かな。此上は、とくとく、我を殺し給へ。」

とて、申しうけて、殺されたり。

 「古今集」をば、都に出してうりけると也。

 熊若は、いとま給はりて、西國に下りけり、といふ。

[やぶちゃん注:本話は「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分と、連関して読めるようにはなっている(続編というのではない)。そちらの注でも、この冒頭部を示しておき、少し注も附したので見られたい。そこで注した「新日本古典文学大系」版脚注の引用は、ここでは繰り返さない。

「竊(しのび)の術」忍術に同じ。

「今川」「氏眞」「幽靈評諸將」で既出既注

「外樣(とさま)」譜代ではない家臣。

「飯富(いひとみ)兵部」飯富虎昌(おぶ とらまさ 永正元(一五〇四)年~永禄八(一五六五)年)が正しい読み。同じく「幽靈評諸將」で既出既注

「熊若」不詳。サイト「はやぶさ宝石箱」に「戦国時代に実在した忍者 熊若 くまわか」があり、そこに「甲陽軍艦」には天文一一(一五四二)年の「瀬沢(せざわ)の戦い」の直前、信玄が透波』(すっぱ:戦国大名が野武士・強盗などの中から、呼び出して、これを養い、間諜や隠密などの任務に使役した者たちの呼称。一種の賤民として扱われ、一説には「透波」は甲斐以西の称で。関東では「乱波」(らっぱ)と称したという。「忍」「草」とも称した)七十『人を召し抱え、そのうちの優秀な者を板垣信形』・『飯富虎昌』・『甘利虎泰』『に各』十『人ずつ預けたと記されてい』るとした後、結局、本創作を元に記してあって、実在を示す根拠は示されていない。なお、そこには、さらに、「古今和歌集」の写しを『盗み取ったのは加藤段蔵(かとうだんぞう)だったのです。熊若は段蔵を捕らえ、身の潔白を証明したといいます』とあるが、これは、「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分を誤読したもので、おかしい。さらに、『なお、段蔵が少女を攫う(さらう)話、熊若が真犯人を探し出して無実を証明する話など、類似した説話が中国の『田彭郎(でんほうろう)』[やぶちゃん注:「彭」ママ。という書物のなかにあるといいます』と述べ、加えて、『さらに阿新丸(くまわかまる・日野邦光・ひのくにみつ)』(元応二(一三二〇)年~正平一八/貞治二(一三六三)年?)『なる者が』、『苦心惨憺の末に父・日野資朝(ひのすけとも)』(鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に信任されて討幕計画に加わったものの、元亨四(一三二四)年九月に謀議が幕府側に洩れて捕らわれ(「正中の変」)、鎌倉に幽閉された後に佐渡に流罪にされ、「元弘の乱」の勃発に伴い、幕府によって配所で斬罪にされた)『の仇を討つという話が南北朝の動乱を描いた『太平記』のなかにあり、全国各地にこの阿新丸にまつわる伝説が残っています。『伽婢子』に記されている透波・熊若の話は、中国の『田͡彭郎』や『太平記』、あるいは阿新丸伝説の翻案である可能性も否定できませんね』と言っているのも、これ、おかしな謂いであって、「伽婢子卷之七 飛加藤」や本篇が、そもそもが、「五朝小説」の「崑崙奴」を「田膨郎」を原拠として借り、確信犯で創り出したものであって、類話なわけではない。また、時代の合わない後者の「太平記」のそれについては「新日本古典文学大系」版脚注で、『太平記二・長崎新左衛門尉意見事阿新殿事には、クマワカ(阿新)殿が十三歲にして、父日野資朝の仇の本間三郎』(資朝の斬罪への変更が下知された佐渡の本間村上入道の子)『を討った話を記載する。その剛胆さに』あやかって、この忍びの者へ『命名』したものか、とある通りである。確かに日野阿新丸熊若邦光は佐渡に密航し、竹一本で濠を飛び越えるなど、如何にも忍者っぽい印象はある。

「信州割峠(わりがたうげ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『長野上身内』(かみみのち)『郡信濃町にある割ケ岳』(城跡がある。峠は確認出来ない。グーグル・マップ・データ)『にある峠。永禄四年(一五六一)六月、信玄が当山の城を攻略、月末には帰陣。原美濃、辻六郎兵衛等が参戦(甲陽軍鑑十八。山縣同心広瀬みしな辻弥兵衛武辺公事事)』しているが、『飯富の参戦』は『不詳』としつつ、『八月には川中島の戦いに臨む』(最も知られた最大の激戦となった第四次のそれ)とある。

「東路(あづまじ)往來百里」前に注した古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるがこの坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いた。坂東里の「百里」は「六十五・四キロメートル」となる。しかし、実際の割ケ岳から甲府間はそんな短い距離ではない。最短と思われる更科山越えで実測路で試みてみても、百八十キロメートルはあり、そこを往復したのだから、三百六十キロメートルで、そこをたった四時間で走破する(単純計算で時速九十キロメートル)というのは、人間技では絶対にあり得ない。

「沙汰すべからず」現況報告をする必要はない。

「西郡《にしのこほり》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『甲斐を三分しにした釜無川』(ここ)『より西の地域』とある。

「歸陣(がいぢん)」は「かへぢん」の音転訛と、恐らくは、縁起よく「凱陣」と言ったものを音転用した読みであろう。

「熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり」これはもう、超スピードで走り抜けてからに! 私の大好きな「X-MEN 」の Quicksilver やん!

「上州蓑輪の城主、永野」現在の群馬県高崎市箕郷町(みさとまち)の明屋(あけや)地区にあった箕輪城の城主長野業正(なりまさ 明応八(一四九九)年~永禄四(一五六一)年年六月二十一日)。信濃守。一盛斎と称した。関東管領上杉憲政に仕え、榛名山東南麓の箕輪城を本拠とし、西上野地方最大の武士団である箕輪衆の旗頭となった。業政は十二人の子女を、小幡氏・安中氏などの西上野の領主たちに嫁がせ、武田氏・北条氏の侵攻に備えた。西からの武田信玄の侵攻を前に六十三歳で没したが、その日付を見て貰うと、この時制では、本篇の内容を事実とするなら、「割ケ岳攻略が同じ年の同じ六月で、六月末に帰陣とあったからかなりタイト、というよりも、ムリであることが、これ、判る。

「小田原の風間(かざま)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『古老軍物語四ノ六に出る風間の三郎太郎という忍びの上手は、小田原城主北条氏直に属し、武田方を苦しめた』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 藪に香の物の世諺

 

[やぶちゃん注:中井乾斎による「藪に香の物」の考証談。後で馬琴の言うように、「巾幗之贈」(きんくわくのざう(きんかくのざう)の故事が元ともされるものか。「巾幗」は女性が飾りとして髪を覆うもの、或いは、髪飾り(一説には喪中に被る頭巾とも)で、馬琴が補注する通り、三国時代の蜀の諸葛亮が魏を攻めた際、魏の司馬懿は城に立て籠もって戦おうとしなかった。そこで、葛亮はこれを懿に贈って、臆病にして女々しい態度を辱めたという故事から転じて、意気地なしで臆病なことをはずかしめる言葉としての成句が生まれたが、馬琴が引くように、それに怒った懿が「豈知野夫有功者也」(「豈に知らんや、野夫(やぶ)にも、功の者、有るなり」)の「やぶにこうのもの」を転訛したと、馬琴は言っている。但し、サイト「塩風土記」の「萱津神社 香の物祭」によれば、以下の乾斎の指示する場所の直近にある、萱津(かやづ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に由来するというのが一般的なようだ。引用すると、『萱津(かやづ)神社は、愛知県あま市に位置する日本で唯一の漬物を祭る神社だ。祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめ)である』。『古伝によれば、その昔土地の人々は神前に初なりのウリやナスなどを供えていたという。当時はこのあたりは海浜であったので、海水からつくった塩も供えるようになり、これらの野菜と塩を一緒にカメに入れて供えたところ、程よい塩漬けとなった。人々は雨露に当たっても変わらないその味を不思議に思い、神からの賜りものとして万病を治すお守りとし、遠近を問わず頂きに集まるようになったという。これが、日本の漬物の始まりであるといわれている』。毎年八月二十一日には、『「香の物祭」が行われ、漬け込み神事を行い、漬物の生産と家業繁栄・諸病免除を祈る。各地から漬物業者が集うこの祭は、全国で唯一の漬物の祭礼として、あま市無形民俗文化財に指定されている』。『香の物とは「漬物」のこと。漬物を香の物と呼ぶのは、日本武尊が東征の道すがら』、この『萱津神社にご参拝になった際、村人たちが献上した漬物を喜ばれ「藪に神のもの(やぶにこうのもの)」と仰られた、という故事にちなんでいるという』とある。馬琴の説は不完全な発音の語呂合わせでしかなく、親和性がなく、信じ難い。]

 

   ○藪に香の物の世諺

尾州公御領分、尾張名古屋を過ぎ、「琵琶の市」といふ處、每朝、靑物市、立ち、名古屋の町へ出づる橋あり。琵琶橋と云ふ。是より少し行きて、津島海道土手を右へ壱丁半程に、「逢手(アハデ)の森」・「反魂香の森」あり。弐ケ處ともに名所なり。此處を左りへ下りて、角に、藪あり。此藪の中に、妙心山正法寺といふ曹洞宗の禪院あり。熱田明神の幽跡の寺と云ふ。此藪の中にあり。此處に、四石入の甁[やぶちゃん注:「かめ」。]あり。然るに、此甁、地中に埋り、此中に瓜・茄子、二つ、三つづゝ、前の川にて、洗ひ、彼甁に入れて、通る。瓜・茄子、荷ふもの、直に通る時は、荷、重くして、上らず。依りて彼商人に、所のもの、此明神の望み給ふ由を告げて、前の川にて洗はせ、甁へ、なげ入れさせて通すに、荷は、かろくなりぬ。鹽を荷ふものも、かくの如し。「年によりて、瓜・茄子、多く、鹽の少き時も有りといヘども、鹽かげん、いつも替ること、なし。誠に奇怪なるべし。」と云ふ。世の諺に、「藪にも香の物」とは、是より云ひ初めたり。扨、此香の物は、每年六月四日、此甁の口を明け、五日の朝、熱田大明神の神膳に具へて、五日の朝、御膳、過ぎて、尾州公へも獻じ、尾州公より、江戸將軍家へ獻上のよし、なり。此香の物の在所は、海道郡蜂須賀村と云ふ。香の物の瓜・茄子の多少によらず、鹽壱斗、有之。瓜・茄子、千計有りても、瓜・茄子、百、弐百位に、鹽、五合、三合にても、其風味・鹽かげんは少しも替らず。是亦、奇事といふべし。

  文政八乙酉九月朔     中井乾齋誌

[やぶちゃん注:「琵琶の市」次注の☞部分を参照。

「琵琶橋」現在の庄内川に架かる枇杷島橋(びわじまばし)の旧枇杷島橋。当該ウィキによれば、元和八(一六二二)年、『尾張藩主徳川義直によって初めて架けられ、川の中島』(昭和三三(一九五八)年に浚渫撤去された)『を間に東の大橋と西の小橋があった。美濃路として人々が行き来したことで』(☞)『橋の両側に市場が開かれた。中島には萩が、堤防には桜が植えられ、特に檜材の』二『橋は、「結構の善美、人の目を驚かせり(尾張名所図会)」と書かれた』とある。「今昔マップ」のこちらの明治後期との対比地図で、往時の枇杷島橋の様子が判る。これを見るに、現在の枇杷島橋よりも、名鉄の鉄道架橋の方に近く、架かり方もそれに酷似することが判る。

「津島海道」現在の枇杷島橋を右岸に渡って、「美濃路」を西に進んで、新川を渡ると、その南に概ね並行して「津島街道」が確認出来る。

「土手を右へ壱丁半程」「右」というのは不審。現在の五条川とは流路が異なるか。

「逢手(アハデ)の森」この名は現在地名としては不詳だが、冒頭注に出した、萱津(かやづ)神社の直近と思われる。

「反魂香の森」森ではなく、樹木は生えていない河原であるが、愛知県あま市上萱津反魂香の地名が現認出来る。

「妙心山正法寺といふ曹洞宗の禪院」ここ

「幽跡」古い神聖な謂れを持つ秘跡の意か。

「此藪の中にあり」正法寺のサイド・パネルの写真を見ても境内にそれらしいものは見えないが、試みに、ストリートビューを見てみると、明らかな正法寺の五条川沿いの部分に、有意な竹藪を見ることが出来る。恐らくはここにあったものと私は考える。

「海道郡蜂須賀村」「海東郡」が正しい。現在のあま市蜂須賀(はちすか)。正法寺からは東へ六キロメートル以上離れる。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

解云、この藪の香の物の事は、享和中、予、目擊して「簑笠雨談」に誌したり。この說と、頗、異なり。宜しく參考すべし。

[やぶちゃん注:「享和中」以下の著作の冒頭で、この時の京阪に向かった旅の年を「享和壬戌」としているので、享和二(一八〇二)年であり、同書当該話の頭では、「六月中旬、尾陽にあそびて」と始まるので、馬琴が実見した時期が、そこまで特定出来る。

「簑笠雨談」(さりふ(さりつ)うだん)は享和四年に刊行された、上記の旅での実見対象を随筆にしたもの。板行直後に「著作堂一夕話」(ちょさくどういっせきわ)と改題され、現在はそちらの方が流布している。当該部は巻上の「○西念寺の古鐘(こしよう)藪に香(かう)の物」の後半である。幸いにして、『日本古典籍データセット』(国文研等所蔵)(提供:人文学オープンデータ共同利用センター)に享和四年版(既に「著作堂一夕話」となっている)が画像としてあり、画像使用も許諾されているので、当該箇所(後半本文はここの左丁五行目から)を視認して電子化し、二色刷りの挿絵も添えておく(見開き画像をダウン・ロード出来ないので、画面のプリント・スキャンをしてトリミングした)。読みは一部に留めたが、読みの一部は送りがなに出して読みやすくした。

 

Yabukou

 

[やぶちゃん注:キャプションは、雲形の中に、

弁慶が

 七道具(なゝつたうぐ)

          の

なた

 まめは

日本一(につほんいち)

   の

かうの

 もの

  かな

 

 はせを

とあり、右丁の藪の手前の漬物槽の前に、

「やぶにこうの物」

とあり、左丁の手前の拝殿の下方、樹木の繁るところに、

「あはでの森」

とし、奥の神殿の上に、

「神明の社」

とある。しかし、前のそれは狂歌であり、およそ芭蕉の作ではない。聴いたことがない恐ろしく下らないものである。「なたまめ」は薙刀のことか。薙刀の刀身部やそれに被せる鞘はナタマメ(マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata に似ている。]

 

この日、「阿波手(あはで)の森」・「藪に香の物」、見にゆけり【甚目寺[やぶちゃん注:ここ。正法寺との位置関係が判るように右端に「正法寺東」の地名が出るようにトリミングしてある。]より八町計東也。】この辺、川あり、橋あり、木だちのさま、大和路に肖(に)たるところ、多し。堤(つゝみ)のもとに華表(とりゐ)ありて、このうち、すなはち、「阿波手の森」なり。華表を潛りて半町ばかりゆけば、前靣(むかひ)に叢祠(ほこら)あり【諾尊[やぶちゃん注:伊耶那岐尊。]を祭るよし。】」祠(やしろ)のまへに、あやしき神樂堂[やぶちゃん注:「かぐらだう」。]あり。この右のかたに、大竹、數(す)十竿(かん)茂れり。藪のうちに、五斗ばかりも入るべき桶一あり、桶のまへにも小祠(ほこら)あり。桶に蓋(ふた)して、大なる石をのせたり。葢も、破れて、うちには、何もなきがごとく、みゆ。傍らに札をたてゝ、「香の物頂戴の人は寺へまいらるべし」と記したり。寺を正法寺と號す【曹洞宗。】。この寺、萱(かや)津村のうちにあり。古老、傳(つた)ていふ[やぶちゃん注:ママ。「つたへて、言ふ」。]。「いにしへは近村の農民、畊作(こうさく)のついでに、瓜・大根の類ひを、この桶の中に投け入れて、通りぬ。こゝをもて、竹藪中、おのづから、香の物、熟せし。」といふ。又、一說に、「こうのものは『神(かふ)の物』の義にして、熱田の神供(しんきやう)、元、この所より調進す。神饌のうち、野菜あり、すなはち、是なり。」といふ。「三國志」、諸葛亮、衆軍(しゆぐん)を渭南に率きいて、戰ひを挑むに、司馬懿(しばい)出ず。因りて、懿に巾幗(きんあく)[やぶちゃん注:「あく」はママ。]を贈る。婦人の飾り也。懿、怒(いか)つて、表(ひやう)をもて[やぶちゃん注:正面から向かい合って。]、戰ひを决せんと請ふ條下に、懿が云、「豈知野夫有功者也云云」[やぶちゃん注:底本に従って訓読すると、「豈に知らんや野夫(やふ)にも功者(こうしや)有り云云(しかじか)」となる。]。「やぶにこうのもの」ゝ俗語、これより出たりといへれど、尾張人は、これを否(なみ)して、「この香の物より、はじまる。」といふ。いづれが是(ぜ)なるや。

2021/10/05

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第九集) 蓮葉虛空に飜るの異

 

   ○蓮葉、虛空に飜るの異

 我君領内、三州渥美郡鷲田村にて、蓮葉を乾しおきたりしに、故なく、虛空に翻り、且、白鶴一隻、陟降せしにより、村人等が訴文の寫。

[やぶちゃん注:既に注したが、本篇の発表者は中井乾斎豊民であるが、彼は大儒大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年:加賀国大聖寺出身。京の皆川淇園(きえん)や、江戸の山本北山に学ぶが、飽きたらず、独学を重ね、折衷学に清の考証学を取り入れた独自の考証法を編み出した。三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町附近。藩庁の吉田城跡はここ。グーグル・マップ・データ(以下同じ)。則ち、現在の知られた豊橋の旧名である)に仕え、晩年は加賀金沢藩に招かれた)の教えを受け、師と同じく吉田藩に仕え、渡辺華山や鈴木春山らと交流し、経学と文章を以って儒者として名を成した人物らしい。但し、生没年等、具体的な事績は不詳である。この「兎園会」の行われた文政八(一八二五)年当時の主君吉田藩藩主は第四代藩主にして幕府寺社奉行を務めていた松平信順(のぶより 寛政五(一七九三)年~天保一五(一八四四)年)である。しかし早合点は禁物で、この「三州渥美郡鷲田村」というのは、甚だ不審で、まず、「渥美郡」内には「鷲田」という地名は昔も今も、ないはずだからである。調べるに、旧鷲田村は古地図などからも、現在の愛知県額田郡幸田町菱池(ひしいけ)附近である(以下の訴状にその地名が出る)。菱池鷲取(わしとり)にある鷲田(わした)神明宮によって確認出来、さらに「ひなたGPS」の古い地図で「鷲田」が現在もあり、鷲田神明宮がそこにあることも判明した(リンク先は「2画面」で位置確認がし易いようにしておいた)。問題は、地図で引き画面で示した通り、旧吉田=現在の豊橋とは有意に離れている点である。しかし、これはウィキの「額田郡」で一気に氷解するのである。その「歴史」の項の『幕末の知行』の部分に慶応四(一八六八)年九月に、当時の三河県の管轄区域の内で、『旧磐城平藩領・旧幕府領および旧旗本領の大部分』と、『吉田藩領の一部(鷲田村)』(☜)『が駿河府中藩領となる』とあるのである。則ち、江戸時代、この額田郡鷲田村は、実は吉田藩の飛地領であったのである。問題は中井乾斎の郡名の誤りであるが、彼はもともと加賀の大聖寺出身であり、仕えた三河吉田藩の藩領についての地理的認識、所謂、「土地勘(とちかん)」はあまりなかったのではないか? さればこそ腑に落ちる。藩の主領地は渥美郡内にあったから、安易にこの鷲田も渥美郡だと思い込んで書いたのであろう。

當村御百姓三右衞門磯八と申す者、菱池にて、六月十一日、蓮葉を取り、村方字瓦野と申す處へ、干し置き候處、翌十二日朝四時[やぶちゃん注:「あさよつどき」。不定時法でこの頃ならば、午前七時頃に相当する。]比より、壱葉・弐葉づつ、虛空へ上り、其日、晴天にて、風もなく候處、晝九時[やぶちゃん注:同前で正午。これのみは一年中動かない。]比に相成、蓮葉、凡、百六十、一同に上り、尤、中には、落ち候も有之候へ共、多分、虛空へ上り、二、三寸迄は相見え候へ共、其末は不相見、其中より、白鶴、壱羽、下り來り、輪を懸け、虛空へ上り、小鳥位迄は相見え、末に、一向、相見え不申候。又、程なく、東方より、白鶴、三羽、來り、先の如く、同所にて、是亦、輪を懸、弐羽は東方へ飛去り、壱羽は虛空へ上り申候。餘り不思議之義に奉存候に付、此歌[やぶちゃん注:ママ。]御注進申上候。以上。

  文政八酉七月六日

      鷲田村組頭  藤 兵 衞 印

      同斷     彥   六 印

      庄屋     助   六 印

   木 村 甚 助樣

   富 田 東 作樣

   塚 本  平左衞門樣

[やぶちゃん注:「菱池」という池は不詳。但し、この地域には現在でも多数の溜池・小池が散在する。

「村方字」(あざ)「瓦野」旧鷲田村内の「瓦野」は不詳。]

予、此奇事を以て、出羽の門人佐藤惟德[やぶちゃん注:不詳。「いとく」と読んでおく。]に語る。惟德云、「我國も亦、一奇事あり。凡べて、人の死する時、十に七、八、たましひ出でゝ、或は、故人を尋ね、又は、親戚を問ひき。何もなくして、死す。その來る時、只、默して座するのみ。是と語らんとするに、更に、答、なし。又、死後にして、出づるも、亦、これ、ありといへども、多くは是、生前の事なり。生前、これを『魄(タマシヒ)』といひ、死後、是を『幽靈』といふ。是又、致知格物の至らざる所なり。予、何の故をしらず。敢問、何の謂ぞや。雖ㇾ然、人により、性により、幽靈と魄とに、あふ人、あり。不逢の人、あり。」と、惟德、語りき。予、亦、未、この二事に於に[やぶちゃん注:「おけるに」。]、敢て、說あること、なし。姑く[やぶちゃん注:「しばらく」、]疑を存して、以て、後の君子を待と云ふ。

[やぶちゃん注:「致知格物」(ちちかくぶつ)は「格物致知」とも言い、特に儒家に於いて、「物の道理を窮め、知的判断力を高めること」の意で、理想的な政治を行うための基本的絶対条件を指す。「礼記」の「大学」にある「致知在格物」の意味を、朱子は「知を致すは物に格(いた)るに在り」(この「格」は「至」に同じ)と、「事物の理に至ること」と解し、王陽明は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」(この「格」は「正」に同じ)と「心の不正を去ること」と解したことに基づく故事成句。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草 / 第八集~了

 

[やぶちゃん注:これは馬琴の発表で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の「巻第一下」のこちらに所収しているので、それを底本とする(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。長いので段落を成形した。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点にも代えた。]

  

   ○根分(ねわけ)の後(のち)の母子草(はゝこぐさ)【是編、頗タリ傳奇筆意、雖ㇾ然、言、則、皆、實事也。】

 文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八二一年。]の春二月(きさらぎ)晦日(つごもり)の黃昏(たそがれ)ころ、

「元飯田町の中坂(なかさか)[やぶちゃん注:九段坂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の中途であろうか。]に、行き倒ふれたる老女(おうな)あり。」

とて、これを觀るもの、堵(と)の如し[やぶちゃん注:垣根を成すようであった。]。この日、自身番屋[やぶちゃん注:江戸の町々に設置された番所。当初は家持町人が自身で警備に当たったが、後には専門担当の家守(やもり)を詰めさせるようになった。町の事務所や集会所としても機能した。]に習合(つど)ひ居(ゐ)たる當番の町役人等(ら)、定番人(ぢやうばんにん)[やぶちゃん注:常時、自身番に詰めている家守の当日の担当責任者の番人。町人である。]を遣して、その體たらくを見せけるに、

「旅行くものとおぼしくて、無下に老ひ髐(さらば)ひたるが、長途(ちようと[やぶちゃん注:ママ。])に疲れ、足、痛みて、一步も運ばしがたし。」

と、いふなり。

 これによりて、町かゝえのものに脊負はして、やがて番屋に扶け入れつゝ、事のやうを尋ぬれば、答ヘて曰はく、

「婆々は奧州白川の城下中(なか)の町[やぶちゃん注:現在の福島県白河市中町(なかまち)。]なる宮大工十藏が後家にして、名を「しげ」と呼ばるゝ者、今玆(こんし)[やぶちゃん注:今年。]は七十一歲になりぬ。良人(をつと)十藏が世を去りて後、十三箇年已前、文化六年[やぶちゃん注:一八〇九年。]の春、わが子源藏といふもの、逐電して行方(ゆくへ)もしらせず。人傳(ひとづて)に聞けば、『江戶にあり』といひにき。家には、亡き人の前妻(もとつめ)の子どもはあれど、勇魚取(いさなとり)うみにあらねば、孝ならず[やぶちゃん注:「勇魚取」は枕詞。「海」を引き出し、「生み」に掛けた。]。日每の口舌(くぜつ)いぶせければ[やぶちゃん注:厭わしくて不愉快なれば。]、『世にある甲斐もなき身なり。いかで、わが子の在所(ありか)を尋ねて、逢はばや。』と思ひさだめしは、九箇年已前の事なりき。かくて、文化十年の春の頃、陸奥(みちのく)よりあくがれ來て、江戶に留まること、半年ばかり、四里四方の外(ほか)、近鄕まで月每(ごと)日每にたづねしかども、夢にだも、逢ふよしのなければ、『さては江戶には、あらざるならん。』と、やうやくに思ひかへして、彌(いよいよ)廻國の志念(しねん)を堅(かた)うし、東山・西國(とうさん・さいこく)、いへば、さら也、南海・北陸(なんかい・ほくろく)、おちもなく、凡そ六十六箇國の靈山靈地を巡禮して、『過去には、亡き人の菩提の爲め、現在には、命(いのち)のうちに、わが子にめぐり逢はしめたまへ。』と、念ずる外(ほか)に業(わざ)もなく、乞食(こつじき)して行く旅なれば、人の情けに遇ふ日は稀れにて、露に宿り、風に梳(くしけ)づり、或るときは、あり磯(そ)のなみ風に吹きすさまれて、その終夜(よもすがら)、夢もむすばず。又、或ときは、深山路(みやまぢ)の雪に降り閉ぢられて、つく竹杖(たてづえ)の節も屆かず。百折千磨の艱苦(かんく)を歷(へ)たれど、是れまでは一度(ひとたび)も病み煩ひしことはなく、旅寐すること、九年に及べり。今は既に巡り盡して、廻國すべぎ方もなければ、再度(ふたゝび)江戶を志(こゝろざ)して、岐岨路(きそぢ)[やぶちゃん注:「木曾路」に乱れ別れた険阻な道の意を掛けた表記。]をくだり、甲斐が峯をうち遶(めぐ)り、よんべは「兩鄕(ふたご)の渡り」[やぶちゃん注:東京都世田谷区と神奈川県川崎市高津区二子の多摩川にあった「二子の渡し」。]とかいふ川邊のあなたなる里に宿とりつ。さて、今日(けふ)、江戶に來つるなり。かゝりし程に、あの御坂(みさか)の邊(ほとり)にて、俄かに足の痛み出でゝ、一步(ひとあし)も運ばしがたければ、思はず、倒れ侍りき。」

