曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その2)
天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに、日蝕、皆既なり。貴賤となく、貧富となく、立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに、くにのうち《六合》[やぶちゃん注:「くにのうち」への漢字ルビ。]、忽に、とこやみとなりしかば、心あるも、こゝろなきも、驚き怕れずといふもの、なし。
[やぶちゃん注:「天明六年丙午の春正月元日の巳のとき」天明六年丙午元旦午前十時。同日はグレゴリオ暦で一七八六年一月三十日。斎藤月岑(文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年:江戸の町名主で考証家)の編になる「武江年表」を見ると(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、この日は、
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午一刻より未一刻迄、日蝕皆既、闇夜の如し【筠庭云、曆面とは違ひて、八分計の日蝕なりしと也。】。
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とあって、続けて、『○【筠補。】正月半頃より日每に風あらく、物のかはくこと、火にあぶるが如しといへり。』という異常乾燥状況を記して、読む現在の我々でさえ「ヤバそう」と思うところに、『○正月二十二日、晝九時、湯島天神裏門前牡丹長家より出火、西北風、烈しく、』として、大火事となっていることが記され、翌日二十三日、また、二十四日夜、二十七日午後零時頃にも火事の記載が続く(これは以下で馬琴も綴っている)。この時の部分日食はかなり大きく太陽を遮蔽しており、例えば、嘉永五(一八五二) 年 十一月一日にも日食が起こっているが、同書のその日の記載では、『○十一月朔日、巳刻日より日蝕九分なり【闇夜にはならず、往來の時、行燈を用る程にはあらず。】。』と記されていることから、この天明六年の日食では、行灯(あんどん)を用いなければ、往来を歩けないほどの闇夜のようであったことが判る。何より、ここで馬琴は問題にしていないが、この天明六年の日食は「午」の「一刻」(午前十一時)から「未」の「一刻」(午後一時)まで続いた、とあることである。ここにも「午未」の不吉な符合が出現しているのである(以上は北区立中央図書館の「北区の部屋だより」の二〇一二年七月発行の「第36号 修正版」の「北区こぼれ話 第35回 江戸時代の日食」(PDF)の説明を元に以上を私が調べたもの)。なお、「筠庭」(いんてい)「筠」は江戸の国学者・考証家であった喜多村節信(ときのぶ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の号。名は信節(のぶよ)とも称した。江戸町年寄の子で、博覧強記を以って聞こえ、学は和漢に通じ、書画もよくした。著書には民間風俗の宝庫として名高い「嬉遊笑覧」を始めとして「武江年表補正略」・「筠庭雑考」などがある。
「くにのうち(六合)」「六合」は「りくがふ(りくごう)」で、天地と四方とを合わせて言い、「世間・世の中・天下・世界」の意である。]
この故に、殿中にても、總出の時刻などを、例年にはたがへさせて、蝕し果てゝ後にこそ、年のはじめの御禮を受けさせ給ひし、と聞えたれ。
かくて、この日、火災あり。これより後、雨は稀にて、風の、しばしば、吹けばにや、江戶の中、日每々々に、こゝかしことなく、兩三ケ所づゝ失火・延燒してければ、人みな、駭(おどろ)き惑ひつゝ、ぬりごめ《土庫》[やぶちゃん注:漢字ルビ。土蔵。]をもてるは、家財・集具を、索(なは)もて、からげ、衣裳・調度を葛籠(つづら)・簞笥におしいれて、所せきまで、積みかさねつゝ、今燒けぬと、待つがごとし。こゝをもて、いまだ類燒せざるものも、「燒きいだされ」に異ならず。客ある家[やぶちゃん注:主人以外の親族の意であろう。]の、ともすれば、茶碗にすら、ことをかきたり。さればとて、おのもおのも、遠謀遠慮あるにはあらで、人、ぞよめきの勢ひなれども、これも時變の一端なるべし。
かう、罵り、さわぐこと、正月・二月、甚しく、三月に至りても、なほ、人こゝろ、しづかならず。四月なかばになりてこそ、世は、やゝ、のどかになりにたれ。されば、南畝子の「四方のあか集」にあらはれたる「春日泉亭詠二雜煮餠一狂歌」[やぶちゃん注:「春日、泉亭に、雜煮餠(ざうにもち)を詠ずる狂歌。」]の序にも、
