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2021/10/31

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 土地を掘るひと

 

   土地を掘るひと

 

土地(つち)よりめざめ

土地を掘る

土地を掘るひと

土地に立つ

 

空は綠金

土地は白金

いんさん

いんさん

利鎌ぞ光る

 

けぶれる空に麥ながれ

農夫は一列

種子は一列

 

いんさん

いんさん

土地(つち)を掘るひと涙をながす。

 

[やぶちゃん注:底本によれば、推定で大正三(一九一四)年作とし、『遺稿』とある。老婆心乍ら、「利鎌」は「とがま」と読む。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐ノート)」に以下のようにある。誤字(「堀」)はママ。最後の読点もママ。

 

 土地を堀る人

 

土地よりめざめ

土地を堀る

土地を堀るひと

土地に立つ

 

空は綠金

土地は白金

いんさん

いんさん

利鎌ぞ光る

 

けぶれる空に麥ながれ

農夫は一列

種子は一列

 

いんさん

いんさん

土地を堀るひと淚をながす、

 

本篇は詩集「月に吠える」の「雲雀料理」パートの本編の頭に置かれている「感傷の手」と親和性がある。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理(序詩)・感傷の手』を見られたいが、そこで注した通り、「感傷の手」は初出形が『詩歌』大正三(一九一四)年九月号で、詩篇末に『――一九一四、八、三――』のクレジットがあるから、本篇の推定年も無理がないと思われる。「つち」というルビが気になるが、これは、思うに、同じ詩集の同パートの二つ後の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 苗』で、「土地」に「つち」のルビを振っているを知っている本底本の小学館の編集者が、それを受けてサーヴィスで添えたものではなかろうかと推定するものである。「とち」ではイメージが違う。ここは確かに「つち」でなくてはなるまい。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 若鷹

 

    ○若 鷹

「群書類從」、「定家卿庭三百首」、

 あまたとやふませて見ばやいまだにも古木居に似る秋の若鷹

此四の句、予が藏本には、「ふるとび」に似るとあり。これは「古鳶」に作るかた、勝れたり。「古木居」にては、歌の心、何とも聞えず。すべて、大鷹の今年生ひの若鷹は、形容、さながら、鳶にかはらざるものなれども、一とや經れば、毛色、淺黃になりて、夫より、鳥屋を出づる每に、次第に、うるはしくなるものなり。歌の心も、『「あまたとや」をかへたらば、毛も、かはり、うるはしかるべきに、今は鳶に似て、きたなげなり。』とよめるなり。此四句、「とび」と假名にて、ありしを、「こひ」とよみて、やがて「木居」と書きたるなるべし。

  乙酉臘月朔日       龍珠しるす

[やぶちゃん注:それぞれの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」及び「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)」を参照されたい。

「とや」は「鳥屋」「塒」で、一般的には、「鳥を飼って入れておく小屋」で、鶏や種々の鳥を飼う小屋をも指すが、特に「鷹を飼育するための小屋」を限定的に言うこともある。さらに、別に「鷹の羽が夏の末に抜け落ちて、冬になって生え整うこと」を「とや」とも呼ぶ。この間は鷹は鳥小屋に籠るからである。さらに、その回数によって鷹の年齢を数え、三歳或いは四歳以上の鷹、又は、四歳の秋から五歳までの鷹を特に「とや」と称するともされる。ここでは「あまたとやふませて見ばや」というところは、最後の「とや」の意味を嗅がせておいて、『三年以上も「とや」でこの鷹を飼って、どう変わるかを見てみたい。』と言っていると考えてよかろう。

「古木居」は「ふるこゐ」。「木居」は狩りに用いる鷹が木にとまっていること、または、その木を指す。ここは後者。筆者の言うように、確かにここは「古鳶」の方がよかろう。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「參考太平記」年歷不合

 

[やぶちゃん注:前と同じく竜珠館の発表。またしても、なんだか文章が杜撰の極み。「奈和」でないよ! 「名和」だがね! 名前も間違ってる! 「長高」じゃあねえ!「長年」だっつうの!

 

   ○「參考太平記」年歷不合

「參考太平記」、元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和長高が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西[やぶちゃん注:底本に『(本ノマヽ)』の傍注有り。]。』。その第三番の弟の乙童丸、十四歲なるべきやう、なし。其うへ、次男の孫三郞基長には、「土用松」とて、三歲の男子あり。これをもて、見れば、高義[やぶちゃん注:ママ。]、たとひ、若年なりとも、二十あまりなるべし。悉く、小注の誤なり。

[やぶちゃん注:「參考太平記」は「太平記」の諸伝本(西源院本・南都本・今川家本・前田家本・毛利家本・北条家本・金勝院本・天正本など)を比較し、さらに「公卿補任」・「増鏡」・「園太暦」など 百四部もの記録・文書によって、記事の適否を考訂した書。 全四十巻。徳川光圀が「大日本史」の撰修の準備作業として、儒臣今井弘済に命じて編集させたもので、弘済の死後は内藤貞顕が引継いで元禄四 (一六九一) 年に刊行された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和』(「名和」の誤り)『長高』(「長年」の誤り)『が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西』」国立国会図書館デジタルコレクションの「參考太平記」のここ(左丁の最後)に見つけた。不全な引用を正確に以下に示す。名和が子や一族を連れて、後醍醐天皇を迎えるために発するシーンである。カタカナをひらがなに直した。記号を使用し、割注内の漢文脈は訓読した。約物は正字化した。切りのいいところまで採った。

   *

長髙を始として、二男孫三郎基長、三男乙童丸【後に正六位上。四郎左衞門の尉髙光。建武三年十一月一日、西坂本に於いて、逝去、廿二歲。】、長年が舍弟鬼五郎助髙、姪(をい)に六郎太郎義氏【行氏嫡男。正五位下・安藝の守。】従弟(いとこ)小太郎信貞、同次郎實行、婿(むこ)に彦次郎忠秀、鳥屋彦三郎義真【後に縫殿の允。左衞門の尉。備中の守義直。】、此の外、若黨等、都合二十餘騎して、一族、相催すに及はす、折節、在合輩、大坂港へ鞭を擧て、馳參る。

   *

ちゃんと注を引いていないのであるが、これは元弘三(一三三三)年の閏二月二十八日の出来事で、「建武三年」は一三三六年であるから、注によれば、この時、乙童丸は十九歳であって、「十四歲」なんかじゃねえぞ!?! この話、もうそれだけで、呆れ果てた。「参考太平記」の注はおかしくない! 竜珠館自身が、ちゃんと原本を見てないだけじゃないか! 因みに、名和長年(なわながとし ?~延元元/建武三(一三三六)年)は伯耆の豪族。この年、隠岐を秘かに脱出した後醍醐天皇を伯耆の船上山に迎え、討幕軍に加わった。建武新政では因幡・伯耆の守護となり、記録所・雑訴決断所の寄人(よりうど)となったが、九州に敗走した足利尊氏が再挙して東上するのを、京都で迎え撃って、敗死した。

「高義」これもさあ! 「高光」の誤字でないの? もーー!!!]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十二集(正編・最終集) 助兼

[やぶちゃん注:画像は底本よりトリミング補正した。発表は旗本竜珠館桑山修理。]

 

Kabuto

 

   ○助 兼

「後三年繪詞」に云、『伴次郞儀仗助兼といふものあり。きはなき兵なり。常に軍のさきにたつ。將軍、これを感じて、「薄金」といふ鎧をなん、きせたりける。岸近くよせたりけるを、石弓をはなちかけたりけるに、「すでにあたりなん。」としけるを、首をふりて、身を、たはめたりければ、かぶとばかり、打ちおとされにけり。冑落つる時、本鳥きれにけり。』とあり。按ずるに、此時、助兼、本鳥を冑の「てへん」より引き出だして、着たる者なるべし。繪卷物にあり。此圖のごときなり。助兼も、この如く、かぶとを着たる故に、大石の落つる勢にて、本鳥ともにきれたるなり。冑の下に本鳥を折り曲げてあらんには、大石にうたれたればとて、冑とともに、本鳥は、きれがたかるべし。又、「源平盛衰記」、「しの原合戰の條」に、入差小太郞、高橋判官と組みたる所に、入差が叔火、落ちあひて、髙橋が冑のてへんに手を入れて、首をかく、とあるも、髙橋、本鳥を、てへんより、引き出だして着たるなるべし。折り曲げてあらば、「てへん」大なりとも、本鳥を、しかとは、とりがたからん。是をもて、助兼の冑をきたるさまを、おもふべし。

[やぶちゃん注:「後三年繪詞」「後三年合戰繪詞」(ごさんねんかっせんえことば)。絵巻。三巻。重要文化財。東京国立博物館蔵。源義家が奥州の清原氏を討伐した「後三年の役」に取材したもので、元は四巻或いは六巻本であったが、冒頭の部分が失われたと考えられている。現存部分は、清原家衡が金沢柵(かねさわのさく)で義家と対陣する段から、義家が家衡を平定して京都に帰る段までを描いてある。人物・甲冑などに精細な筆が用いられるが、構図が単調で変化に乏しい。鎌倉後期(十四世紀)の制作で、奥書により、絵は飛騨守惟久(これひさ)の筆と判る。なお、他に序文一巻があるが、これは鎌倉幕府滅亡の後の貞和(じょうわ)三(一三四七)年に尊円親王によって書かれたもの伝えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「伴次郞儀仗助兼」伴助兼(とものすけかね 生没年未詳)は後に「資兼」に改名した。通称は伴次郎・設楽大夫。姓は朝臣。伴助高の子。三河設楽(したら/しだら)氏・富永氏の祖。位階は従五位下。八幡太郎義家の郎党で、一の勇士として知られる。当該ウィキによれば、『三河伴氏の出自は明らかでなく、景行天皇から出た三河大伴部直の後裔とする皇胤説のほか』、『中央豪族の伴氏(伴宿禰)の後裔とし、伴善男』『・大伴駿河麻呂』『・大伴家持』『らに繋げる系図がある』。『三河国に住んだとされる。伝承では治暦元年』(一〇六五年)『に義家の命で、現在の福島県二本松市に住吉山城(四本松城)を築いたという』。永保三(一〇八三)年に始まる「後三年の役」では、『舅の兵藤正経と共に、清原(藤原)清衡の襲撃を受けた清原真衡邸から、真衡の妻と成衝を救い出している。義家からその武勇を賞賛され、源氏八領の一つともいわれる』「薄金の鎧」を『拝領したが、金沢柵攻略戦では、城内からの落石で兜を打ち落とされ』、『紛失した。豊田市猿投神社に伝来する樫鳥縅鎧』(かしどりいとおどしよろいおおそでつき)『(重文)は、この』「薄金の鎧」を『助兼が奉納したものであると伝えられている』。承徳三(一〇九九)年に『従五位下に叙爵』されている、とある。蕗の雫氏のブログ「時の落穂拾い」の「薄金の鎧 (『後三年記詳注』を読んで(その4))」に「後三年合戦絵詞」のそのシーンを描いた絵があり、髻(もとどり)が切れて大童になっている様子が判る。

「岸」城(恐らくは山寨)の崖。

「本鳥」「髻」の当て字。日本で行われた昔の結髪法の一つで、髪を頭上に束ねたもの、または、その部分を指す。元来は「本取」の意で、「たぶさ」とも称した。古くは中国の東北部に住した女真(ジュルチン)族の女性の結髪であった。

「てへん」「天邊」。頭のてっぺん。

『「源平盛衰記」(私は「げんぺいじやうすいき」と読むのを常としている)「しの原合戰の條」』これは、巻第二十九の「俣野(またのの)五郞。幷(ならびに)長綱、亡ぶる事」のことである。以下に、国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間の版本を元に以下に電子化する(カタカナをひらがなに直し、読みは一部に限り、また、読みの一部を送って外に出し、約物は正字とし、さらに段落を成形した。漢字表記は可能な限り忠実に写した)。

   *

 平家の陣より、武者一人、進み出でて云けるは、

「去(さん)ぬる治承(ぢせう)の比(ころ)、石橋にして右兵衛佐殿と合戰したりし鎌倉權五郞景正が末葉(はつよう)、大場(おほばの)三郞景親が舎弟、俣野五郎景尚(かげなり)。」

と名乘りて、竪さま橫さま、敵も不ㇾ嫌(きらはず)、散々に戰ひけり。

「木曾は、耻ある敵ぞ、あますな。」

と云ければ、

「我れも、我れも」

と蒐籠(かけこみ)たり。景尚、向ふ者共、十三騎、討ち捕つて、痛手負いければ、馬より飛び下(を)り、腹、搔き切つて卧(ふ)[やぶちゃん注:底本では(へん)が「目」。「臥」に同じ。]しにけり。

 平家の侍に髙橋判官(はんぐはん)長綱は、練色(ねりいろ)の魚綾(ぎよしう)の直垂(ひたたれ)に、黑絲威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗り、只、一騎、返し合はせて、「成合(なりあひ)の池」の北渚(きたなぎさ)に、馬の頭(かしら)、濱の方(かた)に打ち向かふて磬(ひか)へたり。可ㇾ然(しかるべき)者あらば、押し並べて、組まばや、とぞ、伺ひ見ける。

 源氏の方に、越中國住人、宮﨑(みやさきの)太郞が嫡子、入善(にうぜん)小太郎安家は、赤革威(あかかわおどし)の鎧に、白星(しらぼし)の甲(かぶと)著(き)て、糟毛(かすげ)なる馬に、金覆輪(きんぶくりん)の鞍、置きて、只、一騎、扣(ひか)へたり。是も、平家の方に可ㇾ然者あらば、押し並べて組まん、との志(こゝろざし)也。「成合の池」の北渚に、武者の一騎あるを、心にくゝ思ひて、打ち寄せて、

「爰(こゝ)にましますは、敵か、御方か、誰(たそ)。」

と問ふ。

 平家の侍に髙橋判官長綱、

「角(かく)云ふは誰。」

「越中の國の住人、入善小太郎安家、生年(しやうねん)十七歲。」

と、名乘も、はてず、押並べて、組んで落ち、始めは、上に成り、下になり、ころびけれ共、流石(さすが)、安家は二十(はたち)に足らぬ若武者也。髙橋は老(をひ)すげたる大力((だいぢから)也ければ、終(つい)には、入善、下に成るを、おさへて、頸をかゝんとする處に、髙橋、腰の刀(かたな)を落としたりける。爲方(せんかた)なくして、暫し、押さへて、踉蹡(をとりゆ)けり。此(こゝ)に入善が伯父に、南保(なんほう)次郎家隆と云ふ者あり。此の軍(いくさ)に打ち立ちける時、入善が父宮﨑(みやさきの)太郎、弟(をとゝ)の南保に語けるは、

「安家は、未だ幼弱なる上、今度(こんど)は初めたる軍也。相ひ構へて見捨て給ふな。」

と云ければ、

「然(しか)るべし。」

とて、出たりけるが、

「相い具せん。」

とて、數萬騎(すまんぎ)が中を尋ねれ共、見えず。

 南保、音(こへ)を揚げて、

「入善小太郎、入善小太郎。」

と呼んで、兩陣の中を通りけるに、小音(せうをん)にて、

「安家、敵にくみたり。角(かく)尋給ふは、南保殿かよ。」

と云。

 家隆、馬より、飛び下(を)りて腰刀(かたな)を拔き、長綱が鎧の草摺(くさずり)引き上げて、

「柄(つか)も、拳も、とほれ、とほれ。」

と二刀(かたな)、刺す。

 甲(かぶと)の「てへん」に手を入れて、引き仰(あを)のけて、切ㇾ頸(くびをきる)[やぶちゃん注:底本では『切リ◦頸』であるが、おかしいので勝手に訂した。]。左の手には持ㇾ頸[やぶちゃん注:底本は「頸」がないが、同前で訂した。]、右の手にて、入善を引き上げて、

「如何(いか)が誤りありや、軍(いくさ)は後陣(ごぢん)を憑(たの)み、乗替(のりかへ)、郎等(らうどう)を相ひ待ちてこそ、敵には組む事なるに、若き者一人、立ち悞(あやまり)し給はん。

とて、

「去(さり)ながら、神妙々々。」

と云處に、入善、隙(ひま)を伺ひ、南保が持ちたる首を奪ひ取りて迯け走り、木曽が前に行き向ふ。

 南保も續いて馳せ參り申しけるは、

「長綱が首をば、家隆、捕りたり。」

と申す。

 入善は、

「我が、取りたり。」

と論ず。

 南保、重ねて申しけるは、

「入善、髙橋に組んで、既に危うく候つるを、家隆、落ち合ひて、入善を助けて、髙橋が頸をば、取つたり。」

と申す。

 入善、陳(ちん)じ申けるは、安家、髙橋に組んで、上に成り、下に成、候つる程に、髙橋が弱き處ろを、髙名(かうみやう)がほに、南保、傍(そば)より取りて候。家隆、全く不ㇾ取(とらず)。安家が今日(けふ)の得分(とくぶん)にて候つる者也。」

と申ければ、木曽は、

「入善、くむ事なくば、南保、頸を不ㇾ可ㇾ捕(とるべからず)。落ち合ふ事、なくば、入善、實(まこと)に難ㇾ遁(のがれがたし)。兩方(りやうばう)共に、神妙也。」

とて、髙橋が頸をば、南保に付、入善には別の勲功を行なはる。

   *

「入差小太郞」御覧の通り、「入善小太郞」の誤り

「叔火」御覧の通り、伯父の誤り。ちょっと筆者のそれか、判読の誤りか知らんが、ひど過ぎる。原本を確認していないことが、バレバレである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 晶玉の塔 / 筑摩版全集不載の「感傷の塔」の幻しの草稿

 

  晶 玉 の 塔

 

晶玉の塔は額(ひたひ)にきづかる

螢をもつて窓をあかるくなし

塔はするどく靑らみ空に立つ

ああ我が塔をきづくの額は血みどろ

肉やぶれ いたみふんすゐすれども

なやましき感傷の塔は光に向ひて伸長す。

いやさらに愁ひはとがりたり

きのふきみのくちびる吸ひてきづつけ

かへれば琥珀の石もて魚をかへり

かの風景をして水盤に泳がしむるの日は

遠望の魚鳥ゆゑなきにきえ

塔をきづくの額はとがれて

はや秋は晶玉の光をつめたくうつせり。

 

[やぶちゃん注:「きづつけ」はママ。底本では推定で大正三(一九一四)年の作とし、『遺稿』とある。この題名では、筑摩版全集(補巻の索引にも不掲載)には所収しない。但し、非常によく似た詩として、「拾遺詩篇」に、大正三年十月号に『詩歌』に掲載された「感傷の塔」があり、これは既に二〇一三年十二月にブログで電子化してあるので比較されたいが、似ているが、一目瞭然、同一ではないから、この「感傷の塔」の幻しの草稿かと推定される。またしても、知らない萩原朔太郎の詩篇がここに出現した。]

2021/10/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その8・目次では同じく著作堂発表で「消夏自適天明荒凶記附錄」とする) / 丙午丁未~了 / 「兎園小説」第十一集~了

 

[やぶちゃん注:以下の二段落は、底本では全体が二字下げ。]

 

 右校編數萬言、楮數(ちよすう)二十有五頁、所臨寫印本五頁、亦在其中矣。

 著作堂云、「丙戊春正月下浣、關潢南の通家(つうか/つうけ)宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」を閱せしに、その編末に、「天明荒凶」の一編あり。こゝに抄錄して、もて、比較に充つること、左の如し。」

[やぶちゃん注:「楮數」紙の枚数。

「丙戊」この発会の翌年文政九年丙戌(一八二六年)。従って、以下は補筆したもの。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は「兎園会」の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は、既に何度も発表している海棠庵で「兎園会」のメンバーであった。この第十一集分も関家で発会しており、異例の一日発会でない、この十月二十三日は、当主である関克明南陽の誕生日でもあったことは、前回分の最後に注してある。

「通家」昔から親しく交わってきた家。或いは、姻戚関係にある家。

『宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」』「寛政重修諸家譜」に名があるので武家で旗本或いは御家人である(後の本文中で嘗つて小普請組に所属していたと述べている)ことは判ったが、調べる気にならない。「消夏自適」も彼の著作にあることは判ったが、詳細は不詳。本篇の「(その5)」で既注済み。以下の地震もそちらを見られたい。]

 龍齋云、

「予が犬馬(けんば)の年つもるうちに、天明の頃ほど、凶年の繁きこと、なし。先、天明二寅年七月十四日の夜、丑の刻にもやあらん、當地の地震、おびたゞし。翌十五日夜戌刻、前夜の地震よりも甚しく、老人子供など、足よわなるは、步まんとしては、倒れたり。わかきものとても、氣力の弱きは目くるめきて、漸(やうや)く[やぶちゃん注:「漸」に踊り字「く」の判読の誤りの可能性もある。なれば「やうやう」であろう。その方が躓かない気がする。]に這ひ出で、行燈などは、みな、ゆりこぼし、山林に響き震ふ音、物すごく、予が幼き頃なりしが、外に戶板をならべて、家内、打ちこぞりて、夜を明しゝなり。翌朝に至るまで、ふるふこと、十五、六度に及べり。とりわけ、相州小田原邊、殊に甚しく、箱根山、及、城中、石垣、崩れ、民家、多く破損し、人馬のそこなふもの、多し。

「大山にては、三、四間、又は、七、八間もあるべき岩石、崩れ落ちて、人々膽を冷せり。」

と、いへり。八月四日に、江戶海邊に津浪の變あり。

[やぶちゃん注:「犬馬(けんば)の年」「犬や馬が無駄に年をとるように、なすこともなく、年齢を重ねる」の意で、自分の年齢を遜って言う語。

 以下は底本でも改行。]

 天明三卯年[やぶちゃん注:一七八三年。]、早春より四月頃に至るまで、當地はいふに及ばず、諸州諸所に、大小うちまぜて、火災、また、おほし。三、四月頃、京都及五畿内、時候の寒きこと、冬のごとく、時雨、降りて、晴・曇、久しく定らず。

 六月十七日、關東筋其外、諸州、洪水、北國、西國に、海上、大風にて、通船、破損、多し。大抵、米相場も引き上りて、上方より、かけて、一石に百二十目ぐらゐなりき。當地に至りては、六、七十兩迄にも至りしなり。

 七月朔日より、八、九日に至りて、北國・東國、及、京都・大坂・江戶・伏見。大津等、山谷、鳴動す。

 同四日より、上州・信州の地、夥しく震動して、雷鳴のごとく、砂石、降り下ること、雨の如し。六日夜に至りて殊に甚しく、七日は白晝、闇夜の如く、岩石を飛ばし、其近國諸國、熱灰を降らしぬ。此時、淺間山、及、草津山等、燃え出でゝ、烈火、散亂す。八日未の刻[やぶちゃん注:午後二時。]、熱沙熱泥を涌出し、利根川の水上に溢れ、其近國の諸村を漂沒し、民家を破損なし、人民、及、牛馬・鳥獸・魚鼈、死亡し、或は、水火の爲に死せしもの、四萬餘人といへり。

 七日夜より、九日に至りて、江戶表も、一天、くもりて、日の光を見ず。灰、降ること、雪の如し。

 廿四日、北國・西國の海上、大風あり。

 冬御切米百俵、「四十六兩」の張紙なりき。

 十月二日、北國・九州の洋中、大風。

 同じく十一日、大坂、雷鳴、甚しく[やぶちゃん注:底本は右に『(脱アラン)』と傍注する。]、同所大手御門、雷火にて、燒失す。

 此後冬中、大小の火災、度々なりき。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行。]

 天明四辰年、正月より、未申[やぶちゃん注:南西。]の方に、彗星、あらはる。

 米價、甚しく、春、御借米「百俵四拾八兩」の張紙、出(いで)、夏、御借米も四拾八兩なり。町相場なるものは、上米に至りては、六拾兩以上なり。公(おほやけ)より、米を出だして、貧民に賜ふ。

 世の人、「橫田火事」といへるも、十二月廿六日、鍛冶橋御門内、橫田筑後守より、出火にて、殊に大火なり。

[やぶちゃん注:年月日が合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明七(一七八七)年一月十日に八代洲河岸横田筑後守屋敷内長屋が出火元で(午前零時頃)六千六百十二平方メートルが焼損している。「古地図 with MapFan」で調べると、「鍛冶橋」は現在の東京駅の南端に当たる。]

 此年は奧州南部・仙臺・津輕・八戶領等、大に飢饉なりき。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 天明五巳年も、米價、百俵に五十兩前後なり。

 八月十二日、五畿内、及、東海道筋、洪水。

[やぶちゃん注:同前。]

 同六丙午年正月朔日、目蝕、皆既。大小の諸星、東方にあらはに、白晝、くらきこと、黃昏にも過ぎたり。此春中、火災、繁きこと、其數を、しらず。其中に、正月廿二日、湯島よりの出火、殊更、おびたゞし。

[やぶちゃん注:やはり年月日及び場所も合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明六(一七八七)年一月十九日に桜田伏見町(善右衛門町とも)が出火元で(午後十二時半から一時頃)一万千九百一平方メートルが焼損している。但し、出火元は現在の新橋附近である。]

 五月頃より、天氣、甚、不順にして、土用見舞に、綿入をかさね、老人のともがらは、

「猶、寒さに、たへず。」

と、いへり。されば、いやしき口ずさびにも、

 春は火事夏はすゞしく秋出水冬は飢饉とかねてしるべし

 七月十二日より、大雨、篠をつくがごとく、一向に止みなく、十四日には、當地、洪水にて、目白下、大※(トヒ)[やぶちゃん注:「扌」+「見」。上水道の樋であろう。]、崩れ、牛天神下・小石川邊、滿水、其深きこと、五、六尺に及べり。御茶水・昌平橋・淺草御門・柳橋邊、一面に大水にて、往來も、とゞまりぬ。又、上野・下野・秩父等の山、水、俄に發し、烏川・神川・戶田川・利根川等、大水、漲ること、數丈なり。同十七日曉に、「熊谷の土手、裂けて、栗橋・古河・關宿・越谷・杉戶・千住・大橋・小橋・小塚原・淺草邊、本所・隅田川・向嶋・秋葉・三圍・牛島邊は、偏(ひとへ)に海の如し。」

と、いへり。大橋、永代橋、流れ落ち、其外、小橋の類(たぐひ)は、しるすに、いとまあらず。兩國橋は數百人の人夫をもて、漸(やうやう)に防ぎ留めたり。淺草・並木・駒形・御藏前・八町・天王橋邊、船にて、往來す。同所、觀音堂、他所よりも、高し。諸人、此堂舍に登りて、水を避けしもの、多し、となん。又、此頃、東海道は、酒勾・馬入・六鄕等の川々、往來、なし。鶴見橋も已に流落し、神奈川新町・藤澤の宿々、滿水にて、往來、止め、十八、九日に至りて、諸方の水勢、漸く、滅ず。此時分、愛宕山切通の土手・山王山・三田春日山・麻布狸穴等の土手、又、崩れて、人、多く、死せり。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 此秋の洪水に溺死せしもの、萬をもて、算ふべし。濁水に乘じて、蛇・蝮の類ひ、幾千となく、漂ひ來りて、人身につくこと、甚しく、誠にあはれなること、いふばかりなし。

[やぶちゃん注:同前。]

 此年のはやり唄に、

〽天竺のあまの川に白小桶が流れた

と、うたひしが、天に、口、なし。人をもて、いはしむるならひに、果して、其しるし、むなしからずして、洪水の變ありき。いにしへ、孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語(けご)」等にも見ゆ。浮きたることには、あらじ。

[やぶちゃん注:庵点は私が附した。

『孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語」等にも見ゆ』「孔子家語」(「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。全十巻。但し、一部に非常に古い引用も求められるが、全体は宋代に作られた偽書とされる)。「孔子家語」を見ると、前半が見当たらないので、「説苑」(せいえん)の「辨物」にあるものを以下に示す。

   *

 楚昭王渡江、有物大如斗、直觸王舟、止於舟中、昭王大怪之、使聘問孔子。孔子曰、「此名萍實。剖而食之。惟霸者能獲之、此吉祥也。」。其後齊有飛鳥一足來下、止於殿前、舒翅而跳、齊侯大怪之、又使聘問孔子。孔子曰、「此名商羊、急告民趣治溝渠、天將大雨。」。於是如之、天果大雨、諸國皆水、齊獨以安。孔子歸、弟子請問、孔子曰、「異時小兒謠曰、『楚王渡江得萍實、大如拳、赤如日、剖而食之、美如蜜。』。此楚之應也。兒又有兩兩相牽、屈一足而跳、曰、『天將大雨、商羊起舞。』。今齊獲之、亦其應也。夫謠之後、未嘗不有應隨者也、故聖人非獨守道而已也、睹物記也、卽得其應矣。」。

   *

自力で訓読してみる。

   *

 楚の昭王、江を渡るに、物、有り、大なること、斗のごとし。直(ぢき)に王の舟に觸(さは)り、舟に中(あた)りて、止むる。王、大いに之れを怪しみ、使ひして、聘(へい)し、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、萍實(へうじつ)と名づく。剖(さ)きて之れを食(しよく)すべし。惟(これ)、覇者のみ、能く獲るなり。此れ、吉祥なり。」

と。

 其の後(のち)、齊(せい)に、飛鳥の一足なる有りて、來り下り、殿前に止(と)まる。舒(おもむ)ろに翅(はばた)きて、跳(おど)る。齊侯、大いに、之れを怪しみ、又、使ひして聘して、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、商羊(しやうやう)と名づく。急ぎ、民に告げて、溝渠を治(ち)するを趣(うなが)せ。天、將に大雨(おほあめふ)らんとす。」

と。

 是に於いて、之(か)くのごとく、天、果して、大雨りて、諸國、皆、水(みづ)す。齊、獨り、以つて安んず。

 孔子、歸るに、弟子、問ひを請ふに、孔子曰はく、

「異(べつ)なる時、小兒(せうに)の謠に曰はく、

『楚王、江を渡るとき、萍實を得ん。大なること、拳のごとく、赤きこと、日のごとし。剖きて之れを食(くら)へば、美(うま)きこと、蜜のごとくならん』

と。此れは是れ、楚の應(わう)なり。兒(じ)、又、有りて、兩兩(ふたり)して相ひ牽き、屈して、一足にて、跳びて、曰はく、

『天、將に大雨らんとす。商羊、起きて舞ふ。』

と。今、齊、之れを獲(と)る。亦、其の應なり。夫れ、謠(うた)の後に、未だ嘗つて、應に隨はざる有る者や。故に、聖人は、獨り、道を守るのみに非ざるなり。物の記(すりし)せるを睹(み)るや、卽ち、其の應を得るなり。」

と。

   *

 以下、同前。]

 米價、打ちつゞきて、貴(たか)く、冬、御切米「百俵四拾三兩」の張紙、出でしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 九月に、浚明院殿(しゆんめいゐんどの)、かくれさせ給ふ。ならびなき大凶の年といふべし。

[やぶちゃん注:「浚明院殿」徳川家治の諡号。彼が実際に没したのは天明六(一七八六)年八月二十五日である(享年五十。死因は脚気衝心と推定されている)。但し、発葬されたのは九月八日であった。当時、将軍の薨去は一ヶ月余り後に報知されたのが普通であったから、極めて異例に早い報知となっている。ウィキの「徳川家治」によれば、死後数日のうちに、『反田沼派の策謀により』、かの専横した側用人『田沼意次が失脚』し、『また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた』りした、内輪の騒動を体よく鎮めることが理由だったのようである。意次は家治死去の二日後の八月二十七日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格し、後の閏十月五日には、家治時代の加増分の二万石も没収となり、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命ぜられている。

 以下同前。]

 天明七未年、打ちつゞきたる米直段(こめねだん)、當春に至りては、ますます貴く、春、御借米「百俵五十兩」の張紙、出(いで)、上米(じやうまい)の相場は七十兩以上なりき。

 夏、御借米五拾二兩にてありしが、五月に入りて、米價、いよいよ貴く、百三、四拾兩となり、今日を送る市人等、已に飢に臨めるも、ことわりぞかし。五月十九日より、江戶中、米穀の商ひなす者の見世に、「打ちこはし」・亂妨なすこと、甚しく、百人、二百人、その黨を結び、時々、「とき」の聲をあげて、晝夜のわかちなく、さわぎあるく體(てい)、さながら、戰世(いくさのよ)の如しと、おもはる。夫より、端々に至るまで、皆、人氣(じんき)、かくの如し。後には、米商賣にかゝはらず、目ぼしぎ町家に打ち入りて、手にあたるものを持ち出だして、其町内にても、防ぐべき手段なく、或は、酒を、樽ながら、吞口(のみくち)をそへ、或は、かゞみを、ぬいて、柄𣏐(ひしやく)をそへて、もてなしとせり【米屋ならぬ家をも、物とりの爲に亂妨せしには、あらず。その見世の米屋に似たるあき人、或は、酒屋・餠屋・「そば切」や、すべて、食物をあきなふものゝ見世は、打ちこはされしも有りしなり。その、「そば杖を打たれじ」とて、銘々に見世先へ、「さたう水」など、出だしおきて、あふれもの等(ら)に、のませにき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此時、名は忘れたりしが、何がしといへる大名、家中へ渡すべき扶持米とて、其本家へ無心して、弐拾俵計(ばかり)、車にて、警固も、大勢、附き添へ、來りしに、鮫ケ橋にて、「打ちこはし」の一むれ、百人計も、追(おひ)、取卷(とりまき)きて、

「車の米、申し請けたし。もし、異議ある上は、力づくにて請取るべし。」

とて、きそひ、かゝれる大勢のやうすに、なすベきやうなくて、宰領の足輕、三、四人も、命からがら逃げ出だし、屋敷へ歸りて、「しかじか」のよし、役人中へ、申しゝ故に、屋敷よりも、侍分の者、とりまぜ、追取刀(おつとりがたな)にて、馳せ至りしが、車ともに、いづくへ持ち行きしか、其行方、しるべきやうなければ、各(おのおの)、齒がみをなしつゝ、手をむなしく、歸れり。

 因りて、おもふに、人心、一たび、うごきては、何樣の事をしいだすべきも、しれず。されば、前漢の賈誼(かぎ)が言に、「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」とあるは、ならびなき名言なり。

[やぶちゃん注:「賈誼」(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の文帝の御代の文学者。洛陽出身。二十余歳で博士から太中大夫に進んだが、讒言のために長沙王太傅(たいふ)に移され、長沙に赴いた。後、再び文帝に召されて、梁王の太傅となったが、梁王が落馬して死んだのを痛く嘆き、一年あまり後に没した。その著に「新書」(十巻)があり、「過秦論」・「治安策」などでは、儒家の立場に立って、時勢を論じている。韻文では前漢初期の代表的辞賦作家であり、志を得ずに投身した屈原を悼みつつ、自らの運命に擬えた「弔屈原賦」などが知られる。以下は「新書」中の一節。

「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」「安民は、與(とも)に行くこと、可(むべ)なり。而れども、危民は、『與に非(あら)ず』と爲(な)すが、易(やす)し。」か。

 以下同前。]

 此時、町奉行曲淵甲斐守・山村信濃守なりしが、

「町家のやうす、見𢌞らん。」

とて、大勢にて出でしかど、西河岸(にしがし)邊に三百・五百の組を立てたる「あふれ者」、大瓦など、積みまうけ、

「無事なる時は、奉行を恐るべし、此節に至りては、何の憚るべきこと、あらん。近付けば、打ち殺すべし。」

と、口々に、のゝしりし故に、兩奉府も、

「すごすご」

と、引きとりき、とぞ。

[やぶちゃん注:以下同前。]

日々、かくのごとき故に、御先手十組の面々、阿部平吉・柴田三右衞門・河野勝左衞門・安藤又兵衞・小野次郞右衞門・松平庄右衞門・長谷川平藏・武藤庄兵衞・鈴木彈正少弼・奥村忠太郞、各(おのおの)、與力・同心を召し具して、江戶中、端々まで𢌞りしが、何の仕出したる事も、なかりき。

[やぶちゃん注:悪いが、ぞろりと並んだ人名の注は附さない。お調べになりたければ、御自分でどうぞ。いい加減、本篇には疲れてきた。早く仕舞いにしたいのである。

 以下同前。]

 其頃の取沙汰に、

「御先手の面々、物馴れたる同心に、道をはらはせ、『打ちこはし』の一むれ、ある所をば、通行せずして、脇道をのみ𢌞りき。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 予がしれる御番衆、五月十七、八日の頃か、御借米を受取りしに、其日の相場、弐百五兩なりき。われら、其頃は、小普請(こぶしん)にて、六月の中旬頃に玉落ありしが、

「はや、大(おほき)に直段も引き下れり。」

と、いひしが、九拾八兩弐分にてありき。

[やぶちゃん注:「小普請」小普請組(こぶしんぐみ)。無役の旗本・御家人の内、原則、三千石以下の者が編入された組織(三千石以上の者は寄合席(よりあいぜき)に編成された)。無役の旗本・御家人が営中などの小規模な普請(小普請)に人足を供する義務を負っていたことから生じた名称。十七世紀後半以降は、この人足役は金納となった(小普請金)。当初は留守居に、享保四(一七一九)年以降は、老中の支配下に属し、組に分けて統率された。幕府末期の慶応一・二(一八六五・一八六六)年には陸海軍両奉行の支配であった(なお、小普請奉行は小普請方(かた)の長官で、幕府の土木・建築工事を担当する「下三奉行(したさんぶぎょう)」の一つに数えられ,本丸・西ノ丸のそれぞれの大奥・紅葉山(もみじやま)諸堂舎・増上寺・浜御殿などの営繕を担当し、若年寄配下であった。以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

 以下同前。]

 此時分、町家にては、白粥・「あづきがゆ」・「麥挽(むぎひき)わり」を以て、最上とし、「豆めし」・「そら豆めし」・「芋めし」を上食とし、「ひばめし」・「きらず飯」、或は、「うどんの粉のつといれ」等を、その次となす。甚しきに至りては、得[やぶちゃん注:不可能の副助詞「え」の当て漢字。]しらぬ野菜を、おほく、鍋に入れ、鹽にて、少し、味をつけ、其中へ「ひえ」の粉(こ/こな)樣(やう)の物を、ふりちらして、食とす。又。「わら」を「すさ」の如くに切りて、「ほうろく」へかけて、よきほどに、こがし、それを、挽舂(ひきうす)にて、よく、ひき、「だんご」となして、くらへり。

[やぶちゃん注:「ひばめし」「干葉飯」。ダイコンの葉を炊き込んだ飯。陰干しにしたダイコンの葉(干葉)を、よく揉んで、熱湯に浸し、適宜に刻み、米に混ぜ、塩を加えて炊きあげたものを指す。米節約のための粗末な飯。

「きらず飯」「雪花菜飯(きらずめし)」。「おから」を多く混ぜて炊いた飯。同前。

「うどんの粉のつといれ」饂飩粉を練ったものを「苞」(つと:「包む」と同語源で、藁や葦などを束ねて、その中に食品を包んだもの。藁苞(わらづと)に包んだもの。米の飯よりも日持ちがしただろう。

「すさ」「苆」「寸莎」。壁土に混ぜて、罅割れを防ぐ繋(つな)ぎとする材料。荒壁には藁(わら)を、「上塗り」には麻又は紙を用いる。ここは前者。

 以下同前。]

 予があたりの土手原にある、可なりに食となるべき草は、みな、とりつくせしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 奧州筋にては、鳥獸を食し、或は、

「子をとらへて、飢をしのげり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:人間の子どもを攫って食べたのである。]

 此「打ちこはしの時」、公より、一町内の人別をあらため、其人數(にんず)程、竹鎗一本づゝもたせ、白き手拭を「しるし」と定め、

「もし、他(よそ)より、亂妨のもの來(きた)れば、拍子木を以て、うちならす時は、一同に集ふべし。」

と觸れられしが、程なく、騷動、止みたり、となり。是、全く、其町内より出でしものも、他の者に交りて、わが町内にも、夜分など、亂妨せしゆゑに、町内にかゝる觸(ふれ)出でし故に、皆、しづまりしは、當意卽妙の事とぞ【此(この)「町觸れ」によりて、「打こはし」の鎭まりしには、あらず。江戶中の米屋共を、不殘(のこらず)、打こはして、人氣、ゆるみし上に、「米穀、下直(げじき)にし、御救被下(おすくひくださる)。」といふ風聞によりて、漸々に鎭まりしなり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此節、「あふれ者共」も召し捕(とら)れて、入牢せしもの、おびたゞしく、

「假(かり)に牢をも、しつらひし。」

と、いへり【「多く入牢せしは、この『打こはし』の騷ぎに乘じて、物を盜みし巾着切(きんちやつきり)などいふ、盜人なりし。」と聞きぬ。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此「打ちこはし」の騷動、五月十九日より廿二日までにて鎭まりしが、廿四日頃より、廿六、七日の間は、米穀の賣買(ばいばい)[やぶちゃん注:底本は『貴買』であるが、意味が不明である。「たかがひ」と読めぬことはないが、「賣」の誤判読とした方が躓かない。]、更になし。【此「打こはし」は、五月下旬より六月初旬まで、凡(およそ)、一旬にて、全く鎭りし也。その中(うち)、甚しかりしは、四、五日の程なりき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米商賣の者、六月二日頃より、米、賣り出だすべき含(ふくみ)はありしが、一體、米、拂底なる故に、手段なくて、只、其町ぎりに、番屋々々にて、百文につきて、四合づゝに賣りしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 百俵五人扶持以下の御家人へは、御救米拜借被仰付之(これ、おほせつけられ)、六月に入り、町々へは、御すくひ米・御救金、壱人に付、三匁弐分、米・豆、合而(あはせて)五合づゝ被下之(これ、くださる)。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米穀、拂底に因りて、津々浦々迄、御救方の事、關東御郡代伊奈半左衞門に被仰付之、半左衞門、計(はから)ひにて、大麥、兩(りやう)に壱石(いつこく)、米は兩に四斗(と)の積りをもて、江戶町中へ御すくひ米あり。尤、

「右代物は五日めに差出候へば、又候(またぞろ)、其跡の米麥ともに賣りわたし。」

觸れられしなり。但、壱兩なり。四斗の相揚、百俵にては八拾七兩弐步の積りなり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大麥、兩(りやう)に壱石、米は兩に四斗の積り」大麦の場合は一両(重さの単位で四十一~四十二グラム)に対して一石(容積の単位で百八十・三六リットル)に、米の場合は同じ一両に対して一斗(七十六・一五六リットル)と換算するという意味であろう。但し、後半の部分は私は何を言っているのか、よく判らない。

 以下同前。]

 此米、直段(ねだん)の至りて、貴(たか)かりし時に、をかしき物語、有り。

 吉原にて何がしといへる雙(なら)びなき名妓ありしが、常には文雅風流なる客を愛し、文才なき野俗なる人物には、殊に愛相(あいさう)も薄かりき。

 此(この)飢僅に至りて、日頃と違(たが)ひ、入り來る客をば、雅・俗を、えらまず、もてなしも厚かりし故に、一家のもの共、大に不審し、其(その)操(みさを)のかはりしことを難ぜしに、名妓のいへるは、

「不審し給ふこと、道理に聞え侍る。必竟、此頃しも、日々に雜食のみにて、いかに快(こころよか)らず。客、來(きた)れば、米の飯を食しまゐらする故に、客を愛するにては、なし。只、口腹(こうふく)を愛するなり。」

と、いへるにて、此時分の、米の寶なるを、しるべし。

[やぶちゃん注:「口腹」には「幸福」を掛けているか。

 以下同前。]

 子が方へ出入する大工、作事(さくじ)を、外より、受け負ひし。

「焚出しの米をとゝのへん。」

とて、拾兩付の金を、ふところにし、米商人の方へ、終日、あるきしに、やうやく、五升、三升づゝ買ひ集めて、

「三斗には足らざりし。」

とて、常に物語せり。

[やぶちゃん注:「拾兩付」は「じふりやうづき」で、これは纏まった小判や同一貨幣などの十両ではなく、「なんだかんだと寄せ集めて十両分の銭金(ぜにかね)」という意であろう。

 以下同前。]

 此年はいづれの人とても、空腹になり易きこと、至りて、はやく、朝飯、すみぬれば、はや、晝飯を待ちかねしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米すくなき時節には、北斗にさゝふる程の黃金白銀ありとも、更に、益なし。米は壱ケ年も、二ケ年も餘りある程に、手當(てあて)ありたきものなり。前漢の鼂錯(てうそ)が論に、「球玉金銀饑不ㇾ可ㇾ食。寒不ㇾ可ㇾ衣」とは、古今不易の確言といふべし。

[やぶちゃん注:「北斗にさゝふる程」「北斗」は北斗七星のこと。中国では古代よりこの七星を天枢(てんすう)・璇(せん)・璣(き)・天権(てんけん)・玉衡(ぎょくこう)・開陽・揺光と呼び、畏敬した。これは、斗の柄の指す方角によって時刻が知れ、また、季節を定める重要な星であったからである。また、道教の星辰信仰の中では、順に貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍星と呼ばれ、北極星信仰や司命神信仰と習合し、人間の寿夭禍福(じゅようかふく)を司る神とされた。特に人間の命運は、生年の干支で決まる北斗の中の本命星の支配下にあり、北斗神が降臨して、行為の善悪を司察し、「寿命台帳」に記入する「庚申」・「甲子」の日に醮祭(しようさい:星祭り)をすることで、長寿を得、災厄を免かれると考えられたのである(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 以下同前。]

天明八申とし、正月晦日、禁中、及、堂上衆、武家寺社、市中等、火災の大變あり。

[やぶちゃん注:天明八戊申年一月三十日(グレゴリオ暦一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の京都大火」。皇居が炎上し、京都の大半が焼失した。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所』が『軒並み』、『焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都は』、『この前後にも』「宝永の大火」と、元治の「どんどん焼け」で『市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』とある《【やぶちゃん補注】★必要がない場合は、太字部を飛ばして下さい。★「宝永の大火」は宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に発生し、四百十七ヶ町、一万三百五十一軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などが焼けたもので、「どんどん焼け」は幕末の「禁門の変」に伴って元治元年七月十九日(一八六四年八月二十日)に発生した火災の通称。この呼称は、手の施しようもなく、みるみる内に「どんどん」焼け広がったさまに基づく。焼失町数は八百十一町(当時の京の全町数は千四百五十九町)、焼失戸数は二万七千五百十七軒(同前で全戸数四万九千四百十四軒)、人的被害は負傷者七百四十四名、死者三百四十名。但し、二条城や幕府関係の施設に被害は見られなかった。当該ウィキによれば、『従来は』『乃美織江ら』、『長州兵が撤退時に』、『河原町の長州藩邸に放火したことが原因とされていたが、西隣の寺町にある本能寺は長州藩邸制圧を狙った薩摩兵の砲撃により』、『真っ先に焼け落ちており、北側の角倉邸、南側の加賀藩邸や対馬藩邸、東側の鴨川対岸が無事に火災を免れた』『ことから「長州藩邸はすぐに鎮火されたが』、『敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家が福井藩、一橋慶喜勢、会津藩・薩摩藩兵、新選組らの砲撃により』、『炎上し』、『その火が延焼した」可能性も浮上している』とあり、また、後に、『大火は、会津藩が長州残党を狩り出すため』、『不必要におこなった放火が原因だ、との感情が強』くあり、『町民からは評判の悪い会津と新選組が原因扱いされていたと』もあったとある。》。

話を「天明の京都大火」に戻す。

一月三十日(三月七日)『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子』(どんぐりのづし:現在の京都市東山区宮川筋付近)『の町家から出火』したが、これは『空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて』、『瞬く間に』、『南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って』、『洛中に延焼した。その日の夕方には』、『二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日の『早朝のことだった』。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町のうち』、『焼失した町は』千四百二十四町、『焼失家屋は』三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名だったとあるが、実際には死者数に『関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の』死亡者は千八百名は『あったとする説もある。光格天皇は』、『御所が再建されるまでの』三『年間、聖護院を行宮』(あんぐう:仮御所)『とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)に』、『それぞれ』、『移った。後桜町院の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中で幕閣の中心人物であった松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に』、公家で有職故実家の『裏松固禅』(うらまつみつよ)が幸いにも「大内裏図考證」を完成させており、『その研究に基づいて』、『焼失した内裏の再建』が『古式に則った形』『で行われることとなった。再建の費用は幕府から出資された。これは』、『幕府の慢性的な財政難と』、この「天明の大飢饉」に『おける民衆の苦しみを理由に』、「かつてのような古式に則った壮麗な御所は、建てることはできない。」と言った『松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は』、『京都所司代や京都町奉行に対し』、「朝廷の新規の要求には応じてはならない。」と『指示している』。『これにより』、『「幕府」に対する「朝廷」の動向が世間の注目を集めるようになり、さらに「尊号一件」などの』、『幕府と朝廷間の紛争の遠因となった』とある。

 以下同前。]

 神祖、海内(かいだい)を統御ましましてより、二百年の今日まで、四民、其所を得ざるものなく、三代の治といふとも、恐らく、此うへに、過ぐまじ。

[やぶちゃん注:「神祖」徳川家康。

「三代の治」古代中国の夏・殷(商)・周三王朝の時代を指す。それぞれの黄金時代を築いた創業の聖王である、夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王・周公のときには、最も理想的な統治が行われていたとされ、孔子は、この三代の歴史の中に、人類が生み出した最も優秀な中国文化の展開を見、自分こそ、その本質を知るものと自認していた。そして将来の理想的な国家社会のイメージを,三代文化の総合として構想したのであった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「二百年の今日」江戸開府から二百年後は享和三(一八〇八)年。よく判らない筆者の執筆時制の確認が出来る記載である。]

「昇平の世に、ひとり、恐怖すべきもの、火災に、ますこと、なし。平賀源内の工夫せし『天龍水』といふもの、制作なしたらば、雙(ならび)なき防(ふせぎ)なるべきに、其含(そのふくみ)の内に、なき人の數に入りし。惜むべきこと。」

とて、司馬江漢なる蘭學者、語りき。いかなる防ぎの器(き)なりしにか【「消夏自適」「天明の凶年編」全。】。

[やぶちゃん注:「平賀源内」は享保一三(一七二八)年生まれで、安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)に獄死したことになっている(酒に酔って誤解から人を殺傷した咎による入牢し、破傷風により亡くなったとされているが、別説に、田沼意次或いは故郷であった高松藩(旧主である高松松平家)によって密かに救出され、その庇護下で天寿を全うしたとも伝えられ、私は後者を、結構、信じている。

「天龍水」不詳。ただ、この名は「竜吐水」(りゅうどすい)と酷似する。竜吐水は江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具で、その名称は、竜が水を吐くように見えたことに由来するとされる。参照した当該ウィキによれば、『これを改良したものを雲竜水(うんりゅうすい)と呼ぶ』(こちらの方がより酷似するネーミングである)。十八『世紀中頃の明和元年』(一七六四年)『に江戸幕府より町々に給付されたポンプ式放水具であり、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったとされる(モースの絵日記にその様子が描かれている)。自身番屋に常備された』。『木製であり、外観形式としては箱型であり、駕籠にも似た江戸時代の消火器である』とある。源内の考えたものは、これを遙かに大規模にした装置であったものか? なお、私はそこに出る生物学者で「お雇い外国人」として進化論を日本人に初めて紹介したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の石川欣一訳のズバリその「日本その日その日」をずっと昔にブログで全電子化注を終えている。「第四章 再び東京へ 15 隅田川川開きのその夜起った火事の火事場実見録」及び「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 11」で絵入りで紹介している。但し、前者では、ウィキでも述べられている通り、酷評で、上の前者の私の電子化から引用すると、『長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くっ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水(ほうすい)が連鎖してシュッシュッと出る。喞筒(ポンプ)は円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂(すきま)から空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた。』とある。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 この記を筆(ひつ)せし鱗齋ぬしは、その職分、官府の御舊記を窺ひ見る事の自由なる故に、當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり。但、市中の事、風聞の說に至りては、いかにぞや、おもふよしなきにあらぬを、そのくだりに、聊(いささか)、「かしら書」を加へたり。前編と彼是(かれこれ)、比較せば、後生(こうせい)の爲に稗益(ひえき)あるべし。

文政九年丙戌春二月十七日、雨窓に、謄寫、了(をはんぬ)。

[やぶちゃん注:「當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり」馬琴さんよ! 私が注で何度も言っている通り、誤り、多いぜ! この本は!

「裨益」「埤益」とも書く。「助けとなって役立つこと」の意。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その7)

 

 解云、「當時を考ふべきもの、管見[やぶちゃん注:底本は『管窺』。「馬琴雑記」で訂した。]、纔に、これらにすぎず。天明の季より寬政中に至りても、米穀の價、いまだ、廉ならず。これにより、關東地𢌞りの酒造を禁《トヾ》めさせて、且、池田・伊丹も、釀酒(じやうしゆ)の斛高(こくだか)を減じられたり。

[やぶちゃん注:「池田」大阪府北部にある池田市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くから大坂の名酒の産地としてしられた。サイト「たのしい酒jp.」の「大阪の日本酒【緑一(みどりいち)】“池田酒”の歴史と伝統を受け継ぐ酒」によれば、『池田の地で酒造りが始まったのは、室町時代末期から安土桃山時代ごろのこと。当時、北摂(ほくせつ)地域の中心地としてにぎわっていた池田は、猪名川(いながわ)の伏流水と、山間部でとれる良質な米に恵まれ、酒造りに適した環境がありました』。『また、“池田の酒造りの祖”と言われる満願寺屋九郎右衛門が、かの徳川家康に酒を献上して「酒造御朱印」(酒造免許)を授かったことも、酒造業が発展するきっかけになったと伝えられています』。『この地で造られる「池田酒」は、「江戸下り酒」』(上方から江戸に送られた酒をかく呼称した)『として人気を博します。銘醸地としての地位を確立した江戸時代中期には、池田には』三十八『軒もの酒蔵が並んでいたのだとか』。『「緑一」の蔵元である吉田酒造は』、元禄一〇(一六九七)年に『加茂屋平兵衛によって創業されました。代表銘柄である「緑一」は、澄んだ色をした上等の酒を表す「緑酒」という言葉と、「池田が清酒発祥の地」という誇りを込めた「一」を合わせて、命名されたと言います』。『かつては酒処として栄えた池田市ですが、現在も酒造りを続けている酒造会社は、吉田酒造を含めてわずか』二『社のみ』で、三百『年の歴史を持つ吉田酒造は、この地の酒造りの歴史を今に伝える、貴重な存在だと言えるでしょう』とある。今一つは呉春酒造であろう。]

 是より先に寬政二庚戌年[やぶちゃん注:一七九〇年。]、江戶町中の法則を定め下され、數ケ條(すかぜう)の「くだしぶみ」を彫刻して一册となし、入銀百廿四文と定めて、町役人及(および)家持の町人等に頒(わか)ち取らせ給ひき。この時に當りて、江戶柳原の東北、「あたらし橋」の向(むかふ)に、「義倉(ぎそう)」を建てられて、これを「籾藏町會所(もみぐらまちくわいしよ)」と唱ふ。すなはち、江戶中(えどぢゆう)町入用の中(うち)、無益の雜費を省かしめ給ふこと、凡、八分、その中、七分を、每月、籾藏町會所に納めしめて、窮民を牧はせられ、且、荒年に備へしめ給ひぬ。無量廣大の御仁政、これを仰げば、いよいよ、高し。孔聖、仁を先(さき)にして、食を後(のち)にするもの、寔(まこと)にゆゑあるかな。星(ほし)、移り、物、換(かは)りて、御規定の町法も頗(すこぶる)變替(へんたい)したりといへども、義倉は、猶、巍然(ぎぜん)[やぶちゃん注:高く抜きん出るさま。]として、向(むかひ)柳原の外、又、ニケ所、その礎(いしずゑ)と共に、朽つるとき、なし。假令(たとひ)、今より後、凶荒、年を累(かさ)ぬとも、天明丁未の夏のごとき、四民、困窮して屋《イヘ》を壞(やぶ)り、物を損ふに至るべからず。且、丁未の忩劇(そうげき)[やぶちゃん注:世の混乱や騒ぎ。]も、餓民等(がみんら)、唯、米商人の奸詐(かんそ)[やぶちゃん注:悪巧み。]・貪婪(たんらん)[やぶちゃん注:欲深いこと。読みは「馬琴雑記」によったが、「どんらん」「とんらん」でもよい。]を憎み、恨みしのみ。露ばかりも、野心のもの、なし。便(すなはち)、是、神州忠直の人氣の、おのづからなるものにして、異朝の及ぶ所に、あらず。しかしながら、亦、かけまくも、かしこき上への御至德・御威光によるものなれば、萬民、各々、業を奬(はげ)みて[やぶちゃん注:底本は『奨めて』。「馬琴雑記」で訂した。]、驕(おごり)を袪(しりぞ)け、泰平のうへにも、なほ、泰平を樂(ねが)ふベきこと、勿論なるべし。よりて錄して。みづから警め人を箴(いまし)むること、件の如し。」。

[やぶちゃん注:「あたらし橋」現在の美倉橋の古称(江戸時代を通じて庶民は「新シ橋」と呼び、切絵図でもそうなっている。ここの上流の昌平橋も、この呼称で呼ばれたことがあるので注意が必要)。例の「古地図 with MapFan」で見て戴くと、北詰の東北位置に「御籾蔵」とあるのが確認出来る。

「義倉」中国・朝鮮・日本に於いて、旱魃・凶作の際に窮民を救うために設けた非常米貯蓄制度。中国では隋の五八四年に設けられ,唐は六二八年以来、一畝ごとに粟(ぞく:米と粟(あわ))二升を徴収した。非常時には無償で放出したが、それ以外の時に流用されるようになり、唐代の後半から宋代には常平倉(じょうへいそう:物価を調節するために設けられた官営の倉庫。取り扱うのは主に穀物で,安値の時に買い、高値の時に売る。商人はこれによって利益を得、政府は物価の調節を図った)と合して、「常義倉」と呼ばれた。日本の律令国家も、これにならったが、効果はあまりなかった。江戸時代に復活し、幕府や藩によって造られ、「社倉(しゃそう)」とも呼んだ。「常平倉」とともに農民収奪の安全弁の役割を果たした(以上は平凡社「百科事典マイペディア」他に拠った)。]

 再、いふ、「予、『丙午丁未和漢災變當否』の辯あり。あまりに辯の長くなれば、そは、又、別にしるすべし。」。

 この餘、文化以來、連歲(れんさい)[やぶちゃん注:底本は「連」なし。「馬琴雑記」で加えた。]、豐作、うちつゞきて、米穀の價、或るは、金壱兩に、石、二、三斗、或は、石、五、六斗、又、所によりて二石餘なるもありし事、是により、諸家に命ぜられて、米粟を、多く、かこはしめ給ひ、又、江戶町中(まちなか)にも、その分際に應じて戶每(とごと)に米を買ひ入れさして、かこはしめ、いく程もなく、その事、やみて、その米を御あげになりし事、文政に至りても、江戶中の商人等に、

「物の價を、一わり、引きさげて、賣れ。」

と、ふれられし事、當時、士・農、豐年を憂ひとせし事、今玆(ことし)に至りて、奧州半熟(はんじゆく)の聞えあり。美濃は洪水によりて、人、多く、溺死せし事、甲州に蝗(うんか)の風聞のある事まで、悉くしるし盡(つく)さば、その間《アハヒ》には、亦、論辯のなきにあらねど、かゝる事には憚(はばかり)の關(せき)をいかゞはせん。予は壯年より筆とる每に、謹愼を旨として、禁忌に觸るゝことは、記載せず。見ん人、これをおもひねかし。

 附けていふ、この兎園の集莚(しふえん)は、必(かならず)、月の朔日にすなるを、來ぬる霜月には、文寶堂のあるじすべきを、

「さはること、あり。」

としも聞えしに、

「けふなん、關東陽の誕節なれば。」

とて、その祝席を相兼ねて、社友を海棠庵につどへられしなり。よりて、いさゝか、ことほぎのこゝろをよみて、おくり物に、かふ。予が「たはれ歌」、

 よきたねのみばえし日とて筆柿のわざに熟せし君をことぶく

黃鳥、いまだ谷をいでず、といへども、時今、小春にして喬木に遷るのおもひあり。交遊兼愛の情、こゝに言なきこと、あたはず。莫逆風流の佳席、燭を續(つ)ぎて、長夜の闌(たけなは)なるを、おぼえず。そもそも、亦、愉快ならずや。

文政八年乙酉十一月の兎園小說第十一集中の一編

同年の冬十月廿三日     玄同陳人解識

[やぶちゃん注:「關東陽の誕節」【2021年10月30日改稿】旧稿では江戸開府のことかとトンデモ大間違いしてしまった。いつもお世話になるT氏の御指摘で、何のことはない、この会の発会場所である、海棠庵邸の若主人で常陸土浦藩藩士にして書家でもあった関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年十月二十三日~文政一三(一八三〇)年九月二十七日)の誕生日であった。彼は父関克明(こくめい)に学び、藩の右筆手伝などを務め、書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集をも助けた。死因は不詳だが、この会の六年後に三十五の若さで亡くなっている。「東陽」は彼の別号である(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。T氏に御礼申し上げる。

 さて。これで終わったと思うでしょ? ところがどっこい! アラまっちゃんデベソの宙返り! まだ附録が底本にして約七ページも続くんでえ!