といふ【按ずるに、「ふたごの渡り」は、江戶を距ること、西のかた四里許にあり。この地は甲州街道にあらず。大山道なり。かゝれば甲斐より相摸路をめくりて、江戶へ來つるなるべし。】。

 町役人等、由(よし)を聞きて、

「心地は、如何に。」

と、尋ぬるに、

「足の痛めるのみにして、心地は、常に變らず。」

と答ふ。

「江戶に、しる人ありや。」

と問へば、

「いな。知る人とては侍らざれど、八町堀なる松平越中守樣は、國屋鋪にておはします也【「さとび言」に、故鄕の領主を「國屋敷」と唱ふ。】。かしこへ送らせ給へ。」

といふ。これより前(さき)、その腰に付けたりし風爐敷包(ふろしきづゝみ)を解かして見るに、九箇(くか)年已前、故郷を立ち出づるとき、十藏・しげ等が菩提所なる何某寺(なにがしでら)【寺の名は忘れたり。】より、書いて與へし「通手形(とほりてがた)」とかいふ證文一通あり。濕風(しふき)・塵埃(ほこり)に汚れけん、紙中は茶をもて染めたる如く、いと古びたりけれども、その印章は疑ふべくもあらず。この他(た)、錢八百文と、布の蔽褸(ぼろ)のみ、ありけり。

 そのいふよしと、寺手形と、既に吻合(ふんがふ)するをもて、番屋の奧の間に臥(ふ)さしめて、藥をあたへ、且つ、夕餉(ゆふぜん)をたうべさせなどする程に、日は暮れて酉の初刻も過ぎたる頃[やぶちゃん注:午後五時過ぎ。]、武家の中間とおぼしき男、自身番面屋におとなひて、

「やつがれは。嚮(さき)に主用の使ひにたちて、こゝの中坂を過(よ)ぎりしとき、行き倒れたる老女を見たり。心に掛かるよしもあれば、つばらに問はまほしかりしかど、火急の使ひなるをもて、時の後(おく)れんことの惜しくて、思ひながらに、打ち過ぎにき。今、そのかへるさなるにより、中坂にて、人に問ひしに、『番屋へ扶(たす)け入れられて、こゝにあり。』とぞ、いはれたる。その老女(おうな)を見せ玉へ。」

といふ。

 このとき、「しげ」は、まどろみたるを、町役人等、呼び覺まして、

「そなたの、ゆかりの人にやあらん、『見まほし』とて、只今、來にたり。對面せよかし。」

といふ程に、「しげ」は、忽ち、起き直りて、

「そは、わが子源藏ならずや、やよ、そなたは、源藏歟、源藏にあらずや。」

と、せはしく問ひつゝ跂(は)ひよるを、町役人等、推しとゞめて、

「さのみ、せきては、事もわからず。心を鎭めて、問へ。」

といふ。

 そのとき、件(くだん)の中間は、燈火(ともしび)をさし向けて、とさま、かうさま、うち見つゝ、

「わが母に似たれども、年のあまた經し事なるに、いたく老衰したるをもて、定かには、いひがたし。」

といふ。

 町役人等、これを聞きて、

「しかりとも、渠(かれ)自(みづか)ら、『奧州白川仲の町、宮大工十藏が後家、名は「しげ」。』と告げたりし。ことの由の分明なるに、をさなき時に別れても、親の名までを忘れはせじ。忘れやしつる。」

と詰(なじ)られて、

「さん候。その名に違ひなけれども、世には、又、同名異人のなきにしも候はず。又、僞りて、利をはかるものしもなしと、すべからず。身につけたりし、そが中に、證據となるべき物などの候はずや。」

と問ひかへされて、町役人等、諾(うべ)なひつゝ、かの「寺手形」をひらきて見すれば、見つゝ、小膝(こひざ)を

「はた」

と打ちて、

「わろくも疑ひつるものかな。わが母に相違候はず。」

といふを、「しげ」は聞あへず、

「しからば、そなたは源藏歟。」

「源藏にこそ候なれ。」

と名のれば、「しげ」は跂ひまつはりて、抱きつきつゝ、淚ぐみ、

「やよ、源藏よ、和郎(われ)に逢ひたい逢ひたいと思ふばかりに、九箇年このかた、日本國中(にほんこくちう)、うち巡り、いくそばくその艱難苦勞も願ひ叶ふて、空蟬(うつせみ)の、息のうちなるこ宵(よひ)、いま、逢ひ見ることの歡(よろこ)ばしさよ、やよ、源藏よ、顏を見せよ、そなたは、をさなかりし時、左の眼(ま)ぶちに腫れ物いで來(き)し、その折りに、眼(め)の中へ、針、二本まで、打たせしことあり。その針の迹、今もあらん、こちらをむきて、見せずや。」

と口說(くどき)たてつゝ、又、抱きしめて、淚は、雨と、ふりそゝぐ。

 その歡びは、なかなかに、譬ふるに、物、なかるべし。

 天地を、をがみ、町役人等を、一人一人に、伏し、おがむ。

 慈母の哀歡(あいくわん)、無量の恩愛、今さら、膽(きも)に銘じけん、源藏も、はふり落つる淚を、袖に堰きかぬれば、人々、みな、泣かぬは、なかりけり。

「此とき、『しげ』が有りさまは、和漢巨筆の稗官(はいくわん)なりとも、寫しとらん事、易(やす)かるべからず。又、俳優の上手なるも、よくまねんこと、難かるべし。」

と、後にぞ、人の評しける。

 かくて源藏は、町役人等にうち向かひて、

「思ひがけなく母親に名のり逢ひ候ひしは、御町内(おんちやうない)の御蔭(みかげ)によれば、悅び、言葉に盡くしがたし。やつがれは、十二歲の時より、親同胞(おやはらから)に引きわかれ、故郷白川に程遠からぬ某村にて、人となりしが、十八歲のとき、故ありて、親にも告げず、その地を去りて、江戶に足をとゞめしより、今玆(ことし)は三十歲になりぬ。手書(てか)き・物讀むこともしらねば、中間奉公しつるのみ。この春は下谷なる戶田和泉守殿に居り、けふしも、守(かみ)は、いさゝげながら、恙(つゝが)あらせ給ふにより、翌(あす)の日の當御番(たうごばん)を、同僚がたに、賴ませたまふ。御狀使(ごじやうづかひ)を承(うけたま)はりて、其處(そこ)へとて、いそぐ、黃昏(たそがれ)とき、こゝの中坂を過(よ)ぎりし折り、倒れし母を、わが母ぞとは、しらずながらも、垣間見しは、得がたかるべき幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])なりき。その時、母の足、痛みて、彼處(かしこ)に倒れ臥さゞりせば、よしや、途(みち)にて行き逢ふとも、面忘(おもわす)れせしことなれば、迭(たがひ)に知るよしなからんを、事、みな、不思議に候。」

とて、感淚を流しつゝ、よろこびを述べしかば、町役人等うち聞きて、

「しからば、今宵は此處(このところ)に、老母を留(とゞ)め置きたりとも、けしうはあらぬ事ながら、母御(はゝご)のこゝろを推し量るに、和殿(わどの)を放ち遣るべくもあらず。引きとらんといふ宿あらば、町内(ちやうない)より、駕籠を出だして、只今、送り遣はすべし。」

といふに、源藏、歡びて、

「下谷久右衛門町なる番組宿(ばんくみやど)越後屋何某(なにがし)といふものは、やつがれが親品(おやほん)[やぶちゃん注:親代わり。]なり。この處まで送らし給はゞ、彌(いよいよ)幸ならん。」

といふ。

 抑(そもそも)この源藏は、世にいふ「宿屋もの」[やぶちゃん注:旅宿を家として種々の仕事に通いで就く者の謂いか。]にして、「渡り中間」なりといへども、物のいひざま、怜悧(さかし)げにて、身の皮もきたなげならず。尙(まだ)、巳の時ばかりなる[やぶちゃん注:「巳」の刻が一日の半ばである午の刻よりも前であるところから、事物の未だ新しい状態にあることを指す。]松坂縞(まつざかじま)[やぶちゃん注:伊勢国松坂付近で織り出される縞木綿。江戸時代に商家の使用人の仕着せなどに用いた。グーグル画像検索「松坂縞」をリンクさせておく。]の布子(ぬのこ)を着て、胴金(どうがね)[やぶちゃん注:刀の柄や鞘の合わせ目などに留め金として嵌める輪形の金具。相応に洒落た品である。]したる脇指(わきざし)を帶びたり。

 扨、

「しかじか。」

と、「しげ」に告ぐるに、引きちらされし蔽褸裂(ぼろぎれ)なんどを、いと、惜しくや思ひけん、

「やよ、源藏よ、物とり遺(のこ)すな。包め、包め。」

といひしかど、源藏は恥ぢらひてや、蔽褸をば、包みかねたれば、町役人等は、

『さこそ。』

と猜(すい)して[やぶちゃん注:二人の気持ちを見かけから推し量って。]、定番人に手傳はせ、物遺(もののこり)もなく包まして、かの「寺手形」と錢八百を、源藏に渡しけり。

 その辭し去らんとせしときに、既に齡(よはひ)の頽(かたぶ)きたる、或(ある)は子共を旅にあらせて、親のあはれを、知りたりける、町役人等一両輩、又、源藏を招きよせて、

「いふまではあらねども、九箇年、心力(しんりよく)を竭(つ)くされし、母御の辛苦を思ひ汲みて、孝養を、な怠り給ひそ。渡り中間ならずとも、さまで歷(へ)がたき世の中ならんや。大都會の恭(かたじけな)[やぶちゃん注:実際にこの訓を当てる例があるが、どうも微妙に意味が違う気がするので、「忝」の慣用的換え字ではなかろうか。]さは、小商(こあきなひ)をしたりとも、只(ただ)ひと柱の母親を養ふよすが、なからずやは。勉めたまへ。」

と諭せしかば、源藏は感謝に堪ヘず、

「しか、こゝろ得て候なり。故あることゝはいひながら、十三箇年、故郷(ふるさと)へ音耗(おとづれ)もせず、わが母を見忘れしまでになりにたる、面目(めんぼく)もなく候。」

と、いらへて、やがて、母親を扶けて駕籠に乘し移らせ、その身は、間近かく、つきそふて、下谷をさして、出で行きけり。

 かくて、亥中(ゐなか)の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午後十時頃。]に、その駕籠のもの、かへり來て、かの越後屋某(なにがし)がよろこびの口狀を、町役人等に傳へしとぞ。

 予は、間近きわたりにて、これらの事の有りとしも、絶えて知るよしなかりしに、その明けの朝、河越屋政八(まさはち)といふもの、柴の戶に音づれて、

「緊要(きんえう)の一條を告げまゐらせん。」

とて、詣來(まうき[やぶちゃん注:ママ。])しなり。

「例の虛病(きよびやう)をおこさずに、對面を允(ゆる)し給へ。」

といふ。[やぶちゃん注:「例の虛病」とは病いと称して来訪者の面談を断ることが、執筆に忙しい馬琴の常套手段であったことを指すのであろう。]

 意得(こゝろえ)がたく思ひながら、書齋より出でて、よしを問ふに、政八が

云はく、

「昨日(きのふ)、いとめづらかにも、あはれなる事の候ひき。その故は云々。」

と、前條を擧げて說くこと一遍(いつへん)、

「やつがれ、今玆(ことし)は年番(ねんばん)にて、しかも、きのふは、當番なりき。これにより、彼(か)の婆々(ばゝ)『しげ』に素生(すじやう)を問ひしも、又、源藏に問對(もんたい)せしも、大かたは、やつがれのみ。かゝれば、このくだりに就きて、かく詳(つまびら)かなるよしを、誰(たれ)か亦、翁(おきな)に告ぐべき。又、翁ならずして、誰かよく後(のち)に傳へん。願ふは賛(さん)してたまひね。」

といふ。

 予、感嘆のあまり、敢へていなまず、しばし、うち案じて、

 面壁(めんへき)にあらで九年の旅ころも子を思ふ外(ほか)に一物(いちもつ)もなし

又、おなじこゝろを、

 死なであひぬ片山の手の飯田町(いひだまち)にふせる旅人(たびひと)あはれ親と子

この、ふた歌を、短册に書きつけて、とらせしかば、政八は、受けよろこびて、いとまごひして、まかり出でにけり。

 是れより後も、日に月に、なほ、年每(としごと)に、事の繁くて、いまだ筆には戴せざりしを、けふのまとゐの料(れう)にとて、聞きつるまゝに、しるすのみ。文政乙酉秋八月朔。賀潢南先生誕辰良節。兼披講於兎圖社諸君子席末

[やぶちゃん注:末尾の漢文を訓点に従って訓読して示す。

潢南(くわうなん)先生、誕辰良節(たんしんりやうせつ)を賀す。兼ねて、「兎圖社」諸君子、席末(せきまつ)に披講(ひかう)す。

「潢南先生」「潢南主人」の落款がネットで、複数、掛かってきた。さて、この「兎園会」第八集は文政八年八月一日海棠庵関思亮邸で発会されている。それを糸口として、八月一日生まれの関係人物を探した。図に当たった。関思亮の父親である、書家で儒者の関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)であった。彼は明和五年八月一日生まれであった。書家関其寧(きねい)の養子で、常陸土浦藩藩儒で、書を其寧に学び、天保四年には子の思亮とともに、名家の法帖から行書体を集め、「行書類纂」を編集した。本姓は荻生、潢南(こうなん)彼の号である。

 なお、「兎園小説」の方では、末尾に署名して「玄同陳人解撰」となっている。

 以下は底本では全体が一字下げ。これは本記事に近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)が批評を加えたものだが、一緒に電子化しておく。無論、吉川弘文館随筆大成版には存在しない。ベタ褒めであるが、確かに賛同出来る評言と言える。]

 百川云、凡そ文章に、簡易にして、意味深きあり。又、細密にして、情(じやう)盡くせるあり。漢文は多くは簡にして、誤氣つよきを、貴(たつと)ぶもの、多し。和文は優美にして、細やかなるに、長ぜり。されど、閭巷(りよかう)の鄙事(ひじ)を記(き)せんとするときは、その誤氣、自(おのづ)から鄙俚(ひり)に渉りて、優美の趣きを失ふの病ひを免(まぬ)かれず。さりとて、古代の文字をもて、綴るときは、格法なんどこそは、正しからめ、人情に疎く字体にかなはず、近き世の事をしるすに、遠き昔の事かといぶかり思はれて、興味、薄かり。こゝをもて、近世の文士、言文一致とかいふ事をいひ囃して、今日の、いとも鄙(いや)しく、横(よこ)なまれる詞(ことば)を、そのまゝに寫し出だし、かくてこそ時勢を知るといふべけれなれど、誇りかにいふもの、多し。こは、かの前にいふ、鄙俚の語(ご)を交へたる文章よりも、今一際(きは)、鄙猥(ひわい)にして、讀むに得たへぬくだり、少からず。こは、古へならず、今ならず、雅俗を程よく雜(ま)じへたる、此曲亭の文章あるを知らざるのゆゑにあらずや。この文章は、小說の體(たい)に似て、小說にあらず、ありし事を約(つゞま)やかにして、漏らすくまなく書きつづりしものなり。その事の詳らかなること、いへば、さらなり、文章の妙(たへ)なる、語氣の優美なる、世にいふ、「痒(かゆ)き所に手のとゞく」などいふは、此等(これら)の文をいふにや。文章を學ばんもの、よく熟讀して、その筆法を味はふべし。

 

2021/10/04

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 奇遇

 

[やぶちゃん注:これは滝沢興継の発表であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の「巻第一下」のこちらに所収しているので、それを底本とする(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。長いので段落を成形した。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点にも代えた。なお、表記は底本を忠実に再現してある。例えば鄕右衛門主人公の表記は「山本鄕右衞門」ではなく、「山本鄕右衛門」である。 個人的に、妙に惹かれる話である。但し、明らかに親馬鹿の父馬琴の手になるものであることは、最早、見え見えである。]

 

   ○奇遇        琴嶺舍興繼稿

予が年來(としごろ)恩顧を蒙る松前候[やぶちゃん注:「兎園小説」では「某侯」で伏せてあるが、興継が松前藩の医員であることは知られており、伏せるのは、最後のシークエンスを憚ってのことであろう。]の國足輕に、山本郷右衛門といふもの【この藩中には、内足輕・外足輕とて、内外の足輕あり。此山本郷右衛門は、外足輕の上席なり。[やぶちゃん注:「外足輕」というのは屋敷内には住まない通いの者か。]】、寬政四年壬子[やぶちゃん注:一七九二年。]の夏四月、飛脚をうけたまはりて江戶へ來つ。

 又、陸奥(みちのく)へ還るをり、奧州街道鍋掛[やぶちゃん注:栃木県那須塩原市鍋掛にあった鍋掛宿(グーグル・マップ・データ)。]の驛はづれなる坂中に、回國のもの、親子ふたり、居たり。

 その父、ちかごろ、此わたりにていたく病み煩ひつゝ、命も危かりければ、驛のものども、憐(あはれ)みて、渠等(かれら)が爲に、坂中に、いとあやしげなる小屋を造りて、しばらく、そこに置きたるなり。

 かくて、その病者の小娘、往還に立ち、旅人につきて、袖乞ひをしたりける。

 郷右衛門、これを見て、特に不便に思ひしかば、懷をかゝぐりて、一片の南鐐(なんれう)に、持ちあはしたる藥を添へ、此の二種(ふたくさ)を楊枝挿(やうじさし)の囊に入れてぞ、とらせける。

[やぶちゃん注:「南鐐」江戸時代に良質に銀で製して発行された南鐐二朱銀の異称。 長方形の銀貨幣で、一枚で一両の八分の一の値であった。]

 その後(のち)、五箇年ばかりを經て【寬政八年。】、郷右衛門は、又、飛脚をうけたまはりて、奧より江戶の邸(やしき)にまゐりたる。

 逗留の程、朋輩(ほうばい)に誘(いざな)はれて、新吉原江戶町なる「丸海老屋(まるみほや)」とか呼ばれたる靑樓に登りしに、夜は、はや、更(かう)の闌(たけ)しころ、この樓の若者(わかいもの)【むかしはこれを「妓有」[やぶちゃん注:「ぎゆう(ぎゅう)」。遊里で客を引いたり、遣手婆について、二階の駆引きや客の応待などもした。「牛」「牛太郎」と呼んだ。】、高坏に菓子を積みて、郷右衛門がほとりに、もて來つ。

「こは清花(きよはな)さまより、まゐらせたまふなり。」

といふ。郷右衛門は、意(こゝろ)を得ず、

「われは、さる覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なし。人たがへならん。」

といふを、わかいもの、推し返して、

「いな。人たがへには候はず。口上もこそ候へ。御目(おんめ)にかゝりたく願ひ侍り。こなたへこそ。」

と、いはれし、といふ。とざま、かうざま、おもへども、いと不審(いぶか)しき事なれば、菓子は、そがまゝにして、引かれて、その部屋にゆきて見るに、素(もと)より見識(みし)れる遊女(あそび)にあらず。又、清花は、郷右衛門をうち見つるより、俯し沈みて、しのび音(ね)に泣くばかりなり。暫くして、頭(かうべ)を擡(もた)げ、

「絕えて久しくなりにたる。君にはいよいよ恙(つつが)もあらで、御目(おんめ)にかゝる、うれしさよ。」

といふ。

 郷右衛門は、猶ほ、意(こゝろ)を得ず、

「抑(そもそも)、おん身は何人(なにびと)のむすめにて有りけるやらん、見わすれたる歟、しらず。」

と答ふ。

 その時、「きよ花」は、楊枝挿の囊をとり出でて、

「わらはを見わすれ給ふとも、是をば、おぼえ給はずや。」

と問はれても、まだ、こゝろもつかず、

「これも、知らず。」

と答へけり。

 そのとき、清花、聲をひそめて、

「いぬるとし、鍋掛にて御合力(おんがふりよく)に預りし。そのをりに、賜はりし楊枝挿にて侍る。」

よし、その折からは、

「箇樣(かやう)箇樣、如此如此(しかじか)。」

と說き示すを、郷右衛門は、聞きも訖(おは)らず、

「さては。」

とばかり、はじめて曉(さと)りて、うち驚くこと、大かたならず。

 流れの里に沈みたる、はじめ・をはりをたづぬるに、清花は、又、うち泣きて、

「君には、つゝむべうもあらず。わが故郷(ふるさと)は越後なる高田にて侍るなる。故郷にありしとき、母は長き病着(いたつき)にて、世になき人となりし頃、旱損(かんそん)・水損、何くれとなく、わろき祥(さが)のみ打ちつゞきたる。世を味氣(あぢき)なく思ひぬる父は、歎きに堪へずや、ありけん。遂にわらはを携へて、なき人の菩提の爲、回國にとて出でしより、行方(ゆくへ)定めぬ草枕、旅寐はかなし鍋掛の、鍋ひとつだになき宿に、病み臥したりしわが親を、憐れまれたる、おん身の賜(たまもの)、『しかじかなり』とて、見せしかば、父は驚き、且つ、感じて、『かくまで慈悲ある人は稀れなり。おん顏ばせを見覺えて、めぐり逢ふ日のありもせば、此よろこびを申せよ。』と、かへすがへすも、いはれたり。その日よりし賜はりし藥を用ひたりけれ共、定業(ぢやうがふ)、のがれがたくやありけん、幾日(いくひ)もあらで、親は身まかり、わらはは、しらぬあちこちの人手にわたり渡されて、里の遊女(あそび)になりにたり。はじめ彼(か)の鍋掛にて、おん身に逢ひしは、十四のときにて、本(もと)の名を「そよ」と、いへり。味氣なき世にながらへて、はや、十八になり侍り。今宵は父の命日なれば、「身あがり」といふことをして、客をむかへず、籠居(こもりゐ)の、心ばかりの供物(そなへもの)、回向(ゑかう)をしいる折りもをり、思ひがけなく、恩ある君に、めぐり逢ひしは、亡(な)き親の、こゝろざしにて侍るめり。」

と、いひつゝ、

「よゝ」

と泣きにけり。

 郷右衛門は聞く每(ごと)に、感歎せずといふことなく、我うへさへに、名のりしらしつ。そがまゝに立ちわかれしとぞ。

 かくて、件(くだん)の郷右衛門は、文化の初めより、定府(ぢやうふ)になりて、江戶の邸中(ていちう)に居り。同じき三年丙寅の大火[やぶちゃん注:文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)の江戸三大大火の一つ「文化の大火」。死者は千二百人以上に上った。]のころ、清花は、年季、闋(は)てて、そが親品(おやぼん)なる河崎屋平八といふものゝ宿所にゐたり。かの平八は、乳母奉公の口入(くちいれ)とかいふことを世渡りにすなるものにて、郷右衛門が仕へまつる邸中にも、已前より、出入(でい)りをするよしあれば、この手より、清花が消息を屆け來て、「年季の闋てたるよし」を告げられ

――「流れの里」を出でしかど 猶ほ「浮き草」の根を絕えて 「よるべの岸」も侍らず――

なんど、いとゞあはれに聞えしかば、うちも措(を)かれず、訊(と)ひ慰めしは、只、一たびの事にして、其のゝちは、いかになりけん。よくも知らず、と聞えたり。

 そが、相方(あひかた)の遊女(あそび)ならねば、「疑はれじ」との用心なるべし。

 抑(そもそも)この一條は、文化十三年丙子[やぶちゃん注:一八一六年。]の秋、閏八月廿五日、彼(か)の藩の醫師櫻井立安(りふあん)といひしもの、老侯の夜話(やは)に侍りて、

「しかじか。」

と申せしに、さるすぢをも捨てたまはねば、その孝信を感嘆のあまり、近習(きんじゆ)の人々に、心得させて、次の日、山本郷右衛門を遠侍(とほざむらひ)まで召し上(のぼ)して、透見(すきみ)をしつゝ、そのよしを問ひたゞさせ給ひしかば、郷右衛門は、懼る懼る、有りつるまゝに、まうしゝとぞ。

[やぶちゃん注:「老侯」先代の第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。

「さるすぢをも捨てたまはねば」その人物が藩内でも賤しい最下級の外足軽であることをもお憚りになられることもなくて。

「遠侍」武家の屋敷で、主屋から遠く離れた中門の脇などに設けられた警護の武士の詰め所。 主殿の東西にも同様の板敷きの警護の武士などの詰所があったが、そちらは「内侍」と呼ぶ。

「透見」藩主が足軽に直面(じきめん)することはあり得ない。しかも、話の内容は自分自身の忌まわしい処分理由の一つで、身の覚えのある吉原であればこそ、極めて憚られるものである。そこで、秘かに普通、立ち入ることのない外侍に赴き、外に控えさせた郷五右衛門に、透き見格子(外からは見えず、内からは見える)越しで、「家中のさる御重臣のお訊ね」という触れ込み辺りで、実否を糺したものであろう。]

 其の時の聞書(きゝがき)の、

「ことさら、奇談なるべし。」

とて、わが父に見せ給ひしを、己(おのれ)、乞ひ請(う)けて、収め置きにき。當時(そのかみ)、家嚴の賛歌あり。册子(さうし)のしりに書かれたり。可否をば、しらず。賛に云、

  離レテ火宅火㘫

  鍋掛(ナベカケ)ハ猶如熱閙塲

  一潮恩一汐

  圓蝦(マルエビ)ハ苦海慈航

[やぶちゃん注:漢詩は二段組だが、一段にし、読み部分は( )で入れた。訓読しておく。

  火宅を離れて 火㘫(くわせい)に堕(お)つ

  鍋掛は 猶ほ 熱閙塲(ねつたうば)のごとし

  一潮(いつてう)の恩 一汐(いつせき)の信

  圓蝦(まるえび)は此れ 苦海(くかい)の慈航(じこう)

「火㘫」は「火の燃える穴」であるが、廓を、この世の日常(火宅)の底にある火炎地獄に譬えた。「熱閙塲」本来は「人が込みあって騒がしい場所」の意だが、閙(とう)には「病気などになる・災害などが生ずる」の意があり、これに「熱」を添えて、そんな「塲」所となれば、前句と対になって焦熱地獄を想起させ、それを地名の「鍋掛」と「鍋」を「掛」けた下に燃える火の「熱」に掛けた。病む父を抱え、往来を行き来する者に乞食する少女の鍋掛での生活はまさに既にして苦界であったのである。「一潮」「一汐」は、まず、非常に短い時間の喩えである「一朝一夕」に掛けて二人の出逢いと再会を言いつつ、「一潮」も「一汐」も孰れも「ひとしほ」と読め、これを「一入」(いっそう・さらなる)郷右衛門の「恩」と「そよ」(「清花(きよはな)」)の生涯の彼への「信」を強調したものであろう。さらにこの潮の干満の意は、次の「苦海」を引き出すための装置となっている。「圓蝦」は言うまでもなく、彼女のいた遊女屋「丸海老屋(まるみほや)」に掛けて、この世を比喩する仏語「苦海」を引き出し、縁語で仏の絶対の「慈」悲によって速やかに極楽浄土へと曳航されてゆく「そよ」の後ろ姿を想起させてコーダとなる。技巧の面白さはあるが、ちょっとやり過ぎで、ゴテゴテして逆に五月蠅い感じがする。]

 丸海老屋(まるえびや)つるにもにたり鍋掛のふたゝび逢ひぬすくはれし身は

[やぶちゃん注:バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅルVitis ficifolia var. lobata の蔓は古くは縄や紐に用い、鍋の持ち手の滑り止めに相応しいし、そのあざなえる紐で結ばれた二人が邂逅し、再び逢えたことにも掛けていよう。]

 本書は、只、その意をうけて、及ばずながら、文(ぶん)を易へたり。賛は、因みにしるすのみ。嗚呼、風流の藪澤(そうたく)にも、かゝる忠信孝女あり。いと憐むべきものになん。文政八年乙酉八月朔琴嶺興繼識

[やぶちゃん注:最後に二人を夫婦(めおと)にさせたくなるが、そう書いたら、これは明らかな創作になってしまう。既に述べた通り、「某侯」としても、ばればれであるから、もし、この話が馬琴の完全創作だったら、それこそ松前藩から咎めを受け、期待している興継の昇進にも障りが起こる。されば、この話全体は、完全な事実であると考えてよい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 獼猴與蛇鬪 ほこりてふ

 

[やぶちゃん注:客員会員の京都の青李庵角鹿清蔵のもの。筆法家で上代様書家として知られた人物らしい。書信を馬琴が読み上げたものか。別個な二件だが、短いので一緒に挙げた。「獼猴」(ビコウ)は猿のこと。これも「猴」も皆、「さる」と訓じてよい。]

 

文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]八月兎園會     京 角鹿比豆流

   筑前御儒者井上佐市より京都若槻幾齋翁へ之書狀奥に、

怪談らしく思召さるべく候へ共、實事に付、爲御慰、申上候。去る六月初、弊邑管内、宗像郡初の浦と申す所の山圃に、煙草を作り置候處、何物かあらし候者有之候に付、百姓共申合、「獼喉之所爲」にて可有御座候間、「逐拂可申」とて、數十人、一山に入候處、獼猴、五十余居候に付、「扨社[やぶちゃん注:「さてこそ」。]」と、能々、見候處、中に長[やぶちゃん注:「たけ」。]壱丈二、三尺、圍[やぶちゃん注:「めぐり」。]一尺五、六寸の大蛇を取り圍み、方さに[やぶちゃん注:「まさに。」]鬪居申候。猿ども、口と手に、煙草の葉を持ち、蛇、前[やぶちゃん注:「まへの」。]猿にかゝり候へば、後猿、蛇尾を曳、其鬪、果しなき模樣に御座候故、所之獵師、鳥銃にて、蛇を打殺し申候。猴は火音に驚き、逃去申候。猴共、蛇の、煙草を嫌ひ候儀を、能く存候事、驚入申候。扨、其蛇を改見候處、腹、大に張居申候間、開胎仕候處、猴子二頭、吞居申候由。其所は治下より八里計の處にて、うきたる儀にては無御座候。

  是は、去年中、七月の書狀なり。 七月念三

[やぶちゃん注:「宗像郡初の浦」このような名の浦は現存しない。推理するに、旧宗像郡内であった現在の福岡県福津(ふくつ)市「勝浦(グーグル・マップ・データ。以下同じ。)、或いは、宗像市「神湊(こうみなと)」の崩し字の判読の誤りではあるまいか?