「ことしは、ひのえのわらは竹、うまにのれるとしなめりと、人々、つゝしみ、おそれしが、はたして、春日野(かすがの)のとぶ火にはあらで、もるてふ水の手、あやまちより、市人(いちひと)のかりずまゐも、野守がいほの心地し侍りて、今、いくか、ありて、ざれごといひてん、など、いひしらふも、ほいなし。」
と書かれたり。
[やぶちゃん注:「わらは竹」「童」が竹を折り取って、竹「馬」にする、年になることと、「午」を掛けたもので、「丙午」の世間共通に厄年認識を言っている。
「春日野(かすがの)のとぶ火に……」「古今和歌集」の巻第一の春歌上に「読み人しらず」で載る一首(十八番)、
春日野の飛ぶ火の野守(のもり)出でて見よ
今幾日(いくか)ありて若菜摘みてむ
をパロったもの。「春日野の飛ぶ火」は、本来は和銅五(七一二)年に緊急連絡のために設置された軍事用の烽火を上げる狼煙台(のろしだい)を指すが、ここは単に禁園の野守(番人)に、趣のない外敵の番などせずに、七草に若菜の育ち具合を見て、「後、何日経ったら、若菜が摘めるようになるか?」と洒落たものである。しかし、南畝はそれを「春日」(しゅんじつ)の「飛ぶ火」(盛んに起こる火事が突風で延焼するさま)としてブラッキーに変じて言ったものであろう。「もるてふ水の手、あやまちより」は「手に盛る」(掬う)「水」が「漏れ」て火を消すに至らぬ「過ち」によって、燎原の火となった江戸の火災の惨事を言ったものであろう。]
とにもかくにも、この春は、花見て、くらす人は、稀にて、只、火事の噂をしつゝ、ありくらしゝも、うるさかりき。
當時(そのとき)、「燒原場所附(やきはらばしよづけ)」とかいふものを賣りあるきしも多かりけれど、見たるも忘れて、思ひいでず。今もなほ、好事の家には、藏弃(ざうきよ)したるも、あらんかし。
[やぶちゃん注:「燒原場所附」とは恐らく、瓦版の一種で、度重なる火災で焼け野原となった町・火事場をリストとして並べた号外のようなものではないかと推測する。後で馬琴が洪水後の報知のそれを載せている。調べたところ、烈しい複数個所への落雷があったりした際にも同じような所附が出ており、その実物画像の確認も出来た。
「藏弃」整理せずに或いは捨てたつもりで所蔵しているもの。]
かくて、夏にもなりにければ、火災の噂はやみ《寢》[やぶちゃん注:「やみ」への漢字ルビ。]たりしに、この年七月十二日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦八月五日。]より、雨のふりそゝぐこと、おびたゞしかりしに、十四日より十六日に至りて、又、洪水のわざはひ、あり。まづ、江戸は本所・深川・木場・洲﨑・竪川筋・牛島・柳島のほとりの洪水、いへば、さらなり。下谷・淺草・外神田、いづこも、水に浸されぬは、なし。
予が叔父田原米嶽翁は、本所林町なる武家に仕へたりしが、その身は、主(しゆう)の先途(せんど)に立ちて[やぶちゃん注:底本は『その身は立のき先途に立ちて』で判り難い。「馬琴雑記」の本文を用いた。]、家族《ヤカラ》を見かへるに、いとまあらず。家の内のものどもは、長屋の屋根に登りつゝ、そが儘、船に乘りうつりて、からくして、脫れしとぞ。
又、次の叔父兼子翁は、御船手組(おふなてぐみ)の同心なれば、水のうへに、こゝろを得て、船も亦、自由なれば、これも、やからを、いちはやく、所親(しよしん)[やぶちゃん注:親元。]がり、遣しゝに、危きことはなかりし、といへり。
又、予がめのをんなは、大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】の母うへに、みやづかヘせしころなりければ、これも又、御徒町なる邸中より、船に乘せられしが、「しのばずの池」のはたなる同家加藤氏の邸中へ、みまへに倶して參りしに、かしこも水の中なりき、といへり。
[やぶちゃん注:「予がめのをんな」馬琴の妻は元飯田町中坂(現在の千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現在の築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む、会田家の未亡人百(三十歳)の婿となったが、会田姓を名乗らず、滝沢清右衛門を名乗った。
「大洲(おほず)侯【當時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり。】」この翌年に第十代大洲藩主となった加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年?~文政九(一八二六)年)。九代藩主加藤泰候(やすとき 天明七年没)の長男。幼名は作内で、最終官位は従五位下・遠江守。大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)。]
