[やぶちゃん注:目次では「虛舟の蠻女」。「うつろぶねのばんぢよ」。琴嶺舍滝沢興継の発表であるが、例によって、馬琴の代筆である可能性が高い。私は既にサイト「鬼火」のホーム・ページ上に「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーンの『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』として私の高校教師時代のオリジナル授業案の冒頭に電子化しているが(二〇〇五年)、今回は画像も注も改めてブラッシュ・アップした。実際に横浜緑ケ丘・横浜翠嵐・藤沢総合高等学校で古文の授業として実践したもので、最初の授業は二〇〇四年以前に行ったものと記憶している。この話は、小学校高学年頃に、子供向けに書き直したものを読んで、高校時代に元の本篇を読み、それ以降、ずっと気に入っていた作品である。二〇〇四年当時は、一部の出版物で民俗学的史料としてあった以外は、概ね江戸時代のUFOの漂着事件として「キワモノ」的に扱われていたに過ぎなかったが、教員になった一九七九年以来、ずっと関心を持ち続けていたものであった。現在は、種々の民俗学的考証が行われるようになった。古いものでは、柳田國男の「うつぼ舟の話」(大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された)が良く知られ、それは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で全七回で電子化注してある(関連した柳田國男の「うつぼ舟の王女 (全) 附やぶちゃん注」(昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された)も電子化してある)。「キワモノ」性が好まれ、ネット時代に入ってからは、多くの記事が散見されるようになり(一部は後注で示した)、学術的には、岐阜大学名誉教授田中嘉津夫(かずお)氏(但し、専門は光情報工学)「うつろ舟」伝説研究の第一人者として知られ、二〇〇九年に加門正一のペン・ネームで『江戸「うつろ舟」ミステリー』(楽工社刊)を出版されているものが、刊行物として第一次史料となろうか(田中氏の研究紹介は当該書の刊行直後にテレビで見たが、手頃なものでは、サイト「ニッポンドットコム」の『UFOと日本人:江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って』(二回連載)がよい。但し、私は未見である。ただ、買いそびれているだけである)。正直、二〇〇〇年以降(私が自身のサイトを作ったのは二〇〇五年六月である)の本件のネット上での氾濫を見るに至って、その瞬間、「人が盛んに云々し出したものをことさらにディグするのは、ちょっと厭だな」と感じた。しかし「これではいかん」と思い立って作ったのが、上記の授業案であった。今回はその授業案をベースにしつつ、当該事件の別記事なども注で電子化して添えおくこととした。今回は底本に従い、段落は成形しなかった。但し、句読点は今まで通り、適宜、追加・変更してある。太字は底本では傍点「ヽ」。最後に言っておくと、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って、漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人で、UFO研究もどきを、やらかしていた人間である。三島由紀夫も入会していた日本最初のUFOの研究団体であった旧「日本空飛ぶ円盤研究会」の主宰者であった荒井欣一氏に友人の目撃報告書を提出し、お礼の手紙を頂戴したこともある。]
○うつろ舟の蠻女
享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、當時、寄合席小笠原越中守【高四千石。】知行所常盤國「はらやどり」といふ濱にて、沖のかたに、舟の如きもの、遙に見えしかば、浦人等、小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけて、よく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)[やぶちゃん注:「盒」のみのルビ。「かうばこ」。]のごとくにして、まろく、長さ三間あまり[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]をもて、塗りつめ、底は鐵の板がねを、段々(ダンダン)、筋のごとくに張りたり。海巖[やぶちゃん注:「かいがん」で岩礁・暗礁のこと。]にあたるとも、打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隱れなきを、みな、立ちよりて見てけるに、そのかたち、異樣なる、ひとりの婦人ぞ、ゐたりける。
その圖、左の如し。[やぶちゃん注:二字下げはママ。]
[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。今回は大きなサイズで取り込み、清拭も周到に行った。実際には右下方に「うつろ舟」、その左上に「蠻女」の絵が配されてあるが、分離して見易いようにした。キャプションは、「うつろ舟」の方が、右下方から時計回りで(カタカナをひらがなにした)、
「鉄にて張りたり。」
これは、本文によって、円盤状ヴィークルの外側の底が鉄板を何枚も段々になるように張り合わせた構造であることを指す。図を見ると、黒い部分に大形の釘、或いは、ボルト状の打ち込みのようなものが確認出来る。因みに、ボルト・ナットは西洋では一七〇〇年代半ば以降の産業革命によって既に普及していた。
「長さ三間餘。」
これは直径。
「硝子障子。外は『チヤン』にて塗りたり。」
とあるが、この「外」とは本体上部のガラス障子の組み込まれた、その辺縁部の接合箇所(図の二重線になっている箇所)を指しているものと私は採る。
最後に、右上方に驚くべき奇体な四種の記号のような文字を、四つ、縦に別に添え描きして、指示線を添え、
「如此、蠻字、舩中に多く有之。」
(此(か)くのごとき、蠻字(ばんじ)、舩中(せんちゆう)に、多く、之れ、有り。)とある。次に「蠻女」の方は、右側腰の辺りに指示線をして、
「『ねり玉』、青し。」
とある。「ねり玉」とは、練り物で作られた飾り玉で、薬物や卵白(但し、それを用いた「明石玉」の発明は本篇時制より後の天保年間(一八三一年~一八四五年)以降とされる)のを練って固め、或いはそれらを繊維に染み込ませて丸め、珊瑚や宝石に似せた飾り玉、或いは、そのように見える立体的な玉状の浮き模様の服装飾である。
左上方に、髪の様子を、
「假髻、白し。何とも辨しかたきものなり。」
とする。これは「假髻(すゑ)、白し。何とも、辨じがたきものなり。」で、「假髻」(すえ)とは元は奈良・平安時代に女性の髪を豊かに見せるために添えた他者の髪で作った添え髪のこと。「髻」 は単独では「たぶさ」で、「頭髻(たきふさ)」の変化したものかとされ、髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。「もとどり」とも称する。後半は、白髪のそれは(白髪の入れ髪自体が特殊であったろう)特異なもので、何で出来ているのか、判別出来なかった、則ち、人毛製ではない、ということを意味している、と私は読む。
左に指示線を添え、
「此箱、二尺許四方。」
(此の箱、二尺許(ばか)り四方)で、約六・〇六センチメートル四方の四角い正方形の箱としかとれないが、図のそれは御覧の通り、長方形の箱であって不審。寧ろ、後で掲げる後代の随筆「梅の塵」の図の箱の方が、このキャプションに相応しい。]
そが眉と髮の毛の赤かるに、その顏も桃色にて、頭髮は假髮(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり【解、按ずるに、「二魯西亞一見錄」「人物」の條下に云、『女の衣服が筒袖にて、腰より上を、細く仕立云々』。『また、髮の毛は、白き粉をぬりかけ、結び申候云々』。これによりて見るときは、この蠻女の頭髮の白きも、白き粉を塗りたるならん。魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ、考ふべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。そは、獸の毛か、より糸か、これをしるもの、あることなし。迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。音「テツ」。]言語(コトバ)の通ぜねば、「いづこのものぞ」と問ふよしも、あらず。この蠻女、二尺四方の筥[やぶちゃん注:「はこ」。]を、もてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくも、はなさずして、人をしも、ちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢[やぶちゃん注:「けみ」。]せしに、