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 (無題)(快活な女學生の群れは)

 

  

 

快活な女學生の群は

うら悲しき半白の老人をとりかこみて校庭の隅に立てり

かくもうららかなる春の日ざしにそもこの人々は何事を語れるや

「心の淸きものは幸なり」

 

この快活な娘たちと

窮屈な老人とは何を話すのか

今日もまた

うららかなる運動場の隅で

ちよいと芝草の芽をつむやうないたづらから

この娘たちは成人します

 

さて娘たちも娘たち

日ざしに涙ぐむまで居れよ

だれにでもしんせつにせよ

誘惑を怖れよ

ああ あなたがたの白い手をあげられ

淸きことばと潔き仕事にまごころをもてつくされよ

學問を勉强せよ

ちちははに從順なれ。

 

[やぶちゃん注:底本では推定で大正三(一九一四)年の作とし、『遺稿』とある。しかし、筑摩版全集では、「未發表詩篇」に翌年大正四年を示す「――一九二五、四――」のクレジットを打つ詩篇の後に(因みに当時萩原朔太郎は満で二十八・二十九歳であり、「老人」ではない)、以下のように出る。漢字の表記はママ。

 

 

 

快活なる女學生と群は

うら悲しき半白の老人とは運働場の隅に きたれり 立てり、をとりかこみて立てり、校庭の隅に立てり、

かくもうらゝかなる春の日ざしにそもこの人々は何事を語れるや

「心の淸きものは幸なり」

 

この快活な娘たちと

窮屈な老人とが話を した しました して居 ます、 るのです、 は何を話すのか

今日もまたうらゝかなる運働場の隅につどひてきて

あるうらゝか→高等→ある地方の女學校のせまい運働場の隅で

私たちは それはちよいと芝草の芽をつむやうによな心ばえいたづらから

この娘たちは成人します

さばれ老人の校長よ

油斷をしなるな

またさて娘たちも娘たち

日ざしに淚ぐむまで居れよ

だれにでもしんせつにせよ

誘惑を怖れよ

ああ、あなたがたの白 い手をあげられ

淸きことばと潔(いさぎよ)き仕事にまごころもてつくせよされよ

しんじつあるものはつねに克たん

學問を勉强せよ

いつしんちゝはゝに從順なれ

 

さて、これは全くの推理に過ぎないが、この大正三~四年時には、朔太郎はマンドリンに熱中していた時期であった。確認出来たわけではないが、或いはその演奏会を女学校で催すこともあったのではなかったか。本底本のそれは、以上の草稿を杜撰も整序し損なったもののように思われる。正直、私には、萩原朔太郎の詩としては、特異点の、読みたくないレベルの辛気臭い詩篇である。]

2021/10/29

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 顏

 

 

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに

耳なき白き犬は殺されたり

慘酷にも殺されたり

殺されたる白き犬の幽靈

プラチナの映畫は繰返せり。

              ―東京遊行詩篇五―

 

 編註 「東京遊行詩篇」の二「狼」、三「かなしい遠景」は既刊詩集に收錄。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月の作とし、『遺稿』とある。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように出る。誤字「扁」はママ。

 

 顏

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに、

耳なき白き犬は殺されたり、

慘酷にも殺されたり、しが、

殺されたる白き犬の幽靈を、ば、

プラチナの映畫は繰返せり。

        ――東京遊行詩扁、五――

  (東京遊行詩扁一、二、三の三扁は地上巡禮十二月読に所載)

 

とある。最後の萩原朔太郎の覚書の内容については、底本のこの前にある「蝕金光路」の私の注を参照されたい。また、この草稿が「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に「顏」として載る。以下に示す。

 

 白晝の幻

 顏

 

淺草公園活動寫眞のくらやみに

耳なき白き犬は殺されたり

慘酷にも殺されたりしが、

殺されたる白き犬の幽靈をば

プラチナの映畫は繰返せり、

 

底本は最後のものを整序したものと推定される。]

2021/10/28

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 蝕金光路 / 附・別稿その他(幻しの「東京遊行詩篇」について)

 

  蝕 金 光 路

       ―エレナに與ふ―

 

かくしもわが身のおとろへきたり

肉身を超えて涅槃に入るか

その空さへも靑らみ

しだいに北極圈の光さしぐむ

げにかかる日の街街(まちまち)の

都をいづれにわが行くとても

往來 氷雪の峯ながれ

花鳥を薰ずる天上の

よのつねならぬ夕げしき

夕げしき

ああ われ都に疾患し

いためるまでもきみ戀ひ戀ひて

ひとりしきたり紙製の菊を摘まむと

銀座四丁目 BAZAARの窓をすぎがてに

けふの哀しき酒亂を超え

すさまじき接吻をおくりなむ

冬ならなくに金のゆきふる。

                ―東京遊行詩篇四―

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月作とし、『遺稿』とある。「BAZAAR」(意味は観工場(かんこうば)で既注)は縦書。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

 

 蝕金光路

 

かくしもわが身のおとろへきたり、

肉身を超えて涅槃に入るか、

その空さへも靑らみ、

しだいに北極圈の光さしぐむ、

げにかかる日の街街(まちまち)の、

都をいづれにわが行くとても、

往來、氷雪の峯ながれ、

花鳥を薰ずる天上の、

よのつねならぬ夕げしき、

夕げしき、

ああ、われ都に疾患し、

いためるまでもきみ戀ひ戀ひて、

ひとりしきたり紙製の菊を摘まむと、

銀座四丁目、BAZAARの窓をすぎがてに、

けふの哀しき酒亂を超え、

すさまじき接吻をおくりなむ、

冬ならなくに金のゆきふる。

         ――東京遊行詩扁、四――

 

「扁」はママ。全集編者注があり、『「習作集第九卷」の無題詩(かくしも我が身のおとろへ來り)の別稿』とある。以下にそれを示す。

 

 ○

 

かくしも我が身のおとろへ來り

肉身を超えて涅槃に入るか

その空さへも靑らみ

しだいに北極圈の光さしぐむ

げにかゝる日の街々の

都をいづれに我が行くとても

往來氷雪の峯ながれ

花鳥を薰ずる天上の

よのつねならぬ夕げしき

夕げしき

ああわれ都に疾患し

いためるまでも君戀ひ戀ひて

ひとりし來たり紙製の菊をつまむと

銀座四丁目BAZAARの窓をすぎがてに

けふの哀しき酒亂を超え

すさまじき接吻をおくりなむ

冬ならなくに金の雪ふる、

 

とある。

 ところが、前の「未發表詩篇」の「蝕金光路」の直前に並んでいるためか、同全集編者が注記をしていないのであるが(たとえ最初は通して読んだとしても、検索する際には見落とす者もおり(私がそうである)、甚だ不親切と私は思う)、実はそこの「晩景 ――エレナに與ふ」という詩篇が載っており、これはこの「蝕金光路」の草稿であることは疑いないのである。以下に示す。脱字・読点の欠損などは総てママ。

 

 晩景

      ――エレナに與ふ――

 

靑らみしだいに、

北極圈の光を感ず、

東京市中いづこを行くも、

街頭 氷ながれ、 を氷山のながれをはざまに鳥嗚も

都をいづれ都をいづれわが行くも

往來往來、都に氷山のながれ峯光り

その またいただきに花鳥のけはひを薰ずる夕げしき

金の粉雪(こなゆき)さんさんたり、

さめざめとふる金の雪

[やぶちゃん注:以上の二行は並置残存。]

ああ、かくてしもわが身のおとろへ、

肉身をこえて涅槃に入るか、

まづ けふいと遠くよりわれの手をのべ、

ひとへに愛人の乳房をまさぐる、

しんじつひとへに君におよぶのゆふまぐれ、

このこの浅草に紙製の菊をつみ、

いまいま哀しき十月をこえ

[やぶちゃん注:二行は並置残存。「┃」は底本では繋がっている。]

            紙製

┃←一ひと〔り〕しきたり  の菊をつまむと

┃           早咲

┃銀座四丁目觀工場の窓をこえよりすぎて

[やぶちゃん注:以上の二行(中途の二字熟語の並置を含む)は並置残存。]

はげしきすさまじき接吻をおくらむ、

われらの指凍る。

         ――東京遊行詩扁、四――

  (東京遊行詩扁一、二、三の三扁は十二月地上巡禮十二月號にあり、)

 

最後の注記は萩原朔太郎自身の覚え書きであるのだが、どうもおかしい。調べて見ても、『地上巡禮』の発表詩篇に「東京遊行詩篇」の当該番号の詩篇は見当たらないからである。困って、いろいろ調べてみたところが、渡辺和靖氏の論文『萩原朔太郎「東京遊行詩篇」考』(『愛知教育大学研究報告 人文・社会科学編』二〇〇五年三月発行。「愛知教育大学学術情報リポジトリ AUE Repository」のこちらPDFでダウン・ロード出来る)で疑問が氷解した。渡辺氏に考証によれば、この朔太郎の覚書は誤りで、『地上巡禮』は『詩歌』の誤りであると断じておられ(コンマは読点に代えた)、『これは朔太郎が送稿後、まだ雑誌が刊行される前の段階で記憶が不確かなまま、「十二月」と書き、さらにう』ろ『覚えで、「地上巡礼十二月号」』(実際には両作ともに大正四年一月号初出である)『と書き改めたものと考えられる。いずれにしろ「遠景」が「東京遊行詩篇 一」であり、「狼」が「東京遊行詩篇 二」であることは疑いないだろう。そして「東京遊行詩篇 三」とは、おそらく、その付記は見られないが、「遠景」「狼」と同時に『詩歌』1915年1月号に掲載された、末尾に「――十一月作――」の日付のある「孝子実伝――室生犀星に――」であると推定される』とあって、目から鱗なのであった。なお、この「遠景」は詩集「月に吠える」に「かなしい遠景」と収録されているものであり(私のブログの『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景』参照)、「狼」は詩集「蝶を夢む」の冒頭に配されたもの、「孝子実伝――室生犀星に――」は本底本で『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 孝子實傳――室生犀星に―― / 附・原草稿』で電子化注済みである。「狼」のみ私は電子化していないが、渡辺氏の論文のなかで示されているので、そちらを見られたい。同論文は幻しの萩原朔太郎の「東京遊行詩篇」シリーズの創作過程と発展的消滅を語って余すところがない、必見の論文である。

 さらに調べると、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、同一の二行断片(全集では『蝕金光路 (本篇原稿二種三枚)』としつつ、ただ以下の二行を掲げる(再度言うが、ここで全集が「二種」というのは校訂本文で採用して決定稿と勝手に判断した上記の稿を含めての意である)。

   *

いためるまでも君戀ひ戀ひて、

ひとりし來たり紙製の菊を摘まむと、

   *

 まあ、さても、本篇もまた、永遠のファム・ファータル「エレナ」詩篇の一つである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その6)

 

 人すら、かくのごとくなれば、犬・猫は瘦せ衰へて、骨立(こつりつ)して[やぶちゃん注:骨ばって。]、道路に臥したり。五、六月のころにやありけん、松島町(まつしまちやう)なるむかひの武家の大溷(おほどぶ)に、瘦せたる犬のうちつどひて、草を啖(くら)ひゐたりしを、予の、まのあたりに見たること、あり。かゝる類(たぐひ)、多かるべし。

[やぶちゃん注:「松島町」現在の日本橋人形町二丁目(グーグル・マップ・データ)。例の「古地図 with MapFan」で見ると、三方が水野壱岐守鶴牧藩中屋敷・内藤紀伊守村上藩中屋敷・永井肥前守加納藩中屋敷・森川紀伊守生実(おゆみ)藩中屋敷等に囲まれて、町は五区画に分かれており、南東部分に、確かに大きな溝(どぶ)があることが判る。その南東部も総て武家屋敷のようである。さらに、いつもお世話になる「江戸町巡り」の「松島町」の解説には、『安政再板切絵図によると、南は永久橋東から北に入った入堀に面し』、三『方は常陸土浦藩土屋氏上屋敷、上総鶴牧藩水野氏中屋敷等に囲まれ、町は』五『区画に分かれている。江戸期は』、元禄一一(一六九八)年、『町奉行川口摂津守、松平伊豆守両組の組屋敷となり「中組」といったが、宝永年間』(一七〇四年~一七一〇年)に五『区間に分かれ、さらに享保年間』(一七一六年~一七三五年)に上地(あげち:幕府が没収すること)と『なり、伊賀者、吹上御庭の者が住んだ。化政期』(一八〇四年~一八三〇年)『には』、『住民に乞食等の細民が多くなり「宿あり、門巡り」と呼ばれた』(「守貞漫稿」『東北部は松島稲荷があるため、「稲荷前」と俗称した』。『他に「河岸通」、「七軒」、「中通」の俗称地があった』とある。]

 さる程に、五月晦日(みそか)のことにやありけん、この夜、戌の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、俠客(きやうかく)どもの、むら立ち起りて、麹町なる米商人の「いち(肆)[やぶちゃん注:漢字ルビ。店の意。]くら」を、理不盡に破却せり。

[やぶちゃん注:「五月晦日」天明七年丁未五月は小の月で五月二十九日で、一七八七年七月十四日相当。]

 これぞ、世に「うちこわし」といふものゝ、手はじめとぞ聞えたる。

 かくて、その次の日より、或は、四、五十人、或は、百數人、一隊となりて、江戶中なる米屋の店を破却すること、日として、間斷(かんだん)なかりけり。

 はじめは、夜中、もしくは、早朝のみなりしが、後には白晝にも、この騷劇(きさうげき)あり。

 その破却する物の響(ひびき)、罵(ののし)り叫ぶ人の聲、弗撥囂塵(ふつはつごうじん)として、十町の外(ほか)に聞えたり。

[やぶちゃん注:「弗撥囂塵」「囂」は「騒音が烈しい」の意で「騒音と塵埃・騒がしくて埃っぽいこと」。「弗撥」はよく判らないが、「撥」には「治める」の意があり、それに否定詞の「弗」で、「収める(鎮める)ことの出来ないほどの」の意か。

「十町」一キロ九十メートル。]

 予は、京橋南傳馬町なる米商人万作が店を、破却せられし迹(あと)へ、ゆくりなくも、とほりかゝりて、見てけるに、米穀は、みな、俵を斫《キリ》斷(たち)て、その店前(みせさき)に引きちらし、衣類・雜具(ざふぐ)は簞笥・長櫃を、うち破りて、路中(みちなか)へ投げ棄てたれば、ゆくもの、道をさりあへず。

[やぶちゃん注:「京橋南傳馬町」現在の中央区京橋一~三丁目。]

 その米を拾はんとて、貪民の妻・婆々・小女(こめろ)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」のルビ。]さへ、乞兒《カタヰ》と共に、うちまじりて、袂に摑みこみ、囊(ふくろ)にいるゝ有さまは、耻をしらざるものに似たり。さりとて、制するものも、なし。

 このごろ、小日向水道町にて、豐島屋といふ米商人の、其店を破却せられし有さまを、予が、めのをんなは、見たりしに、そのことの爲體《テイタラク》、これかれ、同じかりきと、いへり。

 この故に、「米あき人(んど)」ならざるも、店のさまの、相似たるは、破却せられしも、間々、ありけり。

 これにより、市(いち)のかみ[やぶちゃん注:町奉行。]より、寄騎(よりき)・同心を出だされて、制せさせ給ひしかども、勢(いきほひ)、當るべくも、あらず、只今、こゝにあるか、とすれば、忽焉(こつえん)として、鄰町(りんちやう)に、あり。

 「あふれもの」どもの、そが中に、年、十五、六の「大わらは」の、いつも、衆人(もろびと)に先きだちて、軒(のき)に手をかけ、矮樓(にかい)に飛び入り、奮擊すること、大かたならず。

「これは、人間わざならで、必(かならず)、天狗なるべし。」

とて、「牛若小僧」と唱へつゝ、人みな、戰(おのの)き怕(おそ)れしが、後に、その素生(すじやう)を聞きしに、

「『大工(だいく)わらは』といふものにて、渠(かれ)、十二、三のころよりして、身輕く、力、あり、つねに好みて、梁(はり)をわたるものなり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「矮樓(にかい)」「矮」には「低い」の意がある。江戸御府内では「慶安のお触れ」以降、民家や商家などの建物に対して、その身分に応じての厳しい規制があり、新築等の場合には、庄屋や町方肝煎を通じて、代官所等に届け出が必要であり、この際、審査され、通常は不必要とされる本格的な二階建ては許可されなかった。旅籠・料亭・妓楼などで、狭い土地で立地せざるを得ない必要性があった場合に限って、慣例として認められていたが、それでも、二階から表通りが見下ろせるような造りは禁じられており、通りに面した壁面にある窓は、虫籠窓(むしこまど:漆喰で塗り込められた縦にごく細いスリットがある窓)・違い格子・透き見格子などで作り、明かり取り或いは換気孔程度とされ、また、外観上からは、二階に見えないような造り(デザイン)になっていた。則ち、日常的な部屋としてではなく、「厨子二階」(つしにかい)「中二階」など呼び、部屋の天井が低いことが特徴で、主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。無論、江戸辺縁部の農家などで養蚕などの必要性があるものは、別であった。

「大工(だいく)わらは」彼の渾名。所謂、大工で、高所が平気な、所謂、「鳶職」でもあったものであろう。]

 はじめ、兩三日の程、甲州も、馬を出だして、

「制せん。」

と、せられしかど、彼等、いかにか角《スマ》ひけん[やぶちゃん注:如何に応じ、対抗したものか。]、搦め捕れしもの、ありとも聞えず。そのいく隊(むれ)なる「溢(あぶ)れ者」を、いづれの町の、誰(たれ)が店子(たなこ)ぞ、と、定かにしれるものも、あらず。

 この故に、

「『うちこわし』の奴原(やつばら)あらば、速(すみやか)に搦め捕(とらへ)るべし。若(もし)、[やぶちゃん注:底本は『捕るべくも、手に』と続くのだが、如何にもおかしい。「馬琴雑記」で訂した。]手にあまらば、擊ち殺し、斫(きり)殺すとも、けしうは、あらず[やぶちゃん注:まあ、よかろう。]。」

と、いと、嚴(おごそか)に、町ぶれ、有りけり。

 これにより、町々なる家主(いへぬし)に、おのおの、竹鎗を用意して、夜は、暮六つ[やぶちゃん注:不定時法だと、遅くなるので、定時法の午後六時で採っておく。]より、路次(ろじ)を閉ぢ、店番(たなばん)といふものを輪番せしめて、店中(たなちゆう)を巡らする物から[やぶちゃん注:この「ものから」は逆接の接続助詞。]、もし、その店の米屋が家に、件のものどもの、むらだち來て、破却することあるときは、店番は、あわて、まどひて、拍子木だも、嗚らし得ず、家主は、竹鎗を引き提げながら、路次の戶内(とうち)にふるひゐて、阿容(オメオメ)々々として[やぶちゃん注:底本は『阿容(オメオメ)たゝしく』であるが、意味がとり難い。「馬琴雑記」に代えた。]、こはさせけり。

 この事、只、江戶のみならず、京・大坂も、亦、かくのごとし。

「凡、米屋といふ米屋の、米をもてるも、持たざるも、破却にあひしは、闕遺(けつゐ)なし。」

と、六月の末に聞えけり。こは、「未曾有の奇事」と、いはまし。

[やぶちゃん注:「闕遺(けつゐ)なし」『総てが「打ちこわし」に遭い、遭わなかった米屋は一軒たりとも、なかった。』という噂である。]

 かくて、米屋には、なごりなく、破却せられて、そのことは、いつとなく、凡(およそ)、一旬(とをか)[やぶちゃん注:十日。]あまりにして、かき消すごとく、鎭まりぬ。

 さればとて、そのものどもの、召し捕れしとも、聞えず。

[やぶちゃん注:実は逮捕者が少なかったのは、前回の注の引用で判る通り、町奉行曲淵景漸自身が庶民に同情的であったことによる。]

 只、湯島なる米商人津輕屋三右衞門【今の棭齋が養父のときなるべし。[やぶちゃん注:「棭」は底本も「馬琴雑記」も『掖』であるが、後者ではっきりと「狩谷」の姓を記していることから、「棭斎」に訂した。]】がいち宇(う)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『いちくら』。]のみ。破却を免れて、かへつて、その一人を擊殺(うちころ)せし、といふ。こは、津輕侯より、足輕、許多(あまた)遣して、護(まもら)し給ひし故とも、聞え、或は、鳶の者等に、多く錢を取らして、日夜、防禦せし故、とも、いへり。

[やぶちゃん注:「棭斎」狩谷棭斎(かりやえきさい 安永四(一七七五)年~天保六(一八三五)年)は考証学者。江戸下谷池之端仲町の本屋青裳堂(せいしょうどう)高橋高敏の子で、初名は真末(まさやす)。二十五歳の時、湯島の津軽藩御用商人狩谷家を嗣ぎ、名を望之(もちゆき)と改め、津軽屋三右衛門を称した。棭斎は号(四十一歳での隠居後の通称とする)。晩年は浅草に住んだ。裕福で、商用の傍ら、学事に身を委ね、松崎慊堂を師として、日本古代の制度を研究、「律令」から「六典」・「唐律」・「太平御覧」・「通典(つてん)」などの諸書を考究して、遂には漢代にまで遡り、さらに進んで「六経」(りくけい)を修めた。古典の本文考証・注解や、金石文の収集に力を注ぎ、宋・元の古版本を始めとして、希書や古来の貨幣、その他、古器物の蒐集にも努めた。主な著作に優れた注で知られる「箋註倭名類聚抄」・「日本靈異記攷證」などがある。]

 昔、享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず。これにより江戶中の米の價、錢百文に白米一升四合を換へしかば、衆俠(しゆうけふ)、忽に、群(むらが)り立ちつどひて、伊勢町なる坂間といふ米商人の「いちぐら」を破却したるこそ、未曾有の珍事なれとて、故老の口碑に傳へたれども、そは、只、坂間一箇のみ。天明丁未の奮擊は、京・攝・江戶の三郡會、同月一時に起り立ちて、進退・符節を合せたるが如し。彼(かの)坂間のともがらをして、なほも世に在らしめば、將(はた)、これを見て、何とかいはんや。おもふに、享保・元文中[やぶちゃん注:一七一六年~一七四一年。]は、金壱兩を錢三貫八、九百文、或は四貫文に、かへたり。天明中の、八、九合に當るべし。それすら、貧民の憤りに堪へざりし事、右の如し。まいて、百文に白米三合を換ふに及びて、破却のなごりなかりしも、おのづからなる勢(いきほひ)なるべし。この頃【丁未の秋。】、御藏(おくら)をひらかせられて、江戶中へ米の價、下直(げぢき)にして下されけり。大約(おほよそ)、一人に玄米一升五合と定めて、隈(くま)なく頒下(わかちくだ)されたる。この御仁政に、人氣、感激し奉りて、市中(しちゆう)、靜肅(せいしゆく)する程に、新麥(しんむぎ)も、既に、いで來、古米も、諸國より運送・入津(にふつ)するにより、八・九月に至りては、百文に白米六、七合になりにけり。しかれども、「その日稼ぎ」といはるゝ寒民は、なほ、白米を求むるに、ちから、及ばで、或は、蟲ばみたる陳米(ふるよね)、或は、殼麥(からむぎ)を、一、二升づゝ購(あがな)ひ求めて、これを日每に、一升德利とかいふ酒器に入れ、舂(つき)精(しら)げて、炊(かしき)て、食ひけり。

[やぶちゃん注:「享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず」所謂、「享保の大飢饉」である。前年享保十六年の末より、天候が悪く、年が明けても、悪天候が続いた。享保一七(一七三二)年『夏、冷夏と害虫により』、『中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ』、『瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約』二『ヶ月間にも及び』、『冷夏をもたらした。このため』、『ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても』、『多大な被害が出た』とされる。『被害は西日本諸藩の』内、四十六『藩にも及んだ』。この四十六『藩の総石高は』二百三十六『万石であるが、この年の収穫は僅か』二十七%弱の六十三万石程度しかなかった。餓死者は実に一万二千人『(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した』(但し、「徳川実紀」では、桁違いの餓死者九十六万九千九百人と記す)。『また』、二百五十『万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われ』、享保一八(一七三三)年正月には、『飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって』、享保の「打ちこわし」が発生している。『最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって』、『大三島』(おおみしま:現在の愛媛県今治市に属する芸予諸島の一つ)『だけは』、同島出身の六部僧であった下見吉十郎(あさみきちじゅうろう 寛文一三(一六七三)年~宝暦五(一七五五)年)が齎した『サツマイモによって』、『餓死者を出すことはなく、それどころか』、『余った米を伊予松山藩に献上する余裕』さえあった。『この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は』、『米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって』、『東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した』のであった(以上は当該ウィキ及びそのリンク先に拠った)。]

 この年、八、九月に至りても、小まへの商人(あきうど)の妻子どもが、おのもおのも、店前(みせさき)にて、聊(いささ)か恥づる色もなく、彼(かの)德利にて、米を舂きてをりしを、折々、見たる事ぞかし。

 されば、次の年戊申[やぶちゃん注:天明八(一七八八)年。]の春の季よりして、「小人(こひと)の曲子《コウタ》」に、

〽思ひだしたよ、去年の五月、「とくり」で米ついたこともある

と唄ひけり。これらは、里巷(りこう)の「曲子(こうた)」なれども、今も折々、うたはせて、

〽魚肉、なくて、飯の、くらはれず

などいふ、世のわか人の警(いましめ)にせまほしく思ふなり。

[やぶちゃん注:庵点は私が附した。

「曲子」は元は隋朝以来の俗謡から出た「曲子」(きょくし)という巷間の流行歌で、特に唐朝で流行し、列記とした詩人たちも作詞を試みたりしたものを指した。ここでは「小唄」に同じ。「小人」は「子供」の意でよかろう。]

 しかるに、丁未の夏、餓(うゑ)たる最中、伊豆・上總より、鰹の生節(なまふし)を出だしゝこと、限りも、しられず。その市中を賣りあるくものを、買ふに、いと大きなる生節一つを、十四文、或は、十六文に買ひけり。又、「糟小鯛(かすこだい)」とかいふ小鯛を、日每に賣りあるくものも、多かりしかば、是も、價の、いたく、やすかり。よりて、この魚肉をもて、飢に充つるも、少からず。

「天の生民(せいみん)を養ふこと、彼に虧(か)けば、こゝに盈(み)つ。等閑(なほざり)に、な、思ひそ。」

と、こゝろある人は、いひけり。

 予は、この市中の艱難(かんなん)に、あはず。

 當時(そのとき)、某侯に仕へて、切米の外、月俸、はつかに、三口を禀(う)けたり。その月俸のうち、三斗の米を、月々に售(う)る每(ごと)に、價のますこと、漸々(ぜんぜん)にして、五、六月に至りては、蟲の巢にて罹(かか)りたる[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『羅(あみ)たる』である。「にて」の接続からは、その方が躓かない。]

陳米(ふるよね)をのみ、わたされしに、その玄米三斗の價、金壹兩三分になりたり。されば、出入(でいり)と唱(とな)ふる町人等、月俸のわたる日に、未明より、宿所(しゆくしよ)へ來て、

「おん扶持米を拂はせ給はゞ、某(それがし)に給はり候へ。餘人(よにん)より、價よく申しうけ候はん。」

など、いふもの、多くて、果は、これかれ、せりあひつゝ、「ことばすまひ」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『角口(ことばすまい)』とする。口喧嘩。]を起すも、ありけり。はつかの月俸すら、かくの如し。大祿(たいろく)の人々は、さぞ、有りぬべき事ながら、よき夢は、又、覺むるも、はやきや、これによりて、永く富みたりといふ人をも、見ざりき。

[やぶちゃん注:「某侯に仕へて」この頃の馬琴滝沢解(とく)の出仕などはよく判っていない。]

 かゝる中にも、唐津侯の封内(ほうない)は、去歲(きよさい/こぞ)、豐作なりしにより、「かこひ米」、多くあり。

「世上、米價の貴(たか)きこと、今の時に、ますもの、あらんや。されば、年中の月俸を、只今、一度に取らせなば、家臣等の爲になるべし。」

とて、その年十二月までの月俸を、五、六月のころ、わたされしかば、みな歡ばずといふもの、なし。

「しかるを、わかきともがらは、俄(にはか)に德つきたる心地して、後々の事を、思はず、多くは「品川がよひ」をしつゝ、秋をも、またで、なごりなく遣ひたりしかば、米の價のさがりしころ、餓ゑて、せんかたなきも、ありし。」

と、ある人の話說なり。ことの虛實は定かならねど、筆のついでに識すのみ。

 當時の米價を考ふるに、或書に、「五穀無盡藏」を載せて云、

『天明丁未夏六月上旬、諸國米穀の價、左の如し。

[やぶちゃん注:以下全体が一字下げの二段組みであるが、一段で示した。示し方は孰れも従わなかった。「馬琴雑記」はベタで繋がっていて、甚だ、読み難いが、底本の不審な箇所が腑に落ちるので、それで訂した箇所もある。]

 現米壱石      價銀弐百匁

 江都は       金壱兩に米一斗八升或は弐斗

 加賀は米壱石に   百六拾壱匁

[やぶちゃん注:底本は『加賀米石に』。「馬琴雑記」で」訂した。]

 肥後は       百九拾匁

 筑前は       百七拾六匁

 廣島は       百七拾四、五匁

 中國米二俵は    價銀百五拾壱、弐匁

 柴田米七月四日入札 弐百壱匁八分

 大津澤米一石に   百七拾三四匁

[やぶちゃん注:底本は『大津沢米石に』。同前。]

 白米一石は     價銀弐百拾五、六匁

 小賣一升に     錢弐百三拾八文

 岡大豆壱石に    價銀八拾匁

こはその崖略(がいりやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。「槪略」。]のみ。なほ、詳(つまびらか)なるもの、あらんか、たづぬべし。又、家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士(らぶんこじ)の錄中[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『遺錄中』とある。]に、「近世荒饑畧考(きんせいかうきりやくかう)」の一編あり。謄寫(とうしや)すること、左の如し。

[やぶちゃん注:「家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士」滝沢解の長兄興旨(おきむね)。羅文は生前の彼の俳号。寛政一〇(一七九八)年没。

 以下、字配は底本に従った。]

寬永十九壬子年、春より夏に至り、飢饉餓死多し。  今年迄百四十六年

[やぶちゃん注:「寬永十九壬子」干支は「壬午」の誤り。一六四二年。]

延寶三乙卯年、天下飢饉、餓死多し。

[やぶちゃん注:一六七五年。]

將軍家下命、從三月至五月、於北野七本松原四條河原、貧人を集、粥及米錢施行、  今年迄百十四年

[やぶちゃん注:「將軍家」第四代徳川家綱。]

天和元辛酉年十一月、江戶凱僅、爲御牧米三萬俵披下之。  今年迄百三年

[やぶちゃん注:「天和」は底本では『元和』。「馬琴雑記」で訂した。天和元年辛酉は一六八一年。]

同二壬戊年二月、飢饉餓死多し。三月洛陽大雲寺、誓願寺、法輪寺、此外於諸寺錢施行、又餓死の爲、一七日施餓鬼供養、於北野松原從將軍家粥施行。  今年迄百二年

元祿九丙子年、自夏至秋、中國稻蟲生ず。西國大名衆拜皆、餓民御救。  今年迄九十二年

[やぶちゃん注:「元祿九丙子年」一六九六年。]

享保十七壬子年、關東五穀不熟。依之窮民御牧。  今年迄五十四年

[やぶちゃん注:「享保十七壬子年」一七三二年。]

寶曆六丙子年、五穀不熟。窮民御牧。  今年迄三十七年

[やぶちゃん注:「寶曆六丙子年」一七五六年。]

天明三癸卯年、關東五穀不熟。江戶及奧州飢餓、此節五千俵田沼山城守に被下之。信州淺間山燒崩、溺死多し。窮民滿道路。依之被命於領主以鐵砲追之。或は打殺之。  今年迄五年

[やぶちゃん注:「天明三癸卯年」一七八三年。]

同七丁未年、自春至夏江戶及諸國飢饉、至五月白米三合、代錢百文に及ぶ。都下の俠者及餓民等、江戶中の米屋を破却闕遣無し。京、大坂も亦如此。至秋鎭る。追日爲御救米の、直段下直に被下之。

[やぶちゃん注:「追日爲御救米の、直段下直に被下之。」底本は「の」が「て」。「馬琴雑記」で訂した。訓読すると、「日(ひ)を負ふて御救米の爲(ため)、直段(ねだん)、下直(げぢき)に、之れを下さる。」。]

右、友人吉岡雪碇、錄して、予に視ㇾ之(これをみす)。因(よりて)、

「謄寫、了(をはんぬ)。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「吉岡雪碇」(よしおかせってい 生没年確認出来ず)は、馬琴の兄興旨の竹馬の友で、酒井飛驒守忠香(ただか 正徳五(一七一五)年~寛政三(一七九一)年:明和二(一七六五)年に西の丸若年寄などを歴任して徳川家基付の重臣となった人物。家基亡き後は、家基の父で将軍の家治に仕えた)の部屋番であった。通称は定八郎。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その5)

 

 明くれば、七年丁未、春より、米穀の價(あたい)、登躍(とうやく)して、はじめは、錢百文に白米六合を換ふと聞えしが、五合に至り、四合に至り、五、六月に及びては三合になるものから、それすら買はんとほりするもの、容易くは得がたかりき。

[やぶちゃん注:「天明六年丁未」前回の終りで注したが、天明七年元旦は、天明六年に閏十月があったため、グレゴリオ暦では一七八七年二月十八日であった。]

 米穀、かくのごとくなれば、麥・大豆・小豆・粟・黍・稗の類まで、これに稱(かな)うて[やぶちゃん注:釣り合うようにして。]、其價、甚(はなはだ)、貴し[やぶちゃん注:「甚」は「馬琴雑記」で補訂した。]。

 ことのもとを原(タヅヌ)るに、三年癸卯の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせしとき、上野・下野・信濃・美濱・武藏【武藏は北の兩三郡。】・下總【上におなじ。】の國々に、熱湯・砂石を推し流して、田畑、これが爲に荒土(かうど)となりし處、少からず。この年、奧の仙臺・南部・津輕・出羽の果まで、五穀、登(ミノ)らず。餓莩(がへう)、相食(あひくら)ひし事、後に聞くすら、駭嘆(がいたん)したり。この他も、

「五穀不熟にして、稻毛(いなげ)、みつがひとつ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「三年癸卯」(きばう(きぼう)/みずのとう)「の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせし」浅間山の「天明の大噴火」である。天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。詳しくは「譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事」の私の注を参照されたい。

「武藏【武藏は北の兩三郡。】」北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の、所謂「三多摩郡」。

「下總【上におなじ。】」葛飾郡・結城郡・岡田郡か。

「稻毛」地名にもある通り、「毛」は「禾」(か)で「食料」を意味し、「稲」を冠して主食作物として強調する意とされる。しかし、「馬琴雑記」では『損毛(そんまう)』で、これだと、「農作物が被害を受けること」を指し、個人的には「五穀」と言っていることからも後者が正しいかと思う。]

 四年甲辰の秋のみいりぞ、去歲(コゾ)に、いさゝか、ましたれども、なほ豐作といふに、足らず。この歲七月【六月十四日、十五日[やぶちゃん注:底本は「十四日」のみ。「馬琴雑記」で補った。]。】なゐ(地震[やぶちゃん注:漢字ルビ。])ふること、兩度【「消夏自適」には、この大地震、天明二寅年七月十四日丑の刻、翌十五日兩度とあり。予がおぼえ、たがへたるにやあらむ。】[やぶちゃん注:『頭書』とある。]、にして、朱門高厦も、柱、傾(かたむ)き、瓦[やぶちゃん注:底本は「甍」。「馬琴雑記」を採った。]、落ちざる處、少からず。只、人々の恙なきを祝するのみ。幸ひにして元祿癸未の凶變に似ざりしを、自他おしなべて、よろこびにき。

[やぶちゃん注:「消夏自適」宇多龍斎なる人物の記した随筆らしい。詳細データ不詳。なお、この地震の発生の日時は、馬琴の負け。天明期の大地震は「天明小田原地震」が知られ、ウィキの「小田原地震」の「天明小田原地震」によれば、相模国西部を震源とし、推定規模はマグニチュード7.0或いは7.3程度。天明二年七月十五日(一七八二年八月二十三日)発生したが、月初めから前触れの小さな揺れがあったというから、十四日もあったと考えてよいだろう。『被害は大きく、小田原城の櫓、石垣に被害が出』、『民家は約一千戸が倒壊し、江戸でも死者』が出ており、『箱根山、大山、富士山で』も『山崩れが発生し』、また、『熱海で津波が有ったとの記録がある』とある。但し、研究者によっては、『震源は足柄平野にあり』、歴史的な一連の『小田原地震には該当しないとの見解もある』とし、『一方』では、『震源域は海底下まで伸びていたと』する研究者もいる。

「元祿癸未の凶變」元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)深夜午前二時頃、関東地方を襲った巨大地震「元禄地震」。当該ウィキによれば、『震源は相模トラフ沿いの』地下と『推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎』及び海中地下『付近にあたる。マグニチュード』『は7.9』から『8.5と推定されている』。被害発生は関東諸国(武蔵・相模・下総・上総・安房)に及んだ。『江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録され』、離れた『名古屋において』も『長い地震動があり、余震があったことが記されている。『また、公卿近衛基熙』(もとひろ)の日記「基煕公記」には、『「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている』。『更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は』、「折りたく柴の記」の中で、『「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ』」『と地震の体験談を記している』(なお、『本地震の約』二『時間後、同日午前』四時頃には、『豊後国由布院付近を震央とするM6.5程度の地震が発生した(元禄豊後地震)。震源は浅く、最大震度』六『程度。府内領で潰家、落石直撃により死者』一名であった)。『江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは』、『建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら』、『一面』、『泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約』八千戸・死者約二千三百名に達し、『東海道の諸宿場でも家屋が倒壊』、『川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという』。また、『上総国をはじめ、関東全体で』十二『か所から出火、被災者』は約三万七千人と『推定される』。また、悪いことに、この地震の七日後の十一月二十九日の酉の下刻(午後六時から七時頃)、『小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した』。『この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないとされる』とある。『この地震で』は三浦半島突端が一・七メートル、房総半島突端が三・四メートルも『隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されている』。『各藩の幕府への被害報告の合計では死者約』六千七百名で、潰家・流家は約二万八千軒となったという。別な記録では、震災後の十一月二十九日の『火災による被災者も併せて、地震火事による死者は』二十一万千七百十三名と『公儀之御帳に記されたとあり』、『他に地震火事による犠牲者数として』は、二十二万六千人・二十六万三千七百人という風聞があるとする。]

 予が東西をおぼえしより、震(なへ)の甚しかりしは、この甲辰の七月兩度と、文化壬申十一月四日とのみ、しかれども、甲辰は、壬申よりも、猶、甚しかりしなり。

[やぶちゃん注:「文化壬申十一月四日」文化九年。グレゴリオ暦一八一二年十二月七日。この日の地震は、それほど有名でないが、「神奈川地震」と呼ばれるもので、「東京大学地震研究所 研究ハイライト」の「アウトリーチ推進室」発行の「第 860 回地震研究所談話会(2008 4 25 日開催)」の郡司嘉宣の発表レジュメ「文化 9 年(1812)11 月 4 日神奈川地震について」PDF)によれば(文中の発生月にミスがあるので注意)、

   《引用開始》

■震度 6 強と考えられる場所の記録

[やぶちゃん注:前略。]東海道の宿場があった神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿についての史料を見ると、どうも震度 6 強と考えられます。神奈川宿では、大名が泊まる本陣をはじめ家の過半数が倒れて、かなり死者があったという記録が出てきます。神奈川宿の中にある東光寺という寺の記録には、この地震で全壊したとあります。

  保土ヶ谷宿では、本陣が 1 軒、脇本陣が 3 軒、一般の旅宿 92 軒が倒れたという記録があります。一方で、地名辞書などを調べると、天保年間の保土ヶ谷宿には、本陣が 1 つ、脇本陣が 3 つ、旅宿が 69 あった、となっています。その数より多く倒れている。時代による差なのか、数え方の差なのかはよく分かりませんが、保土ヶ谷宿にあったほとんどすべての宿が倒れたことになります。現在の尺度でいえば震度 7 になるのかもしれませんが、死者が記録されていないということで、震度 6 強とみなしています。

 戸塚宿では、元町橋の20軒くらいが倒壊したという記録があります。戸塚宿の中にある宝蔵院からは、この地震で寺が全潰したという記録から出てきました。そのほか、川崎宿では2軒が倒壊、多摩川の近くで45軒倒壊しています。これも、震度6弱くらいです。

 農村部の最戸[やぶちゃん注:「さいど」。]村、現在の横浜市港南区最戸では、22 軒の家が倒壊したという記録が出てきます。天明 8年(1788)、地震が起きた 30 年くらい前の家の数は 21 軒であることが分かっていますから、すべて倒壊してしまった。ここでは震度 6 強から 7 に近いゆれがあったことが分かります。

■震度 6 弱と考えられる場所の記録

 その時代に江戸で起きた出来事を記した『北窓雑話』によれば、「世田谷、稲毛は江戸よりはなはだ強くして、大地ところどころ破裂し、神社仏閣が転倒し」とあります。稲毛は、現在の神奈川県川崎市高津区坂戸[やぶちゃん注:「さかど」。]です。『新編 武蔵国風土記稿』では、小机の妙楽院について「本堂は地震のために破壊して、いまだ再建せず」とあります。現在の神奈川県横浜市港北区小机に、妙楽院はありません。この地震で消滅してしまったのです。現存する寺に残る史料だけを調べていたのでは、出てこない記録です。

 また、狸ばやしで有名な千葉県木更津市の誠証寺の記録には、「本堂回廊、一時に破砕。仏具、本堂みじんに破損」とあります。

これらの記録から、現在の川崎市高津区坂戸、横浜市港北区小机、木更津市では、震度 6 弱だったと考えられます。

■震度 5 弱と考えられる場所の記録

 現在の埼玉県さいたま市岩槻にあった屋敷について、「玉垣 3 か所崩れ、石灯籠揺り崩れ、石塔 14 か所転倒」という記録があります。

また、江戸川区東葛西にある正円寺の記録には、「正円寺之 宝塔・九輪落、近寺の石塔多く転倒す」とあります。宝塔とは、丸い石をいくつか重ねた灯篭です[やぶちゃん注:これは少し違う。円筒形或いは円錐形の塔身(下方に四角な台座と飾りを有するものもある)に方形の屋根を架けて、頂上に相輪を立てた形式の一重の塔である。]。北品川の東海寺では、「大地震山中所々破損」と記されています。山中とは、寺の敷地のことです。建物は倒れなかったけれども、敷地内のあちこちが破損したということです。

 神奈川県厚木市岡田の長徳寺の記録には、「本堂大破損。石口六、七寸南へ揺り出す。壁残らず落ちる」とあります。

 神奈川県横浜市金沢八景の金竜院では、「飛石飛石、文化中の地震に転倒す」とあります。

 それらの場所では、震度 5 強と考えられます。[やぶちゃん注:中略。ここに以上の記録に基づく「神奈川県地震の震度分布」の地図が載る。リンク先参照。因みに私の家も震度五に入っている。]

■震度 5 弱と考えられる場所の記録

 震度 5 弱の範囲は広く、多くの記録がありますが、一つだけ紹介します。[やぶちゃん注:中略。]高橋景保の書翰には、「当地は人家倒壊はまれにて、土蔵壁落ち、家作建て付け損。当役所などは無事。土蔵鉢巻き落」とあります。この記録から震度 5 弱だと考えられますが、「当地」「当役所」とは、いったいどこなのでしょうか。

 高橋景保は江戸幕府の天文方の長官です。当地は、江戸幕府直轄であった浅草天文台を指します。現在の台東区、蔵前通りと江戸通りの交点にありました。浅草天文台の位置は、北緯 35 41 54 秒、東経 139 47 32秒だと分かっていますから、緯度経度までピンポイントで震度を推定することもできるのです。

 津軽藩や加賀藩、高鍋藩の藩邸などに関する古文書も調べました。[やぶちゃん注:中略。]このように古文書を集めて約 20 か所について一つ一つ解釈していった結果、江戸市中の震度分布は図 2[やぶちゃん注:「神奈川県地震の江戸市中の震度分布」の図。リンク先参照。] のように分かってきました。

■地震規模の推定

 図 3 [やぶちゃん注:「神奈川地震の広域震度分布」の図。リンク先参照。]は、神奈川地震の広域震度分布です。山梨県甲府から千葉県勝浦まで、半径 65kmくらいの範囲で震度 4 でした。震度 4 の範囲から見積もると、マグニチュード(M6.3となります。震度 5 の範囲は半径 35km くらいで、そこから見積もると M6.8 となります。また、震度 6 の範囲は 15km で、そこから M7.0 と見積もることができます。

 震源が深く、マグニチュードが大きいと、震度 4 の範囲が大きくなります。しかし、神奈川地震では小さい。一方、震度 5 の範囲が大きくなっています。震度の範囲から推定した地震規模によれば、神奈川地震は震源が浅かったらしいと考えられます。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

後略の頭の部分では郡司氏は『古文書の解析から、安政の江戸地震より少し小さいですが、それに匹敵する規模の地震が、神奈川県のど真ん中で起きていることが明らかになりました』と述べておられる。大変、勉強になった。郡司氏に御礼申し上げるものである。因みに、「安政の江戸地震」は、安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)午後十時頃、関東地方南部で発生したマグニチュード七クラスの地震で、死者は町方において十月六日の初回の幕府による公式調査では四千三百九十四人、同月中旬の二回目の調査では四千七百四十一人で、倒壊家屋一万四千三百四十六戸とされている。詳しくはウィキの「安政江戸地震」を見られたい。]

 かゝるに六年丙午の火災、水損は、既に上にしるすが如し。

 かう、荒凶(こうきやう)のうちつゞきて、四、五年を歷(へ)しことなれば、米價(べいか)のたかき、ことわりながら、商賈(しやうこ)は、なほ、利を射(い)ん爲に、あちこちの米粟(べいぞく)を、いちはやく、買ひとり、藏(おさ)めて、蠹《ムシバ》み、朽つるまで、出ださず。中買・小賣の商人までも、おのもおのも、彼(かれ)に倣(なら)ひて、且、利の上に利を見ざれば、あれども、

「なし。」

とて、賣らざりけり。この故に、貧士・賤民、露命(ろめい)を繫ぐに、由なくして、ことのよしを、奉行所へ訴出でつゝ、あはれ、

「米商人等が、隱しもてる米を出だして、賣らしめ給ヘ。」

と願ひまうせしも、ありしとぞ。

 これより先に、

「良賤、なべて、粥を、たうべよ。」

と徇(おほ)させ給へり。

 このときの町奉行は、曲淵甲州と、山村信州なりしが、信州は、新役にて、甲州は故﨟(こらふ)なり。

[やぶちゃん注:「曲淵甲州」旗本で町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)。武田信玄に仕え、武功を挙げた曲淵吉景の後裔。当該ウィキによれば(かなり長く引くのは、本篇の後述部を裏付けるものだからである)、寛延元(一七四八)年に『小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』、明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』、さらに明和六(一七六九)年には、『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。政言の介錯を務めたのは景漸配下の同心であったという。経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高』く、明和八(一七七一)年三月四日、『小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により』、『「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ、オランダ語医学書』「ターヘル・アナトミア」(初版はドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus 一六八九年~一七四五年)の著書‘Anatomische Tabellen ’のオランダ語訳版‘Ontleedkundige tafelen ’)に載る『解剖図と比較することで日本の医学の遅れを痛感することにな』った。しかし、この天明六(一七八六)年、『天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が起こ』り、翌天明七年に『かけて』、『景漸ら町奉行所は様々な対策を打ち出すも、商人や幕府役人の癒着構造、そもそもの品不足などもあり、これを好転させる成果は出せなかった。俗に言われる説では、景漸が食料不足の対処に当たっていた折、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願を一蹴した上で「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬』一『匹なら』七『貫文程度で買える。米がないなら』、『犬を食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け、群衆により』、『複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時』、『無秩序状態になるほどの大規模な』「打ちこわし」に『発展していたとされる。近年の研究に拠れば、実際の発言内容は不明であり、食糧事情に不安と不満を持つ大衆の間に、奉行はこう言った、という形で真偽不詳の風説が流布したものと考えられている』とある。『拡大するこの事態に』、『江戸城中では』、『寺社奉行と勘定奉行と町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議したが』「なぜ、町奉行所が現場に出向かないのか」と『批判されると、北町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民』(くぜひろたみ)『は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した。結局、景漸ら町奉行所勢は』、「打ちこわし」の『鎮静化を図るために現場に出向くことになったが、町奉行や捕縛をする役人たちは』、「打ちこわし」勢から、『「普段は奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となっては何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」「今、江戸中の人々は皆同じように苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手が差し伸べらず』、『見殺しにされている、まことにむごく不仁な御政道でございますなあ」などの罵声を浴び、町奉行側も』彼らを『片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に』「打ちこわし」の際に、『盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に同心らが襲撃されるような状態』が発生した。『そもそも町奉行所の権限では』、『前述のような、癒着構造や物価高騰・品不足などを抜本から解決できるわけではなかった。この状況を重く見た幕府は』、五月二十三日(七月八日)、鬼平『長谷川平蔵ら先手組頭』十『名に』、『市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないと』通達した。『しかし実際に』「打ちこわし」勢を捕縛した先手組はたった二『組に過ぎず、残りの』八『組は』、『江戸町中を巡回しているだけであった』。五月二十四日(七月九日)に『町奉行所から、騒動を起こした場所にいる者は』、『見物人』も含めて総て『捕らえること、米の小売の督励と』、『米の隠匿を禁じる町触が出た。同時に各町内の木戸が』、『常時』、『閉められ、竹槍、鳶口などで武装した番人が警備を行い、木戸の無い町では』、『急遽』、『竹矢来を設置するなどして』「打ちこわし」『勢の侵入を防ぐ手立てが講じられるようになった。また』、五月二十二日(七月七日)には、『幕府は困窮者に対する「お救い」の実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は町奉行に対し』、『支援を要する人数の確認を指示した。町奉行は支援対象者を』三十六万二千人と『見積もり、一人につき』、『米一升の支援を要するとした。町奉行からの報告を受けた水野忠友は』翌二十三日、『勘定奉行に対して二万両を限度として支援対象者一人当たり銀三匁二分を支給するよう指示し』、二日後の五月二十五日(七月十日)には、『実際にお救い金として町方に引き渡された。また』、前日の五月二十四日からは、『米の最高騰時の約半額で』、『米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは』、『給付されたお救い金で米を購入することができるようになった』。『これらの諸政策により』、五月二十五日の時点で、「江戸打ちこわし」は『ほぼ沈静化した』が、同年、「打ちこわし」の発生及び『対応の遅さの責を被る形で奉行を罷免され』、六月十日、『石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられた。景漸は民衆に同情していたためか、更なる暴動を防ぐためか、「市民と米屋とのただの喧嘩」などの名目で』、「打ちこわし」に『与した町人達への処罰を極力』、『寛容なものに留めている。また』、南町・北町『両行所の与力の総責任者である年番与力に対し』ても、ともに「江戸追放」・「お家断絶」の『処分が下された。この』「打ちこわし」による『幕府役人側の処分者は、景漸を含め』、『この三名のみである』。また、『正式な処分ではないが、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信の台頭は』、この「打ちこわし」が契機であった『ともされる』とある

「山村信州」旗本で勘定奉行・江戸南町奉行などを歴任した山村良旺(たかあきら 享保一四(一七二九)年~寛政九(一七九七)年)。寛延二(一七四九)年に小姓組、宝暦三(一七五三)年に西の丸小納戸、宝暦八年には本丸小納戸として仕えた。明和五(一七六八)年に目付となり、安永二(一七七三)年に前任者の急逝に伴い、後任として京都西町奉行となり、同時に従五位・信濃守に叙任された。在任中は禁裏の不正を摘発する(「安永の御所騒動」)などで活躍した。安永七(一七七八)年に勘定奉行、天明四(一七八四)年に江戸南町奉行となり、後の寛政元(一七八九)年には、御三卿清水家の付家老となり、寛政六年に致仕した(以上は当該ウィキに拠った)。]

 この夏、五月の頃にや、ありけん、甲州、件(くだん)のねがひ人等(ら)を、よびのぼして、

「汝等が願ひにより、米商人等(ら)を穿鑿したれど、彼等に、『米は、なし。』と、いへり。げに、あき人の事なるに、ある米ならば、賣るべきに、賣らぬは、なきが、まことなるべし。かう、嗛(アキタ)らぬ折(をり)からは、糧(かて)を食ふに、ますこと、なし。われ、一方を誨(おもは)んか。味噌豆(みそまめ)をよく熬(いり)て、升の底もて、推(お)すときは、碎けて、ふたつにならぬは、なし。扨(さて)、其豆に、麥まれ、稗まれ、野菜まれ、多く加へて、炊きて、たうべよ。そは、腹もちのよきものなれば、一食(いつしよく)にても、足らんず。」

と、ねもごろにいはれしを、誰(たれ)とて、承伏するもの、なく、稠人(てうじん)の後邊(あとべ)にをりて、遠く隔りたるものは、なかなかに憚らず、惡口(あくこう)しつるも、少からねど、多人數(たにんず)の事なれば、召[やぶちゃん注:底本は『アビ』でママ注記。「召」の崩し字の誤判読である。「馬琴雑記」で訂した。]捕ふるに得およばで、ひとしく追ひ立てられし、となん。

 これぞ、この人氣(じんき)の苛立(いらだつ)はじめなるべし。

 このあはひ、舂米屋(つきこめや)等、相謀(あひかはら)ひて、

「舂米を買はん。」

とて、來る人別に[やぶちゃん注:人ごとに。読み不詳。「ひとべつに」「ひとごとに」か。]、百文、或は、二百文と定めて、その外を、賣り與ヘず、それすら、黎明(しののめ)[やぶちゃん注:サイト「曆のページ」でこの天明六、七年の日の出を見るに、東雲(しののめ)は午前四時過ぎである。]より巳の時[やぶちゃん注:午前十時。]まで、或は巳の時より正午《マヒル》までなんど、時刻を定めて賣りしかば、

「買ひ後れじ。」

とて、立ちつどふ老若男女、囂々(ごうごう)しく[やぶちゃん注:「々」は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]罵るもあり、推さるゝもあり、果は、突き倒し、𤔩(つか)みあうて、泣き叫ぶも、少からず。それも、後には、札を出だして、何處の米屋も、賣らずなりぬ。

 この故に、麥を買はんと、ほりすれども、麥を得がたく、野菜を求めんと、ほりすれども、その價(あたひ)、廉(れん)ならず。

 こゝをもて、せんかたも、つき[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『せんかたなき』で下の「寒民」を形容する。]、寒民は昆布《ヒロメ》・海帶《アラメ》・鹿尾菜《ヒジキ》などを食として、一兩月を凌ぐもあり。

[やぶちゃん注:「昆布《ヒロメ》」「ひろめ」は「こんぶ」の異名。「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称。私の「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」や、「日本山海名産図会 第五巻 昆布」を参照されたい。

「海帶《アラメ》」私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照。

「鹿尾菜《ヒジキ》」私の「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」を参照。なお、以上の三種の海藻を一ページで見たければ、私の古い仕儀(二〇〇八年公開)だが、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」(サイト版)もある。]

 又、「豪家」と唱へらるゝ三井・越後の吳服店(ごいふくだな)・糸店(いとだな)・兩替店(りやうがへだな)、ともに、琉球芋(りうきういも)[やぶちゃん注:サツマイモの異名。]を多く蒸して、半切(はんきり)の桶に入れ、店の四隅、便宜の處にすゑ置きて、十五歲以下の小厮(こもの)[やぶちゃん注:小僧。丁稚。]の走り𢌞りするものに、恣(ほしいまま)にとり啖(くは)せしかば、日每に穀(こく)をはぶきしこと、大かたならず、と聞えたり。

 又、兵法をもて、世わたりとせし、某氏(なにがし)あり。こは、

「避穀(ひこく)の方(はふ)をもて、夫婦共に、穀を啖(くは)はざること、十五日にして、恙なかりし。」

と、いへり。そは、何の方を用ひたるか、しらねども、救餓避穀(きうがひこく)の方は、少からず。只、予は、いまだ經驗せざるのみ。こゝに、その二、三をいはゞ、

[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]

 一方に云(いはく)、『白茅根《(しろ)チガヤ》[やぶちゃん注:「馬琴雑記」はルビで『はくほうこん』とする。]を洗ひ淨(きよ)め、細かにして、或は、石の上に晒(さら)し乾(かはか)し、搗きて、粉として、水をもて、壱匁を服すれば、穀を避けて、暫(しばらく)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「暫」の代わりに『數日』とある。]、不餓(うゑず)。』といふ。又、一方に、『赤小豆一升・大豆一升、各(おのおの)その半(なかば)を炊(たき)て[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「炊て」の代わりに『炒(いり)て』とある。]、共に搗きて、粉(こ)となして、一合を、新水もて、服すること、日々に三度、その三升を用ひ盡すときは、十一ケ日を經て不ㇾ餓。』といふ。

[やぶちゃん注:「白茅根」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica (花期は初夏(五~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ)の根茎を漢方薬で「白茅根(はくぼうこん)」と呼び、止血・利尿・発汗の効がある。

 以下も底本で改行。]

 一說に、小豆をくらへば、津液(しんえき)、小便より、去りて、人をして、虛瘦せしむる、とも見えたり。

[やぶちゃん注:「津液」漢方医学で、体内に存在する水分の内、血液以外の総ての体液の総称。しかしこの一条は穀を避けて食事をする方法ではなく、小豆はダメという話である。

 以下も底本で改行。]

又、一方に、松樹の「あまはた」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『あまはだ』。]【日に晒して細末。】壱斤・人參一兩[やぶちゃん注:三十七・五グラム。]・白米五合・右三種を粉となして、よき程に、丸(ぐわん)し、蒸籠(せいろう)もて、むして、軍兵十五人に配分すれば、一劑をもて三日づゝたもつもの、とぞ。こは、「竹中半兵衞が救餓の方なり」といふ。これらは、ちか比(ごろ)、水府の醫官原氏が「砦草(とりでぐさ)」にも見えたり。又、「原氏の家方なり」とて、同書に載せたるは、

[やぶちゃん注:底本で改行。字下げも再現した。]

  白蠟(はくろう)一斤[やぶちゃん注:六百グラム。]、南天燭子(なんてんしよくし)・氷砂糖、各、半斤、

右、蕎麥粉(そばこ)の粥(かゆ)もて、桃の實の大さに丸し、日々、一枚を服すれば、不ㇾ餓。戰陣に臨みて、嚼(か)みくだき、水にて服すれば、氣、不ㇾ乏(とぼしからず)。もし、飯を食(くは)んと、ほりせば、鹽湯(しほゆ)をもて、解(げ)すべし。こは、その先人の傳方なり、といへり。この他、「救荒本草」を考ふべし。さのみは、錄し盡さゞるのみ。

[やぶちゃん注:「あまはた」はやはり「あまはだ」で「甘肌」。樹木を包んでいる薄い皮。或いは、その甘皮を砕いたもの。ヒノキなどを使用し、舟や桶の漏水を防ぐのに用いることで知られる。

「水府の醫官原氏」原南陽(宝暦三(千七百五十三)年~文政三(千八百二十)年)。常陸国水戸の生まれで、水戸藩藩医の家に生まれた。名は昌克、南陽は号。京都に出て、山脇東洋に師事し、別に賀川流の産科を修めた。江戸に赴いたが、窮乏を極め、按摩や鍼(はり)で糊口を凌いでいたが、やがて、技量を認められ、水戸侯の侍医となった。

「砦草(とりでぐさ)」は原の書いた、軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意及び救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初の作品とされるもの。

「救荒本草」明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、この「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私はブログ・カテゴリ『「大和本草」の水族の部』で親しんだ優れた書物で、享保元(一七一六)年版の訓点附きが、国立国会図書館デジタルコレクションで全巻視認出来るなんと言っても、絵が素敵!!!

2021/10/27

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 銀座の菊 / 附・草稿

 

  銀 座 の 菊

 

都に灯(ひ)ともり

おとろへはててわれあゆむ

金の粉ゆき途にふり

戀魚のめざめこそばゆく

しみじみと銀座の街に鳴き出づる

あはれくつわ虫なくものを

また空には光るまつ蟲

おほいなる紙製の花もひらくころほひに

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目。

なやましげなる宵にしあれば

こよひ一夜を觀工場(ばざあ)の窓に泣きぬれて

あしたの菊をぞわれ摘まむ

あしたの菊をぞわれ摘まむ。

                   ―東京遊行詩篇一―

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本では大正三(一九一四)年十月作の『遺稿』とする。

につける」は金属のニッケルのこと。

「觀工場(ばざあ)」「勸工場(くわんこうば)」で「觀」は萩原朔太郎の誤字(以下の全集のものを参照)。百貨店やマーケットの前身で、具体的には明治一〇(一八七七)年に開催された「第一回内国勧業博覧会」で、出品者が引き取らなかった残品を処分するため、翌明治十一年一月に、東京府が丸の内に「龍ノ口勧工場」を開場した時に始まる。日用雑貨・衣類などの良質商品が一ヶ所で定価販売されたので、一躍、人気を得て、明治一五(一八八二)年頃から、全国の主要都市に大小の勧工場(関西では「勧商場」と呼んだ)が乱立した。多くは民営で、複数の商人への貸し店舗形式の連合商店街であった。明治四〇(一九〇七)年以後には、取扱商品の品質の低下や、大手百貨店の進出により、経営不振に陥って衰退し、関東大震災後に消滅したが、正札の定価販売で実績を残した。

 さて。筑摩版全集では、まず、「未發表詩篇」に以下の形で載る。太字は同前。誤字はママ。

 

  銀座の菊

 

都に灯(ひ)ともり

おとろへはててわれあゆむ、

金の粉ゆき途にふり、

戀魚(れんぎよ)のめざめこそばゆく、

しみじみと銀座の街に鳴き出づる、

あはれくつわ虫なくものを、

また空には光るまつ虫、

おほいなる紙(かみ)製の花もひらくころほひに、

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目。

なやましげなる宵にしあれば、

こよひ一夜を觀工場(ばざあ)の窓に泣きぬれて、

あしたの菊をぞわれ摘まむ、

あしたの菊をぞわれ摘まむ。

          (東京遊行詩扁、1)

 

なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に「銀座通の菊」と題して草稿が載る。以下に示す。誤字はママ。

    *

 

  銀座通の菊

 

都に灯(ひ)ともり、

おとろへはててわれあゆむ、

金のこなゆき路にふり、

戀魚のめざめこそばゆく、

しみじみと銀座の街に鳴きいづる、

あはれくつわ虫鳴くものを、

また空には光るまつ虫、

      酒毒の紫蘇の花咲くころこ

おほいなる

      紙製の花のひらくころほひ

[やぶちゃん注:「紫蘇の花咲くころこひ」(「ころほひ」の誤字であろう)と「紙製の花のひらくころほひ」は並置。]

疾患せんちめんたる齒痛の夕ぐれに、

疾患いるみねえしよんの夕ぐれに

この紙製の花が吹くは

につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目、

まことにげになやましき宵なれば、にしあれば、

こよひ一夜をBAZAAR歡工場の窓に泣きぬれて、

あしたの菊をぞわれつまむ、

あしたの菊をぞわれつまむ。

 

「疾患せんちめんたる齒痛の夕ぐれに」「疾患いるみねえしよんの夕ぐれに」は気の利いた少年詩人でも、決して口にしない失笑物のフレーズだろうなぁ。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 孝子實傳――室生犀星に―― / 附・原草稿

 

  孝 子 實 傳

     ――室生犀星に――

 

ちちのみの父を負ふもの

ひとのみの肉と骨とを負ふもの

ああ なんぢの精氣をもて

この師走中旬(なかば)を超え

ゆくゆく靈魚を獲(え)んとはするか

みよ水底にひそめるものら

その瞳はひらかれ

そのうろこは凍り

しきりに靈德の孝子を待てるにより

きみはゆくゆく涙をながし

そのあつき氷を蹈み

そのあつき氷を喰み

そのあつき氷をやぶらんとして

いたみ切齒(はがみ)なし

ゆくゆくちちのみの骨を負へるもの

光る銀絲の魚を抱きて合掌し

夜あけんとする故鄕に

あらゆるものを血まみれとする。

 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本では大正三(一九一四)年十一月作とし、翌大正四年一月発行の『詩歌』初出とする。筑摩版全集でも「拾遺詩篇」に同月号初出として、初出を以下のように示す。踊り字「〱」(五行目の「ゆくゆく」の後半のみ。後の二箇所は使用していない)は正字化した。太字は同前。

 

 孝子實傳

      ――室生犀星に――

 

ちゝのみの父を負ふもの、

ひとのみの肉と骨とを負ふもの、

あゝ、なんぢの精氣をもて、

この師走中旬(なかば)を超え、

ゆくゆく靈魚を獲んとはするか、

みよ水底にひそめるものら、

その瞳はひらかれ、

そのうろこは凍り、

しきりに靈德の孝子を待てるにより、

きみはゆくゆく淚をながし、

そのあつき氷を蹈み、

そのあつき氷を喰み、

そのあつき氷をやぶらんとして、

いたみ切齒(はがみ)なし、

ゆくゆくちゝのみの骨を負へるもの、

光る銀絲の魚を抱きて合掌し、

夜あけんとする故鄕に、

あらゆるものを血まみれとする。

             ――十一月作――

 

しかし、同全集は、注記で、『十六行目の銀絲は、殘っている自筆原稿に』『「銀綠」』とある旨の記載がある。煩を厭わず、それを修正したものを以下に掲げておく。

 

 孝子實傳

      ――室生犀星に――

 

ちゝのみの父を負ふもの、

ひとのみの肉と骨とを負ふもの、

あゝ、なんぢの精氣をもて、

この師走中旬(なかば)を超え、

ゆくゆく靈魚を獲んとはするか、

みよ水底にひそめるものら、

その瞳はひらかれ、

そのいろこは凍り、

しきりに靈德の孝子を待てるにより、

きみはゆくゆく淚をながし、

そのあつき氷を蹈み、

そのあつき氷を喰み、

そのあつき氷をやぶらんとして、

いたみ切齒(はがみ)なし、

ゆくゆくちゝのみの骨を負へるもの、

光る銀綠の魚を抱きて合掌し、

夜あけんとする故鄕に、

あらゆるものを血まみれとする。

             ――十一月作――

 

「いろこ」が「うろこ」になっているのが不審ではあるが、これは小学館版編者の消毒と考えてよく、初出誌からの採録と考えられる。

 なお、同全集の「未發表詩篇」に同全集が、ただ一言、『別稿にもとづき附した』として、その別稿を示していないという呆れた注記(恐らくは、この注で次に示す草稿を指す)で、「室生犀星に ――十月十八日、某所にて――」と勝手に題名を記した以下の詩篇が草稿と考えられるので、以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。ここでは、題名はなしで、無題扱いとする。実は二〇一三年に、一回、これは電子化しているが、正字表記が不全であるので(エディタ編集で公開しために全体の改稿が容易でないので修正は諦めた)、新たに零から起こした。

   *

 

 

 

ああ遠き室生犀星よ

ちかまにありてもさびしきものを

肉身をこえてしんじつなる我の兄

しんじつなる我の兄

君はいんらんの賤民貴族

魚と人との私生兒

人間どもの玉座より

われつねに合掌し

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

遠きにあればいやさらに

戀着せち日々になみだを流す

淚を流す東京麻布の午後の高臺

かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

この遠き天景の魚鳥をこえ

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

ああわれ都におとづれて

かくしら痴禺とはなりはてしか

わが身をくゐて流涕す

いちねん光る松のうら葉に

うすきみどりのいろ香をとぎ

淚ながれてはてもなし

ひとみをあげてみわたせば

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとびめぐり

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとぶとびめぐり

淚とゞむる由もなき

淚とゞむる由もなき。

 

   *

同全集校訂本文では「かがふる」は「たかぶる」、「痴禺」は「痴愚」としている。

 また、『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、「室生犀星に」と標題する『(本篇原稿一種一枚)』とある、本詩篇の現存するプロト・タイプの原原稿が存在する。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りは総てママ。「□□」は底本の判読不能字。

   *

 

  遠き室生犀星におくる

    ―― とある日 午後の 詠嘆 ――

    ――ある日ある日にはかにふと哀しくなりて――

    十月十八日巡禮詩社にて

    ――十月十八日、巡禮詩社某所にて――

友よ

許してくれ

ああ遠き室生犀星よ

にくしんをこゆて

誠實なるわれの兄

その きみは 人魚 三體の瞳

君こそはいんらんの賤民貴族

君は魚と人との私生兄

人間どもの玉座より

われいねに合掌し

[やぶちゃん注:底本編者は「いねに」は「つねに」の誤字とする。]

いまもきのふのごとく日々に十錢の酒代をあたふ

遠きにあればいやさらに

戀着せるに淚をながす

淚を流す東京麻布の午後のヹランダ高臺に

たかぶる怒りをい□□りたはりたまふ

やさしくはぐゝむおんあいえらんだの椅子

 に泣きもたれ

齒光りこの遠き天景の魚鳥をこゑ

愛はつゝましく人と 兄と母とを禮拜す狂氣のごとくおん身のうへを禮拜す

ああわれ都にきたりにおとづれて

かくしも痴禺とはなりはてしか

このみよやいちねん光る笹の葉うらに

松のうすきみどりのいろ香をとぎ

わが身をくいて流涕す

空氣のうへに 火の見をこゑ空めぐるみ空に雀なき

犀星のくびとびあがり

めぐるみ空に雀なき

犀星のくびはわれを呼ぶとびめぐり

ああ手をもて顔を蓋へども

涙とゞむるよしもなき、涙とゞむるよしもなき

ああわれ都にいできたり

かくも痴禺とはなりはてしか

兄よしんじつ我れをば許せかし

ああ戀しきわが兄上犀星よ

淚をながす ヹランダの

おん念一路の椅子のうヘ

もろ手を顔に押しあてゝ泣けるなり

きみ

懺悔無量のわがこゝろ

聲をしのびて

けふ  半は きける泣 けるなり、

聲をしぬびて泣けるなり、

 

   *]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)

 

 そもそも、この水、前には聞くことなかりしに、かう夥しく出でぬるよしは、必、ゆゑあることになん。

 安永のすゑつかた、町奉行牧野隅州の聞えあげて、新大橋の西の岸を、南へ弐町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]四方あまり築き出だして、これを中洲町(なかすまち)と唱へたり。

 この處、夏は、夜每に百あまりの茶店軒を並べて、數多の提燈(てうちん)[やぶちゃん注:底本『灯燈』。「馬琴雑記」で訂した。]を掛けわたし、おのおの、前に棧橋を投げわたして、船の客の登るに便(たよ)りとす。仙臺河岸(せんだいがし)より、これを見れば、衆星(しゅうせい)の晃(きらめ)くごとく、月なき夜半も、金波(きんは)、流れて、玉兎(ぎよくと)もこゝに走るかと怪しまる。大橋の南の袂(たもと)には、「四季庵」といひし酒樓あり。或は異形(いぎやう)の見せ物、「水からくり」、「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)なんどいふ「ゑせ俳優(わざおぎ)」に至るまで、かぞへ擧ぐるに遑あらず。小濱侯の邸(やしき)のむかひは、米屋・酒店・煙草商人・薪屋・錢湯・太物店、棟木をまじへ、檐端(のきば)をならべて、物として、あらぬが、なし。されば、夜每に、

「この河水に劣らじ。」

とのみ、集ひ泛(うかべ)る[やぶちゃん注:底本は意味不明のママ注記付きの『仇る』。「馬琴雑記」で訂した。]「やかた」・屋根船の、いと多なる、さしも廣かる大河に、揖(かぢ)とりなやむばかりなり。そが中に、

「花火、花火。」

と、よぶ、船、あり、「間酒(かんざけ)」・「さかな」を賣る船あり、「くだもの」を賣る船もあり。

「こよひは誰殿(たれどの)の花火あり。」

「翌(あす)の夜は何がしが花火あり。」

と罵りつゝ、水陸ともに、人、群集(くんしゆ)して、錐を立つる地も、なかりき。昔し、「三股河(みつまたがは)のおどり船」と唱へたるも、いかにして、この中洲にますべき。當時、兩國河は、けおされて、「貧女(ひんぢよ)の一燈(いつとう)」とも、いはましや。冬は、又、「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」の、こゝにつどひて、媚(こび)を賣り、客をむかへて、あだし仇浪(あだなみ)よせてはかへす淺妻(あさづま)ならで、淺ましき世わたりをすと聞えしかば、見し夕顏の冬枯るゝ五條わたりに似るべくもあらざりき。【當時、書肆仙鶴堂が、北尾政美[やぶちゃん注:底本は『北屋』。「馬琴雑記」で訂した。]に画かせて板にせし中洲の納凉の浮世繪[やぶちゃん注:底本『浮画』。「馬琴雑記」を採った。]あり。「燕石雜志」に載せたるもの、是なり。】

[やぶちゃん注:「安永のすゑつかた」安永は十年までで、一七七二年から一七八一年まで。

「町奉行牧野隅州」牧野成賢(まきの しげかた、正徳四(一七一四)年~寛政四(一七九二)年)は旗本で旗奉行牧野成照の次男。一族の牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、二千二百石を継承した。通称は大九郎・靱負・織部。西ノ丸小姓組から使番・目付・小普請奉行と進み、宝暦一一(一七六一)年に勘定奉行に就任、六年半勤務し、明和五(一七六八年)に南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には五年近くあり、天明四(一七八四)年三月、大目付に昇格した。しかし翌月、田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政三(一七九一)年に致仕し、翌年、没した。参照した当該ウィキによれば、『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立で』、安永九(一七八〇)年に、『深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることによる犯罪の抑止が養育所設置の目的であり』、『趣旨であった。この試みはしかし、定着することなく』、『途中で逃亡する無宿者が多かったため、約』六『年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以』(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)は旗本で火付盗賊改役を務めた。通称は平蔵。知らぬ人とてない、かの池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公である)『による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。彼は「耳囊」の作者根岸鎭衞の大先輩に当たるため、同書の話にも、幾つかで名が登場する。私の「耳嚢 巻之三 強盜德にかたざる事」「耳嚢 巻之三 時節ありて物事的中なす事」等を読まれたい。

「新大橋の西の岸を、南へ貳町四方あまり築き出だして、これを中洲町と唱へたり」これは確かに一時期、干拓されて、突き出た町になっているのだが、所持する複数の「江戸切絵図」では川のままで、確認が出来ない。唯一、干拓地にはなっていないものの、怪しげな葦原が当該地に描き込まれているものを見つけた(五月蠅い注意書きがあるので掲載原本は示さない。私はこの出版社の本を高く評価しており、異なったものを五冊も買って知人に贈っているのだから、許されようぞ。というか、文化庁の見解では、平面的な対象物を単に平面的に写した画像には著作権は発生しないのである)。以下は尾張屋金鱗堂板(嘉永三(一八五〇)年新刻・安政三(一八五六)年再板・板行データが少し下を切ったが、左下方にある)の「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」(表記通り)の部分からトリミングした。

 

Nakazutyo

 

位置確認は、江戸時代の旧「新大橋」が画面右端上にあるのがポイント(但し、現在の新大橋より下流にあるので注意!)。例の「古地図 with MapFan」で見よう。まず、隅田川を見つけて河口からゆっくり遡って、地下鉄「人形町駅」を上の現代地図の左上に置いて呉れたまえ。すると、下方の江戸切絵図に隅田川に「田安殿」屋敷が現われる。そこの隅田川の上流直近部分が古くは「みつまた別れ淵」或いは「三派」などと称した。示した切絵図にも、田安殿の東北隅田川上に「三ツマタ」とあるのが確認出来る。而してそのすぐ上流直近に緑の葦が生い茂ったような絵が描き込まれており、その上に「中洲」と書かれてあるのが判る。しかし、実は、ここは一時的に、川中でも、中州でも、葦原でもなく、列記とした「中洲町」であったことがあるのである(再度、それが廃されて、再び川床に戻されたことは、本篇のこの直後に出る)。そこでそれを上に動かすと、現代の地図では、俄然、同じように、再び干拓されて、陸地になっていることが判り、その北の地名に「日本橋中州」を見出せるのである。ここが、実は江戸時代には既に一度、中洲町として一時的に陸地化されていたのである。現在の、中央区日本橋中州(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

 「仙臺河岸」現在の江東区清澄二・三丁目。中洲町の隅田川対岸。「古地図 with MapFan」で見ると、そこに「松平陸奥守仙台藩下屋敷」が確認出来る。

「玉兎」月の兎のこと。

『「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)』加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵事典」の「みぶり 身振り」に、

   《引用開始》[やぶちゃん注:字下げを詰めた。]

◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永三年(1774)日記)

〝二月七日、(浅草寺)山門の左側に鶴市といふ乞食、三芝居身振をするもの今日より出るゆへ葭簀のうち人群集〟

〝十月二十四日、(葺屋町)鶴市・鶴松へ寄、歌右衛門身〈身振り〉【鶴松】、三升〈市川団十郎〉・錦考

〈松本幸四郎〉・杜若〈岩井半四郎〉声色【鶴市】、丸や・東国やたて身【鶴市】

〈鶴松は身振り、鶴市は声色と身振り〉

◯『只今御笑草』〔続燕石〕③200(二代目瀬川如皐著・文化九年序)

