曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)
そもそも、この水、前には聞くことなかりしに、かう夥しく出でぬるよしは、必、ゆゑあることになん。
安永のすゑつかた、町奉行牧野隅州の聞えあげて、新大橋の西の岸を、南へ弐町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]四方あまり築き出だして、これを中洲町(なかすまち)と唱へたり。
この處、夏は、夜每に百あまりの茶店軒を並べて、數多の提燈(てうちん)[やぶちゃん注:底本『灯燈』。「馬琴雑記」で訂した。]を掛けわたし、おのおの、前に棧橋を投げわたして、船の客の登るに便(たよ)りとす。仙臺河岸(せんだいがし)より、これを見れば、衆星(しゅうせい)の晃(きらめ)くごとく、月なき夜半も、金波(きんは)、流れて、玉兎(ぎよくと)もこゝに走るかと怪しまる。大橋の南の袂(たもと)には、「四季庵」といひし酒樓あり。或は異形(いぎやう)の見せ物、「水からくり」、「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)なんどいふ「ゑせ俳優(わざおぎ)」に至るまで、かぞへ擧ぐるに遑あらず。小濱侯の邸(やしき)のむかひは、米屋・酒店・煙草商人・薪屋・錢湯・太物店、棟木をまじへ、檐端(のきば)をならべて、物として、あらぬが、なし。されば、夜每に、
「この河水に劣らじ。」
とのみ、集ひ泛(うかべ)る[やぶちゃん注:底本は意味不明のママ注記付きの『仇る』。「馬琴雑記」で訂した。]「やかた」・屋根船の、いと多なる、さしも廣かる大河に、揖(かぢ)とりなやむばかりなり。そが中に、
「花火、花火。」
と、よぶ、船、あり、「間酒(かんざけ)」・「さかな」を賣る船あり、「くだもの」を賣る船もあり。
「こよひは誰殿(たれどの)の花火あり。」
「翌(あす)の夜は何がしが花火あり。」
と罵りつゝ、水陸ともに、人、群集(くんしゆ)して、錐を立つる地も、なかりき。昔し、「三股河(みつまたがは)のおどり船」と唱へたるも、いかにして、この中洲にますべき。當時、兩國河は、けおされて、「貧女(ひんぢよ)の一燈(いつとう)」とも、いはましや。冬は、又、「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」の、こゝにつどひて、媚(こび)を賣り、客をむかへて、あだし仇浪(あだなみ)よせてはかへす淺妻(あさづま)ならで、淺ましき世わたりをすと聞えしかば、見し夕顏の冬枯るゝ五條わたりに似るべくもあらざりき。【當時、書肆仙鶴堂が、北尾政美[やぶちゃん注:底本は『北屋』。「馬琴雑記」で訂した。]に画かせて板にせし中洲の納凉の浮世繪[やぶちゃん注:底本『浮画』。「馬琴雑記」を採った。]あり。「燕石雜志」に載せたるもの、是なり。】
[やぶちゃん注:「安永のすゑつかた」安永は十年までで、一七七二年から一七八一年まで。
「町奉行牧野隅州」牧野成賢(まきの しげかた、正徳四(一七一四)年~寛政四(一七九二)年)は旗本で旗奉行牧野成照の次男。一族の牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、二千二百石を継承した。通称は大九郎・靱負・織部。西ノ丸小姓組から使番・目付・小普請奉行と進み、宝暦一一(一七六一)年に勘定奉行に就任、六年半勤務し、明和五(一七六八年)に南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には五年近くあり、天明四(一七八四)年三月、大目付に昇格した。しかし翌月、田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政三(一七九一)年に致仕し、翌年、没した。参照した当該ウィキによれば、『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立で』、安永九(一七八〇)年に、『深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることによる犯罪の抑止が養育所設置の目的であり』、『趣旨であった。この試みはしかし、定着することなく』、『途中で逃亡する無宿者が多かったため、約』六『年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以』(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)は旗本で火付盗賊改役を務めた。通称は平蔵。知らぬ人とてない、かの池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公である)『による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。彼は「耳囊」の作者根岸鎭衞の大先輩に当たるため、同書の話にも、幾つかで名が登場する。私の「耳嚢 巻之三 強盜德にかたざる事」・「耳嚢 巻之三 時節ありて物事的中なす事」等を読まれたい。