予もはらからも、當時、みな、山の手にをりしかば、この水難にはあはねども、親戚のうへ、心もとなし。ゆきて訪はばやと、思ふものから、永代橋・大川橋は、往來をとめられて、柳橋も亦、人を、わたさず、この他、大橋の中の間、破損して、和泉橋は落ちたり。只、恙なきものは兩國橋一ケ所なれども、本所・深川の水高ければ、船ならざるもの、ゆくこと、得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞の当て漢字。]ならず。凡(およそ)、下谷は「いづみ橋」筋・「あたらし橋」筋・外神田御成道など、商人の見世さきを、船にて、往還しつる事、しらざるものは、そらごとゝや思はん。只、これのみにあらずして、小石川御門外・牛込揚端・「どんど橋」の邊りまでも、前もて聞かぬ出水(でみづ)、高くて、溺死のものも、少からず。
かくて、兩三日のゝち、牛込の水の退(ひ)きしを、仲兄鶴忠子が、「見ん。」とて、ゆきし折、
けさひきしわだちの水のふなかはら泥鰍《ドゼウ》ふみこむ跡もどろ龜
當時、鮒・泥鰌なんどの、泥に塗れてありけるを、まのあたりに見て、よまれしなり。さは、この狂歌は絕筆にて、次の月の初の四日に、ときのけ[やぶちゃん注:「馬琴雑記」に『時疫(ときのげ)』とある。流行り病ひ。]にて、身まかりにき。享年廿二歲なり。いとかなしとも、かなしかりしを、身にしみじみと忘れがたさに、言のこゝに及べるなり。
只、此わたりの水のみかは。日本堤を、うちこえて、田町へ、水のおしたれば、聖天町・山の宿・淺草反畝[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『淺草田圃』とある。]もひとつになりて、金龍山[やぶちゃん注:浅草寺。]の裙(すそ)を遶(めぐ)れり。まいて、千住・松戶の邊、葛西・行德(ぎやうとく)・千葉のわたり、熊谷・浦和に至るまで、みな、この水を受けぬは、なし。
されば、十七、八日のころよりして、「水見まひ」の良賤(りやうせん)[やぶちゃん注:身分の高い者と賤しい者。]、奔走しつゝ、辨當・偏提《サヽヱ》[やぶちゃん注:水や湯を入れる金属製の容器。それ自体で温めることも出来る。]・坐具・調度を、おもひおもひに齎(もた)らして、ゆくもの、ちまたに、陸續たり。
又、關東御郡代伊奈氏のうけ給はりて、馬喰町のあき地に假屋をしつらひ、水厄(すいやく)のものを入れおかせて、日每に粥を下されけり。
[やぶちゃん注:「關東御郡代伊奈氏」関東郡代は正式な徳川幕府の役職としては、江戸時代に一時期、二度だけ設置した臨時役職を指すが、ここは、それ以前にそう名乗って権勢を揮った「関東代官頭」伊奈氏のことで、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄し、行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また、将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っていた。陣屋は、当初は武蔵国小室(現在の埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋で、後、寛永六(一六二九)年に同国赤山(現在の埼玉県川口市)の赤山城へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後、十二代二百年間に渡って伊奈氏が関東代官頭の地位を世襲した。元禄五(一六九二)年に飛騨高山藩領地が天領となった際には第六代忠篤(ただあつ)が飛騨郡代も一時的に兼務した。第七代忠順は富士山の「宝永大噴火」の際に砂除川浚奉行に任じられている。本来、関東代官頭は勘定奉行の支配下にあったが、第八代忠逵(ただみち)の代の享保年間には、鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就き、享保一八(一七三三)年には勘定吟味役を兼任しており、関東代官頭は老中の直属支配下に入ることになった。さらに第十二代忠尊(ただたか)は天明五(一七八五)年に奥向御用兼帯となり、その二年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。ここに出るのはこの忠尊である。伊奈氏の「関東郡代」の自称も、こうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。しかし、この直後、伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって寛政四(一七九二)年三月に忠尊は関東代官頭を罷免された上、改易されてしまった(以上はウィキの「関東郡代」に拠った)。]
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