〝松川鶴市

琵琶の湖七度まで葦原となりしはしらず。三股の中洲埋立て〔割註「蜀山云、六年程也」〕しばらくのほど納凉の地たしころ、びいどろ細工京之助が軽業さま/\なる中に、身ぶりもの真似真を写して、歌舞伎の舞台そのまゝなりし。さかゑやの秀鶴、丸屋の十町闇仕合の大当り、古今稀なりしも此ごろと覚ゆ〟

   《引用終了》

とある。かなり有名な大道芸人であったようである。

「小濱侯の邸」これは「古地図 with MapFan」で見つけた。旧「新大橋」の西詰の「松平因幡守鳥取藩下屋敷の北西に接して、隅田川沿いに「境若狭守小浜藩中屋敷」を見出せる。

「間酒(かんざけ)」「燗酒」。

「三股河(みつまたがは)のおどり船」中洲町が出来る前の、ここのお大尽の舟遊びの旧名所であったのであろう。

『「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」』当時、正規の新吉原のそれではない、一般素人の主婦や娘たちが秘かに売春することを「地獄」と呼称した。サイト「Japaaanマガジン 」の「どんだけ恐ろしい?江戸時代、一般素人の主婦や娘たちが売春することを「地獄」と呼んでいた」の2に、『「地獄」は道端で売春を働くことはなく、ましてや岡場所などには出没しません。もっともっとひっそりと、知人の紹介で客とつながったり、料理屋の一室、時には自宅で売春をしていたりが多かったそうです』。『さらに江戸時代には、男女の密会に使われていた待合茶屋や出会茶屋などもありましたから、そういった場所で客に出会う、または売春を行う「地獄」もいたのかもしれません』。『「地獄」という言葉からとても怖いイメージを持ちますが、実は「地獄」という名前は、仏教の世界観である怖い地獄とは違います』。『諸説ありますが、素人の女性のことを”地女”または”地者”と言い、「地女の極内々のこと…」という意味で「地獄」と呼ばれていたり、「地女(素人)の中でも極上の…」という意味で「地獄」という言葉が使われていました』。『ちなみに”地獄”と”遊女”というキーワードから、室町時代の遊里に存在したと言われる伝説の遊女「地獄太夫」を連想する人もいるかと思いますが、地獄太夫とは特に関連性はないようです』とある。

「淺妻(あさづま)」小学館「日本国語大辞典」によれば、琵琶湖の東岸の滋賀県米原市朝妻筑摩附近の古名。中世には港があり、大津と往来する船便で賑わい、そこでは、船に遊女を乗せて旅人を慰め、「朝妻船」と呼ばれていた、とある。

「北尾政美」(まさよし 明和元(一七六四)年~文政七(一八二四)年)は浮世絵師。鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の名でも知られ、当時は葛飾北斎と並んで人気の高い絵師であったらしい。

「燕石雜志」筆者馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。巻之三の九「わがをる町」に挿入された、「浮繪東都中洲夕凉之景(うきゑえどなかずゆふすゞみのけい)」で「北尾政美画 板元通油町 鶴屋喜衛門 蔦屋重三郎」と記すもの。吉川弘文館随筆大成版で所持するが、幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」に原本があるので、当該の絵HTML)をリンクさせておく。奥に見える橋は永代橋であろう。]

 この他、兩國橋の東の岸を西ヘ一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり築き出ださして、こゝにも亦、茶店ありけり。

「この二ケ所の出洲によりて、大河の幅、狹くなりぬ。こゝをもて、川上より推しくだす水の勢、これらの洲崎にさゝえられ、洪水の時に當りて、水のますこと、前よりは、三尺にあまるから、その水、四方へ、わかれ、溢れて、下谷・淺草の濕地はさらなり、神田川の水、逆流して、牛込・小石川の果までも、その蔽(ヤブレ)を受くるなり。」

と、水理(すいり)にくはしき人は、いひけり。

 この理(ことわ)りを、官《オホヤケ》にも、みこゝろ、つかせ給ひにけん、寬政[やぶちゃん注:寛政元年は一七八九年。]の初に至りて、彼(かの)兩國の出洲(でず)を廢して、もとのごとくに浚(さら)せ給ひ、次に、中洲を掘りとらせて、舊のごとくに、し給ひき。

 このとし、秋より冬まで、江戶中なる屋形船・屋根船も、みな、その屋根を、とりはなち、茶ぶね・「にたり」にうちまじりて、土をかきのせつゝ、ゆきては、かへる。その船、いくそばくなるを、しらず。まいて、鋤・鍬を把る人夫等の、數百人、日每に、つどひて、潮(うしほ)退(ひ)けば[やぶちゃん注:底本は『潮退けて』。「馬琴雑記」を採用した。]、掘りうがち、潮、みちくれば、休らふも、はてしなきまで、らうかはし。

[やぶちゃん注:「茶船」近世の江戸・大坂などの河川や港で、大型廻船の貨物の運送に用いた小船。なお、河川や港で飲食物を売る小船(「うろうろ船」とも称した)をも差すが、ここは前者。

「にたり」「荷足り船」。前の「茶船」の一種で、関東の河川や江戸湾に於いて、小荷物の運搬に使われた小形の和船のこと。]

 當時、四方山人の、この土揚舟(つちあげぶね)[やぶちゃん注:底本は『玉楊』。明らかな誤判読なので、「馬琴雑記」で訂した。]を見て、よめる歌、

 屋根舟もやかたも今は御用船ちゝつんやんでつちつんでゆく

[やぶちゃん注:「ちゝつん」三味線の音のオノマトペイアであろう。]

 これらは、後のことながら、福(さひはひ)も基(ハジメ)あり、禍(わざはひ)も胎(ハジメ)あり。およそ丙午の供水は、兩國中洲の出崎に、よれり。その言、たがはざりけるにや、件の二ケ所の廢されてより、洪水は、なほ、しばしば[やぶちゃん注:底本は『しばし』。踊り字の判読の誤り。「馬琴雑記」で訂した。]なれども、本所・深川のみにして、御成道(おなりみち)を、船もて渡り、小石川・牛込にて溺死するものは、なし。かゝれば、この水理の說を、物にしるさば、後の世の人のこゝろ得になるよしもあらんから、予は、深川にて生れしかひに、をさなかりし時、兩三度、人となりても、ふたゝび[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『再度(ふたたび)』とある。]まで、出水に屋を浸されて、その進退に、こゝろ得たれど、江戶にて、かゝる洪水は、前代未聞と、いひつべし。

[やぶちゃん注:「御成道」日光御成道。当該ウィキによれば、日本橋から中山道(現在の国道十七号)を進み、『日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、ここ付近に本郷追分停留所がある。「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する』。『日光御成街道』『とも呼ばれているが、将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた』とある。]

 又、この洪水の夜に【七月十六日。】、猿江わたりの民の女房、ふたつになりける兒を抱きて、いかにかしけん、溺れつゝ半町あまり流されしに、ゆくりなく巨樹(オホキ)の杪(ウラ)[やぶちゃん注:梢。]に右の手をうちかけて、からくも、推しのり、留りたり。さりけれども、兒は左りに抱き揚げたる、腰より下は水を得いでずとばかりにして、人のしらねば、助けらるべき命にあらず。益なく、膽(きも)を冷さんより、

「母子もろ共(とも)に、死ばや。」

とて、杪にすがりたる右の手を、はなたんとしたれども、手は凝著(こりつ)[やぶちゃん注:底本は『凝着(イツキ)』であるが、「馬琴雑記」の方がよいので、それを採った。]たるやうにおぼえて、心ともなく、絕えて、はなれず[やぶちゃん注:底本は『絶えはなれず』。「馬琴雑記」で訂した。]。とかくする程に、天は明けて、「たすけ船」の漕ぎよせつゝ、船に乘らしてぞ、將(ゐ)てゆきぬ。この時、はじめて、抄を見しに、いと大きなる蛇(へび)の、わが右の手を、木の枝もろ共(とも)、いくつともなく、卷きて、をり。

『さては。わが手のはなれざりしは、この故なりき。』

と、おもふにも、忝(かたじけな)きこと、限りもあらず。

 そが船に乘る程に、蛇は、忽(たちまち)、卷(まき)ほぐして、ゆくへもしらずなりし、とぞ。

 或は、いふ、

「この女房は舅姑(しうと・しうとめ)に孝順にて、且、年來(としごろ)、神佛をふかく信ずるものなれば、その應報か。」

と聞えたり。

 そが村の名も、夫の名も、まさしく聞きたることながら、しるしもつけず、年を經て、いふかひもなく、忘れたり。

 この餘、溺死のあはれなる當時の風聞、耳に盈(みち)たり[やぶちゃん注:底本は『耳を盈てたり』。「馬琴雑記」を採った。]。思ひいでなば、いくらもあらんを、みな、傳聞のみにして、定かならねば、心にとめず。今さら思へば、夢に似たり。か

りそめの事なりとも、その折(をり)、錄(しる)しおかざれば、後(のち)に悔(くや)しき事ぞ、多かる。されば、丙午の一とせは、火災・洪水に狼狽して、はかなく月目をおくる程に、九月に至りて大喪(たいさう)あり【將軍家治公薨去。浚明院と号す。】[やぶちゃん注:以上の割注は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]。この故に、神田明神の祭禮を十一月十五日に[やぶちゃん注:「に」は底本にない。「馬琴雑記」で補った。]渡されにき【十五目の朝、白雪、霏々たり。しかれども、程なく、やみたり。雪中に祭のわたりし、めづらし。】。とにもかくにも、上下の爲に、いと、うれはしき年にぞ有りける。

[やぶちゃん注:ここまでが、天明六年丙午の記事(グレゴリオ暦で一七八六年一月三十日から一七八七年二月十七日。天明六年には閏十月があったため、ズレが大きい)。

「猿江」旧深川地区の東京都江東区猿江附近。]

2021/10/26

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その3)

[やぶちゃん注:言っとくが、まだ、本文はここまでの三倍以上残っている。もの凄い分量である。

 

 當時、市中を賣りあるきし「大水場所附」といふ地圖二本、予が藏弃(ざうきよ)にあり。草して左りに出だすもの、是たり。

 丙午七月十八、九日の比より、市中を賣りあるきしもの【誤字、幷に、「かなちがひ」等、本のまゝなり。是より下の四頁も、乙酉十月廿二日臨寫す。皆、同時のものなり。】

[やぶちゃん注:「乙酉十月廿二日」本第十一集分の文政八(一八二五)年「兎園会」発会前日。

 以下、底本では全体が最後の「大尾」まで、総て四方が枠に囲まれている。頭の標題は「上野下野」と「秩父領」は実際には「山水荒增記 上」(タイトルは「やまみづあらましのき」と読んでおく)の上に二行のポイント落ちで入る。その後は縦罫で閉鎖されている。そんな感じだけを出すためにダッシュを用いた。底本ではベタで全部繋がっているが、一種の瓦版なら、読み易くしたいと思い、やはり段落を成形した。なお、出る地名はいちいち注していては煩瑣なだけなので、余程、私が判らずに躓いてしまい、話が判らなくなった箇所だけに限定した。]

 

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 上野下野

      山 水 荒 增 記   上

  秩 父 領

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▲ころは、天明六のとし、七月十二日夜より、大雨、しきりにふりつゞきて、同十四日明方より、江戶、川すぢ、出水(でみづ)して、十五、六日、甚しく、目白下の大どい、ながれ、「せき口のはし」・「中のはし」・「みははし」其外、小ばし、不殘、おちにけり。

 小日向水道丁(こびなたすいだうちやう)、牛天神の下通り、御大・小名樣のまへ、四、五尺づゝも、出水す。

 又、「龍けいばし」・「どんどばし」、小石川御門水戶樣御屋敷の前通り、水道橋、凡、五、六尺づゝも水上り候へば、往來は、ならざりけり。

 御上水(ごじやうすい)の大どいには、鐵をつみ、石を置き、つなを附、水をふせぐ人足、おびたゞし。

 御茶の水通りの土手、二ケ所、くづれ、夫より、「せう平ばし」・「すぢかい御門」のはしぎわより、押上る水、凡、四、五尺づゝも有ければ、一向、往來は、なりがたし。

 「いづみばし」は、十六日、四つ時[やぶちゃん注:夜中では判らぬので、定時法の午前十時であろう。]に、おちけり。

 「新ばし」・淺草御門・「柳ばし」は、人どめ。

 大川の筋、本所へん、少し、水まし候所、ふりつゞく大雨に、上野・下野・秩父領の山水、押出せば、「からす川」・「かんな川」・戶田川・「とね川」、「坂東ばし」、ことごとく、出水す。近江[やぶちゃん注:補注で右に『(郷)』と振る。]・近邊の村々在々、あるいは四、五尺、六、七尺、高水すること、おびたゞし。

 時に、「戶ね川」の堤へは、左りに切(きれ)て、行とくの浦へ、押出す。人々、あはてさわぐ内、はや、水せいは、しほやくはまへ押あげて、しほがま、不殘、こわしけり[やぶちゃん注:江戸時代の行徳地区(現在の行徳地区だけではなく、浦安や船橋の沿岸の塩田も含まれていた)製塩を行う農家が多く、「行徳塩田」と呼ばれていた。]。

 扨、「梅若の土手」[やぶちゃん注:謡曲「隅田川」の「梅若伝説」で知られる梅若塚のある附近(グーグル・マップ・データ)の堤か。荒川の支流ではあり、遡れば、確かに続きは続きだろうが、確実に凡そ七十キロメートル上流なんだが。]つゞき、「くまがやの土手」ときこへしは、日本無双の大づゝみ、こけて、あふれかゝりし萬(滿)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]水に、「あやせのつゝみ」・「戶田づゝみ」、十七日の卯こく[やぶちゃん注:午前六時頃。]すぎ、水せい、つよさに、ぜひもなや、みな、一どう、相切(きれ)れば、近江・近村、人々は、あはてふためき、立さわぐ。

 寺々にては、はやがねつき、宿老[やぶちゃん注:町内の年寄役を指す。]・店屋は「ほらがい」ふき、

「たすけ船、たすけ船。」

と、命をかぎりに、にげうせたり。

 誠に、水せいのはやきこと、「三つばの弓矢」のごとくにて、「さつて」・「くり橋」・「古河なわて」・「とち木」・「藤おか」・「佐の」・行田・「關やど」・「御領」をはじめとして、「かすかべ」・「こしがや」・杉戶邊、うづまく水に、人々は、親の手を引、子どもを、せおい、みな、山林に、かへらせけり。

 いよいよ、水先(みづさき)は、「そうか」より「千住通り」へおし出(いだ)し、「かもんづゝみ」を打こして、「かさいりやう[やぶちゃん注:「領」。]二合半」・今井・「ねこざね」・「一の井」・「二の井」・「さかさい」・「きね川」・本所邊、平(ひら)一めんに、海、となる。先(まづ)、隅田川・「向じま」・秋葉・「三𢌞り」・「牛じま」へん、「小梅」・「竹丁」・「中の江」・「なり平」・「橫ぼり」・「割下水」・古岡町・吉田町・三笠町邊の家居(いへゐ)、屋根迄、水、上れば、人々、あわて立さわぎ、

「とやせん、かくや。」

と、うろたへる、其あり樣のあわれさは、目もあてられぬ、ふぜいなり。

 實(げ)に、龜井戶天神の御やしろは、よほど高き所ゆへ、人々、よふよふ、にげのびて、助船(たすけぶね)をぞ待(まち)にけり。

 又、「立川通り」より「きく川町」・「おなぎ澤」の近へん、橋も、平地も、あらざれば、

「いかゞわせん。」

と、人々、せん方なみだに、くれける時、中にも、心きゝたる人、

「五百らかんの御寺こそ、高き所に候得(さふらえ)ば、此所へにげたまへ。」

[やぶちゃん注:「五百らかんの御寺」現在の目黒の五百羅漢寺の前身である天恩山五百大阿羅漢禅寺(元禄八(一六九五)年創建)。現在の東京都江東区大島のここにあった。寺跡のマーキングがある。前に出た「きく川町」が現在の墨田区菊川で近い。]

と、申(まうす)人の言葉につれ、あるいは、さへつき[やぶちゃん注:右に『マヽ』注記有り。意味不明。]人、いかた[やぶちゃん注:「筏(いかだ)」であろう。]、およぐも あれは、ざい木にとりつき、ながれ渡るもあり。

 よふよふ、「らかん」にたどりつき、「さゝいどう」の家根にのり、

「たすけ給へ。」

と、ねんぶつのこへより、あわれ、もよふせり。

[やぶちゃん注:「さゝいどう」国立国会図書館公式サイト内の「錦絵でたのしむ江戸の名所」の「さざい堂」によれば、先に示した五百羅漢寺の境内に寛保元(一七四一)年に建立された三匝堂(さんそうどう)のこと。三匝堂とは「三回巡る堂」の意味で、内部が三層から成る螺旋状になっており、同じ通路を通らずに、上り下りが出来る構造を持っていた。その形状が「栄螺」(さざえ)のようであったことから「さざえ(さざゐ)堂」として知られた。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば、「観音の霊場巡り」ができるとされて、その造りの珍しさからも、江戸の人々の人気を集めた。弘化年間(一八四四年~一八四八年)の暴風雨や後の「安政の大地震」で荒廃し、寺とともに「さざえ堂」も消え去った。]

 此時、はやくも、御慈悲に、

「なんぎの諸人を助(たすけ)ん。」

と、御用船、數百そう、こぎ來、あり樣みるよりも、水入の人々は、二階・屋根から、ひさしより、飛のり、飛びのり、數萬人、あやうき命を助(たすかり)しも、誠に、きみの惠なり。

 みなみな、うへに[やぶちゃん注:「餓え」。]、かつへし[やぶちゃん注:「渇へし」。]ことなれば、早速、勘三郞、桐座兩芝居の者共に、焚出(たきだ)し、仰付させられ、燒飯として被下しは、猶、ありがたきことゞもなり。

[やぶちゃん注:「勘三郞」歌舞伎の江戸三座の一つ中村座の座元。

「桐座」江戸の歌舞伎劇場の一つで、市村座の控櫓(ひかえやぐら)。女歌舞伎を演じた。中村座は市村座の近くで興行していた。]

 扨、大川の水せい、つよく候へば、新大橋・永代橋、いづれも落て、往來、なし。兩國の御はしは、御用人足、あつまりて、橋をふせぎ候事、すさまじかりける次第なり。

 扨、廣小路中通りに御小家を掛させられ、缺來(かけきた)る水入(みづいり)の者どもを[やぶちゃん注:辛くも走り逃げのびてきた水害被災者たちを。]、御すくいたまわること、誠に仁惠の御ことなり。

 實(げ)に、

伊奈半左衞門樣、御屋敷の前通り、同樣、小家、掛させられ、水入の百姓を、御すくいたまわる事、ひとへに、御じひ、ふかき事どもなり。

 又、千住大橋・「小つが原」・「まろき橋」は「今どの」へん、「さんや」・「とりごへ」・田中なぞ、水、十萬[やぶちゃん注:右に『(充満)』と傍注する。]せしことなれば、中々、往來、也(なり)がたし。

 水せいは、吉原の土手、こし候へば、郭(くるわ)の者ども、

「此つゝみ、切(きれ)ては、ほんに叶まじ。」

と、「日本づゝみ」に土俵を上げ、又、大門のまへ通り、壱丈あまりに、土俵をつき[やぶちゃん注:「堆(つ)き」。]、水ふせぐこと、おびたゞし。

 「みのわ」・金杉・「三河しま」、水入候(みづいりさふらふ)事なれば、みなみな、にげうせ候なり。

 實(げ)に、田町の通りも、水、まし、三、四尺づゝも、是(これ)あるなり。

 又、淺草くわんおん御寺内(うち)は、よほど高き所ゆへ、少々、水、出候へば、此所へ、人々、あまた、あつまり、水、引(ひく)を、

「いや、おそし。」

と待(まち)けり。並木・「こまがた」近へんも、少々、水、附(つき)、御藏米(おくらまい)八町・「天王ばし」迄、水、つよく、往來、舟にて、通用す。

 又、下谷門ぜきまへ、こうとく寺の近へんも、右同斷の大水なり。

 扨、東海道の川々は、「六ごう」・「馬にう」・「さ川」[やぶちゃん注:右に『酒匂』と傍注する。]なぞ、いづれも川留(かはどめ)、「鶴み」のはし、落(おち)候(さふらふ)て、「かな川新町」・「藤澤しゆく」、萬水のことなれば、往來、一面、ならざりけり。

 程なく、雨もやみければ、水も、段々、引にけり。

 とざゝぬ御代のことぶきと、水入(みづいり)、御すくいたまはること、廣代(くわうだい)の御じひなり。

 扨、大雨にて、くづれ候所を、しるす。

 芝「あたご山」・同切通し・「まみ穴」井伊樣御屋敷の土手・山王の御山・春日の山、其外、少々づゝの所は筆につくしがたし。 大 尾

 

[やぶちゃん注:以下、村名表を挟んで、二図ともに底本のものをトリミング補正し、見開きの部分を合成して見かけ上で接合した(実際には原図自体が綺麗に切られていないので、ごく接近させただけである)。]

Mitisujihougakujyunmitige

 

[やぶちゃん注:標題は「道筋方角順道 下」。流石にこのキャプションを示す気はない。現代の地図と合わせて確認するには、まず、この画像をデスクトップに保存して、右に九十度回転して南北を合わせた上で、「古地図 with MapFan」を開き、現在の東京駅を上の現代の地図で示すと、下方の江戶時代の石川島が南東位置に現われる。そこで隅田川を遡れば、永代橋・新大橋・両国橋を辿って、両国橋東詰の少し離れた位置に「回向院」が現われ、本地図の「ゑかうゐん」と一致するので、以下は、この地図と「古地図 with MapFan」を左右に置けば、簡単に現在の地図での確認も出来る。但し、隅田川の右岸の縮尺や位置が左岸とは一致しておらず、戶惑うかも知れない。その時は、現在の秋葉原駅を捜して、その西下方見ると、万世橋があるが、その下方を江戶切絵図で見ると、「筋違橋門」とあって、それが、本図の左下方にある「すしかへ御門」である(その左の「小石川」「本郷」なども圧縮されてしまっている)。]

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が枠に囲まれており、全行が罫線で閉鎖されて書かれてある。頭の「增補」と「新全」の間には橫罫が入る。そんな感じだけを出すためにダッシュや罫線を用いた。地名の注は附さない。]

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增補 │

    │ 村 所 附 幷  道 の 記

新全 │

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○まん本所に 小むめ村  押あげ村  うけち村

[やぶちゃん注:「まん本所」に馬琴が右傍注して『「まん」は『まづ』の誤なるべし』と振る。]

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柳しま村   うめたむら てらじま村 さなへ村

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かめあり村  すさき村  若みや村  千ば村

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四ツ木むら  大どむら  しぶへむら 善右衞門新田

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龜いど村   おむらい村 平井むら  小松川

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石き村    松もと村  小いわ村  笠つか村

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かまたむら  ほり切村  寶木づか  小すげ村

――――――――――――――――――――――

小やの村   柳原村   あやせ村  水どはしおち

――――――――――――――――――――――

ゑのきど   大はら村  すのまた  はな又村

――――――――――――――――――――――

うたゝ村   長田村   川はた村  大はたむら

――――――――――――――――――――――

木下川    木下むら  彌五郞新田 長はつ新田

――――――――――――――――――――――

かまくら新田 嘉兵衞新田 久左衞門新田 八右衞門新田

――――――――――――――――――――――

おゝと新田  荻しん田  深川出村   まよりも

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弐合半領   大水にて  船ばし    行とく

――――――――――――――――――――――

市川邊    八わた   くまが谷   木下風

――――――――――――――――――――――

松 戶    小がね   みな利根川  の道すじなり

――――――――――――――――――――――

右水入の者、不殘、伊奈半左衞門樣御屋敷のまへ通りに、御小屋をかけさせられ、御すくい給(たまは)る事、誠に廣代の御慈悲なり。ちう夜御見𢌞りの上、病人ていの者には、御藥を被下置。小どもには「ぜんべい」五枚づゝ、女どもには、髮の油・元結・差紙迄、被下事、ひとへに御慈悲深き事なりけり。

――――――――――――――――――――――

 

[やぶちゃん注:以下の図の標題は「大水ばしよ附※ 全」。この「※」は一見、「咄」に見えるが、寧ろ、「口」+「圡」で、「圖」の異体字で囗(くにがまえ)の中に「土」を入れた字体の異体字ではないかと考えている。則ち、「大水場所附」(おほみずばしよづき)]の「圖 全」の意であると採る。いちいちこのキャプションを示す気は、やはり、ない。また、これは異様な広域を変形圧縮してあるので、地図では示しにくい。ざっと見るに、関東で、その南北では、江戸板橋及び葛西から、上野高崎及び下野宇都宮まで、東西では、同古河及び小貝川を最東に置き、それと並行する鬼怒川(利根川の下流の流れには河口の「銚子」を示す記入はある)から、上野の山中に発する神流川(かんらがわ)までが、概ねの記載範囲かと思われる。気になる地形では右丁下方の利根川の中州のように描かれている「五ケ村」であるが、これは下総国葛飾郡にあった、現在は茨城県西南端に位置する猿島郡五霞町(ごかまち)のことと推定出来る。]

 

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曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その2)

 

 天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに、日蝕、皆既なり。貴賤となく、貧富となく、立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに、くにのうち《六合》[やぶちゃん注:「くにのうち」への漢字ルビ。]、忽に、とこやみとなりしかば、心あるも、こゝろなきも、驚き怕れずといふもの、なし。

[やぶちゃん注:「天明六年丙午の春正月元日の巳のとき」天明六年丙午元旦午前十時。同日はグレゴリオ暦で一七八六年一月三十日。斎藤月岑(文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年:江戸の町名主で考証家)の編になる「武江年表」を見ると(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、この日は、

   *

午一刻より未一刻迄、日蝕皆既、闇夜の如し【筠庭云、曆面とは違ひて、八分計の日蝕なりしと也。】。

   *

とあって、続けて、『○【筠補。】正月半頃より日每に風あらく、物のかはくこと、火にあぶるが如しといへり。』という異常乾燥状況を記して、読む現在の我々でさえ「ヤバそう」と思うところに、『○正月二十二日、晝九時、湯島天神裏門前牡丹長家より出火、西北風、烈しく、』として、大火事となっていることが記され、翌日二十三日、また、二十四日夜、二十七日午後零時頃にも火事の記載が続く(これは以下で馬琴も綴っている)。この時の部分日食はかなり大きく太陽を遮蔽しており、例えば、嘉永五(一八五二) 年 十一月一日にも日食が起こっているが、同書のその日の記載では、『○十一月朔日、巳刻日より日蝕九分なり【闇夜にはならず、往來の時、行燈を用る程にはあらず。】。』と記されていることから、この天明六年の日食では、行灯(あんどん)を用いなければ、往来を歩けないほどの闇夜のようであったことが判る。何より、ここで馬琴は問題にしていないが、この天明六年の日食は「午」の「一刻」(午前十一時)から「未」の「一刻」(午後一時)まで続いた、とあることである。ここにも「午未」の不吉な符合が出現しているのである(以上は北区立中央図書館の「北区の部屋だより」の二〇一二年七月発行の「第36号 修正版」の「北区こぼれ話  第35回 江戸時代の日食」PDF)の説明を元に以上を私が調べたもの)。なお、「筠庭」(いんてい)「筠」は江戸の国学者・考証家であった喜多村節信(ときのぶ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の号。名は信節(のぶよ)とも称した。江戸町年寄の子で、博覧強記を以って聞こえ、学は和漢に通じ、書画もよくした。著書には民間風俗の宝庫として名高い「嬉遊笑覧」を始めとして「武江年表補正略」・「筠庭雑考」などがある。

「くにのうち(六合)」「六合」は「りくがふ(りくごう)」で、天地と四方とを合わせて言い、「世間・世の中・天下・世界」の意である。]

 この故に、殿中にても、總出の時刻などを、例年にはたがへさせて、蝕し果てゝ後にこそ、年のはじめの御禮を受けさせ給ひし、と聞えたれ。

 かくて、この日、火災あり。これより後、雨は稀にて、風の、しばしば、吹けばにや、江戶の中、日每々々に、こゝかしことなく、兩三ケ所づゝ失火・延燒してければ、人みな、駭(おどろ)き惑ひつゝ、ぬりごめ《土庫》[やぶちゃん注:漢字ルビ。土蔵。]をもてるは、家財・集具を、索(なは)もて、からげ、衣裳・調度を葛籠(つづら)・簞笥におしいれて、所せきまで、積みかさねつゝ、今燒けぬと、待つがごとし。こゝをもて、いまだ類燒せざるものも、「燒きいだされ」に異ならず。客ある家[やぶちゃん注:主人以外の親族の意であろう。]の、ともすれば、茶碗にすら、ことをかきたり。さればとて、おのもおのも、遠謀遠慮あるにはあらで、人、ぞよめきの勢ひなれども、これも時變の一端なるべし。

 かう、罵り、さわぐこと、正月・二月、甚しく、三月に至りても、なほ、人こゝろ、しづかならず。四月なかばになりてこそ、世は、やゝ、のどかになりにたれ。されば、南畝子の「四方のあか集」にあらはれたる「春日泉亭詠雜煮餠狂歌」[やぶちゃん注:「春日、泉亭に、雜煮餠(ざうにもち)を詠ずる狂歌。」]の序にも、

「ことしは、ひのえのわらは竹、うまにのれるとしなめりと、人々、つゝしみ、おそれしが、はたして、春日野(かすがの)のとぶ火にはあらで、もるてふ水の手、あやまちより、市人(いちひと)のかりずまゐも、野守がいほの心地し侍りて、今、いくか、ありて、ざれごといひてん、など、いひしらふも、ほいなし。」

と書かれたり。

[やぶちゃん注:「わらは竹」「童」が竹を折り取って、竹「馬」にする、年になることと、「午」を掛けたもので、「丙午」の世間共通に厄年認識を言っている。

「春日野(かすがの)のとぶ火に……」「古今和歌集」の巻第一の春歌上に「読み人しらず」で載る一首(十八番)、

 春日野の飛ぶ火の野守(のもり)出でて見よ

     今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ

をパロったもの。「春日野の飛ぶ火」は、本来は和銅五(七一二)年に緊急連絡のために設置された軍事用の烽火を上げる狼煙台(のろしだい)を指すが、ここは単に禁園の野守(番人)に、趣のない外敵の番などせずに、七草に若菜の育ち具合を見て、「後、何日経ったら、若菜が摘めるようになるか?」と洒落たものである。しかし、南畝はそれを「春日」(しゅんじつ)の「飛ぶ火」(盛んに起こる火事が突風で延焼するさま)としてブラッキーに変じて言ったものであろう。「もるてふ水の手、あやまちより」は「手に盛る」(掬う)「水」が「漏れ」て火を消すに至らぬ「過ち」によって、燎原の火となった江戸の火災の惨事を言ったものであろう。]

 とにもかくにも、この春は、花見て、くらす人は、稀にて、只、火事の噂をしつゝ、ありくらしゝも、うるさかりき。

 當時(そのとき)、「燒原場所附(やきはらばしよづけ)」とかいふものを賣りあるきしも多かりけれど、見たるも忘れて、思ひいでず。今もなほ、好事の家には、藏弃(ざうきよ)したるも、あらんかし。

[やぶちゃん注:「燒原場所附」とは恐らく、瓦版の一種で、度重なる火災で焼け野原となった町・火事場をリストとして並べた号外のようなものではないかと推測する。後で馬琴が洪水後の報知のそれを載せている。調べたところ、烈しい複数個所への落雷があったりした際にも同じような所附が出ており、その実物画像の確認も出来た。

「藏弃」整理せずに或いは捨てたつもりで所蔵しているもの。]

 かくて、夏にもなりにければ、火災の噂はやみ《寢》[やぶちゃん注:「やみ」への漢字ルビ。]たりしに、この年七月十二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦八月五日。]より、雨のふりそゝぐこと、おびたゞしかりしに、十四日より十六日に至りて、又、洪水のわざはひ、あり。まづ、江戸は本所・深川・木場・洲﨑・竪川筋・牛島・柳島のほとりの洪水、いへば、さらなり。下谷・淺草・外神田、いづこも、水に浸されぬは、なし。

 予が叔父田原米嶽翁は、本所林町なる武家に仕へたりしが、その身は、主(しゆう)の先途(せんど)に立ちて[やぶちゃん注:底本は『その身は立のき先途に立ちて』で判り難い。「馬琴雑記」の本文を用いた。]、家族《ヤカラ》を見かへるに、いとまあらず。家の内のものどもは、長屋の屋根に登りつゝ、そが儘、船に乘りうつりて、からくして、脫れしとぞ。

 又、次の叔父兼子翁は、御船手組(おふなてぐみ)の同心なれば、水のうへに、こゝろを得て、船も亦、自由なれば、これも、やからを、いちはやく、所親(しよしん)[やぶちゃん注:親元。]がり、遣しゝに、危きことはなかりし、といへり。

 又、予がめのをんなは、大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】の母うへに、みやづかヘせしころなりければ、これも又、御徒町なる邸中より、船に乘せられしが、「しのばずの池」のはたなる同家加藤氏の邸中へ、みまへに倶して參りしに、かしこも水の中なりき、といへり。

[やぶちゃん注:「予がめのをんな」馬琴の妻は元飯田町中坂(現在の千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現在の築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む、会田家の未亡人百(三十歳)の婿となったが、会田姓を名乗らず、滝沢清右衛門を名乗った。

「大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】」この翌年に第十代大洲藩主となった加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年?~文政九(一八二六)年)。九代藩主加藤泰候(やすとき 天明七年没)の長男。幼名は作内で、最終官位は従五位下・遠江守。大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)。]

 予もはらからも、當時、みな、山の手にをりしかば、この水難にはあはねども、親戚のうへ、心もとなし。ゆきて訪はばやと、思ふものから、永代橋・大川橋は、往來をとめられて、柳橋も亦、人を、わたさず、この他、大橋の中の間、破損して、和泉橋は落ちたり。只、恙なきものは兩國橋一ケ所なれども、本所・深川の水高ければ、船ならざるもの、ゆくこと、得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞の当て漢字。]ならず。凡(およそ)、下谷は「いづみ橋」筋・「あたらし橋」筋・外神田御成道など、商人の見世さきを、船にて、往還しつる事、しらざるものは、そらごとゝや思はん。只、これのみにあらずして、小石川御門外・牛込揚端・「どんど橋」の邊りまでも、前もて聞かぬ出水(でみづ)、高くて、溺死のものも、少からず。

 かくて、兩三日のゝち、牛込の水の退(ひ)きしを、仲兄鶴忠子が、「見ん。」とて、ゆきし折、

 けさひきしわだちの水のふなかはら泥鰍《ドゼウ》ふみこむ跡もどろ龜

當時、鮒・泥鰌なんどの、泥に塗れてありけるを、まのあたりに見て、よまれしなり。さは、この狂歌は絕筆にて、次の月の初の四日に、ときのけ[やぶちゃん注:「馬琴雑記」に『時疫(ときのげ)』とある。流行り病ひ。]にて、身まかりにき。享年廿二歲なり。いとかなしとも、かなしかりしを、身にしみじみと忘れがたさに、言のこゝに及べるなり。

 只、此わたりの水のみかは。日本堤を、うちこえて、田町へ、水のおしたれば、聖天町・山の宿・淺草反畝[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『淺草田圃』とある。]もひとつになりて、金龍山[やぶちゃん注:浅草寺。]の裙(すそ)を遶(めぐ)れり。まいて、千住・松戶の邊、葛西・行德(ぎやうとく)・千葉のわたり、熊谷・浦和に至るまで、みな、この水を受けぬは、なし。

 されば、十七、八日のころよりして、「水見まひ」の良賤(りやうせん)[やぶちゃん注:身分の高い者と賤しい者。]、奔走しつゝ、辨當・偏提《サヽヱ》[やぶちゃん注:水や湯を入れる金属製の容器。それ自体で温めることも出来る。]・坐具・調度を、おもひおもひに齎(もた)らして、ゆくもの、ちまたに、陸續たり。

 又、關東御郡代伊奈氏のうけ給はりて、馬喰町のあき地に假屋をしつらひ、水厄(すいやく)のものを入れおかせて、日每に粥を下されけり。

[やぶちゃん注:「關東御郡代伊奈氏」関東郡代は正式な徳川幕府の役職としては、江戸時代に一時期、二度だけ設置した臨時役職を指すが、ここは、それ以前にそう名乗って権勢を揮った「関東代官頭」伊奈氏のことで、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄し、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また、将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っていた。陣屋は、当初は武蔵国小室(現在の埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋で、後、寛永六(一六二九)年に同国赤山(現在の埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後、十二代二百年間に渡って伊奈氏が関東代官頭の地位を世襲した。元禄五(一六九二)年に飛騨高山藩領地が天領となった際には第六代忠篤(ただあつ)が飛騨郡代も一時的に兼務した。第七代忠順は富士山の「宝永大噴火」の際に砂除川浚奉行に任じられている。本来、関東代官頭は勘定奉行の支配下にあったが、第八代忠逵(ただみち)の代の享保年間には、鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、享保一八(一七三三)年には勘定吟味役を兼任しており、関東代官頭は老中の直属支配下に入ることになった。さらに第十二代忠尊(ただたか)は天明五(一七八五)年に奥向御用兼帯となり、その二年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。ここに出るのはこの忠尊である。伊奈氏の「関東郡代」の自称も、こうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。しかし、この直後、伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって寛政四(一七九二)年三月に忠尊は関東代官頭を罷免された上、改易されてしまった(以上はウィキの「関東郡代」に拠った)。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 靈智

 

  靈   智

 

ふるへる

微光のよるに

いつぱつ

ぴすとるを擊つ

遠方に

金の山脈

かすかな

黑燿石の發光。

 

[やぶちゃん注:底本は初出を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。前の「永日和讃」と同時掲載である。筑摩版全集でも同誌同月号として、以下の初出を示す。

 

 靈智

 

ふるへる、

微光のよるに、

いつぱつ、

ぴすとるを擊つ、

遠方に、

金の山脈、

かすかな、

黑燿石の發光。

 

黒曜石(英語:Obsidian(オブシディアン:英名の元はエチオピアでオブシウス (Obsius)という人物がこの石を発見したとするプリニウスの「博物誌」のラテン語記述による呼称)は「黒耀石」とも書き、近代作家でも野村胡堂などが「黑燿石」と表記し、私は寧ろ、ガラス質の石質の輝きから、「黒耀石」「黒燿石」(「耀」「燿」は孰れも「かがやく」の意)の方が字面からはしっくりくる(但し、「曜」もやはり「かがやく」の意だが、私は寧ろ「黒曜石」とは書かない)から、何ら問題ない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 永日和讃

 

  永 日 和 讃

 

ひとのいのりはみなみをむき

むぎはいつしん

うをはいつしん

われはしんじつ

そらにうかびて

ゆびとゆびと哀しみつれ

たましひは

ねもごろにほとけをしたふ。

 

[やぶちゃん注:底本は初出を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。筑摩版全集でも同誌同月号として、以下の初出を示す。

 

 永日和讃

 

ひとのいのりはみなみをむき、

むぎはいつしん、

うをはいつしん、

われはしんじつ、

そらにうかびて、

ゆびとゆびと哀しみつれ、

たましひは

ねもごろにほとけをしたふ。

 

「讃」は、ここでも、正字「讚」ではない。実は「讃」の字は、中世・近世でも「讃」の表記が既に有意に見られ、また、近代作家でも、「讚」ではなく、「讃」と書く作家は有意に多く、明治期の刊行物でも「讃」となっているものが散見されるのである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 鑛夫の歌

 

  鑛 夫 の 歌

 

めざめよ

み空の金鑛

かなしくうたうたひ

なみだたれ

われのみ土地を掘らんとす

土地は黥靑

なやましきしやべるぞ光る。

 

ああくらき綠をやぶり

天上よりきたるの光

いま秋ふかみ

あふげば

一脈の金は空にあり。

 

めざめよ

み空の金鑛

かなしくうたうたひ

なみだたれ

われなほ土地を掘らんとす。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正三(一九一四)年九月二日作で同年十月発行の『地上巡禮』初出とする。筑摩版全集でも、「拾遺詩篇」に同誌同月号として初出を載せる。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 鑛夫の歌

 

めざめよ、

み空の金鑛、

かなしくうたうたひ、

なみだたれ、

われのみ土地を堀らんとす、

土地は黥靑、

なやましきしやべるぞ光る。

 

ああくらき綠をやぶり、

天上よりきたるの光、

いま秋ふかみ、

あほげば、

一脈の金は空にあり。

 

めざめよ、

み空の金礦、

かなしくうたうたひ、

なみだたれ、

われなほ土地を堀らんとす。

              ―九月二日―

 

なお、「黥靑」であるが、見かけない熟語ではあるものの、「入れ墨」は「刺靑」とも書くから、「黥靑」でも意味は同義と判る。我れなる鑛夫が、内なる秘かな内面の土地を掘る刻すのを、「刺靑」に譬えたのは腑に落ちる。但し、ここで萩原朔太郎がこれを何と読んでいるかは、判らない。彼が、ひらがなの「てふてふ」(蝶々)をそのまま発音するべきだと言ったのは有名だが、「生活」に「らいふ」とたまさか振ってみたりと、漢字にはトンデモないルビを附すことでも知られる(因みに、ここでも「掘」を「堀」とするように(これは実は他の作家の原稿でもしばしば見られる慣用使用である)、萩原朔太郎の漢字の誤りや慣用使用は実に呆れるばかりに多く、その誤字使用を確信犯で内的に慣用化しているとしか思われない偏執的な特定文字も、ままある)。ここは「げいせい」か「いれずみ」であるが、音声として聴いた際には「げいせい」では、この漢字二字を直ちに想起出来る人間は皆無と思われ、されば、これは視覚上の面白さを狙いつつ、読みは「いれずみ」と読んでいると採るべきである。

 なお、同様の印象を与える、本底本で後掲される「土地を掘るひと」があるが、これは詩想として無縁とは言えぬものの、直接的ヴァリアントではない。]

2021/10/25

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その1)

 

[やぶちゃん注:発表者は馬琴で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻第三下編の頭には「天明丙午水同丁未飢饉の記」があるのだが、吉川弘文館随筆大成版と比較してみると、明らかに「兎園小説」版の方が遙かに詳しく、整序されてあり、絵図も二つ附属している(「馬琴雑記」絵図は甚だ粗雑であるので省略した旨の編者の割注がある)ので、ここは吉川弘文館随筆大成版を底本とし、読みに於いて大いに参照させて貰うことにした。非常に長いので、分割し、段落を成形し、今回は「馬琴雑記」で確認出来たものも含め、歴史的仮名遣でオリジナルに難読部に( )で読みを附した。ごく僅かにある底本のルビは《 》で示した。なお、標題の読みであるが、「ひのえうまひのとひつじ」でも構わぬのだが、内容が悲惨を極めた「天明の大飢饉」(広義には天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする)中の天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未の水害と飢饉を綴ったもので、どうも訓では申訳がない気がする。冒頭で漢文を引用して示していることからも、ここは「へいごていび」と読むべきである。なお、董青氏の論文「日中禁忌文化の比較」(「大谷大学学術情報リポジトリ」名義でPDFでダウン・ロード可能)が学術論文として興味がそそられる。因みに、以下の前振りの漢文の電子化と訓読とさわりの注だけで、九時間余りを要した。] 

   ○丙午丁未

 愈文豹[やぶちゃん注:底本は「意文豹」であるが、「馬琴雑記」で訂した。]吹剱錄云、可丙午丁未年。中國遇ㇾ之。必有ㇾ災。謝肇淛五雜俎載是言。曰。亦有盡然。粤攷淸王士禎池北偶談。又有其辯云。丙午丁未。從ㇾ古以爲厄歲陰陽家云。丙丁屬ㇾ火。遇午未而盛。故陰極必戰。亢而有ㇾ悔也。康煕丙午冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海[やぶちゃん注:底本は「藪納海」であるが、「池北偶談」原本陰影と「馬琴雑記」によって訂した。]。督撫尙書王登聯等搆死。丁未春災祲疊見。彗星出。太白晝見。白眚[やぶちゃん注:底本は「白星」だが、同前で訂した。]西北經二月餘。是歲七月。輔臣蘇克薩誅死。吾友程職方謂。予欲輯前史所ㇾ載丙丁災變徵應一書。頃見宋理宗淳祐中。柴望所ㇾ上丙丁龜鑑十卷。自秦莊襄王五十二年丙午[やぶちゃん注:底本では「午」は「丁」であるが、同前で訂した。]。迄五季後漢天福十二年丁未。通一千二百六十載。中爲丙午丁未者二十有一。備摭事實[やぶちゃん注:「摭」は底本では(れっか)部分が「从」になっているのだが、これは「池北偶談」に同文字列を発見し、「馬琴雑記」もこれなので、この字に代えた。]。係以論斷。元至正中。又有續丙丁龜鑑者。補宋元事之闕。前人已有此二書。當考據。故明三百年中事應。以續二書之後

と、いへり。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。必ずしも、「馬琴雑記」の訓点には従っていない。

   *

 愈文豹(ゆぶんへう)が「吹剱錄」に云はく、『丙午丁未(へいごていび)の年、中國、之れに遇へば、必ず、災ひ、有り。』と。謝肇淛(しやてうせい)が「五雜俎」に是の言れを載せて曰はく、『亦、盡(ことごと)く然(しか)らざる者、有り。』と。粤(ここ)に淸の王士禎が「池北偶談」を攷(かんが)ふれば、又、其の辯、有り。『丙午丁未は、古へより、以つて厄歲と爲す。陰陽家の云はく、「丙・丁、火(くわ)に屬す。午・未に遇ひて、盛んなり。故に、陰、極まれば、必ず、戰(あらそ)ふ。亢(こう)して悔ひ有るなり。」と。康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海・督撫尙書王登聯等、搆死(こうし)す。丁未の春、災祲(さいしん)、疊(しき)りに見ゆ。彗星、出づ。太白、晝、見ゆ。白眚(はくせい)、西北に出で、月餘を經(ふ)。是の歲七月、輔臣蘇克薩、誅死す。吾が友、程職、方(まさ)に謂ひて、「予、前史に載する所の丙・丁の災變・徵應を裒輯(ほふしふ)し、一書に爲(な)さんと欲す。頃(この)ごろ、宋の理宗淳祐中、柴望、上(あぐ)る所の「丙丁龜鑑」十卷を見るに、秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで、通して、一千二百六十載、中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一。備(つぶさ)に事實を摭(ひろひと)り、係(かか)るに、論斷を以つてす。元の至正中、又、續く「丙丁龜鑑」の者、有るを、宋・元事の闕(けつ)にて補ふ。前人、已に、此の二書、有り。當に考據すべし。故に、三百年中の事應、明かにし、以つて二の後に續く。」と。』と。

   *

『兪文豹「吹剱錄」』撰者は南宋の人であること以外は判らなかった。史料で、「外集」もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、元末明初の学者陶宗儀の漢籍叢書「説郛」の巻二十七PDF)の40コマ目右丁二行目で引用部が確認出来る。

『謝肇淛「五雜俎」』既出既注であるが、再掲すると、「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻一の「天部一」に、

   *

又「吹劍錄」載、丙午・丁未年、中國遇之必有災、然亦有不盡然者。卽、百六、陽九亦如是耳。

   *

とあるのを指す。これを含む一節全体は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。

『王士禎が「池北偶談」』清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」で影印本が視認出来、これによって、最後までが、本書からの長い引用であることがわかる。則ち、思うに、この冒頭の漢文全体は、馬琴が引用に少し、言葉を添えて繋げたものと推定出来る。

「康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】」康煕五(一六六六)年。

「搆死す」「搆」は「引く・構える・組み立てる・計画する」の意であるが、まあ、死を迎えたの意でよかろう。本字は「構」にも通じ、「構」には「強いる」の意もあるので、帝君から「死を強いられた」と読むことも可能で、「そうであったかどうか、調べても判らんだろう」と思いつつも、試みてみたところが、図に当たった! 「維基文庫」の「清史稿 卷一百二十」の中の「田制」の条に、「戶部尙書蘓納海」と「督撫尙書王登聯」について(漢字表記が不統一なので正字化した)、

   *

戶部尙書蘇納海・總督朱昌祚・巡撫王登聯、咸、以不如指、罪至死。

   *

とあった。「咸」は「皆」の意で、「總督朱昌祚」は「池北偶談」ではカットされているから、「等」が腑に落ちるわけだ! あきらめんでよかった!

「災祲」(さいしん)「祲」の字は原義が「災いを起こす悪い気・不吉な気」で、他に「太陽の周りにかかる暈(かさ)」の意もある。後者は「ハロ」或いは「ヘイロウ現象」(halo)として知られる光学現象だが、中国では古代より、「白虹が太陽を貫く」ことは、恐るべき「兵乱・大乱の兆し」とされた。「白虹」(白い龍)は「干戈」を、「日」は「天子」を表わすとされる。

「疊(しき)りに」「馬琴雑記」の送り仮名と、「疊」の持つ意味から類推して訓じた。

「白眚(はくせい)」「黑眚」は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で述べたが、それ自体が幻獣であり、白黒(びゃくこく)の色とあり、そのアルビノと考えていいだろう。禍いを齎す悪獣である。以下の叙述から、それまでなかった位置に突如、現れ、一ヶ月以上消失しない、白い光を放つ星と読め、巨大なこちらに頭を向けた流星、或いは、超新星か?

「程職」不詳。

「裒輯(ほふしふ)」(ほうしゅう)は「集めること」及び「編集・集録すること」の意。

「宋の理宗淳祐中」「理宋」は南宋の第五代皇帝。「淳祐」は彼の治世の一二四一年~一二五二年の元号。

「柴望」(一二一二年~一二八〇年)は南宋の詩人。彼はこの「丙丁龜鑑」五巻(実に、秦の昭王五十二年丙午(紀元前二五五年)から、五代の後漢の天福十二年丁未(九四七年)までの丙午丁未の厄災・凶兆を拾い出したものらしい。「池北偶談」は十巻とするが、調べる限りでは五巻である)を淳祐六(一二四六)年に上表した結果、世に不安を広げるものとされ、獄に下っている。数年で出獄してようで、後には官職を得て、史料編纂などをやっているか。死の前年に南宋は滅び、元が建国したが、その招きには応じなかった(中文の「百度百科」の彼の記載を判らない乍らも参考にした。一部の不審な箇所は訂した)。

「秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで」「莊襄王五十二年」は秦の第二十八代君主にして第三代の王である「昭襄王」の「池北偶談」の誤りと思われる。それでも「通して、一千二百六十載」というのはおかしく、数えで一千二百三年にしかならないのだが、記載通りの「莊襄王」では、昭襄王の次の次の代の王(紀元前二四九年~紀元前二四七年)で、更に閉区間年が短くなってしまう。前の「百度百科」での西暦記載を信ずることとする。

「中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一」計算すると、紀元前二五五年から紀元後九四七年の間のそれは確かに正確に孰れも二十一回である。

「摭(ひろひと)り」「拾ひ採り」。

「係(かか)るに、論斷を以つてす」それに「關はる」ところの各個的な厄災や凶兆とある事柄を確定し、「丙午丁未」の持つ災厄性に就いての論を展開している。

「元の至正中」元の順帝(恵宗:トゴン・テムル)の治世で用いられた元号。一三四一年 から一三七〇年まで。一三六八年、元が大都(現在の北京)を追われ、明が成立するが、後も、「北元」の元号として使用された。

「宋・元事」柴望以後の宋及び元の厄災などの事実。

「闕にて補ふ」欠けた部分として追加して補っている。

「此の二書」「丙丁龜鑑」及び「續丙丁龜鑑」(こちらは撰した人物は未詳のようである。一巻か。後補された年月では「丙午丁未」七回である)。

「三百年中」「池北偶談」の序は一九〇一年であるから、明の成立する一三六八年からは、五百三十三年も隔たるが、この一三六八年に三百を足すと、一六六八年になる。さて、大清帝国は一六一六年に満洲に最初に清として建国されたが、一六四四年に中国本土とモンゴル高原を支配する統一王朝となった(一九一二年滅亡)。王士禎は一六三四年生まれであるから、「池北偶談」出版の一九〇一年当時は満で五十七ほどである。この彼の友人である程職の言葉には、ある種の気負いがあって、もっと前の若さを感じる。例えば、これを三十年ばかり遡って二十代の王と程(同年代と考えてである)を考えてみる。すると、一八七一年頃となる。さて、そこで、大清帝国になってからの「丙午丁未」を、例えば、この一八七一年ま頃でで見ると、それでも、四度もあるのである。しかし、そうすると、「三百年中」の意味が齟齬する。それに拘って、これを一六四一年までに区切ったのだとすると、「丙午丁未」は、実は、ただ一度の一六六六年と一六六七年だけなのである。さすれば、これは単なる推理となるが、この程職なる人物は、実は、清代になってからの丙午丁未については、「丙丁龜鑑」で柴望が処罰されたことを鑑み、実は扱うのを憚ろうと思ったか、或いは、向後の中・長期的展望を待つとして災厄を特定するのはやめようとしたのではなかったろうか? と私は考えるのである。但し、程職の手になる「續々丙丁龜鑑」は書かれなかった、書けなかった、或いは程職はその後にその幻しの書の執筆を叶えることなく、白玉楼中の人となったのかも知れない。その思い出と彼への哀悼を籠めて、ここに長く彼の生の台詞を記したのではなかったか?……などと勝手な妄想をしてしまったのである。]

 

 解(とく)いはく、「天朝も、いにしへより、丙午丁未の年每に、さる、しるし、のこりけるにや。いまだ、考索にいとまなければ、見ぬ世の事は、姑(しばら)く措(お)きつ。

 只、予が親しく耳に聞き、目に見えしまゝをもてすれば、天明丙午の火災・洪水、丁未の饑饉[やぶちゃん注:底本は『饉饉』。「馬琴雑記」で訂した。]に、ますもの、なし。こは、遠からぬ世の事にて、五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり。まいて、今より後の人は、昔がたりに聞きながして、警(いまし)め愼むこゝろ、薄くば、遂に又、荒年の備へに[やぶちゃん注:底本に「備へに」なし。「馬琴雑記」で補った。]懈(おこた)ることもあるべし。この故に、只、見聞のまゝに記してもて、後生(こうせい)に示すのみ。しかれども、老邁(らうまい)[やぶちゃん注:老化が進んでいる状態を指す。]、よろづに遺忘(ゐばう)多くて、記憶の壯年に及びがたきを、いかゞはせん。かゝれば、漏らすも多かるべく、思ひたがへし事も、あるべし。

[やぶちゃん注:「五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり」天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未は、この「兎園会」発会の文政八(一八二四)年十月二十三日からは、六十八、七年も前のこととなる。]

 抑(そもそも)、この歲の凶荒は、京の人、

「原氏が、「五穀無盡藏」とかいふものに、しるしつけたり。」

とは聞きしかど、予は、いまだ、その書を見ざりき。さばれ、只、その書には、諸國の米の價(あたひ)をのみ、をさをさ、しるしゝものと、なん。しからんには、予が編の、いと淺はかにて、疎鹵(そろ)[やぶちゃん注:おろそか。疎漏。粗略。]なるも、考據(かうきよ)の爲になるよし、あらんか。

 されど、乙巳のみな月には、わが身、失恃(しつじ)[やぶちゃん注:底本は「異特」。「馬琴雑記」を採った。自負心を損じること。]の憂あり。又、丙午の葉月には、仲兄、夭折せられたり。かく、うれはしく物がなしき折なりければ、世上の事を、只、よそにのみ聞き捨てゝ、書きつけおきしことはなきを、こゝに、はつかに思ひ出でゝ、その大かたを、しるすよしは、嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編にちなみて、なん。

[やぶちゃん注:『原氏が「五穀無盡藏」』「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」の書誌データによれば、版本は本篇の八年後の天保四(一八三三)年に京都で上原無休なる人物の著として板行されている。『飢饉に備えて豊作の時にも五穀を疎かにするべきではないと、重農主義の論を説いた書。用意すべき糧物や施行の仕方についても記されている』とある。「日本古典籍ビューア」のこちらで原本が画像で読める。ざっと見る限り、馬琴が貶すような瘦せたキワモノなんぞではない、しっかりしたものである

「乙巳のみな月には、わが身、異特の憂あり」「乙巳」天明五年乙巳。一七八五年。「失恃」の具体な内容は不明。丙午の前年。

「丙午」天明六年丙午。

「仲兄、夭折せられたり」次兄興春。ウィキの「曲亭馬琴」によれば、天明五(一七八五)年の母の臨終後に、『貧困の中で次兄が急死する』とある。天明六年なら、馬琴は数え二十であった。

「嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編」第六集の山崎美成の発表の「奧州南部癸卯の荒饑」(本会の五回前の文政八(一八二四)年六月十三日発会の「兎園会」)を指す。]

2021/10/24

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天台靈空是湛靈空

 

   ○天台靈空是湛靈空 平安 角鹿桃窻

享保・元文の頃ほひ、沙門光謙、字は靈空といふ天台宗の學匠たり。近年、皆川淇園翁、一たび、其文章を賞せしより、其名、ますます、あらはれぬ。その書もまた、奇逸なるものなり。また寶曆・明和の頃、淨土宗に靈空、字は是湛といふ僧あり。寬政十一年の刻本、平捃印補正に、比叡山光謙、字靈空と載せ、靈空、是湛の二印を出だせるは、頗、杜撰なり。こは、かの是湛、靈空の印にして、天台靈空の印には、あらず。是、湛靈空は、晚年、寺町今出川の邊、西山派の寺に住せり。此二僧、書風、かつて似るべくもあらぬを、など、誤り傳ヘたるにや。

[やぶちゃん注:「享保・元文」一七一六年から一七四一年。

「沙門光謙、字は靈空」(れいくう 承応元(一六五二)年~元文四(一七三九)年)は天台僧。光謙(こうけん)は名。号は幻々庵。筑前国福岡の出身。十七歳で比叡山に登り、その後、比叡山西塔の星光院の院主となった。二十七歳の時、妙立慈山(みょうりゅうじざん)に師事し、元禄三(一六九〇)年に妙立が没した後は、その弟子を率いて、比叡山の僧風復興に努めた。江戸中期には、南北朝時代に始まった本覚思想の口伝法門が広まり、天台教学・僧儀の退廃が目立ってきたことから、定・慧の二学を刷新し、戒律学に於ける四分律兼学による律儀を導入するなど、僧風の是正につとめた。元禄六(一六九三)年、彼に帰依していた輪王寺宮公弁法親王の命により、比叡山横川飯室谷の安楽院を、天台・四分律兼学の安楽律院に改め、安楽院流の祖となった。元禄八年に「法華文句」を講じた際には日に千人の聴講者がいたと伝えられる。

「皆川淇園」(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)は儒学者。ウィキの「皆川淇園」によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。

「寶曆・明和」一七五一年から一七七二年。

「靈空、字は是湛」生没年は判らなかったが、浄土宗西山禅林寺派の僧として確認出来た。伊勢市古市にある同派の「大林寺」の公式サイトの歴代住職のリストで第六世が享保二(一七一七)年とし、第八世が享保一九年とあって、間の第七世が、『霊空』『是湛上人』とあった。しかし、これが当該人物となると、非常に早くに上人となっており、しかもそれなりに長生きしたことになる。

「寬政十一年」一七九九年。

「平捃印補正」【2021年10月25日改稿】いつも御助力をいただくT氏より、『「平」は分かりませんが』、以下は『石隠編の「捃印補正」』(くんいんほせい)のことで、『国会図書館の「捃印補正」(二巻)上の73コマ目』(左丁左端に「比叡山光謙字」(「あざな」?)「靈空」とあり、上の篆書陰刻が「靈空」、下方の陽刻が「是湛」)にかくあり、『書誌に享和二(一八〇二)年刊』とし、『又、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「捃印補正」巻之一・二の、こちら「上」の72コマ目』に同一のものを確認出来、『早稲田の書誌には「序」が細合方明(寛政十一年(一七九九年)、「跋」が木村孔恭(寛政十二年)とあり、前掲の享和二年刊の再刻』で、『共同刊行』は『柏原屋清右衛門(浪華心斎橋筋順慶町)と書いてあります』とメールを戴いた(木村孔恭は、先般、電子化注を終えた「日本山海名産図会」の木村蒹葭堂である)。印譜が見られるとは、思わなかった。T氏に感謝申し上げる。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 品革の巨女(オホヲンナ)

 

[やぶちゃん注:目次は「品河の巨女」。画像は底本のものをトリミング補正して用いた。私は筆者と同じくこの「おつたさん」がしみじみ哀れに感じたれば、懇ろに清拭し、画像サイズも実物大に限りなく合わせておいた。段落を成形した。]

  ○品革の巨女(オホヲンナ)

 文化四年丁卯の夏四月のころより、世の風聞にきこえたる、品川驛の橋の南なる【こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり。】鶴屋がかゝえの飯盛女に、名を「つた」といへるは、その年廿歲にて、衣類は、長さ六尺七寸にして、据をひくこと、一、二寸に、すぎず。膂力ありといへども、そのちからを、あらはさゞりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「文化四年丁卯」一八〇四年。

「品川の橋の南」「こゝを「橋むかふ」と唱ふるなり」これは品川宿の南の目黒川に架かる現在の品川橋(グーグル・マップ・データ)で、その南に渡った地域を「川向かふ」「橋向かふ」と呼称した。これは、「あっちは江戸ではない」という江戸庶民の差別的呼称であることは言うまでもない。目黒川河口右岸である。正規の品川宿は左岸であるが、右岸にも非正規の旅籠屋や客相手の曖昧宿(飯盛旅籠)があった。

「飯盛女」(めしもりをんな)は、本来は旅籠屋での接客をする女性のことを指すが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道に早く、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)である。飯盛女を抱える旅籠屋を「飯盛旅籠屋」といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき、二人までを許可しており、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、次第に宿内や近在、特に助郷(すけごう:宿駅常備の人馬の不足を補充するために宿駅近傍の村々が伝馬人夫を提供させられたこと、また、それを課された郷村を指す。最初は臨時で宿の周囲二、三里までの村に課されただけであったが、参勤交代などで交通量が増大し、恒常的となり、十里以上まで課され、金銭代納が多くなり、一種の租税ともなった。これは農村疲弊の一因となり、百姓一揆が頻発することとなった。ここは「旺文社日本史事典」に拠った)の村々の農民を対象とするようになり、宿と助郷間の紛争の種となった。明治五(一八七二)年、人身売買や年季奉公が禁止されたことにより、形式上は解放された(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「六尺七寸」二メートル三センチメートル。]

 世に稀なる巨女なれども、全體、よく、なれあふて、しな・かたち、見ぐるしからず、顏ばせも、人なみなれば、

「この巨女に、あはん。」

とて、夜每にかよふ嫖客、多かり。

[やぶちゃん注:「嫖客」(へうかく(ひょうかく))は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や芸者買いをする男を指す。]

 當時、その手形を家巖におくりしもの、あり。すなはち、草して左に載せたり。

 その手は中指の頭(サキ)より、掌の下まで、曲尺六寸九分、橫幅、巨指(おほゆび)を加へて、四寸弱なり。その圖、左のごとし。

[やぶちゃん注:「曲尺六寸九分」二十・九センチメートル。

「四寸弱」十二センチメートル弱。]

 

Otuta

 

 件の「つた」は、出處、駿河のものなり、とぞ。『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」にあらねども、阿漕の浦に引く網のたびかさなれる客ならねば、手を袖にして、あらはさず、足さへ、見するを、恥ぢし、とぞ。

[やぶちゃん注:「『ひが事をす』とよまれたる、「いせ人」」「ひが事」(ひがごと)は「道理に合わないこと・事実に合わないこと・不都合なこと」の意。直接は、鴨長明作とされる紀行「伊勢記」にある、

いづみ野とは、尾張の津島より京へのぼる道を、舟に乘りてゆく。甲斐川を越えて、弓削原村にいづる。

 伊勢人はひがごとしけり津島より

      かひ川行けばいづみのの原

に基づくか。但し、この書は、「方丈記」執筆以前の若き日に、長明が伊勢へ旅した際の和歌と紀行文とされるものの、本文は散逸しており、抜粋などで残存するものを集めたものに過ぎず、一部では偽作ともされる。但し、平安末から鎌倉初期にかけて、かの「伊勢物語」の「伊勢」の名の語源説として、藤原清輔や、彼の養子であった顕昭によって、『伊勢人は僻事(ひがごと)す』という風説に基づく書名とする説が、元にあるようである。

「阿漕が浦に引く網」「人知れず行う隠し事も、たびたび行えば、広く人に知れてしまうこと」の喩え。「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所であり、古くから神聖な漁業域として、一般人の漁は許されていなかったが、「阿漕の平治」という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をし、遂には見つかって簀巻きにされて海に投げ込まれたという伝説に拠る。因みに、「強欲であくどいさま」を指す「あこぎ」も同根。詳しくは、私の「諸國里人談卷之三 阿漕塚」の私の注を参照されたい。]

 これらは、をなごの情なるべし。

 あまりに、いたく、はやりにければ、瘡毒を傳染して、あらぬさまなりしかば、千鳥なくのみ、客は、かよはず。

「いく程もなく、その病にて、身まかりにき。」

と、いふものありしが、さなりや、よくは、しらず。

[やぶちゃん注:「瘡毒」(さうどく(そうどく))は梅毒のこと。]

 又、その翌年【文化五年。】の冬のころ、湯島なる天滿宮の社地にて、「おほをんなのちからもち」といふものを見せしこと、あり。

 予は、なほ、總角にて、淺草の「としの市」のかへるさに、立ちよりて、それをば、見けるに、よのつねのをんなより、一岌、大きなるは、偉きかりしが、品川の「つた」が手形にくらぶれば、いたく見劣りて、さのみ、多力なるものとは、見えざりき。

[やぶちゃん注:「總角」(あげまき)は、元は古代の少年の髪の結い方の一つで、髪を左右に分け、両耳の上に巻いて輪を作る、角髪(つのがみ)とも呼ばれたそれを指すが、ここはそれから転じた「少年」の意。馬琴の長男であった滝沢宗伯(そうはく)興継は寛政九(一七九八)年十二月二十七日生まれであるから、当時は恐らく未だ満六歳であったと思われる。

「一岌」(いつきふ(いっきゅう))は、ここでは、一際、背が高いことの意。

「偉き」「えらき」或いは「おととけき」と読めるが、前者でよかろう。「勇ましい」とか、「猛く勇ましい」の意だが、ここは、単に「一般的な成人女性の標準体躯の程度を遙かに超えている」の意。]

 『彼「品川のおほをんな」は、是なるべし。』と、おもはする、「紛らしもの」としられたり。

 かばかり、はかなきうへにだも、贋物、いで來たる、油斷のならぬ世にこそありけれ。

 こゝに、すぎこしかたを思へば、十八、九年のむかしになりぬ。

 時に、筆硏の間、亦、戲れにしるすといふ。

  文政八年乙酉小春念三     琴 嶺

乙酉霜月兎園會

[やぶちゃん注:「文政八年乙酉小春念三」この発会日。文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 巡禮紀行 / 附・草稿詩篇

 

  巡 禮 紀 行

 

きびしく凍りて

指ちぎれむとすれども

杖は絕頂(いただき)にするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる山峽(はざま)たどる。

 

しだいに四方(よも)を眺むれば

遠き地平を超え

黑き眞冬を超えて叫びせんりつす

ああ聖地靈感の狼ら

かなしみ切齒(はがみ)なし

にくしんを硏ぎてもとむるものを

息絕えんとしてかつはしる。

 

疾走(はし)れるものを見るなかれ

いまともがらは一列に

手に手に銀の鈴鳴りて

雪ふる空に鳥を薰じ

涙ぐましき夕餐(ゆふげ)とはなる。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年十月とし、初出は翌大正四年一月発行の『異端』とする。筑摩版全集でも同じく同誌の一月号とする。初出を以下に示す。誤字・誤植と思われるものはママ。

 

  順禮紀行

 

きびしく凍りて、

指ちぎれむとすれども、

杖は絕頂(いただき)にするどく光る、

七重の氷雪、

山路ふかみ、

わがともがらは一列に、

いためる心山峽(はざま)たどる。

 

しだいに四力(よも)を眺むれば、

遠き地平を超え、

黑き眞冬を超えて叫びしんりつす、

あゝ聖地靈感の狼ら、

かなしみ切齒(はがみ)なし、

にくしんを硏ぎてもとむるものを、

息絕えんとしてかつはしる。

 

疾走(はし)れるものを見るなかれ、

いまともがらは一列に、

手に手に銀の鈴鳴りて、

雪ふる空に鳥を薰じ、

涙ぐましき夕餐(ゆふげ)とはなる。

          ――一九一四、一〇――

 

これには、編者注があって、『十七行目は「鈴なりて」「鈴ふりて」の兩樣に記した草稿がある』としつつ、『他の草稿も勘案して』校訂本文は『「鈴ふりて」と訂した』とあった。そこで、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』にある、「巡禮紀行(本篇原稿三種五枚)」を以下に電子化する。歴史的仮名遣の誤りや「×」はママ。□は底本の判読不能字。

 

  聖地巡禮紀行

 