[やぶちゃん注:以下、「食物あり。」までは、底本では全体が二字下げ。]
水二升許、小甁に入れてあり【一本に、二升を二斗に作り、小甁を小船に作れり。いまだ、孰か[やぶちゃん注:「いづれが」。]、是[やぶちゃん注:「ぜ」。正しいこと。]を知らず。[やぶちゃん注:この割注は「一本」から、本話のソースが、少なくとも二つはあったことを明らかにしている。]】。敷物、二枚あり。菓子やうのもの、あり。又、肉を煉りたる如き食物、あり。
浦人等、うちつどひて評議するを、のどかに見つゝ、ゑめるのみ。故老の云、「是は、蠻國の王の女の、他へ嫁したるが、密夫ありて、その事、あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに、王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虛舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を、天に任せしものか。しからば、其箱の中なるは、密夫の首にや、あらんずらん。むかしも、かゝる蠻女の、うつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしこと、ありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる、人の首の、なまなましきが、ありけるよし、口碑に傳ふるを、合せ考ふれば、件[やぶちゃん注:「くだん」。]の箱の中なるも、さる類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]のものなるべし。されば、蠻女が、いとをしみて、身をはなさゞるなめり。」と、いひしとぞ。「この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば、突き流したる先例もあれば。」とて、又、もとのごとく、船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ、推し流したり、となん。もし、仁人の心をもてせば、かくまでには、あるまじきを、そは、その蠻女の不幸なるべし。又、「その舟の中に、□□□□[注:先に出した「うつろ舟」の図の右上方に書かれた四文字が入る。但し、底本では上から二文字目の文字が異なり、「王」のような字の「王」で言うと、三画目の右手から四画目の右端に繋がる線で描かれている。底本の単なる誤りに過ぎないと思われる。後に述べる「弘賢随筆」の同一内容の本文では、このような異同はないからである。]等の蠻字の多くありし。」といふによりて、後におもふに、ちかきころ、浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字、ありけり。かゝれば、件の蠻女は、イギリスか、もしくは、ベンガラ、もしくは、アメリカなどの、蠻王の女なりけんか。これも亦、知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖說共に、疎鹵[やぶちゃん注:「そろ」。おろそか。疎漏。粗略。]にして、具(ツブサ)ならぬを憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。
[やぶちゃん注:「享和三年癸亥」(みづのとゐ/きがい)「二月二十二日」この年は閏一月があったため、一八〇三年四月十三日に相当する。この頃は、幕藩体制の解体が進み、対外情勢の緊迫に伴い、国是の鎖国政策そのものが動揺をきたし始めた頃に相当する。この七年前の寛政八(一七九六)年九月二十八日には、英国船プロビデンス号が松前藩領下の絵鞆(えもと:現在の室蘭)に来航し(ロバート・ブロートン船長は松前藩医加藤肩吾と地図を交換し、十月一日に出港、千島列島のシムシル島に到達したが、厳冬のため、マカオに向かい、冬を越すことにした。翌年五月十七日に沖縄の宮古島沖で座礁沈没するが、マカオで体制を整え、八月十二日に、再び、室蘭を訪れ、港内の測量を行っている。ブロートンは帰国後、「北太平洋探検の航海」を出版し、有珠山や駒ケ岳の様子から「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、蝦夷地に良港があることを世界に広めた。また、絵鞆アイヌとも交流し、その風貌・生活習慣・和人との関係などを随所に書き残している。さらに、ブロートンはヨーロッパ人で初めて津軽海峡を横断、蝦夷地が日本の島であることを実証している。以上は「まちぶらNAVI 室蘭市」のこちらのページの「鎖国時代に英国船が入港していた」を参照した)、翌年の文化元(一八〇四)年九月には、ロシアからの使者ニコライ。レザロフが長崎に入港、通商を要求してくるのである。異人の女の漂着奇談が、まさに開国の機運がここに切って落とされた頃のことであるのは、甚だ興味深いと言えよう。なお、本発表は文政八(一八二五)年十月二十三日であるから、二十二年前と、かなり古い。
「寄合席」「旗本寄合席」(はたもとよりあいせき)。旗本の内で番方・役方に就かない者の呼称。禄高三千石以上が基本であるが、例外もある。「席」は「地位」の意。
「小笠原越中守」ちょっと内容が、新事実の登場のフライングになるので、迷ったが、示すこととする。優れた本事件の研究サイトの一つとして、昔からよく読ませて貰ったサイトに「やじきたcom.」の「江戸時代の浮世絵にUFO? うつろ舟の謎」がある。admin氏の著になる全九回で、私の所持しない資料も細かに考証してあって、頭の下がる数少ない本事件サイトである(本事件サイトの多くは、オカルト系の記者が多く、古文献の判読が出来ないのに、史料だけをバンバン貼り付けて、面白く感じながらも、誤りが致命的にひどいものが、これ、甚だ多く、この事件から、一時、距離を置いたのは、そうしたいい加減さが目に余ったからでもあった。しかし、そういう点では、このadmin氏の考証はディグの仕方が正鵠を得ており、殆んど、文句の言いようがないほど優れているので、早晩、紹介しない訳には行かないので、ここでリンクした。そのシリーズの第五回「■事件は常陸の国ではなかった?」で、admin氏がこの人物を突きとめておられるのである。小笠原越中守宗昌(むねのり)で、四千五百石、知行地は伊勢と常陸とある。しかし、admin氏は、そこで、『常陸の国での小笠原越中守の知行地は、実は内陸部であって、沿岸部ではない』とするのである。しかして、房州(安房)を知行した小笠原安房守正恒という人物が示されてくるのである。……しかし……ここは常陸であって、安房ではない……ここに新発見の候補地がクロース・アップされて、admin氏の怒涛の「蛮女」の追跡が始まるのである……或いは、そのままadmin氏のシリーズを読まれた方が面白いかとも思うが……まあ、どちらを選ばれるかは、読者にお任せしよう。
「知行所」旗本が支配地として給付された土地。但し、支配地とは言っても、実際に赴くことは稀れであった。但し、知行地内での事件(本件も、当然、含まれる)・不始末については、定期的に人を遣わして調べておかないと、由々しき事態では管理不届きとして罰せられることもあった。
「常陸國」現在の茨城県。
「はらやどり」後掲する酷似した話を載せるずっと後の随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序)では「原舍濱(はらとのはま)」と記載する。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名としては孰れも存在しない。但し、先の二〇〇五年の授業案では、『最近、大洗と鹿島の中間地点のある大竹海岸に、この話をもとに遊具を兼ねた円盤形のモニュメントが作られた』(後に撤去されたようである)。また、『インターネット情報では、子生(こなぢ)海岸という』『かなり』『を発見した。この』場所は、『そのモニュメントが』あった『海岸から北へ五、六キロ行った場所であ』り、『海岸線を辿っていくと、そこが』その『子生海岸』で、『ここには子生弁天があって、ここにお参りすれば子供を授けてくれると、古くから信じられているという』(当時の内田一成氏のサイト内に拠った)『とあって、伝承といい、名称といい、これは同定としては極めて信憑性が高いと思われる』と記した。そのライター内田一成氏の姓名から、現在の内田氏のブログ「レイラインハンター日記」の「はらやどり浜と子生(こなぢ)弁天」を見つけた。それによれば、
《引用開始》
この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。[やぶちゃん注:中略。]
かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。[やぶちゃん注:中略。]
はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。
子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命[やぶちゃん注:「いちき(いつき)しまひめのみこと」。]で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。
国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。[やぶちゃん注:中略。]
周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るという[やぶちゃん注:脱字があったので補正した。]考え方も風水の発想と同じだ。
はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。
《引用終了》
なんとなく懐かしい旧友に逢えたような感じがした(但し、私はレイ・ラインについては強く懐疑的である。メルカトル図法を始めとして我々の使用している普通の地図上の直線は実際には厳密には直線ではないし、任意の地点から無作為に地図上に直線を引けば、特定の擬似共時対象の施設・地形・伝承を、その線上や周辺に「ある」とすることは実は誰にでも可能で、ごく簡単に出来てしまうことだからである。私の知人にもそうしたレイ・ライン信望者が複数いるが、黙って笑って聞き流すことにしていることは言っておく)。内田氏の記載に従って調べて見ると、茨城県鉾田市の大竹海岸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、ここから海岸線を六キロ半ほど北へ行ったところが、子生(こなじ)(子生郵便局が確認出来る)の海岸域で、地図上では内陸の子生地区の南の端の東方の海岸が野田海岸、同地区の北の、内田氏の指摘される厳島神社の真東の海岸が玉田海岸である。同社地図のサイド・パネルのこちらの写真の說明板によれば、『承暦弐年』(一〇七八年)『安藝の宮島より勧請せしと言われて』おり、『享保弐年』(一七一七年)『領守岩田廣道奉る神鏡の刻文に世々相伝されて』あり、『「安産をこの神に祈らば則ち安泰なり」故に子生村と号すと言い伝えられており、領守崇敬の神社である』とある。
さて、以下、私は授業案では、《地名の表記に隠されたもの》と題して、
――実はさりげないこの表記にこそ、この話の内包する民俗学的或いは諧謔的な意味が隠れていはしないだろうか。まず、「常陸」は「常盤」「常磐」「ときは」で、本来、実在の地名ではなく、中世の草子や説経節等の語り物などに出現する、この世ならぬ国を示すことに注意しなくてはならない。それは、戌亥(北西)の方角に存在し、そこには祖先の霊がおり、富や豊饒をもたらしてくれるユートピアと考えられた。「常陸」=「ときは」とは「常にその性質を変えずに存続し続ける岩石」の意味であるが、「常」の字の共有から「常世」と混同され、ほぼ常世と同意に用いられたと考えられているのである。すなわち、この伝承自体は、この世の事ではない「常世」の国の出来事として、本来、作話された可能性があるということである。そう読んだ時、「はらやどり」という名称も、妙に気にかかるのである。「はら」は「やどり」との関係から考えて「腹」であり、これはまさに「うつろ舟の腹(内部)に宿っていた(乗っていた)」女が』(誕生する=)『上陸するに格好な名称ではないか。先に紹介したインターネット情報で子生海岸を同定した内田氏は、そこで、『子生の弁天様にお参りして、子供が腹に宿る。まさに「はらやどり」そのままではないか。兎園小説がまとめられてから二〇〇年あまり、「はらやどり浜」は鹿島灘のどの海岸を指すのか謎だったわけだが、それが、いともあっさり解明されてしまった。もっとも、それをまた検証してみなければ、はっきりと解明されたとはいえないわけだが、謎解きは、得てして、そんな風に気抜けするほど、悩みに悩んだ答えがあっさり見つかったりするものだ。それに、「はらやどり浜」=「子生浜」という図式は、自分の中で正解だという手ごたえが感じられる』と述べておられたのであるが、逆に、そのような子宝伝説のもとに、この「うつろ舟の蛮女」の伝説が作話されたと考えることも出来よう(これは勿論、子生の弁天の由来の考証をする必要がある)。――馬琴は稀代の戯作作家である(本作を私はまさに馬琴の代作と考えている。その根拠は頭書と地の文の相補性と文体の連続性である)。恐らくこのような民俗学的な言語パロディを面白く思っていたに違いない。しかし、考証オタクでもあった彼は、書くうちに現実的解釈を続々と追加してゆく。その中で、彼はこれを事実の物語と変成させてゆくのである(明らかに後代の作品である「梅の塵」が完全な事実談として記載しているのは、まさに、この江戸の都市伝説が信じられる噂話として変化していったであろう証である)。――誤解してもらっては困るのだが、私はこの話をフィクションだと言っているのではない。まさにこのエピソードは、虚実皮膜の面白さと、その後の典型的な流言の変遷過程を示す格好の資料という側面を、まずは持っていると言える、ということを確認したかったのである。民俗学的考察や心理学的分析とは、そのようなパラレルなものであることを知ってもらいたいのである。――(一部を改変した)
と教え子の高校生に向けて述べたが、その気持ちは今も変わらない。
しかし、その後、別に新たな有力な新候補地が出現した。
二〇一四年五月二十六日附『茨城新聞』の『UFO「うつろ舟」漂着地名浮上 「伝説」から「歴史」へ一歩』という記事(鹿嶋支社・三次豪記者)に(私の蒐集したネット・アーカイブから)、『江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない』。『「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した』(中略)。『それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字』(じあざ)『としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある』。『現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある』。『田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い』(以下略)とあって、別な候補地が出現しているからである。この記事には別な同じ『茨城新聞』の先行記事(同じ三好記者)があって、当該新発見の記録には、『漂着地は「常陸原舎(ひたちはらしゃ)り濱(はま)」と記されている。江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)に当たる』。所持しておられる『川上さんは「先祖は参勤交代の警備などにも当たっていた。江戸時代の外国船が入ってきたころに、各地の情報や風聞などを集めた文書の一つではないか」と話』し、田中氏によれば、『紙や筆跡から』、『江戸末期から明治時代に書かれた文書で、最後に』「亥(い)の年」(享和三(一八〇三)年)『二月二十六日」と書かれ、これまでの史料の中で最も古い文書か、またはその写しとみられる。過去に見つかった史料でも、漂着したのは同年2月22日とある』。『新史料の漂着地は「如斯(かくのごとき)の船常陸原舎り濱と申す處(ところ)」と実在地名が記されているが、過去の史料には地図などで一致する地名はなく、ばらつきもあった』。『日立市内で2012年、江戸時代の海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家で見つかった史料は「常陸原舎濱」、兎園小説は「はらやどり濱(原舎濱)」となっていた』。『田中名誉教授は「実在の地名『常陸原舎り濱』が、伝言ゲームのように間違って伝わったのではないか」と分析する。新史料について「これまでの色々な文書、伝説の元になった文書の可能性が高い」とみている』。『新史料のそのほかの内容は過去の資料とほぼ同じ。奇妙な円盤型の物体の絵や記号のような奇妙な文字、変わった衣装を着た女性の絵など描かれ、不思議な物体が流れ着いたという事件について記されている』とある。
その新候補地である神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさきしゃりはま)は、ここである。御覧の通り、犬吠埼に近い場所である。サイド・パネルには二〇一八年に投稿されたナマ臍出しの妖艶な女性とカップ・ラーメンみたような奇体な漂着再現写真があるぞ!