「新大橋の西の岸を、南へ貳町四方あまり築き出だして、これを中洲町と唱へたり」これは確かに一時期、干拓されて、突き出た町になっているのだが、所持する複数の「江戸切絵図」では川のままで、確認が出来ない。唯一、干拓地にはなっていないものの、怪しげな葦原が当該地に描き込まれているものを見つけた(五月蠅い注意書きがあるので掲載原本は示さない。私はこの出版社の本を高く評価しており、異なったものを五冊も買って知人に贈っているのだから、許されようぞ。というか、文化庁の見解では、平面的な対象物を単に平面的に写した画像には著作権は発生しないのである)。以下は尾張屋金鱗堂板(嘉永三(一八五〇)年新刻・安政三(一八五六)年再板・板行データが少し下を切ったが、左下方にある)の「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」(表記通り)の部分からトリミングした。
位置確認は、江戸時代の旧「新大橋」が画面右端上にあるのがポイント(但し、現在の新大橋より下流にあるので注意!)。例の「古地図 with MapFan」で見よう。まず、隅田川を見つけて河口からゆっくり遡って、地下鉄「人形町駅」を上の現代地図の左上に置いて呉れたまえ。すると、下方の江戸切絵図に隅田川に「田安殿」屋敷が現われる。そこの隅田川の上流直近部分が古くは「みつまた別れ淵」或いは「三派」などと称した。示した切絵図にも、田安殿の東北隅田川上に「三ツマタ」とあるのが確認出来る。而してそのすぐ上流直近に緑の葦が生い茂ったような絵が描き込まれており、その上に「中洲」と書かれてあるのが判る。しかし、実は、ここは一時的に、川中でも、中州でも、葦原でもなく、列記とした「中洲町」であったことがあるのである(再度、それが廃されて、再び川床に戻されたことは、本篇のこの直後に出る)。そこでそれを上に動かすと、現代の地図では、俄然、同じように、再び干拓されて、陸地になっていることが判り、その北の地名に「日本橋中州」を見出せるのである。ここが、実は江戸時代には既に一度、中洲町として一時的に陸地化されていたのである。現在の、中央区日本橋中州(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。
「仙臺河岸」現在の江東区清澄二・三丁目。中洲町の隅田川対岸。「古地図 with MapFan」で見ると、そこに「松平陸奥守仙台藩下屋敷」が確認出来る。
「玉兎」月の兎のこと。
『「乞兒《カタヰ》鶴市(つるいち)」が身ぶり・聲色(こはいろ)』加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵事典」の「みぶり 身振り」に、
《引用開始》[やぶちゃん注:字下げを詰めた。]
◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永三年(1774)日記)
〝二月七日、(浅草寺)山門の左側に鶴市といふ乞食、三芝居身振をするもの今日より出るゆへ葭簀のうち人群集〟
〝十月二十四日、(葺屋町)鶴市・鶴松へ寄、歌右衛門身〈身振り〉【鶴松】、三升〈市川団十郎〉・錦考
〈松本幸四郎〉・杜若〈岩井半四郎〉声色【鶴市】、丸や・東国やたて身【鶴市】
〈鶴松は身振り、鶴市は声色と身振り〉
◯『只今御笑草』〔続燕石〕③200(二代目瀬川如皐著・文化九年序)
〝松川鶴市
琵琶の湖七度まで葦原となりしはしらず。三股の中洲埋立て〔割註「蜀山云、六年程也」〕しばらくのほど納凉の地たしころ、びいどろ細工京之助が軽業さま/\なる中に、身ぶりもの真似真を写して、歌舞伎の舞台そのまゝなりし。さかゑやの秀鶴、丸屋の十町闇仕合の大当り、古今稀なりしも此ごろと覚ゆ〟
《引用終了》
とある。かなり有名な大道芸人であったようである。
「小濱侯の邸」これは「古地図 with MapFan」で見つけた。旧「新大橋」の西詰の「松平因幡守鳥取藩下屋敷の北西に接して、隅田川沿いに「境若狭守小浜藩中屋敷」を見出せる。
「間酒(かんざけ)」「燗酒」。