きびしく凍りて

指ちぎれんとはすれども

わが杖はいたゞきにするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる心一途をはざまをはしるたどる。

ああともがらはいたゞきにとほく

しだい

よもをながむれば

わがともがらはいたゞきに

しだいによもをながむれば

地平をこえに×

みよみよいま地平その牙をとぎふくみ

やぶ  朧齒がみ鳴らし

×疾くきたれるものは狼なり行しきたるものは

餓えし狼

いのり哀しみ

黑き眞冬をこえてひとびとさけびしんりつ震慄す、

地平にあらはれ

にくしんをやぶり硏ぎて來れるものを

靈感至烈の飢狼ら畜類ら

息絕えんとしてかつはしる

ひとああわがともがらはいたゞきに

ああわが手に銀の杖鳴りて→を鳴らし ふり鳴りて

雪ふる空に 鳥を薰

淚ぐましき一念をもて

眞冬をこゑて

ひそかに十字をきりあ ぐる、

光る氷を かみ 喰みくだく

一念無想の瞳をとづる

飢えもこゞゑも しだい ひそかにかたる

いま 名殘の瞳をとづる、

ひそかに十字をきりむすびしつつ

いまはや

淚ぐましき夕餐とはなる。

 

 

  聖地巡禮

    巡禮紀行

 

きびしく凍りて

指ちぎれんとすれども

杖はいただきにするどく光る

七重の氷雪

山路ふかみ

わがともがらは一列に

いためる心、山路はざまたどる。

 

みよ、疾行しきたるものは飢えし狼

しだいによもを望むれば

遠き地平をこゑ

疾行し〉黑き具冬をこえてさけび□震りつす

地平 ああ靈 感の 北光 極光を

  ああ□靈の狼ら微光飢慾の狼

至烈

  みよ 極地聖地靈感の狼

[やぶちゃん注:以上の「ああ」及び「みよ」の二行は「至烈」の下方に並置。]

いの 哀しみ哀しみはがみなし

飢えかつえ

にくしんの金屬をもとめて疾行しを硏ぎてもとむるものを

息絕えんとしてかつはしる、

ああ、→みよ わがみよともがらはいたゞきに

みよやわが手に銀の枝鳴りわたり

雪ふる空に鳥を薰じ

淚ぐましき夕餐とはなる、

 

以上から、私は底本は初出だけではなく、草稿をも参考したのではないかと思う。それが強く疑われるのが、七行目の「いためる山峽(はざま)たどる。」で、これは初出も「いためる心山峽(はざま)たどる。」である。されば、これは小学館の編集者は草稿二種をも参考にした際、「心」が孰れも下方の削除部分に含まれると判断した結果ではあるまいかと思うのである。しかも、この「心」の除去は必ずしも詩篇を意味不明のものにするよりも、一見、前の「わがともがらは一列に/いためる山峽(はざま)たどる。」と、意味上の躓きを齎さないかのように読めてしまうからである。しかし、「心」がないと「いためる」は「損(いた)める山峽(はざま)」ということになり、「ともがら」の心境を、少なくとも直には示さない点で(但し、暗示的感知は可能である)、やはり「心」は必要である。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 厩

 

  

 

高原の空に風光り

秋はやふかみて

鑛脈のしづくのごとく

ひねもす銀針(ぎんばり)の落つるをおぼえ

ゆびにとげいたみ

せちにひそかに

いまわれの瞳の閉づるを欲す。

 

ここは利根川、

その氾濫(はんらん)のながめいちじるく

靑空に桑の葉光り

さんらんとして遠き山里に愁をひたす

あはれ、あはれ、われの故鄕(ふるさと)にあるなれば

この眺望のいたましさ。

眼もはるに見ゆ。

村落の光る厩(うまや)のうへに

かがやく愛の手は伸びゆきて

われの身は銀の一脈

ひそかに息(いき)づき生命(いのち)はや絕えなんとする。

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年九月七日の制作とし、同年翌十月発行の『地上巡禮』(第一巻第二号)初出とするが、筑摩版全集でも初出は同じ。初出形を示す。

 

  厩

 

高原の空に風光り、

秋はやふかみて、

鑛脈のしづくのごとく、

ひねもす銀針(ぎんばり)の落つるをおぼえ、

ゆびにとげいたみ、

せちにひそかに、

いまわれの瞳の閉づるを欲す。

 

ここは利根川、

その氾濫(はんらん)のながめいちじるく、

靑空に桑の葉光り、

さんらんとして遠き山里に愁をひたす、

あはれ、あはれ、われの故鄕(ふるさと)にあなれば、

この眺望のいたましさ。

眼もはるに見ゆ。

村落の光る厩(うまや)のうへに、

かゞやく愛の手は伸びゆきて、

われの身は銀の一脈、

ひそかに息づき生命(いのち)はや絕えなんとする。

             ―九月七日―

 

同一稿と推定する。大きな違いは「あんなれば」と「あなれば」であるが、これは、同一の連語で、動詞「あり」(在・有)の連体形に伝聞推定の助動詞「なり」の付いた「ありなり」の音便形「あんなり」の「ん」の無表記である。但し、中古より、この「なり」は断定の意でも使用例が普通にあり、ここもそれである。小学館の編者によるお節介な消毒であろう。なお、掲載誌『地上巡禮』は北原白秋によって、まさにこの前月に創刊されたものであった。筑摩版年譜によれば、この『『地上巡禮』をはじめ、當時の雜誌に室生犀星、大手拓次、朔太郞が肩を竝べて作品を發表したことから、「白秋麾下の三羽鴉」と呼ばれたという』とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 遍路道心 / 偏狂

 

  偏   狂

 

あさましき性のおとろへ

あなうらに薰風ながれ

額に綠金の蛇住めり

ああ我のみのものまにや

夏ふかみ山路をこゆる。

かなしきものまにや

のぞみうしなひ

いつさいより靈智うしなひ。

さびしや空はひねもす白金

はやわが手かたく合掌し

瞳はめしひ

腦ずゐは山路をくだる。

ああ 金性の肉のおとろへ

みやま瀧ながれ

靑らみいよいよおとろふ

いのれば銀の血となり

肉やぶれ谷間をはしる。

金性のわがものまにや。

               ―吾妻山中にて―

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年五月発行の『詩歌』初出とするが、筑摩版全集では、大正三(一九一四)年九月号『詩歌』初出とするので、底本の書誌は誤認であろう。初出を示す。

 

 偏狂

 

あさましき性のおとろへ、

あなうらに薰風ながれ、

額に綠金の蛇住めり、

ああ我のみのものまにや、

夏ふかみ山路をこゆる。

かなしきものまにや、

のぞみうしなひ、

いつさいより靈智うしなひ。

さびしや空はひねもす白金、

はやわが手かたく合掌し、

瞳(め)はめしひ、

腦ずゐは山路をくだる。

ああ 金性の肉のおとろへ、

みやま瀧ながれ、

靑らみいよいよおとろふ、

いのれば銀の血となり、

肉やぶれ谷間をはしる。

金性のわがものまにや。 ――吾妻山中にて――

 

最後の添え辞位置は、ママ。既注であるが、同年の前月、四万温泉積善館に避暑している際の詠。読点・読みの除去及び添え辞位置の変更は小学館版編者によるもので、同一稿であろう。但し、「め」のルビの除去はいただけない。]

2021/10/23

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女

 

[やぶちゃん注:目次では「虛舟の蠻女」。「うつろぶねのばんぢよ」。琴嶺舍滝沢興継の発表であるが、例によって、馬琴の代筆である可能性が高い。私は既にサイト「鬼火」のホーム・ページ上に「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーンの『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』として私の高校教師時代のオリジナル授業案の冒頭に電子化しているが(二〇〇五年)、今回は画像も注も改めてブラッシュ・アップした。実際に横浜緑ケ丘・横浜翠嵐・藤沢総合高等学校で古文の授業として実践したもので、最初の授業は二〇〇四年以前に行ったものと記憶している。この話は、小学校高学年頃に、子供向けに書き直したものを読んで、高校時代に元の本篇を読み、それ以降、ずっと気に入っていた作品である。二〇〇四年当時は、一部の出版物で民俗学的史料としてあった以外は、概ね江戸時代のUFOの漂着事件として「キワモノ」的に扱われていたに過ぎなかったが、教員になった一九七九年以来、ずっと関心を持ち続けていたものであった。現在は、種々の民俗学的考証が行われるようになった。古いものでは、柳田國男の「うつぼ舟の話」(大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された)が良く知られ、それは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で全七回で電子化注してある(関連した柳田國男の「うつぼ舟の王女 (全) 附やぶちゃん注」(昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された)も電子化してある)。「キワモノ」性が好まれ、ネット時代に入ってからは、多くの記事が散見されるようになり(一部は後注で示した)、学術的には、岐阜大学名誉教授田中嘉津夫(かずお)氏(但し、専門は光情報工学)「うつろ舟」伝説研究の第一人者として知られ、二〇〇九年に加門正一のペン・ネームで『江戸「うつろ舟」ミステリー』(楽工社刊)を出版されているものが、刊行物として第一次史料となろうか(田中氏の研究紹介は当該書の刊行直後にテレビで見たが、手頃なものでは、サイト「ニッポンドットコム」の『UFOと日本人:江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って』(二回連載)がよい。但し、私は未見である。ただ、買いそびれているだけである)。正直、二〇〇〇年以降(私が自身のサイトを作ったのは二〇〇五年六月である)の本件のネット上での氾濫を見るに至って、その瞬間、「人が盛んに云々し出したものをことさらにディグするのは、ちょっと厭だな」と感じた。しかし「これではいかん」と思い立って作ったのが、上記の授業案であった。今回はその授業案をベースにしつつ、当該事件の別記事なども注で電子化して添えおくこととした。今回は底本に従い、段落は成形しなかった。但し、句読点は今まで通り、適宜、追加・変更してある。太字は底本では傍点「ヽ」。最後に言っておくと、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って、漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人で、UFO研究もどきを、やらかしていた人間である。三島由紀夫も入会していた日本最初のUFOの研究団体であった旧「日本空飛ぶ円盤研究会」の主宰者であった荒井欣一氏に友人の目撃報告書を提出し、お礼の手紙を頂戴したこともある。]

 

   ○うつろ舟の蠻女

享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、當時、寄合席小笠原越中守【高四千石。】知行所常盤國「はらやどり」といふ濱にて、沖のかたに、舟の如きもの、遙に見えしかば、浦人等、小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけて、よく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)[やぶちゃん注:「盒」のみのルビ。「かうばこ」。]のごとくにして、まろく、長さ三間あまり[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]をもて、塗りつめ、底は鐵の板がねを、段々(ダンダン)、筋のごとくに張りたり。海巖[やぶちゃん注:「かいがん」で岩礁・暗礁のこと。]にあたるとも、打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隱れなきを、みな、立ちよりて見てけるに、そのかたち、異樣なる、ひとりの婦人ぞ、ゐたりける。

  その圖、左の如し。[やぶちゃん注:二字下げはママ。]

 

Uturobune

 

Bajyo

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。今回は大きなサイズで取り込み、清拭も周到に行った。実際には右下方に「うつろ舟」、その左上に「蠻女」の絵が配されてあるが、分離して見易いようにした。キャプションは、「うつろ舟」の方が、右下方から時計回りで(カタカナをひらがなにした)、

「鉄にて張りたり。」

これは、本文によって、円盤状ヴィークルの外側の底が鉄板を何枚も段々になるように張り合わせた構造であることを指す。図を見ると、黒い部分に大形の釘、或いは、ボルト状の打ち込みのようなものが確認出来る。因みに、ボルト・ナットは西洋では一七〇〇年代半ば以降の産業革命によって既に普及していた。

「長さ三間餘。」

これは直径。

「硝子障子。外は『チヤン』にて塗りたり。」

とあるが、この「外」とは本体上部のガラス障子の組み込まれた、その辺縁部の接合箇所(図の二重線になっている箇所)を指しているものと私は採る。

最後に、右上方に驚くべき奇体な四種の記号のような文字を、四つ、縦に別に添え描きして、指示線を添え、

「如此、蠻字、舩中に多く有之。」

(此(か)くのごとき、蠻字(ばんじ)、舩中(せんちゆう)に、多く、之れ、有り。)とある。次に「蠻女」の方は、右側腰の辺りに指示線をして、

「『ねり玉』、青し。」

とある。「ねり玉」とは、練り物で作られた飾り玉で、薬物や卵白(但し、それを用いた「明石玉」の発明は本篇時制より後の天保年間(一八三一年~一八四五年)以降とされる)のを練って固め、或いはそれらを繊維に染み込ませて丸め、珊瑚や宝石に似せた飾り玉、或いは、そのように見える立体的な玉状の浮き模様の服装飾である。

左上方に、髪の様子を、

「假髻、白し。何とも辨しかたきものなり。」

とする。これは「假髻(すゑ)、白し。何とも、辨じがたきものなり。」で、「假髻」(すえ)とは元は奈良・平安時代に女性の髪を豊かに見せるために添えた他者の髪で作った添え髪のこと。「髻」 は単独では「たぶさ」で、「頭髻(たきふさ)」の変化したものかとされ、髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。「もとどり」とも称する。後半は、白髪のそれは(白髪の入れ髪自体が特殊であったろう)特異なもので、何で出来ているのか、判別出来なかった、則ち、人毛製ではない、ということを意味している、と私は読む。

左に指示線を添え、

「此箱、二尺許四方。」

(此の箱、二尺許(ばか)り四方)で、約六・〇六センチメートル四方の四角い正方形の箱としかとれないが、図のそれは御覧の通り、長方形の箱であって不審。寧ろ、後で掲げる後代の随筆「梅の塵」の図の箱の方が、このキャプションに相応しい。]

 

そが眉と髮の毛の赤かるに、その顏も桃色にて、頭髮は假髮(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり【解、按ずるに、「二魯西亞一見錄」「人物」の條下に云、『女の衣服が筒袖にて、腰より上を、細く仕立云々』。『また、髮の毛は、白き粉をぬりかけ、結び申候云々』。これによりて見るときは、この蠻女の頭髮の白きも、白き粉を塗りたるならん。魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ、考ふべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。そは、獸の毛か、より糸か、これをしるもの、あることなし。迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。音「テツ」。]言語(コトバ)の通ぜねば、「いづこのものぞ」と問ふよしも、あらず。この蠻女、二尺四方の筥[やぶちゃん注:「はこ」。]を、もてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくも、はなさずして、人をしも、ちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢[やぶちゃん注:「けみ」。]せしに、

[やぶちゃん注:以下、「食物あり。」までは、底本では全体が二字下げ。]

水二升許、小甁に入れてあり【一本に、二升を二斗に作り、小甁を小船に作れり。いまだ、孰か[やぶちゃん注:「いづれが」。]、是[やぶちゃん注:「ぜ」。正しいこと。]を知らず。[やぶちゃん注:この割注は「一本」から、本話のソースが、少なくとも二つはあったことを明らかにしている。]】。敷物、二枚あり。菓子やうのもの、あり。又、肉を煉りたる如き食物、あり。

浦人等、うちつどひて評議するを、のどかに見つゝ、ゑめるのみ。故老の云、「是は、蠻國の王の女の、他へ嫁したるが、密夫ありて、その事、あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに、王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虛舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を、天に任せしものか。しからば、其箱の中なるは、密夫の首にや、あらんずらん。むかしも、かゝる蠻女の、うつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしこと、ありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる、人の首の、なまなましきが、ありけるよし、口碑に傳ふるを、合せ考ふれば、件[やぶちゃん注:「くだん」。]の箱の中なるも、さる類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]のものなるべし。されば、蠻女が、いとをしみて、身をはなさゞるなめり。」と、いひしとぞ。「この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば、突き流したる先例もあれば。」とて、又、もとのごとく、船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ、推し流したり、となん。もし、仁人の心をもてせば、かくまでには、あるまじきを、そは、その蠻女の不幸なるべし。又、「その舟の中に、□□□□[注:先に出した「うつろ舟」の図の右上方に書かれた四文字が入る。但し、底本では上から二文字目の文字が異なり、「王」のような字の「王」で言うと、三画目の右手から四画目の右端に繋がる線で描かれている。底本の単なる誤りに過ぎないと思われる。後に述べる「弘賢随筆」の同一内容の本文では、このような異同はないからである。等の蠻字の多くありし。」といふによりて、後におもふに、ちかきころ、浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字、ありけり。かゝれば、件の蠻女は、イギリスか、もしくは、ベンガラ、もしくは、アメリカなどの、蠻王の女なりけんか。これも亦、知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖說共に、疎鹵[やぶちゃん注:「そろ」。おろそか。疎漏。粗略。]にして、具(ツブサ)ならぬを憾[やぶちゃん注:「うらみ」。]とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:「享和三年癸亥」(みづのとゐ/きがい)「二月二十二日」この年は閏一月があったため、一八〇三年四月十三日に相当する。この頃は、幕藩体制の解体が進み、対外情勢の緊迫に伴い、国是の鎖国政策そのものが動揺をきたし始めた頃に相当する。この七年前の寛政八(一七九六)年九月二十八日には、英国船プロビデンス号が松前藩領下の絵鞆(えもと:現在の室蘭)に来航し(ロバート・ブロートン船長は松前藩医加藤肩吾と地図を交換し、十月一日に出港、千島列島のシムシル島に到達したが、厳冬のため、マカオに向かい、冬を越すことにした。翌年五月十七日に沖縄の宮古島沖で座礁沈没するが、マカオで体制を整え、八月十二日に、再び、室蘭を訪れ、港内の測量を行っている。ブロートンは帰国後、「北太平洋探検の航海」を出版し、有珠山や駒ケ岳の様子から「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、蝦夷地に良港があることを世界に広めた。また、絵鞆アイヌとも交流し、その風貌・生活習慣・和人との関係などを随所に書き残している。さらに、ブロートンはヨーロッパ人で初めて津軽海峡を横断、蝦夷地が日本の島であることを実証している。以上は「まちぶらNAVI 室蘭市」のこちらのページの「鎖国時代に英国船が入港していた」を参照した)、翌年の文化元(一八〇四)年九月には、ロシアからの使者ニコライ。レザロフが長崎に入港、通商を要求してくるのである。異人の女の漂着奇談が、まさに開国の機運がここに切って落とされた頃のことであるのは、甚だ興味深いと言えよう。なお、本発表は文政八(一八二五)年十月二十三日であるから、二十二年前と、かなり古い。

「寄合席」「旗本寄合席」(はたもとよりあいせき)。旗本の内で番方・役方に就かない者の呼称。禄高三千石以上が基本であるが、例外もある。「席」は「地位」の意。

「小笠原越中守」ちょっと内容が、新事実の登場のフライングになるので、迷ったが、示すこととする。優れた本事件の研究サイトの一つとして、昔からよく読ませて貰ったサイトに「やじきたcom.」の「江戸時代の浮世絵にUFO? うつろ舟の謎」がある。admin氏の著になる全九回で、私の所持しない資料も細かに考証してあって、頭の下がる数少ない本事件サイトである(本事件サイトの多くは、オカルト系の記者が多く、古文献の判読が出来ないのに、史料だけをバンバン貼り付けて、面白く感じながらも、誤りが致命的にひどいものが、これ、甚だ多く、この事件から、一時、距離を置いたのは、そうしたいい加減さが目に余ったからでもあった。しかし、そういう点では、このadmin氏の考証はディグの仕方が正鵠を得ており、殆んど、文句の言いようがないほど優れているので、早晩、紹介しない訳には行かないので、ここでリンクした。そのシリーズの第五回「■事件は常陸の国ではなかった?」で、admin氏がこの人物を突きとめておられるのである。小笠原越中守宗昌(むねのり)で、四千五百石、知行地は伊勢と常陸とある。しかし、admin氏は、そこで、『常陸の国での小笠原越中守の知行地は、実は内陸部であって、沿岸部ではない』とするのである。しかして、房州(安房)を知行した小笠原安房守正恒という人物が示されてくるのである。……しかし……ここは常陸であって、安房ではない……ここに新発見の候補地がクロース・アップされて、admin氏の怒涛の「蛮女」の追跡が始まるのである……或いは、そのままadmin氏のシリーズを読まれた方が面白いかとも思うが……まあ、どちらを選ばれるかは、読者にお任せしよう。

「知行所」旗本が支配地として給付された土地。但し、支配地とは言っても、実際に赴くことは稀れであった。但し、知行地内での事件(本件も、当然、含まれる)・不始末については、定期的に人を遣わして調べておかないと、由々しき事態では管理不届きとして罰せられることもあった。

「常陸國」現在の茨城県。

「はらやどり」後掲する酷似した話を載せるずっと後の随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序)では「原舍濱(はらとのはま)」と記載する。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名としては孰れも存在しない。但し、先の二〇〇五年の授業案では、『最近、大洗と鹿島の中間地点のある大竹海岸に、この話をもとに遊具を兼ねた円盤形のモニュメントが作られた』(後に撤去されたようである)。また、『インターネット情報では、子生(こなぢ)海岸という』『かなり』『を発見した。この』場所は、『そのモニュメントが』あった『海岸から北へ五、六キロ行った場所であ』り、『海岸線を辿っていくと、そこが』その『子生海岸』で、『ここには子生弁天があって、ここにお参りすれば子供を授けてくれると、古くから信じられているという』(当時の内田一成氏のサイト内に拠った)『とあって、伝承といい、名称といい、これは同定としては極めて信憑性が高いと思われる』と記した。そのライター内田一成氏の姓名から、現在の内田氏のブログ「レイラインハンター日記」の「はらやどり浜と子生(こなぢ)弁天」を見つけた。それによれば、

   《引用開始》

 この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。[やぶちゃん注:中略。]

 かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。[やぶちゃん注:中略。]

 はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。

 子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命[やぶちゃん注:「いちき(いつき)しまひめのみこと」。]で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。

 国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。[やぶちゃん注:中略。]

 周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るという[やぶちゃん注:脱字があったので補正した。]考え方も風水の発想と同じだ。

 はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。

   《引用終了》

なんとなく懐かしい旧友に逢えたような感じがした(但し、私はレイ・ラインについては強く懐疑的である。メルカトル図法を始めとして我々の使用している普通の地図上の直線は実際には厳密には直線ではないし、任意の地点から無作為に地図上に直線を引けば、特定の擬似共時対象の施設・地形・伝承を、その線上や周辺に「ある」とすることは実は誰にでも可能で、ごく簡単に出来てしまうことだからである。私の知人にもそうしたレイ・ライン信望者が複数いるが、黙って笑って聞き流すことにしていることは言っておく)。内田氏の記載に従って調べて見ると、茨城県鉾田市の大竹海岸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、ここから海岸線を六キロ半ほど北へ行ったところが、子生(こなじ)(子生郵便局が確認出来る)の海岸域で、地図上では内陸の子生地区の南の端の東方の海岸が野田海岸、同地区の北の、内田氏の指摘される厳島神社の真東の海岸が玉田海岸である。同社地図のサイド・パネルのこちらの写真の說明板によれば、『承暦弐年』(一〇七八年)『安藝の宮島より勧請せしと言われて』おり、『享保弐年』(一七一七年)『領守岩田廣道奉る神鏡の刻文に世々相伝されて』あり、『「安産をこの神に祈らば則ち安泰なり」故に子生村と号すと言い伝えられており、領守崇敬の神社である』とある。

 さて、以下、私は授業案では、《地名の表記に隠されたもの》と題して、

――実はさりげないこの表記にこそ、この話の内包する民俗学的或いは諧謔的な意味が隠れていはしないだろうか。まず、「常陸」は「常盤」「常磐」「ときは」で、本来、実在の地名ではなく、中世の草子や説経節等の語り物などに出現する、この世ならぬ国を示すことに注意しなくてはならない。それは、戌亥(北西)の方角に存在し、そこには祖先の霊がおり、富や豊饒をもたらしてくれるユートピアと考えられた。「常陸」=「ときは」とは「常にその性質を変えずに存続し続ける岩石」の意味であるが、「常」の字の共有から「常世」と混同され、ほぼ常世と同意に用いられたと考えられているのである。すなわち、この伝承自体は、この世の事ではない「常世」の国の出来事として、本来、作話された可能性があるということである。そう読んだ時、「はらやどり」という名称も、妙に気にかかるのである。「はら」は「やどり」との関係から考えて「腹」であり、これはまさに「うつろ舟の腹(内部)に宿っていた(乗っていた)」女が』(誕生する=)『上陸するに格好な名称ではないか。先に紹介したインターネット情報で子生海岸を同定した内田氏は、そこで、『子生の弁天様にお参りして、子供が腹に宿る。まさに「はらやどり」そのままではないか。兎園小説がまとめられてから二〇〇年あまり、「はらやどり浜」は鹿島灘のどの海岸を指すのか謎だったわけだが、それが、いともあっさり解明されてしまった。もっとも、それをまた検証してみなければ、はっきりと解明されたとはいえないわけだが、謎解きは、得てして、そんな風に気抜けするほど、悩みに悩んだ答えがあっさり見つかったりするものだ。それに、「はらやどり浜」=「子生浜」という図式は、自分の中で正解だという手ごたえが感じられる』と述べておられたのであるが、逆に、そのような子宝伝説のもとに、この「うつろ舟の蛮女」の伝説が作話されたと考えることも出来よう(これは勿論、子生の弁天の由来の考証をする必要がある)。――馬琴は稀代の戯作作家である(本作を私はまさに馬琴の代作と考えている。その根拠は頭書と地の文の相補性と文体の連続性である)。恐らくこのような民俗学的な言語パロディを面白く思っていたに違いない。しかし、考証オタクでもあった彼は、書くうちに現実的解釈を続々と追加してゆく。その中で、彼はこれを事実の物語と変成させてゆくのである(明らかに後代の作品である「梅の塵」が完全な事実談として記載しているのは、まさに、この江戸の都市伝説が信じられる噂話として変化していったであろう証である)。――誤解してもらっては困るのだが、私はこの話をフィクションだと言っているのではない。まさにこのエピソードは、虚実皮膜の面白さと、その後の典型的な流言の変遷過程を示す格好の資料という側面を、まずは持っていると言える、ということを確認したかったのである。民俗学的考察や心理学的分析とは、そのようなパラレルなものであることを知ってもらいたいのである。――(一部を改変した)

と教え子の高校生に向けて述べたが、その気持ちは今も変わらない。

 しかし、その後、別に新たな有力な新候補地が出現した。

 二〇一四年五月二十六日附『茨城新聞』の『UFO「うつろ舟」漂着地名浮上 「伝説」から「歴史」へ一歩』という記事(鹿嶋支社・三次豪記者)に(私の蒐集したネット・アーカイブから)、『江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない』。『「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した』(中略)。『それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字』(じあざ)『としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある』。『現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある』。『田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い』(以下略)とあって、別な候補地が出現しているからである。この記事には別な同じ『茨城新聞』の先行記事(同じ三好記者)があって、当該新発見の記録には、『漂着地は「常陸原舎(ひたちはらしゃ)り濱(はま)」と記されている。江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)に当たる』。所持しておられる『川上さんは「先祖は参勤交代の警備などにも当たっていた。江戸時代の外国船が入ってきたころに、各地の情報や風聞などを集めた文書の一つではないか」と話』し、田中氏によれば、『紙や筆跡から』、『江戸末期から明治時代に書かれた文書で、最後に』「亥(い)の年」(享和三(一八〇三)年)『二月二十六日」と書かれ、これまでの史料の中で最も古い文書か、またはその写しとみられる。過去に見つかった史料でも、漂着したのは同年222日とある』。『新史料の漂着地は「如斯(かくのごとき)の船常陸原舎り濱と申す處(ところ)」と実在地名が記されているが、過去の史料には地図などで一致する地名はなく、ばらつきもあった』。『日立市内で2012年、江戸時代の海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家で見つかった史料は「常陸原舎濱」、兎園小説は「はらやどり濱(原舎濱)」となっていた』。『田中名誉教授は「実在の地名『常陸原舎り濱』が、伝言ゲームのように間違って伝わったのではないか」と分析する。新史料について「これまでの色々な文書、伝説の元になった文書の可能性が高い」とみている』。『新史料のそのほかの内容は過去の資料とほぼ同じ。奇妙な円盤型の物体の絵や記号のような奇妙な文字、変わった衣装を着た女性の絵など描かれ、不思議な物体が流れ着いたという事件について記されている』とある。

 その新候補地である神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさきしゃりはま)は、ここである。御覧の通り、犬吠埼に近い場所である。サイド・パネルには二〇一八年に投稿されたナマ臍出しの妖艶な女性とカップ・ラーメンみたような奇体な漂着再現写真があるぞ!

 確かに「原舍濱」(はらしゃりはま)の文字列は「はらやどり」(「腹舍(はらやどり)」)と読んだとしても突飛とは言えない。寧ろ、私は後者で訓読してしまうかもしれない。但し、かといって、私は、以下の理由から、これが決定的なロケーションだと安易に賛同することはとても出来ない。田中氏はそこで『江戸末期から明治時代に書かれた文書』と鑑定しており、後者であれば、逆にこれが氏の言う『伝言ゲーム』によって、後に派生した、作り替えられた後代の代物の一つの写しに過ぎない可能性を排除出来ないからである。しかも、『舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう』となると、この漁師らによる発見・引き揚げ・当地の漁民らによる集団議論・突き放しという、本話のモブな騒擾的シチュエーション自体が非現実的なものとして、逆に信じられなくなるからである。

「香盒(ハコ)」正しくは、これで「かうがふ」(こうごう)と読み、香料を入れる容器を指す。漆塗・蒔絵・陶器などがある。但し、「香合」「香箱」とも言うので問題はない。円盤状を成す。

「チヤン(松脂)」通常は瀝青炭を指すが、この頃は同様な充填・塗装材として用いる松脂もこのように言ったのであろう。瀝青は「chian turpentine」の略とされ、タールを蒸留して得る残滓、又は、油田地帯などに天然に流出固化する黒色、乃至、濃褐色の粘質物質、又は、固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いる「ピッチ」を指す(「広辞苑」に拠った)。

「假髪」図の私の注を参照。髪を結う時に添え入れる髪。いれげ。鬘(かつら)の一種である。

「解」「とく」で滝沢馬琴の本名。もとは「興邦」(おきくに)と言い、後に「解」と改めた。

「二魯西亞一見錄」作品を同定出来なかった。但し、思うに最初の「二」は「按ずるに」の「に」の衍字ではないかと私は思う。しかし、この文字列の「魯西亞一見錄」というのは見当たらず、「魯西亞見聞錄」という書名をネットでは見出せるが、これもまた、今回も、この正確な書誌情報を見出すことは出来なかった。

「筥」「はこ」と読めるが。本来、この字は、四角い箱の意味の「筐」の対語であって、「筒状の丸い箱」を指し、図のそれとは異なる。

「菓子やうのもの」パンかクッキー様のものであろう。

「肉を煉りたる如き食物」腸詰(ソーセージ)の類か、もしくは、レバー・ペーストであろうか。保存食ならば、燻製肉か干肉であろうが、「煉」は「ねる」であって、そのような意味はない。

「虛舟(ウツロブネ)」は「うつほぶね」「うつおぶね」等とも表記する。漢字は「空舟(船)」とも。本来は、「大木の中を刳り抜いて造った丸木舟」を指す。但し、ここでは、中が中空になった海上に浮かぶ舟様の建造物を言っている。

「雜費も大かたならぬ」このような事件の場合、幕府からやって来る官憲の出張や、その接待の費用は、総て現地の人々の負担となった。寒漁村にとっては、大いに迷惑であったのである。

「ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船」「兎園小説」成立の一八二五年より以前で、このような事実を調べると、文政元(一八一八)年五月(文化十五年は四月二十二日に改元)のイギリス人ゴルドンの浦賀来航を指していると思われる。「打払令」によって撃退(イギリス船と誤認)された著名なアメリカの商船モリソン号の来航は天保八(一八三七)年六月二日のことであって、違う。

「歇(カヽ)りたる」この字は「やむ」「つく」としか訓じないが、この字の「やすむ」「とどまる」の意味で、「繋留」の「繋」の訓を借りたものと思われる。

「ベンガラ」縦糸が絹糸、横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。

 

 ここで、話をスムースに続ける関係上、何度か言及した、同じ事件を記した随筆「梅の塵」(梅乃舎主人(長橋亦次郎)著・天保一五(一八四四)年自序。「兎園小説」の本篇の発表の文政八(一八二五)年十月二十三日から十九年後)を吉川弘文館随筆大成版(第二期第二巻所収)のそれから、例の通り、漢字を恣意的に正字化して示す。図も新たにトリミング補正し、清拭した。句読点は私が追加・変更し、一部に私の推定読みを《 》で歴史的仮名遣で補った。丸括弧のものは原本のルビである。なお、著者は長く本名不詳・事績不詳であったが、ネット上の信頼出来る書誌データには上記の名前だけはやたらに確認出来る。同書は無窮会専門図書館蔵ともある。しかし、それ以外の長橋亦次郎なる人物は未だにやはり不明である。

   *

    ○空船の事

 

Umenotri

 

享和三年三月二十四日、常陸の國原舍濱(はらとのはま)と云《いふ》處へ、異船、漂着せり。其船の形ち、空(うつろ)にして、釜の如く、又、半《なかば》に釜の刄《は》[やぶちゃん注:見ての通り、羽釜の袴のこと。]の如きもの、有、是よりうへは、黑塗にして、四方に窓あり。障子は、ことごとく、チヤンにて、かたむ。下の方に筋鐵(すじかね)をうち、何《いづれ》も、南蠻鐵の最上なるもの也。總船《さうせん》の高さ、一尺貳寸[やぶちゃん注:三・六四メートル弱]、橫(よこ)、徑(さしわたし)一丈八尺[やぶちゃん注:約五・四五メートル。]なり。此中に、婦人、壱人ありけるが、凡《およそ》、年齡二十歲許《ばかり》に見えて、身の丈、五尺[やぶちゃん注:約一・五一メートル。]、色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後《うしろ》にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計《いふばか》りなし。身に着《つけ》たるは異(こと)やうなる織物にて、名は知れず。言語は、一向に、通ぜず。また、小《ちひ》さ成《なる》箱を持《もち》て、如何なるものか、人を寄せ付《つけ》ずとぞ。船中、鋪物(しきもの)と見ゆるもの、二枚あり。和らかにして、何と云《いふ》もの乎《か》しれず。食物は、菓子と思鋪(おぼしき)もの、幷《ならび》に煉《ねり》たるもの、其外、肉類あり。また、茶碗一つ、模樣は見事成る物なれども、分明(わか)らず。「原舍(はらとの)の濱」は、小笠原和泉公の領地なり。

 

■やぶちゃん注

 この「梅の塵」の方は、記載量が少なく、事後のことも記載しない不完全なものであるが、幾つかの必要条件としての基本情報に決定的違いが見られ、また、微妙に「兎園小説」の不明部分を補完しているとも言える。その点で、これは「兎園小説」とは別ソースの同話の情報・記録・風聞から得たものとも思われる。

・「三月二十四日」:「兎園小説」の二月二十二日より三十二日後で、グレゴリオ暦では五月十五日である。

・「舟の高さ一尺弐寸」:「兎園小説」にはない貴重なデータである。

・「橫徑一丈八尺」:単位が異なるだけで、「兎園小説」と一致する。

・「凡、二十歲許」:新情報。

・「身の丈、五尺」これも「兎園小説」にはないデータ。

・「色白き事、雪の如く、黑髮あざやかに、長く、後にたれ、其(その)美顏(うつくしきかほ)なる事、云計りなし」「兎園小説」とは髪の描写が全く異なる。言語を絶する美人であったことを記している点にも、着目すべきである。但し、決定的相違点に見える髪の描写も、私は、当時、ヨーロッパで男女に普通に流行していたシルバーの鬘(かつら)に着目した「兎園小説」と、その下に流れ垂れている実際の長い髪に着目したのが本編と考えるならば、必ずしも違和感はないように思う。

・「鋪物」敷物。これに限らず、総じて「兎園小説」よりもヴィークルと謎の女の観察が行き届いていて、こちらの方がリアリスティクに記されてある。恐らくは高級なベルベットかタペストリー状の厚い織物であったのであろう。この女性の高貴な出自を感じさせる重要なファクターでもある。

 

 さて。ここで、以下に私の授業案の考証部を一部改変して記す。

   *

《海上に不時着した「空飛ぶ円盤」?――「うつろ舟」の形状》

 超常現象を否定する識者も、やや、この「うつろ舟」の形状には頭を悩ますに違いない。以上「梅の塵」と合わせて見ても、これがまさにUFOの定番の如き「空飛ぶ円盤」状を成し、その直径五メートル四、五十センチメートル内外、それに比例させて、人が入れることを考慮すると、「梅の塵」の方に高さ約三メートルとあるのは物理的に腑に落ちる数値で、実際に作図して見ると分かるが、「梅の塵」が載せている円球状ではなく、実は「兎園小説」の図以上に、お約束的な横にスリムな円盤状となるのである。更にご丁寧にも「梅の塵」の図ではフライング・ソーサー染みた周辺翼(はかま)も付属した、かなり巨大なものなのである。

 かくの如き船型は、それこそ現代のエアー・バルブの大型救命ゴム・ボートにならあるが、古来の伝統的な通常の洋船・和船には見られないものである(樽船や「たらい船」があるが、このように上面を完全に覆った円盤状のものは、少なくとも私は寡聞にして知らない)。

 但し、これが「兎園小説」の古老の言うように、刑罰を目的とした特殊なものであって、そのようなものが他国にあった可能性は否定出来ない気はする。

《白人美形の宇宙人は宇宙人とのコンタクティを称したジョージ・アダムスキーの逢った金星人? 「うつろ舟の女」は何者か?》

 しかし更に言えば、これは刑罰ではなく、ある種の宗教的儀礼に用いられる神聖な(従って実用的形状ではないと言える。当時の操船技術から考えても、この形状が航行可能な船舶の形状とは思われない)船、死者を異界へ流し送る精霊船(しょうりょうぶね)、或いは補陀落(ふだらく)渡海(以下で説明する)の僧を流したそれと同じようなものであった可能性もあると私は考えている。

 本邦でも、一時期、補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの漢音写)に向かって決死の船出をする、熊野以南の補陀落渡海信仰があった。屋形船の木製コンテナの中に幾ばくかの食物を入れて渡海の上人を釘で逃げられぬように密閉し、沖へと送り出したのである。実際に琉球に生きて漂着し、仏法を普及させた渡海上人もいる、実際に行われた無謀な信仰仕儀である。

 そしてそもそも、「古事記」の倭健命(やまとたけるのみこと)の神話中で、走水の海渡りの際、神を鎮めるために、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が彼に代わって入水した例に示されるように、古今東西、海洋系の神は、女の生贄を好むものなのである(船乗りが女性の乗船を嫌うのは、一見、逆に見えるが、これは後代、海神が弁財天のように女神化されたために、嫉妬すると考えられたからではないかと思われる。何より実際には、和船においては、古くから、航海の無事を祈って、船底に密かに祭られる呪物が、女性の髪の毛や陰毛であったりする事実は余り知られていない)。

 まさに女神の性質を感じさせる地名である「はらやどり」の村人たちが、自分達の村の平穏のために「推し流し」たように、この女性もそのような神への供儀として「推し流」されてきた者、一種の生贄の巫女(シャーマン)であったとさえ言い得るのではなかろうか? 今後は、このような民俗習慣がロシア辺り(後述する文字検証を参照)にあったかどうかを考証する面白さが残ると言えよう。

 私には、村人の談合を、黙って、ちょっと微笑みつつも見つめている寂しげな彼女の姿は、ある種の宗教的諦観に裏打ちされた、崇高とも言える美しくも哀しいシーンであるようにさえ、思われるのである。

《鉄人二十八号の金田正太郎少年の無線操縦機? タブーの箱は何?》

 彼女の所持する箱は、これ、最大の謎だ。しかし、二尺四方というのは、抱えるだけでもちょっと難儀な大きさではないか? 「梅の塵」では《小さな箱》と表現しており、もう少しコンパクトであったのかもしれない。私は前記のように彼女が巫女であったという推測から、これはある種の神文、或いは、呪具や、神への祝詞に類するものが封印されたものと考えるのだが、「兎園小説」の古老の《処刑された愛人の首》が入っているという考察は、なかなかに文学的浪漫的な味わいがあり、このエピソードを魅力的にしている最大の山場であろうと思う。しかし、同時に、それだけ、曲亭馬琴の創作部分の臭いが、プンプンしてくるところでもあるのである。この謎は、この「作品」の「文学的眼目」とも言えよう。この謎あってこそ、この話は永遠にエンターテインメントとして我々を楽しませてくれるのである。

E.T.の宇宙文字? 奇体な電子的記号にしか見えない蛮字の検討》

 次に、この図に見える奇態な文字について考察してみよう。

 そもそもこの絵自体の資料性は、「兎園小説」の図の婦人図のキャプションで「四方」と言いながら、指示線の先にある箱はトンデモ長方形をしている点や、ヴィークルの、かなり細部まで描き込まれてある船底の細部(ボルト状の構造物や鉄板の白黒の有意な描き変え等)についての説明が全くない点など、検討に値するものとは言えない面があるのであるが、作者滝沢興継自身(実は父馬琴)が、この字体に対して、後日、この字から強い現実的な考証の意欲を示しているわけで、作者のそのような興味を喚起するだけの、ある種の強い実際の西洋言語表記文字との「類似性」を、この図の文字は持っていたのだと考えざるを得ない。即ち、この字形は、いい加減に創作されたものではないと考えてよいと思われるのである。

 まず考えられるのは、これらが実見されて書かれたものであるとすると、当時の日本人の習慣から、船中に書かれた文字を、日本風に縦に見たに違いないと推理されるということである。とすれば、これは連続した意味ある単語ではなく(「等の蛮字の多くあり」という記述がそれを物語っている)、横書された各文字列の内、記憶に残り易かった特徴的な字(大文字或いは装飾性の高い字等)を選び出して、それを、知らずに☆横転☆させて写したものと考えるのが自然であろう。

 そうだとするなら、これらの文字は、横にして検証すべきなのある。

 「梅の塵」の記載では、船底にはベルベットかタペストリー状の敷物があったとあり、文字は船の下半分の内部側面に記載されていたと考える時、一層その妥当性が示唆される)。

 それでは、まずは次の二種類の文字を見ていただこう。

 

  Ж ж   Ф ф

 

如何であろう、記載された文字の中央の二字と極めてよく似ていると感じられるであろう。これは、それぞれ、ロシア語のキリル文字

  Ж ж

  ジェ(英語にはない。「ジェット機」の「ジェ」の音に相当する文字)

  Ф ф

  エフ(英語の「F」相当で、ギリシャ語のファイ(φ)由来の文字)

である。現代の日本人でも、英語にない、これらの英語にない字形は、初めて見ても、印象に残り易い。さらにその上下(両脇)の字も、同じくロシア文字の、

  Д д

  デ (英語の「D」相当。現代の若者はこれを絵文字に使っている)

  Я я

  ヤ (英語にはない。日本語の「や」、別発音では「い」に似た発音)

を、ゴシックのような装飾体や装飾された筆記体で記したものに似ているように思えるのである(このデルタ形の上下の○は装飾字体や草書のカーブ部分を感じさせる)。

 馬琴は文中、「イギリス船にも、これらの蛮字、ありけり」と英語の文字と同じものだと言っているのだが、装飾されたり、ゴシック体で書かれた英語のアルファベットは(それが全く異なった言語体系のロシア文字であったとしても)、それは日本人にとって恐らく全く同じ印象を与えたに違いないのである。ここに於いて、俄然、この女性の故郷がロシア又はその属国という馬琴の考証の確かさが伝わってくるではないか。

 ちなみに、面白いことにヨーロッパ・ロシア地域で、嘗つて頻繁に目撃されたとされるUFO(未確認飛行物体)の特徴の一つが、船底に「王」「Ж」の字を刻んだ円盤であったことを思い出すのである。ご丁寧に「ウンモ星人」という宇宙人の名前(?)も分かっている!? 例えば、サイト「ミステリーニュースステーションATLAS」の『イベントでUFO召喚にも成功!?様々なUFO事件に関わる「ウンモ星人マーク」とは』を参照されたい。そこでは本篇にも言及しているのである。但し、この写真は複数の学術的なUFO研究者によって、既に偽物と断定されている。しかし、心理学的・民俗学的には、「王」の字のようなこの奇体なマークをフェイクのUFOに仕込んだという点では、「空飛ぶ円盤」という大真面目な精神分析学書を書いている、かのユングの言う集団的無意識説から、別な興味が湧いてくる。

 ともかくも、二百年を隔てて、我々の前に同じ「王」のマークが出現した(偏愛する「ウルトラQ」の、「鳥を見た」で一の谷博士が言う台詞だ!)ことが、何だか、それだけで、ゾクゾクするキッチュな面白さを感じるではないか!

 それにしても我々は、常世から漂着する賜物を受け取りながら、その実、厄介になりそうなものを必ず海に「推し流し」て生きて来た。海洋汚染をし続ける現在も構造は同じである。そうして海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれるはずのニライカナイは、我々に望まざる返礼をしてくるとも言えるのではあるまいか?

   *

この最後の二十一年前の自分の考えは、全く変らない。それどころか、より激しく次のように言い換えたい。

 それにしても、我々は、常世から漂着する物・者を賜物(たまもの)として都合よく受け取りながら、その実、厄介になりそうなものは、必ず、海に「推し流し」て、生きて来たではないか! 海洋汚染をし続ける現在も構造は全く同じであり、もっと深刻である! 福島原発事故で生じた多量の高エネルギー核廃棄物である汚染水を、平然と、押し流そうしている日本人は、「はらやどりの浜」の漁民たちと、立ち位置に於いて、全く同じ、全く進歩していないどころか、遙かにタチが悪いではないか! そうして、かく海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれたはずの海の彼方のニライカナイは――我々に望まざる返礼――究極のカタストロフ――を齎す――とも言えるのではあるまいか?!

と。

 

 さて。これで終わっては、私の古い授業案の単なる焼き直しに終わってしまうことになる。そこで、以下、幾つかの本篇と同じ事件を扱ったものを画像で示し、且つ、電子化注して示し、比較したいと思う。

 まず、一つは、本篇が転載されてある、別な書物で、「兎園会」会員の江戸幕府御家人(右筆)で故実家であった輪池堂屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)が、後年、手元にあった雑稿を取り纏め、全六十冊に綴った随筆「弘賢随筆」のそれから始めよう。現在、その中の当該部である「うつろ舟の蛮女」は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」こちらで写本を見ることが出来、画像もパブリック・ドメインで使用許可が出ている。これは「兎園小説」の本篇を、ほぼそのまま、写した内容で、多少の表記の違いはあるものの、本文はほぼ同じであるから、電子化はしない(写しで崩し字だが、かなり読み易いのでご自身で読まれたい)。しかし、これが素敵なのは、図が彩色で描き直されてある点である。なお、本文の異同の内、注記すべき箇所は、

○「段々(ダンダン)」→「段〻(ダンダラ)」

○「頭髮は假髮(イレガミ)なるが」→「頭髻(タフサ)は假髮(イレガミ)なるが」

○馬琴によるものと思われる頭書はない。

○「檢せしに」→「檢(ケミ)せしに」

○「孰か是を知らず」→「孰か是(ヨキ)をしらす」

○「敷物二枚あり」で改行している。

○「蠻國の王の女」→「蠻國の王のむすめ」

○「虛舟(ウツロブネ)」→「虚(ウツロ)舟」

○「合せ考ふれば」→「合し考ふれば」

○私の推定した通り、本文に示された奇体な「王」の字みたような二番目のそれは、図と同じであることが判った(吉川弘文館随筆大成版の本文の画像組み込み時の誤りということになろう)。

○「アメリカ」「ベンガラ」「アメリカ」には傍点等はない。

○「蠻王の女」→「蛮王の女(ムスメ)」

○「憾」→「憾

である。以下に図を示す。トリミングをしてもいいようだが、所有者である「国立公文書館」の文字の入った全画面で示した。かなりサイズが大きいが、これでもダウン・ロードしたサイズを五十%に減量したものである。

 

Koukenzuhituuturobune

 

キャプションは表記上の若干の違いがあるが、注記すべきものではない。但し、婦人の絵は大いに異なる。まず、地毛は赤毛であり、垂れた鬘は真っ白である(「梅の塵」の著者が本書に本図を全く見ていないことが判る)。さらに、服の模様が全く描かれておらず、「ねり玉、青シ」の指示線は、上着の前の合わせ部分に複数認められる鈕(ボタン)の一つを明確に指していることが判る。「兎園小説」の図では、その指示線は上着のところで切れており、あたかも、その服の全体の模様の解説のように見えてしまう(私は前の図注では、そうした上下衣服全体にそれが及んでものとして注したのだが、これは「ねり玉」として鈕を指していることが判明する)。さらに、スカート様のものの裏地が赤いことと、靴の底の周囲がやはり赤いこと、箱は黄色或いは黄金色であることも判る。

 

 続いて、久松松平家の家臣で、幕閣老中筆頭を勤めた松平定信に三十年の永きに亙って仕えた駒井鶯宿(おうしゅく 明和三(一七六六)年~弘化三(一八四六)年:名は乗邨(のりむら)。彼は定信の先代の養父であった定綱系久松松平家松平定邦から定信・定永・定和・定猷(さだみち)に至る五代に仕え、それは延べ実に六十八年に及んだという)が広く書籍を渉猟して書写した膨大な叢書「鶯宿雑記」(文化一二(一八一五)年、鴬宿五十一歳の時の起筆で、その後三十年間で全六百巻を書き続けた)に載る本事件である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(自筆本)の左丁の後ろから三行目から始まる。以下に電子化する。発生日時と場所が異なる。句読点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で振った。かなり判読しづらい部分があった。

   *

   うつろ舟の蛮女

享和三年八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦、小笠原越中守、知行所より、訴出候に付、早速、見屆に參候処、右、漂流舩其外、行へ、一向に相分り不申候付、幸大夫之(の)遣(つかひ)候由(よし)也(なる)「紅毛通し」[やぶちゃん注:紅毛通詞。]も參り候へ共、相分り不申候由也。ウツロ舩の内、年の[やぶちゃん注:ここで改丁。]比(ころ)、廿一、二才相見候女、一人、乘玉(たまひ)て、美女也。舩の内に、菓子・淸水も沢山に有之。喰物、肉漬の樣成(やうなる)品、是、又、澤山に有之候由。白き箱、一つ、持(もち)、是は、一向に見せ不申。右の箱、身を放さす、無理に、「見可申(みまうすべし)。」と申候ヘは、甚、怒候由。

[やぶちゃん注:以上の前丁には画像を見て戴くと判る通り、頭書(最後は最終行の左手を侵して下方まで続く)がある。本文に出る幸大夫についてのそれである。以下に電子化する。■は判読不能字。最初の「■■■」は書名であろうが、判らぬ。「舩頭」の後も判らなかったが、約物「乄」であろうと、一応、踏んだ。最後の「經世(よをふること)、久し」は無理矢理、捻じ込んで読んだ。大黒屋光太夫(こうだゆう 宝暦元(一七五一)年-文政一一(一八二八)年)は「幸太夫」とも書く。伊勢白子の神昌丸(しんしょうまる)の船頭として、天明二(一七八二)年、江戸に向う途中、遭難、アムチトカ島に漂着した。ロシアの首都ペテルブルグでエカテリーナⅡ世に謁見し、寛政四(一七九二)年にラクスマンに伴われて、根室に帰着、江戸で第十一代将軍徳川家斉の面前で取り調べを受けた後、番町の薬園に、生涯、留め置かれた(と言っても、比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われた後半生であったわけではなかった。詳しくは当該ウィキを読まれたい)。桂川甫周(ほしゅう)の「北槎聞略」ほくさぶんりゃく)は光太夫の見聞録として有名。]

【「■■■」に、『幸大夫は勢州白子(しろこ)の舩頭乄(して)、オロシヤへ漂流しゝ幸大夫なるへし。今、小石川御菜園御差置(おさしおき)。予もオロシヤ文字を手習有て、經世(よをふること)、久し。】

 

Ousyuzakkiuturobune

 

[やぶちゃん注:挿入図。当該丁と次の二行の本文までトリミング補正して示した。キャプションは、上のヴィークルの右上に、

「ウツロ舩図」

円盤の頭頂頂点に丸印を打ち、そこから指示線を左に出して、

ラムスリヲトル穴

これが読めない。思うに、水がなければ、外洋に出た際に、瞬く間に死んでしまう。とすれば、ここに真水を採るための穴(及びその装置)があったと考えるが、妥当であろう。そうするち「ラム」は「ラムビキ」で「ランビキ」に親和性があることが判る。ランビキはポルトガル語の「alambique」が語源で当て漢字で「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具。陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るものであるが、漁師などは、漂流した際に海水から水を得るためにも用いたからである。しかし、「スリ」が判らん。『「ラム」ビキで「スイ」(水)を採る穴』だったら、解決なんだが。判らん! 識者の御教授を乞う。

左下方に奇体な文字四つ。本篇に奇体な字とは明らかに違うが、しかし、また、明らかに同系統の文字であることは判るように思われる。

下方に箱を持つ蛮女の絵。右手で左の前の袷を上に掲げて、箱を隠そうとしている。その動作の瞬間を描いているため、箱の形状が判然としない。体の状態からは、四角な箱、しかも木箱であると私は見た。]

 

舩、惣(そう)朱塗。窓は「ひいとろ」也。大(おほい)さ【建(たて)八間餘[やぶちゃん注:十四・五四メートル超。]。橫十間餘[やぶちゃん注:十八メートル超。本篇のそれより、遙かにバカでっかい円盤だ!]。】

右は、予、御徒頭にて、江戶在勤のせつの事也。江戶にて、分かり兼(かね)、長崎へ被遣(つかはされ)しと聞しか、其の後、いつれの国の人か、分かりしや、聞かさりし。

   *

さても! この記事の素晴らしい部分は、「蛮女」に最初に会話を試みるために、ロシアに漂流して生還した大黒屋光太夫の派遣した通詞を最初に行かせていることである。本篇には一言もない、ロシアとの接点が、通訳不調に終わっているものの、確かに出現していること、則ち、私が二〇〇五年に、本篇に奇体な四つの文字をロシア語であると断じたことと、遂にリンクしている点にあるのである! また、ここでの「蛮女」は人間的で、怒りを露わにしている点でも、かえってそこにリアルなものを感じさせるのである。また、リアリズムは、この図にのみ示されるランビキらしき装置の記載にも、しっかりとあると言えるのである。

 

 さて。お次は、西尾市岩瀬文庫蔵になる万寿堂(詳細事績不詳)編「漂流記集」(天保六(一八三五)年以降の成立とされる漂流・漂着譚十四篇から成る)にあるやはり本事件を記した、またしても彩色図附きの「小笠原越中守知行所着舟」である。残念ながら、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像は、正確に判読出来る大きさとは言えないのだが、しかし、そこで新字体で本文主文部分の翻刻が成されてあった(但し、脱落があった)。さらに、実はウィキの「虚舟」には、この部分の不完全な後半の部分画像がかなりの高画像で、パブリック・ドメインとして出ているのも発見したので、以下に掲げて、その部分の底本とし、加えて、「岩瀬文庫」の「Iwase Bunko Library」(公式サイトではなく、要は同文庫のDVDの販売促進のサイトであるが、同文庫から公認されたサイトではあるのである)の「漂流記集 近世後期写 万寿堂/編」の動画も部分であるが、精密に写し出しているので、それも参考にした。而して、それらを武器として冒頭部分から小さな画像を見ながら、確認して電子化を試みる。読みは推定で私が附し、句読点も添えた。

 

Hyouryukisyu

 

   *

    小笠原越中守知行所着舟

常陸國舍濱と申所へ、圖之(の)如くの異舟、漂着致候。年頃(としのころ)、十八、九か、二十才くらいに相(あひ)見へ、少し靑白き顏色にて、眉毛、赤黑く、髮も同斷、齒は至(いたつ)て白く、唇、紅、手は、少しぶとうなれと[やぶちゃん注:「太(ぶと)うなれど」。]、つま、はつれ[やぶちゃん注:「褄(つま)、解(は)つれ」で、褄(長着の裾の左右両端の部分の端が解けていたが、それがまた、みすぼらしくなくて、の意であろう。]、きれい。風俗、至て宜しく、髮、乱(みだれ)て、長し。圖のことくの箱に、いか成(なる)大切の物や入(いり)たりけん、知す[やぶちゃん注:「しらず」。]。大切の品の由候て、人寄申(まうさ)じ。音聲、殊の外、かんばしり[やぶちゃん注:ママ。「かんばしき」で「立派な感じの語り方で」の意であろう。「癇走」ったは考え過ぎか。]ものいゝ、不通(つうぜず)。姿は、じんぜう[やぶちゃん注:「尋常」。]して、器量、至て、よろしく、日本にても、容顏、美麗といふ方(かた)にて、彼(かの)国の生れともいふべきなり。

 

一 鋪物、貳枚。至て和らかな物。

一 喰物。菓子とも見へ、亦、肉ニテ煉りたる物、有之。喰物(くひもの)、何といふ事を不知(しらず)。

一 茶碗樣のもの、一ツ。美敷(うつくしき)もよふ、有之。石とも、見へ[やぶちゃん注:ママ。]。

一 火鉢らしき物、壹ツ。■[やぶちゃん注:虫食いで判読不能。「小」にも見えるが、下に熟語として続かぬ。]明ほり、有、鉄とも見。亦、ヤキモノ共(ども)、見。

 

一 舩中、改候所、如斯の文字、有之。

[やぶちゃん注:ここに本篇と酷似する文字が出るが、御覧の通り、本篇の三字目が、分離して五文字になっている。ここのみ、「岩瀬文庫」公式サイト内の当該部の全画像ページにある部分画像を使用させて貰った。]

 

Hyouryukisyumoji

     右之通訴出申候

[やぶちゃん注:この左下に朱の落款があるが、これはとても見えない。

 以下、図のキャプションを示すと、ヴィークルの最右に指示線を出して、

「下地、鉄朱ヌリ。」

その左下方に、

「竪壱丈壱尺。

 橫差渡三間。」

とある。ヴィークルの最長高は約三・三三メートル。直径は約五・四五メートルである。

ヴィークルの右下方に指示線をして、

「惣、鉄。」

「惣」は「すべて」(総て)。その左にやはり指示線をして、

「筋合ナシ。」

とある。これは「すぢあはせ、無し」で、ヴィークルの下方は鉄板を組み合わせてあるのであるが、その繋ぎ目の隙間や弛んで溝筋となっている箇所が全くなく、ぴったりと接合されていることを意味している。

次にヴィークルの上方を見ると、本体の右上端に沿って文字があるが、画像が粗く、下方に汚損があり、判読が出来ない。最後の判読不能字数も推測に過ぎない。

「檀樹・『シタン』ノ樣子見へ候■■■■■■。」

「檀樹」は「白檀」(びゃくだん:現代仮名遣)でビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。「シタン」は紫檀。マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

上部右手で、円形の網格子の窓に指示線して、

「フチ、黒ヌリ。明タテ、自由。」

とある。「フチ」は窓の「縁」、「明(あけ)閉(た)て」の意。

上部中央頭頂部に指示線して、

「此所、水晶。」

とあり、左側の格子型の四角い窓のところに、

『窓、「ビイドロ」ニテ、格子、「スイセウ」。』

水晶の格子にガラスが嵌め込まれているというのは、とんでもない精巧な造りである。

次に、「蛮女」の図。彼女の右方で指示線をして、

「此箱、弐尺四方、白木ニテ、至テ木目ヨシ。」

と言いながら、本篇同様、箱は長方形である。白木で木目がとてもいいというのは、細かな描写として着目出来る。左方では同じく指示線で、上着の鈕を確かに指して(先が鈕の半分を丁寧に半弧で指示してある)、

「此小ハゼ、スイセウ。」

とあって、本篇の「ネリ玉」とは異なっている。

右方下方には、下半身に穿いている着衣について、指示線をして、

「『ビロウド』ニテ、金ニテ、『マダラ』ニ、筋、有之。」

とあり、左下方に、大きな字で、

「惣躰、綿の樣子成る織物にて、シカト、不分明。

     色ハ『モヘギ』。」

と記してある。この「蛮女」の服装は、どれよりも異国風で、下に履いている独特の網目模様が強烈で、一目見ると、忘れられない。上着にか星形や円形の刺繡のような模様が散らばっており、襟には、カフスの風の止め金具のようなものさえも見える。頭髪は長いが、白い鬘は認められない。但し、頭頂は有意に丸く髻状に突き出ており、入れ髪をしている感じはする。因みに、その髻の下方を白い紐のようなもので括ってはある。

 

 本篇の電子化注を初めて既に二日目の夜になった。いい加減、疲れてきた。他にも紹介したい資料はあるが、原画像を入手出来るものが限られているから、前記の「漂流記集」のものを、木版摺物にした瓦版(作者不明・船橋市西図書館蔵)が、ウィキの「虚舟」にパブリック・ドメインとして載っている(但し、そのキャプションの「長橋亦次郎の描いた虚舟」というのは、大間違いである。「長橋亦次郎」は「梅の塵」の作者だから、先に出した方をここに入れねばおかしいのだ!)ので、それを掲げて、電子化して終りとする。句読点を独自に打った。なお、この瓦版の画像は「ADEAC」のここで精密画像として見られる。

 

Utsurobune

 

[やぶちゃん注:冒頭に例の奇体な文字列。但し、三字目が、ここでは「○」と「(┓)と(━)を重ねた記号」と「○」に致命的に分離されてしまっている。なお、次の一文は一字下げとなっているのはママ。]

如此の文字舩の中にあり。

[やぶちゃん注:以下、書き出しの「一」は頭出しで、後は元画像では、字下げである。「一」の後は一字空けた。]

一 去亥二月中、かくのことくの舟、沖に相見へ申候所、又、しばらく見不申候。然此度 小笠原越中守樣御知行所常陸國かしま郡原舍濱へ、同八月のあらしにて、吹つけ申候。「うつろふね」、其内に、女、壱人、年の頃、十九、廿才程にて、身のたけ、六尺余り、かほの色、靑白く、まゆ毛・髮、赤黑く、ふうぞく、頗るうつくしく、きりやうは、悉、美女也。おんせい[やぶちゃん注:「御聲」。]は、かんばしりて、大おん也。又、しら木の弐尺ばかりの箱、はなさす、かゝい[やぶちゃん注:「抱え」。]、大切なるものや、あたりへ决而[やぶちゃん注:「して」、]、人を、よせつけぬなり。

一 敷物、一枚、至て、やはらかな物。

一 食物、肉(にく)るいて、ねりたる物。

一 茶わんのやう成もの、一ツ。うつくしき、もやう、あり。石とも見へす。

一 火鉢らしき物、一ツ。鉄とも、見へず。

 

[やぶちゃん注:右の「蛮女」の右方に、指示線を添え、

「錦なるやうのおりもの、色、『もえき』也。」

「もえき」は「萌黃」。

その左方に、

「こはぜ、すいせう。」

とある。「こはぜ」は「鞐」(こはぜ)で、「布に縫い付けられた爪型の小さな留め具」のこと。

その下方に指示線を添えて、彼女の下穿きに対して、

「きんのすじ。びろうどなり。」

とある。

次に、ヴィークルのキャプションで、上部の円形窓の右に、

「ふち、黑ぬり。」

とあり、上部中央には、

「いづれ、木は、『したん』・『びやくたん』。」

とする。その左の四角い窓の脇に、

「まど、『びいどろ』。すいしやう也。」

とある。

 ヴィーグル上部下方の縁の有意な出っ張り部分に、右から左に、

「鉄にて、『朱ぬり』。橫、三間なり。」

とあり、ヴィーグル下方右手に指示線を出して、

「すじかね、『なんばんてつ』也。」

とし(「すじかね」の「じ」はママ)、反対の左手に、

「ふねの高サ、壱丈壱尺。」

とある。]

 

 以上、私は視認でき、読者が確認出来るものだけを、電子化注した。ネットにはもっといろいろなものが氾濫していることは既に述べた。田中氏が示された最新のそれも小さな画像で示してあるページも見つけたが、記載が見えず、鼻白むだけであったので、紹介しない。

 私は、私の出来得る限りに於いて、読者も、同時に、判読出来るものだけを、ここでは選んだのである。

2021/10/21

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門

 

   ○梅が香や隣は荻生惣右衞門

といふは、其角が句のよし、世人の口碑に傳ふれども、近頃、京傳が書けるといふ「奇跡考」に、「其角がいづれの集にも見えず。」と出だせり【解云、「この發句、口碑に傳ふとのみ云へれども、其角が口調に疑なし。且、「梅がかや」云々といひし梅が香は、御能役者梅若氏をいふよしにて、當時、茅場町に、これかれ、相隣てをりし時の事とも、いへり。其角と徂徠と近隣なり、といふ作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。其角は寶永四年に沒せしとかや。然るに、徂徠は、六年までは吾藩の内に住居せしかば。其角と近隣なるべきやうや、あるベき。

今玆乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の二月二日のころ、野州那須郡大田原に囘祿ありて、城のこりなく、災にかゝりしに、城下の民家にて、三日、鳴物を、みづからつゝしみて、籠居せしとかや。四日めに及びて、有司のものより、命じて、常に復せしめて、各々、稼業を行ひしは、古國とて、いと、たうとき事なりき、災、しづまりし後、民家より。造營の費を、おのおの、所望して、調進せんことを爭うて請ひしかば、有司にて造營の失脚の勞、聊、なかりしは、文王の靈臺にも齊しき、めでたかりしためしなり。これによりて、速に造營をうながすに、「國主、ゐまさざれば、あしゝ。」とて、六月中に歸國すべきを、囘祿によりて、二月中に歸國を請はれしかば、縣官にて、「在所の囘祿にて、歸國を、はやく請ひしためし、なし。」とて、其沙汰に、閣老方、困り給ひし、とかや。さりながら、二月末には、請の如く、ゆるしありて、歸國ありしとかや。事新しきためしなりき。

  乙酉冬十一月朔       荻生蘐園記

[やぶちゃん注:発表者は会員荻生蘐園(けんゑん)。本名荻生維則、本姓は浅井。拘っている理由は、彼が荻生徂徠の孫鳳鳴の養子であるからである。二十余歲で、郡山藩儒官を継ぎ、家の通称で荻生惣右衞門を称していたのだから、なおさらであった。馬琴は詠みぶりから其角の句に間違いないとブイブイ言わせているが、サイト「インターネット俳句 末成歳時記」の本句のページによれば、『宝井其角による句とされ、当時は大変に有名となり、多くの人が口遊んだという。また、時代は下って夏目漱石は、この句をもとに「徂徠其角並んで住めり梅の花」と詠んでいる。ただ、「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり』(以下も引用)、

『茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。』

『とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後』二『年が経過した』明和六(一七〇九)『年である。其角と荻生徂徠に面識はないという』。『今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう』。『其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」がある。現在になってこの』二『句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる』とある。

『京傳が書けるといふ「奇跡考」』浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の「奇蹟考」は享和四・文化元(一八〇四)年刊の考証随筆(自序は文化元年三月。享和四年二月十一日改元)「近世奇跡考」(「跡」は吉川弘文館随筆大成版の版本刷の字を用いた)。なお、ウィキの「山東京伝」によれば、『この頃から曲亭馬琴の読本と大きな影響を与え合うようにな』ったとあり。この「京傳が書けるといふ」と書く辺りに、既にしてライバル意識が臭ってくる。吉川弘文館版で確認した。巻之三の「榎本其角の傳」にあった。

「御能役者梅若氏」観世流シテ方の五十一世梅若六郎氏暘(うじあき)か、その先代辺りか。

「茅場町」其角の旧居跡がドットされてあった(グーグル・マップ・データ)。

作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。

「其角は寶永四年に沒せしとかや」其角は宝永四(一七〇七)年二月或いは四月没とされる。享年四十七。

「失脚」これは「脚」を「金銭」の意の「あし」に通わせたもので、「かかった費用・失費」の意。

「有司」仙台藩の役人。

「文王の靈臺」周の文王が建てた物見台。遺跡は陝西省西安市にある。

「縣官」幕府の役人のことのようである。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 明善堂討論記

 

   ○明善堂討論記

[やぶちゃん注:以下「乃記其言諸篋笥云。」までは底本では全体が二字下げ。]

文政七禩六月朔日。予與門人敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋。約爲會讀。預期自曉七鼓而始。至黃昏而終也。適予友櫟葉散人。携其徒十數人來共討論。乃記其言諸篋笥云。

[やぶちゃん注:訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 文政七禩(のとし)六月朔日、予、門人の敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋と與(とも)にし、約して會讀を爲す。預(あらかじ)め期を曉七鼓(あけななつ)よりして始め、黃昏に至りて終るなり。

 適(たまた)ま、予が友、櫟葉散人(れきえふさんじん)、其の徒、十數人を携へて、來たり、共に討論す。乃(すなは)ち、

「其の言を記して、諸(もろもろ)、篋笥(けふし)に藏む。」

と云ふ。

   *

「禩」は音「シ」。殷代に於いて「年」を意味した漢字。

「曉七鼓」不定時法で午前三時頃。

「篋笥」(きょうし)は長方形の箱。文書を入れる箱。

 以下の漢文には句点以外の訓点は存在しない。]