「壱丈二、三尺」三・六三~三・九四メートル。この大きさから本邦の最大種である有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora と断じてよい。同種の体調は通常は一・五~二・五メートルであるが、実計測記録ではないが、例外的に三メートルほどに達する個体もあるようであると、小学館「日本大百科全書」の記載にあった。三メートルの巨大個体が延伸して這えば、この長さに見えても、おかしいとは言えない。

「念三」二十三日のこと。「二十(廿)」の合音「ネム」が「念」の音に通じるところから、年や日などのそれに宛てる。]

文政八酉八月 兎圖之二

   〇ほりこてふ    京 角鹿比豆流

今はむかし、卯月のころ、洛の西なる木辻村といふ所に、數日遊びしことあり。其邊のわらは「もちつゝじ」の實を、とりて、喰ふ。是を「ほりこてふ」といひ、また、「猫の耳」ともいふとぞ。甚、にがきものなるを、なれては、味よきにや。「猫の耳」とは、其かたちのよく似たる故なるべし。「ほりこてふ」とは、いかにかくいふにや。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

解按ずるに、ホリコテフは「張子蝶」ならん。「ハ」、「ホ」、音通なり。「もちつゝじ」の實は、薄紅にして、聊、蝶のかたちに似たり。しかれども、その片なるところ、厚くして、且、堅し。譬へば、「張粘の蝶」の如し、「ハ」を「ホ」と唱ふるは、越後・上野人の、「ヱ」を「イ」と唱ふるが如く、西京の方言かもしらず。又、「猫の耳」といふも、猫の耳の裏のかたに似たればなり。すべては猫の耳に似たるものには、あらずかし。

  乙酉八朔         著作堂追記

[やぶちゃん注:「木辻」現在の「木辻通り」附近か。

「もちつゝじ」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属モチツツジ Rhododendron macrosepalum 。実の写真がなかなかない。個人ブログ「HAYASHI-NO-KO」の「ツツジ モチツツジ(黐躑躅)」の写真がそれか。なんとなしに猫の耳に似ているような気はした。

「張粘の蝶」は「はりのりのてふ」か。敗れた障子を塞ぐのに和紙を蝶の形に切り取って「粘」る米糊を塗って「張」りつけたものか。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天照太神を吳太伯といふの辯

 

[やぶちゃん注:ベタで長いので、段落を成形した。私は個人的には全く興味のない内容なので(私は神道を信じないが、日本神話が中国伝来というのも阿呆らしくてまともに考える気にはならない)、注は気になったところだけに留めた。悪しからず。こちらとか、こちらで、個人の方が、本篇を掲げながら語られているものがあるので、興味のある方はそちらを読まれるとよかろう。]

 

   ○天照太神を吳太伯といふの辯

 或云、伊勢國天照太神を吳の泰伯と申す說、宋元の代より申す所にして、儒者よりこれを見れば、尤事跡に付きて左あるべし。神道者よりは、此說を、甚、嫌ひ、堂上方・禁中方にても不被用。これも亦た、あるべし。日本は大唐と各別の式を立つる故なり。

 然れ共、仰ぎてこれを考ふるに、吳の泰伯は誰人ぞ。周室の高祖后稜の嫡子にて、二男は王季なり。后を王李と聖人なり[やぶちゃん注:底本は右に『(本ノマヽ)』と注記する。]。王季子文王、その子武王、周公、何れも「聖人なり」と稱す。

[やぶちゃん注:「王季」殷代の周国の首長。生没年不詳。古公亶父の三男。孫の武王によって追尊されて「王李」と称された。]

 世子の說ありて、泰伯は弟の王季に讓りて家を出でゝ去りぬ。是を「三讓」といひて、「論語」にも、泰伯をば、「至德」と稱せられたり。「吳國へ去られし」と古書にもあり。

 吳國より、日本へ渡せらる。吳國は南京なり。日本と近し。其頃は、日本は纔の島國にて、鬼畜同前の土民、住す。彼等、穴に住し、獵漁して食せしなり。

 泰伯、九州日向國鵜渡の港へ舟を留めらる。其後、高千穗の嶽に上り、住し給ふ。日向に、今、その事跡殘れりと申し傳ふ。彼國にても王代の古質あり。耕作を敎へ、人倫の道を敎へ給ふ。仍りて、人道、開けて、國人、尊敬す。

 素盞烏尊は皇の御弟なり。然れ共、御心に不叶事ありて、御敎を止めて、引き龍り給ふ。仍りて、法令の敎、なし。

 人々、難義に及び、これを「天の岩戶」に引き龍らせ給ひて、「常闇の世」といふ。

 然れば、皆人、なげき諫め申して、再び、法令あるにつき、日月かゝやく、といふ。

 彼渡海の時の御舟、是を伊勢國の「船の御藏」と申す神寶、是なり。農具を入れ持せたる、今に御藏に納めたり。仍りて「御倉」と申す。

 其外、「司室童子」[やぶちゃん注:不詳。]の畫あり。髮を亂して、童形の、竿をさす處の繪なり。是、渡海の御船を寫すと云ふ。

 又、内宮に「三讓伏」[やぶちゃん注:不詳。]あり。「三讓」の文字を寫す。是、御殿に質朴禮儀をふまへさせ給ふしるしなり。

 これによりて、内宮を「泰伯」、外宮を「后稜」と說き申す、といふ。外宮は國常立尊と申すも、此、說あり。

[やぶちゃん注:「國常立尊」「くにとこたちのみこと」。「日本書紀」で天地開闢の後、最初に出現した原初の神で、国土の永遠の安定を意味する神と言う。別名は国底立尊。「古事記」では「國常立神」の名で、六番目に出現した神とある。他に「草分尊」(くさわけのみこと)や「大元神」(だいげんしん)の異名もある。]

 扨、日本を姬氏國と、野馬臺の詩にも見えたり。周堂、又、姬氏、符合、如斯。

[やぶちゃん注:「姬氏國」「東海姬氏國(とうかいきしこく)」。梁の僧宝誌(後注参照)和尚が文字を交錯させて作り、吉備真備が観音の助けによって読んだという伝説を持つ「耶馬台詩」(やばたい(やまたい)し)の中の句「東海姬氏國、百世代天工」による。「東方の海上にある女性を首長とする国」の意で日本国のこと。東海女国とも。

「野馬臺の詩」平安から室町にかけて流行した予言詩。南北朝時代に江南にあった梁(五〇二年~五五七年)の怪僧宝誌和尚(四一八年~五一四年)の作とされるものの偽書の可能性が高い。日本で作られたものとされるが、中国で作られて伝来したとする説もある。]

 辯に云、此說、古來より誤り來ること、年久し。釋の圓月、「日本史」を作り、朝に獻ず。其書に、泰伯を以て始祖とす。故に議論ありて、おこなはれずと云ふ事は、蕉了子が記せる「史記抄略」に見ゆるなり。

[やぶちゃん注:『釋の圓月、「日本史」』中嚴圓月(ちゅうがんえんげつ 正安二(一三〇〇)年~応安八(一三七五)年:鎌倉末期から南北朝時代にかけての臨済宗大慧派の僧で数学者(和算家)・漢詩人。鎌倉生まれ。朱子学を初めとする宋学に通じ、本邦に於ける本格的な宋学受容の濫觴ともされる)の「日本書」の誤り。恐らくはその中で、彼は神武天皇を「呉の太伯の子孫」であるとし、『「天皇中国人説」を唱えた』らしい。ウィキの「中巌円月」を参照した。

『蕉了子が記せる「史記抄略」』室町時代の臨済僧桃源瑞仙(永享二(一四三〇)年~延徳元(一四八九)年:京都相国寺の明遠俊哲の法を継ぐ。易学や「史記」も学び、「応仁の乱」に際しては、郷里近江へ避けて古典研究を続け、乱後に相国寺住持となった。蕉了は号)が「史記」について行った講義録。全十九巻。文明九(一四七七)年成立。史「史記抄」或いは「史記桃源抄」の名で知られる。]

 且、「舊事記」・「古事記」・「日本紀」に、此說に似たる事實になし[やぶちゃん注:「は、なし」の誤判読ではないか?]。濱成の「天書記」、廣成の「古語拾遺」、「倭姬世說」・「鎭座傳記」・「御鎭座次第」・「寶碁本紀」・「類聚神祇本源」・「元々集」等の書に、亦、見えず。野馬臺の詩は、世俗に傳はるばかり、書籍の中、曾て見えず。「梁の寶誌和尙の識文なり」といへども、誌が、詩傳中にも見えず、假令、寶、作りぬるも、靈僧の詞、證據とするに足らず。「神皇正統紀」に、『異朝の一書中に、日本は吳の泰伯の後なり。』といふ。更に當らず。

 思ふに、唐土の人、我邦の書をしらず。偏に商舶俗侶の口に任せて、年代をも不ㇾ辯、實非を不ㇾ正、實を失ふこと、常に多し。固と[やぶちゃん注:「もと」。]、我邦の人、國史に瞽き[やぶちゃん注:「くらき」。]故、姬氏國の言に迷ひ、泰伯を誣罔し、佛者は大日孁の名を以て「大日」を附會し、是、周禮造言の刑を免れざるの人、國神正直の敎に背く。實に聖神の罪人なり。

[やぶちゃん注:「誣罔」「ふまう」。偽って言うこと。ないことをあるように言って人をおとし入れること。

「大日孁」「おほひるめ」。天照大神の別名。

「周禮造言」「周礼」(しゅうらい)は儒教経典「十三経」の一つで、「礼記」・「儀礼」とともに「三礼」と称して聖典とされているが、新の王莽が前漢から簒奪する際に道義上の根拠としていることから、王莽の側近劉歆(りゅうきん ?~紀元二三年)によって捏造されたのではないかとする偽書説が現在もある。]

 開闢の始、神靈を稱するは、古今の常、予、別に說あり。此に略す。

 或云、天地開闢の始より、我國、有りて、「大日本豐秋津洲」と號し、我君の子(ミコ)、世々、統を續ぎ[やぶちゃん注:「つぎ」或いは「つなぎ」。]給ふ。所謂、天照太神の御子孫なり。

 吳は泰伯より始まり、世の相[やぶちゃん注:「あひ」。]おくるゝこと數千歲、日本、何ぞ泰伯の子孫ならんや。「史記」、吳の「世家」を按ずるに、泰伯、卒して、子、なし。弟、仲雍、立つ。後、十七世夫差、越の勾踐の爲に滅さる。此時、我邦、孝昭天皇三年に當る。夫差より前、吳の日本ヘ通ぜし事、なし。

[やぶちゃん注:「孝昭天皇三年」機械換算で紀元前四七三年。]

 異域の人、我邦に來て、臣民となるは、則、是、あり。其氏族を「蕃別」といふ。この類、甚、多し。その中に松野氏あり。「新撰姓氏錄」に曰、『松野は吳夫差の後なり』と。是、吳人、我邦に來るの始なり。

 「日本紀」に據るに、應神天皇三十三年春二月、阿智使主(ノオミ)、都賀[やぶちゃん注:「つか」。]の使主を吳に遣し、縫女を求めしむ。ふたりの使者、「高麗に渡り、吳に至らん」とするに、道路をしらず。知る者を高麗に乞ふ。高麗の王、則、久禮波・久禮志、二人をて[やぶちゃん注:「をして」「を以て」の脱字か。]、鄕導とす。是によりて吳に通ずることを得たり。吳王工女兄媛・弟媛・吳織・穴織、四人を與添へふ[やぶちゃん注:「あたへそへり」の誤字か。]。大織冠鎌足、執政の時、百濟の祥禪尼法明、對馬に來て、吳音に「維摩經」を誦す。よりて吳音を「對馬讀」といふ。吳音の源起なり。

[やぶちゃん注:「應神天皇三十三年」三〇三年。]春二月、阿智使主(ノオミ)[やぶちゃん注:「あちのおみ」。機織りを伝えた古代の渡来人。阿智王とも称し、古代の最も有力な渡来人の一族である東漢氏(やまとのあやのうじ)の祖。「日本書紀」によれば,応神二十年に子の都加使主(つかのおみ)ならびに十七党類の民を率いて来朝したとされる。]、都賀の使主を吳に遣し、縫女を求めしむ。ふたりの使者、「高麗に渡り、吳に至らん」とするに、道路をしらず。知る者を高麗に乞ふ。高麗の王、則、久禮波・久禮志、二人をて[やぶちゃん注:「をして」「を以て」の脱字か。]、鄕導とす。是によりて吳に通ずることを得たり。吳王工女兄媛・弟媛・吳織・穴織、四人を與添へふ[やぶちゃん注:「あたへそへり」の誤字か。]。]

 然れども、泰伯を天照太神といふ事、何れの書にも見えず。「日本紀纂疏」に、一條兼良公の說に、『韻書を考ふるに、「姬」は婦人の美稱なれば、思ふに、天照太神は始祖の陰靈、神功皇后は中興の女主たる故に、國俗、姬氏國と稱す。』とかや。只、宇義によりて事を論ずるときは、此類、常に多し。

 葢、物、極れば、變じ、人、窮すれば、則、本に返る、天地の常道にして、古今の事宜なり。

 予、「兎園小說」を作らんとす。嚢底を叩きて考ふるに、奇說・新說、諸君の筆に出づ。予が輩、如ㇾ之、何ぞ筆すべき。於ㇾ是、本に返り、源を尋ね、天照皇の說を寫し、聊、以て、例の「兎圖」に備ふと云ふ。

  乙酉八朔         中井琴民識

 

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(2)

 

[やぶちゃん注:底本はここの右ページ後ろから二行目からであるが、底本の経典引用に複数の致命的な誤字や、読点位置の不審が夥しくあったため、選集も参考にしつつ、サイト「SAT大蔵経DB」で原経典を確認の上、訂した。あまりに多く、五月蠅くなるだけなので、どこを校合して訂したかは指摘しない。万一、不審がある向きは、底本と比較しつつ、読まれたい。

 

 然しながら予は件の曾我物語に見えた修法成就の時渡り來て尊前に供へた物を動かす牛王を牛黃や牛王寶印の精靈と見るよりは、牛王てふ特別な鬼神と見るを一層實に近いと惟(おも)ふ。淸原君が言はれた通り(鄕土硏究三卷一九八頁)、牛の勝妙なる者乃ち牛群の首魁を牛王と云ふは諸經に屢々見え、例せば佛說生經四に、時水牛王、與衆眷屬、有所至湊、獨在其前、顏貌姝好、威神巍々、名徳超異、忍辱和雅、行止安詳[やぶちゃん注:選集版訓読文等を参考にしつつ、書き下してを試みる。「時に水牛王は、衆(おほ)くの眷屬と與(とも)に至り湊(あつ)まる所ありて、獨り其の前に在り。顏貌は姝好(しゆかう)にして[やぶちゃん注:見目麗しくて。]、威神は巍々たり、名德は異(ほか)を超(ぬきん)でて、忍辱にして和雅、行止(たちゐ)は安詳(おちつき)たり」。]と、田邊中の藝妓どもが南方君を讃める樣に矢鱈に述べて有り、北凉譯大般涅槃經十二には、如轉輪王、主兵大臣、常在前導、王隨後行、亦如魚王蟻王䗍王牛王、商主在前行時如、是諸衆悉皆隨從、無捨離者、[やぶちゃん注:同前。「轉輪王の主兵・大臣、常に前導にあつて、王は後に隨ひて行くがごとく、亦、魚王・蟻王・䗍[やぶちゃん注:「螺」に同じ。]王・牛王、商主の前に在りて行く時のごとく、是くのごとく、諸衆、悉皆(ことごと)く隨從し、捨離する者なし。」。]と、吹く法螺から吼ゆる牛までもそれぞれ王有る由を說かれた。十誦律四十に、佛、芻摩國に在て五陰法を說いた時、諸比丘持鉢著露地、天魔變作大牛身、來向鉢、有一比丘、遙見牛來向鉢、語比座、比丘言。看此大牛來向我鉢、不破我鉢耶、佛語諸比丘、此非牛。是魔所作、欲壞汝等心、佛言、從今房舍中、應作安鉢處。[やぶちゃん注:同前。「諸比丘、鉢を持ちて露地に著(お)く。天魔、變じて、大牛の身と作(な)り、來たりて鉢に向かふ。一比丘有り、遙かに牛の來たりて鉢に向かふを見、比座(とな)れる比丘に語りて言はく、『看よ、此の大牛、來たりて我が鉢に向かふ。我が鉢を破(わ)らずや。』と。佛、諸比丘に語りていはく、『此(こ)は牛にあらず。是(こ)は魔の作す所にして、汝等の心を壞(やぶ)らんと欲するなり。』と。佛、言はく、『今より、房舍中に鉢を安(お)く處を作(な)すべし。』と」。]同律二一に佛在王舍城、是時諸鬪將婦、婿征行久、與非人通、是諸非人、形體不具。或象頭、馬頭、牛頭、獼猴頭、鹿頭、贅頭、平頭、頭七分現。生子亦如是、諸母愛故、養畜育長大、不能執作、驅棄諸子、詣天祠論議堂出家、舍是諸處、覓飮食遊行云々。[やぶちゃん注:同前。「佛、王舍城に在り。是の時、諸鬪將の婦、婿(をつと)の征行すること久しく、非人と通ず。この諸(もろもろ)の非人は、形體、不具にして、或いは象頭(ざうとう)・馬頭・牛頭・獼猴(びこう)[やぶちゃん注:猿。]頭・鹿頭・贅(ぜい)[やぶちゃん注:疣(いぼ)・瘤(こぶ)の意。]頭・平頭と、頭(かしら)七分(とほ)りに現ず。生まれし子も亦、是くのごとし。諸母の愛する故に、養ひ畜(か)ひて長大となりしも、執り作(あつか)ふこと、能はず、諸(これら)の子を驅棄(おひはら)ひて、天祠論議堂[やぶちゃん注:諸宗教の寺院の意であろう。]に詣(いた)りて出家せしめ、是れを諸處に舍(お)くに、飮食を覓(もと)めて遊行す。云々。」。]出征軍將の不在に其妻共が牛馬頭等の非人と通じて其樣な異體で遊び好きの子を生んだのだ。非人は英語アウト、キヤスト[やぶちゃん注:現代英語では、outcastであるから読点は不要。「社会からのけ者とされた人・見放された人」の意。所謂、「不可触賤民」。]の義で人類に齒(よはひ)せられぬ賤民で、人種も印度高等の人々と違ひ、頭が畜生諸種に似て居ただらう[やぶちゃん注:「をつただらう」。]。牛頭馬頭の鬼などいふも是等から出たらしい。佛在世既に天魔が大牛身を現じたと云ふから見ると、牛形の鬼類を信ずる事古く梵土に在つたので、それが佛敎に隨順せる者を牛王と云つたのだらう。今日も錫蘭(せいろん)では、牛群每に[やぶちゃん注:底本「牛群母に」。誤植と断じて訂した。「每(つね)に」と読む。選集はそうなっている。]一聖牛(ひじりのうし)有りて其繁榮を司どり、其角を羽束(はねたば)で飾り、又、小鈴を加ふる事有り。常に衆牛を牧場に導く。每朝牛舍を出る時、土人、聖牛に向かひ、必ず衆牛を監守し牸輩(めうしども)をして群に離れず最好(いとよ)き牧場に導いて乳汁多く生じしめ玉へと請ふ(Balfour, The Cyclopaedia of India, 1885, vol. i, p.512)。印度人が牛を最上の神獸として尊崇恭敬するは誰も知る所で、殊に之をシヴア大神の使ひ物とし、優待到らざる無き樣子と理由は A.de Gubenatis, ‘Zoological Mythology,1871, vol. i, pp. 1-89Dubois,  Hindu Manners, Customs and Ceremonies,1897, vol. ii, pp. 644-6 を見れば判る。既に之を神視するから、隨つて之を神同樣の役目に立つる事も多く、マヌの法典に牡牛を裁判の標識とし、諸神世間の法を濫す者をヴリシヤラ卽ち殺牡牛者と看做すと有り。今日もシヴァの騎る[やぶちゃん注:のる。]純白き[やぶちゃん注:「ましろき」。]牛(名はナンヂ)は裁判の標識と云ふ者有り(Balfour, vol. ii, p.1057)。予が曾て睹(み)た他人の地面を取り込む印度人を戒むる爲、其家内の婦女が牡牛に犯さるゝ所を彫つた石碑の事既に本誌に述べ置いた(鄕硏一卷六一四頁)。地面の境標を建る印度人の誓言には牛の生皮(なまがは)又は自分の忰を援(ひ)いて證とする。他に又、牛の尾を持て誓ふ事もある(Balfour, vol. iii, p.2)。シヴアは、卽ち佛經に所謂摩醯首羅(マヘスヴアラ)王、又、大自在天、又、大天で、佛敎諸他の敎に專奉する諸神を尊奉する所から、胎藏界曼荼羅にも入り、觀音廿八部衆中にも在れば、速疾立驗摩醯首羅天說阿尾奢法[やぶちゃん注:「そくしつりふけんまけしゆらてんせつあびしやほふ」。]などが一切經中にあり、爪哇[やぶちゃん注:「ジャワ」。]の佛迹は實に佛敎と大天敎[やぶちゃん注:部派仏教の一つである大衆部(だいしゅぶ)のことであろう。釈尊が没して百年後、摩訶提婆大天(まかだいばだいてん)が出て、五事(最高の修行者たる阿羅漢も誘いによって不浄を漏らし、煩悩の汚れに染まらないものの、無知であり、ためらい疑うことがあり、悟ったことを自覚できない者があること、聖道は苦を叫ぶことによって生ずることなどを立項したもの)を提議し、これに賛同した比丘達が、従来の保守的な修行僧たちから分れて結成した部派(保守的な修行僧たちの部派を「上座部」と呼ぶ)。生死・涅槃は、結局のところ仮りの呼称であって、衆生の心性は、もともと清浄であるが、煩悩に穢されているという説を説いた。大乗仏教の萌芽をこの中に見ることが出来る。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。]の融和せしを示す。又佛敎にも印度敎[やぶちゃん注:ヒンドゥー教のことであろう。]にもある閻魔(ヤマ)王や、それから化成されたらしい瑜伽宗の大威德明王は、孰れも靑牛乃ち水牛に騎る。此二尊は屢ば西藏の佛畫に見るより推すと、衞藏圖識[やぶちゃん注:「ゑいざうずしき」。清の馬掲と盛縄祖が著わした地誌。二冊。序には一七九二年のクレジットがある。上冊では成都からチベットに至る道程が、下冊ではチベットの地誌が、地図や住民を描いた図とともに記されたもの。]に見えた牛魔王や吾邦の牛鬼の傳說は多少それに緣有るので無からう歟。日吉社神道祕密記[やぶちゃん注:安土桃山時代の天正一〇(一五八二)年に日吉大社の禰宜祝部行丸(はふりべゆきまる)が同社の伝承を纏めたもの。]に、一牛尊石〔八王子〕御殿之下牛尊石上ㇾ之と有つて、地圖に牛尊牽牛ナリ、寵御前[やぶちゃん注:不詳。]織女ナリと有るは牛王に關係無いが、序でに書き付けて置く。實は此解說は後日の附會で、其初は何尊かの使い物たる牛の像を石上に安じたのであらうと思ふ。西晉譯修行道地經六に、織女三星地獄に屬すと有れば、牽牛も閻魔の騎乘(のりもの)か。兎に角佛敎に混じて印度敎の事相も隨分多く本邦に傳はつたから、牛を裁判の標識として誓言の證據に立つる印度の風を傳へて、何尊かの使ひ物たる牛を牛王と稱し、其牛王の印を据ゑ若くは据ゑられたと信ずる物を、誓言にも引けば、門戶に貼つて辟邪の符[やぶちゃん注:「まもり」。]とも做(し)たのであらう。