確かに「原舍濱」(はらしゃりはま)の文字列は「はらやどり」(「腹舍(はらやどり)」)と読んだとしても突飛とは言えない。寧ろ、私は後者で訓読してしまうかもしれない。但し、かといって、私は、以下の理由から、これが決定的なロケーションだと安易に賛同することはとても出来ない。田中氏はそこで『江戸末期から明治時代に書かれた文書』と鑑定しており、後者であれば、逆にこれが氏の言う『伝言ゲーム』によって、後に派生した、作り替えられた後代の代物の一つの写しに過ぎない可能性を排除出来ないからである。しかも、『舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう』となると、この漁師らによる発見・引き揚げ・当地の漁民らによる集団議論・突き放しという、本話のモブな騒擾的シチュエーション自体が非現実的なものとして、逆に信じられなくなるからである。
「香盒(ハコ)」正しくは、これで「かうがふ」(こうごう)と読み、香料を入れる容器を指す。漆塗・蒔絵・陶器などがある。但し、「香合」「香箱」とも言うので問題はない。円盤状を成す。
「チヤン(松脂)」通常は瀝青炭を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる松脂もこのように言ったのであろう。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。
「假髪」図の私の注を参照。髪を結う時に添え入れる髪。いれげ。鬘(かつら)の一種である。
「解」「とく」で滝沢馬琴の本名。もとは「興邦」(おきくに)と言い、後に「解」と改めた。
「二魯西亞一見錄」作品を同定出来なかった。但し、思うに最初の「二」は「按ずるに」の「に」の衍字ではないかと私は思う。しかし、この文字列の「魯西亞一見錄」というのは見当たらず、「魯西亞見聞錄」という書名をネットでは見出せるが、これもまた、今回も、この正確な書誌情報を見出すことは出来なかった。
「筥」「はこ」と読めるが。本来、この字は、四角い箱の意味の「筐」の対語であって、「筒状の丸い箱」を指し、図のそれとは異なる。
「菓子やうのもの」パンかクッキー様のものであろう。
「肉を煉りたる如き食物」腸詰(ソーセージ)の類か、もしくは、レバー・ペーストであろうか。保存食ならば、燻製肉か干肉であろうが、「煉」は「ねる」であって、そのような意味はない。
「虛舟(ウツロブネ)」は「うつほぶね」「うつおぶね」等とも表記する。漢字は「空舟(船)」とも。本来は、「大木の中を刳り抜いて造った丸木舟」を指す。但し、ここでは、中が中空になった海上に浮かぶ舟様の建造物を言っている。
「雜費も大かたならぬ」このような事件の場合、幕府からやって来る官憲の出張や、その接待の費用は、総て現地の人々の負担となった。寒漁村にとっては、大いに迷惑であったのである。
「ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船」「兎園小説」成立の一八二五年より以前で、このような事実を調べると、文政元(一八一八)年五月(文化十五年は四月二十二日に改元)のイギリス人ゴルドンの浦賀来航を指していると思われる。「打払令」によって撃退(イギリス船と誤認)された著名なアメリカの商船モリソン号の来航は天保八(一八三七)年六月二日のことであって、違う。
「歇(カヽ)りたる」この字は「やむ」「つく」としか訓じないが、この字の「やすむ」「とどまる」の意味で、「繋留」の「繋」の訓を借りたものと思われる。
「ベンガラ」縦糸が絹糸、横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。
ここで、話をスムースに続ける関係上、何度か言及した、同じ事件を記した随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序。「兎園小説」の本篇の発表の文政八(一八二五)年十月二十三日から十九年後)を吉川弘文館随筆大成版(第二期第二巻所収)のそれから、例の通り、漢字を恣意的に正字化して示す。図も新たにトリミング補正し、清拭した。句読点は私が追加・変更し、一部に私の推定読みを《 》で歴史的仮名遣で補った。丸括弧のものは原本のルビである。なお、著者は長く本名不詳・事績不詳であったが、ネット上の信頼出来る書誌データには上記の名前だけはやたらに確認出来る。同書は無窮会専門図書館蔵ともある。しかし、それ以外の長橋亦次郎なる人物は未だにやはり不明である。
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○空船の事
享和三癸亥年三月二十四日、常陸の國原舍濱(はらとのはま)と云《いふ》處へ、異船、漂着せり。其船の形ち、空(うつろ)にして、釜の如く、又、半《なかば》に釜の刄《は》[やぶちゃん注:見ての通り、羽釜の袴のこと。]の如きもの、有、是よりうへは、黑塗にして、四方に窓あり。障子は、ことごとく、チヤンにて、かたむ。下の方に筋鐵(すじかね)をうち、何《いづれ》も、南蠻鐵の最上なるもの也。總船《さうせん》の高さ、一尺貳寸[やぶちゃん注:三・六四メートル弱]、橫(よこ)、徑(さしわたし)一丈八尺[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]なり。此中に、婦人、壱人ありけるが、凡《およそ》、年齡二十歲許《ばかり》に見えて、身の丈、五尺[やぶちゃん注:約一・五一メートル。]、色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後《うしろ》にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計《いふばか》りなし。身に着《つけ》たるは異(こと)やうなる織物にて、名は知れず。言語は、一向に、通ぜず。また、小《ちひ》さ成《なる》箱を持《もち》て、如何なるものか、人を寄せ付《つけ》ずとぞ。船中、鋪物(しきもの)と見ゆるもの、二枚あり。和らかにして、何と云《いふ》もの乎《か》しれず。食物は、菓子と思鋪(おぼしき)もの、幷《ならび》に煉《ねり》たるもの、其外、肉類あり。また、茶碗一つ、模樣は見事成る物なれども、分明(わか)らず。「原舍(はらとの)の濱」は、小笠原和泉公の領地なり。
■やぶちゃん注
この「梅の塵」の方は、記載量が少なく、事後のことも記載しない不完全なものであるが、幾つかの必要条件としての基本情報に決定的違いが見られ、また、微妙に「兎園小説」の不明部分を補完しているとも言える。その点で、これは「兎園小説」とは別ソースの同話の情報・記録・風聞から得たものとも思われる。
・「三月二十四日」:「兎園小説」の二月二十二日より三十二日後で、グレゴリオ暦では五月十五日である。
・「舟の高さ一尺弐寸」:「兎園小説」にはない貴重なデータである。
・「橫徑一丈八尺」:単位が異なるだけで、「兎園小説」と一致する。
・「凡、二十歲許」:新情報。
・「身の丈、五尺」これも「兎園小説」にはないデータ。
・「色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計りなし」「兎園小説」とは髪の描写が全く異なる。言語を絶する美人であったことを記している点にも、着目すべきである。但し、決定的相違点に見える髪の描写も、私は、当時、ヨーロッパで男女に普通に流行していたシルバーの鬘(かつら)に着目した「兎園小説」と、その下に流れ垂れている実際の長い髪に着目したのが本編と考えるならば、必ずしも違和感はないように思う。
・「鋪物」敷物。これに限らず、総じて「兎園小説」よりもヴィークルと謎の女の観察が行き届いていて、こちらの方がリアリスティクに記されてある。恐らくは高級なベルベットかタペストリー状の厚い織物であったのであろう。この女性の高貴な出自を感じさせる重要なファクターでもある。
さて。ここで、以下に私の授業案の考証部を一部改変して記す。
*
《海上に不時着した「空飛ぶ円盤」?――「うつろ舟」の形状》