六月一日。晨各蓐食。巢於明善堂。天將曉。月未落。焚篝燈倚九案[やぶちゃん注:右に『几カ』と傍注。]。櫟葉散人忽到。散人者武州金杉根岸人。常好讀日本記事。其於正史稗說。無所不硏究。能辯我邦治亂。論其興廢。言辭滔滔。若决江河。若驟雨暴至。沛然無禦之者。以予酷好西土書策。每往來會讀難問。此日方讀史記伯夷傳。櫟葉曰。嗚乎。夷齊。不食周粟而餓則可也。何輙食其土薇。詩曰。普天之下。莫非王土。薇亦非周土之生乎。夷齊之義。不食周粟。則薇亦不可食焉。孔子方稱夷齊賢。吾甚感焉。且孟子論武王曰。聞誅一夫紂。未聞弑君。孟子何出此言也。夫紂雖無道而親戚背之。猶爲天子也。安得等之匹夫乎。敬齋揖櫟葉而進曰。甚哉。子言之過高也。夷齊不食周粟。乃是夷齊之僻。孟子所以爲隘之也。足下不知其爲僻。而貴食其薇。足下亦是僻之又僻耳。必如足下言。則雖巢文許由卞隋務光。未以嗛於足下心也。若其充足下之心者。其於陵陳仲子乎。所謂蚓而充橾者。我孟子之所不取也。足下坐未嘗讀聖經。是故出此言。退讀聖人之書。而後會我輩。强齋在側。抗然大言曰。二子之言皆失矣。二子愕然曰。何。强齋曰。夫道一而已。分爲二爲三以往。復散爲千爲萬。故有陰則有陽。有剛則有柔。有君必有臣。有仁必有義。其所遇或異。則其所行亦殊。是以事雖萬殊。於其歸道一也。譬之忠質文。三代所向不同。其及合於禮。未嘗同也。武王之伐紂。夷齊之諫武王。其迹雖異。各盡其道。始非有二致也。武王見天下之溺。不極之。不免楊朱爲我之謗。夷齊扣馬諫。不免賊其君之誚。聖賢之心。無所偏倚。隨物而應者。孰不規矩。何不準繩。以夷齊之準繩論武王。而曰不平。曰不直。亦其宜也。以武王之規矩。議夷齊。而曰出方圓之外復亦其宜也。又譬之。武王之德。大陽之輝也。夷齊之行。大陰之光也。微武王不能爲夷齊之光。武王亦不得夷齊。則不得著。其德輝也。二聖之在天下。猶日月之互行。而不相戾也。孔子盛稱之。不亦宜乎。盖孔孟之所毀譽。必有所試。又何疑其言。然足下疑孟子命紂爲一夫。是何其意也。紂雖稱天子。親戚衆臣。及四海内。無一人助之者。則非一夫何。著者宋高宗。亦與足下同癖。問時碩儒尹焞曰。孟子何以謂之一夫紂。尹焞對曰。此非孟子之言。武王牧師之辭也。曰。獨夫受。洪惟作威。由是觀之。孟子非敢新言之。假令孟子言之。孟子聖人也。如何廢其言乎。足下實有蓬心乎。吾丁寧反覆雖頻提子耳。而大聲告之。子固褒如充耳。豈有益其是非乎。如子之人。謂之兼襲與瞽宜哉。不得其觀日月之光。聞大雅之音。於是三人相爭相怒。或瞋目或握拳喧豗良久。謙齋猶然笑。徐々前席曰。三子之言。倶有理。雖然未得其所處也。夫聖之道。區以別之。則有時者。有仕者。有和者。如淸者。如伯夷者。所謂聖之淸者耳。伯夷之好淸潔。猶顏子之好學。伯倫之嗜酒也。天地開闢一人也。於是櫟葉又怒曰。子嘗孟子之餘唾。將折我言。雖孟子再生來。我猶將說却之。亦况於足下輩乎。退哉退哉。謙齋亦怒。四人猶戰場爭死生。市中貪羸利也。乾齋曰。予有一說。足下輩安意聽之。四人同曰。如何。乾齋曰。盡信書如不無書。書且尙疑之。則史記不能無疑焉。吾聞之。史記者大史公之未定之書。而且多攙入。今取一二證之。其攙入者。司馬相如傳贊曰。揚雄以爲靡麗之賦。勸百諷一。趙翼辯駁之日。雄乃哀平王莽之時人。史遷固武帝時之人。而何由得預知百年下揚雄者。又自在岐互處。朱建傳謂。黥布欲反。建諫之不聽。事在黥布傳中。今黥布傳無此語。是亦古人辯駁之。由此觀之。未定之書。未足信之矣。雖然如伯夷傳。明確高論。非後人攙入。唯夷齊叩馬而諫之事。殊不見經。則疑是流傳之言。若果爲流傳之言。未足信之也。且明王直辯駁也。子輩知之乎。若未則熟視之。察之而後正其是非。盖爭者事之末。其言雖有義理。終損君子之操。願暫聽吾說。莫【莫當作勿。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とする。]爭莫譁。於是座中哄然笑。讀如故。畢伯夷傳。次讀春秋左傳。至莊公九年。齊管仲請囚之章。櫟葉門人大瓠。昭然歎曰。噫。漢土之人。何薄於忠義乎。管仲怯儒而無義魯殺子糾。召忽死之。管仲不死。以余觀之。召忽可謂之能終事君也。然孔子特稱管仲。吾竊惑之。昌齋應之曰。子惑宜矣。昔者。子路之果敢。而不能無此惑。况於足下輩乎。夫孔子之不稱召忽。而稱管仲者。稱其功業也。盖召忽一夫之材。若不死於子糾。三軍之虜也。管仲王佐之材。死子糾則不免溝瀆之死也。故孔子美其不死。而稱其功業。鳴呼。管仲功業之益於民。平王東遷。諸候内攻。夷狄外侵。周室之不亡如線。向無管仲相桓公振霸業。則中國之不被髮左袵無幾矣。可不謂非仁乎。雖然於其爲人。孔子亦賤之。傳所云。不一而足。管仲之器小哉。焉得儉。管仲不知孔。由此觀之。孔子之稱管仲。所謂門上挑之。而在夷狄則進之。猶如稱文子之淸。美藏文仲之智也。亦何怪之管仲也。且子言曰。魯殺子糾。疎漏甚哉。經云。齊人取子糾殺之。殺子糾者齊也。非魯也。大瓠擊節乾笑曰。子席讀唐土之書。偏僻于唐人。一何甚。夫仁者而必有仁之功。智者而必有智之功。既云管仲不知禮。智者而不知禮。可乎。又云。焉得儉。仁者必儉。管仲不得儉。則可謂之仁乎。昌齋曰。聞之錦城先生。曰。夫酒有淸濁之別。有醇醪之品。飮淸醇者亦醉。飮濁醪者亦醉。於爲醉之功則丁也。爲其物厚薄則異也。管仲之功。濁醪之醉也。堯舜之仁。淸醇之醉也。今夫淸醇與濁醇。固有差別。霸與王。功同而本異。然至其一匡天下一也。傳云。君子成人之美。不成人之惡。故夫子盖其不知社與器小。而特稱其功。如足下之言吹毛求疵。責人而無止。而與我聖人之道大有逕庭。於是大瓠言下敬。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

豐民云。予記此事。既在客歲。自後以來。有定期。而爲此討論。又每會必筆。而藏諸篋笥中。今適搜篋笥中得之。亦以呈兎園社友、若有頑說。幸見敎焉。敬而受敎。

 于時文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識

[やぶちゃん注:暴虎馮河で訓読と注を試みる。段落を成形した。

   *

 六月一日。晨(しん/あした/あさ)、各(おのおの)、蓐食(じゆくしよく)し、明善堂に巢(つど)ふ。天、將に曉(あかつき)ならんとするも、月、未だ落ちず。篝(かがり)を焚き、倚、九案に燈(とも)す。

 櫟葉散人、忽ち到れり。散人は武州金杉(かなすぎ)根岸の人。常に、好んで日本の記事を讀み、其の正史・稗說に於けるや、硏究せざる所、無し。能く我が邦の治亂を辯じ、其の興廢を論ず。言辭、滔滔として、江河の决せるがごとく、驟雨の暴(ある)るに至るがごとし。沛然として、禦(ふせ)ぐるところの者、無し。以つて、予(かね)てより、酷(ひど)く西土の書の策を好めば、每(つね)に會讀に往來して難問す。

[やぶちゃん注:「蓐食」早朝に何かをする際に寝床で食事を済ませることを言う。

「明善堂」江戸のそれは不詳。

「九案」傍注に従えば「九几」で九つの机となる。二十人を超える人数が集まるので長机でないと困る。

「武州金杉根岸」現在の台東区根岸には嘗て金杉村があったが、「明暦の大火」で焼失したらしい。現在の広域の谷中地区内にあった。

「决せる」決壊する。]

 此の日、方(まさ)に「史記」の「伯夷傳」を讀む。櫟葉、曰はく、

「嗚乎(ああ)、夷・齊、周の粟(あは)を食はずして餓う、則ち、可なり。何ぞ輙(すなは)ち其の土(ど)の薇(ぜんまい)を食はん、と。「詩」に曰はく、『普天の下、王土、非ざる莫し。』と。薇も亦、周土の生(しやう)非ずや。夷・齊の義は、周の粟を食はざれば、則ち、薇も亦食ふべからず。孔子、方(まさ)に夷・齊の賢を稱す。吾、甚だ感じたり。且つ、孟子、武王を論じて曰はく、『一夫の紂(ちう)を誅するを聞くも、未だ君を弑(しい)するを聞かざるなり。』と。孟子、何をもつて此の言を出だすや。夫れ、紂、無道にして、親戚も之れに背(そむ)くと雖も、猶ほ、天子たるなり。安(いづく)んぞ、之れ、匹夫に等しきを得んや。」

と。

 敬齋、櫟葉に揖(いふ)して進みて曰はく、

「甚しきかな。子の言の過(あやま)ちの高きや。夷・齊、周の粟を食はざるは、乃ち、是れ、夷・齊の僻(ひがごと)なり。孟子の以つて爲す所は、之れ、隘(せま)きなり。足下は、其の僻たるを知らず、而して、其の薇を食ふを貴しとす。」。

と。

[やぶちゃん注:「揖(いふ)して」(ゆうして)は両手を前で組んで会釈することを言う。唐風の礼儀。

 私はここで切れて、再び櫟葉散人の台詞として採った。]

「足下も亦、是れ、僻の、又、僻のみ。必ず、足下のごとく言はば、則ち、巢父(さうほ)・許由・卞隋(べんずい)・務光と雖も、未だ以つて、足下の心に嗛(た)らざるところ、あらざるなり。若(も)し、其の足下の心を充(み)たせる者は、其れ、於陵の陳仲子か。所謂、『蚓(みみず)にして操(みさを)を充(み)たす者』なり。我れ、孟子の所(いふところ)を取らざるなり。足下、坐して、未だ嘗つて、聖經を讀まず。是れ故、此言を出だす。退(しりぞ)きて、聖人の書を讀め。而して後、我が輩に、會へ。」

と。

[やぶちゃん注:「巢文」「巢父」の誤判読。中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという。

「許由」同時代の隠者。前の「巣父」とセットで語られることが多い。聖天子と仰がれた堯が、許由の高潔の士であることを聴いて「天下を譲ろう」と言ったところ、許由は「汚れたことを聴いてしまった」と言って潁水(えいすい)の川水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れた。さらに巣父も堯から天下を譲られようとして拒絶した隠者であったが、その耳を洗っている許由を見、「そのような汚れた水は飼っている牛にさえ飲ませることが出来ぬ」と言い放って、引いていた牛を連れて何処かへ去ったという故事である。「荘子」の「逍遙遊」や、「史記」の「燕世家」などに見える。

「卞隋」「務光」孰れも同前の厭世隠遁を望んだ賢者。湯王が暴虐残忍な桀王を討伐するに際し、卞隋、次に務光に相談したが、まるで相手にしなかった。桀を滅ぼした湯王がそれぞれの才覚を見込んで、順に王を譲ると言ったところ、その忌まわしい話に驚愕して、二人が二人とも、入水して命を絶ったという。「荘子」第二十八「譲王篇」にある。サイト「肝冷斎日録」のこちらが、非常に判り易く説明しているので、お勧め。

「於陵の陳仲子」斉の栄誉の家臣の家系であったが、兄の得ている莫大な禄を不義のものとして、兄と母を避けて於陵(現在の山東省)の山中に遁世したが、三日間、何も食べず、餓えた。道端に李の樹を見つけ、虫が実を半分以上食っていたが、それでも這って行って拾い取り、三口、食べて、やっと耳が聞え、目が見えるようになったという。「孟子」の「滕文公章句下」に出る。但し、孟子のそれに対する議論(そこで孟子は、陳仲子のような輩は「蚓而後充其操者也」(蚓(みみず)となりて後(のち)、其の操(みさを)を充(み)たしむ者なり。)と言い放っている。なお、本文の「橾」は「操」の誤判読である)は私は甚だ不快に感じる。サイト「我読孟子」のこちらを読まれたい。]

 强齋、側に在り、抗然として、大言(たいげん)して曰はく、

「二子の言、皆、失す。」

と。

 二子、愕然として曰はく、

「何ぞ。」

「何ぞ。」

と。

 强齋曰はく、

「夫れ、道は一つのみ。二つ爲(な)り、三つ爲りを以つて、分かちて往くも、復た、散りて、千爲り、爲萬りたり。故に、陰、有りて、則ち、陽、有り。剛、有りて、則ち、柔、有り。君、有りて、必ず、臣、有り。仁、有りて、必ず、義、有り。其の所遇、或いは異なれり。則ち、其の所行も亦、殊なれり。是れを以つて、事、萬殊と雖も、其の歸る道に於いては一(いつ)なり。譬へば、之れ、『忠』の質の文に、「三代、向ふ所、同じからず。其れ、禮に合するに及びても、未だ嘗つて同しからざるなり。武王の紂を伐するや、夷・齊、武王を諫むるに、其の迹、異なると雖も、各(おのおの)、其の道を盡くす。始め、二つの致れるの有るに、非ざるなり。武王、天下の溺(おぼ)れるを見るも、之れを極めず。楊朱が爲我(ゐが)の謗りを免れず。夷・齊、馬を扣(ひきと)めて諫むるも、其の君の誚(そしり)を賊(そこな)ふを免れず。聖賢の心、偏倚なる所、無し。物に隨ひて應ずる者は、孰(いづれ)か規矩によらざる。何ぞ準繩(じゆんじよう)せざる。夷・齊の準繩を以つて武王を論ずるは、而して『不平』と曰ひ、『不直』と曰ふも、亦、其れ、宜(むべ)なり。武王の規矩を以つて、夷・齊を議すれば、而して出ずる方、圓の外なりと曰ふは、復(また)、亦、其れ、宜なり。又、之れを譬ふれば、武王の德。大陽の輝きなり。夷・齊の行は、大陰の光なり。微かに、武王、夷・齊の光を爲すに、能はず。武王も亦、夷・齊を得ず。則ち、著き得ざるなり。其の德は輝(き)なり。二聖の天下に在るは、猶ほ日月(じつげつ)の互ひに行くがごとし。而して相ひ戾らざるなり。孔子、盛んに、之れを稱すは、亦、宜ならざるか。盖(けだ)し、孔・孟の毀譽せしむ所は、必ず試ましむ所、有り。又、何ぞ其の言を疑へる。然れども、足下、孟子の命(めい)の、紂を一夫と爲すを疑ふ。是れ、何ぞ、其の意、繆戾ならんや。紂、天子を稱すると雖も、親戚・衆臣、及び、四海内に、一人として之れを助はんとする者、無し。則ち、一夫に非ずして何ぞ。宋の高宗を著せる者、亦、足下と同じ癖なり。時に問ふ、碩儒尹焞(いんとん)曰はく、『孟子、何を以つてか、之れを「一夫の紂」と謂ふか。尹焞、對して曰はく、此れ、孟子の言に非ず。武王が牧師の辭なり。曰はく、「獨り、夫のみ、受く。洪(おほ)いに、惟(こ)れ、威を作(な)す。」と。』と。是れに由りて、之れを觀るに、孟子、敢へて、新らに之れを言ふに非ず。假令(たとひ)孟子、之れを言ふとも、孟子は聖人なり。如何にして其の言を廢せんか。足下、實(げ)に、蓬心、有らんか。吾れ、丁寧に反覆すと雖も、頻りに、子に提(かか)ぐるのみ。而れば、大聲に、之れを告げたり。子、固(もと)より、褒(ほめそや)すこと、耳を充(ふさ)ぐがごとし。豈に、其れ、是非の益、有らんや。子のごとき人、之れを謂ふに、兼ねてより、襲ねて、瞽(めくら)と與(くみ)するが宜(よろ)しきかな。不得其れ、日月の光を觀るを得ず。大雅(だいが)の音を聞け。」

と。

[やぶちゃん注:「楊朱」(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。伝記は不明で、老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命とその安楽の保持にある」と説いたとされる。

「爲我」自分の利益のみを考え行動すること。

「繆戾」(びゅうれい)は、誤って道理から外れることを言う。

「宋の高宗」事実上の北宋最後の皇帝。

「碩儒」大儒。

「尹焞」北宋末・南宋初の儒者。

「牧師」武王の教授・祭祀師の意であろうが。不詳。

「蓬心」欲にとらわれた心。

「大雅」「たいが」とも。 非常に気高いこと。また、極めて正しいこと。]

 是に於いて、三人、相ひ爭ひ、相ひ怒る。或いは、目を瞋(いか)らし、或いは、拳を握りて喧豗すること、良(やや)、久し。

[やぶちゃん注:「喧豗」(けんかい)は喧騒に同じ。]

 謙齋、猶ほ、然れども笑へるがごとし。徐々に前席に曰はく、

「三子の言、倶に、理、有り。然りと雖も、未だ、其の所處、得ざるなり。夫れ、聖の道、區を以つて、之れを別く。則ち、時の有る者、仕(つかまつ)ること有る者、和すること有る者、淸きがごとき者、伯・夷のごとき者。所謂、聖の淸き者のみ。伯夷の好み、淸潔。猶ほ、顏子の好學なるがごとし。伯倫の酒を嗜むなり。天地開闢の一人なり。」

と。

[やぶちゃん注:「顏子」孔門十哲第一の清貧の賢者。

「伯倫」竹林の七賢の劉伶。]

 是(ここ)に於いて、櫟葉、又、怒りて曰はく、

「子、嘗つて、孟子の餘唾(よだ)として、將に我が言を折らんとす。孟子と雖も、再び生來(しやうらい)す。我れ、猶ほ、將に、說きて、之れを却(しりぞ)かんとす。亦、况んや、足下の輩をや。退(の)けや、退けや。」

 謙齋、亦、怒りて、四人、猶ほ戰場に死生(ししやう)を爭ひ、市中に羸利を貪(むさぼ)るがごとし。

[やぶちゃん注:「羸利」では意味が通らない(「羸」(音「ルイ」)は「瘦せる・病み疲れる・弱る」の意)。ここは「贏利」(えいり)でともに「儲ける・利益を得る」の意になるので、その誤判読ではないか。

 乾齋、曰はく、

「予、一說、有り。足下の輩、意を安んじて、之れを聽け。四人、同じく曰ふは、如何(いかん)ぞ。」

と。

 乾齋、曰はく、

「盡く、書を信じて、書の無きに如(しか)ず。書も、且つ、尙、之れを疑ふ。則ち、「史記」疑ふ無からざる能はず。吾れ、之れを聞くに、「史記」は大史公の未だ定まらざるの書なり。而も、且つ、多く、攙入(ざんにふ)あり。今、一、二を取りて、之れを證す。其の攙入は、「司馬相如傳」の贊に曰はく、『揚雄、以爲(おもへ)らく、「靡麗の賦」に、百を勸め、一(いつ)を諷(あてこす)れり。』と。趙翼、之れに辯駁して曰はく、『雄は、乃(すなは)ち、哀・平の王莽の時の人なり。史遷、固より、武帝の時の人。而して何の由(ゆゑ)を得て、百年の下(しも)の揚雄をば、預り知れるや。』と。又、「自在岐互處」に、『「朱建傳」に謂ふ、『黥布、反(そむ)かんと欲して、建の諫めの聽かず。事、「黥布傳」中に在り。』と。今、「黥布傳」に此の語(こと)、無し。是れ亦、古人、之れに辯駁す。』と。此れに由りて、之れを觀るに、未だ定まらざるの書なり、未だ、之れ、信ずるに足ず。然りと雖も、「伯夷傳」のごときは、明確にして高論たり。後人の攙入に非ず。唯だ、夷・齊、馬を叩(ひきと)めて諫めし事、殊には經に見えず。則ち、疑ふらくは、是れ流傳の言たり。若(も)し、果して、流傳の言たらば、未だ、之れ、信ずるに足らざるなり。且つ、明王が直辯の駁なり。子輩、之れを知るか。若し、未だ、則ち、之れを熟視せざらば、之れを察して、後に其の是非を正す。盖し、爭ふは、事の末たり。其の言、「義理、有り。」と雖も、終(つひ)に君子の操(みさを)を損ず。願はくは、暫く、吾が說を聽け。爭ふ勿れ、譁(かまびす)しくする勿れ。」

と。

 是に於いて、座中、哄然と笑ふ。讀むこと、故(かく)のごとし。「伯夷傳」を畢(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:「攙入」「竄入」に同じ。文中に不要な字句などが紛れ込むこと。以下で乾斎が挙げているのは清の趙翼の著になる中国の正史二十二史の編纂形式・構成・内容について考証し論評した「二十二史箚記」(にじゅうにしさっき:「箚記」とは「読書雑記を箇条書きしたもの」の意。一七九五年の自序がある)に拠る。

「揚雄」(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人・学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。示すのも馬鹿々々しいが、司馬遷は前漢中期の人物で生年は紀元前一四五或いは一三五年?で、紀元前八七或いは八六年?である。

「哀・平」前漢の第十二代皇帝から第十三代皇帝

「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年) 前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「爭ふ勿れ」頭書に従い、前と後の「莫」は「勿」に代えた。]

 次いで、「春秋左傳」を讀む。莊公九年に至り、齊の管仲の囚を請ふの章、櫟葉が門人大瓠。昭然と歎じて曰はく、

「噫(ああ)、漢土の人。何ぞ忠義に薄きか。管仲、怯儒にして、義、無くして、魯の子糾を殺す。召忽(せうこつ)、之れ、死すも、管仲、死せず。以つて、余、之れを觀るに、召忽、之れ、能く、事ありて、君の終れるを、謂(おも)ふべかりしなり。然れども、孔子、特に管仲を稱す。吾れ、竊かに、之れに、惑ふ。」

と。

 昌齋、之れに應じて曰はく、

「子、惑ふ、宜なるかな。昔者(むかし)、子路の果敢にして、此の惑ひ、無きこと、能はず。况んや、足下の輩に於いてをや。夫れ、孔子の召忽を稱せずして、管仲を稱するは、稱は、其の功業なればなり。盖し、召忽、一夫の材にて、若し、不子糾に死せざれば、三軍の虜(とりこ)となるなり。管仲、王佐の材たり。子糾、死して、則ち、溝瀆(こうとく)の死を免れざるなり。故に、孔子は其の死なざるを美とし、而して其の功業を稱せり。鳴呼(ああ)、管仲の功業の、民に益するや、平王、東遷して、諸候、内攻し、夷狄、外侵し、周室の亡ばざること、線(いと)のごとくなるに、向ふもの無き管仲の相と、桓公が霸業を振ふ。則ち、中國の『被髮(ひはつ)・左袵(さじん)せざる無きは幾(いくばく)ぞ』ならん。謂ふべからざる「非仁」か。然ると雖も、其の爲人(ひととなり)に於いてや、孔子も亦、之れ、賤たり。傳ふる所に云はく、「不一にして足れるも、管仲の器は小なるかな。儉(けん)をんか得。管仲、孔を知らず。」と。此に由りて、之れを觀るに、孔子の管仲を稱すや、所謂(いはゆる)、門の上に之れを挑げて、夷狄、在れば、則ち、之に進むるに、猶ほ、「文子(ぶんし)」の淸を稱するがごとし。「美藏文仲」の智なり。亦、何ぞ、怪の管仲や。且つ、子言曰はく、『魯、子糾を殺すは、疎漏、甚しきかな。』と。經に云はく、『齊人(せいひと)、子糾を取りて、之れを殺す。子糾を殺ししは齊なり。魯に非ざるなり。』と。「大瓠擊節」、乾笑曰はく、『子、席に唐土(もろこし)の書を讀む。偏へに唐人に僻(へき)して、一つなる、何ぞ甚しき。夫れ、仁者は必ず仁の功有り。智者は必ず智の功有り。既に云ふ、「管仲は禮を知らず、智者にして禮を知らず。」と。可ならんか。』と。又、云はく、『儉を得んか。仁者は必ず儉なり。管仲、儉を得ざらんか。則ち、之れ、仁を謂ふべきか。』と。」

 昌齋曰はく、

「之れを聞くに、錦城先生曰はく、『夫れ、酒に淸濁の別、有り。醇醪(じゆんろう)の品、有り、飮むに淸醇なれば、亦、醉ふ。濁醪なるを飮まば、亦、醉ふ。醉ひの功に於いて爲(せ)ば、則ち、丁(てい)なり[やぶちゃん注:同じように強いものである。]。其の物の厚薄に爲ば、則ち、異(い)なり。管仲の功。濁醪の醉ひなり。堯・舜の仁、淸醇の醉ひなり。今、夫れ、淸醇と濁醇と、固より、差別有り。霸と王と、功は同じくして、本は異なれり。然れば、其れ、一たび匡(ただ)すに至らば、天下一なり。傳へて云ふ、『君子の人と成れる、之れ、美し。人と成らざるは、之れ、惡(あ)しし。』と。故に、夫子、盖し、其の社(ほこら)と器(うつは)と小なるを知らずして、特に其の功を稱す。足下の言、毛を吹きて、疵(いず)を求むるがごとし。人を責めて止まず。而して、我と聖人の道は、大いに、逕庭(けいてい)、有り。是に於いて、大瓠(おほふすべ)、言下に敬ふ。』

と。

[やぶちゃん注:「管仲」管夷吾(かんいご ?~紀元前六四五年)は春秋時代の斉の政治家。桓公に仕え、彼を覇者に押し上げた人物として知られ、一般には字(あざな)の仲で知られ、旧友で同じく斉を支えた官僚鮑叔との「管鮑の交わり」で知られる。ここの話は当該ウィキの以下の引用の後半で状況が簡明に記されてある。『管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している』。『「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が』、『逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合と』、『そうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが』、『彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時』、私の同僚であった『召忽は殉死したが』、『私は囚われて辱めを受けた。だが』、『鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」』と。『二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ』。『二人は斉』(せい)『に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし』、『時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は』、『糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった』。『ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て』、『車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり』。「春秋左氏伝」『などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして』、『車を走らせて』、『その場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は』、『自分の死を確認する刺客が』、『再度』、『到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため』、『管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白と』、『その臣下たちが』、『既に国内を纏めており、管仲と公子糾は』、『やむなく』、『再び魯へ退却した』。『斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく』、『軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と』、彼を支えた二人の重臣『管仲』及び『召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した』(☜)。『しかし、管仲は斉に入ると』、『拘束を解かれ』た。『魯を攻めるにあたり、桓公は初め』、『糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒』(こうけい)の二『人で十分です。しかし』、『天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて』、『考え直したためである』とある。

「溝瀆の死」汚ない「みぞ・どぶ」の中での無益な死を言う。故事成句「溝に縊(くび)る」「溝瀆に縊る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)が知られる。

「平王」周の第十三代の王(在位:紀元前七七一年~紀元前七二〇年)。彼以降、周は縮小した東周となった。ここは突然、原初が儒教の理想国家とされる周王室とその滅亡の比喩を比喩らしくなく、突如として挿入しているのである。これは、「論語」の「憲問第十四」にある以下に出る、『子曰、「微管仲、吾其被髮左衽矣。」。』(子曰く、「管仲、微(な)かりせば、吾れ、其れ、被髮(ひはつ)・左衽(さじん)せん。」と。)に基づく。「被髪」は、結髪しない「ざんばら髪」、「左衽」は着物を左前に着ることで、「異民族に支配されていたであろう」ということを指す。

「論語」「八佾(はちいつ)第三」 の「子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉。然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。」(子曰はく、「管仲の器は小なるかな。或るひと曰はく、『管仲は儉(けん)なるか。』。曰はく、『管氏に三歸(さんき)有り。官の事ことは攝(か)ねず。焉(いづくん)ぞ儉なるを得ん。』と。『然らば、則ち、管仲は禮を知れるか。』と。曰はく、『邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦、樹して門を塞ぐ。邦君は兩君の好(よし)みを爲すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦、反坫、有あり。管氏にして禮を知らば、孰(たれ)か禮を知らざらん。』と」と。)に基づく。「儉」は倹約。「三歸」は「三つの邸宅」或いは「三つの姓の女を娶ったこと」とも言う。「家の事」家臣としての事務。「邦君」一国の君主。「樹塞門」土塀を門の内側に築いて目隠しとした。「樹」は衝立、「塞」は「蔽」の意。「兩君」両国の君主。「反坫」土で作った盃(さかずき)を置く台で、献酬が済んだ盃をそこに裏返しにして置いたが、これを自邸に置くのは諸侯にのみ許されたものであった。

「文子」老子の弟子で道家の書「文子」を書いたとする人物がいるが、それか。

『「美藏文仲」の智』不詳。「美」しく艶めいたものを内に「藏」(かく)し、「文」子のような老子のお「仲」間という逃げ道を隠した「智」恵という謂いか。

『「大瓠擊節」乾笑』書名も人物も不詳。以下の内容からは江戸時代の読本らしいが。

「錦城先生」乾斎中井豊民の師匠である儒者太田錦城。

「醇醪」混じり気のない濃い酒。

「丁(てい)なり」「同じように強いものである」の意。

 以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]

 豐民云はく、

「予、此の事を記すは、既に客歲(かくさい)たり。自後、以來、定期、有りて、此の討論を爲す。又、每會、必ず、筆して、諸(もろもろ)の篋笥の中(うち)に藏(をさ)む。今、適(たまた)ま、篋笥の中を搜すに、之れを得たり。亦、以つて「兎園」が社友に呈す。頑ななる說、有るがごとし。幸ひにして敎へらる。敬して敎へをも受くものなり。

 于時(ときに)文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識す

   *

「客歲」去年。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「小春念三」陰暦の十月二十三日。

 以上の訓読は全くの我流で、判ったような振りをしているだけの箇所も、勿論、ある。おかしな部分や、よりよい訓読があれば、御指摘戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。

2021/10/20

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高須射猫

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。これ、実は五年前に、「柴田宵曲 妖異博物館 化け猫」の注で、一度、電子化して、注も附してある。今回、再度、一からやり直してあるが、そこで行った考証注は、基本、修正を必要としないと判断した。但し、リンクの不備や、少し情報を追加して作り直しておいた。

 

   ○高須射猫

 

 某候【鳥井丹波守。】の家令高須源兵衞といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年【甲子。】のいつ比にや、ふと、行方しれずなりぬ。

 その比より、源兵衞が老母、人に逢ふことを、いとひて、屛風、引きまはし、朝夕の膳も、その内におし入れさせて、給仕もしりぞけて、したゝむるを、かひまみせしかば、汁も、そへものも、ひとつにあはせて、はひかゝりて、くふ。

「さては。むかし物がたりに聞きしごとく、猫のばけしにや。」

と、いぶかりあへる折から、その君の、ゆあみし給ひて、まだ、ゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん眞黑なるもの、飛び付きたり。君、こぶしをもつて、つよくうたれしかば、そのまゝ、迯げ去りぬ。

 その刻限より、かの老母、

「せなか、いたむ。」

と、いひければ、いよいよ、うたがひつゝ、親族に、

「かく。」

と告げゝれば、

「ものゝふの身にて、すておくべきに、あらず。心得有るべし。」

と、いはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して、屛風をあげさせたれば、老母、おきなほりて、むねに、手をあて、

「とても、母をいるべくは、こゝを、射よ。」

と、いふに、ひるみて、矢を、はづしたり。

 又、親族にかたらひけるは、

「それは、射藝のいたらぬなり。すみやかに、いとめよ。」

と、いはれて、このたびは、たちまちに、きつて、はなちたれば、手ごたへして、母、にげ出で、庭にて、たふれたり。

 立ちより見るに、母にたがふ事、なし。

 やゝしばし、まもり居たれども、猫にもならざれば、

「こは。いかにせむ。腹きりて、死なん。」

と、いふを、おしとゞめて、

「あすまで、まち、見よ。」

と云ふ人、有り。

 心ならず、一夜をあかしたれば、もと、かひおける猫のすがたになりぬ。

 其のち、たゝみをあげ、ゆかを、はなちて、見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。

 いかにか、なしかりけん、このこと、ふかくひめて、人にかたらざれば、人、しるものなし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 評云、「この鳥居の家老高須氏は、關潢南の、しる人、なり。はじめは定府なりしが、今は勤番にて去歲より、江戶にあり、といふ。又、當主は、今玆十五歲にならせ給ふなり。右の物語り、かたく、いぶかし。もし、在所にての事か、さらずば、昔の事を、今のごとくとりなして、人のかたり聞かせしに非ずや。」。

[やぶちゃん注:「鳥井丹波守」後に「去年【甲子。】」とあるのが不審で、本発会は文政八(一八二五)年十月二十三日で、前年は文政七年甲申であるから、「去年」は「去る年」の意ととるしかない(干支の誤りは資料としては致命的で、それだけで嘘と批難されても文句が言えないのが近世以前の語りのお約束である)。これ以前の甲子は文化元(一八〇四)年である。そうなると、これは下野國壬生(みぶ)藩(藩庁壬生城は現在の栃木県下都賀(しもつが)郡壬生町(まち)にあった)第四代藩主鳥居丹波守忠熹(ただてる 安永五(一七七六)年~文政四(一八二一)年:鳥居家第二十七代当主)ということになる。

「高須源兵衞」鳥居家をずっと遡った信濃高遠藩の初代藩主で鳥居家第二十二代藩主鳥居忠春(寛永元(一六二四)年~寛文三(一六六三)年)の代の筆頭家老に「高須源兵衛」なる人物がいたことが、LocalWiki  伊那」の「大屋敷町」の記事によって判る。彼の後裔と考えられないことはない。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。既に曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草』でも注した。彼は兎園会の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は海棠庵の名で兎園会のメンバーであったかったから、屋代の知人でもあった。

 さて、本話、屋代も不審を示している通り、この話、どこか奇妙で、何となく実在人物を臭わせながらも、それがまた変に非リアルな漢字を与える作りとなってしまっているように私には思われてならない。屋代が「又當主は今玆」(こんじ:今年)「十五歳」と言っているのは、報告当時の文政八(一八二五)年のことで、この時は鳥居家は改易・立藩・移封を経て壬生藩藩主となり、先に示した第四代藩主鳥居忠熹の次男である鳥居丹波守忠威(ただきら 文化六(一八〇九)年~文政九(一八二六)年)の治世であった。更に屋代の謂いも(重箱の隅をほじくるようだが)おかしく、文政八年当時、忠威は数え「十五歳」ではなく「十七歳」である(翌年に夭折)。ともかくも、屋代の言う如く「在所にての事か」或いは「昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせし」ものという、如何にも都市伝説臭の強いものである可能性が極めて濃厚であると言える。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 越後烈女

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○越後烈女        輪  池

 ことし八月の末つかたに、小石川水道端に住める與力藤江又三郞の宅に、强盜入りしことあり。

 あるじは、やも男[やぶちゃん注:「やもを」。「鰥夫」「寡男」。]にて、俳諧の會に行き、老母は親類がり行きて、下女と下男のみ、留守に居たり。

 よる亥の刻過ぐる比、門をたゝく音す。

『あるじのかへりたるならん。』

と思ひて、男、出でて、あけたれば、白刄を提げしもの、五人、おし入りて、この男をしばりあげ、部屋に入れて、二人は、まもりをり。三人は内にいらんとせしを、下女、窓よりのぞきみて、とみに歸り入り、燈火をふきけし、

「誰、おきよ。かれ、起きよ。」

と、有合ひもせざる人を、あるがごとくによばゝり、さて、雨戶を、音たかくあけて、うしろのかたにさけ、椽を下りて、庭に出で、玄關の前に行きて、うかゞふに、人影、なし。

 あたりをみれば、稻荷の祠の垣のかげより、さきにみし、ぬす人三人、出でたり。

 女、少も、さわがず、

「こなたへ、き給へ。みづから、道びきすべし。いざ。」

とて、先に立ちて、刀を前にさげて、椽をあがり、物かげにかくれて、まちゐたり。かくて、ひさしくまてども、入りきたらず。

『いかゞせしならん。』

と、もとの如く、庭にいでゝみるに、さらに、かげも、なし。

 垣のかげを、のぞきみても、あらず。

「さては。にげさりしならん。」

と、あけたる門の戶をたて、戶ざしする音を聞きて、男は、ふるへ聲にて、女を、よぶ。女、

「いかゞせしや。」

と、とへば、

「かく、しばられたり。ときて、たべ。」

と、いふ。すなはち、繩をときながら、

「此有さまを、かならず、人にかたるまじ。あるじにも申すまじ。」

と、いひきかせて、うちに入り、子過ぐる比に、あるじかへりたれば、事、ゆゑなきさまにて、やすませたり。

 あくる日、あるじ、錢湯にゆきたれば、となりの同僚に逢ひたり。

 同僚の、いはく、

「夜邊は、そこには、何ごと、有りしや。」

と。あるじ、

「それがしは他行して、しり侍らず。」

と。

「いかゞなる事にや。たゞならぬ物おとしければ、耳たてゝきゝをり、『猶、物おとせば、出で逢ふべし。』と、身がまへせしが、その内に、納りたれば、うちやすみぬ。」

と。

 あるじ、かへりて、

「かのひとの、かくいはれしは、なにごとか有りし。」

と、とへば、

「しかじか。」

と、こたふ。

「さばかりのことを、いかで告げざるや。」

と、いへば、

「さん候。ぬす人、おしいりたるのみにて、物も、うせず、人もあやまたず候へば、申す迄もなし、とおもひしなり。」

と、こたへて、打ち過ぎぬ。

 わがちかきあたりに、この家あるじの姊あり。長月なかばに、この女、つかひにきたり、姊がいふやう、

「さきに、ぬす人しりぞけしは、たぐひなき、ふるまひなりき。その時、いかゞの覺悟にて有りしぞ。」

と。

 女は、

「堅固の田舍人にて、覺悟と申すことは、しり侍らず。おしはかりても、み給へ。白刄さげしものゝ、いくたりも、入りきたれば、みづからが命は、なき物と、おもひしのみにて侍り。」

と、こたへし。

 越後のむまれにて、年廿あまり三になる、とぞ。酉彥といふものゝ、かたりきかしゝなり。

[やぶちゃん注:最後の方は、当家主人の姉が、直に、その下女に問うたところが、下女が、かく答えたのを、その姉が、たまたま訪ねて行った輪池屋代弘賢に話したというシチュエーションであろうととった。

「小石川水道端」文京区小日向一丁目及び水道一・二丁目。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

ブログ・アクセス1,610,000突破記念 梅崎春生 ピンポンと日蝕

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年一月号『新潮』で、後の短編集「黒い花」(同年十一月・月曜書房刊)に収録された。

 本作では主人公の日記が引用されるのだが、その部分は全体が一字下げで示されてある。ブログでは、そうした字下げが上手くいかないので(やれるんだろうが、やる気が起きない)、その引用部分を太字で示すことにした。

 文中にオリジナルに注を挿入した。若干、梅崎春生の実体験の事実と齟齬する部分があるのを指摘してある。五月蠅いかも知れない。だったら、私の注は取り敢えず飛ばして読んで、読み終わってから、やおら、注を読まれたい。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日深夜、1,610,000アクセスを突破した記念として公開する。ここのところ、夜には作業をせず、酒も切り上げて、驚くべき早い時間(へたをすると八時頃)に就寝することが多く(その代わりに朝は未明に起き、すっきりとした意識の中で作業に入れる)、今朝も、昨日に続きのテクスト注を完成することのみ気に掛かって、アクセス突破にずっと気づかず、記念テクスト公開が、ここまで遅れた。【20211020日 藪野直史】]

 

   ピンポンと日蝕

 

 その頃はつまり、こんなことをしていた。行軍将棋というやつに夢中になって、下宿の親爺を相手に毎晩指してみたり、探偵小説に凝(こ)るとなると、貸本屋から次々借りてきて、丹念な犯人容疑者のリストを作ってみたり。とにかく情熱の発し方が、常套ではなかった。ひとつのことに、ひどく偏執する傾きが出てきていた。その癖ふとしたはずみに、それが厭になると、徹底的に厭になった。思い出すのさえ、厭で厭でたまらなかった。子供の頃の偏食の結果が、今どきこんな妙な形として出てきたのだと、私は半ば本気で考えていた。何しろ、困ったことだ。時計の分解につよい興味をもって、夜中に下宿の大時計をそっと外(はず)してきて、情熱をこめて完全に分解し、こんどは元通りに組立てが出来なくて、一晩中大弱りに弱ったこともあった。[やぶちゃん注:「行軍将棋」軍人将棋のこと。]

 どういうものか、生産的なことには、一向興味が湧かなくなっていた。自分の精神や肉休を浪費したり虐使したり、そんなことだけの生甲斐を私は覚えていた。そして私は私の貧しさや弱さをも、うすうすと感じ始めていた。それはそれは、いろんな意味をふくめた、こみ入った形として。

 ピンポン。こんな他愛のない競技をも、ある日突然好きになったような気がする。その動機は今は忘れた。幸か不幸か私の勤め先には、古ぼけたピンポン台が一台備えてあって、やるとなると、執務時間でも仕事をすっぽかして、私は給仕や同僚を相手にして、球を打ち合ったりした。課には好きなのが三四人はいた。そんな無茶をやっても、クビになるおそれはなかった。なにしろ戦争中で、だんだん人手がなくなって行く頃だったから。仕事の成績はあまり問わず、員数のことばかりに汲々(きゅうきゅう)としている役所だったから。そしてこの私ですらも、この課にとっては、重要な人的資源のひとつであったのだから。人が一人減るということは、課の勢力がそれだけ減るということであった。そしてその補充はほとんどつかなかった。だから上司はにがい顔はしても、私たちを追い出す訳にはいかなかったのだ。もともと気は弱いくせに、そんな条件を、私は最大に利用していた。

 こんな妙な職場が、あの頃にはあちこちにあっただろう。戦争がおそらくそんな妙な状態を作ったのだろう。私がいたのは、教育を司(つかさど)る役所であった。近頃評判になった、庶務課長を殴ったというあの可笑(おか)しな教育委員長が、その頃私の役所の局長補佐か何かをやっていたと思う。その頃あの男は、酷薄な顔付きをした、策士型の紳士だったようだ。今はどうだか知らないけれど。[やぶちゃん注:事実である。梅崎春生は昭和一五(一九四〇)年三月(満二十五歳)に東京帝大文学部国文学科を卒業後(卒論は「森鷗外」(八十枚))、東京都教育局教育研究所に勤務していた(昭和一七(一九四二)年一月の一回目の召集で対馬重砲隊に入隊するも、気管支カタルを肺疾患と判断されて即時帰郷となって療養生活をしたのを挟みつつ、昭和一九(一九四四)年の三月頃まで)。]

 こうして私はまことにピンポンが上手になった。街を歩いていても、掌がひとりでにバットを握る形になっていたりする程、私はピンポンに中毒していた。これで上手にならない訳がない。私は左利(き)きであったし、運動神経も人並み以上に発達していたし、人の盲点をつく才能もあったし、それに手も長かった。ピンポンには、うってつけの条件がそろっていた。こんな条件は、掏摸(すり)にも適するようである。ピンポンと掏摸とは、どこか似たところがあるのだろうと思う。ピンポンの専門家には悪いけれども。

 課の連中同士でやっていても仕方がないというので、ひとつ大会に出て見ようじゃないか、ということになった。私が言い出した訳じゃない。ひとりでにそうなったのだ。私はそんなお祭り騒ぎは、昔から好きではなかった。今でも全く好きではない。つい出場する気持になった経過は、その頃の古い日記帳を開いても、どこにも書いてないようだ。いきなりその日のことだけが書いてある。

 

『九月二十一日。日曜日

 七時に起きた。寝不足で、すこし頭も痛いし、痔(じ)の具合もよろしくない。朝食を済ませて外に出た(朝食。ワカメの味噌汁、海苔(のり)のツクダ煮、小魚の干物。沢庵(たくあん)。評点六点五分)。今目は、築地国民学校で、市区職員の卓球大会が開かれるのである。空の色がきれいであった。膜のような薄い雲を含んで、もはや秋の空のかたちである。休日で静かな本郷の下宿屋街の路地々々に、あかるい光がさんさんと入っていた。太陽は黝(くろ)い屋並の果てに懸っていた。あの太陽が、今日虧(か)けるのだなと思った。ふとそう思っただけで、特別の関心はなかった。煙草を吸いながら、正門前の方角にゆっくり歩いた。――』[やぶちゃん注:日食の記事によって、この日記が昭和一六(一九四一)年九月二十一日(日曜日)の日記であることが判る。この日、日本(当時の日本統治下の台湾・アメリカ領北マリアナ諸島・マーシャル諸島の一部を含む)・ソ連・中国で日食(一部で皆既日食)が観測された。日本では先島諸島に月の本影が懸かり、石垣島・西表島・与那国島で皆既日食が見られ、島の南部を中心線が通った石垣島では、皆既状態が三分以上も継続したという。真珠湾攻撃の二ヶ月半余り前のことである。]

 

 路地から歩み出る二十六歳の自分の姿を、私は今でもありありと思い出せる。その内側に入りこんでではなく、今は外側から眺めた感じとして。独身の下宿住いだから、手入れもろくに行き届かぬくたびれた背広を着て、明るい光の中をそろそろと動いてゆくのだ。痔のために、幾分辛そうな足どりで。また眉根をちょっと寄せたまま。

 この日から半年余り前になるかしら。私は召集を受け、対馬要塞の重砲隊に呼び出され、この病気のために即日帰郷となっていた。あの寒い吹きさらしの検査場。裸になると、どんなに歯を食いしばっていても、がたがたと顫えがくるのだ。都会生活者の私のやせた尻は、毛穴が青黒くぶつぶつと開き、患部は冷えて赤く垂れた。よつん這いになって無抵抗な私の患部にたいし、中年の頑丈な衛生下士官が、言葉と手指で、最大限の罵りと侮辱を加えた。即日帰郷の恩典を得る代償みたいに、若い私はひどく侮辱され、また殴打されたりした。即日帰郷になって後もしばしば、彼等が侮辱を加えたのは、私の患部に対してであって、私の精神に対してではない、と考えたりしたが、そう思いこもうと努力する反面のぼんやりした恐怖と憤怒(ふんぬ)がは、はっきりした形をなさないまま、私の全身ににぶく滲んでいた。この気持を、私は誰にもしゃべろうと思わなかった。うっかりしゃべると、非国民だと言われそうだったから。で、即日帰郷になったことについても、その当座は、肩身が狭いという表情を、無理にでも作っていなければならなかった。そういうことには、私はぬかりはなかった。[やぶちゃん注:年齢は正しいが、先に示した通り、梅崎春生に一回目の召集があったのは、この翌年の昭和七(一九四二)年一月のことであり、事実とは齟齬する。後の展開上の操作である。]

 そんな痔であるから、仲々なおらない。薬を買ってつけることも、ろくにやらないようである。痛む時は、眉をしかめて歩くだけ。しかしその頃、肉休の一部が壊れているという自覚は、生きている感じを妙に強く私にもたせていた。ピンポンや探偵小説などに、自分のすべてを浪費したい衝動、そこに生甲斐をかんじる気持のからくりにも、それはどこかで繋がっていたようだが。[やぶちゃん注:既に注した通り。痔で即日帰郷は真っ赤な噓の創作。]

 とにかくこのような私は、正門前で市電に乗る。

 

『尾張町で乗り換え、八時半に築地についた。講堂に卓球台を四台置いて、もう七、八人の男たちが練習を始めていた。課からの出場選手は、まだ来ていない。私はすみっこの平均台に低く腰をおろして、皆の練習を眺めた。広い講堂に、激しく打ち合う球の音や、跫音(あしおと)や、話声が、高い天井や硝子(ガラス)窓にそうぞうしく反響した。変に神経をいらだたせる雰囲気があった。

 買ってきた朝刊を読もうとして、電車に置き忘れたことに気がついた。窓からさしこむ光が微塵をうかべている。その微塵をゆるがして、外れ球を慌だしく拾いにくる。すみっこにいる私の足もとにも、白い球は生き物のように弾んでころがってくる。私のすぐ近くで、試合の支度をしている男。その脱ぎすてたシャツにただよう、家畜のような体臭。遠くでは、不自然にはしゃいで、気取った球の打ち方をする若者たち。下駄穿(ば)きのままで平気な顔で、講堂に入ってくる給仕風(ふう)の少年。

 そんなような情景を、ぼんやりと目に入れるともなく入れながら、ここに来たことを後悔する気持が、かすかに胸に起伏し始めるのを私は感じた。馴染(なじ)めないこの厭な雰囲気が、私の心を硬くした。暫くしてAが来、そしてOが来た。同じように講堂の入口に立ち止って、ぐるりと場内を見渡し、すみっこにいる私を認めて近づいてきた。ただ言葉すくなく、やあ、やあ、とあいさつした。

 試合はなかなか始まらなかった。私たちも少し練習しておこうと思って、それぞれ用意をした。四台ならんだ一番端の台に行った。そこでは練習試合をやっていた。顔が魚に似た反歯(そっぱ)の若い男が、カウントをとっていた。私はその男に近づいて、こちらも練習したいから、台を半分貸して呉れ、と頼みこんだ。

 その男は、ちらと私たちの顔を見たが、すぐ視線をゲームに戻して、返事もしなかった。一ゲームが終ると、すぐ自分が代って入り、球を打ち合い始めた。私達は佇立(ちょりつ)して、その男の顔を眺めていた。その男は、明かに私たちの視線をさけて、意識した厭なわらい声を立てながら、球を打ちかえしていた。球がくる度に足を大袈裟(おおげさ)にばたばたと床にたたく、みにくい滑稽なプレイ振りであったけれども、その甲(かん)高いわらい声に、聞いても身がすくみそうな、いやな響きがあった。私は、自分の不快さを確かめるような気持で、AとOの横顔をぬすみ見ていた。

 そのうちに、定刻にずいぶんおくれて、開会式が始まった。委員長というぼんやりした顔付きの男の、要領を得ない開会の辞があった。そして整然と並んでいた人々の列が、騒然とくずれたと思うと、練習しているのか試合しているのかわからない状態の中で、もう試合が始まったらしい。カウントをとる鋭い声が、あちらこちらで聞え出した。

 組合せの関係で、私たちは不戦一勝となっていた。長い間待たせられた揚句(あげく)、十一時過ぎになって、私達はやっと試合をすることになった。相手は市立のどこかの病院の医局である。相手はすでに一回戦を勝ち残ってきていた。その試合振りを見ても、彼等の技倆は私たちより遙かにすぐれているのが判った。一番先にAが出た。次にOが出た。私は台に近づかず、講堂のすみっこに立ち、遠く試合を眺めていた。相手の病院からは、応援が何人も来ていた。AやOがしくじるたびに、激しい拍手や声援が起った。若いAやOの姿は、毛をむしられた鶏のように傷ましく、台側をあたふたと動いていた。肉親のものが群集の中でいじめられている、それを見る気持にも似ていた。試合は三人制だから、AもOも負ければ、私は出なくてすむ。その事が瞬間、私の頭をかすめた。出なくても、済むように。――台の周囲から激しい拍手がおこる度に、私は気弱く試合から眼を外(そ)らしていた』

 

 『私たちは、校庭で足を洗って外に出た。尾張町の方にむかって歩きながら、皆いつもより少し饒舌(じょうぜつ)になっていた。白分らの敗因や、相手の特徴について話し合いながら歩いた。その話し方も、お互いをいたわり合うといった気持で支えられ、一人が何かを言い出すと、あとがあわててそれに賛成するという風な会話であった。しばらくしゃべりながら歩いている中に、この共通な敗北感につらぬかれた親近な感じが、ふっと私に厭なものに思われてきた。私は歩度をおとし、何となく空を見上げた。雲が出ていた。その濃淡の雲の層を縫って、太陽が動いている。――

 銀座に出て、ブラジルで三人が珈琲(コーヒー)をすするとき、日が虧(か)け始める時刻がきたらしい。給仕女たちは、黒くいぶした硝子をもって、店を出たり入ったりして、落着かない風(ふう)であった。

 「戦争に行っても、今日のことは思いだすだろうな」

 若いAがぽつんと言った。Aも四、五日前召集今状がきて、明後日出発することになっていた。

 「忘れてしまえよ」

 とOが即座に答えた、どんな意味だかよく判らなかった。それから召集のことをちょっと話し合った。私が経験者だというので、Aは私にいろんなことを聞きたがった。しかし即日帰郷だから、私も軍隊の内部のことは、何も知らない。

 「皆がやる通りやればいいんだよ」

 などと私はこたえた。大人ぶった顔をしてるのが、自分でも感じられた。そのうちにAは、心細そうにだまってしまった。店の表では、空を仰いでいる男女の姿が見える。話はしぜんと日蝕のことにうつっていた。

 「この前の日蝕の日のことを、君は覚えているか?」』

 

 この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである。雲が厚くて、ときどき小雨を落している日であった。その頃の私には、まだ健康な好奇心があった。日蝕が見られないことが、ひどく残念で、取りかえしのつかぬ事のような気がした。私は大学生であった。その日も制服制帽をつけ、学校の構内を横切り、改築前のだだっ広い本郷座に、映画を見に行った。その映画は、私の記億に間違いなければ、あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画であった。見終って外に出て、マリネロという妙な名の喫茶店で、ひとりで熱い茶を飲んだ。そこの給仕女に、私は少しばかり参っていたのである。その日その女は、なぜか店を休んでいた。茶を飲みながらも、映画で聞いたマルタエガルトの声が、いつまでも私の頭のすみに残って、響きつづけるのを感じた。喫茶店を出て、本郷の街をあるきながら、厚い雲の層の彼方で、今壊れかけている太陽のことを私は思った。そして、青春のいろどりとでも言ったようなものが、この自分を包んでいることを、私はぼんやりと感じた。その感じを私は、昨日のことのようにはっきり思い出せるのだが。――[やぶちゃん注:「この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである」一九三六年六月十九日の日食である。この二ヶ月前の四月、春生(満二十一)は東京帝大に入学しており、親友霜多正次らと同人誌『寄港地』を発刊した月でもある(創刊号に春生は名篇「地図」(リンク先は私のサイトのPDF縦書版)を発表している。しかし、同誌は二号で廃刊となった)。「学校の構内を横切り」春生は自身で留年した一年を含め、殆んど講義には出なかった。「本郷座」当時は松竹の映画館。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。『あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画』カルミネ・ガローネ(Carmine Gallone)監督のミュージカル映画「おもかげ」(Casta Diva :「カスタ・ディーヴァ」=「清らかな女神よ」)。イタリアのシチリア島生まれの作曲家で主としてオペラの作曲家として知られたヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメロ・フランチェスコ・ベッリーニ(Vincenzo Salvatore Carmelo Francesco Bellini 一八〇一年~一八三五年:パリ近郊で没)を主人公としたフィクション。原題はベッリーニ作曲の一八三一年初演の全二幕からなるオペラ「ノルマ」(Norma )のソプラノのアリアに基づく。「マルタエガルト」「おもかげ」の主演女優マルタ・エゲルト(Marta Eggerth:本名Eggerth Márta(エッゲルト・マールタ) 一九一二年~二〇一三年)。ハンガリー出身の女優・歌手。彼女はシューベルトを主人公としたオーストリア映画の名作である、ウィリー・フォルスト(Willi Forst)監督の「未完成交響楽」(Leise flehen meine Lieder :一九三三年)で、一躍、有名になった。]

 

『ブラジルを出て、二人に別れた。

 太陽はぎらぎら輝きながら、薄い雲の周辺にあった。眩しいので、形ははっきり判らない。私は銀座四丁目から、電車に乗った。入口のところに立って、外を眺めていた。

 道では、店々から出て来た男や女が、それぞれの形の硝子を黒く塗って、しきりに空を眺めていた。そして電車がある停留場にとまった。

 路地があった。その入口のところに石があって、若い、十七、八のせむしの女がそれに腰を掛け、小さな硝子片をかざして太陽を眺めていた。少し仰向いた姿勢のために、背中の隆起がなお大きく見えた。そのままで動かない女の姿勢を、かたわらに五つ位の着物を着た男の児が立っていて、鋭い眼付きでながめていた。それは好奇の眼付きであったかどうかは、私にはとっさには判らなかった。そして電車が動き出した。

「何故あんな眼付きをしていたのだろう」私は、吊革に下ったまま、そう考えた。電車は轟々(ごうごう)と反響を立てながら、壊れた太陽の下を走って行った』

 

『佗(わび)しい一膳飯屋で、塩辛い魚の煮付と、大根おろしで、貧しい昼食をたべた。紅がらの剝(は)げた樽(たる)が腰掛けの代りになっているのである。お茶を何杯も代えて飲んだ。

 客は私一人であった。飯屋の少女がわざわざ私の為に熱い茶の代りと一緒に、すすを塗った硝子を持って来て呉れた。私は外に出てそれをかざした。

 ――硝子を通した空は暗くて、太陽の色は血のように赤かった。その斜下の部分が三分の一ばかり虧(か)けていた。薄黝(ぐろ)い雲の影が日の面をゆるやかに動いて、太陽は虚しい速度で廻転しているように見えた。寝不足の瞼(まぶた)に、血のような陽の色がちかちかとしみ込んで来た。

 硝子をかえして、私は街を歩いた。どこというあてはなかった。そのうちに小さな映画館の前に出た。私は、絵看板の前に立って長い間見ていた。

 私はぼんやりと見てたんだと思う。三分ぐらい経って始めて、その絵看板が映画「おもかげ」のそれであることに気がついた。その偶然におどろくよりは、先ず不吉に似た感じが私に来た。私は思わず四辺をふりかえった。へんてつもない白日の街が、そこにひろがっていた。

 やがて私は決心して、切符を買い求めた。入って見ると、館内は満員であった。

 そうだ、今日は日曜だったんだなと、初めて気が付いた。廊下にまで人があふれていて、仕方がないから私は喫煙室に行って腰をおろした。疲労が私の肩に、その時重苦しくのしかかって来た。真昼間に映画館などに入っている自分の姿が、何か歯ぎしりでもしたくなるほど腹が立って来た。

 私は煙草に火を点けた。それを待っていたかのように、喫煙室のすみにいた私くらいの若い男がにじり寄って来た。

「済みませんがお火をひとつ――」

 私は、黙ったまま身動きもしなかった。徹底的に黙殺したらどんなものだろう。そういう残酷な興味が私をそそった。私は意地悪く聞えないふりを装っていた。

「済みませんが、火を――」

 手を伸ばして、私の煙草に指をかけようとした。私は身を引いて、相手の顔を見た。丸顔のその男の顔に、血がのぼって来るのがわかった。

「――貸さないのですか」

 男は、のしかかるように私にせまった。私は心弱くもうっかりと、煙草を渡してしまっていた。ふん、と言った表情で、男は自分の煙草に火を点けたと思ったら、いきなり私の煙草を灰皿の中に投げ込んで、肩を怒らせるような歩き方で出て行った。

 激しい憤怒をじっと押ししずめて、私は新しい煙草に火をつけた。舌がざらざらになっていて、不味(まず)かった。私は点けたばかりの煙草を捨てて客席の方に出て行った。

 人々の肩ごしに、灰色に動くスクリーンの人影を見たとき、そしてマルタエガルトの歌声を聞いたとき、不意に瞼を焼くような熱い涙が二粒三粒私の目から流れ出た』

 

 そして私は路地奥の下宿に戻ってくる。痔が痛い。北向きのうす暗い部屋に坐って、ぼんやりしている。何もすることがない。日曜日の夕方の憂鬱が、だんだん強まってくる予感がある。

 夕風が屋根瓦をこすって吹きすぎる音がする。この部屋の真上で、夕方の衰えた光をふくんで、屋根瓦がくろぐろと鎮(しず)もっているありさまを、私はぼんやりと思い浮べている。そしてこの屋根の果てるところに、いかめしい顔の鬼瓦が、必死の表情で傾斜を支えている姿を、私は眼に描いている。このような夕方も、誰も起きていない夜々も、月の夜も、雨の朝も、その鬼瓦はその位置でうごかない。表情も動かさない。ただ必死にしがみついているだけだ。そんなことを、私は考えている。突然私はたまらない感じになって、立ち上る。部屋をうろうろ歩き廻り、帽子をかぶって、部屋を飛び出す。

 

『夕焼の色が次第に褪(あ)せはじめた険しい坂路を、私は蹌踉(そうろう)と餌差町の方に下りて行った。

 通りすがりの果物屋で、私は、一番上等の梨を一箇買った。それを弄(もてあそ)びながら、大通りから入った暗い通りにある居酒屋ののれんを肩で分けて入って行った。腰をおろして、お酒を註文した。

 私は独りで飲むことは少ないが、それでも月に一、二回は此の居酒屋で一人でのんだ。肩を張らない此処の雰囲気が、不思議に私をひきつけるのである。汚れた卓子に梨を置いて、分厚なコップから熱い酒を飲んだ。かけた皿から蚕豆(そらまめ)をつまんで、皮を土間にはき出した。そして、またお代りのお酒を注文した。

 酒を飲んだ翌朝は、御飯が不味(まず)くて食えないから、その時のために買った梨であった。

 酔ってくるにつれて、そうした素面(しらふ)の時の周到さが次第に哀しいものに思われて来だした。私は頰杖を突いたまま、眼を据(す)えてあれやこれやと考えていた。今日一日の出来事が、何か遠く遙かなものに思われた。それと同時に、場末の居酒屋で独り酒を飲んでいる自分の姿が、妙にたよりなく惨(みじ)めなものに思われて来た。

 やがて私は今日の日蝕のことを考えていた。黒い硝子を通して血のように赤く、下辺を脱落させた太陽の形を思い出していた。しかしあの壊れた太陽が、今の私とどんな関係があるのだろう。どこで結び合えばいいのだろう。この疑間はなにか孤絶した感じを、私の胸に運んできた。そして私はAのことを考え、ピンポンのことを考えていた。あのAは今から戦地に行って、自分が言ったように、この日蝕の日のことを、どんな形で思い出せるのだろう?

「もうピンポンも、今日でおしまいだな」

 と私は口に出して呟いた。明日からもうピンポンが、徹底的に嫌いになるだろうという予感は、確かな動かしがたい形で胸にあった。私は卓の下で、そっとバットを握る手付きをこしらえてみた。情緒の変化をはかってみるもののように、オナニイの後のような鈍重な不快感が、私にたちまち落ちてきた。私はあわてて、掌をひらいた。そしてまた卓をたたいて新しいお酒を注文した。

「また別に溺れるものを、おれはやがて見つけるだろう」

 感傷的になってくるのが、自分でも判った。感傷的になることで、酔いを充分廻らせるのが、独りで飲むときの私の方法であった。私は感傷をそだてようとした。そして自らたくらんだ何時ものコースに、今夜もうまく乗れそうであった』

 

『もはや数杯のコップを並べていた。意識がへんにこじれて、それが酔いの頂点にまで達しているようであった。もう頭や手足がすっかり酔っているくせに、極度につめたいところがどこかに残っていて、コップを目に持ってゆく手付きや、飲みほす時の表情などを、じっと見守っているようであった。私はおもむろに掌で内ポケットを触った。明日開かれる役所の会合の金を、私はあずかっていた。今それがここにある。今夜費消しても、明日給料を貰うから、それで埋めればいい。その考えが突然、強く私の心をこすった。――今行けば、まだ間に合う。狭い路地の窓々に、女の顔が花のように咲いている。美しく醜い色情のさまざまな思い出。

(この瞬間を、私は酔いの始めから待っていた!)