 類聚名物考十三に垂加文集の跋より、御靈八所云々、當社者嘉(垂加の俗名嘉右衞門)之牛王神也と引けり。是は例の生土(うぶすな)を訛つて牛王と成つたといふ說に隨うたのか。又似た事ながら、誓文を書く時に牛王として名を援く[やぶちゃん注:「ひく」。]神と云ふ事か。

[やぶちゃん注:「Balfour, The Cyclopaedia of India, 1885, vol. i, p.512」エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)はスコットランドの外科医で東洋学者。インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した。彼はインドに関するCyclopaedia(百科全書)を出版し、その幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の原本のこちらの左ページ冒頭に当該内容が出る。

A.de Gubenatis, ‘Zoological Mythology,1871, vol. i, pp. 1-89」本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第一巻「9」ページはここ

Dubois,  Hindu Manners, Customs and Ceremonies,1897, vol. ii, pp. 644-6 」作者はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)。「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部を探すのは諦めた。

Balfour, vol. ii, p.1057同前でここの右ページ左部分の下方に出現する。

「予が曾て睹(み)た他人の地面を取り込む印度人を戒むる爲、其家内の婦女が牡牛に犯さるゝ所を彫つた石碑の事既に本誌に述べ置いた(鄕硏一卷六一四頁)」これは本書の後に載る「今昔物語の研究」の一節。短いので、そこだけ引く。但し、これはR指定だな。

   *

大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫つた石碑が有つた。元と印度で田地の境界に立た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒だそうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫・前田正名・鎌田榮吉・野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象・牛・馬・駱駝・驢・騾[やぶちゃん注:「らば」。]・猪・羊・犬・猿猴・麞[やぶちゃん注:「くじか」。]・鹿・鵝・雁・孔雀・鷄等に於る婬慾罪を判ち居る。西曆紀元頃「ヴァチア」梵士作色神經[やぶちゃん注:「カーマ・スートラ」のこと。](ラメインツス佛譯、一八九一年板、六七-八頁)に、根の大小に從ひ、男を兎・特[やぶちゃん注:「をうし」。]、駔[やぶちゃん注:「をうま」。]、女を麇・騲[やぶちゃん注:「めうま」。]・象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事、見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者、罕に[やぶちゃん注:「まれに」。]犬を犯す有るを聞けど、根岸鎭衞の「耳袋」初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞かず、或書に人身御供に立たる素女[やぶちゃん注:「きむすめ」。]を、馬頭神、來り享[やぶちゃん注:「うけ」。]、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず。但し、人が獸裝を成て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首め[やぶちゃん注:「はじめ」。]其例乏しからぬ(ヂユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)。要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ、偶ま夫の根、馬の大きさで常住せんことを願ひし話ありとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。   *

「牛の尾を持て誓ふ事もある(Balfour, vol. iii, p.2)」同前原本のこちらの左ページ中央やや下に出る。

「類聚名物考」江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻十三の「神祇部」の「御靈八所社」終りの方に出る。

「垂加文集」儒者で神道家として吉川神道を発展させた垂加神道を創始した山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の詩文集。]

2021/10/03

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 小右衞門火

 

[やぶちゃん注:前に続いて龍珠館の発表。これは実は五年前に「柴田宵曲 妖異博物館 狸の火」の注で電子化注している。今回は零からやり直し、注も再考証した。改行はママ。字下げも今回は再現し、ブラウザの不具合を考えて、短くして字下げを保存した。]

 

   ○小右衞門火

大和國葛下郡松塚村は東西に川あり。西を大山川といふ。此堤に、陰火、出づ。【出でし初は、いつの頃よりといふを知らず。】土俗は「小右衞門火」といふ。「百濟の奧壺」といふ墓所より、新堂村の「小山の墓」といふへ、通ふ火なり。雨のそぼふる夜は、分けて[やぶちゃん注:取り分け。特に。]出づ。大さ、提燈程にて、地をはなるゝ事、三尺計といふ。「奧壺」より「小山」迄は、四十町計にて、「松塚」の面の端は、其やしきなり。同村に小右衞門といへる百姓、此火を「見とゞけん」とて、彼所に至りけるに、火は、北より南をさして、飛び行く。小右衞門は、南より北に向ひて步みよりたれば、此火、小右衞門が前に來るとひとしく、急に高くあがり、小右衞門が頭の上を飛び越ゆるに、流星の如き音、きこえたり。頭を越ゆると、又、以前の如く、地を去る事、三尺計[やぶちゃん注:約九十一センチメートル。]にて、行き過ぎぬ。一說に、此時、小右衞門、杖にて打ちければ、數百の火となりて、小右衞門を取り卷きけるを、漸、杖にて打ち拂ひ、歸りたり、といふ。其夜より、小右衞門、病を發して死す。因りて小右衞門火と名づく。此事、凡、百年計、以前にもなるべし。

此火、年をふるにしたがひて、火の大さも、やゝ減じ、出づる事も、次第に、稀になりたり。小右衞門、死してより、人恐れて近く寄らざる故にや。「今は、遠望にては、見るものなし。若、たまたま見ゆる時は、螢火計の大さにて、夫か、あらぬか、といはん程なり。」と、いへり。

  此松塚村は、我食邑ゆゑ、土俗の物語を、
  能々尋ねきゝたるまゝに、書せり。

[やぶちゃん注:「大和國葛下郡松塚村」「葛下郡」は「かつげのこほり」と読む。明治後期に北葛城(きたかつらぎ)郡となった。現在の奈良県大和高田市北部の葛城川右岸の大字松塚(まつづか)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東西に川あり。西を大山川といふ」それぞれが概ね東西の村界を成している。現在は東の流れを「曽我川」、西側のそれを「葛城川」と呼称している。後者は、現在は、後にずっと北の下流で曽我川に合流し、それから程なくして曽我川は大和川に合流している。また、この葛城川は上流を辿ると、奈良東部の金剛山地を水源としてことが判り、嘗ては葛城山と金剛山を含む葛城山脈を総称して葛城山と呼んでおり、この山は神話に於いても、この附近で最も知られた山の一つであり、正式は「和葛城」と呼ぶので、この「大山川」は「葛城川」の古名或いは異名としても何らおかしくないのである。

「百濟の奧壺」読みは「くだらのおくつぼ」であろう。不詳であるが、現在の松塚の北端から約一・四キロメートルの直近の北葛城郡広陵町(ちょう)百済(くだら)に三重塔で知られる真言宗百済寺(くだらじ)があるから、この近辺の旧地名か、或いは「奥壺」は「奥津城」の表記換えで、百済地区の墓所を指すものと考えてよいであろう。ウィキの「百済寺(奈良県広陵町)」によれば、『寺は三重塔と小さな本堂を残すのみで、隣接する春日若宮神社によって管理されている』(確かに、調べてみたところ、現在は無住である)。『伝承によれば、この寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地であるという』。『百済大寺とは』、七『世紀前半に創建された官寺で、再度の移転・改称の後、平城京に移転して南都七大寺の』一『つ』である『大安寺となった』。「日本書紀」の舒明天皇一一(六三九)年七月の条に『舒明天皇が「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」と命じた旨の記事があり、大宮と大寺は「百済川の側(ほとり)」に造られたという』。『この百済大宮と百済大寺の所在地を奈良県広陵町百済に比定する説は古くからあり、江戸時代の延宝』九(一六八一)年『成立の地誌』「和州旧跡幽考」も『当地を百済大寺の旧地としている。しかし、当地における「百済」の地名が古代から存在した証拠がないこと、付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮(岡本宮、田中宮、厩坂宮など)の所在地が飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地中央部に位置するのは不自然であることなどから、この地に百済大寺が所在したことは早くから疑問視されていた』。一九九七『年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺』(ここ)『の発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが百済大寺であった可能性がきわめて高くなっている』。なお、現在の『広陵町の百済寺は、室町時代には多武峰領となっていた。江戸時代初頭の慶長年間』(一五九六~一六一五年)には六坊を『数えたが、江戸時代後期の天保年間』(一八三〇年~一八四四年)『には中之坊と東之坊の』二『坊を残すのみであった。現在の春日若宮神社社務所は中之坊の後身である』とある。

「新堂村」先の電子化では『不詳』としていたが、調べ方が如何にも杜撰であった。今回、調べたところ、松塚の真南一キロメートルの位置に、奈良県橿原市新堂町がすぐに見つかった。但し、そこの「小山の墓」というのは不明である。しかし、本文で百済の「奥壺からこの小山の墓」までは「四十町計」(約四・四キロメートル弱)というのは、この新堂町とピッタリ一致する。百済寺起点で直線で北に新堂町の北端までは四・三キロメートル強だからである。

「松塚の面の端は其やしきなり」これも以前の注を訂正する。現在の集落形勢と田畑の様子を見るに、松塚の中央西端部分に集落が有意に集中して形成されている(グーグル・マップ・データ航空写真)ことが判る(その南北は田畑であり、江戸時代とその関係が極端に異なる可能性は私は低いように感じられる。「今昔マップ」の明治後期でも全く同じである)。今回、ここは重要な人物である「小右衞門」の住まいを示すために、松塚の集落(屋敷群)の位置を示したものと考えた。これは、北から南へ飛ぶ怪火を目撃するロケーションとしては、すこぶる附きで最良の位置だからである。この集落の東の、比較的、家屋が空いている土地部分とその上の空間を、百済寺から新堂までの直線が通過することになるからなのである。

「百年計」(ばかり)「以前」。この発表は文政八(一八二五)年八月一日であるから、その百年前は数えで一七二六年となり、享保十一年頃ということになる。

「我食邑」「わがじきいふ(ゆう)」と読んでおく。報告者である旗本桑名修理が年貢を受ける知行所(村)の一つであることを言っている。但し、知行地であっても、実際には差配された場所が遠ければ、実際に行くことは、まず、なかった(そもそも江戸の保守を担う旗本・御家人は江戸府内を届け出なしに出たり、気楽に物見遊山などをすることは実は許されなかったからである)。それでも、情報はそれなりに気になるから、人を遣ったりして、現地の様子を得ることは頻繁に行った。何かまずいこと(疫病・飢饉・逃散・犯罪・一揆など)が起これば、自分に責任が回ってくるからである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 本所石原の石像

 

   ○本所石原の石像    龍 珠 館

本所石原多田の藥師の前、石工の家にある、上下着たる男子と、「かいどり」着たる婦人の石像は、十萬坪を初めて開きたる者に、千田庄兵衞といへるあり、家、富みて十萬坪一圓に、おのれが有となし、奴婢、數十人つかひ、錢を鑄ることなど、司れり。其、盛なりしは、凡、寶曆の頃にやとおもはる。庄兵衞、總領の男子【名は聞不及。】に妻をむかへて、兩人ともに死す。其像を石にて作りたるなり。次男も後に庄兵衞と名乘たり。其次は女子にて名を「ゑん」といふ。親庄兵衞、庄十郞といへるものを「ゑん」へ聟養子とし、後の庄兵衞は、庄十郞の妹の淸といへるを妻として、家を二つに分けたり。後には共に落魄して、後の庄兵衞は出家し、庄十郞は竹本濱太夫といふ義太夫かたりとなる。今は其家、遺橛なし。元祖庄兵衞は、石像今も猶十萬坪に存す。おくもりたる松樹の中に小堂あり。座像にて頭にガソドウ頭巾を着、袴羽織に手に扇を特ち、脇差を帶びたる形なり。所の者は「ゴヱイ堂」といふ。

[やぶちゃん注:「本所石原多田の藥師」当時は本所番場町(現在の東京都墨田区東駒形。グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあり(切絵図と照合すると、隅田川左岸に接するこの中央附近)、現在は東京都葛飾区東金町に移っている薬師三尊像を本尊とする天台宗玉嶋山明星院東江寺。「多田薬師」の呼称で今も知られる。当該ウィキによれば、天正一一(一五八三)年に『隆海によって開山された』。大正一二(一九二三)年の『関東大震災で罹災し』、昭和三(一九二八)年に『現在地に移転した』。『本尊の薬師如来は、恵心僧都源信の作とされ、源満仲(多田満仲)の持念仏といわれている』。『源満仲は領地の摂津国多田荘(現・兵庫県川西市付近)に「石峰寺」を建立し、薬師如来像を安置した。しかし、その後の戦乱で焼け出され』、『各地を転々とした後、最終的に東江寺に安置されることになった。この逸話から、この薬師如来像は「多田の薬師」として崇敬されるようになった』とある。

「かいどり」「搔取」。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げることを言うが、そのようにして着用するところから打掛小袖のことを指す。近世の慣例としては武家の婦人用は「打掛」、公家の婦人用を「掻取」と称した。

「千田庄兵衞」いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の江東区千田にある「宇迦八幡宮」の解説(「江東区の民俗深川編」による宇迦八幡宮の由緒)によれば、享保年間(一七一六年~一七三六年)に、近江の商人千田庄兵衛が江戸にやってきて、海辺の葦が茂る、この周辺に湿地帯の開拓を徳川吉宗に願い出て、三年掛かりで村作りをなし、彼の名をとって「千田新田」と名付けられ、寛政九(一七九七)年には村全体が一橋家の領地となったので、「一橋領十万坪」とも称した。千田庄兵衛は、この地に社殿を造り、「千田稲荷神社」と称し、土地の産土神として崇めた。たまたま、土地の穀物が実らず、この神社に祈願したところ、神霊のお告げにより、穀物に代わる片栗を栽培し、飢餓を救ったという伝承があり、別に「片栗八幡宮」とも称したとある(宇迦八幡宮社頭碑「由緒」)。『戦前までは千田稲荷神社と称していたが、戦後、改名要求が高まり、奉賛会が協議の末、宇迦八幡宮と定め』、昭和二九(一九五四)年に神社庁に認められた、とある。千田庄兵衛よ! 君の文字通りの地道な努力の遺徳は、柱や杭どころか、名前まで消されて忘れ去られている! 宇迦八幡宮の位置はここである。安政四(一八五七)年の安藤(歌川)広重の「名所江戸百景」の素敵な文字通りの鳥瞰の図「深川洲崎十万坪」が国立国会図書館の「錦絵で楽しむ江戸の名所」のこちらで見られる。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。当発表は文政八(一八二五)年八月。

「遺橛」「橛」は「門」や「杭・柱」の意で、そうした屋敷の遺構さえも跡形もないことを意味していよう。

「ガンドウ頭巾」「强盜頭巾」で「がんだうづきん」が正しい。頭・顔全体を包み隠し、目だけを出すようにした頭巾のこと。

「ゴヱイ堂」表記が気になるものの、「御影堂」であろう。なお、この夫婦の石像は現存しないようである。]

伽婢子卷之十 祈て幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は最も状態がよい「新日本古典文学大系」版のものをトリミングして使用した。]

 

Sinroku1

 

   ○祈(いのり)て幽靈(いうれい)に契(ちぎ)

 上野(かうづけ)の國平井の城は、上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし、憲政は越後に落行《おちゆき》て、長尾謙信をたのみ、二たび、家運を開かん事をはかり給ふ。

 平井の城には北條新六郞をいれおかれし處に、城中に一間の所あり。

 金銀をちりばめ、屛風・障子、みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

 庭には、さまざまの石を集め、築山・泉水、その巧みをなし、築山に續きたる花岡[やぶちゃん注:元禄版では「花園(《はな》その)」。「新日本古典文学大系」版でも同じ。]には、春より冬にいたる迄、つゞく草木の花、さらに絕間なし。

 是れは、そのかみ、憲政の息女彌子(いやこ)、生年十五歲、みめかたち、世にたぐひなき美人にて、心のなさけ、色ふかく、優にやさしかりければ、見る人、聞(きく)人、みな、思ひをかけ、心をなやます。

 憲政は、

『いかなる高家權門の輩《ともがら》にも合せて、家門の緣を結ばん。』

とおぼして、寵愛深く、別(べち)に、この一間をしつらひおかれし所に、家人《けにん》白石(しろいし)半内といふ小性、たゞ一目見そめまゐらせ、心地、惑ひて、堪へかね、風のたよりにつけて、文ひとつ、まゐらせしに、此事あらはれ、半内、ひそかに首(くび)をはねられたり。

 その後、百日ばかり過て、むすめ彌子、日暮がた、俄におびえて、絕入《たえいり》給ひ、ついに、空しくなり給へり。

「さだめて。半内が亡魂のしわざならん。」

と聞傳へし。

 新六郞、この物語を聞て、

『たとひ、幽靈なりとも、かゝる美人に逢ふて語らはゞ、さこそ、嬉しからまし。今生の思いで、何事かこれにまさらん。』

と、しきりに思ひそめて、朝夕は、香をたき、花を手向(たむけ)て、人知れず、戀慕の、心、つきて、祈りけり。

 ある日の暮がたに、いづくとも知らず女(め)の童(わらは)、一人來りて、新六郞に向ひていふやう、

「わが君は、そのかみ、此所にすみ給ひしが、君の御心ざしにひかれて、これ迄あらはれ、只今、まゐり給はんに、君、對面し給ふべきや。」

といふて、きえうせしが、暫くありて異香(いきやう)くんじて、先の女の童につれて、一人の美女、築山(つきやま)のかげより、出來れり。

 その美しさ、此世の中にあるべき人ともおぼえず、

『天上より、くだれる歟(か)。神仙のたぐひか。』

と見るに、中々、目も、あやなり。

 新六郞、

『これは聞及びし彌子(いやこ)の幽靈なるべし。日ごろ、我、念願せし所、ひとへに通じけり。「鬼(おに)を一車(《いつ》しや)にのす」と云ふ事はあれど、何か、すさまじとも思はん、契りをかはして、思ひを述べんには、人と幽靈とは同じからずと雖も、なさけの色は、死と生と、はかる事あらじものを。』

と、女の手をとり、引いれて、時うつる迄、かたらひけり。

 女、すでに立歸らんとするとき、

「自ら[やぶちゃん注:自称の一人称代名詞。]、こゝに來る事を、あなかしこ、人に洩し給ふな。又、暮を待給へ。」

と契りて、

 底深き池におふてふみくりなは

   くるとは人に語りばしすな

とうち詠じ、庭に出てゆくかと見れば、そのまゝ、かたちは消え失せたり。

 次の日の暮がたに。又、來れり。

 曉、かへりては、夕ぐれに來る事、六十日に及べり。

 ある日、新六郞、家人を集めて、さまざま、物語のついでに、女のいひし事を打ち忘れ、此事を語り出しけり。

 家人等、奇特(きどく)の事に思ひて、壁をほりて、のぞきけるに、女、來りて物語すれども、その姿は、見えず。女(め)の童(わらは)と見えしは、伽婢子(とぎぼうこ)にて侍べりし。

 女、ある夕暮、來りて、大《おほい》に恨み歎きたる有樣にて云やう、

「何とて、『洩し給ふな』といふ言葉をたがへて、人には語らせ給ひしぞや。此故に契りは絕《たえ》て、かさねて逢ふ事、かなふべからず。これこそ、この世の、名殘りなれ。」

とて、

 しばしこそ人め忍ぶの通ひ路は

   あらはれそめて絕はてにけり

と、なくなく、詠じければ、新六郞、淚の中より、

 さしもわがたえず忍びし中にしも

   わたしてくやしくめの岩はし

女は、なくなく、金の香合(かうばこ)ひとつ、とり出して、

「君が心ざし、變らで思し給はゞ、これを、かたみとも、見給へ。」

とて、渡しけり。

 新六郞も珊瑚・琥珀・金銀をまじへてつなぎたる、數珠(じゆず)一連をとり出し、

「これは、見給ふべき物とはなけれ共、黃泉(よみぢ)のすみかには、身のたよりとも御覽ぜよかし。」

とて、女の手に渡しつゝ、

「さるにても、又、あふべき後の契りを、この世の外には、何時とか定め侍らん。」

と、いへば、

「今より、甲子(きのへね[やぶちゃん注:ママ。])といふ年を待給へ。」

とて、淚とゝもに、雪霜のきゆるが如く、うせにけり。

 新六郞、つきぬなごりの悲しさに、思ひむすぼゝれ、心なやみ、形ち、かじけたり。

 醫師(くすし)、此事を聞て、藥を與へしかば、月をこえて、病ひ、いえたり。

 後に、ある人、語りけるは、

「憲政の愛子(あいし)、こゝにすみて、俄に、おびえ、死せり。これは、此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり。憲政、こゝにおはせし間は、空、くもり、雨ふる時は、半内が幽靈、いつも、あらはれ見えし。」

と也。

「此程は、その事、絕て、見し人も、なし。」

といふ。

 新六郞、これを聞に、すさまじく思ふ心、つきけり。

 

Sinroku2

 

 或日、空くもりて、雨雲、うちおほひたる暮がたに、年のほど、廿ばかりの男、やせつかれたるが、髮、うち亂し、白き「ねりぬき」の小袖に、袴、着て、紫竹(しちく)の杖をつきて、泉水の端に、

「すごすご」

と、立《たち》たるを見て、新六郞、太刀を拔きて向ひければ、

「きえぎえ」

となりて、失せにけり。

 これより、僧を請じ、一七日《ひとなぬか》のうち、水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)をいとなみて、弔ひしかば、これにや、怨みも解けぬらん、重ねてあらはれいづる事、なしとかや。

[やぶちゃん注:「上野(かうづけ)の國平井の城」現在の群馬県藤岡市西平井にあった平井城。当該ウィキによれば、永享一〇(一四三八)年、『鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説では』、『この時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実』と『幕府の連合軍の間で』「永享の乱」『が起きたが、憲実方が勝利した』。文正元(一四六六)年に『関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという』。『古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料』『もあるが、実際には』永正九(一五一二)年の「永正の乱」或いは大永年間(一五二一年~一五二八年)『以降の拠点で』、十六『世紀前半の短期間のものであったとみられている』。天文二一(一五五二)年、『北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで』も『北条に寝返っていたためである』永禄三(一五六〇)年に『長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている』。『平地部分に本丸などの本城があり、背後の山には詰城である金山城(平井金山城)があった広大な城である』とある。

「上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし……」上杉憲政(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際。未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の時、同職に就任したが、奢侈・放縦な執政を行い、民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵し、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うが、相次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失った上、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年一月、平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣し、翌年三月、小田原を包囲した(ウィキの「北条氏康」によれば、この『以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると』、『関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱』・『従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることな』った。この永禄四年の『謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の』六『月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試み』、九『月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた』。次いで、『氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し』、氏康は『武蔵北部を奪還し』ているとある)。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号したが、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、謙信の名を継いだ養子景虎は憲政の館に籠って相争うこととなった。城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害されている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「北條新六郞」「新日本古典文学大系」版脚注に、『伝不詳。平井城攻めの中心として参軍した北条綱成の陣中に、同族の福島新六郎の名が見える(関八州古戦録三・氏康上州平井城責)』とある。

「障子」「新日本古典文学大系」版脚注に、『明かり障子、つまり襖のこと』とあるので納得。みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

「憲政の息女彌子(いやこ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、創作原拠である五朝小説の「才鬼記」に基づく仮想設定と思われる。

「白石(しろいし)半内」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、原拠にもないオリジナルな仮想人物と思われる。

「新六郞、この物語を聞て」前注の通り、上杉憲政の配下の者が憲政を裏切っているので、そうした中の一人から、この城中での秘話を聴いたという設定であることが判る。

「そのかみ」先般。

 

「鬼を一車にのす」「鬼を一車に載す」は「大変不安な心境」を指す喩え。おとなしそうな顔をして載っていても、鬼は鬼、何時つかみ掛って来ないとも限らぬという意。『信用出来ない相手と一緒に事業を始めた時など、相手を何処まで信じてよいのか怪しむ心境にもたとえる』と参照したcelica2014276氏の「故事ことわざ辞典blog」のこちらにあった。「新日本古典文学大系」版脚注には、原拠を、『「載鬼一車何足ㇾ恐 棹巫三峡未ㇾ為ㇾ危(和漢朗詠集・下・述懐)』(「鬼を一車(ひとぐるま)に載すとも何ぞ恐るるに足らむ 巫(ぶ)の三峽(さんかふ)に棹(さを)さすとも未だ危ふしと爲(せ)ず」。中書王(醍醐天皇の皇子である兼明(かねあきら)親王の作)、『「載鬼一車 鬼ヲ載ル』(のする)『車ト嶮難ノ路トハ尤ヲソロシキ処ナレドモ、ソレハマダモ也。世上ノ人の心尤ヲソロシキト也(和漢朗詠集鈔六・述懐)、「載鬼一車先張之弧後説之弧」(易経四。兌下離上)』(「鬼一車(いつしや)に載る。先に、之れ、弧(ゆみ)を張り、後に、之れ、弧を說(と)く。」。「說く」は張っていた弓を緩めて射るのを止めるの意)を挙げる。

「あなかしこ」「どうか、お慎みあれかし!」。

「底深き池におふてふみくりなはくるとは人に語りばしすな」「新日本古典文学大系」版脚注には、『底深い池に生じるというミクリナハに因んででも、「来る」ということばを口ばしって私のことを他人に語ってくださるな。』と通釈され、「みくりなは」について、『歌語。水草のミクリ(三稜草)は水面に漂って縄のように見えることがあるという』とある。単子葉植物綱ガマ目ミクリ科ミクリ属ミクリ Sparganium erectumウィキの「ミクリ」によれば、『ヤガラという別名で呼ばれることもある』。『北半球の各地域とオーストラリアの湖沼、河川などに広く分布』する。『日本でも全国に分布するが、数は減少している』。『多年生の』抽水性(ちゅうすいせい)植物(根が水中にあって茎や葉を伸ばして水面上に出る植物を指す)で、『地下茎を伸ばして株を増やし、そこから茎を直立させる。葉は線形で、草高は最大』二メートルにもなる。花期は六~九月で、『棘のある球状の頭状花序を形成する。花には雄性花と雌性花があり、枝分かれした花序にそれぞれ数個ずつ形成する。その花序の様子が栗のイガに似るため、ミクリ(実栗)の名がある。果実を形成する頃には、花序の直径は』二~三センチメートルにもなる、とある。原拠歌はない模様。

「奇特(きどく)」ここは単に不思議なことの意。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」で既出既注

にて侍べりし。

「しばしこそ人め忍ぶの通ひ路はあらはれそめて絕はてにけり」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、了意御用達の「題林愚抄」の「戀二」の「忍絕戀」(「新後拾遺和歌集」の「戀四」)の後二条院の一首、