超常現象を否定する識者も、やや、この「うつろ舟」の形状には頭を悩ますに違いない。以上「梅の塵」と合わせて見ても、これがまさにUFOの定番の如き「空飛ぶ円盤」状を成し、その直径五メートル四、五十センチメートル内外、それに比例させて、人が入れることを考慮すると、「梅の塵」の方に高さ約三メートルとあるのは物理的に腑に落ちる数値で、実際に作図して見ると分かるが、「梅の塵」が載せている円球状ではなく、実は「兎園小説」の図以上に、お約束的な横にスリムな円盤状となるのである。更にご丁寧にも「梅の塵」の図ではフライング・ソーサー染みた周辺翼(はかま)も付属した、かなり巨大なものなのである。
かくの如き船型は、それこそ現代のエアー・バルブの大型救命ゴム・ボートにならあるが、古来の伝統的な通常の洋船・和船には見られないものである(樽船や「たらい船」があるが、このように上面を完全に覆った円盤状のものは、少なくとも私は寡聞にして知らない)。
但し、これが「兎園小説」の古老の言うように、刑罰を目的とした特殊なものであって、そのようなものが他国にあった可能性は否定出来ない気はする。
《白人美形の宇宙人は宇宙人とのコンタクティを称したジョージ・アダムスキーの逢った金星人? 「うつろ舟の女」は何者か?》
しかし更に言えば、これは刑罰ではなく、ある種の宗教的儀礼に用いられる神聖な(従って実用的形状ではないと言える。当時の操船技術から考えても、この形状が航行可能な船舶の形状とは思われない)船、死者を異界へ流し送る精霊船(しょうりょうぶね)、或いは補陀落(ふだらく)渡海(以下で説明する)の僧を流したそれと同じようなものであった可能性もあると私は考えている。
本邦でも、一時期、補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの漢音写)に向かって決死の船出をする、熊野以南の補陀落渡海信仰があった。屋形船の木製コンテナの中に幾ばくかの食物を入れて渡海の上人を釘で逃げられぬように密閉し、沖へと送り出したのである。実際に琉球に生きて漂着し、仏法を普及させた渡海上人もいる、実際に行われた無謀な信仰仕儀である。
そしてそもそも、「古事記」の倭健命(やまとたけるのみこと)の神話中で、走水の海渡りの際、神を鎮めるために、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が彼に代わって入水した例に示されるように、古今東西、海洋系の神は、女の生贄を好むものなのである(船乗りが女性の乗船を嫌うのは、一見、逆に見えるが、これは後代、海神が弁財天のように女神化されたために、嫉妬すると考えられたからではないかと思われる。何より実際には、和船においては、古くから、航海の無事を祈って、船底に密かに祭られる呪物が、女性の髪の毛や陰毛であったりする事実は余り知られていない)。
まさに女神の性質を感じさせる地名である「はらやどり」の村人たちが、自分達の村の平穏のために「推し流し」たように、この女性もそのような神への供儀として「推し流」されてきた者、一種の生贄の巫女(シャーマン)であったとさえ言い得るのではなかろうか? 今後は、このような民俗習慣がロシア辺り(後述する文字検証を参照)にあったかどうかを考証する面白さが残ると言えよう。
私には、村人の談合を、黙って、ちょっと微笑みつつも見つめている寂しげな彼女の姿は、ある種の宗教的諦観に裏打ちされた、崇高とも言える美しくも哀しいシーンであるようにさえ、思われるのである。
《鉄人二十八号の金田正太郎少年の無線操縦機? タブーの箱は何?》
彼女の所持する箱は、これ、最大の謎だ。しかし、二尺四方というのは、抱えるだけでもちょっと難儀な大きさではないか? 「梅の塵」では《小さな箱》と表現しており、もう少しコンパクトであったのかもしれない。私は前記のように彼女が巫女であったという推測から、これはある種の神文、或いは、呪具や、神への祝詞に類するものが封印されたものと考えるのだが、「兎園小説」の古老の《処刑された愛人の首》が入っているという考察は、なかなかに文学的浪漫的な味わいがあり、このエピソードを魅力的にしている最大の山場であろうと思う。しかし、同時に、それだけ、曲亭馬琴の創作部分の臭いが、プンプンしてくるところでもあるのである。この謎は、この「作品」の「文学的眼目」とも言えよう。この謎あってこそ、この話は永遠にエンターテインメントとして我々を楽しませてくれるのである。
《E.T.の宇宙文字? 奇体な電子的記号にしか見えない蛮字の検討》
次に、この図に見える奇態な文字について考察してみよう。
そもそもこの絵自体の資料性は、「兎園小説」の図の婦人図のキャプションで「四方」と言いながら、指示線の先にある箱はトンデモ長方形をしている点や、ヴィークルの、かなり細部まで描き込まれてある船底の細部(ボルト状の構造物や鉄板の白黒の有意な描き変え等)についての説明が全くない点など、検討に値するものとは言えない面があるのであるが、作者滝沢興継自身(実は父馬琴)が、この字体に対して、後日、この字から強い現実的な考証の意欲を示しているわけで、作者のそのような興味を喚起するだけの、ある種の強い実際の西洋言語表記文字との「類似性」を、この図の文字は持っていたのだと考えざるを得ない。即ち、この字形は、いい加減に創作されたものではないと考えてよいと思われるのである。
まず考えられるのは、これらが実見されて書かれたものであるとすると、当時の日本人の習慣から、船中に書かれた文字を、日本風に縦に見たに違いないと推理されるということである。とすれば、これは連続した意味ある単語ではなく(「等の蛮字の多くあり」という記述がそれを物語っている)、横書された各文字列の内、記憶に残り易かった特徴的な字(大文字或いは装飾性の高い字等)を選び出して、それを、知らずに☆横転☆させて写したものと考えるのが自然であろう。
そうだとするなら、これらの文字は、横にして検証すべきなのある。
「梅の塵」の記載では、船底にはベルベットかタペストリー状の敷物があったとあり、文字は船の下半分の内部側面に記載されていたと考える時、一層その妥当性が示唆される)。
それでは、まずは次の二種類の文字を見ていただこう。
Ж ж Ф ф
如何であろう、記載された文字の中央の二字と極めてよく似ていると感じられるであろう。これは、それぞれ、ロシア語のキリル文字、
Ж ж
ジェ(英語にはない。「ジェット機」の「ジェ」の音に相当する文字)
Ф ф
エフ(英語の「F」相当で、ギリシャ語のファイ(φ)由来の文字)
である。現代の日本人でも、英語にない、これらの英語にない字形は、初めて見ても、印象に残り易い。さらにその上下(両脇)の字も、同じくロシア文字の、
Д д
デ (英語の「D」相当。現代の若者はこれを絵文字に使っている)
Я я
ヤ (英語にはない。日本語の「や」、別発音では「い」に似た発音)
を、ゴシックのような装飾体や装飾された筆記体で記したものに似ているように思えるのである(このデルタ形の上下の○は装飾字体や草書のカーブ部分を感じさせる)。
馬琴は文中、「イギリス船にも、これらの蛮字、ありけり」と英語の文字と同じものだと言っているのだが、装飾されたり、ゴシック体で書かれた英語のアルファベットは(それが全く異なった言語体系のロシア文字であったとしても)、それは日本人にとって恐らく全く同じ印象を与えたに違いないのである。ここに於いて、俄然、この女性の故郷がロシア又はその属国という馬琴の考証の確かさが伝わってくるではないか。
ちなみに、面白いことにヨーロッパ・ロシア地域で、嘗つて頻繁に目撃されたとされるUFO(未確認飛行物体)の特徴の一つが、船底に「王」「Ж」の字を刻んだ円盤であったことを思い出すのである。ご丁寧に「ウンモ星人」という宇宙人の名前(?)も分かっている!? 例えば、サイト「ミステリーニュースステーションATLAS」の『イベントでUFO召喚にも成功!?様々なUFO事件に関わる「ウンモ星人マーク」とは』を参照されたい。そこでは本篇にも言及しているのである。但し、この写真は複数の学術的なUFO研究者によって、既に偽物と断定されている。しかし、心理学的・民俗学的には、「王」の字のようなこの奇体なマークをフェイクのUFOに仕込んだという点では、「空飛ぶ円盤」という大真面目な精神分析学書を書いている、かのユングの言う集団的無意識説から、別な興味が湧いてくる。
ともかくも、二百年を隔てて、我々の前に同じ「王」のマークが出現した(偏愛する「ウルトラQ」の、「鳥を見た」で一の谷博士が言う台詞だ!)ことが、何だか、それだけで、ゾクゾクするキッチュな面白さを感じるではないか!