 これと同じ場面。居酒屋の親爺の今の姿勢、ものうげに動いている時計の振子、油じみた卓子、きらきら光るこぼれ酒、そしてコップを握る私の手付き、――この瞬間の風景が、そっくりこの前の時の、またその前々の、繰り返し繰り返しの過去の幻像と、ぴったり重なり合った。そして同じ形で、いま私が腰掛けから立ち上ろうとする。……

 よろめきながら、金をはらって、外に出た。ポケットの梨が、つめたく手に触れた。暗い道が、それに続いた』

 

 昭和十×年九月二十一日の日記は、これで終っている。暗い道がそれから、どこへ、何時まで、続いて行ったのか私は知らない。記憶にもない。おそらくは、長い長い距離を、数箇年の間。

 

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 遍路道心 / 現在知られた「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「遍路道心」とは別原稿と推定される

 

  遍 路 道 心

 

きのふにかはるわれの身のうヘ

ゆびはゆびとて十字をきりし

手にも香華(かうげ)はおもたくしをれ

いちねん供養の山路をたどる

ああ道心の秋の山みち

こほろぎの死は銀を生み

つめたく岩魚(いはな)はしりて

遠見(とほみ)に瀧みづのすだれを掛く。

この山路ふかみ

日のぼるれども光を知らず

いちねん供養の坂みちに

われただひとり靑らみて

絕え入るまでも目を閉づる。

絕え入るまでも目を閉づる。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年を大正三(一九一四)年九月九日と限定し、『遺稿』とする。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の中に、同義題名と判断出来る非常によく似た一篇を見出せる。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 偏路道

 

いかなればこそ

きのふにかわる我の身のうヘ

ゆびはゆびとて十字をきりし

手にも香華は重たくしほれ

いちねん供養の山路たどる

ああ道心の秋の山路

こほろぎの死は銀を生み

つめたく岩魚はしりて

遠見に瀧水のすだれを懸く

この山路ふかみ

日のぼるれども光を知らず

いちねん供養の坂路に

われたゞ一人靑らみて

絕え入るまでも瞳をとづる

絕え入るまでも瞳をとづる。

 

しかし、これ、比較して見ると、細かな部分で表記の異同が異様に多い。誤字・歴史的仮名遣・踊り字は補正(三ヶ所ある)としても、尋常ではなく、神経症的に、ある、のである。以下の前の頭の数字は削除を含めた上記のノート版の行数を指し、後者は本篇のそれである。

3「きりし」→2「切りし」

4「重たく」→3「おもたく」

5「山路たどる」→4「山路をたどる」

6「山路」→5「山みち」

8「岩魚」《ルビなし》→7「岩魚(いはな)」《ルビあり》

9「瀧水」→8「瀧みづ」

9「懸く」→8「掛く。」《漢字の相違と句点の有無》

12「坂路」→11「坂道みち」

13「一人」→12「ひとり」

14「瞳」→13「目」

14「とづる」→13「閉づる。」《漢字の相違と句点の有無》

15「瞳」→14「目」

14「とづる。」→13「閉づる。」

もある(十三箇所で、先の補正箇所を含めると、実に十六箇所にも及ぶ)。これは、いっかな、いい加減な編集者でもやらかしようのないものであり、本篇は現在知られている「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」と同じものを起こしたものとは、到底、思えない代物であるのである(なお、筑摩書房版全集では、校訂本文で「日のぼるれども光を知らず」を「日のぼれども光を知らず」と消毒している)。これは、今は失われた別な草稿によるものと考えるのが自然である。

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 合唱

 

  合   唱

 

にくしん

にくしん

たれか肉身をおとろへしむ

すでにうぐひす落ちてやぶれ

石やぶれ

地はするどき白金なるに

にくしん

にくしん

にくしん

にくしんは蒼天にいぢらしき涙をながす

ああ なんぢの肉身。

                  ―吾妻にて―

 

[やぶちゃん注:底本では、大正三(一九一四)年八月の作とし、翌大正四年一月の『水甕』初出とする。筑摩版全集でも、当該雑誌の同年一月号とする。初出を示す。歴史的仮名遣の誤り・誤字(誤植)はママ。

 

  合唄

 

にくしん、

にくしん、

たれか肉身をおとろへしむ、

既にうぐゐす落ちてやぶれ、

石やぶれ、

地はするどき白金なるに、

にくしん、

にくしん、

にくしんは蒼天にいぢらしき淚をながす、

ああ、なんぢの肉身。

             ――八月作――

 

当初、底本の「にくしん」の後半の単独の三連呼は、編集者の誤りの可能性が高いようにも思われたが、後書の「吾妻にて」は初出とは異なる別原稿である可能性をも示すものである。実際、筑摩版年譜を見ると、この大正三年八月に例の群馬県吾妻郡中之条町四万の四万温泉積善館に避暑しているからである(十三日に前橋に帰った)。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 墓參 /詩集「蝶を夢む」の「輝やける手」の初出形

 

  墓   參

 

おくつきの砂より

けちえんの手くびは光る

かがやく白きらうまちずむの屍蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ 故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かがやき指はひらかれ

石英の腐りたる

我れが烈しき感傷に

けちえんの らうまちずむの手は光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。なお、最終行の「らうまちずむ」には傍点はない。「らうまちずむ」は自己免疫疾患の一つで機序がよく判っていないリウマチ(rheumatism:英語のカタカナ音写は「リュマティズム」が近い)のこと。関節・骨・筋肉の強張り・腫 れ・痛み・変形などの症状を呈する疾患の総称。古代には「悪い液が身体各部を流れていって起こる」と考えられ、名は「流れる」の意のギリシャ語に由来するほどに古い。現在は主に「慢性関節リウマチ」を指す。「リューマチ」「ロイマチス」とも表記する。底本では、大正三(一九一四)年八月二十日の作とし、翌大正四年一月の『異端』初出とする。筑摩版全集でも、当該雑誌の同年一月号とする。初出を示す。歴史的仮名遣の誤り・誤字はママ。

 

 墓參

 

おくつきの砂より、

けちゑんの手くびは光る、

かゞやく白きらうまちずむの屍臘の手、

指くされども、

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ、

手にも秋くさの香華(かうげ)おとろへ、

靑らみ肢體に螢を點じ、

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ、おくつきに銀のてぶくろ、

かゞやき指はひらかれ、

石英の腐りたる、

われが烈しき感傷に、

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

           ――一九一四、八、二〇――

 

さて、この詩篇は、後の萩原朔太郎の第三詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月十四日新潮社刊)に、「輝やける手」と改題して、以下のように載る。ルビは一切ない。

 

 輝やける手

 

おくつきの砂より

けちゑんの手くびは光る

かゞやく白きらうまちずむの屍蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かゞやき指はひらかれ

石英の腐りたる

われが烈しき感傷に

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

 

やはり最終行の「らうまちずむ」に傍点はない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 空中樓閣

 

  空 中 樓 閣

 

みそらに都會あり

靑は衣裝

紅は音樂

黃は聖母

菫は榮光

 

みよ魚鳥遠(とほ)きに商(あきな)はれ

ふんすゐをせきめぐるの小路

往來風ながれ

紙(かみ)製の果物ぞならぶ

 

ああしばし

わが念願は鈴をふり

遊樂はみどりなす出窓にいこふ

 

音もなきみ空の都會

しめやかに みなみへながれ行方を知らず

はれるや。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年を大正三(一九一四)年八月とし、『遺稿』とする。筑摩版全集では、「未發表詩篇」にある。以下に示す。

 

  空中樓閣

 

みそらに都會あり、

靑は衣裝、

紅は音樂、

黃は聖母、

菫は榮光、

 

みよ魚鳥遠(とほ)きに商(あきな)はれ、

ふんすゐをせきめぐるの小路、

往來風ながれ、

紙(かみ)製の果物ぞならぶ、

 

ああしばし、

わが念願は鈴をふり、

遊樂はみどりなす出窓にいこふ、

 

音もなきみ空の都會、

しめやかにみなみへながれ行方を知らず、

はれるや。

 

とある。同一の原稿と考えてよかろう。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 交歡記誌 / 附・草稿

 

  交 歡 記 誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ ひとびときたる

遠方より魚を光らし

遊樂の戯奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああいま新らしき遊戯は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

[やぶちゃん注:底本では大正三(一九一四)年七月『創作』初出とする。筑摩版全集では、同年同月号の同雑誌を初出とする。初出形を示す。

 

  交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

先頭にある指もで十字を切るごとし

女は左に素脚をひからし

男は右にならびて杖をとがらす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、ともがらはしんあいなり

遊樂は祈禱の沒落

靈肉の音の交歡

いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

であるが、編者注があり、『右の十二――十五行、十七――十九行を削除し、十二行目の冒頭に「ああ、」を加えている掲載誌が殘っている』とある。それに従って、整序したものを以下に示す。

 

  交歡記誌

 

みどりに深き手を泳がせ

凉しきところに齒をかくせ

いま風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすゐのほとりに家畜を先導し

きみは舞妓たちを配列し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

夫人よ、おんみらはまた

とく水色の籐椅子(といす)に酒をそそぎてよ

みよ、ひとびときたる

遠方より魚を光らし

淫樂の戲奴は靴先に鈴を鳴らせり。

ああ、いま新らしき遊戲は行はれ

遠望の海さんさんたるに

われ諸君とゆびさし

眺望してながく塔下に演說す。

 

この読点二箇所を除去し、「淫樂」を「遊樂」にすると、本篇となることから、これは、同じ修正雑誌をもとにしつつ、初期形にあった「遊樂」を「淫樂」に取り違えたもののように思われる。因みに、「戲奴」は道化で「ジョーカー」と読んでいるものと私は思う。仮にルビを想起するなら、「ジヨーカー」「ヂヤウカア」「ヂヤオカア」などがあるようである。

 なお、筑摩版全集の草稿詩篇「拾遺詩篇」に本篇の草稿『(本篇原稿一種一枚)』として載っている(無題)。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  

 

みどりにふかく手を泳がせ

涼しきところに齒をかくせ

いま白く風ながれ

風景は白き帆をはらむ

きみはふんすいのほとりに家畜を先導し

きみはあづまやに銀のタクトをとれ

きみはまた舞妓たちを排列し

きみはおんみら……

この夫人と少女(おとめ)の會員

とく水色の藤椅子に酒をそそぎてよ

ああ、ひとびときたる

先頭に ありて たちて遠方にあるは魚肉を捧ぐるは我の戀びと

┃戀びとは路に逍逢〉步

 戀人の步道にむかひむ道路

 步道は銀の

 戀人の路を

[やぶちゃん注:以上の四行は並置。「┃」はママ。]

その みよ指はやさしく十字をきるごとし

行く行く指もて十字きるごとし

┃路はぎらら銀をはる

[やぶちゃん注:以上の三行は並置であるが、二行目の「┃行く行く指もて十字きるごとし」と三行目の「┃路はぎらら銀板をはる」の頭の「┃」は底本では繋がっている。意味は不明。]

女は左より來りてに素足光らし

男は右にならびて杖を光らす

みよ愛は行列のしりへに跳躍し

淫樂の戲奴は靴先に鈴を嗚らせり

あゝともがらはしんあいなり

 

最後に編者注があり、『以下の原稿はない。本稿の欄外に次の三行が記されている』とあって、

 

 遠方より魚肉を捧げ

 先頭にあるは指もて十字をきる如し

 したいに銀張の步道をすべり

 

とある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 純銀の賽 / 附・草稿

 

  第三(『月に吠える』時代)

 

 

  純 銀 の 賽

 

みよわが賽(さい)は空にあり

空は透靑

白鳥はこてえぢのまどべに泳ぎ

卓は一列

同志の瞳は愛にもゆ

 

みよわが賽は空にあり

賽は純銀

はあとの「A」は指にはじかれ

緑卓のうへ

同志の瞳は愛にもゆ

 

みよわが光は空にあり

空は白金

ふきあげのみづちりこぼれて

わが賽は魚となり

卓上の手はみどりをふくむ。

 

ああいまも想をこらすわれのうへ

またえれなのうへ

愛は祈禱となり

賭博は風にながれて

さかづきはみ空に高く鳴りもわたれり。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本巻末の「詩作品年譜」では、大正三(一九一四)年八月三十一日の制作年月日を示し、大正三年十月の『地上巡禮』を初出とする。筑摩版全集でも「拾遺詩篇」に同雑誌同月号を初出として載る。初出形を示す。

 

 純銀の賽

 

みよわが賽(さい)は空にあり、

空には透靑、

白鳥はこてえぢのまどべに泳ぎ、

卓は一列、

同志の瞳は愛にもゆ、

 

みよわが賽は空にあり、

賽は純銀、

はあとの「A」は指にはじかれ、

綠卓のうへ、

同志の瞳は愛にもゆ。

 

みよわが光は空にあり、

空は白金、

ふきあげのみづちりこぼれて、

わが賽は魚となり、

卓上の手はみどりをくむ。

 

ああいまも想をこらすわれのうへ、

またえれなのうへ、

愛は祈禱となり、

賭博は風にながれて、

さかづきはみ空に高く鳴りもわたれり。

            ―八月三十一日―

 

本篇とは、第三連の最後が異なる。しかし、これは筑摩版の方が正しいようである。「含む」ではイメージとしてはおかしいとは言えぬものの、どうも前との連関が悪く、「汲む」ですんなりと読める。

 また、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に「坑夫の歌」と題した本篇の草稿とする『本篇原稿一種一枚』とあるものが載る。以下に示す。誤字・脱字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  坑夫の歌

 

ああ、いまも思ひを凝らす我のうヘ

またえれなのうヘ

トバクは白金の祀禱となり風にながれ

愛は祈禱となり宴は光る魚となり

さかづきは高く高く空に合さる

み空に高く玻璃はあはさる

み空に玻璃は鳴りもわたれり

[やぶちゃん注:以上二行は並置。]

   すゞしくも君にぬぐはる、

淚は

   おんきみの脣(くち)にぬぐはる、

[やぶちゃん注:以上の後半の前後は二行並置。]

みよ 見よ、いま、かゞやく空 より賽は投げられ

みよ空いまわが賽は空にあり

その銀は魚となり

その銀はいさなとなり

尾ひれきらめき

てえぶるは水をたぎらす

水をたぎらす綠卓のうヘ

するどく落ちて破るゝもの

純銀の賽のやぶるもの

ああ ああたゞたゞわが瞳のみそれを知る

えれなよ

わが君よ

[やぶちゃん注:以上二行は並置。]

いまぞ靑空に向ひて破璃を鳴らせよ

[やぶちゃん注:また、編者後注によれば、この『「わが君よ/いまぞ靑空に向ひて破璃を鳴らせよ」は線でかこまれている』ともある。]

えれなよ

ああわが賽はすでに投げられ

そのするどさに肢體は やぶれ きゝづき 額は足はきゞつき

ああ瞳は光にめしひ

ああはや床に晶玉やぶれ

わがああはやトバクは風にながれて

さかづきは空に光れり「ちゝら」と靑空に鳴りもわたれり。

 

最後に編者注があり、『本稿下欄に次の記載がある』として、以下を示す。

 

 えれなよ

 瞳は光にめしひ

 そのするどさに足 やぶれ きゞゝき

 床に晶玉やぶれて

 見よいま空より賽は高くなげられ、

 えれなよ

 ああわが春はいたく投げられ

 2そのするどさに瞳はめしひ

 3 肉やぶれきゝづきやぶれ

 4床に晶玉やぶれつれども

 5はやわがトバクは風に流れて

 さかづきはちちとに靑空に鳴りもわたれり、

 

後注に、以上の下欄の記載については、『行頭の數字は著者の附したもの』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 白猿賊をなす事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○白猿、賊をなす事

 佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり。此役所を預りをる大山十郞といふ人、先祖より傳來する所の貞宗の刀を祕藏して、每年、夏六月に至れば、是を取り出だして、風を入るゝ事あり。

 文政元六月[やぶちゃん注:一八一八年。文化十五年四月二十二日に仁孝天皇即位のために改元されていた。同年の六月はグレゴリオ暦の七月とほぼ一致する。]、例のごとく、座敷に出だし置きて、あるじも、かたはら、去らず、守り居けるに、いづこより、いつのまに來りけん、白き猿の三尺ばかりなるが、一疋、來りて、かの貞宗の刀を、奪ひ、立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじも、

「やゝ。」

と、いひつゝ、おつとり刀にて、追ひかけ出づるを、

「何事やらん。」

と、從者共も、あるじのあとにつきて走り出でつゝ、追ひゆく程に、猿は、其ほとりの山中に入りて、ゆくへを、しらず。

 あるじは、いかにともせんすべなさに、途中より立ち歸り、この事、從者等をはじめとして、親しき者にも告げしらせ、翌日、大勢、手配りして、かの山にわけ入り、奧ふかくたづねけるに、とある芝原の廣らかなる處に、大きなる猿、二、三十疋、まとゐして、其中央にかの白猿は、藤の蔓を帶にして、きのふ、奪ひし一腰を帶び、外の猿どもと、何事やらん、談じゐる體なり。

 これを見るより、十郞はじめ、從者も、刀をぬきつれ[やぶちゃん注:ママ。「連れ」も考えたが、続きから考えると、一番穏当なのは「つゝ」の誤判読であろう。]、切り入りければ、猿ども驚き、ことごとく迯げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を、拔はなし、人々と戰ひけるうち、五、六人、手負たり。白猿の身に、いさゝかも、疵、つかず。度々、切りつくるといへども、さらに、身に通らず。鐵砲だに通らねば、人々、あぐみはてゝ見えたるに、白猿は、猶、山、ふかく迯げ去りけり。

 夫より、山獵師共を、かたらひけるに[やぶちゃん注:彼らを相手に話を聴いてみると。]、此猿、

「たまたま見あたる時も候へども、中々、鐵砲も通らず。」

と、いへり。

 此後、いかになりけん。今に、手に入らざるよし。

 その翌年、かの地の者、來りて語りしを思ひ出でゝ、けふの「兎園」の一くさにもと、記し出だすになん。

  文政乙酉孟冬念三    文寶堂散木記

天 正 兎 園

[やぶちゃん注:『佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり』佐竹氏の久保田藩(秋田藩)が藩領内の山域の林業管理・保全・警備のために置いた出先の役所。正式には「木山方役所」(「きやまかたやくしょ」と読むか)で、狭義のそれは「能代木山役所」・「銅山木山役所」であるが、広義には木山方吟味役が配置された「御薪方役所」も含まれるであろう(以上は芳賀和樹・加藤衛拡氏の論文「19世紀の秋田藩林政改革と近代への継承」PDF・『林業経済研究』第五十八巻・二〇一二年春季大会論文)に拠った)。前者の担当域は以下の阿仁銅山を除いた、現在の能代市及び男鹿半島一帯に及ぶ山間部であるが、「能代木山役所」の位置は他の文書も見たが、よく判らなかった(感触的には木材運搬に利用した米代川中流の両右岸山間部の麓辺りかと思われる)。後者は旧「阿仁鉱山」を中心とした山間にあった。

「貞宗」サイト「刀剣ワールド」の「貞宗」によれば、『鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。相州伝を代表する正宗の門人で、技量を見込まれ』、『養子になったと伝わっています』(以下は専門用語がよく判らぬが引用しておく)。『大摺上の太刀は身幅が広く、鋒/切先の形状は「大鋒」(おおきっさき)の物が多いのが特徴。地鉄(じがね)は板目に杢が入り詰み、地沸厚く付き』、『地景が盛んに入り、刃文は大湾(おおのた)れを主にし、小乱れや互(ぐ)の目のついた作例が多く、刃中の働きは金筋・稲妻・砂流しが激しくかかっています』。『太刀・短刀とも師・正宗に比べて穏やかな作風。片切刃造と二筋樋は、貞宗から始まっており、現存する日本刀は、すべて無銘で在銘作はありません』とある。

「天正」よく判らぬが、これ、天正の年号の元とされる「老子」の「洪德第四十五」にある「淸靜爲天下正」(淸靜(しやうじやう)なるは天下の正と爲(な)る)」で、この発会の文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)は、冬晴れのピーカンであったのかも知れない。]

2021/10/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐の祐天

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○狐の祐天

 文政三庚辰年[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋、大傳馬町二丁目、きせる問屋升屋善兵衞といふものゝ娘【年十八、名は「ゑい」。】に、祐天僧正のゝりうつり、此むすめ、俄に六字の名號をかき、名をば、則、

「祐天」

と、かきて、花押まで、少しもたがはざれば、

「名號を書きて貰はん。」

「十念を、うけん。」

「昔、羽生村の累女を得脫させし僧正の、再び來らせ給ひし。」

とて、愚痴無智の老若男女、升屋が門に、市をなせり。

 此むすめ、名號をもかき、十念をも出だせど、來り給はぬ時は、常の娘にて、平日に、かはること、なし。

「此娘の、かきたる名號なり。」

とて、元飯田町藥店小松三右衞門より、もたせこしたり。

 ひらきみれば、表裝は赤地の錦にて、いと立派に仕立たる絹地の竪物に、

  南 無 * ※ 位 佛    祐 天 ★

[やぶちゃん注:「*」と「※」は崩しでよく判らぬ字であり、「★」は華押なれば、画像で示す。

「*」(「彌」であるべき字)は ↓

Mi_20211019164501

「※」(「陀」であるべき字)は ↓

Da

祐天の華押とする「★」は ↓

Yutenkaou

である。祐天の華押の本物を捜したが、見当たらない。見つけたら、示す。]

かくのごとく、「彌陀」の二字、たがへり。これを借り得て、南畝翁に見せけるに、折ふし、酒宴の時なりけり。

「貴き名號なれば、今、腥き口にては、親鸞ならば、貪着は有るまじけれど、祐天には、ちとは、ふむきなり。」

とて、口そゝぎて、一軸をひらき、よくよく見られて、

「此『彌陀』の二字をかへたるは、まさしく狐狸のわざならん。憚りて、わざと、かく書きたがへしものなるべし。口そゝぎて、やくなき事をしたり。」

など、いひつゝ、又、盃をかたぶけて例の口、とく、

 祐天がのりうつりたる名號のひかりをみたの二字にこそしれ

 此娘の沙汰、

「あまりに、いぶかしき事なり。」

とて、大傳馬町名主馬込氏、みづから、升屋かたへゆきて、委しく聞き糺し、夫より、娘に面會して、さまざまに詮議して、問ひつめければ、是非なく、本性をあらはしたる處、狐のつきたるに相違なければ、馬込、いよいよ、きびしく問答し、つめて、此きつねを退けたりとぞ。

 此娘に「きつね」をつけたる事は、此升屋の後家なるもの、上州より、年々、來て、滯留せる絹商人彌三郞といふ者と密通して、此「絹うり」のたくみなるよし。

 此事、既に露顯に及びければ、絹賣は出奔しけり。

 後家をば、親里へ預け、娘「ゑい」をば、親類方へ引きわたし、當主、幼年なれば、事、落着まで、是迄の通り、支配人持とせり。これ、皆、馬込のはからひなるよし。

 此頃、馬込の取沙汰、よく、

「宿老は、かく有りたきものなり。」

と、人々、いひあへり。

 これにつけても、名號を、一度、見られて、

「狐狸のわざ。」

と、はや、さとられし南畝翁の先見、明らかなりと、いふべし。

 狂詠に、「名號のひかりをみたの二字」と「しれ」とは、もとより貴き彌陀の二字なれば、その光りにおそれて、書きかへたれば、則、『此二字にて、怪しきものゝ所爲なるをしれ』と、よまれしものなるべし。

[やぶちゃん注:現在の東京都中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸最大の繊維問屋街として知られた。ここでも「絹商人彌三郞」で親和性がある。

「祐天」江戸最強のゴースト・バスター祐天上人(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。浄土宗大本山増上寺第三十六世法主にして大僧正。陸奥の人。号は明蓮社顕誉。徳川綱吉・家宣らの帰依を受けた。ここでも「昔、羽生村」(はにふむら)「の累女」(かさねぢよ)「を得脫させし僧正」とあるように、当該ウィキに、『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話』「死靈解脫物語聞書(しりやうげだつものがたりききがき)」で、『この説話をもとに多くの作品が創作されており、曲亭馬琴の読本「新累解脫物語」や、『三遊亭円朝の怪談』「眞景累ヶ淵」(この「しんけい」は「神経」に通わせた洒落である)『などが有名である』。この「死霊解脱物語聞書」は実は江戸で最も流行った怪談で、知らぬ者はいなかった。筆者は殘壽(ざんじゅ)という僧で、彼は祐天上人の直弟子の浄土宗の説教僧と考えられている。元禄三(一六九〇)年板行である。私は、人に江戸怪談では何がお薦めかと聴かれると、第一にこの「死霊解脱物語聞書」を挙げるのを常としている。一九九二年国書刊行会刊の「江戸文庫 近世奇談集成(一)」で読んだ時には、読み終わるが惜しいほどに感激したものであった。いつか、電子化したい。

「元飯田町」(もといいいだまち)は現在の千代田区富士見一丁目及び九段北一丁目

「南畝翁」大田南畝。

「貪着」(とんぢやく(とんじゃく))拘ること。

「やくなき事」「益無き事」無益で、つまらないこと。

『此娘に「きつね」をつけたる事は、此升屋の後家なるもの、上州より、年々、來て、滯留せる絹商人彌三郞といふ者と密通して、此「絹うり」のたくみなるよし』というよりもだな、この弥三郎……恐らくはかあちゃんの後家に飽きてしまい、この「ゑい」(多分「榮」か「衞」であろう)に手をつけたんだろうぜ……されば、こそ、神経症かヒステリーになった彼女が「狐憑き」を無意識に演じたと考えた方が、遙かに信じられるってえもんだぜい!

「宿老」江戸時代、町内の年寄役を、こう呼んだ。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佐久山自然石

 

  ○佐久山自然石

 

Sakuyamasizenseki

 

[やぶちゃん注:底本からトリミング補正した。キャプションは、

南無日蓮大菩薩

と、

野州那須郡佐久山箒川出現御影

である。薬師如来三尊像の脇侍(脇侍を言う時には主尊と同じ向きになって左右を言う)の日光・月光菩薩の配置に従うなら、向かって右手(左脇侍)が日輪であり、左手(右脇侍)が月輪である。]

 

野州佐久山【福原家采地。】中町にすむ、「住吉や爲八」といふもの、當文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の四月のころ、おのれが裏なる地面に、「鯉の魚溜を作る。」とて、まはりの石垣に用ふる石を、ちかきほとりの箒川より、取り寄せける。そが中に、丸き石に、自然と、二分程も高く、佛像、現れ、左右に、日輪・月輪めくもの、あるを、見出だしたり。「奇なるものなり。」とて、同州太田原城下の日蓮宗住持に見せけるに、「祖師上人の御すがたに、違ひなし。」と驚嘆せしかば、此爲八、瘤[やぶちゃん注:「こぶ」。]の、いできありしを、立願[やぶちゃん注:「りふぐわん」。]なせしに、頓に、いえけり。是よりの後、近國より聞き傳へて、日々、參詣、群集しつ。「このごろは、いとにぎやかなり。」とて、福原家の臣原某が、右の石の搨本をおくりてかたりき。

  乙酉仲冬集初冬念三     海 棠 庵

[やぶちゃん注:「野州佐久山」栃木県大田原市佐久山(グーグル・マップ・データ)。

「魚溜」「うおだめ」と読んでおく(瀧の名で「うをどめ」と読むケースがあったが)。これは生簀、或いは、普通の池の意であろう。

「箒川」(はうきがは(ほうきがわ))は佐久山の北端を流れる。

「月輪」は仏教絡みなので「がちりん」と読んでおく。満月。

「太田原城」ここ。位置関係が判るように、下方中央に佐久山を配した(佐久山小学校の名が見える)

「搨本」(たふほん(とうほん))は拓本のこと。

「仲冬集初冬念三」「仲冬」は冬の真ん中で十一月の異称。「集」は「つどひ」で「兎園会」集会を指すものでそれが、この会は従来、各月の一日に催されているのだが、理由は判らぬが、目次によれば、十一月分の「集(つど)ひ」を、少し繰り上がって「初冬」=十月の「念三」=二十三日に行ったことを記しているものである。会場も海棠庵邸であったから、ホストとして最後に異例の発会日を敢えて記したものなのであろう。或いは、海棠庵の都合で、こうなったものだったのかも知れない。因みに文政八年十月二十三日はグレゴリオ暦一八二五年十二月七日であった。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蝦夷靈龜 蝦夷靈龜考異

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。主文は海棠庵関思亮であるが、馬琴が、自分の知っている話とかなり違いがあるため、馬琴自身が、ブイブイと途中に五月蠅く「考異」(同じ事件を異った話と比較して考えたこと)を裁ち入れているために、甚だ、話のリズムが悪くなっている。馬琴のそれを太字にしたので、最初は、そこを飛ばして読んだ方が私はいいと思う。]

 

   ○蝦夷靈龜

 江戶坂本町小村屋平四郞といふもの、松前東蝦夷地アツケシ【松前城下より行程四百里ばかり。】といふ場所、受負人にて、手代惣助といふもの、當文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]正月に、はやく松前へ渡海してけり。

[やぶちゃん注:「アツケシ」現在の北海道釧路総合振興局厚岸町(グーグル・マップ・データ)。

 以下の一段落は底本では、全体が一字下げ。]

 考異に云、「アツケシは三千石目運上請負の獵濱なり。又、惣助は平四郞が子にて、松前へ渡り、蝦夷地へ往來するものとぞ。手代には、あらず。」。

 おなじく四月よりアツケシヘ赴きて、漁獵の事、よろづ、手くばりしてをりしに、六月にもなりければ、漁事、いそがはしく、日に日に、蝦夷人、うちまじりて、網をおろしなどする程に、あるとき、彌三郞とて、獵事の頭取をするもの、惣助が許に來て、

「今日の漁獵は、殊によき勝利したり。濱邊に出て、見給へ。」

といふ。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 考異に云、「アツケシは、春三月ごろより、漁獵をすなり。大龜を獲たるは、四月ごろといふ[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では同年四月一日は五月十八日。]。且、彌三郞は、この漁場をあづかるものにて、所謂、支配人なり。是、惣助がためには老僕なり。

「いかなるものを得しやらん。」

とて行きて見れば、長さは弐間にあまり[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル超。]、橫幅一丈餘もあらんとおぼしき大龜【龜といへど、鼈の類にて、方言に「トツキ」といふものなり。】の網にかゝりてあり。

[やぶちゃん注:「鼈」スッポン(爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポンPelodiscus sinensis 。しかし、スッポンは海には棲息しないから、ここは単に水産の大亀の謂いであろう。]

 濱邊にあぐるには、五人、十人のちからに、かなふべくもあらねば、船を引く「ろくろ」といふものにて、からくして、引きあげたり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 考異に云、「この大龜は俗にいふ「海坊主」「正覺坊」の類にあらず。又、常陸の海よりあがる「浮木」の類にもあらず。全體、脂膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]多く、且、『その甲のへりを、細工にも、つかふ。』といふ。又、云、「『トツキ』は、五、六尺のもの、たゝみ弐疊敷ばかりなるは、をりをり、網にかゝることあり。さばれ、如此、大きなるは、稀に得がたし。」とぞ。おもふに黿の類なるべし。」。

[やぶちゃん注:「海坊主」「正覺坊」カメ目ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas の異称。

「浮木」条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola の異称。

「トツキ」不詳。いかにもな印象だが、アイヌ語ではないようである。

「黿」音「ゲン」。これはアオウミガメ或いはマルスッポン(スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii )を指すので、話が判らぬ。他の作品を見ても、個人的印象だが、馬琴は水産生物にはちょっと踈い感じがする。他のウミガメはウミガメ科アカウミガメ亜科アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta ・潜頸亜目ウミガメ上科オサガメ科オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea ・ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata がいるが、アオウミガメも含めて、三種とも分布域が温帯から熱帯域を主分布とする。しかし、ウミガメの行動範囲は流動的であるから、あってもおかしくない。オサガメは甲羅が発達せず、甲羅を細工に使うという点で除外される。鼈甲材料とされるアカウミガメが一番の候補であり、実際、ネットで検索すると、海水温の上昇のせいか、最近では北海道でしばしばアカウミガメが網に掛かったり、保護されたりしている記事が、複数、確認出来る。]

 よく見るに、その頭も、又、ふたかゝへもありぬべし。この龜、惣助を見て、淚を流しつゝ、哀を請ふありさまなれば、惣助、つらく思ふやう、

『かくまで巨大なる龜の、いくばく、年を歷しやらん。「龜の齡は萬歲を保つ」としも聞くものを。さらば、又、このものも千載を經しものにこそ。』

と、おもふに、そゞろに、かはいくおぼえて、さて、龜にむかひ、いふやう、

「汝は齡の長からんを、殺さんことの不便さよ。この濱は、ちかきころ、としどしに、不獵のみにて、わがうへ[やぶちゃん注:私の立場上。]、いたく、仕合[やぶちゃん注:「しあはせ」。]わろし。汝、助命のめぐみをおもうて、海のさち、あらせんや。」

と、さながら、人にものいふごとく、おもひ入りつゝ說き示すに、龜は、いよいよ、淚をながし、首(カウベ)をあげて、

「キヽ。」

と、なく。

 そのさま、こゝろ得たるごとし。

『さては。はや、聞きわきたりな。さるにても、不思議なれ。』

と思ふに、不便[やぶちゃん注:「ふびん」。]、いや、まして、又、

「しかじか。」

と說き示せば、龜も亦、かうべをもたげて、

「キヽ。」

と、なく。初のごとし。

 これにより、惣助は、彌三郞に、よしを告げて、

「放ちやらん。」

と、いひけるを、彌三郞、從がはず。

「あの龜の油をしぼらば、三十金にもなりぬべし。甲も又、二十金にはなるべきを、放ちやるべきことかは。」

と、うち腹立て、爭ふにぞ、惣助、かさねて、

「大なる漁獵を業にすなるものが、はつかなる金の爲に。助けやらんと思ひしものを、殺さんは、不便なり。」

といふを、彌三郞、聞きあへず、

「あの龜より、ちひさきを、さきの年に得たりしときだに、云々[やぶちゃん注:「しかじか」。]の利のありけるに、ふたゝび、得がたき大龜を得て、又、捨つるは、えうなし。」とて、從ふ氣色、なかりしかば、惣助が、又、いはく、

「まづ、あの龜をよく見て、後にともかくもせよかし。」

とて、さらに、兩人、つれ立ちゆきて、龜に向ひて、はじめのごとく、

「しかじか。」

と說き示すに、龜のありさま、又、同じ。

 彌三郞も、此體たらくに、あはれみの心おこりて、

「放ち給へ。」

と、いひしかば、惣助は、よろこびて、

「後々のしるしに。」

とて、甲のはしを少しけづりて、又、かの「ろくろ」もて、卷おろさせ、そがまゝ、はなちつかはしければ、龜は海底にしづみつゝ、凡、十町ばかり[やぶちゃん注:千九十一メートル。]にして、波の上に浮きあがり、こなたに向ひて、かうべを動かし、又、沈みつゝ、はるかの沖にて、浮きあがること、始のごとく、忽、みえずなりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下同前の字下げ。ただ、かなり長い(太字終了まで全部)ので、改行を加えた。]

 考異に云、「アツケシの濱、近年、不獵にして、三千石目の運上に引きあはず。これにより、請負人は、借財なども、多くいで來しかども、

「今年は、よき獵、あらんか。明年は仕合のなほらんか。」

とて、からく、とりつゞきたれども、この兩三年、いよいよ、小獵なるにより、

『とてもかくても、この乙酉の年を限に、弗と[やぶちゃん注:「ふつと」。]やめん。』

と思ひゐたり。

 かくて、惣助、ある日、獵場を見𢌞りしに、支配人彌三郞が云、

「けふは、よきトツキ【大龜の方言。】がかゝりて候。これまで稀に網に入りしは、五、六尺のものなるに、それには五倍のものにこそ。」

といふ。

 惣助は濱邊にゆきて、件の龜をよく見るに云々【この間は、この本文に、いへるがごとし。】。

 さて、立ちかへり、又、彌三郞にいふやう、

「われ、今行きて、『トツキ』を見たるに、實に大きなることは、實に未曾有のものなり。しかれども、われは、彼を助けて、放ちやらん、と思ふなり。」

といふ。

 彌三郞、驚きて、その故を問へば、惣助、答ふること、本文のごとし。

 彌三郞、又、いはく、

「人を見て、『キヽ。』となくは、いづれの『トツキ』も、みな同じ。よく思うても見給へかし。向に[やぶちゃん注:「さきに」]得たる『トツキ』どもは、五、六尺四方なりしすら、あぶらを絞り、甲を賣れば、三十金、或は四、五十金になるものありけり。さるをあの『トツキ』は、その五倍なるをもて、二百金か。よくせば、二百五十金にもなるべし。近年、不獵にして、借財も多かるに、大金になるべきものを、放ちやることや、ある。おん身のごとく、女らしき『あはれみ』の心をもてせば、いかでか、あの『トツキ』のみならんや。凡、網に入る魚を、みな、はなちやるべきや。まことに沙汰の限りなり。よう、みづから、思ひね。」

と、たしなめしを、惣助、かさねて、

「否。わが思ふよしは、しからず。もろもろの魚を網するは、わが渡世なれば、何とも思はず。汝も亦、よく思ひみよ。けふの網は、あの『トツキ』をとらん爲に、あらず。しかるに、わがほりする[やぶちゃん注:「我が欲(ほ)りする」。]魚は入らずして、思ひもかけぬ『トツキ』のかゝりしは、これ、『から網』[やぶちゃん注:「空網」。]に異ならず[やぶちゃん注:「ことならず。」]。よしや、あの『トツキ』が、百金、二百金になりたればとて、それにて、生涯をすぎらるゝにも、あらず。大獵をなすものゝ、さのみ、小利を貪ることかは。」

といふに、彌三郞、なほ、從はず。

 惣助、又、いはく、

「われは、理もなく、思慮もなく、只、何となく、あの『トツキ』を、いと不便に思ふなり。そは、とまれ、かくもあれ、いざ、われと、もろともに、ふたゝび、ゆきて見よ。」と、いふに、彌三郞は、爭ひかねて、うちつれだちて、ゆきて見るに云々。これよりすゑは、本文にしるされしが如し。

 扨、その次の日より、漁獵の得もの、いと多く、これまでに、十倍せり。例歲の荷物、高三千石目に過ぎざりしに、今年は八千石目に餘りし、となん。秋は漁獵もなき場所なるに、思ひの外に得ものあり。その上、松前より使船の都合よく、十二分の利を得たり。

 これ、全く、惣助が慈愛の陰德より、忽、陽報ありしものか。

 彼[やぶちゃん注:「かの」。]惣助も、この冬は、江戶に歸る、となん。なほ、面談せば、くはしきはなしも、あらんかし。

[やぶちゃん注:同前。]

考異に云、「『獵得八千石目に及びし』と云ふは、方便のこと葉にて、そは秋中[やぶちゃん注:「あきうち。]、二、三ケ月に得たる利なり。實は此四月のころより、九月に至りて、二萬石目の利を得てければ、これまでの借財を貲ふて[やぶちゃん注:「あがなふて」。]、猶、あまりありし、とぞ。凡、一萬石めは、金三千五百兩なり。かゝれば、二萬石めは七千兩なり。かゝれば、その借財をつくなふて、猶、あまりありし事、さもありぬべく思ふかし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

 右野作、「異龜」の編、予が聞きしと、異同あり。彼此、みな、傳聞によるのみなれば、是非を、いづれと、定めがたし。しかれども、予が聞きし趣は、いさゝか、具なるに[やぶちゃん注:「つぶさなるに」。]似たれば、先夕、席上において、海棠庵主に、「しかじか。」と告ぐるに、「さらば、わが書に追記してよ。」と、いはるれば、もだしがたくて、燈下に禿筆を把りて、蛇足の說をなすにこそ。○再、いふ、「龜をはなちて善報を得たるもの、昔より、和漢に多かり。予、その故事の抄錄ありといへども、博雅の諸君、素よりよくしることならんを、こゝに贅すべくも、あらず。但、ちかごろ仙臺のちかきわたりで、このアツケシの大龜の事と、よく相似て、なほ、異なるものがたり一條、眞葛が「磯づたひ」といふ草紙に見えたり。餘紙なきをもて、これ又、贅せず、といふ。

  乙酉十月廿四日    著作堂痴叟追記

[やぶちゃん注:はいはい、馬琴はん! 贅せんでええんやて! わてが、電子化注してますよってな! 「磯づたひ」は!(「磯づたひ」ブログ・カテゴリ「只野真葛」横書電子化注附/一括縦書PDF版=私の個人サイト「鬼火」内電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」内の「磯づたひ」を読まれたい)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「孫七天竺物語」抄

 

   ○「孫七天竺物語」抄

 夫、今にして古をしらんは、書に、しく、べからず。又、居ながら、夷狄の風俗をしるも亦、書、なり。ふるくは、僧玄奘の「西域記」あり。近くは張鵬翮の「俄羅斯日記」の如き、目、其事を視、足、その地に至れり。此等の書、實に徵とするに足れりといふべし。其他、歷史中、載する所、外國傳、及、諸書に散見するもの、又、むねと、其事のみを記しゝ「東西洋考」・「西域聞見錄」等の如きも、多くは、みな、想像の言耳[やぶちゃん注:「のみ」。]。其中、たまたま、吾邦の事に及べるもの、妄誕、少からず。槪して、しるべし。

[やぶちゃん注:「張鵬翮」(ちょうほうかく 一六四九年~一七二五年)は清の雍正帝の治世の賢相で大学士。「俄羅斯日記」は「奉使俄羅斯日記」が正式書名らしい。「俄羅斯」はロシアのこと。

「東西洋考」明の文人張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)によって書かれ、一六一七年に発刊された明王朝期の中国人の南シナ海に於ける海上活動に就いての記録文書。全十二巻。最初は県令からの要請で始めたが一時中断していたところに府督からの直々の再請を受けて完成させた。巻一から巻六までの前半は「東洋」及び「西洋」各国についての記述で、巻七以後の後半は税・航路・外交文書等について述べられてある(当該ウィキに拠った)。

「西域聞見錄」清朝の東トルキスタン(後の新疆省、現在の新疆ウイグル自治区)関係の地誌。椿園七十一撰。全八巻。乾隆帝の治世の一七七七年に完成。別名で「新疆外藩紀略」「異域瑣談」などがある。筆者自らの現地調査に基づいた紀行文として独自の内容を持ち、「欽定皇輿西域図志」や「欽定新疆識略」などの官撰地誌には見られない重要な内容を含んでいるという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 扨、吾邦の舟人、時として颶風に吹きはなたれ、あらぬ國に別れるものゝ、歸ることを得て、ものがたるは、みな、目擊のことながら、一丁字をもわきまへぬ舟人なれば、事物はもとより、地名だに、詳には得おぼえぬものゝみ。痴人に夢を說くの思ひなきこと、あたはず。

 其中に「孫七天竺物語」といふ册子あり。

 明和三年【本書に「壬午年」とあり。寶曆十二年也。】[やぶちゃん注:以上は「明和三年」への右傍注。「寶曆十二年」は一七六二年。先の「筑前船漂流記」の冒頭にこの年に船を新造し、「伊勢丸」と名づけたことが書かれてあり、それを難破年に誤認したものらしい。]、筑前國の船頭重右衞門といふもの、「伊勢丸」といふ船に、廿人のりにて、漂流し、數月、海上にありて後、こゝかしこの夷人の手にわたり、果は孫七といふ者一人、天竺にいたり、商家に奉公して、九年を經て、安永三年八月十五日【本書に明和七年とあり。「廿六日」。】[やぶちゃん注:同じく年号の部分から右傍注。安永三年は一七七四年、明和七年は一七七〇年。帰国年は諸本で甚だしい齟齬があるようだ。]、故鄕に歸り來て、話せしを記したるにて、地名・人名はいふまでもあらず、方言さへ、詳に記したれば、此册子こそ、彼地の一斑をも窺ふべきものならんと、一わたりよみかうがへつるに、考據とすべきこと、なきにあらず、こゝをもて、今、其天竺のことに及べるものを、こゝに抄し、且、拙考の、一、二をも附記す、といふ。

[やぶちゃん注:所持する国書刊行会刊「江戸文庫 漂流奇談集成」の巻末にある「日本近世漂流記年表」によれば、何れも誤りであることが判った。明和元(一七六四)年十月、『筑前国志摩郡唐泊浦』(現在の福岡県福岡市西区宮浦。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の伊勢丸が函館から江戸へ航海中に鹿島灘で漂流、ミンダナオ島に漂着。』とあるのが事実である。これについて書かれた著作や記事(随筆の一節なども含む)は十五篇も挙げられてある。その中で似た系統らしき書名を見ると、「漂流天竺物語」・「吹流天竺物語」(「吹流」は「ふきながれ」。国立国会図書館デジタルコレクションの石井研堂編校訂「漂流奇談全集」博文館(一九〇八)年刊のここから読め、管見するに、奇体な地名に似たものが出、これは本篇で美成が参照しているものと系統が同じでることが判る。『筑前國唐伯浦孫七直述』と冒頭にある)・「孫太郎ボルネオ漂流記」・「筑前の人保爾尼に漂流し万死を出でゝ故郷に帰る」(「国文学研究資料館電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の同じ石井研堂氏の訳(但し、擬古文。しかし、ルビがあり、前者より遙かに読み易い)の「日本漂流譚」のここから当該話が読める。因みに「保爾尼」は「ボル子ヲ」(「子」はカタカナの「ネ」の代字)と読む)・「天竺物語」(中原善忠訳「日本漂流奇談」所収)等がある。また、ウィキに本主人公とその漂流の内容を纏めた「孫太郎」もあるので(かなり詳しく書かれてある)、事前に読まれると、以下を理解し易いかとも思われる。]

 六月【明和六年。】[やぶちゃん注:二行割注。]の初のころ、大船をしつらひて、「ソウロク」【地名、南天竺の内といふ。】。の小港にぞ、入りにける。宿の主が案内して、われわれ二人【孫七、幸五郞。】を、此舟に、つれ行きけり。

「いかなる國に、又もや。」

と、覺束なくも、乘りにける。

 のり合には、老若の女、八人、男は、廿二人なり。水主[やぶちゃん注:「かこ」。]、梶取のもの、廿人、都合、乘組五十人。

 いづくよりとも、夢心地、殘りし友のこと、問へば、さるに、行方も、しらざりける。名殘をしくも、見送り、見送り、沖津浪にぞ、走りける。

 女を見れば、枕も上らず、淚かわかぬありさまを、いかなる子細もしらざれども、後に思ひ合すれば、親にはなれ、兄弟に別れし人を盜みて、上荷に積み、遠き國に賣りに行く。その人々の心のうちこそ、思ひやられて、悲しけれ。

 舟には黑砂糖・黑胡麻なり。かくて日數も、廿日あまり、過ぎければ、兄と賴みし幸五郞【このもの、「伊勢丸」乘組廿人の内、孫七と此ものゝみなり。】、何とやら、煩ひ付き、食事も絕え、いろ、靑ざめ、たのみすくなく見えにける。

「死がいなりとも、納めん。」

と、舟の者にいひければ、

「海へ捨てよ。」

と、仕かたする[やぶちゃん注:ジェスチャーする。]。

 いと悲しく、とや角、いへど、幸ひ、泊り港にて、岡近く、「てんま」を寄せ、手を添へてと賴みけれど、つばき、はきして、かぶりをする故、是非なく、是非なく、獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]して、死がいを肩に、岡へ上り、「かい」にて砂をほり、よきほどに納めてこそは、船に乘る。

 思ひ暮して打ふすに、船のもの、氣遺うて、

「又も、煩ふか。」

とて、

「藥よ、水よ。」

と世話すれば、しほれぬ體して、くらしける。

 行き向ふ船も、たまたまにて、見馴ぬ帆かけ、吹き流し、島も珍しく、日本の道のりにて、海上、凡、弐千里ほど、日數も已に四十二日、しけにも逢はず。

 船は、ゆくゆく「みなと」とおぼしき川口に、十里ばかりぞ登りける。

 やがて、瓦の軒、見れば、碇を入れて、「てんま」をおろし、三十人の男女を乘せ、岡のかたにぞ、着にける。

 舟方は十人ばかり、岡に上りて、宿を極め[やぶちゃん注:「きめ」。]、町々、所々に人を賣りつけしとぞ聞えける。

 此所は、中天竺・黑房の國にて、「カイタニ」といふ國にして、「バンシヤラマアン」といふ處とかや。いつの頃よりか、始まりけん、中華・南京・福州・山東の商人、出店して借地なり。家作りは、みな、瓦葺。富家も多し。町々、總いたばりにして、往來の人、土をふむこと、なし。諸國の唐船、出入をあらそひ、「おらんだ船」も入津して、繁昌なるみなとなり。後には、山もあり。里々、廣く打ち續きて、前には大河あり。渡り二里ありて、甚、深し。大船、岸ちかく、つなぎならべて、水の流れ、なほ靜に見え、關戶・小倉の海の如し。川上は南天竺・龍砂の下まで續きて、その流、幾千里といふことをしらずとかや。此處の町、家千四五百軒、みな、商家なり。人の形、きれいにして、衣類にも目をさましける。

[やぶちゃん注:「中天竺・黑房の國」不詳。「中天竺」自体は中央インドを指すが、どう考えてもおかしい。ここは日本から西の中国ではない広域周縁を漠然と「天竺」と呼んでいるものと思われ、今の東南アジア(中国よりも有意に南方海辺及び海上)を指すように思われる。「黑房」は「くろばう」で「黒ん坊」(肌が黒く見える人種。黒人とは限らない)の縮約かと思ったが、後にその意でちゃんと「黑坊」が出るから、違う。黒髪を房のように垂らした様子か、螺髪の謂いかとも思ったが、どうもピンとこない。一つ、或いは人種名で、フィルピンにも同系統の民族が住むネグリト(Negrito)のことかも知れない。彼らは 暗い褐色の皮膚を有し、巻き毛と顎が尖るのを特徴とするが、「黑」と「房」はその膚の見た目の色と、巻き毛に親和性があるように思えたからである。

「カイタニ」ウィキの「孫太郎」に、彼らが最初に漂着したという村を「カラガン」というとあり、これか? 同ウィキでは『カラガン村があった島について』は、「漂流天竺物語」・「華夷九年録」では『「南天竺の内ボロネヲ」と記され、現在のボルネオ島』(インドネシア語の「カリマンタン島」のこと。ここ)『であると記されているが』、「南海紀聞」では『「マキンダラヲ」』、「漂夫譚」では『「マギンタロウ」と記され』、「南海紀聞」の『編者である青木興勝は漂着場所をフィリピン南部のミンダナオ島であるとしている。現在では』、「南海紀聞」の『説の方が正しいとされ、伊勢丸はミンダナオ島南岸に漂着したとするのが定説となっている』とあり、さらに、三『月頃、残された』七『人は家から出されて』、『船に乗せられた』。七『人は日本に帰れるかもしれないと淡い期待を抱くが、カラガンを出た船は西に向かい』、二十『日ほどでソウロクという場所に着いた。ソウロクは現在のスールー諸島の事であり』(ここ。ミンダナオ島とカリマンタン島の間のちょうど中間部分に相当する)、七『人は奴隷商人の家でしばらく暮らしたが』、四『月末に金兵衛、市三郎、貞五郎、弥吉、長太の』五『人は海賊の頭のもとに連行されることになり、孫太郎と幸五郎の』二『人だけが残されることになった』。二『人は』六『月中旬に別の島に連れて行かれ、ゴロウという海賊の持ち物となった。ここで』二『人は、結婚式の宴席で太鼓を持たされ』、『日本の歌を披露させられたりしたが、その後も他の者に転売され続け』、二『人はスールー諸島中を連れまわされることになった。やがて』二『人はボルネオ島南部のバンジャルマシン』(これが本篇に出る「バンシヤラマアン」であることは疑いようがない。ここ)『に連れて行かれることになったが、この航海中に孫太郎が兄と慕っていた幸五郎が病死した。幸五郎の亡骸は海に捨てられそうになったが、孫太郎はせめて海岸に土葬させてくれと懇願し、幸五郎の亡骸は孫太郎の手によって海岸近くの小高い丘に埋葬された』とあるのが、本篇の記載と見事に一致する。元に戻ると、「カイタニ」は「カラガン」とは似ていないが、考証対象はこちらの「カラガン」の方が資料的には有有利なようだから、試みに似た発音を調べてみると、ミンダナオ島北部のここに港湾都市「カガヤン・デ・オロ」があった。]

 孫七、三千世界を𢌞り來て、初めて人の風俗に逢ひ、

『何れに我も賣り付くべし。こゝにうれかし、買へかし。』

と、心にぞ思ひける。

 よきにつけても、幸五郞、たまたま道まで伴ひ來て、爰にも屆かず打ち捨てしは、殘り多きこそ、悲しけれ。

 大方、人も片付けるにや、

「われも、來れ。」

と、つれて行く。

 此町にても、大家と見えし萬店[やぶちゃん注:「よろづみせ」。]にぞ入りにける。

 我、月代[やぶちゃん注:「さかやき」。]も、なで付くばかり、まだらかみに、色黑く、目の内、丸く、見出しければ、家内の上下、打ちつどひ、日本人のめづらしくや、仕事を止めて、ながめ居る。

 我も又、口、ゆがめ、眉をしばめて見せければ、常には勝手に出でぬ嫁・娘、笑ひに傾く。髮の飾り、觀世音の樣に見えける。

 かくて、主とおぼしき人、船のものと物語し、臺所にて食事をさせ、夫より、船子は歸りける。

 家内の人數、廿四人。主人の名は「タイゴンクワン」、妻の名は「キントン」といへり。年十八。この春、此家へ嫁に來りしと、きく。 老母あり。主人の弟あり、「カンヘンクワン」といふ。手代頭「ハウテキ」・「ヒヤウコウ」のふたり。家内、よろづの裁判[やぶちゃん注:布地を裁つことであろう。]して、吳服を商ふ大店なり。

 外に下人十五人、その内「アルセン」・「モウセイ」・「カウセン」の三人は黑坊にて、朝夕の食事を、別所にて、つかみ喰ふ。

 下女「ハヒアラヽン」・「ウキン」・「コキン」の三人は、是も、遠國、黑坊の娘なり。

 我名を「日本」とよぶ。

 初のほどは、物每に仕形計[やぶちゃん注:「しかたばかり」。ジェスチャーのみ。]にて致させけるが、盆前なれば、いそがしく、

「言葉を、習ヘ。」

と、手を取らへ、物をとらへて、

「『コソサミヤア。』――『されば、なに。』と云ふものぞ。」

と、なり。

「『チナウサミヤア』――『なにを、いたす。』。」

と、なり。

 先[やぶちゃん注:「まづ」。]、二事を敎へてより、其後は言葉をおぼえ、天竺口狀、おぼえけり。

 主人も、家内も、慈悲ふかくして、常に勘辨を加へて、召仕はるゝ。

『我が命あらん限りは。』

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]心もとけて、仕へける。

 光陰、夢と移り行き、七月も朔日になり、此所は、今夕より、門口に燈籠を燈し、靈具を備へ、猪・羊・鷄の内を備へ、聖靈を祭ると見えにける。

[やぶちゃん注:現地の原始宗教に習合した仏教の盂蘭盆であろう。現在のカリマンタン(ボルネオ)島はイスラム教が基本だが(同島はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三ヶ国の領土であり、後の二者は国教がイスラム教である)、キリスト教・仏教の信仰者も多く、そもそもイスラムでは猪(ここは「ぶた」の意で、この漢字を用いているものと思う)は供物にタブーである。]

 十五日の夕は、又々、寺々の御堂の庭に、大なるせがき棚を拵置き、町々、われわれより[やぶちゃん注:それぞれの民が、おのずと。]、五升[やぶちゃん注:最大値表記であろう。]、思ひ思ひ、分限相應に、飯を炊き、大鉢に高く盛り、五色の紙に、その家の佛の名を書き付け、竹の串に挾み、飯の上に是をさし、くわし(果子[やぶちゃん注:漢字ルビ。])、色々の肉を備へ、燒酒[やぶちゃん注:粗製の焼酎か。]を器に入れ、施我鬼棚に備へける。寺より、大ぜい、僧、出て、讀經あり。經、終りて後、若者・子供等、大ぜい集りて、備へし靈具を取り爭ふ。持ちかへりて、家々の羊や犬に喰はせける。

 扨、十五日の夕ぐれより、一町々々、借合[やぶちゃん注:「かりあひ」か。担当人員を拠出することであろう。]にして大筏[やぶちゃん注:「おほいかだ」。]を拵へて、前なる大河に浮べて、われわれより、大蠟そく、いくらともなく、火をともし、靈具共に持ち出だし、件の筏にならべける。火揃ふと、つなぎし筏を切り放せば、水に隨ひ、ながれ行く。家々よりは佛の數、蜜蠟にて、一斤がけ、二斤がけも有りければ、風にも、雨にも、消えやらで、水上よりも、流れ來る。その火の光り、幾千萬、はるかの下まで見え渡るありさま、目をおどろかすばかりなり。

 扨、さまざまの踊あり、引物[やぶちゃん注:「ひきもの」で供養のために広く周囲の者たちに配る布施供物であろうか。当初は踊りの並列であるから、芝居の意かとも思ったが、「ひきもの」にその意味はないようだ。しかし、引幕からそれでも通用しそうなもんだが。]あり、賑やかなりし盆會なり。

 勿論、廟所は十三日の夕より、廿日の夕まで、燈籠をかけ、花を生うゑ[やぶちゃん注:「いけ、うゑ」か。]、香をつぎ、每夜の參詣、主人にも、父(テヽ)親、なく、餘人も、親の墓あれば、みな、如此すとぞ。

 同年の八月末に、近き町に、主人の一族あり。男、死し、我も、

「家内の働に。」

とて、遣しける。

 その葬禮を見るに、棺は長さ一間[やぶちゃん注:一メートル八十一センチメートル。]、厚さ二寸の板を以て拵へ、徑り二尺五寸の箱なり。内には金箔を敷き、ふとんを敷き、枕を置きて、死人には四重の衣裝をかさねてきせ、あをのけに採せ、巾着・煙草の道具等を入れ、又、そのうへに、金箔を餘分に置きて、葢を釘にて打ち付け、染絹にて上をおほひ、墓所に、かき[やぶちゃん注:「舁き」。]送るなり。

 扨、地を少しほりて、棺を納め、𢌞り、白土にて「しつくい」し、上の石を板瓦にて葺き、頭を酉[やぶちゃん注:「西」。西方浄土。]に埋みおき、石塔を立て、銘をほり、香花を備へて、是を、まつる。塀を見るに似たり。

 官ある人は、しらず、此町の人、みな、甲乙ありて、如此[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]家には佛具をかざり、魚肉・鷄肉を備へて、妻子は、是を食はず。勿論、その妻子は、百日迄、佛間にこもり、白き絹をかづきて、香具・金箔をも燒きて、生前のありさまを、語り、なげくこと、甚、痛ましきありさまなり。只、金箔を餘分に燒くを、

「未來の爲。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:これは中国の紙銭の変形であろう。同島には道教信者もいるようである。]

子としては、百日、墓に參り、香花を備ふ。三年は喪をつゝしみ、色の衣裝をきせず、音曲の席に至らず、

「これを、喪の中の禮とす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:底本では、ここで改行し、頭書終りまで全体が一字下げである。]

 美成云、「喪中に金箔を多くたくが如きは、蓋、夷狄の俗なり。しかれども、登遐せず[やぶちゃん注:「魂が天に」三年の間は「昇らず」という意か。]、且、三年の喪あり。親の喪の愼み、追慕の厚き、實に鄭魯の儒士と、何ぞ、別たん。誰か『諸夏のなきには、しかず』とや、いはまし。」【解云、「金箔をたくは、楮錢冥衣を燒く類なり。今も長崎にて來舶人、神佛及び先靈を祭るに、金箔・銀箔をおしたる寸楮を、金錢・銀錢となづけて、たくなり。これらの祭奠、「禮記」に見えたり。その金箔をたくは、彼土に金多き故なるべし。」。】[やぶちゃん注:底本に「頭書」とある。馬琴のお節介である。まあ、先に私も既にしてお節介したがね。]。

[やぶちゃん注:「鄭魯の儒士」孔子のことか。孔子は魯の生まれで、一時、鄭に逃れている。仮にがそうだとすると、美成の謂いは皮肉である。「論語」の中で孔子は鄭の楽曲には淫らなものが多いと批判していたからである。

「諸夏」「夏」は「大きい・さかん」の意。古く中国で四方の夷狄に対して、中国の中心地域やそこにある国々を誇って言った。転じて都を指す語となった。しかし、「論語」の「八佾(はちいつ)篇」では、それを批判的に用いているのであって、美成の謂いは的を外れている(誤読している)としか私には読めない。

「楮錢冥衣」「ちよせん(ちょせん)めいい」。「楮錢」は紙銭に同じ。「冥衣」は死装束と別に見た目は体裁よく作った安物の紙や布で作った儒者や官人の服(所謂、殭屍(僵尸:キョンシー)のケースは満州族のそれで新しい)。それを燃やして地獄の沙汰も金・服次第となるのである。]

 主人にも、父なく、母ばかりなり。常に佛間に靈具を備ふるに、魚肉・燒酒を備へける。日に三度、佛前に向ひて、親に孝行なること、かたるに、言葉なし。外の家々も是に同じとぞ聞えし。こゝも、暖國にて、常に、五、六月の氣候なり。單物にて、冬もよし。もはやに、九月、至りぬれど、氣候のかはる事も、おぼえず。九日の節句はなし。

 扨、野に出ては、十月の末に至り、二番稻あり。都て、山をひらきて、畑稻、多く飯に、油なく、三年米を喰ふに似たり。米は一升錢一文【弐拾文錢。】、獅子の繪あり。是よりも下直[やぶちゃん注:「げじき」。価格が安くなること。]なる年、多し。三文錢は壱文錢より、少し大きし。銀目百目の金錢あり。阿荼陀が走り舟(フネ)の繪あり。拾文錢は馬乘りあり。六十文錢は虎を畫く。銀は七十文にかへ、金錢は、みな、阿荼陀が持ち來る錢なり。

[やぶちゃん注:「阿荼陀」「国文学研究資料館電子資料館」の石井氏の訳のここで「オランダ」と読んでいる。

 以下は同前の字下げ。]

 美成云、「此にいふ所の錢、文を見ざれば、何れの國の錢といふことを、しるべからず。しかれども、西洋の錢は種類、甚、多し、獅子、走り船、騎馬等、くさぐあるが中に、獅子、尤、多し。虎といへるも、恐らくは獅子なるべし。猶、詳には、「西洋錢譜」を倂せ考ふべし。」。

[やぶちゃん注:「西洋錢譜」松本平助らが天明七(一七七〇)年に刊行した西洋の貨幣についての書物。朽木昌綱が寛政二(一七九〇)年に後刷したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらでPDFで読める。貨幣の図も附されてあって、興味深い。]

 又、此國に、「カハヤ」といふ鳥あり。是、燕に似て、少し大ぶりなり。この鳥の巢、川筋の岩窟の内に多し。その巢は、猿の腰懸に似て、甚、白し。くぼき内には、黑き羽などの付きたるもあり。此巢、いかなる藥やらん、おらんだより、入銀して、懸目[やぶちゃん注:秤(はかり)で測定すること。]壱斤に付、銀八十刄に代ふ。是により、國主より、みだりに取ることを禁ぜらるゝ。常に改の役人ありとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「こゝにいへる巢は『燕窩』なり。「泉南雜志」に云、『閩之遠海近蕃處有ㇾ燕云々。海商聞之土蕃云。蠶螺背上肉有兩肋如ㇾ楓。蠶糸堅潔而白。食ㇾ之可虛損巳勞痢。故此燕食ㇾ之。肉化而肋不ㇾ化。幷津液嘔出。結爲小窩石上。久ㇾ之與小雛鼓翼而飛。海人依ㇾ時拾ㇾ之。故曰燕窩。』。かく見ゆれば、此孫七がはなしと倂せて、その詳なることをしるに足れり【解、按に、燕窩の事、「茶餘客話」に詳なり。倂せ考ふべし。又、唐山にて、宴會に燕窩を上菜となすと、淸人の小說「鏡花緣」に見えたり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:「燕窩」「ツバメ」を名に含むが、全然、縁遠い「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliini)で、中でもその巣が高級品として珍重されるのは、

鳥綱アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Aerodramus 属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga 及びオオアナツバメ Aerodramus maxima

全長十~十五センチメートル の小型の鳥で、南アジア・東南アジア・熱帯太平洋・オーストラリア北部の海岸や島に分布する。最大の生息地は、まさにボルネオの大鍾乳洞群地帯である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)」を見られたい。

「泉南雜志」明の陳懋仁(ちんもじん)の書いた泉州(福建省にかつて存在した州。閩(びん)州)の地誌。引用を訓読する。「巳」は「已」の誤字である。

   *

「閩(びん)の遠海の近き蕃[やぶちゃん注:未開民族。]の處、燕、有り。」云々。「海の商(あきんど)、之(ここ)の土蕃に聞くに云はく、『蠶螺(さんら)[やぶちゃん注:蚕(かいこ)のような丸い貝のようなものの意であろう。]の背上、肉、兩の肋[やぶちゃん注:あばら骨のような物。]有りて、楓(かへで)のごとし。蠶糸は、堅く、潔にして、白し。之れを食へば、虛損・勞痢を已(や)め、補す。故に、此の燕、之れを食す。肉、化して、肋は化(かは)らず。津液(しんえき)[やぶちゃん注:血液を除いた体液。]を嘔き出して幷(あは)す[やぶちゃん注:悪しき体液を除去して正常な状態に合わせるの意か。]。結びて、小さき窩(あな)と爲し、石の上に附けり。之を、久しうして、小さき雛(ひな)に與(あた)へ、鼓翼(はばた)きて飛べり。海人、時に依りて、之れを拾ふ。故に、「燕窩」と曰ふ。

   *

一部に不審があるが(巣を餌として雛が食うという部分)、これは燕の巣の人間にとって効能があることからの類感呪術的な誤認であろう。

「茶餘客話」清の阮葵生(一七二七年~一七八九年)が一七七一年頃に完成させたとされれる元は全三十巻から成る総合的史料。特に清朝初期の制度や地名考証などの記載は史料価値が高く、人物伝や「元曲」や「水滸伝」・「琵琶記」・「金瓶梅」・「西遊記」などの戯曲・小説等も、多数、輯録されてある。

「鏡花緣」清の李汝珍作の白話体の長編伝奇小説。]

 今年も浮世の浪にたゞよひて、十二月大晦日にぞ成りにける。

 先づ、客の間の天井に、唐草の華布を縫ひ合せてはらせつゝ、壁のところも同じやうの木綿にて張り、町並の門口に、大燈籠を、夜な夜な、ともし明し、門戶を閉ぢて祝籠[やぶちゃん注:「いはいかご」。祝い事や宗教行事に於いて、布施の品や御札などを収めて運ぶ籠。]し、儀式なり。

 偖、七つ頃[やぶちゃん注:本邦の不定時法で朝七ツなら午前三時半頃である。]より、衣服をあらため、町内、ちやうちんにて、年頭の禮に出で【明和七年。】、外より、

「サラマツタ。」

といふ。内より、

「ホリロワラ。」

と答ふ。銘々、名札を門口にはるもの、多し。又は、兄弟近き一族は、戶をあけて、内に入り、年頭の祝儀をのべ、燒酒、肴にて、いはひけり。勿論、元朝餠[やぶちゃん注:「がんてうもち」。新年の元旦に搗く祝餅。]を廣む。白餠あり、黑餠あり。餠米を粉にして、砂糖の水にて、是を、こね、又、蒸して臼にて搗き、餠にちぎるあり、押し平めて、切るも、ありけり。白餠は白砂糖、黑餠は黑砂糖なり。年始初入とおぼしき客、來り、一族の交り等、我邦の町家に同じ。

 三月三日は、節句、儀式はありながら、芥餠[やぶちゃん注:芥子の実をまぶした「芥子餅」(けしもち)のことであろう。]は、なし。五月五日は糯米[やぶちゃん注:「もちごめ」。]を水に炊し、笹の葉に包むごとく、砂糖水にて、湯でるあり。又、砂糖水にてむすもあり。

 扨、町内を賣りありき、商人、品々を分つに、聲をたてず。燒酒賣は、さらを、すり、醬油賣は、鈴をふり、或は肉物【猪・羊・鷄。】等には、大鼓を打ち、みな、荷ひ人をつれて、あるくもの、多し。

 此所は黑坊の借地なれば、所のわかもの、常に來りて、我まゝなることあり。去れども、町より、隨ひける。

 常に盜賊事、絕えず、國主よりも、

「打ち捨てにせよ。」

となり。主人も、我等に、剱一ふり、鐵砲・鎗等をわたし置くなり。

 町每に、六人當り、每夜、番を、つとむ。

 しかるに、此大河に、不思議なるもの、住みけり。其貌、繪にかける龍のごとく、くちびる・鼻かまち[やぶちゃん注:その辺りの意。]、いかめしく、左右に長き髭あり。耳ありて、龍の角なきばかりなり。手足、四つ。爪、四つ。尾先に鰭のごとき剱あり。うろこ厚く靑く黑し。六尋・七尋より、十三尋を長とす。これを「ホヤ」といふ。春のころ、岡に上りて、卵を產む。大さ、手まりの如く、三十六に極まる。卵、ひらきて後、二尋[やぶちゃん注:三・六〇メートル。]ばかりになりて、川に入る。親、これを追ひまはすこと、波を起し、水を蹶立て、すさまじく、あたりに居るを喰ひ殺し、やうやう、迯ぐるを、只、一つ殘し置く。是を子として、大切に養育すること、類ひなし。子連のあたりを【此處、落字ある歟。】[やぶちゃん注:右傍注。]通る船あれば【「子連のあたりを」云々、この文、語をなさず。「子連て、あるくとき、このあたりを」云々などありしが、宇を脫せしなるべし。】[やぶちゃん注:頭書。]、甚、怒れる氣色あり。人みな、船をよせず。暖國なれば、常に下々は晝夜に兩三度も、川につかりて、水をつかひ、暑を凌ぐ。大海なれば、岸によせ、角柱を立てまはし通して、格子の如く搆へて、災をのぞく用心せり。

[やぶちゃん注:ここに登場する奇体な動物はカリマンタン島に限定されるから、イリエワニ(爬虫綱ワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ Crocodylus porosus )或いはマレーガビアル(クロコダイル科マレーガビアル属マレーガビアル Tomistoma schlegeliiであろう。特に前者は「人食い鰐」として知られるから、それか。現在は、分布域全体で、ともに皮革目的の乱獲により個体数が減少しており、特に後者はカリマンタン島では希少種となっている。]

 ある時、夜刑り番のもの、暑をしのがんと、ひとり、かこひの内の水を浴みけるに、柱の朽ちたるを押しやぶりて、件の「ホヤ」、内に入り、水より上らんとせし人を延上り、片足、股より、喰ひ切りける。悲しみ、

「わつ。」

と、さけぶ聲に、番人ども、追々にかけあつまり、聲々に呼はりければ、町々より、大ぜい出で、松明・ちやうちんにて、是を見るに、夜中といひ、聲々にさわぎける故にや、「ホヤ」は、元の出口を失ひ、搆の内を、うろたへける。鐵砲にて打つに、一矢も通らず。數十人、集り、棒にて、打ちなやし[やぶちゃん注:「萎し」。力を失わさせて。]、熊手にかけて、引き上げけるに、七尋[やぶちゃん注:十二・七メートル。イリエワニでも最大長は七メートル(マレーガビアルは標準最大長は五メートル)であるから、誇張の可能性が高い。]ばかり有りけり。腹のうろこ、少し赤く、舌はくれなゐ、眼、大きし。今迄、人を喰ひしこともなく、人も又「ホヤ」を殺す事なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「この『ホヤ』といふ魚は『鰐』なるべし。按ずるに、「飜譯名義集」に云、『善見云、「鰐魚長二丈餘。有四足。似ㇾ鼉齒至利。禽鹿入ㇾ水。齧ㇾ腰。卽斷。又翻殺子魚。廣州有ㇾ之。」。』と。おもふに、其長さ、及、形狀を『ホヤ』と同じきうへに、『禽鹿をかみ斷』といふも、そのさま、異ならず。しかのなみらず、『殺子魚』の名あること、此孫七が話なからましかば、得思ひとくまじきことぞかし。鰐の蠻名『カイマン』、又『コローコジ』など、いへり。『ホヤ』も此地の方言なるべし。『鰐魚』の圖、「紅毛雜話」に見えたり。」。

[やぶちゃん注:「飜譯名義集」南宋の法雲編になる梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。訓読する。

   *

善見云はく、「鰐魚、長さ二丈餘[やぶちゃん注:六メートル強。]。四足有り。鼉(だ)に似て、齒、至って利(と)し。禽鹿(きんろく)、水に入れば、腰を齧(か)み、卽ち、斷(き)れり。又、「殺子魚」とも翻(やく)す。廣州、之れ、有り。」と。

   *

[やぶちゃん注:「善見」不詳。

「鼉」ワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis 。現在の安徽省・江西省・江蘇省・浙江省の長江下流域に棲息する中国固有種。本種の性質は穏やかで、人間を襲った確実な記録は存在しない。

「禽鹿」鹿に代表されるいろいろな四足獣。

「殺子魚」「子」は人の意であろう。の

「カイマン」ワニ目アリゲーター科カイマン亜科 Caimaninae のカイマン類。但し、同科のワニは、中央アメリカ及び南アメリカにしか生息せず、体長も比較的小さく、殆んどの種は体長数メートルにしか達しない。

「コローコジ」ワニ目クロコダイル科 Crocodylidae のワニ類の訛りであろう。

「紅毛雜話」平賀源内の門人で、医者で戯作者・蘭学者・狂歌師でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)が天明七(一七八七)年に編した 海外事情を纏めたもの。「京都外国語大学付属図書館/京都外国語短期大学付属図書館」公式サイト内の「世界の美本ギャラリー」のこちらの記載によれば、書名は「オランダ人に聞いた話」「オランダの書に記してあった話」という意で、『巻一でオランダの歴史、風俗より始め、病院や飛行船のこと、巻二ではトルコの都城の話やジャワの地理的事情、巻三はアムステルダムよりフランス、スペイン、アフリカ南端を経て日本へ至る海路や、通過する国々の事情を述べ、さらに顕微鏡の話にまで及ぶ。巻四には流行病やオランダの画法、銅版印刷法。巻五ではエレキテルや大船などに関する記述、附録としてオランダの衣飾図を収めている』。『本書は蘭学史上の興隆期に刊行され、この内容を通して当時の学者たちの海外に対する関心や地理的知識を知ることができる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のこちらで「鰐之啚」が見られる。]