 しばしこそ人め思ひしよひよひの忍ぶかたよりたえやはつべき

とあり、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の右丁の終わりから6行目にある。

「さしもわがたえず忍びし中にしもわたしてくやしくめの岩はし」同前で、同じ「題林愚抄」の「戀二」の「絕戀」(「続後撰和歌集」の「戀五」で「絕戀の心を」と前書する)の前僧正慈鎮の一首とあり、同前のここの30コマ目の左丁の8行目にある。但し、

 さしもわかたえすしのびし中にしもわたしてけりなくめの岩はし

と四句目が異なる。「くめの岩はし」は「久米の岩橋」で、役の行者が奈良の葛城山の山神一言主神に命じて、葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)に掛け渡そうとしたという「日本靈異記」上巻二十八話や、「今昔物語集」巻第十一「役優婆塞誦持呪駈鬼神語第三」(「役優婆塞(えんのうばそく)誦(しゆ)を持(ぢ)して呪して鬼神(きじん)を駈(か)る語(こと)第三」)などの説話から出た伝説上の橋。夜が明けてしまって工事が完成しなかったと伝えられるところから、「男女の契りが成就しないことのたとえ」として使われる。

「この世の外には、何時とか定め侍らん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『来世まで持って行く思い出』とされ、「後拾遺和歌集」の「戀二」にある和泉式部の知られた一首(七六三番)、

   心地、例ならず侍りける頃、

   人のもとにつかはしける

 あらざ覽(らむ)この世のほかの思ひ出に

         今ひとたびの逢ふこともがな

『を踏まえた表現』とする。

「甲子」本話柄内の時制は、平井城が北条に奪われた天文二一(一五五二)年壬寅以降のそう遠くない頃の設定であるから、直近の甲子は永禄七(一五六四)年となる。これ自体には史実に合わせてみても、違和感はない。但し、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠に『一甲子ニ非ザレバ相ヒ見(まみ)ヘンノ期(とき)無シ』とあって、そちらの「一甲子」というのは年を示す干支ではなく、還暦の「六十年後」を意味するものである。スケールが全然違う。というより、本話のエンディングには不満がある。この「甲子」はその年に新六郎が死を迎えることの予言として私は読む。さればこそ、その終焉を了意はコーダに持ってくるべきだったと私は思うからである。

「かじけたり」「悴けたり」瘦せ細り、衰え弱ってしまった。

「此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり」ちょっと躓く表現である。意味は判るが、ここは「白石半内の、殺されしを怨みたる亡魂のしわざなり」と私はしたくはなる。

「ねりぬき」「練貫」。縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの光沢のある絹織物。

「紫竹(しちく)の杖」黒い竹の杖。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属シチク Phyllostachys nigra var.nigra で出来た杖。シチクは高さ三~八メートルで、茎は二年目から黒紫色に変わる。黒竹 (くろちく)とも呼ぶ。

「水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)」「水陸會(すいりくゑ)」。施餓鬼会(せがきえ)の一種。水陸の生物や死せるもの(人の死者も含む)に飲食物を与えて諸霊を済度する法要。水陸斎とも言う。夏から秋にかけて行うのが普通。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 隅田川櫻餠

 

[やぶちゃん注:同じく輪池堂発表。]

 

   ○隅田川櫻餠

「去年甲申[やぶちゃん注:文政七年甲申。一八二四年。]一年の仕入高、櫻葉漬込卅壱樽【但し、一樽に凡二萬五千枚ほど入れ。】。葉數、〆、七拾七萬五千枚なり【但し、餠一つに葉弐枚づゝなり。】。此もち數、〆、卅八萬七千五百。一つの價、四錢づゝ、この代、〆、千五百五拾貫文なり。金に直し、弐百廿七兩壱分弐朱と四百五拾文【但し、六貫八百文の相場。】。この内、五拾兩、砂糖代に引き、年中平均して、一日の賣高、四貫三百五文三分づゝなり。」といへり。

[やぶちゃん注:隅田川左岸で、老舗として現在も営業している東京都墨田区向島にある「長命寺桜もち 山本や」(グーグル・マップ・データ。拡大されると判るが、正岡子規が第一高等中学校予科卒業した明治二一(一八八八)年に、この店の二階を「月光楼」と称して借り、一夏を過ごした(旧居の碑が同地内にある)。その折りの子規の作に、

 向じま花さくころに來る人のひまなく物を思ひける哉

 花の香を若葉にこめてかぐはしき櫻の餠家づとにせよ

 葉櫻や昔の人と立咄

 葉隱れに小さし夏の櫻餠

がある。一説に子規はこの店の娘「おろく」に淡い恋心を抱いたともされる)の記事である。ウィキの「長命寺桜もち」によれば、現在、同店の裏手にある天台宗宝寿山遍照院長命寺の門前で、享保二(一七一七)年に、創業者山本新六が、大川(隅田川)の隅田堤(現在の「墨堤通(ぼうていどう)り」)の土手の桜の葉を塩漬けにして、試みに「桜もち」を考案し、向島の長命寺の門前で売り出したのが始めで、その頃よりこの周辺は桜の名所で、花見時には、多くの人々が集い、桜もちが喜ばれた(同店の東北ごく直近に「墨堤植桜之碑」が建つ。サイド・パネルの解説版の画像をリンクさせておく)。サイト「江戸料理百選へようこそ!」内のシリーズ「江戸老舗探訪記」のバック・ナンバーの『~開かれた秘境への誘い~江戸老舗探訪記 その五「長命寺 桜もち 山本や」(東京・向島)』(福島朋子氏の取材・文)が非常によい(リンクはトップ・ページのみ可なので御自分で到達されたい)。そこに、若女将の語りから始まり(一部の行空けを詰めた)、

   《引用開始》

「私どもの祖先に、長命寺の門番をしていた山本新六という者がおりました。この人、桜の季節は落ち葉の掃除に手を焼いたそうで、ふと思いついて桜の葉を塩漬けにいたしまして、薄い皮で餡を包んだものに巻いて売ったところ、大変な売れ行きだったとか」

 これが、桜餅誕生の物語なのである。この新六氏、厄介ものを立派な商品に仕立てあげたのだから、その着眼点は見事! しかも廃品利用(今でいえばエコリサイクル!)なのだから頭が下がる。

 その後、この桜餅はまたたく間に江戸のヒット商品となったわけなのだが、そのヒットぶりたるや恐れ入るほどのスケール。1825年(文政8年)に出された書物には[やぶちゃん注:これはこの「兎園小説」の輪池堂屋代弘賢の記事を指す。]当時の山本やで消費された桜の葉の数が記録されているが、そこには総数31樽とある。1樽につき約25千枚が入るというから、合計で775千枚ということになる。山本やの「桜もち」は当時1つの餅に対して2枚の桜の葉が使われていたことから、なんと38万個余りの桜餅が江戸庶民の腹の中に消えていった計算になる。いくら当時の江戸が世界一の人口過密都市だとはいえ[やぶちゃん注:江戸の町方並びに寺社門前の人口はウィキの「江戸の人口」によれば、文政五(一八二二)年で五十二万七百九十三人、文政十一年で五十二万七千二百九十三人である。]、驚きの数。いかに長命寺・山本やの「桜もち」が江戸の人々に熱狂的な支持を受けていたかがわかるというものだ。[やぶちゃん注:中略。]

かの正岡子規も愛したという山本やの「桜もち」。一時期、山本やの2階を「月光楼」と称して一夏を過ごしたことから、子規の作品には桜餅にまつわる詩が多く残されている。

「花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅家づとにせよ」

それにしても、葉が大きい! これがおいしさの秘密なのだ。

■ これでもか! という秘伝の葉包み!

 では、江戸の時代に爆発的に愛された噂の桜餅をいただいてみることにしよう。まず、桜餅を目の前にして驚くのが、餅を覆った桜の葉の大きさ、そしてぐるりと3枚の葉で餅を完全に取り囲んだその外見だ。通常、桜餅は1つの餅に対して1枚の桜の葉が使われている。したがって、餅の地肌が見えていてるのが普通なのだが、この「桜もち」は一見、中に何が入っているのかわからない。とにかく桜の葉の印象が強烈なのだ。

 そこで、ふと疑問がわく。果たしてこの桜餅、葉はよけて食べるものなのだろうか? 贅沢にも3枚もあるから、1枚を残し餅と一緒に口に運ぶものなのだろうか? 躊躇していると

「私どもの『桜もち』は、葉はすべてよけて、中の餅をご賞味ください」ときっぱり若女将が疑問に答えてくれた。

「桜餅の葉というのは、餅にその香りを移すという役割もありますが、餅の乾きを抑えてしっとりやわらかな口当たりを楽しんでいただくためのものでもあるのです。そのため、江戸の当時は2枚の葉で餅をくるんでいたといわれていますが、今現在は、しっかりと餅をくるめるよう、葉の大きさにより2枚、3枚と桜の葉の枚数を変えております」

 なるほど、山本やのこだわりは、この大ぶりの桜の葉にあったのだ。当然、店の前にある隅田川の見事な桜並木の葉を利用しているのかと思ったが、実は現在では西伊豆産の大島桜の葉を利用しているという。というのも、桜の葉は塩漬けすることでクマリンという成分が生まれ、それによりあの独特な香りを醸し出すようになる。そのクマリンを多く出すのが「大島桜」なのだそうだ。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

なお、ウィキでもこの「兎園小説」の本篇のデータを上記引用を元に転用している。なお、示された金額を現代の円の価値換算をしようと思ったが、可憐な桜餅に如何にも無粋なれば、やめた。なお、自死の二ヶ月前の昭和二(一九二七)年五月、芥川龍之介が『東京日日新聞』夕刊に連載した「本所兩國」(リンク先は私の古いサイト版)の『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の冒頭にも、ここの桜餅が出てくる。

   *

 僕等はその時にどこへ行つたのか、兎に角伯母だけは長命寺の櫻餠を一籠膝にしてゐた。すると男女の客が二人、僕等の顏を尻目にかけながら、「何か匂ひますね」「うん、糞臭いな」などと話しはじめた。長命寺の櫻餠を糞臭いとは、――僕は未だに生意氣にもこの二人を田舍者めと輕蔑したことを覺えてゐる。長命寺にも震災以來一度も足を入れたことはない。それから長命寺の櫻餠は、――勿論今でも昔のやうに評判の善いことは確(たしか)である。しかし饀や皮にあつた野趣だけはいつか失はれてしまつた。……

   *

と記している。]

2021/10/02

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) ものゝけのぬれ衣

 

[やぶちゃん注:輪池堂発表。物語なので、段落を成形した。]

 

   ○ものゝけのぬれ衣

 或家【姓名は、わざと、しるさず。】の家來に、半田久三郞と云ふ者、有りし。

 もとは、近國の酒とうじの子なりしが、女色にふけりて、所の住居、なりがたく、江戶に出で、大御番某の所に侍奉公に出でたり。

 とかく、色慾にて、身をあやまつべきさまなりしかば、主人、不便におもひ、念比に敎訓せしを、ふかくかしこまり、おもひて、おこなひをあらため、まめやかにつかふるさまを、今の主人、見て、乞ひうけぬ。

 もとより、手跡、達者に、算術も、おろかなく、さかしゆゑ、出頭せしなり。

 しかるに、をとゝしの冬、故主の家に來り、

「わたくしこと、はからざる災難に逢ひ侍り。はなはだ、心をいたましむる。」

よしを、いふ。

「それは、いかなることにや。」

と、ゝひけるに、

「そのよしは、申しがたし。」

と、かたく、すさびて、かへりぬ。

 そのゝち、又、來りて、

「かのさいなん、うらなひみたれば、『祈禱せば、よけなん。』と申すにつき、そのよし、行ひければ、まづ、心安き方にさふらふ。」

といふ。

 その「よし」をば、とひても、いはず。

 ほどなく、

「年も、くれぬ。」

とて、歲暮の禮に來り、かへる時に、

「もはや、御目にかゝり申すまじ。」

と、いふ。

 あるじ、とがめて、

「『ことしは、御めにかゝりがたし。』といふことか。たゞ『おめにかゝるまじ。』といふは、聞えがたし。」

と、いひければ、

「そこつにて侍り。」

と。わらひて、まかでぬ。

 年も、かへりぬ。

「春のよろこびに、いつも來るものゝ、日をふれども、まうでこぬは、いかゞ。」

と、人して、とぶらはせぬれば、

「久三郞は、身まかりぬ。」

と、いひこしたり。

「さるにても、『災難』といひしは、いかなることにて有りしや。」

と、心にかゝりて、しりあひたる人としきけば、久三郞が事をとひたづねつるに、ある人いひけるは、

「そのことは、われ、よく、しれり。久三郞とは、へだてなくむつびつれば、我にのみ、かたりきかせたり。それは、近きあたりに侍りし年比の子もり女、

『久三郞にしたしくならばや。』

とおもひけるを、そのとなりにつかへぬる若侍、聞きつけて、久三郞が艷書をしたゝめ、使をもとめて、おくりければ、

『あひおもふ中。』

とて、うけひきぬ。それより、夜にまぎれて忍び逢ひけるが、ほどへて、夜がれがちにやなりけむ、かの女、ある日、久三郞に行きあひて、くねりかゝりけれども、久三郞はしらざる事なれば、こたふるにも及ばずして、行き過ぎぬ。そのゝち、又、行き逢ひたれば、

『ひた』

と、ゝらへて、はなさず、ありしうらみを、いひつゞくるにぞ、

『さては。わがなを、たばかられしことにや。』

と心付きたり。

『しかじか。』

と、ことふれども、さらに聞きいれず。からうじて引きはなちて、わかれたり。そのゝち、かの女、あつしき病にふして、日あらず、身まかりぬ。その夜より、久三郞がふしどに、幽靈、あらはれて、よもすがら、くねりあかす。その比にや、かれ、祈禱をしたりけん、少しは、そのしるし有りしかど、又、あらはれて、責めさいなむ。久三郞、堪へずして、つひに、はかなくなりぬ。歲暮に古主に來りし時、申しゝ詞によりて考ふれば、かの靈、

『年あけば、とりころさむ。』

などゝ、いひけるにや。」

と、いひあへり。

「この久三郞は、袋翁が弟子にて、うたを學びたるものなり。」

とて、袋翁のもの語りなり。

[やぶちゃん注:「袋翁」幕臣で歌人の横田袋翁(よこたたいおう 寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 夷言粉挽歌

 

[やぶちゃん注:標題は「えぞことばこなひきうた」と訓じておく。古代中国の祭りの名。飲食の神に感謝する祭り。「膢日」(らうじつ)の「膢」は古代中国の祭りの名で飲食の神に感謝する祭りである(本邦の新嘗祭相当)。大修館書店「廣漢和辭典」を引いたところ、昔の中国の各地で、一年のてんでばらばらな時期にこの「膢」という祭事が行われていたことが判った。その中に、冀州(きしゅう)地方(現在の山西・遼寧・河北・北京・天津・フフホト(呼和浩特)・ウランチャブ(烏蘭察布)等七つの省市の広域相当)で、陰暦八月一日の朝に行ったものがあり、『たのも。たのみ。』とあった。この第八集の「兎園会」は海棠庵邸で八月一日に行われている。「粉引歌」は底本では二段組だが、一段で示した。歌部分は全体が二字下げであり、歌詞の和語部分は均等配置がされているが、再現していない。また、上人の号であるが(底本は『弁瑞』)、以下に示す「蝦夷地大臼善光寺」の公式サイト内でも「辯」と「辨」の二種が使用されているため、私の好きな硬質の「辯」を採用した。]

 

膢日兎園           輪   池

   ○夷言粉挽歌

蝦夷地大臼善光寺上人は、智德のほまれ高く、靈嚴寺中に旅宿ありしうちも、都下の信者、步をはこびて歸依せしに、往四の期、定めありて、こゝにて遷化あり。人々、擧りて、惜みあへり。「其、夷地に住まれし時、『粉引歌』を作りて夷人を敎化ありし。」とて、その歌をうつし贈りし友、あり。かたはらに夷言を譯しあるも、めづらしければ、うつし奉るものなりし。

   粉 引 歌

念佛上人ユホウンシンハイナ

 是や人々

タハアンウタレ

 敎を聞よ

エハカシユカス

 早い遲いか

トナシモイシカ

 一度は死ぬぞ

アリシユイライナ

 死ぬがいやなら

ライホコハナキ

 念佛申せ

ネンブウキカン

 申す人なら

キクルネヘキネ

 いつなん時に

センハラヤツカ

 假のからだの

ウヽセネトハチ

 死たるとても

ライハネヤツカ

 蟬の脫がら

ヤアキセイヘシ

 捨つるがごとく

ヲシヨウコラチ

 月も日も

チコブアフレハ

 死せざる國ヘ

シヨモライコタレ

 往て生れて

ヲマンセカトハ

 心のまゝに

ヤヱラムアユネ

 妻や小供が

エマチホホタレ

 かあいぞならば

ヲマツフハネチキ

 共に念佛

ウトラネレフツ

 申すがよいぞ

キイチキヒリカ

 此世は必ず

タレムシリカタ

 災難受けず

シヨモヤイホムシユ

 後世は分

ムシリホツハユ

 淨土に生れ

アヲラムトクテ

 一つ蓮の

シネツフユフイナ

 臺に乘て

カシケタオヽハ

 永く樂しみ

ヲホソノヌヤッネ

 死ぬことぞなし

シヨモライルネネ

右一則、檜山坦島、予におくる所なり。此上人の事を、誓願寺にとふに、「名は辯瑞、文政七年十一月頃、遷化せしを、火葬しければ、舍利、多く、出現せし。」といへり。

[やぶちゃん注:「蝦夷地大臼善光寺上人」浄土宗大臼山(おおうすざん)道場院善光寺。北海道伊達市にある。当該ウィキによれば(タイトルは「有珠善光寺」とあるが、寺の公式サイトの表記に従った)、『伝承によれば、平安時代の』天長三(八二六)年、『比叡山の僧であった円仁(慈覚大師)が胆振国有珠郡に堂宇を建て』、『自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置したことが寺の開基とされている。室町時代、コシャマインの戦いの際に』被災し、『一時』、『荒廃した』とあり、下って、文化一四(一八一七)年、『辨瑞上人がお経をアイヌ語に翻訳して布教』とある。しかし、公式サイトの「歴史・沿革」には、文化一一(一八一四)年に当寺第三世『辨瑞(べんずい)が浄土宗の教えを分かり易く歌にしてアイヌ語に訳して説いた「念仏上人子引歌(ねんぶつしょうにんこひきうた)」(国指定重要文化財)を作り、鉦を叩き』、『踊りながら広めた。他にも念仏の利益を説いた「結縁同行蓮華講中勧化和譚(けちえんどうぎょうれんげこうちゅうかんげわだん)」(国指定重要文化財)がある。アイヌ人には』、『米などを支給して周り』、『「ネンプチカムチ」と呼ばれ親しまれた』とある。また、同じ「宝物館」のページには、まさにこの「念仏上人子引歌 版木」が写真入りで載っており、第三『世住職辯瑞がお念仏の教えを説くために詠んだ歌。アイヌ民族への布教のためにアイヌ語のルビが振ってある。鉦鈷を叩き節をつけて歌い、踊りながら布教された。これを』四『世住職辯定が版木にしたもの』で、天保参(一八三二)年製とある。

「往四の期」(わうしのき)と読んでおくが、「往四」は「住四」の誤りかも知れない。古代インドの社会的な規範を記した聖典「マヌ法典」に「四住期」(しじゅうき)という認識があり、これは人生を「学生期(がくしょうき)」・「家住期(かじゅうき)」・「林住期(りんじゅうき)」・「遊行期(ゆぎょうき)」の四期に分けて、それぞれの階梯に於ける規範に即した生き方をすることで幸福な人生を送れるとするものである。詳しくは、家族葬の会社「ファミーユ」のサイト「Coeurlien(クリアン)」のこちらを見られたい。

「檜山坦島」不詳。酷似した同時代人に国学者檜山坦斎(ひやまたんさい 安永三(一七七四)年~天保一三(一八四二)年)がいる。書画の知識が深く、鑑定に優れており、馬琴も息子興継の友人として親交があった渡辺崋山と親しかった。裏千家の千柄菊旦(ちがらきくたん)に学び、茶人としても知られた。著作に「花押譜」「皇朝名画拾彙」などがある。

「誓願寺」京都市中京区新京極通にある浄土宗西山深草派総本山深草山誓願寺か。

「文政七年」一八二四年であるが、同年は閏八月があり、「十一月」は十一月十日で一八二五年になる。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 九姑課

 

[やぶちゃん注:「九姑課」(きうこか)は草を用いた中国の民間で流行った卜筮(ぼくぜい)法(本文の「雜占」)である「九姑玄女課」の略称か、或いはそれを変形させものの名と思われる。冒頭の枕部分は全体が一字下げ。元末明初の学者陶宗儀撰になる「輟耕録」の巻二十からの引用は行頭からで、以下の美成の後書が改行せずに続いているのもママ。書の影印本が「中國哲學書電子化計劃」のここから見られるが、美成の引用とは異同がある。それと校合し、脫字は《 》で補った。

 

   ○九姑課

上古、卜筮ありてより以來、世に、雜占、ことに多し。鷄卜・碁卜・響卜・鳥卜の類、猶、少からず。吾邦もまた、いにしへ、太占(フトマニ)の卜を始として、竃輪(カマワ)の米占(ヨネウラ)などいふ多かり【これらの類、和漢には、いと多し。集錄して一卷となさんことをおもへど、いまだ、その稿を脫せず。】。今、左に記す「九姑課」も亦、雜占の類のみ。

「鐵耕錄」云、『吳楚之地。村巫、野叟、及、婦人、女子輩、多能卜九姑課。其法、折草九莖、屈ㇾ之爲十八。握作一束《祝》而呵ㇾ之[やぶちゃん注:底本吉川弘文館随筆大成版では「握」を上の「十八」の下に配しているが、美成或いは編者の誤りと考え、かく書き換えた。]。兩兩相結。止留兩端已而抖開、以占休咎。若續成一條者、名曰「黃龍儻仙」。又穿一圈者、名曰「仙人上馬」。圈不ㇾ穿者、名曰「蟢窠落地」。皆吉兆也。或紛錯無緖。不ㇾ可分理、則凶矣云々』[やぶちゃん注:美成は以下を中略している。原本を再現する。]《又一法曰、「九天玄女課」、其法、折草一把、不計莖數多寡、苟用算籌亦可。兩手隨意分之、左手在上、竪放。右手在下、橫放。以三除之。不及者、爲卦。一竪一橫、曰「大陽」、二竪一橫、曰「靈通」、二竪二橫、曰「老君」、二竪三橫、曰「太吳」、三竪一橫、曰「洪石」、三竪三橫、曰「祥雲」、皆吉兆也。一竪二橫、曰「太陰」、一竪三橫、曰「懸崖」、三竪三橫、曰「陰中」、皆㐫兆也。》愚意、俗謂「九姑」、豈卽「九天玄女」歟。「離騷經」云、『索璚草[やぶちゃん注:原本は「璚茅」。]以筵篿兮、命靈氛爲餘卜。』。注曰、『璚草[やぶちゃん注:同前で「璚茅」。]靈草也。筵小破竹也。楚人《名「結草」。》折ㇾ竹以卜曰。據此、則亦有所本矣。』。』。予、曾て、戲れに、この「九姑課」を試み、兒輩に授けて、消日の具に充しむ。しかれども、猶、うゐまなびの兒童等が、此文のみにては、とみにえさとるまじく思ひ、今、こゝに、その詳なるさまを記す。所謂、老婆心、切にこそあれ。

 

Kyuukoka1

 

[やぶちゃん注:図一。総て底本よりトリミング補正した。右キャプションは、

「草ノ莖、九本ヲ、二ワニ、マゲテ、

 コレヲ握ル。そのサマ ※ カクノ如シ

で、「※」部分は画像を参照。以下、指示線の先にあるキャプションは底本では活字になっており(但し、ひらがなはカタカナではあるまいか?)、そのまま示すと(読点は少し追加してある)、

   *

此ところを、掌もて、す。願ひ・望みのことを祈りて、さて、息を吹かけて後、二本づゝ結びつけ、終に、あまる二本をば、むすばずして、のこし置く。これをもて、左右へ引きわくるに、吉兆なれば、左の三樣になるなり。あしき時は、何かわからぬ、こくらがりたるもの、いで來るなり。

   *

「こくらがりたるもの」というのは、「こんがらがっいる物」の意であろう。]

 

Kyuukoka2

 

[やぶちゃん注:前のキャプションの「左の三樣」の図である。上から、名称が、

「黃龍儻仙」

「仙人上馬」

「蟢窠落地」

である。]

 

  文政八年乙酉八朔     山崎美成記

[やぶちゃん注:「鷄卜」(とりうら)は鶏(にわとり)を闘わせ、その勝負によって吉凶を占うもの。南方熊楠の夫人松枝さんは、田辺のこの占いで知られた闘鶏神社の宮司田村宗造の四女である。「平家物語」などによれば、「治承・寿永の乱」(源平合戦)の折り、「新熊野権現」と称して湛増が田辺別当となっていたが、彼は社地の鶏を紅白二色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから、源氏に味方することを決し、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという話で有名な社である。なお、かの武蔵坊弁慶はこの湛増の子とも伝えられる。

「碁卜」遊戯としての碁自体の起原は、古代中国の卜占から始ったものである。

「響卜」(ひびきうら)か。但し、ネットの中文辞書を見るに、これは所謂、「辻占」のことで、辻に立って行き交う人の言葉を以って占いをすることのように書かれてあるから、或いはこれで「ことうら」或いは「こゑうら」と読んでいるかも知れない。

「鳥卜」(とりうら)か。これは鳥の鳴き声や飛翔状況(止まった枝の方向・飛ぶ方角など)を観察して、それらをもととして吉凶を占うものを言う。また、正月に小鳥の腹を裂いて、穀物が胃の中にあるかどうかで年占(としうら)をしたともされる。なお、これは古代エトルリアや古代ローマに於いても、公に置かれた官職として「アウグル」(ラテン語:Augur)という「鳥卜官(ちょうぼくかん)」があった。当該ウィキを見よ。

「太占(フトマニ)」本邦独自の古代卜占の一種で、「布斗麻邇」とも「太兆」とも書く。記紀には伊弉諾命・伊弉冉命が国土生成の折り、いかにして良き子を得ることができるか問うたところ、天つ神が太占によって占って教えてくれたとみえる。その方法は、「古事記」の「天岩屋戸」の段に『天香山の眞男鹿(まをしか)の肩を内拔きに拔きて、天香山の天波波迦(あめのははか)を取りて占合(うらない)まかなはしめて』とあるように、鹿の肩甲骨を波波迦(ははか)(樺桜(かにわざくら)。上溝桜(バラ目バラ科ウワミズザクラ属 又は サクラ属ウワミズザクラ Padus grayana 或いは Prunus grayana )の古名という)で焼き、そこに生じた割れ目の模様で占うものであった(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「竃輪(カマワ)の米占(ヨネウラ)」思うに、これは現在でも本邦の各地に残っているその年の農事の吉凶を占う粥占のことではないか? 竹筒に米を入れて、竃の湯の中に入れ、それを割って粥の状態を見て占うものである。