「三股河(みつまたがは)のおどり船」中洲町が出来る前の、ここのお大尽の舟遊びの旧名所であったのであろう。
『「地獄」とか唱ふる「かくし賣女(ばいぢよ)」』当時、正規の新吉原のそれではない、一般素人の主婦や娘たちが秘かに売春することを「地獄」と呼称した。サイト「Japaaanマガジン 」の「どんだけ恐ろしい?江戸時代、一般素人の主婦や娘たちが売春することを「地獄」と呼んでいた」の2に、『「地獄」は道端で売春を働くことはなく、ましてや岡場所などには出没しません。もっともっとひっそりと、知人の紹介で客とつながったり、料理屋の一室、時には自宅で売春をしていたりが多かったそうです』。『さらに江戸時代には、男女の密会に使われていた待合茶屋や出会茶屋などもありましたから、そういった場所で客に出会う、または売春を行う「地獄」もいたのかもしれません』。『「地獄」という言葉からとても怖いイメージを持ちますが、実は「地獄」という名前は、仏教の世界観である怖い地獄とは違います』。『諸説ありますが、素人の女性のことを”地女”または”地者”と言い、「地女の極内々のこと…」という意味で「地獄」と呼ばれていたり、「地女(素人)の中でも極上の…」という意味で「地獄」という言葉が使われていました』。『ちなみに”地獄”と”遊女”というキーワードから、室町時代の遊里に存在したと言われる伝説の遊女「地獄太夫」を連想する人もいるかと思いますが、地獄太夫とは特に関連性はないようです』とある。
「淺妻(あさづま)」小学館「日本国語大辞典」によれば、琵琶湖の東岸の滋賀県米原市朝妻筑摩附近の古名。中世には港があり、大津と往来する船便で賑わい、そこでは、船に遊女を乗せて旅人を慰め、「朝妻船」と呼ばれていた、とある。
「北尾政美」(まさよし 明和元(一七六四)年~文政七(一八二四)年)は浮世絵師。鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の名でも知られ、当時は葛飾北斎と並んで人気の高い絵師であったらしい。
「燕石雜志」筆者馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。巻之三の九「わがをる町」に挿入された、「浮繪東都中洲夕凉之景(うきゑえどなかずゆふすゞみのけい)」で「北尾政美画 板元通油町 鶴屋喜衛門 蔦屋重三郎」と記すもの。吉川弘文館随筆大成版で所持するが、幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」に原本があるので、当該の絵(HTML)をリンクさせておく。奥に見える橋は永代橋であろう。]
この他、兩國橋の東の岸を西ヘ一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり築き出ださして、こゝにも亦、茶店ありけり。
「この二ケ所の出洲によりて、大河の幅、狹くなりぬ。こゝをもて、川上より推しくだす水の勢、これらの洲崎にさゝえられ、洪水の時に當りて、水のますこと、前よりは、三尺にあまるから、その水、四方へ、わかれ、溢れて、下谷・淺草の濕地はさらなり、神田川の水、逆流して、牛込・小石川の果までも、その蔽(ヤブレ)を受くるなり。」
と、水理(すいり)にくはしき人は、いひけり。
この理(ことわ)りを、官《オホヤケ》にも、みこゝろ、つかせ給ひにけん、寬政[やぶちゃん注:寛政元年は一七八九年。]の初に至りて、彼(かの)兩國の出洲(でず)を廢して、もとのごとくに浚(さら)せ給ひ、次に、中洲を掘りとらせて、舊のごとくに、し給ひき。
このとし、秋より冬まで、江戶中なる屋形船・屋根船も、みな、その屋根を、とりはなち、茶ぶね・「にたり」にうちまじりて、土をかきのせつゝ、ゆきては、かへる。その船、いくそばくなるを、しらず。まいて、鋤・鍬を把る人夫等の、數百人、日每に、つどひて、潮(うしほ)退(ひ)けば[やぶちゃん注:底本は『潮退けて』。「馬琴雑記」を採用した。]、掘りうがち、潮、みちくれば、休らふも、はてしなきまで、らうかはし。
[やぶちゃん注:「茶船」近世の江戸・大坂などの河川や港で、大型廻船の貨物の運送に用いた小船。なお、河川や港で飲食物を売る小船(「うろうろ船」とも称した)をも差すが、ここは前者。
「にたり」「荷足り船」。前の「茶船」の一種で、関東の河川や江戸湾に於いて、小荷物の運搬に使われた小形の和船のこと。]
當時、四方山人の、この土揚舟(つちあげぶね)[やぶちゃん注:底本は『玉楊』。明らかな誤判読なので、「馬琴雑記」で訂した。]を見て、よめる歌、
屋根舟もやかたも今は御用船ちゝつんやんでつちつんでゆく