それにしても我々は、常世から漂着する賜物を受け取りながら、その実、厄介になりそうなものを必ず海に「推し流し」て生きて来た。海洋汚染をし続ける現在も構造は同じである。そうして海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれるはずのニライカナイは、我々に望まざる返礼をしてくるとも言えるのではあるまいか?
*
この最後の二十一年前の自分の考えは、全く変らない。それどころか、より激しく次のように言い換えたい。
それにしても、我々は、常世から漂着する物・者を賜物(たまもの)として都合よく受け取りながら、その実、厄介になりそうなものは、必ず、海に「推し流し」て、生きて来たではないか! 海洋汚染をし続ける現在も構造は全く同じであり、もっと深刻である! 福島原発事故で生じた多量の高エネルギー核廃棄物である汚染水を、平然と、押し流そうしている日本人は、「はらやどりの浜」の漁民たちと、立ち位置に於いて、全く同じ、全く進歩していないどころか、遙かにタチが悪いではないか! そうして、かく海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれたはずの海の彼方のニライカナイは――我々に望まざる返礼――究極のカタストロフ――を齎す――とも言えるのではあるまいか?!
と。
さて。これで終わっては、私の古い授業案の単なる焼き直しに終わってしまうことになる。そこで、以下、幾つかの本篇と同じ事件を扱ったものを画像で示し、且つ、電子化注して示し、比較したいと思う。
まず、一つは、本篇が転載されてある、別な書物で、「兎園会」会員の江戸幕府御家人(右筆)で故実家であった輪池堂屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)が、後年、手元にあった雑稿を取り纏め、全六十冊に綴った随筆「弘賢随筆」のそれから始めよう。現在、その中の当該部である「うつろ舟の蛮女」は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」こちらで写本を見ることが出来、画像もパブリック・ドメインで使用許可が出ている。これは「兎園小説」の本篇を、ほぼそのまま、写した内容で、多少の表記の違いはあるものの、本文はほぼ同じであるから、電子化はしない(写しで崩し字だが、かなり読み易いのでご自身で読まれたい)。しかし、これが素敵なのは、図が彩色で描き直されてある点である。なお、本文の異同の内、注記すべき箇所は、
○「段々(ダンダン)」→「段〻(ダンダラ)」
○「頭髮は假髮(イレガミ)なるが」→「頭髻(タフサ)は假髮(イレガミ)なるが」
○馬琴によるものと思われる頭書はない。
○「檢せしに」→「檢(ケミ)せしに」
○「孰か是を知らず」→「孰か是(ヨキ)をしらす」
○「敷物二枚あり」で改行している。
○「蠻國の王の女」→「蠻國の王のむすめ」
○「虛舟(ウツロブネ)」→「虚(ウツロ)舟」
○「合せ考ふれば」→「合し考ふれば」
○私の推定した通り、本文に示された奇体な「王」の字みたような二番目のそれは、図と同じであることが判った(吉川弘文館随筆大成版の本文の画像組み込み時の誤りということになろう)。
○「アメリカ」「ベンガラ」「アメリカ」には傍点等はない。
○「蠻王の女」→「蛮王の女(ムスメ)」
○「憾」→「憾ミ」
である。以下に図を示す。トリミングをしてもいいようだが、所有者である「国立公文書館」の文字の入った全画面で示した。かなりサイズが大きいが、これでもダウン・ロードしたサイズを五十%に減量したものである。
キャプションは表記上の若干の違いがあるが、注記すべきものではない。但し、婦人の絵は大いに異なる。まず、地毛は赤毛であり、垂れた鬘は真っ白である(「梅の塵」の著者が本書に本図を全く見ていないことが判る)。さらに、服の模様が全く描かれておらず、「ねり玉、青シ」の指示線は、上着の前の合わせ部分に複数認められる鈕(ボタン)の一つを明確に指していることが判る。「兎園小説」の図では、その指示線は上着のところで切れており、あたかも、その服の全体の模様の解説のように見えてしまう(私は前の図注では、そうした上下衣服全体にそれが及んでものとして注したのだが、これは「ねり玉」として鈕を指していることが判明する)。さらに、スカート様のものの裏地が赤いことと、靴の底の周囲がやはり赤いこと、箱は黄色或いは黄金色であることも判る。
続いて、久松松平家の家臣で、幕閣老中筆頭を勤めた松平定信に三十年の永きに亙って仕えた駒井鶯宿(おうしゅく 明和三(一七六六)年~弘化三(一八四六)年:名は乗邨(のりむら)。彼は定信の先代の養父であった定綱系久松松平家松平定邦から定信・定永・定和・定猷(さだみち)に至る五代に仕え、それは延べ実に六十八年に及んだという)が広く書籍を渉猟して書写した膨大な叢書「鶯宿雑記」(文化一二(一八一五)年、鴬宿五十一歳の時の起筆で、その後三十年間で全六百巻を書き続けた)に載る本事件である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(自筆本)の左丁の後ろから三行目から始まる。以下に電子化する。発生日時と場所が異なる。句読点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で振った。かなり判読しづらい部分があった。
*
うつろ舟の蛮女
享和三年亥八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦、小笠原越中守、知行所より、訴出候に付、早速、見屆に參候処、右、漂流舩其外、行へ、一向に相分り不申候ニ付、幸大夫之(の)遣(つかひ)候由(よし)也(なる)「紅毛通し」[やぶちゃん注:紅毛通詞。]も參り候へ共、相分り不申候由也。ウツロ舩の内、年の[やぶちゃん注:ここで改丁。]比(ころ)、廿一、二才ニ相見エ候女、一人、乘玉(たまひ)て、美女也。舩の内に、菓子・淸水も沢山に有之。喰物、肉漬の樣成(やうなる)品、是、又、澤山に有之候由。白き箱、一つ、持(もち)、是は、一向に見せ不申。右の箱、身を放さす、無理に、「見可申(みまうすべし)。」と申候ヘは、甚、怒候由。