『「鐵耕錄」云……』訓読を試みる。底本の返り点には不審があるので、必ずしも従っていない。終りの辺りは意味がよく判らない。悪いが、私は占い自体には全く興味がないので、判る努力はしない。悪しからず。

   *

 吳楚の地は、村巫、野叟、及び、婦人・女子の輩、多く卜(ぼく)の「九姑課」を能(よ)くす。其の法、草九莖を折りて、之れを屈(ま)げ、二十八に爲す。握りて一束に作(な)し、祝(はふ)りて、之れに呵(か)し[やぶちゃん注:「息を吹きかけ」か。]、兩兩(ふたつなが)ら相ひ結い、兩端を止め留む。已にして抖(ふる)ひて開き、以つて休咎[やぶちゃん注:「吉凶」に同じ。]を占ふ。若し、續(つらな)りて一條と成るをば、名づけて「黃龍儻仙(わうりゆうたうせん)」[やぶちゃん注:「儻」は「優れている」の意。]と曰ふ。又、一圈を穿てるをば、名づけて「仙人上馬」と曰ふ。圈、穿たざるをば、名づけて「蟢窠落地(きさうらくち)」[やぶちゃん注:「蟢」は足の長い蜘蛛の意。]と曰ふ。皆、吉兆なり。或いは紛錯(ふんさく)して緖(むす)ぶこと無く、分理するべからざれば、則ち、凶なり。又、一法に曰はく、「九天玄女課」あり。其の法、草を折りて、一たび把(と)る。莖の數の多寡を計らず。苟しくも算籌用ふも亦、可なり。兩手、意に隨ひて、之れを分け、左手は上に在り、竪(たて)に放(お)く。右手は下に在り、橫に放く。三を以つて、之れを除き、及ばざる者、卦と爲す。一竪一橫(いちじゅいちわう)は「大陽」と曰ひ、二竪一橫は「靈通」と曰ひ、二竪二橫は「老君」と曰ひ、二竪三橫は「太吳」と曰ひ、三竪一橫は「洪石」と曰ひ、三竪三橫は「祥雲」と曰ふ。皆、吉兆なり。一竪二橫は「太陰」と曰ひ、一竪三橫は「懸崖」と曰ひ、三竪三橫は「陰中」と曰ふ。皆、㐫兆なり。愚、意(おも)ふに、俗の謂ふ「九姑」は、豈に卽ち「九天玄女」か。「離騷經」に云はく、『璚茅(きつち)[やぶちゃん注:原本の表記に替えた。以下同じ。]を索(なはな)ひて、以つて筵篿(えんたん)[やぶちゃん注:丸い淡竹(はちく)製の入れ物。]に(の)ぶるに、命、靈氛(れいふん)、餘すところの卜と爲す。』[やぶちゃん注:意味不明。易の判じたところの表現であろう。]。注に曰はく、『「璚茅」は靈草なり。「筵」は小さき破竹なり。楚人(そひと)、「結草」と名づく。竹を折るを以つて「卜」と曰ふ。此の據るところは、則ち亦、本(もと)とせる有るなり。』と。

   *]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐囑の幸

 

[やぶちゃん注:同じく文宝堂発表。標題は「きつねつきのさひはひ」と訓ずるか。同じく物語なので、段落を成形した。]

 

   ○狐囑の幸

 文化六巳年の冬、加賀の備後守殿の留守居役に、出淵忠左衞門といへる人あり。

[やぶちゃん注:「文化六巳年」一八〇九年。但し、同年は陰暦十一月二十五日で一八一〇年になる。

「加賀の備後守殿」不詳。この時の加賀藩・大聖寺藩・富山藩の藩主を総て調べたが、「備後守」はいない。さすれば、江戸藩邸も特定出来ない。

「出淵忠左衞門」「聖徳大学・短期大学部短期大学部 総合文化学科」公式サイト内の本話の現代語訳「江戸の珍談・奇談(22)-1」では、姓を『いずぶち』(いづぶち)と読んでいる。]]

 ある夜の夢に、一疋の狐來りて、忠左衞門の前に、ひざまづき、いふやう、

「わたくし事は、本鄕四丁目椛屋の裏なる稻荷の忰なれども、いさゝか、親のこゝろにたがひたる事のありて、此善[やぶちゃん注:「この、よき」。]親のもとへは、かへられず。居所もこれなく、いと難氣に候へば、何とも申しかねたる事には候へども、召しつかひ給ふ下女を、かし給へ。しばしのうち、此事をねがひ奉る。程なく、友達のものゝ「わび」[やぶちゃん注:「詫び言(ごと)」を入れること。]にて、宿[やぶちゃん注:実家の稲荷を指す。]へかへるべければ、それまでの間、ひとへに願ひさぶらふ。けして、なやませも、いたすまじ。又、奉公の間も、かゝすまじければ、許容し給へ。」

と、なげく。

[やぶちゃん注:「本鄕四丁目」ここ(グーグル・マップ・データ)。樋口一葉・石川啄木所縁の地であり、「こゝろ」の「先生」の学生時代の下宿家の谷を隔てた東真向いでもある。

「椛屋」「かうぢや」。

「此善」「この、よき」。

「わび」「詫び言(ごと)」を入れること。

「宿」実家の稲荷を指す。]

 忠左衞門、夢に、こゝろに不便に思ひ、

「なやます事もなくば、かしつかはすべし。」

といふに、狐、こよなう、よろこぶと見て、さめぬ。

 忠左衞門、

『いとも、ふしぎなる夢を、みし事よ。』

と思ひつゝ、翌朝、起き出でゝ、下女をみれども、常にかはりし事もなかりけるが、晝頃より、俄に、此下女、はたらき出だして、水を汲み、眞木をわり、米をとぎ、飯をたき、常には出來かねし針わざまで、なす。

 每日、かくのごとく、一人にて、五人前ほどのわざをなし、あるひは晴天にても、

「けふは何時より、雨ふり出だすべし。」

とて、主人の他出の節は、雨具を用意させ、

「後ほどは。何方より、客人、ありなり。」

など、そのいふ事、いさゝか違ふことなく、その外、萬事、此女のいふごとくにて、大に家内の益になることのみなれば、

「何とぞいつまでも、此きつね、立ち退かざるやうにしたきものなり。」

とて、其ころ、あるじ、直の物がたりなるよし、此あるじと懇意なる五祐といふもの、物がたりき。

 文政乙酉中秋朔於文寶堂  南窓食山人誌

[やぶちゃん注:「南窓食山人」この文宝堂は薬種商人であるが、詳細な事績は伝わらない。但し、本書の巻頭の大槻氏の解説にある通り、御家人太田南畝蜀山人の二代目を継いでいる。蜀山人の狂歌記載に「食山人」の表記のあるものがあるようである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 變生男子

 

[やぶちゃん注:発表者は文宝堂。標題は「へんじやうなんし」と読む。但し、仏語の原義のそれは「變成男子」が正しい。女から変じて男になることで、女子は五障があって、如何なる修行や布施などを行っても、成仏が困難とされていたところから、仏が慈悲の力を以って、あるいは修験者が修法の力によって、女子を男身に変えるなどということさえ行なわれた。原始仏教時代から存在した男尊女卑の思想で、釈迦でさえある時にはそれを述べている(但し、別に男女は平等とも言ってはいる)。通常は、仏法堅固な女性が亡くなった後に、今一度、男性に転生した上で、同じく帰依を怠らなければ、次の世では往生成仏が出来るという思想である。以下、語り物であるので、段落を成形した。]

 

   ○變生男子

 文政二卯年[やぶちゃん注:一八一九年。]四月の記。

 神田和泉橋通り[やぶちゃん注:この南北附近であろう(グーグル・マップ・データ)。]にすめる經師屋の隱居善八といふ者、旅ずきなれば、年中、處々をあるきてたのしみとせり。

 一昨丑年より、上方筋へゆき、大坂より、大和路にかゝりける時に、むかふより、十五、六ばかりなる娘、只ひとりにて急ぎ來りけるか[やぶちゃん注:ママ。]、善八の前へ程なく近づきたる所にて、氣絕して、倒れたり。

 善八も、通りがげにて、驚き、懷中より、藥を出だしあたへて、かれこれ、介抱しければ、やうやく、いき出できて、目を開き、心つきたるさまなりければ、猶も、「さゆ」などあたへて、

「扨、御身は、いづかたの人にておはするぞ。供もつれず、わかき人のひとりありき、所のものとも見えず。いかなる事か。」

と尋ねければ、此娘、まづ、一禮をのべて、

「わらは事は、かどわかされて、大坂へつれらるべきを、さまざまと、手だていたし、今朝、よきをりをうかゞひ、走り出でたる故、心もつかれ、思はず、氣をうしなひ、はからずも、そなた樣の御介抱に預りたる事、忝し。何とぞ、此上の御慈悲に、わらはが宅迄、送り給はれかし。」

と賴みければ、善八も不便に思ひ、

「住所は何方ぞ。」

と問ひければ、勢州津の驛にて、紺屋なりし。

 善八は、いそぐ旅にもあらねば、

「送り遣すべし。」

とて、追手も氣づかはしければ、すぐに駕籠にのせ、取りいそぎつゝ、いせの津の紺屋何がし方へ、つれゆきければ、兩親をはじめ、家内のものども、よろこぶこと限りなく、娘は始終を、くはしく、物がたりて、大恩人の善八なれば、

「しばらく、此方に逗留し給へ。」

とて、日ごとに、あつく、もてなしける。

 善八も、いつまでとゞまりても、はてのなければ、家内の者に暇を乞ひしに、人々、名殘を借み、

「今、しばし。」

と、とゞめけれども、はや、支度などしければ、娘は猶更、

「何となく、わかれをしく、わらはも、何とぞ、御禮のため、一たびは江戶へも下りたき。」

よしを、兩親にねがひければ、

「いづれ、一兩年の内に、親父同道にて、くだり可申。」

とて、厚く謝しけり。娘は、ふと、心つきたるさまにて、

「此度、思はず厚き御介抱うけしも、前世の御緣こそ有りつらめ。わらはも、そなた樣の御恩わすれぬ爲、何とても御所持の内、一品、たび給へ。それを、朝夕、そなた樣と思ひ、後世をも願ひ申したし。」

と、いひければ、善八も旅さきの事にて、外に持ちたる品もなく、懷中の守りに入れ置きし淺草觀世音の御影を取り出だし、

「これを進上すべし。隨分、信心し給へ。」

とて、娘にあたへ、暇乞ひして、伊勢を立ち出で、去寅年【文政元年。】、四月、江戶へ歸りけるに、留守中に新婦(ヨメ)懷胎にて、男子、出生し、則、善八歸宅の日、七夜にあたりければ、善八も、大きに悅びける。

 されども、此出生の小兒、每日、泣きて、少しも、やむ時なく、其上、左りの手を握りつめて、いか樣にすれども、ひらかざるよしを、善八にかたりければ、

「そは、いかなる事やらん。まづ、孫を、いだき、みん。」

とて、小兒を善八の膝にいだきとれば、今まで泣き入り居たるが、卽座に止み、又、握りつめたる左の手をも、善八、何となく、ひらかせたれば、忽、ひらきたり。

 その、ひらきたる掌の上に、物、あり。

「何ならん。」

と取り出だしみれば、觀音の御影なり。

 みなみな、奇異の思をなし、驚きければ、善八、つくづく考へ見るに、

『此御影は、全く、いせの津にて、娘にあたへし御影なり。』

と、甚、いぶかしく思ひ、家の内の者にも、道中にて、かの娘に出であふたる始末、

「しかじか。」

と、かたりきかせ、其後、いせへも書狀を出だしければ、右の返書、六月十四日に着しければ、早速、ひらき見るに、

「かの娘は善八にわかれてより 間もなく その年の五月末に病死したる」

よしを告げ來りければ、いよいよ不思議に思ひ、

「しからば、此小兒の男子なるも、右の娘の再來、實に變生男子も、ひとへに大悲の御利益ならん。」

と、是より、猶も深く信心しけるとぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 右の產婦に服藥をあたへし淸水の御醫師福富主水老の直物語なるよし、友人利鄕といへるもの、語りけるまゝ、こゝに記し出だしぬ。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 貞享四年官令

 

[やぶちゃん注:実際には前の「婦女產石像」とセットであるが、内容が無関係であり、前者は非常に私が惹かれたため、今回は分離した。貞享四年は一六八七年。所謂、過去に出された「生類憐れみの令」(徳川綱吉の将軍在任中に波状的に出されたもので、一つの法令ではない。宝永六(一七〇九)年一月十日に徳川綱吉は「はしか」で死去し、早くも十日後の一月二十日に「生類憐みの禁」は解かれた。詳しくはウィキの「生類憐れみの令」を参照されたい)でも、特に大事にされた犬についての幕府通達の追記である。]

 

    附 錄

 嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]文寶子の「犬別帳」に附けて、予がしるしおけるもの二條を「耽奇漫錄」に附錄せしに、このごろ篚底[やぶちゃん注:「ひてい」。但し、「筐底(きやうてい)」に同じ。]をさぐりて、又、一、二條を得たり。よりて、又、こゝに錄す。

[やぶちゃん注:『嚮に文寶子の「犬別帳」に附けて、予がしるしおけるもの二條を「耽奇漫錄」に附錄せし』国立国会図書館デジタルコレクションの「耽奇漫録」原本のこちらから当該部(正確には「元禄八年犬毛付帳」で「耽奇漫録」第十五集(文政八(一八二五)年六月十三日を示すクレジットが目次にある))が読める。この丁の左から後が海棠庵の附記である。頭の「一」の後は一字空けた。二行目以降は、底本では一時下げとなるが、無視した。読み難いので、触書の切れる部分に「*」を入れた。]

 

貞享四年卯四月の御達

    覺

一 捨子有之候はゞ、早速不及屆、其所の者、いたはり置、直に養候歟、又は、望の者、有之候はゞ可遣。急度可及付屆事。

一 鳥類・畜類、人に疵付候樣成儀は、只今迄の通可相屆。其外、「ともくひ」、又は、おのれと痛煩候計にては、不及屆、隨分致養生、主有之候はゞ、返可申事。

一 無主犬、頃日は食物給させ不申樣に相聞候。畢竟、食物給させ候へば、其人の犬の樣に相成、已後まで六か敷事と存、いたはり不申と相聞、不屆に候。向後、左樣に無之樣、可相心得事。

一 飼置候犬、死候はゞ、支配方へ屆候樣に相聞候。於前條無之者、向後、箇樣之屆、無用事。

一 犬計に不限、生類、人之慈悲之心を元といたし、あはれの義、肝要の事。

  卯四月

   *

元祿八年亥[やぶちゃん注:一六九五年。]十二月廿一日、御渡し捨犬の子、御吟味御書付。

    覺

小石川馬場近邊、屋代越中守組美濃部彌兵衞、門外に、去る十八日之夜、近き頃、生れ候體の白毛の子犬二疋、捨置候。此度、町中之犬共、御吟味之上、犬小屋へ被遣之候。然上は、左樣之儀、兼而有之間敷處、犬捨候段、不屆候間、急度、可被致僉議候。組支配等、有之向には、其むきむきにて致僉議、捨候もの相知候樣に可被致候。後日に、脇より相知候はゞ、可爲越度もの也。

 十二月廿一日

  乙酉八朔         海案庵謄寫

[やぶちゃん注: ウィキの「犬小屋(江戸幕府)」によれば、この『幕府が設置した犬を収容する施設』は、『「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ』、『特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。犬小屋に収容された犬や、村預けされた犬』『は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容され』ると同時に、『幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった』。『犬小屋の広さは、中野は』十六『万坪、大久保がおよそ』二万五千坪、『四谷の犬小屋は』一万八千九百二十八坪七合だった、とある。以下、ウィキの「生類憐れみの令」から、捨て犬の関連の触れや事件・処分を拾っておく。

・貞享四(一六八七)年四月十一日、触れで「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要。」、「鳥類・畜類を人が傷つけたら届けなさい。『とも食い』や、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい。」、「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない。」、「飼い置いた犬が死んでも、別条なければ届けなくてよい。」、「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である。」と出る。

・元禄元(一六八八)年八月二十七日、留守居番与力山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを、養わず、追放

・元禄八(一六九五)年十月二十五日、本郷菊坂(文京区)の旗本屋敷辻番八兵衛、溝に捨てられた子犬を、別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた。」と弁明したが、「養わず、不届き。」と牢舎の上、十一月二十五日、浅草で斬罪獄門同僚と思われる辻番四人も追放された。

・元禄九(一六九六)年二月七日、新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門手代二人の名を書いて、捨て、捕まる。孫右衛門への恨みによる犯行であった。二十六日、浅草で。これはかなりあくどい刑事犯で、この処刑は腑に落ちる。

・元禄一〇(一六九七)年十月十三日、青山宿での捨て犬の件で、近藤登之介組同心二人、伊東出羽守辻番人、追放。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 婦女產石像

 

[やぶちゃん注:「婦女產石像」は「婦女、石像を產む」。後半は「貞享四年官令」とある全く関係ない追加附記であり(孰れも海棠庵発表)、こちらには個人的に強い興味が働き、注も詳しく附したので、特異的に分離する。]

 

   ○婦女產石像

信州佐久郡北澤村名主惣兵衞、申上候。村内に字入作[やぶちゃん注:「あざ、『いりさく』」。]に、鎭守「胸形[やぶちゃん注:「むなかた」。]大明神」者、五間[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]四方の生石[やぶちゃん注:「なまいし」と読んでおく。人間の手が加えられていない自然石の意であろう。]にて御座候。往古より、都て[やぶちゃん注:「すべて」。]鄕村に凶難等、靈夢之告、有之。又は流行之病難有之節は、捧幣帛候へば、自然と相除候故、隣村迄、擧て鎭守と崇奉り罷在候。然る處、私妻「みち」儀、子、無之を相歎き、密に廿一日之間、大明神へ每夜參籠、御祈願を籠候[やぶちゃん注:「こめさふらう」。]。私には一切相隱し有之、去未年[やぶちゃん注:「さるひつじどし」。文化八(一八一一)年。]、姙娠之分け[やぶちゃん注:「分」(わか)「り」の誤判読ではなかろうか?]、前書之事共、申聞候に付、驚入、醫師へ相掛け見せ候處、全、懷姙に相違無之由申し候に付、介抱仕、十ケ月に及候へ共、出產不仕、十二ケ月に至り、當五月十一日安產仕候に付、親類一同歡、見受候處、五體相揃、石像にて、丈け一尺二寸五分[やぶちゃん注:三十七・八七センチメートル。]、面上、靑み、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]相分り、手足腹脊共、薄赤く、何共恐怖仕候。難捨置御訴申上候。何卒御慈悲を以、御檢使被成下度奉願候。以上。

 文化九年申五月十三日 信州佐久郡北澤村

             名主 惣 兵 衞

             年寄 與次右衞門

        杉庄兵衞樣御役所

右兩條は、これを雜記中に得たり。

 文政乙酉八月朔      海 棠 庵 記

[やぶちゃん注:最後の署名部はクレジット・村名の下方に配されてあるが、ブログのブラウザでは不具合を生ずるので改行して引き上げた。

「信州佐久郡北澤村」「今昔マップ」で旧「北澤」が確認出来る。ここは現在の長野県南佐久郡佐久穂町高野町内の北部分に相当する。リンク先のグーグル・マップ・データ(以下同じ)と合わせてまず確認されたい。「入作」の字地名は確認出来ない。さらに、「鎭守」とする「胸形大明神」なるものは確認出来ない。一つ、私が考えるのは、ここにある諏訪神社である。南西方向に幾つかに峰を越えるものの、南西四十キロメートルに諏訪大社があり、この佐久郡にも多くの諏訪神社がある。諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)であるが、この神名の由来説の一つには宗像(むなかた)の転訛説があり、それを認めずとも、「たけみなかた」の発音は容易に(学術的にではなく、平俗の民の言語感覚の中で、である)「むなかた」に転化し易いことは自明であり、おぞましい明治の廃仏毀釈や合祀令などに於いては、ごく古い産土神であっても、「諏訪神社」と称するのが、生き残りには都合が良かったはずだからである。しかも、この附近には、本篇の内容と異様に親和性がある興味深い縄文の遺物が、ごくごく近く(高野町の諏訪神社の東南東二百メートル)にあるのである。「北沢大石棒」がそれである。サイド・パネルのこちらの写真で高さが判るが、これは現在知られている陽物崇拝の陽石としては、サイズに於いて日本最大のものである。当該ウィキによれば、この『北沢大石棒(きたざわだいせきぼう)は、長野県南佐久郡佐久穂町を流れる北沢川から出土し』、『同町高野町上北沢』一四三三の田の畔に『保存されている石棒』で、『北沢の大石棒、北沢川(の)大石棒ともいう』。『縄文時代中期後半に、当地から産出した佐久石(志賀溶結凝灰岩)を用いて作られた』、明白な陽物崇拝の人工的に削られた象徴石『で、全長』は二・二三センチメートルもあり、直径も二十五センチメートルで、『この種の遺物としては日本一の大きさである』。『佐久穂町指定文化財(有形文化財)に指定されて』いるとし、『石棒が製作され』たのは、研究によって『縄文時代中期後半』とされており、大正八(一九一九)年に、『北沢川改修工事により出土』し、その時、『貴重なものと考えた高見沢伊重が、自分の田の畦に立て、保護したと伝えられる』とある(ということは、即ち、出現当時は公的には何ら注目されず保護もされていなかったのである!)。昭和五七(一九八二)年になって、やっと『町の文化財に指定するため、一旦』、『掘り出し、補強工事が行われた。その際』、『大きさの測定と、地中部分の実見が行われ』、二年後に『町指定文化財に指定』するという為体だ! 私はこの北沢大石棒と、本篇の内容の恐るべき親和性どころではない感応性を考えるに、これは偶然ではないと考えるものである。河川の保全は江戸時代の農民にとっては、厄介であると同時に、必要不可欠なものであった。されば、この北沢大石棒は実はずっと以前からこの辺りでは知られていたのではなかったか? しかし、ある時、お堅い検視役人辺りが目にとめてしまったか、或いは学者見たようなある代の名主が、「淫祠邪教の類いの汚らわしい遺物だ」と断じて、村人らに埋めるように命じたのではなかったか? 本篇は偶然とするには凡そ揃いに揃い過ぎて、私は、その事実にこそ、慄然とするからである。背後にそうした真相を考えてみて、始めて、気持ちが落ち着くのである。だいたいからして、この本文あるように、「五間四方」もある、ただただ巨大な四角い「生石」が広域の産土神として崇拝されていただけならば、その石は明治以降も生き残っていたはずであり、今もあって何らおかしくない。せめて、痕跡や伝承があるはずである。こんな山深い場所で、わざわざただの大石を完膚なきまでに粉砕し、痕跡さえも一切残さないように処理したということの方が、逆に目的も何もかも、信じ難いことであると私は思うのである。実はこの「みち」が参籠したのは、この「北沢大石棒」を祀った社ではなかったか? 而して、まさに、この異常出産の検分に来た役人が、これらの事態をゆゆしきものと捉え、「大石棒」を見てその形のまがまがしきに嫌悪し、埋めてしまうように指示したのではなかったか? あまりに小説的かね? 大方の御叱正を俟とう。

「五體相揃、石像にて、丈け一尺二寸五分、面上、靑み、聢と相分り、手足腹脊共、薄赤く、何共恐怖仕候」私は、これは卵巣に出来た腫瘍「卵巣嚢腫」の一種で、内部に脂肪・髪の毛・歯などが溜まった腫瘍であって、これは実は全卵巣腫瘍の十五%から二十五%を占め、あらゆる年代に見られるが、二十代から四十代に多く発症し、時には妊娠が契機となって発見されることも少なくない(ここまでは「横浜総合病院 婦人科内視鏡手術センター」の「卵巣腫瘍」の記載に拠った)「成熟嚢胞性奇形腫(皮様嚢腫)」の一種ではないかと考える(但し、角質化した被膜に覆われて、しかも胎児としての全形を保持しているというのは、稀であろう。ただ、胎児の奇形例は我々が想像している以上に、よく見られるものであるらしい)。以下、非常に判り易く解説されておられる「原三信病院」公式サイト内の婦人科片岡惠子先生の「原三信病院婦人科便り25  卵巣嚢腫①」から引用する。一部の半角箇所(読点などもある)が読み難いので全角に代えた。

   《引用開始》

卵巣嚢腫と一口に言っても種類が色々千差万別です。

一般に、卵巣腫瘍=悪性もしくは境界悪性、良性も含んで卵巣に何か出来ている卵巣嚢腫=良性のみ、卵巣腫瘤=悪性がより疑わしい、と何となく日本語を使い分けています。がんやそれに準じるモノというのは形の中に固形物を多く含みます。それに比較して、良性のモノは形状が「袋の中に何か詰まっている」という見え方をするため、こういった使い分けをしています。厳密に言葉を選んでいるわけではないので、いちいち反応しなくてもいいことですが、いわゆる業界人同士でおおよそのニュアンスを伝え合うのに便利ですね。

で、私が得意専門なのは「良性の、卵巣嚢腫」です。

袋の中身によって、

① 脂肪、毛髪、皮膚、骨など

② 水や粘液などの液体

③ チョコレート色の液体(血液)

に分けられます。

今回は①の皮様嚢腫についてお話し。

皮様嚢腫は産婦人科でよく使われる言葉ですが、他の、例えば病理の先生なんかは「奇形種」という名前を使います。

でも「奇形」って聞こえがなんとなく悪い。とその昔、産婦人科の偉い先生が思ったとか思わなかったとかで産婦人科だけがこの名前をどうも使用しているもよう。

要は「皮膚のような嚢胞」というのが名前の由来で、中身は人間の外側をくるむモノが入っています。脂肪、毛髪、皮膚、骨、歯、目など。

卵巣には未熟な細胞、つまり卵子がてんこ盛りで詰まっているため、何かしらの刺激が来ると作りやすいモノを作ってしまうようなのです。この「何かしらの刺激」が何か、なのはよく分かっていません。分かっているのは悪性じゃないけど出来やすいってことと(つまり取ってもまた再発しちゃう)、どうも出来やすい家系があるってことでしょうか。

3人姉妹全員の手術をしたこともあります。

皮様嚢腫で有名なのは手塚治虫大先生著作、ブラックジャック[やぶちゃん注:正式には「ブラック・ジャック」。]に出演している助手のピノコちゃんですね。

彼女はさるやんごとない身分の女性の身にできていた「できもの」で、実は双子の片割れで、ブラックジャックは切除を頼まれるわけです。「できもの」の中には「ひとそろいの人間の体のパーツ」が入っていて、彼は組み立て、体を動かすのに必要な手足をつくってピノコちゃんにする・・・という設定でした。

