曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 梅が香や隣は荻生惣右衞門
○梅が香や隣は荻生惣右衞門
といふは、其角が句のよし、世人の口碑に傳ふれども、近頃、京傳が書けるといふ「奇跡考」に、「其角がいづれの集にも見えず。」と出だせり【解云、「この發句、口碑に傳ふとのみ云へれども、其角が口調に疑なし。且、「梅がかや」云々といひし梅が香は、御能役者梅若氏をいふよしにて、當時、茅場町に、これかれ、相隣てをりし時の事とも、いへり。其角と徂徠と近隣なり、といふ作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。其角は寶永四年に沒せしとかや。然るに、徂徠は、六年までは吾藩の内に住居せしかば。其角と近隣なるべきやうや、あるベき。
今玆乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]の二月二日のころ、野州那須郡大田原に囘祿ありて、城のこりなく、災にかゝりしに、城下の民家にて、三日、鳴物を、みづからつゝしみて、籠居せしとかや。四日めに及びて、有司のものより、命じて、常に復せしめて、各々、稼業を行ひしは、古國とて、いと、たうとき事なりき、災、しづまりし後、民家より。造營の費を、おのおの、所望して、調進せんことを爭うて請ひしかば、有司にて造營の失脚の勞、聊、なかりしは、文王の靈臺にも齊しき、めでたかりしためしなり。これによりて、速に造營をうながすに、「國主、ゐまさざれば、あしゝ。」とて、六月中に歸國すべきを、囘祿によりて、二月中に歸國を請はれしかば、縣官にて、「在所の囘祿にて、歸國を、はやく請ひしためし、なし。」とて、其沙汰に、閣老方、困り給ひし、とかや。さりながら、二月末には、請の如く、ゆるしありて、歸國ありしとかや。事新しきためしなりき。
乙酉冬十一月朔 荻生蘐園記
[やぶちゃん注:発表者は会員荻生蘐園(けんゑん)。本名荻生維則、本姓は浅井。拘っている理由は、彼が荻生徂徠の孫鳳鳴の養子であるからである。二十余歲で、郡山藩儒官を継ぎ、家の通称で荻生惣右衞門を称していたのだから、なおさらであった。馬琴は詠みぶりから其角の句に間違いないとブイブイ言わせているが、サイト「インターネット俳句 末成歳時記」の本句のページによれば、『宝井其角による句とされ、当時は大変に有名となり、多くの人が口遊んだという。また、時代は下って夏目漱石は、この句をもとに「徂徠其角並んで住めり梅の花」と詠んでいる。ただ、「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり』(以下も引用)、
『茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。』
『とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後』二『年が経過した』明和六(一七〇九)『年である。其角と荻生徂徠に面識はないという』。『今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう』。『其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」がある。現在になってこの』二『句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる』とある。
『京傳が書けるといふ「奇跡考」』浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の「奇蹟考」は享和四・文化元(一八〇四)年刊の考証随筆(自序は文化元年三月。享和四年二月十一日改元)「近世奇跡考」(「跡」は吉川弘文館随筆大成版の版本刷の字を用いた)。なお、ウィキの「山東京伝」によれば、『この頃から曲亭馬琴の読本と大きな影響を与え合うようにな』ったとあり。この「京傳が書けるといふ」と書く辺りに、既にしてライバル意識が臭ってくる。吉川弘文館版で確認した。巻之三の「榎本其角の傳」にあった。
「御能役者梅若氏」観世流シテ方の五十一世梅若六郎氏暘(うじあき)か、その先代辺りか。
「茅場町」其角の旧居跡がドットされてあった(グーグル・マップ・データ)。
作には、あらず。かゝれば、徂徠のいまだ柳澤家へめしかゝへられざりし已前の事か。尙、尋ぬべし。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。全く、後人の贋作なるべし。
「其角は寶永四年に沒せしとかや」其角は宝永四(一七〇七)年二月或いは四月没とされる。享年四十七。
「失脚」これは「脚」を「金銭」の意の「あし」に通わせたもので、「かかった費用・失費」の意。
「有司」仙台藩の役人。
「文王の靈臺」周の文王が建てた物見台。遺跡は陝西省西安市にある。
「縣官」幕府の役人のことのようである。]