[やぶちゃん注:以上の前丁には画像を見て戴くと判る通り、頭書(最後は最終行の左手を侵して下方まで続く)がある。本文に出る幸大夫についてのそれである。以下に電子化する。■は判読不能字。最初の「■■■」は書名であろうが、判らぬ。「舩頭」の後も判らなかったが、約物「乄」であろうと、一応、踏んだ。最後の「經世(よをふること)、久し」は無理矢理、捻じ込んで読んだ。大黒屋光太夫(こうだゆう 宝暦元(一七五一)年-文政一一(一八二八)年)は「幸太夫」とも書く。伊勢白子の神昌丸(しんしょうまる)の船頭として、天明二(一七八二)年、江戸に向う途中、遭難、アムチトカ島に漂着した。ロシアの首都ペテルブルグでエカテリーナⅡ世に謁見し、寛政四(一七九二)年にラクスマンに伴われて、根室に帰着、江戸で第十一代将軍徳川家斉の面前で取り調べを受けた後、番町の薬園に、生涯、留め置かれた(と言っても、比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われた後半生であったわけではなかった。詳しくは当該ウィキを読まれたい)。桂川甫周(ほしゅう)の「北槎聞略」(ほくさぶんりゃく)は光太夫の見聞録として有名。]
【「■■■」に、『幸大夫は勢州白子(しろこ)の舩頭乄(して)、オロシヤへ漂流しゝ幸大夫なるへし。今、小石川御菜園ニ御差置(おさしおき)。予もオロシヤ文字を手習有て、經世(よをふること)、久し。】
[やぶちゃん注:挿入図。当該丁と次の二行の本文までトリミング補正して示した。キャプションは、上のヴィークルの右上に、
「ウツロ舩図」
円盤の頭頂頂点に丸印を打ち、そこから指示線を左に出して、
「ラムスリヲトル穴」
これが読めない。思うに、水がなければ、外洋に出た際に、瞬く間に死んでしまう。とすれば、ここに真水を採るための穴(及びその装置)があったと考えるが、妥当であろう。そうするち「ラム」は「ラムビキ」で「ランビキ」に親和性があることが判る。ランビキはポルトガル語の「alambique」が語源で当て漢字で「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具。陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るものであるが、漁師などは、漂流した際に海水から水を得るためにも用いたからである。しかし、「スリ」が判らん。『「ラム」ビキで「スイ」(水)を採る穴』だったら、解決なんだが。判らん! 識者の御教授を乞う。
左下方に奇体な文字四つ。本篇に奇体な字とは明らかに違うが、しかし、また、明らかに同系統の文字であることは判るように思われる。
下方に箱を持つ蛮女の絵。右手で左の前の袷を上に掲げて、箱を隠そうとしている。その動作の瞬間を描いているため、箱の形状が判然としない。体の状態からは、四角な箱、しかも木箱であると私は見た。]
舩、惣(そう)朱塗。窓は「ひいとろ」也。大(おほい)さ【建(たて)八間餘[やぶちゃん注:十四・五四メートル超。]。橫十間餘[やぶちゃん注:十八メートル超。本篇のそれより、遙かにバカでっかい円盤だ!]。】
右は、予、御徒頭にて、江戶在勤のせつの事也。江戶にて、分かり兼(かね)、長崎へ被遣(つかはされ)しと聞しか、其の後、いつれの国の人か、分かりしや、聞かさりし。
*
さても! この記事の素晴らしい部分は、「蛮女」に最初に会話を試みるために、ロシアに漂流して生還した大黒屋光太夫の派遣した通詞を最初に行かせていることである。本篇には一言もない、ロシアとの接点が、通訳不調に終わっているものの、確かに出現していること、則ち、私が二〇〇五年に、本篇に奇体な四つの文字をロシア語であると断じたことと、遂にリンクしている点にあるのである! また、ここでの「蛮女」は人間的で、怒りを露わにしている点でも、かえってそこにリアルなものを感じさせるのである。また、リアリズムは、この図にのみ示されるランビキらしき装置の記載にも、しっかりとあると言えるのである。
さて。お次は、西尾市岩瀬文庫蔵になる万寿堂(詳細事績不詳)編「漂流記集」(天保六(一八三五)年以降の成立とされる漂流・漂着譚十四篇から成る)にあるやはり本事件を記した、またしても彩色図附きの「小笠原越中守知行所着舟」である。残念ながら、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像は、正確に判読出来る大きさとは言えないのだが、しかし、そこで新字体で本文主文部分の翻刻が成されてあった(但し、脱落があった)。さらに、実はウィキの「虚舟」には、この部分の不完全な後半の部分画像がかなりの高画像で、パブリック・ドメインとして出ているのも発見したので、以下に掲げて、その部分の底本とし、加えて、「岩瀬文庫」の「Iwase Bunko Library」(公式サイトではなく、要は同文庫のDVDの販売促進のサイトであるが、同文庫から公認されたサイトではあるのである)の「漂流記集 近世後期写 万寿堂/編」の動画も部分であるが、精密に写し出しているので、それも参考にした。而して、それらを武器として冒頭部分から小さな画像を見ながら、確認して電子化を試みる。読みは推定で私が附し、句読点も添えた。
*
小笠原越中守知行所着舟
常陸國舍ケ濱と申所へ、圖之(の)如くの異舟、漂着致候。年頃(としのころ)、十八、九か、二十才くらいに相(あひ)見へ、少し靑白き顏色にて、眉毛、赤黑く、髮も同斷、齒は至(いたつ)て白く、唇、紅ニ、手は、少しぶとうなれと[やぶちゃん注:「太(ぶと)うなれど」。]、つま、はつれ[やぶちゃん注:「褄(つま)、解(は)つれ」で、褄(長着の裾の左右両端の部分の端が解けていたが、それがまた、みすぼらしくなくて、の意であろう。]、きれい。風俗、至て宜しく、髮、乱(みだれ)て、長し。圖のことくの箱に、いか成(なる)大切の物や入(いり)たりけん、知す[やぶちゃん注:「しらず」。]。大切の品の由ニ候て、人寄セ申(まうさ)じ。音聲、殊の外、かんばしり[やぶちゃん注:ママ。「かんばしき」で「立派な感じの語り方で」の意であろう。「癇走」ったは考え過ぎか。]ものいゝ、不通(つうぜず)。姿は、じんぜう[やぶちゃん注:「尋常」。]ニして、器量、至て、よろしく、日本にても、容顏、美麗といふ方(かた)にて、彼(かの)国の生れともいふべきなり。
一 鋪物、貳枚。至て和らかな物。
一 喰物。菓子とも見へ、亦、肉ニテ煉りたる物、有之。喰物(くひもの)、何といふ事を不知(しらず)。
一 茶碗樣のもの、一ツ。美敷(うつくしき)もよふ、有之。石とも、見へ[やぶちゃん注:ママ。]。
一 火鉢らしき物、壹ツ。■[やぶちゃん注:虫食いで判読不能。「小」にも見えるが、下に熟語として続かぬ。]明ほり、有、鉄とも見。亦、ヤキモノ共(ども)、見。
一 舩中、改候所、如斯の文字、有之。