いや、あくまで漫画ですから。飛躍と無理はあります。

ただ実際「人間のパーツがひとそろい入っていた」という報告は世界に2例ほどあるそうな。組み立ててみてはいないと思いますが。

一般的には「比較的つくりやすいモノ=脂肪、毛髪、皮膚、歯、目(白目)」が入っていて、その他の難しいパーツは入っていないことがほとんどです。ちなみに、日本人はほとんどが黒髪。アメリカ人とベルギー人の手術の担当をしたことがあるんですけど、彼らの場合は金髪だった。どうでもいいい情報でしたね。

皮様嚢腫、私が研修医の頃(遠い目)はまだお腹をざっくり開けて手術をすることも日常茶飯事でしたが、現在はほぼ、よほどの理由がなければ腹腔鏡手術でされている施設が多いようです。閉経前の患者さんだと嚢胞(中身)の部分だけ摘出して外側の正常の卵巣部分は残す方針(=嚢腫摘出)でいきます。

この場合、問題になるのはやはり「再発」です。

嚢腫だけ摘出して、もうこの病気とはおさらばできればいいのですが、卵巣は残っているわけですからまた、そこに出来てしまう。正常な卵巣はできるだけ残そうとしますから、取り残しも多少はあるかもしれません。私の患者さんで、都合4回腹腔鏡手術を受けた人もいます。右、左、右、左と再発して、最後は音をあげちゃって両側の卵巣を摘出しましたね・・・子供さんを希望の数だけ産み終えておくと、そういう荒技も使えますけど、お若い方はそうもいきませんので、再発と向き合わないといけません。

じゃ、症状もないしそのままにしとけば、というお声もありますが(実際そうする人もいる。放置していても死ぬわけではないので)これがまた、捻れる、というやっかいな側面があります。卵巣は通常、親指の先くらいの大きさですが、卵巣嚢腫ができると大きく腫れて、場合によっては赤ちゃんの頭くらいになることもあります。卵巣って固定されておらずある程度ぷらぷらと動くので、何かの拍子に卵管ごとぐるっとねじり、まるでフィギュアスケートの回転技みたいにくるくるっと3回転、4回転しちゃうこともあります。そうなると卵巣に行くべき血の流れがせき止められて、そりゃもう、口がきけないくらい激烈な痛みが襲います。救急車です。

おおよそ、捻れてから(=捻転)36時間以内(つまり1日半くらいですね)なら卵巣も痛んでないのでまだ温存できるのですが、それを超してしまうと、まっくろのぐさぐさの状態になり、卵巣ごと摘出せざるを得なくなります。これが、卵巣嚢腫の嫌なところです。

統計を取ってみると、大きさが6~7センチを超えてくると捻れやすく、しかもねじれが戻りにくいことが分かっているので、この大きさを超えるようなら

「手術ですね」

と、なります。えへ。

捻転については②の「中身が水か粘液」でも同様です。どんなときに捻れることがあるかというと、卵巣は腸の動きに合わせてぐるぐると動くようで、捻れるのはなんと、「お腹をこわしたとき」なのだ。

お腹が急に痛くなって、内科に行って、「食あたりですね」とか言われてお薬をもらって帰ったらそのうち良くなるどころかさらに痛みがまし、口がきけなくなって救急車で運ばれ、そのうち気が利いた当直の先生がCTとか取ってくれちゃったりして、それで卵巣嚢腫が分かり、オンコールで呼ばれた婦人科のせんせがようやく到着して、ようよう手術の同意書にさいん[やぶちゃん注:ママ。]をした、と同時に手術室に直行、というのがだいたいの捻転ストーリー。手に汗握るアドベンチャー。・・・ま、必ず生還しますけど、痛い思いはあんまりしない方がいいんじゃないか、というのが私の意見です。

   《引用終了》

これは大変判り易い。実は、こうした異常出産(若年出産も含む)や奇形児の出産は、御多分に漏れず、怪奇談の中にはかなり有意に多い。そもそもが、同じ、海棠庵は既に「兎園小説」第二集でも「藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書」を発表している。他にも、私の「怪奇談集」からめぼしいものを引いても、

「耳嚢 巻之四 怪妊の事 又は 江戸の哀しいピノコ」

「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」

「谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る」

がある。なお、「耳嚢 巻之十 幼女子を産し事」もあるが、これは、先の海棠庵の「藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書」と同一事例の記載である。因みに、上の記事の私の過去の注では、手塚先生の「ブラック・ジャック」の「畸形嚢腫」(一九七四年二月十八日初出)の内容に無批判に引かれてしまい(ある女性患者が寄生性二重体症で、双生児の片割れを自分の体内に持ち続けて成人となった症例であり、ピノコはその嚢胞に封入された双子の胎児(女性)のばらばらになったものを人工的に少女に仕立てたものである。因みに寄生性二重体を妄想の素材とした小説では、昭和五四(一九七九)年構想社刊の阿波根宏夫「涙・街」所収の「二重体」が非常に素晴らしい)、どの注でも寄生性二重体症の奇形嚢腫というごくごく稀な症例のみをブチ挙げているのは、今は恥ずかしい。

2021/10/01

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第八集) 鑿井出火

 

[やぶちゃん注:「鑿井」(さくせい)は地下水を人用に得るために地中深く穴を掘り下げて井戸を掘ることであるが、以下、その地理を見て戴ければ判る通り、水脈に当たったものの、石油由来の天然ガスを含んだそれを掘り当ててしまった結果、「出火」と相成ったのである。「燃える水」としての石油の存在自体は、非常に古くから認知されており。「日本書紀」の天智天皇七(六六八)年の『秋七月』の条に、『又、越國獻燃土與燃水』という記載が既にある(これは現在の新潟県胎内市下館の黒川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)から産したものとされている。因みに「燃ゆる土」とは天然アスファルトのことと考えられる)。自然に湧き出た原油は「臭水(くさうず(くそうず))」などと呼ばれ、天然ガスも知られていた。例えば、私の「北越奇談 巻之二 古の七奇」(同書は越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆。全六巻)には個人宅内の天然ガス利用の囲炉裏と思われるものが、「入方村 火井の図」とキャプションして、葛飾北斎の絵で描かれてある(そちらでも注してあるが、「入方村」は現在の新潟県三条市如法寺)。但し、国内の油田等の本格的な開発・利用は明治以降のことであった。本文は報告書簡からの引き写しであるが、臨場感を出すために、特異的に記号を多く用いた。

 

   ○鑿井出火

越後國新發田[やぶちゃん注:「しばた」。]領蒲原郡中野口組[やぶちゃん注:現在の新潟県新潟市西蒲(にしかん)区中之口(なかのくち)。グーグル・マップ・データ。以下同じ。]大庄屋、戶頭村三郞左衞門[やぶちゃん注:「戶頭」は新潟県新潟市南区戸頭(とがしら)。中之口の東北直近。]支配、名主助右衞門觸下[やぶちゃん注:「觸下」の「ふれのもと」で、この名主がお上のお触れを下す村内範囲を指すか。]、白根中町[やぶちゃん注:新潟県新潟市南区白根(しろね)。戸頭の北に殆んど接するほどに近い。四ヶ所ほどの飛び地となっている。但し、域外に「白根」を含む町名があり、現行の白根地区ではない可能性もある。]造酒屋金左衞門と申者、富有之者にて屋敷内へ掘拔井を掘度、年來心がけ、文政六年癸未[やぶちゃん注:一八二三年。]三月十日頃より取り懸り、三月廿六日掘拔候處、砂交り之水を、五、六丈、吹上げ、水夥しく出、近邊の土地、「ドンドン」と鳴りわたり、井の口、段々に大きく相成り、其町、水浸しにも可相成樣子に付、先、溝を掘り、水を流し、水を止度存[やぶちゃん注:「とめたくぞんじ」。]、金左衞門方に有之ものは、何によらず井戶へ投げ込候へ共、棒などの樣なるものは吹上げ、井戶へ落ちつかず候間、無據[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]大豆俵拾俵ばかり投込、又、疊・石板等を並べ、石を上げ候へ共、水止み不申。其夜、白根町「髭醫者」【この者、髭を長く延し置候間、其所にて「髭醫者」と呼びなしたり。】、井戶を見に參り、「井戶は、こゝか。」と、提灯[やぶちゃん注:これのみ底本で「灯」。以下は底本でも「燈」。]を、さし出し候へば、井の内より、火、もえ出で、提燈も髭も燃し、火氣[やぶちゃん注:「ひのけ」。]、やはり、五、六丈、燃上り、遠近共に、「白根町、出火なり。」と存、竹・貝を吹き、まとひ・高張提燈を押建て、村々より馳集り、大に騷動いたし、且、兩三日の間、金左衞門屋敷の、四、五十間[やぶちゃん注:七十三メートル弱から九十一メートル弱。]四方、ゆるみ、力を入れて踏候へば、「ドブリ、ドブリ」とはいり候樣に相成、人家數拾軒、少しづゝ、柱、めり込、傾き、右投込候大豆を處々へ吹出し、井の中、八、九拾間[やぶちゃん注:約百四十六~百六十四メートル。]四方も、うつろに相成候樣に思はれ、火氣、益[やぶちゃん注:「ますます」。]熾に[やぶちゃん注:「さかんに」。]相成候。其節、賣卜師參候に付、卜吳[やぶちゃん注:「うらなひくれ」。]候樣賴み候へば、「金弐拾兩、差出し候はゞ、よく占ひ祈禱いたし、火氣・水をも可相鎭」旨申し候へ共、餘り高金[やぶちゃん注:「たががね」。]故、見合せ、又、別の賣卜師に金子貳兩貳分遣し、占せ候へば、判斷いたし候。「不搆[やぶちゃん注:「かまはず」、]差置候はゞ七里四方、土地、ゆるみ、落入り沈み可申。右水火を鎭め候には、地主金左衞門幷に右井戶を掘候職人を、井の中へ投入れ不申候ては、水火、相鎭らず。土地、おち入り、泥の海に可相成。」旨、判斷いたし候よしにて、白根町は勿論、近邊の者まで無據事に候間、「金左衞門、幷に、井戶掘職人を捕へ、井の中へ投込申外無之。」と申風聞に相成、金左衞門幷に井戶掘職人、早々、逐電いたし候よし。扠[やぶちゃん注:「さて」。]、相集り候村々は、

 平片新田 下道かた 上道かた 沖新保 平片 萬年 吉崎 櫛笥 藤新田

 藏主 兩木山 浦梨子 田井 鍋潟 兩曲り

 戶頭組、村々を始、この外、四、五里四方より駈集り候村々、枚擧にいとまあらず。

右村々、七日の間、晝夜、白根町へ相集居候へ共、水火、鎭り不申。夫より、村々役人共、相談の上、御領主へ相屆、檢使の役人、出役有之、見分之上、右の井戶を埋め候樣被申付、埋方等の差圖有之、其通にいたし候處、水火共に、勢氣、弱く相成。水は、「湯の花」のにほひ、甚敷[やぶちゃん注:「はなはだしく」。]、飮水にならず。其水を汲み溫め、藥湯にいたし候ヘば、諸病に宜く、湯治人も、追々、有之よし。火は「からめき」【「からめき」は地の名。土中より火の出づる處。】同樣に、竹筒にて、處々へ引取、相用候よし。且、傾き候家も修覆致し、金左衞門も歸宅いたし候由。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

右は、平片新田組頭甚右衞門弟、仁太郞と申もの、先年、奧州へ日雇稼に參り、予が家にも、しばし、はたらき居、予も存居候者にて、當三月、不圖、江戶本鄕丸山本妙寺中東岳院にて逢ひ、其後、予が客舍へ、折節、來候處、五月初、又、予を訪ひて、「國元に、大變、有之、書狀到來に付、歸國いたし候。」とて、暇乞に參り、歸國致し候處、六月十六日、又、出府いたし、同十八日、予、東岳院へ參り候節、仁太郞ものがたりを承り、其まゝ、下[やぶちゃん注:「しも」。以上の事柄。]、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]相記す[やぶちゃん注:「あひしるす」。]。村名・語音の間違もこれあるべし。

  癸未六月十八日      熊坂盤谷記

熊坂盤谷は、奧州福島の鄕士にて、四郞入道長範が裔なりといふ。世々、學を好み、常に倉廩[やぶちゃん注:「さうりん(そうりん)」。米などの穀物を蓄えておく蔵(くら)。]をひらき、窮民を救ふをもて、業とせり。この故に近鄕、その風を慕はざるものなし。しばしば東都に遊びて、予と友たり。近來、「繼志編」を著し、祖先を「盜なり」とせられし俗說を破るに足る。眞に篤實の君子なり。

             海 棠 庵 記

[やぶちゃん注:「平片新田」新潟県新潟市南区平潟新田(ひらかたしんでん)であろう。戸頭に南東で接する。

「下道かた」平片新田の南に接する新潟市南区下道潟しもどうがた)。

「上道かた」下道潟の南に接する同上道潟

「沖新保」新潟市南区沖新保(おきしんぼ)。戸頭の南東直近。

「平片」新潟市南区平潟(ひらかた)であろう。戸頭の東直近。

「萬年」新潟市南区万年(まんねん)。 戸頭の東直近。

「吉崎」これは思うに、上下の道潟地区の東に接する新潟市南区牛崎ではないかと推定する。

「櫛笥」新潟市南区櫛笥(くしげ)。戸頭の東直近。

「藤新田」「ひなたGIS」の昭和初期の戦前の地図で見ると、東の信濃川左岸や戸頭の南北「~新田」の地名が複数見られる。この内の孰れかの旧名か、或いは表記の誤りか。

「藏主」新潟市南区蔵主(ぞうす)。戸頭に東で接する。

「兩木山」新潟市南区上木山(かみきやま:戸頭に東で接する)と、その北の下木山のことであろう。

「浦梨子」戸頭と白根の間にある新潟市南区浦梨(うらなし)であろう。この三文字で「うらなし」と読んでいる可能性がある。但し、「ひなたGIS」の昭和初期の戦前の地図でも「浦梨」であった。

「田井」これは戸頭の東直近の新潟市南区田尾だお)の誤りではあるまいか。

「鍋潟」新潟市南区鍋潟(なべがた)。本文の白根の東部分の南に接する。

「兩曲り」戸頭の対岸に新潟市南区上曲通(かみまがりどおり)と下(しも)曲通があるので、ここであろう。この附近、旧地名がしっかりと保存されていて、調べていて、非常に楽しかった。合併その他の合理目的で、旧地名が廃されるケースが全国的に見られるが、これは重大な文化伝統の破壊であることを忘れてはならない。

『「湯の花」のにほひ、甚敷、飮水にならず』硫黄が含まれていたか。

『「からめき」は地の名。土中より火の出づる處』小学館「日本国語大辞典」に「がらめきのひ」「柄目木の火」として立項し、『新潟県中蒲原郡柄目木村』(現在は新潟市秋葉区柄目木(がらめき)ここ)『付近の地中から出る天然ガス。燃料に利用される。越後の七不思議の一つ』とある。私の「北越奇談 巻之二 古の七奇」及び「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート7 其八「湧壷」)」にも出るので、是非、参照されたい。

「竹筒にて處々へ引取、相用候よし」先に示した「入方村 火井の図」が髣髴させる。

「江戶本鄕丸山本妙寺中東岳院」「本妙寺」は現在は東京都豊島区巣鴨に移転(明治四一(一九〇八年)から三年かかって移った)している。当該ウィキによれば、法華宗陣門流東京別院である徳栄山総持院本妙寺で、元亀二(一五七二)年に日慶が開山した。徳川家康の家臣団の内、三河国額田郡の海雲山長福寺という古刹の檀家で、徳川家に仕えた久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らが、家康の岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)への入城に際し、日慶上人に願い出て、創建された寺であった。天正一八(一五九〇)年九月、家康は、関東奉行に命じられて江戸城に入った際、久世広宣・大久保忠勝に図って、この年に武蔵国豊島郡の江戸城清水御門内礫川町に移ったが、間もなく御用地になったため、飯田町に替地を与えられ、転地した。伽藍壮麗で板屋寺と呼ばれ、評判は家康の耳にも達していたという。慶長年間(一五九六年~一六一五年)に類焼したため、牛込門内に移り、その後の元和二(一六一六)年、小石川(現在東京都文京区)へ移して、本堂・客殿・鐘楼は建立されたが、寛永一三(一六三六)年、それらの堂塔伽藍が全焼してしまった。久世家の尽力によって、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移り、客殿・庫裡を建立、立地条件も良く、明治の終わりまでの約二百七十年間は、この地をはなれなかったので、「丸山様」とも称された。往時は広大な境内地を持ち、そこに九間四面の本堂・客殿・書院・庫裡・鐘楼と、塔頭十二ヶ寺があった。その一つがここに出る「東岳院」であった(現在はない)。現在も本郷四丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている、とある。ここ

「熊坂盤谷」(くまさかばんこく 生母未詳)は儒者。儒者熊坂台州(たいしゅう:陸奥伊達郡高子(たかこ)村の豪農であったが、江戸で入江南溟・松崎観海に学び、郷里に学舎「海左園」を設けて教育にあたり、また、窮民救済・開墾などに尽くした人物として知られる)の子。寛政から享和(一七八九年~一八〇四年)頃の人物で、谷文晁らと親交があった。著作に「継志編」・「戌亥遊嚢」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「四郞入道長範」所謂、知られた伝説上の大盗賊とされる熊坂長範(くまさかちょうはん)。しかし、彼はモデルはあろうが、実在は甚だ疑わしいと言わざるを得ない。代々の儒家が、わざわざ、彼の後裔を名乗ること自体が変な感じがする。寧ろ、それを売り物にして、学者に打って出たものか。私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 62 加賀入り 熊坂がゆかりやいつの玉祭」でも参照されますか?]

ブログ・アクセス百六十万突破記念 梅崎春生 指

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年七月号『小説公園』発表。既刊単行本未収録。

 底本は昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 文中に注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日夕刻、1,600,000アクセスを突破した記念として公開する。ここのところ、「芥川龍之介書簡抄」と「兎園小説」へのアクセスが人気で一、万アクセス越えが異様に早く(今回は十一日でやってきた)、記念テクスト作成が即座に出来ずに遅れた。【2021年10月1日 藪野直史】]

 

   

 

 肩を叩いたのは、サンドイッチマンである。私はふりむいた。

 「やあ」

 とその男は言った。前と背にふり分けに、大きな広告板をぶら下げ、右手にも小型のそれを持っている。立札みたいな形の、短い柄のついたやつだ。広告板にはさまった軀から、首が茸みたいに生えていて、その眼が私をじっと見ている。顔のどこかが笑っているのだが、なんだかつくり笑いのように見えた。何処かで見たような気もするが、とっさには憶(おも)い出せなかった。

「久しぶりね」白粉(おしろう)と眉黛(まゆずみ)と紅に、どぎつく彩られたその顔が、私にむかってそう言った。顔に似ず、若々しい少年じみた声だった。「また逢いましたね」

(誰だったかな)

 街路樹に背をもたせ、男と相対したまま、私はしきりに記憶を探っていた。盛り場の駅前であった。大きなビルディングの上辺の壁面にのみ、日の色がわずか残り、あとは蒼然と黄昏(たそがれ)のいろが滲(にじ)み始めている。人通りも繁(しげ)く、そのおびただしい人波の上に、広告塔から声がガアガアとまき散らされている。行き交う人々はみんな疲れたような顔をして、無連帯にうごいていた。昼と夜との替わり目のいそがしさが、街全体をがやがやとおおっていた。

「誰かを待っているの?」

「いや」と私はあいまいに答えた。誰を待っている訳でもなく、中途半端な時間を持て余して、ここにぼんやり佇(た)っていたに過ぎないから。「――誰も待ってない」

「フン。意味ないね」

 そう言ったのかしら。低声だったので、よく聞きとれなかった。男の頭上にかかげた小さな広告板には、あるキャバレーの広告が出ている。美女麗人多数、献身的大サービス、チップ一切不要。そんな月並な文句が、ずらずら並んでいる。角板は細い柄に支えられ、その柄の下端を、男の掌がしっかと握っている。血の気のうすい、ほっそりした感じの指だ。その指の握り方が、妙に不自然であった。私の視線に気づいたかのように、男はすこし身振りをつけて、広告板を右かち左手に持ち換えた。その瞬間、虚空にひろがった右の掌の形を、私はチラと見た。突然、フィルムを手繰(たぐ)り上げるように、私はある情景を憶い出していた。

「あ。君だね」

 黄昏にひらめいたその掌から、指が四本しか出ていない。人差指が根元から無いのだ。親指から一区切りの空間をへだてて、すぐ中指になっている。それはいくぶん非現実的な、またいくらか間の抜けた、掌の形であった。それがハッキリと私の眼に沁(し)みついてきた。

「ええ。私ですよ」

 男はわざとらしく身体を傾けながら、人なつこい粘っこい笑い声をたてた。

「妙なところで、逢いましたね」

「こんどはそんな商売を、やっているんだね」私は街路樹から背を離して言った。自然とならんで歩き出すかたちになった。「つい見違えたよ」

「見そこないましたか」やがて男はサンドイッチマン特有の、目的のない歩き振りになりながら、かろやかな口調で、

「どうです。似合いますかね」

「そうだねえ」と私は口ごもった。「似合うと言えば似合うし、不似合いだと言えば――」

「不似合いかなあ」と詠嘆するように男は引きとった。「そうでもないでしょう。これでもほめて呉れる人が、時にはあるんだから」

「そうかね」流れてくる人波を分けながら、私はちらりとその横顔をぬすみ見ていた。そしてあとは呟(つぶや)くように、「そんなものかなあ」

 粉黛(ふんたい)をほどこしてあるとは言え、その鋭い感じの横顔は、やはりまぎれもなく、あの男のようであった。あの男であるとすれば、年齢もまだ若い筈だ。今でもせいぜい二十五六かしら。三十にはまだまだ、間があるだろう。

 その白い横顔にかさなって、白く透(す)き通ったような樹の花の幻影を、次の瞬間、私は瞼の裡に、まざまざと思い描いていた。意味もなくしらじらと開いた、それら花々の色や匂いやかたちなどを。――それはもう、五年も前のことになる。ある小路を歩いているときに、偶然に私はその花を見つけたのだ。歌い忘れた古唄の一節を、何かのはずみに思い出すにも似た、そんなはるかな感慨が、一瞬私をつつんできた。

 その私に顔をねじむけて、広告板にはさまれた男の首が、ふと気紛(きまぐ)れな口調で話しかけてきた。

「――どうです。今日はこれで、商売仕舞いということにして、私とそこらで一パイやりませんか」

 いきなりそんな事をこだわりなく言い出すのは、やはりあの時の彼にそっくりであった。私はなま返事をかえしながら、まだ残像を追うように、あの花のことをぼんやりと考えていた。ぼんやりと流れた五年の歳月のことなども。

 

 その小路は、右手は都立高校の塀、左手には塵埃(じんあい)場や林や墓場がつづいている。幅五尺ほどの雑草路であった。構内から伸びたヒマラヤ杉の垂梢をかぶった灰色のコンクリートの塀が、小路に沿ってながながと連なっているのだが、冬の間はその小路の正面に、白い富士山が連日姿をあらわしていた。そして寒気がゆるみ、空が春めいて濁り始める頃から、富士はその姿を消し、花や土のにおいやゴミのにおいが、その小路をうすうすとみたしてくる。その花を見たのは、やはりその時分であったかしら。

 その樹は長い塀の中頃あたりから、梢を塀の外までのり出して、白い花をたくさんくっつけていた。

 それは桜にも似ていたが、桜より花片(はなびら)の色が白っぽく透いていたし、桃の花ともどこか違っていた。花蕊(かずい)が短いのか、花々はしらじらと開くだけ開いた感じで、どんよりした空を背景にして、へんに無意味な空虚な感じを私にあたえた。しばらく私は立ち止って、それを眺めていた。何という名の花か。桜桃というのがこれか、それとも梨(なし)か、または巴旦杏(はたんきょう)かも知れない、とも思ったりした。敗戦翌年の春だから、花を見る余裕がある筈もなかったが、その花の色やかたちは、その時の私の気持を奇妙にひきつけた。充実する目的を失ったような、頽(すた)れたような美しさが、その花にはあった。[やぶちゃん注:「巴旦杏」本来、狭義の種としての正式な漢名はバラ目バラ科サクラ属ヘントウ Prunus dulcis 、所謂、「アーモンド」のことを指すが、ここは日本国内であるから、それではない。実は古くに中国から所謂、「李(すもも)」が入って来てから(奈良時代と推測されている)、本邦では「李」以外に「牡丹杏(ぼたんきょう)」・「巴旦杏(はたんきょう)」という字がそれに当てられてきた。従って、ここではバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina の意でこれを用いているととるべきである。]

 その日家に戻ると、私は植物図鑑などを引っぱり出して調べてみたが、やはりはっきりしたことは判らなかった。どの花にも似ているようでもあったが、また少しずつ異っていた。そしてその花のことを、私はそのまま忘れてしまっていた。

 それから半月も経ったある夕方、都立高校駅を降りると、はらはらと日照り雨が降ってきた。雨宿りにそこらの店に飛びこみ、ズルチン珈琲(コーヒー)を啜(すす)っていると、何の連想か突然私はその花のことを思い出した。もう花片は散って、葉が出ているだろう。葉の形を見れば、何の樹か判るかも知れない。そう思って、やがて私は店を出た。通り雨にすこし濡れた柿ノ木坂をゆっくりと登り、高等学校の塀のところを曲った。その花の名を調べねばならぬ理由は、私には何もなかった。ただかりそめの気紛れであった。[やぶちゃん注:「都立高校駅」東急電鉄東横線の「都立大学駅」の旧称。改称は本作発表の翌昭和二十七年七月一日 。「柿ノ木坂」旧の本来の坂としての「柿木坂」はこの中央の南西から東北への「目黒通り」の一(グーグル・マップ・データ以下同じ)であるが、ここの場合は、駅から北西へ向かう「柿木坂通り」の登り坂を指している旧府立高校の位置とともに確認出来る「今昔マップ」も添えておく。「ズルチン珈琲」ズルチン(dulcin)は4-エトキシフェニル尿素((4-Ethoxyphenyl)urea)の慣用名。本邦では敗戦後の砂糖不足の時代に安価な甘味料として大きい役割を果たした。スクロース(sucrose。蔗糖。所謂「砂糖」)の約二百五十倍の甘味を感じ、さらに同時代に流行った人工甘味料のサッカリン(saccharin)と異なり、ズルチンには苦い後味がない。少年時代の私の家にもサッカリンと混合した白い粒状のそれがあった。しかし有意な毒性が問題となった上(幼児などがズルチン四グラム経口摂取して死亡、ぼたもちに大量に使用して死者が出た)、発癌性が明らかになったため、現在は使用禁止である。日本では食品添加物として昭和二三(一九四八)年認可されたが、毒性が強いことから、昭和四二(一九六七)年には醤油・漬物・煮物などの限定十品目への制限付き使用が認められたものの、二年後の昭和四十四年には全面使用禁止となっている。]