 當年の八月、主人の弟「カンヘンカン」[やぶちゃん注:右傍注で『(クワカ)』とある。]に、緣談、すみて、

「けふ。吉日。」

とて、嫁迎の用意ありけり。先つ程のかたより、嫁の所に送りける、その品々には、衣類を、三通り、箱に入れ【祝儀には三重、不祝義は四重なり。】、これ、一人にて、持ち、金の「指かぬ」[やぶちゃん注:指輪か?]六つ、手首にかくる金輪、二つ、箱にして、一人にて持ち、金のかんざし十二本、箱にして、一人にて持ち、金錢百二十文、箱にして、草履壱足、たび壱足、これまた、一人にて持ち、燒酒二甁、臺にすゑ、四人にて舁き、ろうそく二丁、弐人にて、これを持ち【五十斤がけ。但、蜜蠟。】[やぶちゃん注:三十キロゴラム。だが、後の「蜜蠟」は腑に落ちない。]、牝牡の猪二疋、鷄一番[やぶちゃん注:「つがひ」。]、家鴨一番、二人にて、是を、はこび、仲人・聟・同道なる人、上下、十八人なり。嫁の方に參り、祝儀、調ひ、暮六つ時[やぶちゃん注:不定時法で午後八時前。]になりて、

「嫁入。」

とぞ聞えし。かくて、嫁のかたより、送りける其品々には、巾着一通り、是は、嫁の手づから縫ひ仕立たるを、聟に土產とす。狐々の毛を付し笠一つ、是も土產、衣裝の入りし長箱壱つ、くゝり枕六つ【是、二通り。枕の長さ二尺。】、聟の方より贈りし金錢二文をとめ置き、百八十文は返しける。此外、猪・鷄・家鴨、共に、男をとめ、女をかへし、双方に分ち、

「料理に用ふ。」

と。いへり。大蠟燭二丁の内、一丁をとめ、一丁は返しける。

 扨、嫁入は、同じ年齡の女中、二人は絹をかづき、嫁は顏をあらはして、右の十二本の笄を髮にかざり、手に金の輪をかけ、衣裝をあらためて、天くわん[やぶちゃん注:不詳。「天竿」で日傘のことか?]をさゝせて、あるきける。目ざましきありさまなり。眞先に件の大蠟燭ちやうちん二張、先後[やぶちゃん注:「せんご」。前と後ろ。]に燈す。同道十二人ばかり。

 扨、聟のかたには、一丁、返せし蠟燭をともし、半切に米をもり、その中に押し立て、町の門口にぞ、出だしける。

 嫁の燈し來りし夜、一族は勿論、朋友・若もの、盃、めいめいに一斤がけ[やぶちゃん注:六百グラム。]、半斤がけの蠟そく、持ち來り、火をともして祝儀をいひ、ろうそくを、嫁の部屋に持ち行き、

「嫁を見ん。」

と、なり。後には、部屋にあまり、勝手・臺所まで、ともし、つらねけり。

 女子は、七歲より、戶外に出ださずして育て、今日、嫁入といふ、その夜は、ゆるして、顏を見するとぞ。

 飽まで、唄ひ舞して、歸りけり。

 去程に、孫七、思ひけるは、

『此に落ち付きて、凡、六年の春秋を暮しける【安永元年[やぶちゃん注:一七七二年。]、同二年。】。さのみくるしみもなく、不自由なることもなく、年を經たり。只、故鄕の戀しきこと、起きても、寢ても、忘れがたし。つくづく思ひめぐらすに、此所の風俗、父母兄に孝行なること、うへなければ、我、父母には、わかれ、兄一人を、父とも、母とも、賴みつれど、かねて『二親あり』とかたりければ、彌、この事をかたらん。』

と思ひ、まづ、主人の母親に語りけるやうは、

「我、多年、こゝに來り、御愍[やぶちゃん注:「おんあはれみ」。]に預ること、此うへや候ふべき。されど、我、日本には二親ありて、我、行末を案じくらし候べし。折ふし、夢にも見えて候。願くは、一度、日本の地へ渡り、親どもの命あらん内に、一寸、逢ひ見なば、いかばかりか悅び候はん。」

と、かたりければ、老母も淚ぐみ、

「道理也。」

とぞ、いひける。

 此事、やがて、老母より、主人にかたりければ、阿荼陀舟の出帆するに、主人、念頃に孫七を、たのみける。

 時、なるかな。時、來りて、この國をはなれ、九年の夏【安永三年。】午[やぶちゃん注:安永三年は甲午。]の四月十三日、家内にも、朋友にも、此世限りの暇乞、又、こん秋を賴むの扇だにも、鳴きてぞ、かへる、ふる鄕のそら、心の底の嬉しさも、久敷[やぶちゃん注:「ひさしく」。]馴染し旅の空、主人の情、ふかき江の、淚にくもる水鏡、蘆わけ船の、竿さして、見かへり、見かへり、阿蘭陀が、もと舟[やぶちゃん注:「本舟」。大きな船。]にこそ乘りにける。

[やぶちゃん注:以下、終りまで同前。]

 猶、この物語の前後の省けるところ、又、こゝに記したる中にも、いさゝかづゝの考、いと多けれど、ことごとく書きいでんも、わづらはしければ、今、又、贅せず。

  文政乙酉十月廿有三日    山崎美成記

 解、云、「この本文のうち、鰐の『ホヤ』の事、又、嫁のかたより草履・足袋、各一双づゝ、聟へおくる事、この外にも、予が考あり。これらは別にしるすべし。

2021/10/18

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 罪の巡禮 / 本篇を含む四篇が記された原稿を復元 「第二(淨罪詩篇)」~了

 

  罪 の 巡 禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とするが、これは幾つかの理由から大正三年の可能性が高い(以下に述べるように、同じ原稿に大正三年に書かれたと推定される「春日詠嘆調」が記されてあるからである)。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

 

  われは罪の巡禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ

 

と最後の句点を除き、相同である。編者注があり、『以上「窓」「(指と指とをくみあはせ)」「罪の巡禮」と拾遺詩篇「春日詠嘆調」の草稿の四篇は同じ原稿用紙に書かれている』とある。「窓」は、先の「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]」の注で、「(指と指とをくみあはせ)」も「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(指と指とをくみあはせ)」でそれぞれ電子化してある。「春日詠嘆調」の草稿も『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 述懷 (「春日詠嘆調」の草稿)』の注で電子化した。煩を厭わず、原稿を復元してみよう。順番は編者注に従い、各詩篇の間は二行空けた。無題のものは、「○」はない可能性があるが、判りにくくなるので、そのままとした。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

 

 たそがれ

 窓

 

犯せるつみのかさしさよ

日もはやたそがれとき

3いえすの素足やわらかに

4ふりつむ雪のうへをふみゆけり

2うすぎの窓にたれこめて

1犯せるつみのかさしさよ

ざんげの淚せきあへず

1 2日もはやたそがれにちかけれづけば

 

 

  ○

 

あなたのとほとき奇蹟(ふしぎ)により

~~~~~~~

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

かゝるあはれいのりの手のうえに

まさをの雪はまさにふりつみぬ、

 

 

  われは罪の巡禮

 

われは巡禮

わがたましひはうすぎそめ

てのひらに雪をふくみて

ほの光る地平をすぎぬ

 

 

  ○

 

ああいかれはこそきのふにかはる

きのふにかわるわが身のうへとはなりもはてしぞ

けふしもさくら芽をつぐのみ

利根川のながれぼうぼうたれども

あすはあはれず

あすのあすとてもいかであはれむ

あなあはれやぶれしむかしの春の

みちゆきのゆめもありやなし

おとはてしみさろへすぎし雀の子白雀の

わが餌葉をばゆびさきに羽蟲などついばむものをしみじみと光れるついばむものを。

 

 

  述懷

     ――敍情詩集、滯鄕哀語扁ヨリ――

 

ああいかなればこそ、

きのふにかはるわが身のうへとはなりもはてしぞ、

けふしもさくら芽をつぐのみ、

利根川のながれぼうぼうたれども、

あすはあはれず、

あすのあすとてもいかであはれむ、

あなあはれむかしの春の、

みちゆきのゆめもありやなし、

おとろへすぎし白雀の、

わがゆびさきにしみじみとついばむものを。

 

   *

現在、これらを一緒に纏めて見ることは、出版物では不可能である。しかし、或いは、ここにこそ、萩原朔太郎の詩作の共時的感覚が見えてくると言えないだろうか?

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(犯せるつみの哀しさよ) / [やぶちゃんの呟き:原稿は、これ、不思議なパズルのようである。]

  

 

犯せるつみの哀しさよ

うすぎの窓にたれこめて

日もはやたそがれにちかづけば

いえすの素足やはらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集には「窓」というちゃんと題名を持った酷似するもの(整序すると順序が異なるが、各詩句は相同)が載るが、原稿は複雑を極める。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 たそがれ

 窓

 

犯せるつみのかさしさよ

日もはやたそがれとき

3いえすの素足やわらかに

4ふりつむ雪のうへをふみゆけり

2うすぎの窓にたれこめて

1犯せるつみのかさしさよ

ざんげの淚せきあへず

1 2日もはやたそがれにちかけれづけば

 

行頭の数字は朔太郎自身が附したもの、という注がある。しかし、この最後の詩句は朔太郎が一行目或いは二行目に配するか、並置した記号と読める。筑摩版の校訂本文では、それについて何も言わず、以下のように消毒・整序してしまっている。

 

 窓

 

犯せるつみの哀しさよ

日もはやたそがれにちかづけば

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やはらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

編者は「1 2」を――「1」と「2」間に入れる――と解釈したとしか思われないのだが、果してこれでいいのだろうか? だったら、前の数字を削除して書き換えるであろう。先の私の推理によるなら、

   *

 

 窓

 

日もはやたそがれにちかづけば

犯せるつみの哀しさよ

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やわらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

   *

か、或いは、

   *

 

 窓

 

犯せるつみの哀しさよ

日もはやたそがれにちかづけば

うすぎの窓にたれこめて

いえすの素足やわらかに

ふりつむ雪のうへをふみゆけり

 

の孰れかに迷ったものと考えられる。小学館版の編者は、同じ詩稿を見て、「1 2」を――1」と「2」後に入れる――と解釈したのであろう。最早、朔太郎に聴くわけにはゆかぬが、個人的には「うすぎ」(「薄黃」或いは「薄絹」の略か)「の窓にたれこめ」るものは「たそがれにちかづ」いた「日」の残光なのではなく、「犯せるつみの哀しさ」なのだと思う。さすれば、小学館版が私にはしっくりくる。とんだパズルだが、それぞれの読者にお任せしよう。にしても、「窓」という題名を記さない本篇は、或いは、最早、失われた推敲原稿なのかも知れない。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 行路

 

  行   路

 

わがゆくときにいぢらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

わがゆくときにほこらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

みんなみにあをきうみありて

われのこひびと

われのやそ

つねにみなみをさしたまふ。

 

[やぶちゃん注:太字「やそ」は底本では傍点「ヽ」。底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に載る。以下に示す。

 

 行路

 

わがゆくときにいぢらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

わがゆくときにほこらしく

ひとりはみなみをさしたまふ

みんなみにあほきうみありて

われのこひびと

われのやそ

つねにみなみをさしたまふ。

 

で、「あほき」はママである。推定年も齟齬はしないであろう位置にはあるが、大正三年の可能性もある。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(指と指とをくみあはせ)

 

  

 

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

あはれいのりの手のうへに

雪はまさにふりつみぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』として推定で大正四(一九一五)年作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に所収するものがあるが、ちょっと問題がある。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

  ○

 

あなたのとほとき奇蹟(ふしぎ)により

~~~~~~~

指と指とをくみあはせ

高くあげたるつみびとの

かゝるあはれいのりの手のうえに

まさをの雪はまさにふりつみぬ、

 

とあり、編者注で『本稿一、二行目は第三行目以下とつながらないので、抹消されていないが』、『上欄本文には採らなかった』として、校訂本文は一・二行目と波線を除去し、歴史的仮名遣を修正、最後の読点を除去した形で載っている。本篇はこれと同じ原稿を整序したものと推定される。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 秘佛

 

  秘  佛

 

つゆしものうれひはきえず

わづかなるつちをふむとて

あなうらをやぶらせたまふ。

 

[やぶちゃん注:底本では初出を『風景』大正三(一九一四)年三月とする。筑摩版全集でも同誌同月号としてある。初出形を示す。

 

  秘佛

 

つゆしものうれひはきえず、

わずかなるつちをふむとて、

あなうらをやぶらせたまふ。

 

「秘」の字体はママ(本篇同様)、一・二行目末の読点はママ、「わずかなる」の「ず」の誤りはママである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(きのふけふ) / 筑摩書房版全集編者注に甚だ不審あり!

 

  

 

きのふけふ

われのたましひはけがされたり

いやはてにかさねしつみをばいかにせむ

いえすよ

きみがゆくゆくころものすそにしあらば

かなしみの音をだにひくくしぬびて

ふりつむ雪のうへをけりゆきたまひへ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』として推定で大正四(一九一五)年作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に所収するものがあるが、微妙に異なる

 

  ○

 

日のたそがきのふけふ

われのたましひはけがされたり

きのふけふ

いやはてにつみはかさねしつみをばいかにせむ

ああいかなれば

あなた、いえすよ

あゆみゆく ゆくゆくきみがゆくゆくけごろものすそもて→うすからば→さむく→すそづますそにしあらば

かなしみのいぬを音をひくゝだにひくゝおと→おとなひゆく→雪 ふむか→雪つむうへをしぬびて

ふりつむ雪のうへをすりけちゆきたまひへ

 

削除部分をカットして示す。

 

 

  ○

 

きのふけふ

われのたましひはけがされたり

いやはてにかさねしつみをばいかにせむ

あなた、いえすよ

きみがゆくゆくけごろものすそにしあらば

かなしみの音をだにひくゝしぬびて

ふりつむ雪のうへをけちゆきたまひへ

 

本篇との異同は、三行目の「あなた、」があること、「ころも」が「けごろも」(毛衣)であること、「ひくゝし」と踊り字が使用されていること、「けりゆきたまへ。」が「けちゆきたまへ。」となっていることである。踊り字と「けちゆき」は誤字として書き換えたとしても、有り得ぬことではないが、前二者は有意に異なり、別原稿が存在した可能性を排除出来ない。さらに実は、筑摩版全集の本篇に編者注には不審な箇所がある。そこには、

『* 「頌」「祈」(「われの犯せる罪」草稿詩篇)及び「(きのふけふ)」の三篇は同じ原稿用紙に書かれている。』

とあることである。以上の「頌」「われの犯せる罪」については既にリンク先で電子化した。しかし、ここで編者の言う『「祈」(「われの犯せる罪」草稿詩篇)』というのは、筑摩版全集のどこを捜しても存在しないのである。確かに「未發表詩篇」では、「頌」→「われの犯せる罪」→「(きのふけふ)」の順で並んで示されてあるが、「われの犯せる罪」の注はリンク先で示した通り、「月に吠える」の「笛」の草稿の一部とカップリングされた別原稿である。則ち、「祈」と題した「われの犯せる罪」の草稿詩篇が、編者の言っている原稿用紙には、「頌」と「祈」と「(きのふけふ)」の三篇総てがソリッドに書かれたあるということになる。それはそれで不思議ではないが、「われの犯せる罪」の編者注は先に示したものが総てであって――「われの犯せる罪」の草稿詩篇である「祈」という詩稿がある――ということは書かれていないし、「索引」にも「祈」はないのである(追加された補巻も確認したが、ない)。ということは、「われの犯せる罪」と全く本文が同じで、題名のみを「祈」とした詩稿が別にあったが、本文が同じだから省略したということか? だとしても、それは「われの犯せる罪」に、当然、注しなければならない重要なことだ。それがない。おかしい。甚だおかしい。どういうことだ?!

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 われの犯せる罪 / 附・「月に吠える」の「笛」の草稿の一部及びそれと本篇が載る原稿用紙の復元

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを

ちちははのとがめたまはぬごとく

おほがみは罪したまはじ

ゆるさせたまへ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とある。筑摩版全集では、「未發表詩篇」にある。以下に示す。

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを、

ちちははのとがめたまはぬごとく、

おほがみは罪したまはじ、

ゆるさせたまへ。

 

 

               淨罪詩扁完

 

これは編者注があり、『本篇は原稿用紙の左半分に書かれ、「淨罪詩扁完」』[やぶちゃん注:「扁」はママ。]『とある。右半分には『月に吠える』の「笛」の「けふの霜夜の空に冴え冴え」以下五行が記されている』とあり、前半の記載に基づき、「淨罪詩扁完」を以上のように再現した。しかし、この注記は後半分は不親切で、正確には、

「月に吠える」の「笛」の草稿の中の『「けふの霜夜の空に冴え冴え」以下五行が記されている』

でなくてはいけないからである。詩集「月に吠える」の決定稿、及び、その初出には、「けふの霜夜の空に冴え冴え」という詩句自体が存在しないからである。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛』を見られたい。注で初出(決定稿とは激しく異なる)も総て挙げてある。

 されば、ここで、その「笛」の草稿を以下に再現しておくことにする。これは、本篇のためには余り意味をなさないとは思われようが、「月に吠える」の「笛」の草稿・初出形・決定稿の推敲課程を知る重要な一つとなるからである。歴史的仮名遣の誤り・脱字はママ。

 

  笛

     ――既に別れし彼女にE女に――

 

あほげば高き松が枝に琴かけ鳴らす

小指には銀の爪をに紅をさしぐみて

ふくめる琴をかきならす

ああかき鳴らす人妻琴の調べにあはせ音にもあはせて

                    つれぶき

[やぶちゃん注:「あはせて」と「つれぶき」は並列配置。]

いみぢしき笛は天にあり

わが戀もゑにしも失へり

けふの霜夜の空に冴え冴え

松の梢を光らして

哀しむものゝ一念に

 

懺悔の姿をあらはしぬ

      凍らしむ

[やぶちゃん注:「あらはしぬ」と「凍らしむ」は並置。]

わが横笛は天にあり

いじみき笛

[やぶちゃん注:「わが横笛」と「いじみき笛」(「いみじき笛」誤字であろう)のは並置。]

 

E女」はエレナであろう。序でなので、元の原稿用紙を復元してみる。

   *

【原稿用紙・右】

 

けふの霜夜の空に冴え冴え

松の梢を光らして

哀しむものゝ一念に

 

懺悔の姿をあらはしぬ

      凍らしむ

わが横笛は天にあり

いじみき笛

 

【原稿用紙・左】

 

  われの犯せる罪

 

われの犯せるつみを、

ちちははのとがめたまはぬごとく、

おほがみは罪したまはじ、

ゆるさせたまへ。

 

 

               淨罪詩扁完

   *

私はしかし、この「われの犯せる罪」と「笛」とが無関係とは思っていない。それはこの二篇が書かれた同一原稿用紙の最後に萩原朔太郎が「淨罪詩扁完」と擱筆した意図に於いて、である。我々は萩原朔太郎の草稿原稿を見る機会は極めて稀れである。極端に当該詩篇に特化して整序・分離されてしまった刊行本では知り得ない創作の秘密が、そこには、まだ眠っているものと考える。

 なお、全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に以下の本篇の草稿と考えてよい「祈」(本篇原稿二種二枚の一つ)と題する一篇がある。歴史的仮名遣の誤り。脱字はママ。

   *

 

 祈

 

われのおかせるつみを

ちちちちははのとがめ給へぬごとく

                    ゆるしたまはん

おほがみはとがめたはじ  つみしたは

                    つみしたはぢ

[やぶちゃん注:「ゆるしたまはん」と「つみしたはぢ」(「つみしたまはじ」の誤記)は並置残存。]

ゆるしたまへ

 

   *]

2021/10/17

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 頌

 

  

 

いとたかきところにいませるかみを

いとひくきつちよりいでてほめよ ひとびと

はれるや

かみはさかえなり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正四(一九一五)年とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に(歴史的仮名遣の誤りはママ)、

 

  頌

 

いとめづらしきたかたかきところにゐませるかみを

いとひくきつちよりいでゝほめよひとびと、

はれるや

かみはさかへなり、

はれるや

 

とある。同全集の配置からは先の底本の推定制作年は穏当である。底本は、この筑摩版の原稿と同じものを整序したものであろう。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(わがみしところのものは聖なる柱なりき)

 

  

 

わがみしところのものは聖なる柱なりき

にしよりひがしよりきたり ひとびとそのめぐりにたちぬ

あふげばそらはうつくしかりき

そのとき主のふしぎあらはれ、つみあるもののうつたへすべて主にきかれぬ きけ、 われのなやめる手は黃金もて像(かたち)にきざまれぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年の作とする。筑摩版全集では「未發表詩篇」に、以下の形で載る。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 ○

 

わがみしところのものは聖なる柱なりき

にしひがしよりひがしよりきたり、ひとびとそのめぐりにたちぬ。あほげばそらはうつくしかりき。そのとき主のふしぎあらはれ、ひとびとつみあるものゝ ひだりの手うつたへすべて金字もて柱にきざまれたりき。主にきかれぬ。われは きけああわれのつみなやめる手は黃金もて像(かたち)にきざまれぬ。

 

さて、これに編者が注して、筑摩版のこの直前に並べて置かれてある、既に電子化した『「(樹のうへのあやかしをみよ)」』と、この『「(わがみしところのものは聖なる柱なりき)」の二篇は、同一用紙に書かれている』とあり、先の『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(樹のうへのあやかしをみよ)』の注で最後に述べた通り、この詩篇も底本の推定する大正三年ではなく、大正四年五月以降の作と推定されていることが判る。なお、前後してしまったが、底本の詩篇は、この筑摩版と比較して見るに、句読点に微妙な違いは見られるものの、「そのとき」以下が特異的に長い一節になっていること、「像」の「かたち」のルビ等から、小学館版と筑摩版の元原稿とは、同じものであろうと推測する。小学館版はそれを整序したものと考えるのが妥当であるように思われる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 たびよりかへれる巡禮のうた

 

  たびよりかへれる巡禮のうた

 

いすらへるよりかへり われはゆきのうへにたちぬ。

 

[やぶちゃん注:底本に大正四年五月発行の『卓上噴水』からとする。筑摩版全集でも『拾遺詩篇』に同書誌で初出とする。そこには全集編者によって、『掲載誌では、題名がなく「たびよりかへれる巡禮のうた」は詞書のように扱われているが、これを題名とした著者自筆原稿が残っているのでそれに從った』として、

 

  たびよりかへれる巡禮のうた

 

いすらへるよりかへり われはゆきのうへにたちぬ

 

とある。最後の句点がないので、掲げておく。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 (無題)(樹のうへのあやかしをみよ)

 

  

 

樹のうへのあやかしをみよ

いますべてのあしきことはをはり そのかたちあらはれぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年とするが、筑摩版全集の「未發表詩篇」にある以下が、ほぼ同一である。以下に示す。

 

  ○

 

樹のうへのあやかしをみよ、

いますべてのあしきことおはり、そのかたちはあらはれぬ。

 

[やぶちゃん注:「お」はママ。こちらでは他に、二箇所の読点と、「そのかたちあらはれぬ」が異なる。さらに、筑摩版の「未發表詩篇」は未発表の詩篇を推定して編年順に並べてあるのであるが、この詩篇よりも前に『一九一五、四』のクレジットを持つ「步行して居る人の印象」が配されていることから、筑摩版は推定で大正四年五月以後に本篇は記されたと推定していることが判る。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 祈禱

 

   第二(淨罪詩篇)

 

 

  祈   禱

 

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください

あなたのふしぎをもて牢獄(ひとや)の窓をあけてください

あなたのおほみこころのみまへに

わたくしの懺悔(ざんげ)をささげまつる。 亞眠(ああめん)。

 

[やぶちゃん注:「亞眠(ああめん)」の前は句点がしっかり一字分で組まれており、見た感じも「空いてるな」と感じさせるように確かに認識出来る。しかし、ブラウザではその感じを出すには、半角を添えてもだめだったので、句点の後に新たに全角一字分の空きを加えるしかなかった。しかし、これが見かけ上、最も近い。さて、底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年とするが、筑摩版全集の「拾遺詩篇」に、大正四年六月発行の『街上』を初出とするものが、詩篇本文はほぼ相同である。初出形は、

 

  祈禱

 

あなたのめぐみをもて雪をふらしてください、

あなたのふしぎをもて牢獄(ひとや)の窓をあけてください、

あなたのおほみこころのみまへに、

わたくしの懺悔(ざんげ)をささげまつる。 亞眠(あーめん)。

                ―淨罪詩篇―

 

である。「亞眠(あーめん)」の前は筑摩版全集でも同じ感じで配されてあるので、同じ処理を施した。]

伽婢子卷之十 了仙貧窮 付天狗道 / 伽婢子卷之十~了

 

了仙貧窮(れうせんひんくう) 《つけたり》天狗道(てんぐだう)

 

Ryosen1

 

[やぶちゃん注:今回は細部の状態がいい「新日本古典文学大系」版の挿絵(三幅)をトリミング補正した。右奥に立つのが、栄俊。因みに、主人公了仙は、輿に載っていて、見えない。]

 

 釋の了仙法師は播州賀古郡(かこのこほり)の人なり。いとけなくして、父母におくれ、郡(こほり)の草堂に籠りて、出家し、十七歲して、關東におもむき、相州足利の學校に三十餘年の功を積(つ)み、内外(《ない》げ)二典(じてん)に渡り、神哥(しんか)兩道にたづさはり、博學多聞(たくがくたもん)の名をほどこし、所々の談林に遊ぶ。論義辯舌ありて、諸人、皆、かたぶき伏(ふ)して、更にこれに敵する事、かなひがたし。然(しか)れば、その天性(むまれつき)、逸哲佯狂(いつてつようきやう)の風あり。命分(めい《ぶん》)、甚だ薄く、一重(《ひと》へ)の紙衣(かみこ)をだに、肩に、まつたからず。墨染の衣は、袖、破れ、その日を暮すべき糧(かて)に乏(ともし)し。

[やぶちゃん注:「釋」は「釋氏」の略で、僧侶のこと。

「了仙」不詳。架空人物であろう。

「播州賀古郡」現存する加古郡は兵庫県中南部にあるが、元は加古川以東を占めており、旧郡域は広大で、西部は現在の加古川市・高砂市に相当する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くは「賀古」「賀胡」とも書き、播磨国十三郡の一つであった。

「相州足利の學校」ママ。「伽婢子卷之八 邪神を責殺」の「相模の國足利の學校」の私の注を参照。

「内外二典」仏教用語で「内典」は広義の仏教典籍・仏典を指し、「外典」仏教以外の書を広く指すが、本邦では主として儒学の教典を指す。

「神哥(しんか)兩道」宗教としての神道と、和歌の道(歌道・歌学)。

「逸哲佯狂(いつてつようきやう)」読みの後半は底本では「しやうきやう」。元禄版に拠って訂した。但し、正しくは「やうきやう」でなくてはならぬ。現代仮名遣は「いってつようきょう」。「逸哲」は「新日本古典文学大系」版脚注の言うように、「一徹」の当て字であろう(江戸時代には「一鐡」の当て字も広く行われた。ただそれで出すとエンディングの如何にもな伏線になるので、了意は敬遠したのかも知れない)。思い込んだり、言い出したりしたら、是が非でも押し通そうとする気の強い性質。一刻者。「佯狂」偽って狂気を装うこと。古く中国の隠者が世俗の人間を遠ざけるために振る舞ったポーズである。

「命分」本来は既に与えられている寿命の意であるが、ここはそれを転じて「運命」「幸不幸を含む生涯の巡り合わせ」の謂い。

「一重の紙衣」単衣の薄い寝具。「紙子」とも書く。和紙を蒟蒻糊で繋ぎ合せて柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解してから縫った和服。防寒衣料や寝具として用いられた。ここはそれさえも擦り切れ、肩をさえ覆うことが出来ぬというありさまを言う。]

 

 此故に、學智の功は、かさなりながら、長老・上人にもならず、綱位(かうゐ)の數にもあづからぬ平僧にて、年月を重ぬるまゝ、名利(みようり)の心、さらに絕えがたし。

[やぶちゃん注:「綱位」僧綱(そうごう)のこと。本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。]

 

 みづから、深く嘆きて曰く、

「了仙よ、了仙よ、汝、學問、よく勉めて、才智あり、心ざし、邪(よこしま)なく、名は世に聞こえながら、いかに、身一つを過《すぎ》わび、一寺の主(あるじ)ともならざるや。」

と。

[やぶちゃん注:「身一つを過わび」「かくも、おのが身一つしかなきに、それをたった一日でさえ、養うに、困りて果て」。]

 又、みづから、解(げ)して曰く、

「安然(《あん》ねん)は堂の軒に飢えて、桓舜(くはんしゆん)は神の社に祈りし。これ、道義の不足ならんや。役(えん)の小角(せうかく)は豆州(づしう)にながされ、覺鑁(かくばん)は根來(ねごろ)に苦しみし。これ、行德のおろそかなるにあらず。敎因(けういん)は僧戶(《そう》こ)・封祿(ほうろく)ありて、安海(《あん》かい)は綱位(かうゐ)にいたらざりし。これ、智と愚との故ならず。沙彌(しやみ)は溫(あたゝ)かに衣(き)て、飽(あく)まで、喰(くら)ひ、主恩(しゆおん)は飢寒(きかん)にせまりぬ。これ、才能の不敏(《ふ》びん)なるによらんや。これ、すでに、過去世の因緣なり。儒には天命といふ。了仙、不幸にして、此《この》そしりを、うく。何ぞ因果の理《ことわり》に迷うて、みだりに名利《みやうり》を求めんや。」

とて、みずから、問答して、心を慰みけり。

[やぶちゃん注:「みづから、解(げ)して曰く」禅の修業によく見られるもので、独り、自ら問いを発して、また、自らそれに解答を与えることを指す。

「安然」平安前期の天台宗の僧安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江生まれ。最澄と同族と伝えられている。初め、慈覚大師円仁に就き、円仁の死後は遍昭に師事して、顕密二教の他、戒学・悉曇学をも考究した。元慶元(八七七)年に唐に渡ろうとしたが、断念。元慶四年に「悉曇蔵」を著した。元慶八年に阿闍梨となって元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建し、天台教学・密教教学の研究に専念した。彼は「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて「台密」(天台宗に於ける密教)を大成した人物として知られる。地方伝承として、山形県米沢市にある塩野毘沙門堂の本尊を開眼し、その後、南陽市時沢にて入滅したといった話があり、南陽市には「安然入定窟」が伝えられてある(当該ウィキに拠る)。「新日本古典文学大系」版脚注では、『その伝記に定まらない部分があって、「堂の軒に飢て」の詳細も不明。「安然和尚、天下ノ智者、猶業貧ニシテ餓死セラレケリト云ヘリ」(雑談集五)が近い』とある。

「桓舜」(かんしゅん 天元元(九七八)年~天喜五(一〇五七)年)は平安中期の天台僧。父は備後守源致遠(文徳源氏)。月蔵房と号する。天台座主慶円に天台教学を学び、貞円・日助・遍救とともに「比叡山の四傑」と称された。一時、世俗を嫌って、伊豆国で修行していた時期もあるが、後に比叡山に戻った。長和五(一〇一六)年、藤原道長の法華三十講の講師となって以来、朝廷の貴族の間で活躍した。長元八(一〇三五)年に権律師、長暦三(一〇三九)年に極楽寺座主、次いで法性寺座主と昇任し、天喜二(一〇五四)年には権大僧都に至った(当該ウィキに拠る)。歴史的仮名遣は「くわんしゆん」が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「神の社に祈りし」は、『福徳を日吉山王に祈り、さらに稲荷大社に祈って霊験を蒙った』という『古今著聞集一、沙石集一、元亨釈書五など』に記された事績を指すとある。

「役(えん)の小角(せうかく)」修験道の祖とされる「役の行者」のこと。七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。「役小角(えんのおづぬ)」とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、讒言により秩序を乱したとして、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。山岳仏教のある各山に伝説が残る。

「覺鎫(かくばん)」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、当該ウィキに拠った)。「根來(ねごろ)に苦しみし」については、「新日本古典文学大系」版脚注に、彼は『高野山伝法院にあったが、山徒の排斥にあい、根来寺に移り、その地で没した(密厳上人行状記・下)』とある。

「敎因(けういん)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『伝未詳』とのみある。

「僧戶(《そう》こ)」公式な僧籍。

「封祿(ほうろく)」俸禄に同じ。公的に授けられた扶持米及びそれに代わる食物や物品の給与。

「安海」生没年未詳の平安中期の天台僧。京の人。比叡山の興良について出家し、長保五(一〇〇三)年、源信が宋の智礼に二十七条の質問状を送る際、安海は「上・中・下」の解答を事前に想定して作り、智・礼の解答は「中」か「下」であろうと予言し、結果は、その通りであったという。参照した講談社「日本人名大辞典」には、当時の二大学匠を評したものに、「源信は、広いが、浅いので、着物を捲くって渡れる。覚運は、深いが、狭いから、跨いで越えられる。」という格言があるそうである。「綱位(かうゐ)にいたらざりし」とあるのは、「新日本古典文学大系」版脚注に『若死にした』とあることと関係があろう。

「沙彌」サンスクリット語の「シュラーマネーラ」の漢音写。「息慈」などと訳す。出家して沙弥十戒を受け、比丘となるまでの修行中の僧。女子は「沙弥尼」と呼ぶ。年齢によって三種に分け、七〜十三歳を「駆烏(くう)沙弥」、十四〜十九歳を「応法沙弥」、二十歳以上を「名字沙弥」と呼んだ。また、「未だ修行が未熟な者」の意から、形は法体(ほったい)でも、妻子を持ち、世俗の生業に従っている者、つまり、「入道」とか「法師」と呼ばれる市井にある仏教者を、日本では広く「沙弥」と称した。中世の沙弥には武士が多い。沙門(=僧)とは明確に区別された呼称であった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を参照した)。

「主恩」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『平安中期の興福寺の学僧』の名とし、『筑前博多に流謫されてことがあり、「飢寒にせまりぬ」はそれを指すか』とある。

「不敏」才知・才能に欠くこと。

「天文の末の年」天文(てんぶん)は天文二四年十月二十三日(ユリウス暦一五五五年十一月七日)に弘治に改元している。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く寺に勤める役僧を指す。

 

 所化(しよけ)の伴頭(ばんとう)榮俊(えいしゆん)といふものは、學問の友として、久しく斷金(だんきん)の契(ちぎり)をいたせしが、ある時、藤澤邊(へん)に出《いで》ける道にして、了仙に行合《ゆきあひ》たり。

[やぶちゃん注:「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く、寺に勤める役僧を指す。

「伴頭」ここは修行僧衆の中でも筆頭に立つ僧の意。

「榮俊」不詳。同じく架空人物であろう。

「斷金の契」固く結ばれた友情の喩え。元は中国の北魏の地誌「水経注」(全四十巻。撰者は酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年の成立と推定される)の巻三十一にある「淯水」の末尾にあるエピソードに基づくとされるが、その濫觴は「易経」の「繫辭(けいじ)伝」で、「二人同心、其利斷金」(二人、心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。)である。]

 

 漆塗の手輿(たごし)にのり、白丁(はくてう)八人に、かゝせ、曲彔(きよくろく)・びかう・朱傘(しゆからかさ)、おなじく白丁にもたせ、同宿、七、八人、うるはしく出立《いでたち》、雜色(ざふしき)に先を拂はせ、さゞめき來るよそほひ、往昔(むかし)に替りて巍々堂々(ぎぎだうだう)たる事、ひとへに國師・僧正の儀式に似たり。

[やぶちゃん注:「白丁」元は下級武士の着用する狩衣の一種で、白の布子張りであったので「白張」とも書いた。律令制の諸官司・神社・駅 (うまや) などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取など仕丁がこれを着たところから、貴人に従う下人を、広く、かく称した。

「曲彔」主として僧侶が法会式などで使う椅子の一種。背凭れの笠木(かさぎ)が曲線を描いているか、または、背凭れと肘掛けとが、曲線を描いた一本の棒で繋がっているのが特徴である。「曲彔」は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を削(はつ)る(削ぎ落とす)」の意であるから、「木を削って曲線を造形した椅子」の意となる。鎌倉時代に中国から渡来したもので、最初は、専ら、禅宗で用いられたが、後には他の宗派や、仏教に拘わらず一般でも使うようになった。特に桃山時代には大流行した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。最初の挿絵の左幅の行列の最後で白丁が肩に載せているのがそれ。]

「びかう」「鼻高履」。「鼻廣履」「鼻荒履」(これらは歴史的仮名遣は「くわう」となる)とも書いた。僧侶が法衣に合わせて用いる履(くつ)で、革製で、先端を高く反って作った浅沓(あさぐつ)。鼻高。

「朱傘」地紙を朱色に染めた差し傘。長柄を附け、戸外の法会式などで、導師などに差し翳して日を除ける用とした。公家も盛んに用いた。先の挿絵の「曲彔」の前で白丁が肩にかけて持っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、サイズを『柄八尺、大きさ三尺二寸』とする。

「同宿」同じ僧坊に住む僧。挿絵では二人のみ描かれている。

「雜色」貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。白丁より格下。

「巍々堂々」姿が堂々としていて、厳(いか)めしく立派なさま。

「國師」天皇の導師となる僧位を指す。

「僧正」僧綱の最高ランクである法印大和尚位(だいかしょうい)の大僧正の次席。]

 

 了仙は、九條の袈裟に、座具、取そへて、身に纏ひ、檜扇(ひあふぎ)さし出し、

「和僧は、榮俊ならづや。」

とて、輿より、おり下り、手をとり、淚を流して、昔今《むかしいま》の物語りす。

[やぶちゃん注:「九條の袈裟」尼の着る三種の袈裟「三衣」(「さんえ」或いは「さんね」)の最も正式で豪華な僧伽梨(そうぎやり)。「大衣」「九条衣」とも呼び、布九幅を横に綴って誂えた袈裟。これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着である。後の二種は「鬱多羅僧」(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)と「安陀会」(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。比丘六物(三衣と鉢・尼師壇(にしだん:坐具)・飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)の六つ)の一つでもある。

「檜扇」檜(ひのき)の白木のままの細長い薄板を重ね、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。儀礼用の所持具であって、煽る実用のものではない。]

 

 榮俊、いひけるは、

「君と別れ隔たる事、わづかに半年ばかりの間に、よく、みづから、綱位たかく、靑雲の上にのぼり、封祿(ほうろく)あつく、朱門のうちに交はり、衣服・袈裟の花やかなる出《いで》たち、手輿、同宿のさかんなる有樣、まことに、學智、秀(ひい)でたる所、心ざしを遂ぐる時也。僧法師の本意《ほい》は、こゝに極まれり。羨しくこそ。」

といふ。

 了仙、答へて曰く、

「我、今、一職(《いつ》しよく)をうけて勉め行ふ。更に隱すべきにあらず。その形勢(ありさま)、見せ奉らん。こなたへ、おはせよ。」

とて、光明寺の堂に行到《ゆきいた》る。人、さらに、見咎むる事、なし。

[やぶちゃん注:「藤澤邊」(私の住まいはまさにその辺で、寝室の窓の外の裏山は藤沢市であり、そもそもが私のいる辺りは大船でも元は藤沢に属していた)での邂逅から、突然、直線でも七キロメートル以上離れた由比ヶ浜東の光明寺(了仙の墓所がある)が出ること自体が、既にして異界に栄俊は立ち入っていることを意味する。]

 

 夜《よ》、すでに後夜(ご《や》)[やぶちゃん注:夜半から夜明け前の頃。現在の午前四時前後。]に及ぶ。

 了仙、語りけるは、

「我、つねに慢心あり。然れども、更に非道をなさず。平生、貧賤なる事を怨み憤りて、因果の理《ことわり》としりながら、これに惑へるを似て、死して天狗道に落ち、學頭の職に選ばれ、文を綴り、書を考へて、その義理を、あきらめ、傳ゆ。

 わが天狗道は、魔道なりと雖も、鬼神に橫道(わう《だう》)なきが故に、人をえらび、器量によりて、その職をつかさどらしむ。

 人間《じんかん》は、たゞ賄(まひなひ)を以て、ひいきをなし、追從(ついしやう)輕薄の者を『よし』と思ひ、外《そと》の形(かたち)を用ひて、内をしらず。人のほむるを用ひて、其《その》才能を、いはず。是によりて、公家も、武家も、出家も、同じく追從輕薄奸曲(かんきよく)佞邪(ねいじや)をもつて、官位奉祿に飽滿(あきみ)ちて[やぶちゃん注:ここは本来は逆接でブレイクが入るべきところ。]、よき人は、皆、その道の正しきを守る。此故《このゆゑ》に、人をへつらはず、輕薄、なし。こゝをもつて、長く埋(うづも)れて、世に出《いで》ず。麒麟は、いたづらに糞車(ふんしや)をかけられて、草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え、駑馬(ど《ば》)は、時を得て、豆粥(とうじゆく)に飽きたり。鳳皇(ほうかう)は枳(からたち)の中にすみて、鴟・梟(とび・ふくろふ)は蘭菊(らんきく)の間に、さえづる。こゝをもつて、公家も、武家も、出家も、賢者は、頸(くび)、やせて、髮、かれつゝ、溝瀆(かうとく)の『ほそみぞ』にころび、死すれども、知人なく、愚人奸曲の輩《ともがら》は、世にあはれて、時めく也。これより、風俗、惡しくなりて、治れる時は、少なく、亂る日は、多し。

 わが天狗道は、たゞ、よく、その器量をえらび、その職を、あてがふに、誤らず。

 凡そ、世の人、貴賤をいはず、少《すこし》も慢心ある者は、皆、死して、魔道に來る。その中に、君《くん》に不忠あり、親に不孝するものは、必ず、大きなる責めを受け、善を積み、德を施せし者は、皆、その幸ひを、かうぶる。輪𢌞因果のことわり、皆、僞りならず。天子・公卿・武士・出家、世に名を知られたる輩《ともがら》、わが道に入《いり》て、或は大將となり、或は眷屬となり、世の人の心だてによりて、或は障㝵(しやうげ)をなし、或は守護をなす。それ、太上は、德を、たて、その次は、功を、たつ。その次は、言を、たつ。これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。

 我は、德もなく、功もなし。

 こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。

 その、慢心のむくひを、見給へ。」

とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり。

[やぶちゃん注:「天狗道」天狗の住む天界・鬼道。増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道。仏教の六道に倣って後付けで附属された魔界。地獄思想の細分が中国で偽経によって捏造されたものであるから、付けたりは幾らでもバラェティーに富む。

「糞車」肥桶を運ぶ荷車。

「かけられて」「驅(か)けられて」。引き駆けるために使役されて。

「草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え」草や水さえも僅かしか与えられずに、飢え渴つえて。

「駑馬」足ののろい馬。また、才能の劣る人の喩えでもあり、前の対の「麒麟」(ここでは聖獣というよりも、一日に千里を走る名馬を指す)を才人の喩えとして、優れた人物も、年老いては、その働きや能力が普通の人にさえ及ばなくなるの意の「騏驎も老いては駑馬に劣る」をパロったもの。この故事成句は「戦国策」の「斉」に見える。紀元前四世紀、戦国時代、秦以外の国々に遊説して合従策を唱えた弁論家蘇秦の台詞。斉の王に向かって、「騏驎の衰ふるや、駑馬、之れに先だつ」(どんな名馬も年をとると、そのへんのつまらない馬の方が速く走るようになる)と述べて、安易な突出した秦への対外政策を戒めた。

「豆粥」豆の入った粥(かゆ)。

「鳳皇」了意の書き癖で聖鳥「鳳凰」のこと。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を見られたいが、そこに「天下、道有るときは、則ち、見る。其の翼、竽(う)のごとく、其の聲、簫(せう)たり。生ける蟲を啄まず、生ける草を折らず、羣居せず、侶行(りよかう)せず、梧桐に非ずば、棲まず、竹の實に非ざれば、食はず、醴泉(れいせん)に非ざれば、飮まず」とある。それが、棘だらけの「枳(からたち)の中にす」むのは、世が致命的に腐敗していることになる。

「溝瀆(かうとく)」みぞ。どぶ。故事成句「溝瀆(こうとく)に縊(くび)る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)をさらにダメ押しして「『ほそみぞ』にころび、死す」とやらかしたもの。

「障㝵」障碍・障害に同じ。正常な様態を阻害すること。

『「これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。我は、德もなく、功もなし。こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。その、慢心のむくひを、見給へ。」とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり』この大どんでん返しは劇的でよく書かれてある。]

 

Ryosen2

 

[やぶちゃん注:縁側で惨状を見る栄俊。地面に座っているのが、異形に変じた了仙。彼の左手で大きな柄杓(本文の「銚子」)で以って、盃に何やら(ネタバレのため言わない)を注ぐ法師(裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」を穿いている)。]

 

 鼻高く、まなこより、光り輝き、すさまじき形に變ぜし所に、虛(そら)より、鐵(くろがね)の釜、

「ふらふら」

と、おちて、其中に、熱鐵の湯、わきかえる。

 それにつゞきて、法師、一人、くだり、銚子(てうし)に、熱鐵の湯を、もりいれ、盃にいれて、了仙に渡す。

 了仙、怖れたるけしきにて、これを飮み入るゝに、臟腑、もえ出《いで》て、下に燒けくだり、地にまろびて、うせにければ、堂にありし、白丁も、同宿も、皆、きえうせて、夜はほのぼのと、あけ渡れば、光明寺中の堂には、あらで、「榎(え)の島」の濱おもてに、榮俊、一人、坐したり。

 それより、歸りて、佛事、いとなみ、道心深く、後世《ごぜ》を怖れ、諸國行脚して、菩提心を祈りけり。

 

伽婢子卷之十終

[やぶちゃん注:「熱鐵の湯」高温で溶かされて液体となって煮え滾っている液体の鉄である。似たようなものは「叫喚地獄」で、溶けた銅を飲まされるのが、お約束である。

『「榎(え)の島」の濱おもて』現在の片瀬東浜。またしても光明寺から直線で六キロメートルも跳躍した。リンク地図の中央全体が本篇メインのロケーションを総て含んでいる。]

2021/10/16

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(なでしこの花むらがり咲ける) / 「第一(「愛憐詩篇」時代)」~了

 

  

 

なでしこの花むらがり咲ける

磯山の小松ばやしにわけ入れば

砂地にぬるる靴も鳴きいで

朝まだ早く松露の土をほりあぐる。

 

いさみて丘をはせ

ひそかに海を念ずれば

うみもかたむき湧きいでぬ。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。本篇を以って「第一(「愛憐詩篇」時代)」は終わっている。

「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ属ショウロ Rhizopogon roseolus 。二針葉のマツ属 Pinus の樹林で見出され、それらの細根に、典型的な外生菌根を形成して生活する。安全且つ美味な食用茸の一つとして古くから珍重されてきたが、発見が容易でなく、希少価値が高い。さらに現代ではマツ林の管理不足による環境悪化に伴って産出量も激減し、市場には出回ることは極めて稀れになっている。栽培の試みもあるが、未だ商業的成功には至っていない。詳しくは参照したウィキの「ショウロ」を見られたい。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(あはれしんめんたる雨の渚路に)

 

  

 

あはれしんめんたる雨の渚路に

たましひはひたにぬれつつ步むらむ

くねりつつうちよする浪

浪の音のきえさり行けば

うちよする浪の音の

浪の音の消えさりゆけば

たましひは砂丘の影に夢むらむ。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(あはれいたみの烈しさにたへずして)

 

[やぶちゃん注:本文内にある「*」は本書の小学館の編集担当者によるマーキングである。後の編集者による「編註」を参照。]

 

  

 

あはれいたみの烈しさにたへずして

日の下に今日も我が身の踊れるなり

齒痛は金の砥石を破りいで

にほひするどく高原に光らしむ

かけのぼれ かけのぼれ

わが眺望はいたましく

うちわたす耕地整理の畑には種まく人の影もなし

かけくだれ かけくだれ

髙壓線の電柱に怒り泣き

街道にあかあかと自轉車ぐるまくねりゆく

あはれわが齒痛はエレキの如く

身うちをしびれ皮膚をこげしむるぞ

ひとりこの高原にたかぶりいかり

哀しみにやぶれ

地上に坐して光れるむし齒をぬかんとす

胸の奧よりして孤獨にとがるる齒痛なり

わが心臟の幼芽より發するごとくなり。

 

    *

 

人々

むらがりつどひ ふんすゐに水をのまんと

水は芽生をはぐくみて

白き瓦あげんとす

ふんすゐにむらがりつどひければ

ほとばしる水を受け

みなこころにめざめつつ

みよ痛みの烈しさにたへずして

いぢらしく唇我が身のひとり踊りいづるなり。

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体がポイント落ちの半字下げで、註本文は二行目からは本文開始位置まで下がっている。後者を再現するために、一行字数を減じて、改行した。実際は二行で終わっている。本底本の国立国会図書館デジタルコレクションの初版(前年刊行。表紙違いだが、本文は同じ)の本篇をリンクさせておく。]

編註 本篇は數葉のノオトに走り書され、

   未だ定稿とは言ひ難いと思はれる。

   十一行目の「瓦」は意味不明なる

   も、ひとまづ原稿に從ひそのままと

   した。

 

[やぶちゃん注:底本では出典を『ノオト』とするのみ。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(いづかたに行き給ふらむ) / 「斷章」の第一章の失われた推敲稿か?

 

  

 

いづかたに行き給ふらむ

深山路に雪をふみわけ

雪をふくみて夕暮の

旅のつかれをいやすらむ

君やいづこに

いくばくの陽光さし

君はかくもものしづかなる

いかなればかくもしづかに

しとやかに君はありしぞ

やみがたき旅にしあれど。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」に、既に「(無題)(ふところに入れたる手よ) / 筑摩書房版全集不載の一篇」の注で引用した「斷章」の一章目が酷似する。

     ×

いづかたに行き給ふらむ

深山路に雪をふみわけ

雪をふくみて夕暮の旅のつかれをいこひやすらむ

いかなればかくもしづかに

しとやかに、したしげに君はありしぞ。

     ×

この断章と比較すると、整序されて、一篇としては本篇の方の完成度が高い気がする。失われた推敲稿か。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 決鬪 / 附・草稿

 

  決   鬪

 

空と地とに綠(みどり)はうまる

綠をふみてわがゆくところ

靴は光る魚ともなり

歡(よろこび)樹蔭におよぎ

手に輕き利刃(やいば)はさげられたり。

 

[やぶちゃん注:底本では『遺稿』とし、推定で大正三(一九一四)年の作とする。筑摩版全集を見るに、これは大正三年十月号『詩歌』に発表した「決鬪」決定稿の草稿である。まず、決定稿初出を示す。傍点「ヽ」は太字に代えた。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 决鬪

 

空(そら)と地(つち)とに綠はうまる、

綠をふみてわが行くところ、

靴は光る魚ともなり、

よろこび樹蔭におよぎ

手に輕き薄刄(やいば)はさげられたり。

 

ああ、するどき薄刄(やいば)をさげ、

左手をもつて敵手(かたき)に揖す、

はや東雲(しののめ)あくる楢の林に、

小鳥うたうたひ、

きよらにわれの血はながれ、

ましろき朝餉をうみなむとす。

 

みよ我がてぶくろのうへにしも、

愛のくちづけあざやかなれども、

いまはやみどりはみどりを生み、

わがたましひは芽ばへ光をかんず、

すでに伸長し、

つるぎをぬきておごりたかぶるのわれ、

おさな兒の怒り昇天し、

烈しくして空氣をやぶらんとす、

土地(つち)より生るゝ敵手のまへ、

わが肉の歡喜(よろこび)ふるへ、

感傷のひとみ、あざやかに空にひらかる。

 

ああ、いまするどく鋭刄(やいば)を合せ、

手はしろがねとなり、

われの額きづゝき、

劍術は靑らみついにらじうむとなる。

 

「揖す」は「しふす」(しゅうす)で会釈することを指す。次に以上の詩篇の草稿詩篇を示す。脱字はママ。

 

  决鬪

 

空と地とに綠(みどり)はうまる

綠をふみてわがゆくところ

靴は光る魚ともなり

歡(よろこび)樹蔭におよぎ

手に輕き薄刄(やいば)はさげらたり

 

これだけである。最終行の「刄」は筑摩版全集は「刅」の最右翼「ヽ」のない「刃」の正字体であるが、これは筑摩版全集が勝手に統一字体として本文校訂に唯一採用したものであって、しかも、汎用出来る字体としてワープロやネットではフォントとして作られていない。初出を見て貰うと判るが、そこでは「刄」の表記であるから、私はそちらで示した。

 さて。これと本篇を較べてみるに、これは別原稿とはちょっと思われない。小学館版の編集者が、この草稿に手を加えて載せたものとみるのが穏当であろう。「利」は「薄」の崩しがひどくて判読出来ず、「利」としたに過ぎないのでは? とも思われる。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 街道 / 幻の「街道」の初期形か?

 

  街   道

 

道路は樹木を凍えしむ

うらがれとがれ

りんりんと梢に高く光れる針葉

しんに針葉の並木は哀しく

下に道路はうちふるへ

くねりつつ白くつらなり遠きに山脈の浮べるあり

背をまろくして街道を流れゆく見ゆ

いま眞珠のくだのごときもの

しきりに路上に燃えたちしが

ややありて光なき日輪に及ばんとす

この低き屋並をこえ

道路のうへにまたがり

いと高きにありてめんめんと愁ふるもの

絕えず愁ふるものをきく

そはぷろぺらのうなりのごとく

氷山のひび入るごとくにもきこゆれど

そのひびき遠き道路に及ばねば

尙も夕日の中にむらがり

あまたうないらは哀しげに遊び居るなり

 

はやたそがれ近き冬の日の道路に

らくだに似たる物象の長き列は近づきぬ

見よいまもきのふも

街道はくねりつつえいゑんの遠きにはす

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」にかなり似た「街道」がある。以下に示す。誤字・錯字・歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

 

  道路街道

 

道路は樹木を凍えしむ

うらがれとがれ

りんりんと梢に高く光れる針葉

しんに針葉の並木はさびしく

下に道路はうちふるへ

ふとくしねりつつ遠きにはす。

遠きに高原の山脈ゆめと浮べるあり

旅びとゝむれくらく流れいで

音もなくうこのことろをすぎ行く見ゆ。

いま眞珠のくだの如きもの

しきりに路上にもえ立ちしが

やゝありて光なき日輪に及ばんとすびなんとす。

この低き屋並を越え

樹木をこえ

いと高きにありてめんめんと愁ふるひいづるも

そはぷろべらのうなりの如く

氷山のひゞいる如くにもきこゆれ共

その響、遠き地上に及ばねば

いまも夕日の中にむらがり居て

あまたうなひらは悲しげに遊び居るなり。

みよかゝる日の街道に

わが■■憂愁ははてしなき軌道を步む。みいづ。

 

■■」判読不能の抹消字である。思うに、これは本篇を更に推敲したもののように感じられる。最早、現存しない幻の「街道」の初期形と言うべきか。]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 鐡橋々下 / 附・同時初出併載詩篇「早春」

 

  鐡 橋 々 下

 

人のにくしといふことば

われの哀しといふことば

きのふ始めておぼえけり

この市(まち)の人なになれば

われを指さしあざけるか

生れしものは天然に

そのさびしさを守るのみ

母の怒りの烈しき日

あやしとさけびかなしみて

鐵橋の下を步むなり

夕日にそむきただひとり。

               ―滯鄕哀傷篇より―

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では酷似した詩篇が「拾遺詩篇」にある。初出は大正三(一九一四)年三月二十四日附『上毛新聞』である。如何に初出形を示す。標題のルビの後半の「けう」は踊り字「〱」。

 

 鐡橋々下(てつけうけうか)

 

人(ひと)のにくしといふことば

われの哀(かな)しといふことば

きのふ始(はじ)めておぼへけり

この市(まち)の人(ひと)なになれば

われを指(ゆび)さしあざけるか

生(うま)れしものはてんねんに

そのさびしさを守(まも)るのみ

母(はゝ)のいかりの烈(はげ)しき日(ひ)

あやしくさけび哀(かな)しみて

鐵橋(てつけう)の下(した)を歩(あゆ)むなり

夕日(ゆうひ)にそむきわれひとり

                (滯鄕哀語篇より)

 

筑摩版全集の注に、『新聞發表の際は「夢みるひと」の筆名で』、筑摩版全集の本篇の前に掲げられた「早春」という詩篇とともに掲載されたと記されてあるので、その「早春」も掲げておく。全集の位置から、掲載はこの「早春」の方が手前にあるということであろう。歴史的仮名遣の誤りはママ。

 

 早春(さうしゆん)

 

なたねなの花(はな)は川邊(かはべ)にさけど

遠望(えんばう)の雪(ゆき)

午後(ごゞ)の日(ひ)に消(き)えやらず

寂(さび)しく麥(むぎ)の芽(め)をふみて

高(たか)き煉瓦(れんぐわ)の下(した)を行(ゆ)く

 

ひとり路上(ろぜう)に座(すは)りつつ

怒(いか)りに燃(も)え

この故鄕(ふるさと)をのがれいでむと

土(つち)に小石(こいし)を投(な)げあつる

監獄署裏(かんごくしようら)の林(はやし)より

鶫(つぐみ)ひねもす鳴(な)き鳴(な)けり

            (滯鄕哀語篇より)

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の本詩篇の初期形表示は杜撰で、改頁に当たっている部分が行空けのはずなのだが、後のページの行空けは、下方の初出ではなされていない。しかし、注なしで、校訂本文が恣意的に一行空けにすることは流石にあり得ないことなので、この空行部のみ、同全集の校訂本文に従って、空けた。誰も気にしないとでも思ったか! 俺は気づいたぞ!]

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 砂金

 

  砂  金

 

くもり日のうちしめれる渚をつたひ

ひとりしくしくと步みしが

つかれてまた砂丘に倒れ伏し

さびしく掌に砂をすべらしむ

さびしきたはむれはけふも掌に砂をすべらし

ねむれる渚に鷗をおどろかしむ

われは砂より生れ砂よりいでて

光りをみがく砂金なり

みよ かすかに指のあひだにうごめき

くすぐるごとく踊れるものあり

砂金は砂の中より

かなしき聖歌を唄へるなり

主よ

主はめぐみにみてり。

 

[やぶちゃん注:底本では制作年は未詳(記載なし)で、出典を『ノオト』とする。筑摩版全集では、「原稿散逸詩篇」にあるが、それは本底本に先行する小学館版「萩原朔太郎全集遺稿上」から転載されたもので、既に原稿は失われているようである。]

只野真葛 むかしばなし (43)

 

 父樣、仙臺へ御立とて、荷物をからげて居(をり)し時、

「今、木挽町で、藝者が、きられた、きられた。」

と、人々、いひさわぎし故、からげかけて、男ども、行てみしが、切ころされて、かた息に成、たふれてゐし所を見て來りしが、町人に、其藝者故(ゆゑ)、身を仕廻し人、有。其家の居候に成て、藝者の三味線箱かつぎに成て、下人のごとく、草履直しなどして、つかへしを、母も娘も、うるさがりて、いろいろ、あしくせしを、いきどほりて、湯から出がけを追かけて、ころびし所をきりしよしなり。こんなことはいくらも有ものなれど、いかゞしたることにや、大評判と成て、「はやりうた」にも、洒落本も、うるさきほど、いでゝ有し。「おとよ」といふ女なり。

 仙臺の旅宿には、かの鑄錢(《ゐ》せん)を願(ねがひ)し町人、ねがひのうへ、宿をせしたりしとぞ。

[やぶちゃん注:父工藤平助は藩命によって仙台藩に赴き、貨幣の鋳造や薬草調査等を実施し、一時期は仙台藩の財政をも担当したという(当該ウィキに拠る)。但し、以下に出る還俗は、或いはこれよりも早かったと思われ(さればこそ医師ではない全く異なる財政方面での活動も出来たと考えられる)、真葛の記憶に前後の齟齬がある気もする。]

「料理上手、一たいの服よく、江戶、はづかし。」

と被ㇾ仰し。其内、わけて御感じ被ㇾ成しは、雪ふり、寒夜、御下りのおそかりしこと有しに、亭主、留守にて有しを、歸りて

「御膳の仕度、何々ぞ。」

と聞しに、妻、

「何々。」

と、こたふれば、

「それは。にくさりに成て、いくまじ。いで。」

とて、白かゆに、田樂いだし上(あげ)たりしが、

「扨。腹うけ、よかりし。」

とて、度々、仰出られて御ほめ被ㇾ遊し。其料理は、御下(おした)のもの[やぶちゃん注:下男。供人(ともびと)。]に、くはせたりし、とぞ。

 御供は樋口司馬と、安兵衞といひし新參者なりしが、この安兵衞、

「つとめがら、よろしき。」

とて、御下り早々、大人役に仰付られしが、廿二にて有し。御目がね程有て、よき人なりしが、おしきかな、中年より、らい病やみいでゝ、つかいがたく、髮をそり、「じやうゑん」と名をかへて、草津の湯治場にて、淺間山のやけぬけし頃は、草津に有て、ちかく見物せしよし、委細そのさまを書(かき)て、奧に、

  信濃なる大めしがまのにひこぼれ上州ものはあびて往生

と書付て有し。草津は風上にて有し故、見物に、よかりし、とのことなり。

 ワ十四のとし[やぶちゃん注:安永五(一七七六)年。]、「はしか」はやりて有しが、其年あたりや、東屋を立られしは。

 仙臺より、御下り、間もなく、還俗、仰付られし。

[やぶちゃん注:父平助は安永五(一七七六)年頃に仙台藩主伊達重村により、還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面に亙って自由に活躍するようになった。]

 其頃、又々、地面、御かりたし、御普請被ㇾ遊しが、攝津守樣、御のぼり被ㇾ遊て、普請びらき早々、いらせられし。

[やぶちゃん注:「攝津守樣」不詳。当代の先代藩主伊達重村は陸奥守である。]

 庭の櫻、御覽、御大名方よりも、數々、被ㇾ下て有し。出羽樣よりは、「淺黃ざくら」、是は、めづらしきのみにて、花、よろしからず。周防樣より被ㇾ下し「大ざくら」、勝(すぐれ)てよかりしが、おそく被ㇾ下し故、角(すみ)にうゑしを、「すみの櫻」とて、もてはやしたりし。「ひさるせ」の印にて大きな猿をそへて被ㇾ下し。其外、たかき、いやしきをいはず、櫻をおくられし中に、賀茂季亮、其頃は市右膳とて、

「かすかなりしが、人數(にんず)に、いらん。」

とて、三尺ばかりの山ざくら、花が、所々に、一、二輪、有(ある)に、

  色なしと人なとがめそさくらばな散けふことのゆゝしくてこそ

と斷書(ことわりがき)をして、付たり。三島自寬、吉兵衞といひしが、ことさらに、まねかれぬを、ふくづみて、文(ふみ)、有。詞書は、おほへず[やぶちゃん注:「覺えず」であろう。]。

 「とへとしもいはぬにもへば君がやの櫻は八重に咲にや有るらん

 春もむなしく」[やぶちゃん注:鍵括弧は底本のママ。]などや有けん。父樣、かへしはおぼへねど、趣向ばかりは、人に御はなし被ㇾ遊し故、おぼヘし。今其心をもておぎなはゞ、

  しるしらぬ・おしなべて・花を尋ねてとふやどをよそに見すぐす君よあやしき

【是等の、そのうち、よろしきを、とるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

といふやうなことなりし。今おもひよりて書けば、よくもしらべず。かへしの哥、まさりしと御じまん被ㇾ成しかば、かくにはあらじ。

[やぶちゃん注:「出羽樣」不詳。

「周防樣」以前の「むかしばなし (7)」の考証では、岩見浜田藩藩主で周防守であった松平康定(延享四(一七四八)年~文化四(一八〇七)年)を同定候補とした。

『「ひさるせ」の印にて』「さる」は以下の「猿」に「去る」を掛けているようだが、意味不明。平助は医師だから「やまひさる」(病ひ去る)など考えたが、「せ」が続かぬ。「世」?