[やぶちゃん注:ここに本篇と酷似する文字が出るが、御覧の通り、本篇の三字目が、分離して五文字になっている。ここのみ、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像ページにある部分画像を使用させて貰った。]
右之通訴出申候
[やぶちゃん注:この左下に朱の落款があるが、これはとても見えない。
以下、図のキャプションを示すと、ヴィークルの最右に指示線を出して、
「下地、鉄ニテ朱ヌリ。」
その左下方に、
「竪壱丈壱尺。
橫差渡シ三間。」
とある。ヴィークルの最長高は約三・三三メートル。直径は約五・四五メートルである。
ヴィークルの右下方に指示線をして、
「惣、鉄。」
「惣」は「すべて」(総て)。その左にやはり指示線をして、
「筋合ナシ。」
とある。これは「すぢあはせ、無し」で、ヴィークルの下方は鉄板を組み合わせてあるのであるが、その繋ぎ目の隙間や弛んで溝筋となっている箇所が全くなく、ぴったりと接合されていることを意味している。
次にヴィークルの上方を見ると、本体の右上端に沿って文字があるが、画像が粗く、下方に汚損があり、判読が出来ない。最後の判読不能字数も推測に過ぎない。
「檀樹・『シタン』ノ樣子ニ見へ候■■■■■■。」
「檀樹」は「白檀」(びゃくだん:現代仮名遣)でビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album。ウィキの「ビャクダン」を参照されたい。
「シタン」は紫檀。マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。
上部右手で、円形の網格子の窓に指示線して、
「フチ、黒ヌリ。明タテ、自由。」
とある。「フチ」は窓の「縁」、「明(あけ)閉(た)て」の意。
上部中央頭頂部に指示線して、
「此所、水晶。」
とあり、左側の格子型の四角い窓のところに、
『窓、「ビイドロ」ニテ、格子、「スイセウ」。』
水晶の格子にガラスが嵌め込まれているというのは、とんでもない精巧な造りである。
次に、「蛮女」の図。彼女の右方で指示線をして、
「此箱、弐尺四方、白木ニテ、至テ木目ヨシ。」
と言いながら、本篇同様、箱は長方形である。白木で木目がとてもいいというのは、細かな描写として着目出来る。左方では同じく指示線で、上着の鈕を確かに指して(先が鈕の半分を丁寧に半弧で指示してある)、
「此小ハゼ、スイセウ。」
とあって、本篇の「ネリ玉」とは異なっている。
右方下方には、下半身に穿いている着衣について、指示線をして、
「『ビロウド』ニテ、金ニテ、『マダラ』ニ、筋、有之。」
とあり、左下方に、大きな字で、
「惣躰、綿の樣子成る織物にて、シカト、不分明。
色ハ『モヘギ』。」
と記してある。この「蛮女」の服装は、どれよりも異国風で、下に履いている独特の網目模様が強烈で、一目見ると、忘れられない。上着にか星形や円形の刺繡のような模様が散らばっており、襟には、カフスの風の止め金具のようなものさえも見える。頭髪は長いが、白い鬘は認められない。但し、頭頂は有意に丸く髻状に突き出ており、入れ髪をしている感じはする。因みに、その髻の下方を白い紐のようなもので括ってはある。
本篇の電子化注を初めて既に二日目の夜になった。いい加減、疲れてきた。他にも紹介したい資料はあるが、原画像を入手出来るものが限られているから、前記の「漂流記集」のものを、木版摺物にした瓦版(作者不明・船橋市西図書館蔵)が、ウィキの「虚舟」にパブリック・ドメインとして載っている(但し、そのキャプションの「長橋亦次郎の描いた虚舟」というのは、大間違いである。「長橋亦次郎」は「梅の塵」の作者だから、先に出した方をここに入れねばおかしいのだ!)ので、それを掲げて、電子化して終りとする。句読点を独自に打った。なお、この瓦版の画像は「ADEAC」のここで精密画像として見られる。
[やぶちゃん注:冒頭に例の奇体な文字列。但し、三字目が、ここでは「○」と「(┓)と(━)を重ねた記号」と「○」に致命的に分離されてしまっている。なお、次の一文は一字下げとなっているのはママ。]
如此の文字舩の中にあり。
[やぶちゃん注:以下、書き出しの「一」は頭出しで、後は元画像では、字下げである。「一」の後は一字空けた。]
一 去亥二月中、かくのことくの舟、沖に相見へ申候所、又、しばらく見ヘ不申候。然ル此度 小笠原越中守樣御知行所常陸國かしま郡原舍ケ濱へ、同八月のあらしにて、吹つけ申候。「うつろふね」、其内に、女、壱人、年の頃、十九、廿才程にて、身のたけ、六尺余り、かほの色、靑白く、まゆ毛・髮、赤黑く、ふうぞく、頗るうつくしく、きりやうは、悉、美女也。おんせい[やぶちゃん注:「御聲」。]は、かんばしりて、大おん也。又、しら木の弐尺ばかりの箱、はなさす、かゝい[やぶちゃん注:「抱え」。]、大切なるものニや、あたりへ决而[やぶちゃん注:「して」、]、人を、よせつけぬなり。
一 敷物、一枚、至て、やはらかな物。
一 食物、肉(にく)るいニて、ねりたる物。
一 茶わんのやう成もの、一ツ。うつくしき、もやう、あり。石とも見へす。
一 火鉢らしき物、一ツ。鉄とも、見へず。
[やぶちゃん注:右の「蛮女」の右方に、指示線を添え、
「錦なるやうのおりもの、色、『もえき』也。」
「もえき」は「萌黃」。
その左方に、
「こはぜ、すいせう。」
とある。「こはぜ」は「鞐」(こはぜ)で、「布に縫い付けられた爪型の小さな留め具」のこと。
その下方に指示線を添えて、彼女の下穿きに対して、
「きんのすじ。びろうどなり。」
とある。
次に、ヴィークルのキャプションで、上部の円形窓の右に、
「ふち、黑ぬり。」
とあり、上部中央には、
「いづれ、木は、『したん』・『びやくたん』。」
とする。その左の四角い窓の脇に、
「まど、『びいどろ』。すいしやう也。」
とある。
ヴィーグル上部下方の縁の有意な出っ張り部分に、右から左に、
「鉄にて、『朱ぬり』。橫、三間なり。」
とあり、ヴィーグル下方右手に指示線を出して、
「すじかね、『なんばんてつ』也。」
とし(「すじかね」の「じ」はママ)、反対の左手に、
「ふねの高サ、壱丈壱尺。」
とある。]
以上、私は視認でき、読者が確認出来るものだけを、電子化注した。ネットにはもっといろいろなものが氾濫していることは既に述べた。田中氏が示された最新のそれも小さな画像で示してあるページも見つけたが、記載が見えず、鼻白むだけであったので、紹介しない。
私は、私の出来得る限りに於いて、読者も、同時に、判読出来るものだけを、ここでは選んだのである。]