 復員時に穿(は)いて帰った靴の踵(かかと)がすりへって、釘が出ているので、石ころの多い雑草路を歩いてゆくと、釘の尖が足の裏を刺し、いきおいビッコを引く恰好になる。墓場のところの路ばたは、樹が切られ、白い切株にうすうすと春の夕陽が射していた。その切株のひとつに、海軍の略服を着た若い男が腰をおろし、私の方をじっと見詰めていた。何気なく私はその前を通り抜けた。五六歩通り過ぎたとき、ちょっと、と私を呼び止めたらしい。そしてその若者はゆるゆると切株から立ち上ったようすである。

 私はすこしおどろいてふり返った。

 ふり返った私にむかって、若者はややまぶしそうな表情をつくり、大股にまっすぐ近づいてきた。右手をポケットにつっこんだままである。

「賭けを、しませんか?」

「――賭け?」

「ええ。賭けですよ」

 薄笑いを頰にきざんだまま、その男ははっきりとそう言った。

「五百円、ここにある。私の全財産です。でもこれだけじゃ、仕方がないでしょう。――どうですか。あなた五百円持ちませんか」

 私はしばらく黙って、男の姿を眺めていた。二十歳前後の、兵隊服を着ているからには、復員兵なのであろう。背丈は五尺四五寸ほどもあったが、体つきは瘦(や)せて、なんだか鴉(からす)を連想させた。賭けを申し込むために、切株に腰をおろして、私の近づくのを待っていたのか、あるいは私が通りかかったので、衝動的にそういう思いつきをしたのか、それは判らなかった。男の口調が脅迫的でなく、態度も殺気を含んでいないことが、一応私の警戒心を解きはしたが、しかしそれが墓場近くの淋しい場所であることが、私には面白くなかった。ポケットに入れたままの右手の形も、あまり気にくわなかった。[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、旧府立高校(現在は南西半分が後進の東京都立桜修館中等教育学校)へ向かう「柿木坂通り」を、高校の塀で左に折れた道の左側に二つ寺院があり、その二つの寺の墓地が、その道の左部分のほぼ半分強を占めていることが判る。戦前の地図(今昔マップ)を見てもこの二つの寺院が確認出来るので、この道がロケーションであることが判る。

「賭けというと、どういう方法でやるんだね?」

 少し経って私は訊ねた。男はまっすぐな視線を、私から離さずにすぐ答えた。

「その方法は、あんたの選定に任せますよ」笑いは頰から消えた。なにかいらだたしげに上体をかすかに揺すりながら、「ジヤンケンでも唐八拳(とうはちけん)でも、かけっこでも」[やぶちゃん注:「藤八拳」「藤八五文薬」の売り声或いは幇間藤八の名を由来とするともいう拳遊びの一つ。二人が相対し、両手を開いて耳の辺りに上げるのを「狐」、膝の上に置くのを「庄屋」、左手を前に突き出すのを「鉄砲」或いは「狩人」と定め、狐は庄屋に、庄屋は鉄砲に、鉄砲は狐にそれぞれ勝つルールである。「狐拳(きつねけん)」「庄屋拳」とも呼ぶ。]

 言葉がぷつんと切れた。殴(なぐ)りっこでも、と言うつもりじゃなかったかしら。私はあまり体力に自信はなかった。だから身構えた姿勢をゆるめずに、も一度確かめるように、

「どうしても金が、欲しいのかね?」

「そう、千円あればね、それを元手にもできるし、食いつないでも一箇月はもつし――」

「しかし、もし負けたら、元も子もないよ」

 男の表情はかすかに曇った。瘦せてはいるが、鼻梁(びりょう)の高い、額の広い顔であった。しかも少年らしい稚(おさな)さを、顔や身体のどこかに残している。いい顔をしているじゃないか。ふっと私はそう思った。

「――負けたら、仕方がない」

 投げ出すように、男は答えた。

 ちょっとの間、私はためらい、考えこんでいた。五百円という金は、持たないではなかった。当分の生活費として、胸のポケットにしまってある。この男の申し込みに応じて、負けてしまえば、はなはだ困る金なのだ。しかし、もし勝ったとすれば、五百円だけ幸福になれる。五百円分の幸福! それが前後を切りはなした断片として、瞬間私の心をつかんだ。そしてこんな世に生き合わせるふしぎな可笑(おか)しさが、私の胸をひたひたとゆすぶってきた。

「よし」

 私はうなずいて、男の方に一歩踏み出した。勢いこんでいると見えたかも知れない。

「投げ銭できめよう」

 金を出して、墓石の上にのせた。すると男もポケットの申から、即座に一束の紙幣をとり出した。紙幣束を握ったその右掌のかたちを、私の眼がはっきりととらえた。それは人差指を欠如した、四本指の掌だった。瞬間その指から紙幣束ははらりと落ちて、墓石の上の私のそれに重なった。私は白いアルミ貨を掌にころがしながら、何故ともなく、すこしひるんだ声を出した。[やぶちゃん注:「白いアルミ貨」第二次世界大戦中には臨時補助貨幣として、アルミニウム貨で額面一銭・五銭・十銭が、終戦直後には同じく臨時補助貨幣としてアルミニウム貨十銭が発行されている。後者の十銭か。現在の一円アルミニウム貨は昭和三〇(一九五五)年六月一日で、本作発表時には存在しない。]

「上にほうり上げる。掌で受けとめる。そして表か、裏か――」

「裏――」

 するどく、鳥の啼声のように、男はさけんだ。私はちょっと気息をととのえ、アルミ貨を空にほうり上げた。それは白い昆虫のように中空におどり、黄昏(たそがれ)の光をキラリと弾(はじ)いたと思うと、そのまま白い筋となって、まっすぐに私の掌の上におちてきたのだが。――

 

 キャバレーの裏口で、しばらく私はその男を待っていた。男はなかなか戻ってこなかった。裏口の前にひろがる小空地の上方に、はたはたと飛び動くものの影があると思ったら、それは小さな蝙蝠(こうもり)らしかった。このような街なかにも、蝙蝠は住みつくのか。

 空地のむこうはネオンの小路があり、ぞろぞろと人々が行き交(か)っている。

 二十分ほども経って、やっと男は裏口から姿をあらわした。広告板もはずし、顔の粉黛(ふんたい)も洗いおとしているので、もうありふれた青年の姿になっている。それを追ってくる柔かい跫音(あしおと)がして、

「怒らないで、ケンちゃん。おこっちゃ、だめよ」

「怒るもんか」

 男は足早に私に肩をならべながら、弁解するように言った。

「なにね、九時までの約束だと言うんですよ。今切り上げるんなら、半分しか払えないと言いやがる」

「あんなの、いい収入(みいり)になるの?」と私は訊ねてみた。

「あんまり良くないね。行き当りばったりだしね」

 男は草履の板裏をいそがしく鳴らしながら、先に立って、そこらの横丁に入って行った。そしてその突き当りの店に、私を案内した。五六坪ほどの狭い店で、少女が一人いるだけで、他に客は誰もいなかった。私たちはその一番奥の卓に腰をおろした。男は左手の指をピンとたてて、ウィスキーをふたつ注文した。少女が奥に入ると、男は卓の上で、なんとなく両掌をすり合わせた。右掌の人差指の断(き)れ口が、すべすべとなめらかに見えた。私はなんとなく、そこから眼をそらした。

「とにかく、久しぶりでしたね」

 グラスが運ばれてくると、彼はそんなことを言いながら、物慣れたふうにそれを肩にもって行った。それはあの五年前の生一本な稚さではなく、いくらか市井(しせい)の塵(ちり)によごれて疲労した男の動作であった。表情の動きも、生硬でなくなっている。四本指の右掌を見なければ、おそらく私は彼と憶い出せなかったに違いない。しかしこの男は、どういう手掛りで、この私を憶い出したのだろう。私は訊ねた。

「よく僕だと判ったね。駅の前でさ」

「そりゃあね」男はグラスのふちを砥めながら、あいまいな笑い方をした。「あんたはあまり、変りませんね。あの時とそっくりだ」

「そうかな。自分では大いに、変ったつもりなんだが――」

私もグラスをとって、「――君はいくらか変ったな。いくらか以上に変ったようだ」

「そりゃそうでしょう。あの頃は復員したてだったし、あれからいろんなことがあってね」

 酒がはいってくると、男の言葉はしだいに人なつこく、またいくらか饒舌にもなってきた。男は自分の生活の話をした。サンドイッチマンになったのも、二箇月ほど前からで、もうそろそろ飽きてきたという。

「初めのうちは、それでもね、なかなか面白かったんだけど、近頃ではすこしバカバカしくなってね。街を流して歩いてても、道行く人々がバカに見えてしようがない」

「それは困るだろう。じゃそろそろ、転業だね」

「転業じゃない。廃業ですよ」卓の上で右掌を拡げたり握ったり、それの動きを男はじっと見詰めていた。「実は故郷(くに)へ帰ろうかとも思うんですよ。なにしろ復員しっぱなしで、一度も帰ってないんだし」

「故郷(くに)は、どこだね?」

 男は返事しなかった。相変らず自分の右掌の動きに、執拗な視線をおとしている。やがてぼんやりした声で口をひらいた。

「へんなもんだね。この人差指がないばかりに、人に道を教えるのにも苦労する」

「どこでそれを、失ったんだね。あの節は聞かなかったが」

「――沖繩。機上戦闘でさ。むこうの機銃弾で、アッという間に、根元からそっくり持って行かれた。そりゃあ妙な感じだったですよ。その感じが――」男はゆるゆると顔を上げた。「今もって、私に続いているんだけどね」

 男はあからんだ眼で、私をじっと見詰めた。そして、ふと探るような表情になって、私に間いかけた。その言葉つきは、やや重かった。

「あの時ね、あの金をあなたは、どう使いました?」

「あの時?」

 

 ――あの時、掌(てのひら)におちてきたアルミ貨を、私はぎゅっと握りしめた。その拳を若者の前に突き出した。

「開くよ!」

 私は自分の掌からわざと眼を外(そ)らし、若者の表情に見入りながら、ゆっくりと掌をひろげて行った。そして私は若者の表情に、微妙な苦痛と落胆の色が、チラと走りぬけるのを見た。ある残忍な喜びが瞬間に私にきた。

「…………」

 言葉にはならない呟(つぶや)きが、若者の唇から洩(も)れて出たようだった。アルミ貨をポケットにしまいながら、私は平静をよそおって口をひらいた。その声は、やはり乱れた。

「では、五百円。なにぶん約束だから」

「そう。約束だから」

 若者は虚脱したような声で、そう反復した。それから右掌の四本指で、墓石の紙幣束(さつたば)をわし摑(づか)みにして、そしてふとためらったようだった。しかし次の瞬間、紙幣束をつかんだ掌は、ぐっと私の前に突き出された。私はそれを受取り、ただちに上衣の内かくしにねじこんだ。

「サヨナラ」

 そして私は再びふり返ることなく、今来た道をまっすぐに戻った。ふり返りたい欲望をねじ伏せ、首をまっすぐに立て、大股に歩いた。背中いっぱいに若者の視線が感じられ、また大通り迄がばかに遠いようにも感じられた。あの白っぽい花々を見ずにきたことが、やっとその時、私の意識にのぼってきた。同時に、足裏にささってくる靴釘の感触をも。――

 そしてその翌日だったかしら。私はその金で、新しい靴を買った。

 

「靴?」

 と男が聞いた。

 私はうなずいて、脚を椅子の横につき出した。もうあれから五年にもなるから、底革もすり減り、色艶もうしなっている。

 男は頭をうつむけて、その私の靴にしげしげと見入るふうであった。酒にはあまり強くないと見えて、男の額はほのぼのとあかくなっている。私は靴を眺められることに、ふと故(ゆえ)知れぬ、かすかな苦痛をかんじた。

 ふっと男は頭を上げた。歪(ゆが)んだような笑いが、その頰に貼りついている。

「そうか。この靴か。でもずいぶん古ぼけましたね」

「あの時、君は――」私はそっと脚を引っこめながら聞いた。「どういうつもりだったんだね。無一文になって、困っただろう」

「ええ。困ったね」

 男は卓に頰杖(ほおづえ)をついて、眼を閉じた。そして少し経って、独り言のようにしんみりと口を開いた。

「――復員してきてね、なんだか故郷にまっすぐ戻る気もしないもんだから、仲間とつれ立ってね、東京に出てきたんです。仲間といっても、みんな海軍の航空兵たちさ。私は通信員で、機上通信をやってたんです。東京へ出てきて、どうしようというあてもなかった。皆が上京するというんで、私もなんとなくついてきた。あの頃私は子供だったし、世の中のことは、右も左もわからなかった。無鉄砲だといえば無鉄砲だったが、そのくせ私は妙に自信をなくしてたんですよ。仲間の連中はみんな張切っていたが、私だけはそうじゃなかった。どうだっていいや、という気持もあった。仲間は私のことを、指無し、指無しと呼んでいたね。私だけじゃない。みんなお互いに、そんなあだ名で呼び合ってた。本名を呼び合うような気持じゃなかったね。なんだか崩れてゆくことで、生甲斐を感じてるような有様だった。私は仲間のうちでは、一番年下だったし、体力も弱かった。弱かったから通信の方に廻されたんだけどね。そんな工合にして、ぞろぞろと東京に出てきた。私はつまりその、金魚のウンコみたいなものね。ずるずると引っぱられて、自信も方針もなく、そして新橋駅についたんです。駅のホームから、あたり一面を見渡して、これが東京かと思った。小学校のときに習った、世界三大都のひとつの大東京がこれか、としみじみ思ったね」

「あの頃はひどかったからね」と私は相槌を打った。「それで?」

「それからいろいろと、荒くれた生活が始まった」男は新しく運んできたグラスのウィスキーを、ごくりと口に含んで、しずかに眼をひらいた。「あの頃は世の中はムチャクチャだったけれど、ムチャクチャなりに、どうにか生活できたね。復員の時持ってかえった毛布や靴を、新橋のヤミ市に売りとばして、それを元手にして、千葉から魚を運んだり、埼玉から米を運んだり、一度などは北海道まで出かけたこともありますよ。一往来(ひとおうらい)するといい稼ぎにはなった。でもその頃から、何のためにこんなことをやってるんだろう、という疑問が、しょっちゅう私にきていたね。人を押し分け、取締りの目をくぐって、それで一かつぎの物資を運んでさ、それでどえらい仕事をしたような気になっている。私はだんだんその生活がイヤになってきた。故郷に帰って百姓になりたいと、時々思ったりしたが、口には出さなかった。つい帰りそびれた恰好で、踏切りがつかなかったし、そんなことを口に出せば、仲間からバカにされそうだったから。仲間はみんなうまくやってましたよ。パリッとした服を着て、新興成金みたいななりをしたりして。私は相変らず金魚のウンコで、皆のおこぼれで生きてたようなもんだ。人を押し分けてまでやろうという、そんな特攻精神が私にはなかったから、いつも働きも少くてね。もっと他の生き方がありそうな気ばかりしながら、ズルズルベッタリ、そんな生活をつづけていた。皆はそんな私を、いくらかバカにしてたらしい。私も気持の奥底では、あいつらをバカにしてたけれど、それでも連中から、指無し指無し、と呼ばれるのが、しだいに苦痛になってきた。むこうじゃ習慣でそう呼ぶんだが、こちらとしちゃ、いちばん痛いところをつつかれてるような気がしてね。ときどき自分の右掌を眺めて、この人差指といっしょに、おれは自分の自信も失ったんじゃないかな、そんなことも考えたりした。いっそ右手なら右手全部をなくしてしまったが、よかったかも知れない。なまじ指一本でしょう。不具というほどでもなし、仕事にそれほど差支える訳でもなし。しかしこの人差指というのは――」

 男は左掌でその部分をなでながら、

「なかなか大切な指でね。つまり方角をさす指なんだ。シャレみたいに聞えるだろうけれども、つまり私はあの時、方角を失ったという訳なんだ。生きてゆく方向を失ってしまった。方向を失った男――おや、笑ってますね。笑われてもいいや。どうせ地口(じぐち)や語呂合(ごろあ)わせなんだから。しかし実際この指をなくすと、そんな気持にもなりますよ。まあヒガミはヒガミなんだけれど、たかが指一本のことでしょう、傷痍(しょうい)軍人というほど大げさなものでもなし、世の中にすねるほどの理由も立たず、妙に折れ曲ったようなヒガミになってくるんだね。そしてある日、私は仲間の一人と大喧嘩しちゃったんだ。その男は仲間うちでも、一番羽ぶりのいい男だったが、そいつが私の指について、あくどくからかったんだ。酒を飲んでて、そのサカナにされたわけさ。私はカッとしたね。それでもお前らは、かつての戦友か。そんなタンカを切ったりしてね、仲間を全部むこうに廻して、その揚句袋だたきになって、ほうり出されたんだ。東京に出てきて、七箇月か八箇月目だったかな。もうその頃は仲間と言ったって、利害だけで結びついている徒党みたいな感じになっててね。私をほうり出すのに、未練も何もなさそうだった。私ももちろん未練はなかった。ただちょっと淋しいような気もした。それから私は新橋のマーケットに行って、洗いざらいの金で、酒を飲んだり初めて女と寝たりしたね。むろん一人でさ。遊びたいと思ったわけじゃないが、そうする他に仕方がなかった。なにか気持の踏切りが欲しくてね。女もつまらなかった。牛みたいに肥った女でね。私が童貞だと知ると、急にインランになってね。女とはこういうものかと思った。しかし翌朝、五百円だけ残して、あとはみんなその女にやっちまった。その五百円で、故郷へ帰ろうか、と考えてたんです。五百円あれば、とにかく旅費と土産代はある。そして新橋駅まで来て見ると、やはりこのまま汽車に乗るのも心残りで、東京に来たってまだ何ひとつ見物もしてやしない、よし今日は一日中東京中を歩き廻ってやれと、先ず渋谷駅まで省線に乗ったんだ。そしてそこから出鱈目に私鉄電車に乗り、出鱈目(でたらめ)な駅で降りた。その駅のまわりも急ごしらえのマーケットばかりだった。私はそれが厭だったから、トットとそこを離れて、なんだか出鱈目に、方角もかまわず歩き廻った。そのうちに疲れてきてね、腹もへってくるし、さて今からどうしようと、路ばたの木の切株に腰をおろして、ぼんやり考えていた。故郷のことがしきりに頭に浮んで、妙に抵抗があるような、帰りたくないような、それがまた切なくたよりない気持でね。日が照っているのに、雨が降ったりして、妙な天気の日だった。かれこれ一時間も、そこにぼんやり腰かけていたかしら。右掌を眼の前で、ひろげてみたり握ってみたり、そんなことばかりをしながらね。――」[やぶちゃん注:「地口」普通に世間に行なわれている成語に語呂を合わせた言葉の洒落。後で「語呂合わせ」と並列しているから、単なるそれよりもやや高尚な故事成句や凝った短文のそれと考えた方がよかろうか。][やぶちゃん注:「省線」もと、鉄道省・運輸省の管理に属していた電車及びその路線の通称であるが、特に国電、日本国有鉄道(国鉄)の電車(線)の中でも、大都市周辺で運転される近距離専用電車車両や鉄道線を指し、具体的には東京(首都圏)・大阪(京阪神)の二大都市圏の近距離専用電車が走る区間を総称した。東京の山手線や大阪の大阪環状線がその代表例で、ここは無論、山手を指す。]

 

 男はそこで言葉を切った。卓をたたいて、お代りを注文し、スルメの脚を千切ってギシギシと嚙んだ。相変らず店には、客は私たちだけだった。

「――そこに僕が通りかかった。そういうわけだね」と少し経って私が聞いた。

「そう」男はかるくうなずいた。「あとはあなたも、ご存じでしょう。あんたの姿を見て、私はふと思いついたんだ。ひとつ賭けをしてやれとね。もし勝ったら、その金でまっすぐ、故郷へ帰るつもりだった。その夜のドヤ賃もあるし、五百円では少々心細かったんだ。その思いつきは、今思うと突飛だけれど、その時はそうは思わなかった。世の中の皆が、自分と同じ気持で生きている、一か八かで自分の生き方をきめたがっている、そんな感じだった。近づいてくるあんたの姿を見て、きっとこの男は私の申し出を、断らないだろうと思ったね。だから私は、ためらうことなく、あんたを呼びとめたんだ」

「その時、賭けに負けることは考えなかったのかね」

「そうね。あまり考えなかった。あんまり腹が減って、疲れてもいたんで、頭のはたらきも鈍くなってたんじゃないかしら。とにかく、どうでもよくなってたんだ。私の生き方を、あんたが決めてくれるだろう。それに一切任せてしまえ。そんな気持だった。そして投げ銭にきまったでしょう。あれは夕陽だったかな。ほうり上げたアルミの貨幣が、陽をうけてキラキラと光ったでしょう。その瞬間、負けたな、と私は思ったね。なぜだか知らないがハッキリそう思った。そしてあんたの掌を見たら、案の定そうだったよ。これで当分は故郷に戻れない。その考えが直ぐ、じんと頭に来たね。そして賭け金を全部あんたに手渡したとき、とにかくひとつのことが終った、大げさに言えば、自分の前半生はこれですっかり終った、というような感じだったんだ。軀のなかから、何かがスポッと抜けたような気分だった。そして賭け金をにぎったあんたの姿が、なんだか里程標か墓標みたいに見えたな。この里程標の恰好を、しっかり覚えてなくちゃあ。一生涯覚えてなくちゃあ。なんだか強くそんな気持が私に来た。その気持だけだった。だからあの時、私はあんたを、睨みつけていたかも知れない。忘れてなるものかという感じでね。今思うと、あんたの姿を頭に刻みつけたって、仕方ない話なんだけどね」

「それで今日、僕の姿を見て、直ぐ憶い出したんだな」

「そうですよ。広告板をぶら下げてふらふら歩いていると、立木によりかかっているあんたの姿が、遠くからふと眼に入った。あれだッ、と思ったね。ピタッと何かがうまく組合わさった感じだった。実はね、今日は朝から面白くないことがあって、いろいろ気持が沈んでてね、街を流して歩きながらも、もうこんな商売は止めて、思い切って故郷(くに)へ帰ろうか、などと思案してたのさ。バカ面をして東京をほっつき歩いているより、故郷で百姓やる方がよっぽど気が利(き)いているからね。五年前にはつい帰りそびれたけれど、あれから世の中の裏表をわたり歩いて、もうそろそろ気分も落着いて来たしね。そしてその時私は、あんたの姿を見つけたんだ。つまり私から見れば、実にうまいところにピッタリとあんたは出てきたわけだ」

「あれから五年間、いろんなことがあったんだろうね」私は自分の五年間をもふり返りながら、思わずそんな言葉を口にした。「――無一文になって、あの時は大変だっただろう」

「いろんなことがありましたよ。モク拾いをやったり、ストリップ小屋に雇われたり、捕鯨船に乗り組んで、南氷洋まで出かけたりしましたよ。ことのついでだから、地球の果てまで行ってやれ、という気持だったね。どうせ人差指といっしょに、方向なんかなくしてしまったんだから。流れに逆らうより、身を任せた方がラクだ、と思って――」

「南氷洋とは、またずいぶん遠出したもんだね」

「しかしあそこはきれいだったなあ。氷山がたくさん浮んだり動いたりしてて。白色氷山や、青色氷山。青々と透き通っているんだ。そんな景色を眺めながら、私は時々、あんたのことを憶い出しましたよ。あの男は今頃、どうしてるかなあってね。あの時あんたは、賭け金をにぎると直ぐ、今来た道をとって返しましたね。あれはどういうつもりだったんだろう、そんなことも度々考えたね。私と賭けをやるために歩いてきたんじゃないんだから、戻って行くのは変だね。まっすぐ歩いて行くべき筈だからね。やはりあの道を通っていたのも、なにか用事があったからでしょう?」

「用事というほどじゃなかった」私は眼底にあの白い花々の色を思い浮べながら「――散歩みたいなものだったな。もっともあの時の僕は、すこしは気持が動転してたかも知れないが――」

「あの金をあの男は、どんな風(ふう)につかったんだろう。鯨捕りのいそがしい最中、そんなことがふいと頭に浮んでくる。あれで酒でも飲んだかな、それとも女でも買ったかな。それをあれこれ推測したりしながら、せっせと仕事にかかっている。自分ともう関係のないことなんだから、どうでもいい話なんだが。ところがこんな地球の果てまで来てるのも、あの金のためのような気がしてね。あの金さえあれば、すでに自分は故郷に戻っている筈なんだ。それを取られたばかりに、こんなところでせっせと苦労している。つまり俺の身の代金(しろきん)が、どんな工合に使われたか。人間というものは、因果なもんですね。あんな壮大な景色の中にいながら、そんなことばかりを気にかけていてね。――」

「この靴を見て、ガッカリしたかい」

 と私はも一度靴を横につき出した。男は誘われたように咽喉(のど)の奥でみじかく笑った。へんに内にこもったような、復雑な笑い方だった。そしていくらか冗談めかした口調で言った。

「その靴、私に呉れませんかね。故郷(くに)へ穿(は)いて帰るのに、一番ピッタリしてるようだから」

「やはり帰るのかい」

「ええ。今度こそはね。しかしこの決心をつけたのも、別にあんたと逢ったからじゃない。一週間ほど前から、今度こそは、と思ってたんですよ。しかしたまたまあんたに逢えて、ほんとにうれしかった。久しぶりに旨い酒を飲んだような気がしますよ、ほんとに」

 男は四本指の掌をひらひらさせて、眼の前の空気をはらうような仕種(しぐさ)をした。額も頰もほのぼのとあからんで、もう相当に酔いが廻っているように見えた。

 

 その夜、私はその靴を彼にゆずり渡し、かわりに彼の板裏草履(ぞうり)を貰いうけて、別れをつげた。その靴を穿いて彼が故郷にかえったかどうかは、その後の彼に逢わないから私は知らない。故郷に帰ったとしても、あの靴は相当に傷んでいたから、田舎道を歩くためには、微底的に修繕しなくてはならないだろう。かえって修繕代が高くつくから、あるいは納屋(なや)のすみにでも、うち捨てられているかも知れない。それならば、それでもいい。あの靴としても、靴としての役目はすっかり果たしたのだから、いまさら何も言うことはないだろう。

 

[やぶちゃん注:最後に。既にお気づきのことと思うが、この短編には梅崎春生の最後の作品となった、この十四年後に書かれることとなる、かの名篇「幻化」(リンク先は私のマニアックな注釈付きPDF縦書一括版。ブログの分割版もある)のコーダのシークエンスで、丹尾章次が久住五郎に持ちかける凄絶な賭けの、確信犯の遠い濫觴と見てよい。さらに言えば、二人が出逢う契機として配されてある小道具の不思議な「白っぽい花」も、同じく「幻化」の行きずりの女と出逢う「白い花」の妖艶な章のダチュラの花を強く感じさせるものである。さらに言えば、人差し指を欠損したこの男は、また、「幻化」に応じるところの名作「櫻島」(同前の電子化版。同じくブログ分割版もある)の耳朶のない娼婦にも通っているではないか。]

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