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2021/10/14

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(のるうゑいの海のいはほに)

 

  

 

のるうゑいの海のいはほに

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はくもりて うすきなるに

またその貝殼をかみては食ふかきざめの姿をみたり

かくしてしだいにふぶきの空ともなりゆき

日本の都にもくらき雪をもてきたりしが

われは室内の讀書をやめず

よるもひなかも扉をひらかずして

しんみに烈しきなやみを抱きつめたり。

 

[やぶちゃん注:「うすき」は恐らく以下に示す原稿からは「薄黃」の意味であろうと思われる。別に私は表記を「うすぎ」だと主張する気は全くない。

「かきざめ」私は坂口安吾の「安吾の新日本地理 消え失せた沙漠――大島の巻――」(昭和二六(一九五一)年七月発行の『文藝春秋』初出。「青空文庫」のここで読める)以外では見かけたことがない名前のサメだが、そこで大島の魚屋が作者に見せて呉れたのは、『長さ一米ぐらいの怪魚「カキザメ」という私が見たことのない怪物』で、『サンショーウオを平たくしたような奴で、全身をマムシの斑紋の大きいようなのが覆い、陸上の動物には見られないトゲのような怖ろしい歯がゴシャゴシャ生えて』おり、『魚屋の土間に腹ばいになって人間を睨みつけて、物凄い口をあき、食い殺すぞという殺気マンマンたる形相を示し』ている奴で、『せいぜい一米ぐらい、一貫から三貫までぐらいの小さいサメだそうだが、こんな怖るべき形相の魚を見たのははじめてであった。肉はうまいということだ』とあったのを読んだ時には、私は大島というローケーションと、その細部描写から、幼少期から魚介類に興味のあった私は即座に「生きている化石」のそいつを思い出し、「ラブカだね」と呟いたのを覚えている。軟骨魚綱カグラザメ目ラブカ科ラブカ属ラブカ Chlamydoselachus anguineus である。詳しくは当該ウィキを見られたいが、さて、では、果して萩原朔太郎がラブカを知っていたかというと、かなり怪しい。見たことはないであろう(と言う私も長くホルマリン漬と剥製でしか見たことがなく、自然の深海で泳いでいる映像を見たのも、そう古くはない)が、話として知っていた可能性はある。適当に想像した架空の鮫の名前だとして注などする必要がないと言われればそれまでであるが、例えば、私の場合、ここで「かきざめ」=ラブカと直覚した場合、そのイメージは恐らく誰の脳内イメージよりも本詩篇は幻想化されて、すこぶる素敵に慄っとするのである。しかも言っておくと、ラブカの分布は甚だ広く、本邦では相模湾や駿河湾で比較的多く見られ、上記ウィキにはちゃんと、『東大西洋ではノルウェー北方』にも棲息が確認されているとあるのだから、博物学的にも現在の魚類学的にも萩原朔太郎の「かきざめ」が「ラブカ」であっても、何ら、不思議も矛盾もないのである、ということを言っておきかったのである。

「しんみ」「心身」。

 さて。底本では出所を『ノオト』とするのみであるが、これは筑摩版全集では、「未發表詩篇」の中に載る校訂本文に、相同と言っていいものがあり、さらにその未確定語を整序したものと思われる。原稿は削除が甚だしいので、特異的に同全集の校訂本文版を、まず示す。

 

 

 

のるうゑいの海のいはほに

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はくもりてうすぎなるに

またその貝殼をかみては喰ふかきざめの姿をみたり

かくしてしだいにふぶきの空ともなりゆき

日本の都にもくらき雪をもてきたりしが

われは室内の讀書をやめず

よるもひなかも扉をひらかずして

しんみに烈しき★なやみ//いたみ★を抱きつめたり

 

最終行の「★」「//」は私が附した。「なやみ」と「いたみ」は並置で、どちらもそのままで削除はされていないことを示す。「日本の都にもくらき雪をもてきたりしが」は原稿復元版を見て戴くと判るが、「日本の都にもくらき雪をもてきたしが」であり、校訂で消毒されてある。

 次に、以下、削除を含めたものを以下に復元する。脱字・誤字は総てママである。

 

 

 

扉(とびら)をあけてみた りかど

しぜのるうゑいの海岸では→から→を→になぎさにいはほに

とほいこなゆきふりつむ日に

やぶれた汽 笛の

氷りて こほりをやぶりて魚をつるひとびとあり

このうつむる額はくらく

こほりて光る貝るゐの生命のさびしさよ

天日はひねもうすぐらくしてくもりてくらくうすあかきにぎなるに

またその貝殼をかみては喰ふくかいかきざめのきたる たぐあり姿をみたり

しだい 貝の生味はくらはれて

浪まを きりて すぐるくかしてしだいに冬はふゞきはきたりての空ともなりゆき

海をすぐる

ああかなたの沖をすぐる汽船の上に

たまたま水夫のさけべる群をきけ

この日本の都にもくらき雪をもてきたしが

ああわれは室内の讀書をやめず

よるもひなかも椅子にもたれ→疊にすわり→町にあゆまず扉をひらかずして

しんみに烈しきなやみをかんず うれい★なやみ//いたみ★を抱きつゝくらつめたり

 

最後の記号と意味は同前。

 さて。以上から、底本編者が別な原稿を見たとする可能性は少ないように思われる。当該人物が、或いは「うすき」と誤判読してしまい、「きたしが」を「きたりしが」と消毒していまい、「なやみ」を選んでしまったというのは、それほど突飛ではないようにも思われる。]

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