「大きな猿をそへて」「日本庶民生活史料集成」では『大きなくゝりさるをそへて』である。本物の大きな日本猿では大迷惑だから、ここは庚申信仰に習合した三猿信仰辺りから生じた紐で吊るした猿の作り物の「くくり猿」(猿ぼぼ・身替わり申(さる))を桜の枝に吊るしてあったとなら、腑に落ちる。ご存知ない方のために、グーグル画像検索「くくり猿」をリンクさせておく。

「賀茂季亮」「市右膳」なんだか妙に似たような名の人物で同時代人に、歌人・国学者・古典学者にして京都賀茂別雷(上賀茂)神社の祠官であった京生れの賀茂季鷹(かものすえたか 宝暦四(一七五四)年~天保一二(一八四一)年)がいる。彼は平助や真葛と昵懇だった村田春海と親しかった。本姓は山本で、「右膳」を名乗った。「亮」・「市」と「鷹」・「本」は妙に崩すと似ている気がする。

「三島自寬」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家。「むかしばなし (6)」や同「(28)」で既出既注。]

只野真葛 むかしばなし (42)

 

 其頃、公儀御内證[やぶちゃん注:側室。]樣の御年寄女中[やぶちゃん注:江戸城大奥女中の役職の一つで、二番目に位置するが、事実上は奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する大役。将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」の位であった。]に、玉澤といひし人、有し。天下をうごかせし才人なり。此人、もとは山の手の旗本衆の内かたなりしが、夫ばくちの大道樂者にて有しが、提重(さげぢゆう)・たばこ盆・組(くみ)さかづきなど、小道具の仕入、木地より、塗(ぬり)までなり。小細工を渡世にして、代々、小普請にてくらせし人なりしが、玉澤、才人故、其頃はお袖といひしとなり。はじめは、おしへて、させしが、後々は、妻にばかり、こしらへさせて、其身は、ばくち打、いろいろ、放埒して居しに、外の旗本がたの奧樣と不義のこと、あらはれ、かけおちして、家つぶれしに、お袖、不仕合(ふしあはせ)には、里も、先達(さきだち)て、つぶれて、行所(ゆきどころ)なき故に、其やうな所にも居たりしなり【赤坂邊なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 其妹子、赤井藤九郞樣といふ六百石ばかりとる旗本のかたへ緣づかれしに、是も、里なしのうへ、夫、死去、子もなしに若後家なりし。

 其弟、兄の跡をつがれし人が、其(その)藤九郞樣なり。此人、勝(すぐれ)たる人にて、お袖をふびんにおもひ、引とりて、やしないおかれしとぞ。妹子さへも、里があらば、かへるくらいな若後家、まゝ弟子にかゝりて有しうへ、よしみもうすき姊まで、其緣につれて世話になること故、氣の毒の山をつかね、下女同前に、はたらきてゐられし。

 其時より、父樣は御ぞんじなりしとぞ。

「信あれは[やぶちゃん注:ママ。「ば」であろう。]、德、有。」

とかいふことは、此藤九郞樣のことなり。

 少しも、心おきのないやう、居にくゝないやうに、取あつかわれしとぞ。

 藤九郞といふ人は、心だて、よく、器用にて、書もよめ、手も書、繪も、よほどならず、かゝれしを、廿二才にて、中風して、惣身、きかず、飯もやしなはれて食(くふ)やうなことに成、いきたばかりにて、有し。

 お袖は口ぐせのよふに、

「御奉公に出たし、御奉公に出たし。」

と、いひて有しとぞ。

 其頃のていは、隙《ひま》なく、しきし[やぶちゃん注:「色紙」。衣服の弱った部分に裏打ちをする布地。]當(あて)たる布子の、油賣のやうに垢付しを着てゐられしとぞ。

 やうやう、御本丸のおもて使者に、少々、手つぎ有て、其人の世話にて御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」に上(のぼ)られしが、運のひらけはじめなりし。手も、よくかゝれしとぞ。しゆんめう院樣御代のことなりし。

[やぶちゃん注:『御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」』恐らくは、幕府の右筆の間で取り交わされる文書に添える表書きのことであろう。「書札礼」(しょさつれい)という語があり、これは公的な書状の形式・用語などを規定した礼法式を言う。小学館「日本大百科全書」によれば、『手紙を取り交わす両者の身分的相違による礼儀を重視しようという考えから生じたもの』で、『公家様(くげよう)と武家様の二様ある。元来は中国の』「書儀」(しょぎ)『などによっていたが、平安後期には公式様(くしきよう)文書が衰退し、私(し)文書の発達や有職故実』『学の発展に伴って』、「明衡往来」(めいごうおうらい)『などの書状の模範例文集がつくられるように』なった『一方、公家様の書札礼の書も著されてきた。それが確立されたのは』弘安八(一二八五)年に『一条家経(いえつね)らによって編まれた』「弘安礼節」(こうあんれいせつ)『によってである。この書は宮廷関係の礼節を定めたものであったが、書札礼について一項を設け、それが後の書札礼の典拠となった。武家様の書札礼は、公家様から派生したものであり、鎌倉末には』、『すでに』、『できあがっていたらしい。室町時代になると』、三『代将軍足利義満』の頃に『整備され、武家様が書札礼の中心となった。それとともに』、『文章作成を職業とする右筆(ゆうひつ)の力が強くなり、各家がそれぞれの流儀による書札礼を伝授するようになった。初期の』「今川了俊書札礼」や、後期の「細川家書札抄」・「大館常興(おおだてつねおき)書札抄」・「宗五大草紙」(そうごおおぞうし)などが『代表的なものである。以後、武家様の書札礼は地方に波及し、戦国大名諸家もそれを受容し、自らの書札礼を定めていった。織豊』『政権下でも同様で、多少の改変はあったが』、『維持され、江戸幕府も徳川家康が』慶長年間(一五九六年~一六一五年)『に永井直勝(なおかつ)に命じて制定させたものが』、『江戸時代を通じて行われた』とある。

「しゆんめう院樣」「御代」と言っているので、第十代将軍徳川家治(在職:宝暦一〇 (一七六〇)年~天明六 (一七八六)年)のことであろう。彼の諡号は「浚明院」で戒名は「浚明院殿贈正一位大相国公」である。但し、読みは「しゆんめい」である。これは「明」の呉音「みやう(みよう)」を誤ったものであろう。]

 御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ、大納言樣の御腹のお部屋、御臺樣がはりにて、派をふるはれし人の、かたヘぬけたりしが、はじめ、おやとひにて出し時、

「藝百色まで有し。」

と、奧中、となひなり[やぶちゃん注:「唱ひ成り」か。評判になり。]、殊の外、御意に入(いり)て、すらすら、出世し、老女にまで成しなり。「ばくち打の女房ほど拔目なきものはない」といふを、勝(すぐれ)し才人にて、何をみても、目の鞘が、はづれ、心が黑かりし故、ぬけ出(いで)しなるべし。

[やぶちゃん注:「御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ」家治の正室は閑院宮直仁親王第六王女倫子(ともこ 元文三(一七三八)年~明和八(一七七一)年)。寛延二(一七四九)年に江戸城浜御殿へ入り、宝暦三(一七五三)年に縁組披露、翌四年十二月一日(既に一七五四年)に江戸城西の丸へ入り、婚礼の式を挙げた。宝暦六年に家治との間に長女千代姫を産んだが、姫は二歳で夭折、宝暦一〇(一七六〇)年に江戸城本丸へ移り、御台所となり、九月に家治が征夷大将軍を拝命した。翌十一年には次女万寿姫を出産するも、家治が側室出生の子も御台所の御養としたため、側室お知保の方(蓮光院)が生んだ世子徳川家基(幼名竹千代。第十一代将軍として期待されたが、満十六歳で鷹狩の帰りに急死した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながら、将軍の位に就けなかったため、「幻の第十一代将軍」とも呼ばれる)の養母となった。御台所となってから、十一年後に三十四歳で逝去している。その後、家治の側室お品の方(養蓮院)が次男貞次郎を生んだが、生後四ヶ月で早逝してしまい、家治は天明元(一七八一)年、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の長男豊千代(後の第十一代将軍徳川家斉)を自分の養子とした。こうした不幸の連続の中で大奥の勢力図が大きく変化したことが素人目にも判り、真葛の言うように、この混乱の中、権謀術数を以って「玉澤」は、大奥に於ける事実上の権力者たる御年寄女中にまでのし上がったのである。

「大納言樣」權大納言であった家治のこと。]

 其お部屋御内證樣とて、上分にならせられし時、年中御規式を玉澤が一了簡にて書出(かきいだ)せしが、いづかたにても[やぶちゃん注:底本は「「いづだにも」。「日本庶民生活史料集成」版で訂した。]、點のうち手なかりしとぞ。是等が、表立て、名の上りし始なり。玉澤といへば、老中も、心をおき、とぶ鳥もおつるほどの派きゝと成し故、藤九郞樣も御下故、めいぼく[やぶちゃん注:「面目」の別読み。]をほどこし、昔の恩は百倍にかへされしなり。一生、夫婦寢もならぬ人の所へ、玉澤に引をもとめたきばかりに、三千石とりの旗本衆より、娘を出(いだ)してこされなどして、すさまじきいきおひにて有しなり。

 ワ十一ばかりの時[やぶちゃん注:安永二(一七七三)年前後。]、御本丸へ御普請出來、御内證樣御うつり前、西の丸にいらせられしに、お狂言拜見に上りしこと有し。玉澤樣はかゝりにて、萬事御世話被ㇾ成て有し。髮の結直しなど、壱人にて被ㇾ成しよし。あくる朝、よべの召物、かさねしまゝにて有しを見しに、上は、紫ちりめん、芭蕉に雪ふゞきのかたぬき模樣、相(あはせ)は、紅の紋ちりめん白無垢に、帶は、黑じゆすの縫有[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]にて有しが、みな、油だらけに成て、袖口などは黑ぬりのやうで有し。

「おすたりなり。」

と部屋の者、いひし。昔の姿にくらべては、けしからぬことなり。

[やぶちゃん注:この最後の部分、よく意味が判らない。なお、ここで言う「御内證樣」は、倫子の死(明和八(一七七一)年)後に御部屋様となったお知保の方のこと。]

 其年より五年ばかり過て、御やど下りの時、藤九郞樣への土產に、なぐさみのため、御殿の藝者どもをつれて御下り、素人狂言してみせられしこと有し。宿下りの入用二百兩ばかりかゝりしよしなり。父樣にも、

「何ぞ、御目にかけん。」

とて、かの女力持[やぶちゃん注:「むかしばなし (41)」参照。]をつれて、いらせられし。一日の賃五兩にてやとわれしを、あのかたにて、金、相わたされし時、

「『殘金五兩、たしかに、うけとりし。』と、文之助、こたへしは、『やとひ賃のたけを、人にしらさじ。』と、心はたらかせしこたへなり。」

と被ㇾ仰し。玉澤にも、殊の外、珍らしがられて、

「見世物にでぬ先にしらば、御覽にもいるべかりしを、おしきこと。」

と、いはれしとぞ。此頃が、この人の榮の極にて有しなり。自由のきくにまかせて、表のことまでも、玉澤、加判せられし故、白河樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世、おもき御とがめをうけて、老女役御免、平人お袖と成て、御内證樣、御大病、是かぎりの時なりし故、御看病を申上て有しと聞し。

[やぶちゃん注:お知保の方は寛政三(一七九一)年三月八日に五十五歳で死去した。なお、蓮光院となった彼女は三十七年後の文政一一(一八二八)年に従三位を追贈されている。御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(当該ウィキに拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻二上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。とんでもなく長いので、段落を成形した(それだけ、実は彼女のことが馬琴には気に掛かっていたことの証左である)。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点に代えた。書簡の引用部であることが判るように、当該部はダッシュで挟んだ。なお、表記は底本を忠実に再現してあり、歴史的仮名遣の誤りはママである。但し、吉川弘文館随筆大成版と校合し、明らかな底本の誤りと認めたものは、特に注して改めてある。主人公、只野真葛、本名工藤綾子(あや子・あや)については、私のブログ・カテゴリ「只野真葛」の、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を見られたい。本篇に筆者である滝沢馬琴との関係も記してある。馬琴は「老女(おうな)」と呼んでいるが、この「兎園会」発会当時(文政八年十月一日(一八二七年十一月十九日))、真葛は実は既に白玉楼中の人となっていた。馬琴はそれを知らずにこれを書いているのである。但し、終りの方に翌文政九年に書き添えた頭書に、それを知ったことが記されてある(年は誤り)。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、この文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に仙台で没した。享年数え六十五(私と同じ)であった。因みに馬琴瀧澤解は明和四(一七六七)年六月九日生まれで真葛より数えで五つ年下であるから、「老女」とするに違和感はない。

 

   ○眞葛(まくづ)の老女(おうな)

 眞葛は才女なり。江戶の人、工藤氏(くどううぢ)、名を綾子(あやこ)といふ。性(せい)、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、瀧本樣の手跡さへ、拙か(つたな)からず。

[やぶちゃん注:「瀧本樣」書道の「瀧本流」。江戸前期の石清水八幡宮別当であった滝本坊昭乗(「寛永の三筆」の一人)が始めた書道の一流派。「松花堂流」「式部卿流」とも呼ぶ。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 父は仙臺の俗醫士工藤【本姓源氏。】平助、諱(いみな)は平(たひら)、母は菅原氏とぞ聞えし。先祖は別所黨(べつしよたう)にて、播磨の野口の城主、長井四郞左衛門より出でたり【長井の族を、加古右京といふ。幷に「太閤傳」天正七・三木合戰の條にみえたり。】。その子孫、零落して、攝津の大坂に、をり、數世の後、長井大庵(たいあん)に至れり。是れ、則ち眞葛の祖(おほぢ)、平助の父なり。大庵は醫をもて、業(わざ)としたりしかば、江戶に到りて、紀州公に仕へまつりぬ。男子(をのこ)三人まで有けるに、只、武藝をのみ、學ばせて、子ありとだにも、聞えあげざりしかば、ある時、公、ちかく侍らして、

「汝が齡(よわい)、既に四十(よそぢ)にあまりたらんに、子ども兩三人ありと聞きぬ。などて、家督を願ひ申さぬぞ。」

と問はせたまひしかば、大庵は、あと、さがり、額つく程に、はふり落ちんとせし涙を、拭ひて答へ申すやう、

「いと有りがたきまで、忝(かたじけな)き御意(ぎよい)を蒙ふり奉りし事、身にあまりて覺え候へども、かねて申しあげし如く、先祖は一城の主(ぬし)で候ひしに、たつきの爲に、かく、長袖(ながそで)になりたるだにも、口をしく候ものを、子どもをすら、親の如くにし候はんは、先祖へ、めいぼく[やぶちゃん注:ママ。]なく思ひ候へば、不肖の某(それがし)一代のみ、めし仕はせ給へかし。子どもは、よしや、浪々の飢えに臨み候ふとも、武士にせまほしくこそ候へ。」

と、まうしゝかば、公、感じ思し召して、

「さらば、方伎(ほうぎ)は大庵一代たるべし。」

と仰せ出だされて、跡をば、武士になされたり。

[やぶちゃん注:「別所黨」別所氏。播磨の戦国大名を輩出した氏族で、播磨の守護大名であった赤松氏の庶流で、播磨国美嚢(みのう)郡三木(現在の兵庫県三木市上の丸町)にあった三木城(グーグル・マップ・データ)を本拠とした。

「公」紀州藩第六代藩主徳川宗直と思われる。]

 これにより、その長男は長井四郞右衛門と名のりたり。澁川流の「柔術(やはら)とり」にて、師の允可(いんか)を得たれども、生涯、事にあはざりければ、名をしらるゝよしも、なかりき。

 次を長井善助といひけり。こは「さし箭(や)」の射手にて、いさゝか、世に知られたり。この同胞は紀州に仕へ奉りぬ。平助は三男なるをもて、

「さのみは。」

とて、仙臺候の醫師工藤某に贅(ぜい)して、そが養嗣(やうし)にぞしたりける。されば亦、平助も實父の志をうけ嗣ぎて、圓頂(ゑんちやう)長袖の身たらん事をば、羞ぢしかば、侯に願ひ奉りて、俗體にて有けれども、衛生の術には、おろかならず。思ひを蘭學にひそめて、發明する所も多かりしにぞ、その名も粗(ほゞ)聞えたりける。

 かくて、平助が子ども、數人(すにん)あり。

 長女は綾子、所謂、眞葛、是れなり。

[やぶちゃん注:工藤家のこの兄弟姉妹には、後に出る通り、真葛が、草花の雅名をつけて呼んだ。綾子自身は「葛」であった。]

 次を工藤太郞といひて、才子なりと聞えしに、父に先だちて、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:長男長庵元保(幼名は安太郎。「藤袴」。綾子の二歳下。二十二で早逝。]

 その次は女子(めのこ)、又、其次も女子也。これらも、よすがもとめて、後(のち)、いく程もなく、世を、はやうしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:二女しづ子。「朝顔」。雨森家に嫁した。三女つね子。「女郎花」。加瀬家に嫁した。二人とも婚姻後、二十代半ばで亡くなっている。]

 その次を工藤源四郞元輔(もとすけ)とぞ、いひし。和漢の才子にて、詩をよくし、歌をさへよみけるに、方伎(ほうぎ)も亦、庸(よのつね)ならず。惜しくは、短命にして、子のなかりしかば、はつかに名跡(みやうせき)の遺(のこ)れりといふ。

[やぶちゃん注:工藤源四郎鞏卿(きょうけい)元輔。幼名は四郎。「尾花」。平助が将来を託した子であったが、文化四(一八〇七)年、医業の過労により、病没した。その経緯は「只野真葛 むかしばなし (5)」の私の注で詳しく書いた。綾子より十一年下。「方伎」の陰陽道の占法を以って吉凶災福を察知し、これに処するための呪術作法を行うこと。所謂、本邦で変形して発展した陰陽術(おんみょうじゅつ)である。]

 その次は、女子にて、名を「栲(たへ)」といひけり。こは越前の姬うへに、年來(としごろ)、みやづかへまつりしに、姬上(ひめうへ)、なくなり玉ひしかば、比丘尼になりて、瑞祥院と法號せり。今なほ、鐵砲洲の邸内にあるべし。

[やぶちゃん注:四女拷子(たえこ 生没年未詳)。「萩」。彼女は結婚せず、文化九(一八一二)年に剃髪し、「萩尼」と号した。真葛の頼みで、馬琴へ直接に真葛の諸原稿を齎した人物である。]

 又、その次も女子なりしを、ある醫師に妻(めあは)せられしが、こも亦、はやく身まかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:五女照子。「撫子」。仙台の中目家に嫁した。あや子より二十三歳下。現在、電子化注を進行中の「むかしばなし」は、年の離れた末っ子の彼女が、自家の思い出が数少ないことを嘆いたため、真葛がそれらを祖父母の代まで遡って、自身に記憶に基いて語る形で書き始められたものである。]

 この同胞(はらから)、七(なゝ)たり。

 才も貌(かたち)も、とりどりなりけるそが中に、乙(おと)の子[やぶちゃん注:ここは源四郎。]の、みやけの御まへに、給事(みやづかへ)にとて、まゐれるとき[やぶちゃん注:父の伝手で仙台藩御近習となった。後、父と同じく藩医となった。]、兄の元輔が、後(のち)のおこたりをいましめて、

「よく勤めよかし。ふた親のめぐみをおもふに、雨露(うろ)のごとく、ひとしきを、うけたる身の、心々(こころこころ)にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たり。」

とて、

  おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり

と、よみて、とらせたりしを、後(のち)に、綾子の、傳へ聞きて、

「よくも、いさめたるものかな。さらば、その七草(なゝくさ)の花にたとへんに、『藤ばかま』は、かぐはしといへば、太郞よ。その次なる女、かほ、よければ、『朝がほ』。その次は『をみなヘし』。『をばな』は、そこにこそ、をはさめ。越の御まへなるは『萩』、乙子(おとこ)は『なでしこ』となるべし。『葛ばな』は、めづるばかりのものならねども、葉のひろければ、はらからを、さしおほふ子の上にしも、似つかはしかるべくや。」

と定めたりしより、物には、綾子を「眞葛」と唱へ、拷は「萩」と唱へ、祝髮(しゆくはつ)の後(のち)は「萩(はぎ)の尼(あま)」ともしるしたり。

 かゝる、めでたき同飽(はらから)なりしに、五人は、命、長からで、文化の末(すゑ)には、眞葛と、萩の尼【瑞祥院。】のみぞ、のこりたりける。

 そが中に、眞葛は、いと、をさなかりしころより、異(こと)なる志(こゝろざし)ありけり。

 明和壬辰の大火の比、

「物のあたひの、にはかに、勝(のぼ)りて、賤しきものは、いよゝ窮する。」

と傳へ聞きて、ひとり、つらくおもふやう、

「いかなれば、商人(あきうど)の心ばかり鬼々(おにおに)しきものにはある。あはれ、民の父母たる身にしあらば、かく淺ましきことはあらせじを、悔しくも、女に生れたることよ。」

とは、歎きたり。

[やぶちゃん注:「明和壬辰の大火」「明暦の大火」・「文化の大火」とともに江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生した大火。目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。当該ウィキによれば、この二十九日午後一時頃に『目黒の大円寺から出火した炎は』、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、午後六『時頃に本郷から再出火』し、『駒込、根岸を焼いた』三十日の『昼頃には鎮火したかに見えたが』、三月一日の午前十時頃、『馬喰町付近から』、またしても『再出火』し、『東に燃え広がって』、『日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は』九百三十四町、『大名屋敷は』百六十九邸、『橋は』百七十本、『寺は』三百八十二寺を『数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した』。『死者は』一万四千七百人、『行方不明者は』四千人を『超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼し』ている。なお、大事なことは、この時、真葛は未だ数え九歳だったことである。]

 これよりの後、

『われは、必ず、女の本(ほん)になるべし。』

と、おもひおこしつゝ、とにかくに、身をつゝしみ、己(おのれ)をうやうやしうすることは、さらなり、

「女子(をなご)は、おもてこそ、肝要なれ。」

とて、愛敬づきたらんやうにも、しつ。又、「から文」を讀ままくほりせしに、父、いたく禁(とゞ)めて、

「女子(をなご)の博士(はかせ)ぶりたらんは、わろし。草紙のみ見よ。」

と、いはれしかば、「源氏物語」・「伊勢物語」などを、常に枕の友としつゝ、年十六の時、はじめて、和文(わぶん)といふものを、一(ひと)ひらばかり綴りたりしに、父の平助、これを、村田春海に見せしかば、いたくめで、よろこびて、

「その師、なくて、かくまで綴れるは、才女(さいぢよ)なり。」

と、いひしとぞ。

[やぶちゃん注:「村田春海」(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。真葛の母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)が優れた古典研究家で、彼女の書いた「宇津保物語考」を非常に高く評価したのがこの村田であり、真葛の父平助とも親しかった。因みに、「宇津保物語考」に於ける年立ての研究は、同作の本格的・先駆的考証作品であり、それは昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに収載されるほどに、現在のレベルでも学術的価値の高い論考であった。また、その中でやよ子が作成した系図は、本邦の国文学研究に於いて複雑な人間関係を見事に図示した最初のものとさえ言われているのである。真葛にはそうした血が流れていたのである。詳しくは、「只野真葛 むかしばなし (6)」の「桑原ばゞ樣」の私の注を参照されたい。]

 みづからは、只、「伊勢物語」を師として綴りてけるに、譽められしことの、けやけきに恥ぢて、このゝちは、親にすら、見せざりしかど、

『猶ほ、よくせん。』

と、おもひたり。

 手跡は、叔父なりける人、瀧本樣(やう)の能書なりければ、その手を學びて、大かたは極めたれども、五十(いそぢ)ちかきころ、右の腕(かひな)の痛む疾(やまひ)おこりしより、物かくことも、わかき時には劣り、目もかすむこと、常になりたれば、細書(さいしよ)の草紙は得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て漢字。以下でも、多数、出現する。]よまずといへり。いづれも、いづれも、「女の本(ほん)にならん」とほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ、

『人のうへに就きて、心のゆく所を考へ果さばや。』

と、おもふ心も、つきにけり。

 かくて、弟元輔に、四書の講釋といふことをせさせて、只、一とたび、問くことを得たり。これにより、

『孔子・聖人(ひじり)[やぶちゃん注:この読みは吉川弘文館随筆大成版で補った。]の敎へは、すべて、かゝるすぢにこそ。』

と、聊かたのもしく思ひたり。

 佛のをしへも、よくはしらねど、

『念ずれば、必、利益(りやく)あり。』

と思ひとりて、年來(としごろ)、觀音と不動を信じ奉りけり。

 是より先に、とし十六、七なりし頃、仙臺候の御まへに、みやつかへにのぼせられし折り、

『みやづかへは、「獨り勤めなり。」と思ふこそ、よけれ。いくたりの同役ありとても、「勤むることは、われ、一人なり。」とおもはゞ、うしろ、やすかりけん。』

と覺期(かくご)せしかば、傍輩(はうばい)にも、憎まれず、人のおこたりを咎むる心も、なくして、果して、後(のち)やすかりし、といへり。

 又、をさなかりしころ、奴婢(ぬひ)の秘事(みそかごと)をするが、ものゝいひざまと、けしきとに、しらるゝをうち見て、

『あな、おろかにも、立ちふるまふものかな。「人にしらせじ。」と思ふことを、なかなかに、「人、しれかし。」と、いはぬばかりなるは、いかにぞや。かく淺はかなる心もて、しのびあふものどもの、後々まで、いかでか、遂げん。慾にまよふものゝ心ばかりおろかなるはなかりき。』

と、おもふ程に、果して、その事、顯(あらは)れて、追れしものゝありし、とぞ。

 かくて、給事(みやづかへ)の身のいとまを給はりて、宿所にまかりし比(ころ)、母のなくなりしかば、猶をさなかりし妹(いもと)どもの「うしろ見」をも、しつ、内(うち)治むることをさへ、うち任するものゝなかりしにより、三十(みそぢ)を、なかば過ぐるまで、人妻(ひとつま)とも得(え)ならでありしに、

「同胞(はらから)のうち、いづれまれ、國勝手(くにかつて)なる人の妻とせば、元輔が爲に、よろしかるべし。」

と、父の、年來(としごろ)いひつれども、「われ、仙臺へ赴かん。」といふものは、なかりしを、眞葛は、

「父の仰せには、もれ侍らじ。ともかくも、はからせ玉へ。」

といひしにぞ、父、よろこびて、あちこちと所緣(よすが[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では本文に『よづる』とある。この場合は「世蔓」か。])もとめつゝ、當時、勤番にて、江戶番頭なりし只野伊賀とて、祿千石を領する人の後妻(うはなり)に、えにし、定まりしかば、仙臺河内(かはち)支倉(はせくら)とて、仙城(せんじやう)の二の丸に程ちかき、只野氏(たゞのうぢ)の屋敷へ遣嫁(よめら)せられけり。

[やぶちゃん注:以上は真葛の事蹟を馬琴は極端に圧縮・省略(以下に示す初婚の事実は真葛が馬琴に送った文書類で馬琴は、知ってはいたが、哀れに思って意識的に書かなかった可能性が高い)してしまっている。その間の事蹟を当該ウィキから引く。かなり長くなるが、彼女の半生(本格的な著述に至るプレの部分としてのそれである)を知る上で甚だ重要である(五月蠅いとなら、ここの太字部分を無視すれば、本文の続きに飛べる)。十五『歳ころから縁談の話も出てきたが、祖母、父、母いずれも消極的であった。とくに母は、義母ゑんも実母やよ子も奥づとめの経験があったのに対し、みずからはその経験がなかったことに引け目を感じており、また、当時の結婚生活が女性には負担の大きいものであったことなどから早婚には反対で、あや子には奥女中奉公をすすめた。こうして』安永七(一七七八)年九月、十六歳で仙台藩上屋敷での奉公がはじまり、第七『代藩主伊達重村夫人近衛氏年子に仕えることとなった。彼女のこの時期の記録はほとんどのこっていないが、のちに、自分に朋輩はないものと考えて懸命に勤めたこと』、『また、町家から勤めにあがった者たちの話で、町人がいかに武家を憎んでいるかを知り、封建身分相互の間には埋めがたい対立のあることに気づいて驚愕したこと』『などを記している』。天明三(一七八三)年、『選ばれて重村の息女詮子(あきこ)の嫁ぎ先彦根藩井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、ときの権力者田沼意次であったという。これに前後して、父平助は』天明元(一七八一)年四月に「赤蝦夷風説考」『下巻を、天明』三『年には同上巻を含めてすべて完成させた。密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」を『老中田沼意次に提出した』。『これらの情報は、松前藩藩士前田玄丹』、『松前藩勘定奉行湊源左衛門、長崎通詞吉雄耕牛らより集めたもので』、翌天明四(一七八四)年には、『平助は江戸幕府勘定奉行松本秀持に対し』、「赤蝦夷風説考」の『内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これにより、父工藤平助は』、『いずれ』、『蝦夷奉行に抜擢され、幕府の直臣になるという噂が流れた』。天明二年或いは三年頃、『平助はあや子に対し、おまえは結婚適齢期』(当時は二十歳頃とされた)『ではあるが、自分はこの先どれだけ出世するかわからず、いま結婚すると』、『妹たちの方が高い家格の人との縁談にめぐまれることも出てくるので、いま少し辛抱して奥づとめを続けるようにと諭されたという』。『平助や松本秀持の努力の甲斐あって天明』五『年には』、『田沼政権のもと』、『蝦夷地調査隊が派遣された』。しかし、翌天明六年は、『工藤家にとって災難の重なった年であった。国元は前年からの凶作(天明の大飢饉)で藩財政は厳しさを増した』。二『月には』、『平助の後継者として育てられてきた上の弟長庵が、火災後の仮住まいにおいて』二十二『歳で没した。幼いころから利発で思慮深く、将来を嘱望されていたが、病弱であった』。八『月には』、十『代将軍徳川家治の逝去がきっかけとなり、平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた田沼意次が失脚し』、十『月、幕府は第』二『次蝦夷地調査の中止を決定した。これにより』、『平助が蝦夷奉行等として出世する見込みはまったくなくなった。田沼のライバル松平定信の政策は、蝦夷地を未開発の状態にとどめておくことがむしろ国防上』、『安全だという考えにもとづいていた』。『築地の工藤邸は天明』四『年に焼失してしまうが、その後、築地川向に借地して家を建てはじめた。しかし、世話する人に預けた金を使い込まれてしまい、普請は途中で頓挫した。そうした』中、天明七(一七八七)年の『倹約令の影響で景気も急速に冷え込んだため、家の新築は見通しが立たなくなった。こののち、日本橋浜町に住む幕府お抱えの医師木村養春が平助に同居を持ちかけたので、工藤一家はここに住むことになった』。二『月、あや子のよき相談相手であった祖母ゑんが浜町宅で死去し』、『同じ年の』七月十一日には、『詮子の夫井伊直冨が病のため』二十八『歳で急死した。最後の手当に呼ばれて調剤した薬を差し上げたのが平助だったため』、『家中での評判がわるくなり、あや子も剃髪した詮子の傍らで仕えるのが心苦しくなった』ことから、天明八(一七八八)年三月、「身を引くべき時来りぬと覚悟して」病気を理由に勤めを辞した。彼女の奉公は、仙台藩上屋敷]五『年、彦根藩上屋敷』五『年の計』十『年におよんだ』。『奥づとめを辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった。この家からは、しず子が津軽藩家臣雨森権市のもとに嫁している』。寛政元(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は平助より、かねて懇意としている磯田藤助が、藤助のいとこにあたる酒井家家臣と彼女との縁談を世話すると言っているので嫁に行けと言われ、あや子は父に従った』。二十七『歳になっていた』。しかし、『この結婚は惨憺たる結果であった。相手はかなりの老人であり、夫としてはじめて口にしたことばが「おれは高々五年ばかりも生きるなるべし。頼むはあとの事なり」だという。これが自分の一生を託す夫であり、自分ののこりの人生かと思うと情けなく、泣いてばかりいたあや子は結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それもあや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の「先は老年と聞が、其方も年取しこと」の言葉も彼女を傷つけた』。『離縁したあや子が数寄屋町に戻ったころより』、『次第に母が病いがちとなり、あや子は母になり代わって弟妹の世話をするようになった』。寛政二(一七九〇)年、三女つね子が加瀬氏に嫁いだ(つね子は』二十『歳代半ばで没している)。同年、雨森家へ嫁いで一子を産んでいた次女のしず子が病んで衰弱したのを知り、工藤家で治療のため』、『引き取ったところ、数日ののち』、『没してしまう出来事があった。あや子は、しず子の苦労続きの結婚生活を知り、雨森家の仕打ちに憤慨している』。寛政四(一七九二)年、三十歳の時、『母が亡くなった。末の照子はこのときまだ』七『歳であった。弟の源四郎は工藤家の家督を継ぐべく修行中の身であったが、あや子とは大人同士の会話を楽しめる』十九『歳の若者に成長していた』。『父からは漢学の学習を禁じられたあや子であったが、源四郎からは四書』『の手ほどきを受けている。年は離れていたが』二人は互いの『学識や向学心に敬意を払い』、ともに『理解しあえる仲のよい姉弟であった』。『また、地主の三島自寛とは、国学や歌文を共通の関心事として個人的な交流があり』、二『人はしばしば手紙をやり取りすることもあった』。寛政五(一七九三)年、『父工藤平助は弟子にあたる松前藩医米田元丹』『を通じて、ロシア使節アダム・ラクスマンの根室来航とともに帰国した大黒屋光太夫から』、『米田が直接聞いた光太夫の体験談やロシア情報などを知る機会を得た。こののち平助は』「工藤万幸聞書」として、『その情報をまとめた。父のかたわらにあった彼女は、これらの情報にふれたと思われる』寛政九年二月、『父工藤平助は医書』「救瘟袖暦」(きゅうおんんそでごよみ)『(のちに大槻玄沢による序が付せられた)を著し』、七『月には斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』十『代藩主伊達斉宗)が熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた』。寛政九年、三十五『歳のあや子は仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の只野行義』(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称が只野伊賀)『と再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村の世子松千代の守り役を』、一旦、『仰せつかったが』、寛政八年八月の『斉村の夭逝により』、『守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や』、『漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより平助は、源四郎元輔の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが』、『仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より』、『平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため』、『只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の身はいたづらに消えんとすらん

[やぶちゃん注:以上は漢字を恣意的に正字化した。]

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられていた』。一旦、『江戸に招き寄せ』ていた『家族も』、『急遽』、『仙台に帰して』おり、この時の『行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた。なお、のちに末妹の照子が仙台の中目家に嫁いでいる』。寛政九(一七九七)年九月十日、『あや子は仙台へ旅立った。このときの心境を、彼女は』二十『年後に振り返って』、

「友を捨て、父兄弟のわかれ、樂(たのしみ)をたちて、みちのくの旅におもむきたりし。かく、おもひたちしはじめより、『父に得し體にしあれば、いさぎよく、又、かえすぞ。』と思ひとりて、『三十五才を一期ぞ。』と、あきらめ、二度(ふたたび)歸らぬ旅立(たびだち)も、死出の道には增(まさ)りけりと、ことならず思ひ、此地にくだりて[やぶちゃん注:以下略。ここは独自に一九九四年国書刊行会刊の鈴木よね子校訂「只野真葛」の「独考(ひとりかんがへ)」の「独考巻の下抄録」を参考に恣意的に正字化して示した。]

『と述べており、悲壮な決意であったことを記している』。『また、結婚直後にあや子が行義にあてた手紙がのこっており、このなかで、くれぐれも工藤家への配慮を願っており、「これよりはいくひさしく御奉公申し上げ候」のことばも綴られている』、八『年後、あや子は父平助への思いを』、

 はしきやし君がみことをかゞふらば火にもを水にも入らんと思ひしを

『の歌で言い表しており、父のことばであれば』、『火中・水中に入ることも辞さなかったと詠っている』。『仙台行きには、夫只野行義は職務の都合により』、『同行できず、弟源四郎が付き添った。仙台只野家に到着したのは』九月二十二日で、『屋敷は仙台城二の丸近くの元支倉扇坂(現在の東北大学構内)にあった』。『只野家では』、『行義の老母、おば、きょうだい、息子たちがそろって待機しており、彼女と』、『にぎにぎしい対面を果たした』、『これ以後、あや子は終生』、『仙台で暮らすこととな』った。『行義には先妻とのあいだの男子』三人がおり、十四『歳の嗣子只野由治(のちの図書由章)、次男由吉(のちの真山杢左衛門)、三男由作(早世)であった。ほかに四男にあたる養子(のちの大條善太夫頼秀。行義の父只野義福の妾腹の子)がいた。行義は翌』寛政一〇(一七九八)年二月に『仙台に帰り』、翌寛政十一年には、『嗣子由治をともなって再び江戸に旅立った。このように、行義はその後も職務の性格上』、一『年おきに江戸と仙台を往復する生活を送った。行義が仙台に戻った際には、あや子に江戸のようすをこまごまと話してきかせた。行義はあや子の影響で和歌を詠むようになり、彼女もしだいに行義に対し』、『深い愛情をいだくようになった。また、仙台の屋敷にのこった子どもたちもよくなついた』寛政十年には、『桑原純と思われる叔父より』、『多数の書籍が贈られており、そのなかの賀茂真淵の著作』「ことばもゝくさ」に非常に『感銘を受けている』。『この頃より』、『あや子はいっそう熱を入れて本格的に国学関係の本を読むようになったと思われる』。同年『冬、あや子は宮城郡の塩竈神社に詣でており、紀行文として』「塩竈まうで」を『著している。これを江戸の父平助に送ったところ、村田春海に見せたという知らせが届き、あや子は』大いに『恥じ入っているが、春海より思いがけない称賛を受け、「そぞろにうれしき事かぎりなかりき」』(「独考」)『との感想をもらしている。また』、寛政十一年には、『結婚からこの年までの日記文』「みちのく日記」が完成を見ている、とある。

 人、或(ある)は、これを諫めしものゝありしに、眞葛、答へていはく、

「遠く仙臺へよめらせんと欲[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版によれば、『ほり』とひらがなで記されてある。]するは、これ、父のこゝろなり。又、遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ、子の心を、心として、親の情願(じやうぐわん)に背(そむ)くべき。われは、『三十六歲を一期(いちご)として、死したり。』と思へば、うれひもなく、うらみも、あらず。死して、すぐせ、わろくば、必、地獄の呵責を受くべく、且、親同胞(おやはらから)にあふに、よし、なかるべし。仙臺は、もとも厭(いと)はしき所なり。且、聲、だみて、むくつけきをとこに、かしづき、『詞(ことば)がたき』[やぶちゃん注:「和歌や文章について対等に語り合う相手」の意であろう。]もなき宿を、生涯、うちまもりたらんも、地獄の呵責には、ますこと、なからんや。」

と、いひしとぞ。

 さて。年ありて、父平助も身まかり、眞葛の良人(おつと)伊賀も世を去りて、前妻(もとつめ)の嫡子只野圖書(たゞのづしよ)の世となりにたり。

[やぶちゃん注:工藤平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日に享年六十七で病没した。真葛数え三十八の時であった。そして真葛五十歳の時、江戸詰となっていた夫只野行義が江戸で急死した。文化九(一八一二)年四月二十一日のことであった。]

 この家、いとかたくなゝる家則(かそく)多くて、傍らいたき事のみなれども、繼母(けいぼ)の事なれば、何事も得いはず、

『いとおろかなるわざかな。』

と思ひつゝ、そが、まにまにせずといふこと、なし。はじめ、

『女の本(ほん)にならん。』

と思ひしを、得果さず。をのこ・はらからの、世をば、はやくせしことのかなしくて、

『よしや、わが身、女[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では平仮名で『おうな』とある。]なりとも、人に異(こと)なる書(ふみ)を著はして、世にも知られ、乃祖(ないそ)[やぶちゃん注:祖父或いは先祖。]の名をも、顯はさばや。』

と思ふに、今の諸候の多くは、財主の爲に苦しめられながら、嬖妾(へいしやう)[やぶちゃん注:「愛妾」に同じ。]に費えを厭ひ玉はず。或は、職位(しよくゐ)を望みて、そがなかだちするものに、謀(はか)られ、あたら、黃金(こがね)を失ひ玉へることなどをはじめとして、經濟の可否を論ずること、數篇(すへん)、全書三卷を「獨考(ひとりかんがへ)」と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、眞葛五十五歲の著述とぞ聞えし。此他、「奧州ばなし」一卷、「磯づたひ」一卷あり。予が、こゝにしるしつけたるは、眞葛の、予が爲に書きておこせし「昔がたり」・「とはずがたり」・「秋七くさ」・「筆のはこび」などいふ草紙の意をうけて、畧記しつるものなり。

[やぶちゃん注:「奧州ばなし」「磯づたひ」は既にブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を完遂しており、それらの一括縦書PDF版も私の個人サイト「鬼火」内の電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」で、それぞれ、「奧州ばなし」及び「磯づたひ」として公開してある。

 以下は、底本でも改行してある。一つの切れめでもあるので、一行空けた。]

 

 予は、近き頃まで、眞葛をしらず、文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の春きさらぎ下旬、家の内のものどもの、年の始めのことほぎにとて、親族許(しんぞくがり)ゆきたりし日、齡(よはひ)五十(いそぢ)ばかりなる比丘尼の、從者(ずさ)ひとりいたるが、來て、おとなふ有けり。とりつぐものゝなき折なれど、うちも、おかれず、みづから出でて、

「いづこより來ませしぞ。」

と問ふに、比丘尼のいはく、

「尼は、牛込神樂坂(うしごみかぐらざか)なる田中長益(ちやうゑき)といふ醫師(いし)に由緣(ゆかり)あるものに侍り。主人(あるじ)に見參(けんざん)せまほし。」

と、いひつゝ、にじり上りたり。

 予は、文化のはじめより、客を謝し、帷(ゐ)を垂れて、常に人と交はらず、をちこちの騷客(そうかく)の、多(さは)に來訪せらるゝも、舊識(きうしき)の紹介(ひきつけ)なければ、病ひに托(たく)して、逢はざりしに、

『ついで、わろし。』[やぶちゃん注:「面会の次第が乱暴でよくないな」。]

と、思へども、せんかたのなきまゝに、

「いな、主人は出でゝ、今朝より、あらず。家の内の人ども、いつちヘか、ゆきたりけん、己(おのれ)は、しばし、留守するもの也。何事まれ、仰せおかれよ。歸らば、傳へまゐらせん。」

と、惟光(これみつ)がほに、答へたり。

[やぶちゃん注:面白い表現だ。ただ、考えて見れば、自身を光源氏に譬えているわけで、ちょっと憎い感じはする。]

 その時、比丘尼は、ふところより、一通の封狀と、「さかな代(だい)」と、しるしたる「こがね」一封(いつふう)と、「ふくさ」に包みたる草紙三(み)まきを、とり出でゝ、

「こは、みちのくの親しきものより、『あるじに、とゞけまゐらせよ。』とて、おこしたるなり。草紙は、『をんなの書きたるを、こゝの翁の筆削(ひつさく)をたのみ侍る。』とよ。猶、つぶさには、此消息(せうそこ)にこそ、あらめ。あまは、今宵、田中許(がり)止宿(ししゆく)し侍れば、翌(あす)のかへさに、又、とぶらひ侍りてん。『その折りに、一筆(ひとふで)なりとも、此かへしを賜はれ。』と傳へ給へかし。」

といふ。

 予、答へて、

「そは、こゝろ得て侍れども、主人は、年來(としごろ)、『筆とる技に倦(う)みつかれたれば。』とて、いづ方より、よざし玉ふも、かゝるものは、うけ引き侍らず。殊更、留守の宿(やど)なるに、あづかりおかば、叱られやせん。又、折りもこそあるべきに、こは、もてかヘらせ玉へかし。」[やぶちゃん注:「よざし」「よさす」は元は上代語で後世には「よざす」とも表記する。四段活用動詞「寄(よ)す」の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いたもので、「おまかせになる・ある事柄をある人に委任なさる」の意である。ここは、その「す」が使役の意に転じた用法で、二重敬語ではあるまい。]

と、いなむを、比丘尼は聽かずして、

「そは、宣(のたま)ふことながら、おん身の心ひとつもて、おしかへされんことには、あらじ。とまれ、かくまれ、あづかりて、たべ。翌の朝は、巳(み)の比[やぶちゃん注:午前十時頃。]に、またこそ、來(き)め。」

と、期(ご)をおして[やぶちゃん注:再来の刻限を定めて。]、いとまごひして、まかり出でにけり。

 予も亦、書齋に退(しりぞ)きて、まづ、その狀を、ひらきて見るに、いひおこしたる趣きは、比丘尼のいへるに同じけれども、ふみの書きざま、尊大にて、

――馬琴樣 みちのくの眞葛――

と、のみありて、宿所などは定かにしらせず、いぶかしきこと、限りもなければ、獨り、つらつら思ふやう、

『此(この)年來(としごろ)、貴人(あてびと)より、書を賜はりし事のあれども、かくまでに尊大なるは、いかなる人の妻やらん。仙臺侯の側室(そばめ)にて、「御部屋(おへや)」など、唱ふるもの歟。遙々と、よざしぬる草紙は、何を書きたるやらん。』

と、思へば、やがて繙(ひもと)きて見れば、經濟の可否を論じて「獨考」と名つけたる「ふみまき」の稿本(したがき)なり。

『その說どもの、よき、わろきは、とまれ、かくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。只、惜しむべきことは、眞(まこと)の道をしらざりける、不學不問の心を師として、ろ論じつけたるものなれば、傍らいたきこと、多かり。はじめより、玉工の手を經て、飽くまで磨かれなば、かの「連城(れんじやう)の價(あたひ)」におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾(たまぼこ)の、みちのくに埋(うづ)みぬることよ。』

と、おもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり。

[やぶちゃん注:「連城の價」「連城の璧(たま)」が一般的。秦の昭王が十五の城と交換したいと申し入れたという趙の恵文王の所蔵していた玉璧(ぎょくへき)。転じて「またとない宝物」の比喩。「和氏璧(かしのたま)」或いは単に「連城」とも。]

 さは、さりながら、人妻か、母か、もしらぬ一老婆(いつらうば)の、その宿所だに定かならねば、需(もとめ)に應ずべくもあらず。

『いでや、わが志を見しらして、その後に、ともかくもせんすべあれ。』

と、おもふになん、その夜、「かへし」をものするに、

――己(おのれ)は、いとはやくより、市(いち)にかくれて、婦幼童(をんなわらんべ)のもてあそびものとなるよしは、刀自(とじ)にもしられたるなるべし。さばれ、こたみ、よせられしおん作の『さうし』は、それらのすぢにはあらぬを、世の人の、われをしれるものと、異(こと)なる見どころあるにあらずば、江戶には、名だゝる儒者も、國學者も多かるに、己には、たのみ玉はじ。さるこゝろもて、せられなば、などて、いと尊大なる。大凡(およそ)、人にもの問ふには禮節あり。いにしへの人は、一字(いちじ)の師をだも、猶、おろかには、せざりき。もし、まことに問はん、とのみ、こゝろあらば、かくはあらじを、馬琴とだに、たゝへられしは、いかにぞや[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『馬琴とさへものせられしはいかにぞや』で、その方が腑に落ちる。]。曲亭も、馬琴も、予が戲號(げがう)なれど、戲作・狂詩・狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに、咎むべき事にはあらず。もし、實學正文(じつがくせいぶん)のうへをもて交はる友に、なほ『曲亭』とたゝへられ、『馬琴』といはるゝは、是、われをしらざるものに似たり。いかでか、予がこゝろに耻づること、なからんや。かゝれば、刀自も、よく、予をしり玉へるに、あらざるなめり。近頃、平賀源内が、儒學・蘭學のうへには『鳩溪(きうけい)』と號し、戲作には『風來山人』と稱し、淨瑠璃本の作あるには『福内鬼外(ふくうちきぐわい)』と、しるしけり。又、太田覃(おほたたん)[やぶちゃん注:底本では「覃」に「せん」とルビするが、誤りなので訂した。大田南畝の本名であるこれは訓読みして「ふかし」である。ただ、尊敬を示して音読みすることは普通に行われる。]は、儒學に「南畝」と稱し、狂詩に「寢惚先生(ねぼけせんせい[やぶちゃん注:ルビは「ね」がない。補った。])」と稱し、狂文・狂歌に「四方赤良(よもあから)」「四方山人(よもさんじん)」「巴人亭(はじんてい)」「杏花園(きやうくわゑん)」などもしるし、晚年には「蜀山人」と號したれども、戲作・淨瑠璃のうへならでは、「鳩溪(きうけい)」を「風來」とも「鬼外」とも稱するものなく、狂文・狂詩・狂歌のうへならで、「南畝」を「寐惚(ねぼけ)」とも、「四方」とも、「巴人亭」とも稱するものは、あらざりき。よしやその著(いちじる)きをのみ、呼びなれて、虛實の號を混ずるとも、眞(まこと)によくその人をしれるものは、こゝらに、心を用ふべき事歟。刀自は、よく予をしらず、予は、素より、刀自を知らず。男女(なんぢよ)、みづから、授け、受けざるは、「禮」也。刀自は人の妻歟、母歟。その宿所だも、つゝみ玉ふには、われ、答ふる所をしらず。こゝをもて、只、わが志(こゝろざし)を述べて、おどろかし奉るのみ。――

と、書きしるしつ。

 かくて、妻(め)のをんな[やぶちゃん注:馬琴の妻。]を呼びて、

「翌の朝、しかじかの比丘尼、來つべし。『主人は、けふも、未明(はやき)に出て、あらず。こは、きのふの「おんかへし」なり。』と告げて、わたせよ。」

といふに、こゝろ得て、しか、はからひつ。

 この後(のち)、二十日ばかりを經て、又、かの比丘尼より、御宰(おさい)めきたる使ひをもて[やぶちゃん注:「御宰」江戸時代に奥女中の供や、買い物などの雑用をした下男。但し、通常、その場合は「ごさい」と読む。]、

「みちのくよりの消息を屆け侍る。」

とて、おこしたるに、「栲(たへ)の尼」と、しるしたる添へふみも、ありけり。

 まづ、眞葛の狀をうちひらきて見るに、こたみは、いと、おしくだりて、文(ふみ)の書きざまの、ねもごろなりし。そが中に、

――よろづに、あはあはしき[やぶちゃん注:「淡淡しき」。いかにも軽薄で浮わついた。]をんなの、よそをだに得しらねば、今は『やもめ』にて、いとおよすげたる[やぶちゃん注:たいそう老けた感じの。]身にしあれど、『をとこに物いはんに、ねもごろぶりたらんも[やぶちゃん注:「いかにも心を込めて丁寧に記すのも」の意であろう。]、なかなかに、無禮(なめげ)なるべし。』と思ひとりしより、『禮(ゐや)なし』と見られにけん。露(つゆ)ばかりも、そなた樣をあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびを、たのみ奉ることやはある。この後(のち)とても、心づきなき事、多からんを、敎へられんとこそ、ねがひ侍れ。『こなたのうへを、しらせよ。』とあるに、いかで、つゝみ侍るべき。眞葛はしかじかなり。又、さきにわらはが消息(せうそこ)を、もてとぶらひ侍りしは、妹(いもと)にて、しかじか。――

と、その身のうへをも、妹『拷(たへ)の尼(あま)』の名どころをも、つぶさに書きしるして、別に「昔かたり」といふ草紙一巻(ひとまき)に、その先祖の事さへ、しるしつけて、みせられたり。

 又、その消息に、

――こゝには、『詞(ことば)がたき』もなく侍れば、只、あけくれに、物を考へ見かへすることの、癖となり、病ひともなり侍りたり。さて、思ふやう、何の爲に生(な)り出でつらん。女一人(をんなひとり)の心として、世界の人の苦(く)を助けまほしく思ふは、なしがたきことゝしりながら、只、この事を思ふが故に、日夜、やすき心もなくて苦しむぞ、無益(むゑき)なる。今は『やもめ』にもなりつるに、なげきをのこさん子とても、なし。息のかよはん限りは、この歎き、やむこと、あたはじ。長く生きてくるしまんより、息をとゞむるぞ、苦をやすむるの、すみやかなるべしと思ひて、ひたすら死なんことを願ひ侍りしに、時は秋のことなりき、曉(あかつき)がたの夢に、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、和歌の上句の後は、そのまま続いてしまっている。]

 秋の夜のながきためしを引く蔦(つた)の

といふ歌の上の、おのづから、ふと、聞えたるは、多年信じ奉る觀音菩薩の、しめさせ給ふと覺えて、夢ごゝろに忝(かたじけな)く、此下のつけやうにて、おのが一世の占(うら)とならん、とまで、しめさせ玉ふ、とおぼえて、いとうれしく、心、いと、あわたゞしきものから、世々に榮えんとこそ、いはめ、と思ふ程に、さめはて侍りき。

『四の句、いと、大事ぞ。』

と思ひつゝ、やゝ程(ほど)ありて、

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行(字下げはなし)であるが、同前。]

 たへぬかつらは

と、つけ侍りし。

[やぶちゃん注:「たへぬ」はママ。

 ここは底本でも改行で一字下げであるが、同前。]

 秋の夜のながぎためしにひく蔦のたへぬかつらは世々に榮えん

と、一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かく、たえず、物をのみ思ひ積みし故によりて、病者(びやうしや)となり侍りて、身もよはく、心もきえきへにのみ、なり增さりしは、不動尊を信じ奉りて後、漸(やうや)く、病も、うすくなり侍りしかども、今に、右の手のいたみて、筆取ること、心のまゝならず、眼(め)、くらくして、細書(さいしよ)をみること、あたはず。是は『老(おひ)の病ひ』とぞ覺え侍る。この近きわたりに、「岩不動」と申し奉るが、たゝせ玉ふ。年每(としごと)の五月廿八日には、このわたりなる幼童(わらんべ)どもの、集合(つど)ひて、御輿(みこし)をかき荷(にな)ひ、御旗(みはた)、あまた持ちて、遊ぶが如く、もて渡り侍り。我も赤色(あかいろ)なる御旗をたてまつりしを、御先(みさき)に持ちてわたりしかば、御心につかせ玉へるならめと、有がたく思ひ侍りしに、宵過ぎて、うすねふたきに[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『うすねむたきに』とあり、「薄眠たきに」(少し眠気がさしてきた頃)の意であることが判る。]、

『いざ、ねばや。』

と思ひて、端居(はしゐ)しながら、籠(かご)にこめたる螢(ほたる)の、やすげなくふるまふをまもりつゝ、何心(なにごゝろ)もなくてありしほどに、

[やぶちゃん注:底本でも改行一字下げ。但し、文は後に続く。]

 ひかりある 身こそくるしき思ひなれ

といふことの、耳にきかれて、めさむるこゝちもしは、

『此(この)御佛(みほとけ)の御しめしぞ。』

と、有りがたくて、

[やぶちゃん注:同前。]

 世にあらはれん時をまつ間(ま)は

と、又、下をつけそへ侍りし。

 此二歌(ふたうた)をちかくに、

『さらば、心にこめしことどもを、書きしるさばや。』

と思ひ立ちて、いと、おほけなき[やぶちゃん注:身のほど知らずな。身分不相応な。]ことどもを、いひ出だせるに侍るなる。書き果てて後に、

『誰(たれ)に「しらげ」をたのまばや。』[やぶちゃん注:「しらげ」「精(しら)げ」で「精(しら)ぐ 」(他動詞ガ行下二活用)で、精米するように、「磨きをかけて仕上げる・鍛えて一層良くする」の名詞形で、「校閲して貰ってブラッシュ・アップすること」を指す。]

と、久しう思ひ煩ひて侍りしに、

「かゝる人に見せよ。」

と、不動尊の御しめしありし故、

そなたに、ことよせ侍りしにこそ。おろそかならず、考を添へ給はらんなんど、ねんじ奉りぬ。今の此身は、譬へば、小蛇の(せうじや)の、物に包まれて、死にもやらず、生きもせず、むなしき思ひ、のこれるに、ひとし。

『君(きみ)、雨となり、風となりて、こゝろざしを、引きたすけ玉はらば、もし、天に顯はるゝことのありもや、せん。』

など、ありて、こたみは、瀧澤解(とく)大人(だいじん)先生樣御もとへ 綾子――

と、書かれたり。

 この長文(ながぶみ)を見る程に、おもはず淚は、はふり落ちて、あはれむこゝろになりにたり。

 名を諱(い)む事は、「からくに」の制度なるを、國學などのうへにては、ふかく、いむよしも、あらず。たとひ、今は、なべて忌むとても、戲號(げがう)を唱へらるゝには、はるかにまして、ほいに稱(かま)へり。但し、「大人先生」などたゝえられしのみ、當(あた)りがたきことなれば、「大人先生」のわけをしるして、かたく、とゞめたりけれども、猶、あやにくに[やぶちゃん注:予想以上に厳格で。馬琴先生、実は、また真葛に使って欲しかったわけね!]、用ひざりけり。こは、羹(あつもの)に懲りしものゝ、韲(あへもの)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『スノモノ』とルビする。「韲」は「膾」「鱠」に同義。]を吹くたぐひならまし。そもそも、この眞葛の刀自は、「おのこだましひ」あるものから、をさなきよりの癇症の凝り固まりしにもや、あらん。さばれ、心ざま、すなほにて、人わろからぬ性ならずば、予がいひつることゞもを、速かに諾(うべな)ひて、遠祖(とほつおや)の事をさヘ、しるして見することやは、せん。かゝる婦人のたのめる事を、猶、いなまんは、さすがにて、しかじかと、ことうけ、しつる。

 そのをりの、予がかへしに、

――「海(うみ)なす御心の廣からずば、木の枝に鼻をすらるゝ。」といひけん如き、予が言(こと)ぐさを、諾(うべな)ひ容(い)れて、しかじかとは聞え玉はじ。およそは、こたみの御消息にて、あし曳(びき)の山の井のかげさへみゆるこゝちし侍れば、淺くは思ひ侍らねど、『不動尊の示現(じげん)によりて』など聞え玉ふばかり、うけられね。そは、とまれ、かくもあれ。たのまれ奉りし一條は、よくも、わろくも、なし果て、おん笑ひにこそ、備(そな)ふべけれ。しかれども、生業(なりはひ)の爲めに、たのまれたる書きものゝ多かれば、今年の暮れまで、待たせたまへ――

など、しるして果て、妹の尼の添ふみを見るに、

――陸奥(みちのく)よりの消息(せうそこ)とゞけ奉る。さても、いぬる日、ふたゝびまで、とぶらひまつりしは、

『人づてに、な、せそ。みづからゆきて、しかじかと傳へよかし。』

と、みちのくより、いひおこせたりしにこそ。さるを、次のあしたにも、あはせ玉はぬにて、しか、侍りぬ。かの留守居(するゐ)の翁(おきな)こそ、こゝろにくけれ。かゝれば、奧のたより每に、尼がその消息をもてゆきて、とゞけまゐらするも要(えう)なし。此のちは、いつも使ひをもて、すべきに、「禮(ゐや)なし」とて、な咎めたまひそ。――

と、ゑんじたるふみの書きざまなれば、予は、何とも、そのことのいらへはせで、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、同じく文は下に続く。]

 ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるゝ君かも

と、よみてつかはしゝかば、後のたよりに、かへし、

[やぶちゃん注:同前。なお、「かへし」の行の下方インデントで以下の名前はあるが、改行した。]

                 萩の尼

 やぶしわかぬ君が心しはるならばわりことくさもかれずやあらまし

と、ありしに、又、予がかへし、

 ことくさを花とし見ればとゞめあへずきのふおしみしはるはものかは

と、よみて、つかはしけり。こは、卯月朔日のことにぞ有りける。

 この「萩の尼」瑞祥院も、多く得がたき才女(さいぢよ)にて、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、走り書き、うるはしくて、手すぢは姊(あね)の眞葛に似て、瀧本樣(やう)なるも、めでたし。

 程へて、予が「ことくさ」の歌をたゝヘて、

[やぶちゃん注:同前。]

 ことの葉のしげきいほりの下つまやふるえの萩をはなとなすらん

と、よみておこしたりき。[やぶちゃん注:この一首、吉川弘文館随筆大成版では、三句目が『下つゆや』である。]

 又、このとしの冬、萩の尼より、ものをつゝみておこしし服紗(ふくさ)を、あやまちて、火桶の中へとり落したりけるを、わびつゝ、かヘしつかはす、とて、

[やぶちゃん注:同前で、「解」の名の位置は先と同じ処理をした。以下、五月蠅いばかりなので、歌では、この注をしない。]

                   解

 こがれつゝわたしかねたる川舟(かはふね)のかぜのふくさにいとゞくるしき

と、いひしに、萩の尼のかへし、

  「やけふくさ」といふことを

と、はし書きして、

 よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戶にかへすこゝろは

と、ありし。こは予が遣はしたる、かへの服紗をかへせし折の事になん。

 是より先に、彌生のころ、眞葛のせうそこに、

――御生業(おんなりはひ)の爲めに、筆とらせ玉ふにて、いとまなきに、しばしば、わづらはし奉るを、『こゝろなし』とや、おもはれ侍りてん――

などありしに、「かへしす。」とて、よみてつかはしける、

 わが宿のはなさくころもみちのくの風のたよりはいとはざりけり

ほど經て、眞葛の、かへし、

 あやまたず君につげなんかへる雁かすみかくれにことつてしふみ

こは、その家の「おきて」あれば、予に消息(せうそこ)をおくれる事を、誰々(たれたれ)にもしらせずとか。嚮(さき)に聞きたることもあれば、歌の心も、しられたり。是より後、かねて書きつゞりたりし物をば、妹(いもと)の尼に淨書せしめ、又、予が爲に綴れるものをば、眞菖の、みづから淨書して、くさくさ[やぶちゃん注:底本は「くさしく」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]、おくりて見やられたり。

 この餘、その消息のはしにも、眞淵・春海(はるみ)・宣長・大平(おほひら)などを論ぜしあり。いと、けやけくおもほゆるを、「さのみは。」とて、しるしも、つくさず。

[やぶちゃん注:「大平」本居大平(もとおりおおひら 宝暦六(一七五六)年~天保四(一八三三)年)であろう。伊勢松坂生まれの国学者。旧姓は稲懸。十三歳の時に本居宣長の門に入り、「茂穂」と称した。宣長に愛され、四十四歳で、その養子となり、宣長の死後、失明した宣長の子春庭(はるにわ)に代って、家を継ぎ、紀伊藩に仕えて国学を講じた。門人も多く、宣長の思想の普及に力を尽した。著書に「古学要」・「神楽歌新釈」・「万葉集合解」などがある。]

 かゝりし程に、このとしも、はや、霜月になりしかば、

――「獨考」のことは、忘れ玉はずや。かねての約束をたがへたもふな――

など、いひおこせること、しばしばなれども、

『今さらに、そのふみを引きなほさん事、易からず。もし、そのわろきを刈りとらば、殘らんことの葉、すくなかるべし。こは、此まゝにうちおきて、別に、諭(さと)すに、ますこと、あらじ。』

と、思ひにければ、原本は假名づかひのたがへると、眞名(まな)の寫しあやまれるに、いさゞか雌黃(しわう)を施して、別に「獨考論(どくこうろん)」二巻(ふたまき)を綴りたり。

 その言(こと)、露ばかりも謟(へつら)ひかざれる筆を、もてせず。その是非を、あげつらふに、敎訓を旨として、高慢の鼻をひしぎしにぞ。いと、おとなげなきに似たれど、

『かくいはで、かたほめせば、いよいよ、さとるよしなくて、にぶし、といふとも、予が斧(をの)をうけたる甲斐は、あらざるべし。人に信(まこと)をもてするに、怒りを怕(おそ)れて諫めざらんは、交遊の義にあらず。』

と、かねておもふによりて也。

[やぶちゃん注:「雌黄」元は硫化砒素からなる鉱物(黄色で半透明、樹脂光沢を持つ。鶏冠石に伴って産することが多く、有毒。雄黄(ゆうおう)に同じ)のこと。これを、昔、中国で、文字の抹消に用いたところから、「詩文を改竄・添削すること」を指す。]

 かくて、廿日ばかりにして、その書、やうやく成りしかば、みちのくへ、つかはすとき、

「いついつまでも、まじらひし事、うけたまはり度(たく)思ひ侍れど、をとこ・をみなの交りは、「かしらの雪を冬の花」と見あやまりつゝ、人もや、咎めん。且、わが生業(なりはひ)のいとまなきに、年來(としごろ)思ふよしもあれば、いとふるき友すら、疎(うと)くなり侍りたり。かゝれば、おん交はりも、是を限りとおぼし召されよ。」

など、いひ、つかはしゝに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて、「萩の尼」の屆けられたり。

 くだんの尼は、予が論の書きざまを譏(そし)れりと見て、うらみにけん。

 怒りは、筆に、あらはれにき。

 こは、あねにおとりて、むねせまき婦女子の氣質と、しられたり。

 眞葛は、さもあらずして、いと、いたく、よろこび、うけたる、消息のまめやかにて、――おんいとまなき冬の日に、書肆(ふみや)どものせめ奉る、春のまうけのわざをすら、よそにして、かう、ながながしきことを綴りて、敎へ導きたまはせし、御こゝろの程、あらはれて、限りもなき幸ひにこそ、侍れ。なほ、永き世に、此めぐみをかへし奉るべし――

と、書かれたり。

 このとき、越前の「御くにかみ」[やぶちゃん注:「御國紙」か。特産の特殊な和紙であろう。]とて、賣物には絕えてなき小形(こがた)の美の紙[やぶちゃん注:「みのがみ」。]十五帖と、おなじ國の「はさみ」、陸奥名とり川なる「うもれ木」の栞(しをり)、「もとあらの萩の筆」などを、贈られしにぞ、明けの春、きさらぎの頃、そのよろこびを、一筆(ひとふで)書きてつかはせしに、かしこのかへしは來(き)にたれど、久米路(くめぢ)の橋の、なか、絕えて、ふみ見ることは、なくなりぬ。

「いとかなし。」

とも、かなしかりしが、かく遠ざかりぬる事を「いかにぞや」と思ふ人の爲めには、いふもえうなきわざながら、

『彼(かの)同胞(はらから)は才女(さいぢよ)なり。齡(よはひ)は、かれも小動(こゆるぎ)のいそぢを過ぐる程なりとも、迭(たがひ)におもてをしらずして、親しく年をかさねなば、李(すもゝ)の下に冠(かむり)を正(たゞ)し、瓜の園(その)に履(くつ)をいるゝ人の疑なからずやは。且、彼家のぬしには、しらさで、みそかにす、といはるゝをしりつゝ、交るべくも、あらず。いと捨てがたき思ひありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならん。』

と、かねてより、おもひしなり。

 これよりの後、まどろまぬ曉(あかつき)每(ごと)に思ひ出で、そのあけの朝、消息(せうそこ)さへ、とり出だしつゝ見る每に、淚は、胸にみちしほの、ふかきなげきとなりにたり。

 この後(のち)、三(み)とせばかりの程は、

「『萩の尼』が御宰(おさい)をもて、予が家の『奇應丸(きわうぐわん)』を求めさせつる事、折々ありし。」[やぶちゃん注:息子の松前藩医員の興継が調合した市販薬であろう。]

と、むすめどもの、いひつるにて、

『扨は。予が安否のほどを、みちのくへ告げんとての、わざか。』

と思ふも、いと、はかなし。

 いかで、われ、眞葛の草子を刻本(ゑりまき)にして、世にあらはさんとは思へども、彼(か)の「獨考」は禁忌に觸るゝこと、多かり。まいて、予が「獨考論」などは、人に見すべきものには、あらず。されば、

「此二書は、そゞろに、な、人に貸(か)しそ。」

と、興繼をすら、いましめたり。

 又、「奧州ばなし」などいふものも、憚るべきこと、まじりたれば、刻本には、なしがたし。只、「磯づたひ」の一書のみ、その文の、特にすぐれて、且、めづらかなる說もあり。禁忌にふるゝことのなければ、

『是をこそ。』

と、おもふ物から、いまだ時の至らぬにや、書肆(ふみや)と謀(はか)るいとまなかりき。

 眞葛の齡(よはひ)を縷(かゞな)ふるに、予に、四つばかり[やぶちゃん注:数えでなければ正しい。]の姊(あね)なりければ、今もなほ、恙なくば、六十(むそぢ)あまり三ッにやならまし【眞葛は文政七年某の月日に、身まかりしとぞ。今玆三月、尾張の友人田鶴丸が、松島、見にゆきしをり、ことつけしに、眞葛と、うとからぬ仙臺の醫師にたつねしよしにて、はつかに、その訃聞えたる也。丙戌四月追記。[やぶちゃん注:冒頭注に記した通り、文政七年は誤り。真葛はこれが発表された十月一日から三ヵ月余り前の文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没していた。享年六十三であった。]】。

[やぶちゃん注:「かがなふ」は漢字は「僂」が正しい(吉川弘文館随筆大成版では正しくそうなっている)。これは、副詞「かがなべて(「日数を重ねて」の意)」を「指を折りかがめて数えて」の意に解したところから、「指折り数える」の意で用いられた。]

 おもふに、いぬる文化のはじめつかた[やぶちゃん注:「文化」は十五年まで。一八〇四年から一八一八年まで。]、尾張の某氏の後室が、「新潟」といふ草紙物語を書きつめて、予が筆削を乞ひけるも、かたく辭(いろ)ひて[やぶちゃん注:「いなびて」の誤り。吉川弘文館随筆大成版では、正しく『辞びて』とある]還(かへ)したり。又、近き頃、本鄕なる田中氏の女(むすめ)の、予が敎へを受けんと願ふこと、既に十年(とゝせ)に餘りぬと聞えしも、いなみて終(つい)にうけ引ざりき。まいて男子(をのこ)の予が、をしへ子たらんと請ひし人々は、かゞなふに遑(いとま)なきを、意見を述べ、推し禁(とゞ)めて、いづれも、需(もとめ)に應ぜざりけり。予が、人の師とならざるは、柳宗元に倣(なら)ふにあらねど、素より思ふよしあれば也。さるを、只、この眞葛の刀自のみ、婦女子には、いとにげなき經濟のうへを論ぜしは、紫女(しじょ)・清氏(せいし)にも立ちまさりて、「男だましひ」あるのみならず、世の人は、えぞしらぬ、予をよくしれるも、あやしからずや。されば、予が、陽に袪(しりぞ)けて、陰に愛(め)づるは、このゆゑのみ。かゝる世に稀なる刀自なるを、兎園社友(じやいう)にしらせんとて、いといひがたきことをすら、おしもつゝまで、しるすになん、秋も、はや、けふのみと、くれゆく窓の片あかり、風さへ、いとゞ身にしみて、火ともす程を、まつまゝに、かくなん、思ひつゝけける。

[やぶちゃん注:中唐の詩人柳宗元のもとに、韋中立という若者が入門を志願してきたのに対し、それを辞退することを述べた書簡「答韋中立論師道書」(韋中立に答へて師道を論ずる書)を指すものであろう。全文が載るわけではないが、松本肇氏の論文「韓柳友情論」PDF・一九八四年十二月発行『文藝言語研究 文藝篇』巻九所収)が非常に判り易い。そもそも柳宗元は当時としては稀れに見る強力な無神論者・唯物論者・合理主義者であり、「論語辯」では、「論語」が孔子の直弟子によって編纂されたものではないことをまことにクールに解析し、その中で「師」なるものは単なる一方的な尊崇のイメージがあるだけの仮想であるというようなことをさえ言っているように私は思う。私は高校一年の時に「江雪」を読んで以来、彼のファンである。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 うらみきと思ふもわびし眞葛葉(まくずは)に今もなごりのあきの夕風

 予は、例の、「ふみ屋」らにせめられて、かゝるもの、かくいとまなきを、そのいとまなき折に、いと長々しう書かんこそ、まことに書くにはあるべけれど、思ふも、老のしはみたるなり。瘤(こぶ)を見するに似て、われながら、いといと、をかし。されば、きのふ巳(み)[やぶちゃん注:午前十時。]のころに、はじめて筆を把(と)りしより、さて書くとかく程に、夜も、はや、二更の鐘[やぶちゃん注:午後十時或いは午後十一時頃。]を聞きつゝ、このはたひら[やぶちゃん注:原稿を指しているが、語源不明。]を綴り果てにき。もちろん[やぶちゃん注:底本「ん」なし。吉川弘文館随筆大成版で補った。]初藁 (しよかう)[やぶちゃん注:「稿」の異体字。]のまゝにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝(けさ)、はじめより、讀みかへして、纔(わづ)かに誤脫を補ふものから、拙きうへに、なほ拙きが、巧みにして、けふのまとゐの、間にあはぬには、ますらめと、みづから、ゆるすも嗚呼(おこ)なるべし【文政八年乙酉冬十月朔藁】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後に『愚山人解稿』とある。

 にしても、この、馬琴が事実を書いて、その中で馬琴自らが、真葛との文通の絶えた折りに、涙を流したことを、素直に記したこれは、馬琴が自身について書いたものの中でも、恐らくはとんでもない特異点であろう。電子化しながら、私も目頭が熱くなった。

 以下、例の底本編者の依田百川の評言。「兎園小説」には、無論、載らないのだが、真葛評が載るので電子化する。]

百川云、眞葛の父工藤平助といへえるは、世に名高き竒士(きし)林子平(りんしへい)が從弟(いとこ)なりとか聞しことあり[やぶちゃん注:こんな話は聴いたことがない。ガセネタであろう。]。さればこそ、この眞葛の老女も丈夫氣(ますらをぎ)あるならめ。余、「獨考」といふ書を一讀するに、當時、藩主が商人(あきんど)等(ら)の爲に、國財を管理せられて、己が自由に民政を行ふ事を得ざるを痛みたる論あり、又、婦人の爲に政事を紊(みだ)らるゝ事[やぶちゃん注:ママ。何となく言葉遣いと内容がおかしい気がする。]など擧げて、論ぜし處もありき。又、金銀寶貨(はうくわ)などは經濟の才ありといひつべし。曲亭は博學なれども、經濟の才に至りては、眞葛に及ばざる處もあらん。されば、多くの人と交りたれども、實に感服せしもの、少なきに、獨、この老女を推稱(すいしやう)して、口に容(い)れざる[やぶちゃん注:深く入り込んでは語ろうとしない。]如きをもて見れば、