[やぶちゃん注:「ちゝつん」三味線の音のオノマトペイアであろう。]
これらは、後のことながら、福(さいはひ)も基(ハジメ)あり、禍(わざはひ)も胎(ハジメ)あり。およそ丙午の供水は、兩國中洲の出崎に、よれり。その言、たがはざりけるにや、件の二ケ所の廢されてより、洪水は、なほ、しばしば[やぶちゃん注:底本は『しばし』。踊り字の判読の誤り。「馬琴雑記」で訂した。]なれども、本所・深川のみにして、御成道(おなりみち)を、船もて渡り、小石川・牛込にて溺死するものは、なし。かゝれば、この水理の說を、物にしるさば、後の世の人のこゝろ得になるよしもあらんから、予は、深川にて生れしかひに、をさなかりし時、兩三度、人となりても、ふたゝび[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『再度(ふたたび)』とある。]まで、出水に屋を浸されて、その進退に、こゝろ得たれど、江戶にて、かゝる洪水は、前代未聞と、いひつべし。
[やぶちゃん注:「御成道」日光御成道。当該ウィキによれば、日本橋から中山道(現在の国道十七号)を進み、『日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、ここ付近に本郷追分停留所がある。「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する』。『日光御成街道』『とも呼ばれているが、将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた』とある。]
又、この洪水の夜に【七月十六日。】、猿江わたりの民の女房、ふたつになりける兒を抱きて、いかにかしけん、溺れつゝ半町あまり流されしに、ゆくりなく巨樹(オホキ)の杪(ウラ)[やぶちゃん注:梢。]に右の手をうちかけて、からくも、推しのり、留りたり。さりけれども、兒は左りに抱き揚げたる、腰より下は水を得いでずとばかりにして、人のしらねば、助けらるべき命にあらず。益なく、膽(きも)を冷さんより、
「母子もろ共(とも)に、死ばや。」
とて、杪にすがりたる右の手を、はなたんとしたれども、手は凝著(こりつ)[やぶちゃん注:底本は『凝着(イツキ)』であるが、「馬琴雑記」の方がよいので、それを採った。]たるやうにおぼえて、心ともなく、絕えて、はなれず[やぶちゃん注:底本は『絶えはなれず』。「馬琴雑記」で訂した。]。とかくする程に、天は明けて、「たすけ船」の漕ぎよせつゝ、船に乘らしてぞ、將(ゐ)てゆきぬ。この時、はじめて、抄を見しに、いと大きなる蛇(へび)の、わが右の手を、木の枝もろ共(とも)、いくつともなく、卷きて、をり。
『さては。わが手のはなれざりしは、この故なりき。』
と、おもふにも、忝(かたじけな)きこと、限りもあらず。
そが船に乘る程に、蛇は、忽(たちまち)、卷(まき)ほぐして、ゆくへもしらずなりし、とぞ。
或は、いふ、
「この女房は舅姑(しうと・しうとめ)に孝順にて、且、年來(としごろ)、神佛をふかく信ずるものなれば、その應報か。」
と聞えたり。
そが村の名も、夫の名も、まさしく聞きたることながら、しるしもつけず、年を經て、いふかひもなく、忘れたり。
この餘、溺死のあはれなる當時の風聞、耳に盈(みち)たり[やぶちゃん注:底本は『耳を盈てたり』。「馬琴雑記」を採った。]。思ひいでなば、いくらもあらんを、みな、傳聞のみにして、定かならねば、心にとめず。今さら思へば、夢に似たり。か
りそめの事なりとも、その折(をり)、錄(しる)しおかざれば、後(のち)に悔(くや)しき事ぞ、多かる。されば、丙午の一とせは、火災・洪水に狼狽して、はかなく月目をおくる程に、九月に至りて大喪(たいさう)あり【將軍家治公薨去。浚明院と号す。】[やぶちゃん注:以上の割注は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]。この故に、神田明神の祭禮を十一月十五日に[やぶちゃん注:「に」は底本にない。「馬琴雑記」で補った。]渡されにき【十五目の朝、白雪、霏々たり。しかれども、程なく、やみたり。雪中に祭のわたりし、めづらし。】。とにもかくにも、上下の爲に、いと、うれはしき年にぞ有りける。
[やぶちゃん注:ここまでが、天明六年丙午の記事(グレゴリオ暦で一七八六年一月三十日から一七八七年二月十七日。天明六年には閏十月があったため、ズレが大きい)。
「猿江」旧深川地区の東京都江東区猿江附近。]
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