曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 人のあまくだりしといふ話
○人のあまくだりしといふ話
文化七年庚午[やぶちゃん注:一八一〇年]の七月廿日の夜、淺草南馬道竹門のほとりへ、天上より、廿五、六歲の男、下帶もせず、赤裸にて、降り來りて、たゝずみゐたり。町内のわかきもの、錢湯よりかへるさ、之を見て、いたく驚き、立ち去らんとせし程に、かの降りたる男は、其儘、そこへ倒れけり。かくて、件のありさまを町役人等に告げしらせしかば、みな、いそがはしく來て見るに、そのものは、死せるがごとし。やがて番屋へ昇き入れて、介抱しつゝ、くすしをまねきて見せけるに、脉は異なることもあらねど、いたくつかれたりと見ゆるに、「しばらく、やすらはせおくこそ、よからめ。と、いへば、みな、うちまもりてをる程に、しばしありて、件の男は、さめて、かうべを擡げにければ、人みな、かたへに、うちつどひて、ことのやうを尋ぬるに、答へていはく、「某は京都油小路二條上る町にて、安井御門跡の家來伊藤内膳が忰に安次郞といふものなり。先、こゝはいづくぞ、」と思ふ。「こゝは江戶にて、淺草といふ處ぞ。」と答ふるに、うち驚きて、頗りに淚を流しけり。かくて、なほ、つぶさに尋ぬるに、「當月十八日の朝四つ時[やぶちゃん注:不定時法で午前九時半前頃。]比、嘉右衞門といふものと同じく、家僕庄兵衞といふものをぐして、愛宕山へ參詣しけるに、いたく暑き日なりければ、きぬを脫ぎて、凉みたり。その時のきるものは、花色染の四つ花菱の紋つけたる帷子に、黑き絹の羽織、大小の刀を帶びたりき。しかるに、その時、一人の老僧、わがほとりへいで來て、『おもしろきもの見せんに、とく來よかし。』と、いはれしかば、隨ひゆきぬと、おぼえしのみ。其後の事をしらず。」といふ。いともあやしき事なれば、そのものゝはきたる足袋【白木綿の足袋なり。】を、あたり近き足袋あき人等に見せて、「こは、京の足袋なりや。」と、たづねよ[やぶちゃん注:ママ。]、「京都の仕入に、たがひなし。」といへり。その足袋に、すこしも泥土のつかでありけるも亦、いぶかしきことなりき。「江戶にては、かゝる事あれば、官府へ訴へ奉るが、町法なれば、何と御沙汰あるべきか、その事も、はかりがたし。江戶に知音のものなどの、ありもやする。」と、たづねしに、「しる人とては、絕えてなし。ともかくも、掟のまにまに、はからひ給はれ。」と、いふにより、町役人等、談合して、身の皮を拵へつかはし、官府へ訴へまうしゝかば、當時、御吟味の中、淺草溜へ御預けになりしとぞ。其後の事をしらず。いかゞなりけんかし。
文政乙酉[やぶちゃん注:一八二五年。]冬十月朔 文寶堂 しるす
[やぶちゃん注:「淺草南馬道竹門」「南馬道」現在の台東区浅草二丁目三十四及び三十五番の各一部で、「竹門」は延命院・吉祥院・徳応院の三寺院を指す。いつもお世話になるサイト「江戸町巡り」の「【浅草②】浅草南馬道町」及び「【浅草②】浅草北馬道町」の記載に拠った。「古地図 with MapFan」で旧三寺院の位置を確認、現在のこの中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に相当することが判った(延命院はその敷地内に現存する)。
「京都油小路二條上る町」現在の京都府京都市中京区二条油小路町。
「愛宕山」ここ。
「淺草溜」(あさくさだめ)は浅草にあった、牢内で重病になった者や十五歳未満の者などを収容した施設を「溜(ため)」と称した(品川にも同様の施設があった)。参照した当該ウィキによれば、『象形町の西、浅草寺から田畑を経て日本堤にいたる路辺にあった』。貞享四(一六八七)年三月、『北条安房守が悪党』二『人を非人頭にあずけ』、五『月、甲斐庄飛騨守が罪人をあずけたことにはじまり、非人小屋に罪人をあずけおくのが増えたので』、元禄一二(一六九九)年七月に、この附近の畑地に二『棟の長屋をたてて』「溜」とし、『惣板敷きに畳をしき、竈をおいて煮炊きを自由にさせ、病囚、幼囚を収容し、非人頭の車善七がこれを』管理した。『 溜内は上座、下座をへだてず、朝夕の食事は重病者には粥をだした。 溜上番人は毎日、夕七つ時』(不定時法で夏で午後五時過ぎから冬は午後三時半頃)に『溜内にはいって状態を検した。 薬用は囚人の家から煎じとどけるさだめで、したがって上番人は宿の者と顔見知りとなるから、囚人が宿々へ内通がましいことをしない』掟(おきて)『があった』とある。「譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事」の本文及び私の注を参照されたい。より詳しく注してある。]
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