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2021/10/03

伽婢子卷之十 祈て幽靈に契る

 

[やぶちゃん注:挿絵は最も状態がよい「新日本古典文学大系」版のものをトリミングして使用した。]

 

Sinroku1

 

   ○祈(いのり)て幽靈(いうれい)に契(ちぎ)

 上野(かうづけ)の國平井の城は、上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし、憲政は越後に落行《おちゆき》て、長尾謙信をたのみ、二たび、家運を開かん事をはかり給ふ。

 平井の城には北條新六郞をいれおかれし處に、城中に一間の所あり。

 金銀をちりばめ、屛風・障子、みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

 庭には、さまざまの石を集め、築山・泉水、その巧みをなし、築山に續きたる花岡[やぶちゃん注:元禄版では「花園(《はな》その)」。「新日本古典文学大系」版でも同じ。]には、春より冬にいたる迄、つゞく草木の花、さらに絕間なし。

 是れは、そのかみ、憲政の息女彌子(いやこ)、生年十五歲、みめかたち、世にたぐひなき美人にて、心のなさけ、色ふかく、優にやさしかりければ、見る人、聞(きく)人、みな、思ひをかけ、心をなやます。

 憲政は、

『いかなる高家權門の輩《ともがら》にも合せて、家門の緣を結ばん。』

とおぼして、寵愛深く、別(べち)に、この一間をしつらひおかれし所に、家人《けにん》白石(しろいし)半内といふ小性、たゞ一目見そめまゐらせ、心地、惑ひて、堪へかね、風のたよりにつけて、文ひとつ、まゐらせしに、此事あらはれ、半内、ひそかに首(くび)をはねられたり。

 その後、百日ばかり過て、むすめ彌子、日暮がた、俄におびえて、絕入《たえいり》給ひ、ついに、空しくなり給へり。

「さだめて。半内が亡魂のしわざならん。」

と聞傳へし。

 新六郞、この物語を聞て、

『たとひ、幽靈なりとも、かゝる美人に逢ふて語らはゞ、さこそ、嬉しからまし。今生の思いで、何事かこれにまさらん。』

と、しきりに思ひそめて、朝夕は、香をたき、花を手向(たむけ)て、人知れず、戀慕の、心、つきて、祈りけり。

 ある日の暮がたに、いづくとも知らず女(め)の童(わらは)、一人來りて、新六郞に向ひていふやう、

「わが君は、そのかみ、此所にすみ給ひしが、君の御心ざしにひかれて、これ迄あらはれ、只今、まゐり給はんに、君、對面し給ふべきや。」

といふて、きえうせしが、暫くありて異香(いきやう)くんじて、先の女の童につれて、一人の美女、築山(つきやま)のかげより、出來れり。

 その美しさ、此世の中にあるべき人ともおぼえず、

『天上より、くだれる歟(か)。神仙のたぐひか。』

と見るに、中々、目も、あやなり。

 新六郞、

『これは聞及びし彌子(いやこ)の幽靈なるべし。日ごろ、我、念願せし所、ひとへに通じけり。「鬼(おに)を一車(《いつ》しや)にのす」と云ふ事はあれど、何か、すさまじとも思はん、契りをかはして、思ひを述べんには、人と幽靈とは同じからずと雖も、なさけの色は、死と生と、はかる事あらじものを。』

と、女の手をとり、引いれて、時うつる迄、かたらひけり。

 女、すでに立歸らんとするとき、

「自ら[やぶちゃん注:自称の一人称代名詞。]、こゝに來る事を、あなかしこ、人に洩し給ふな。又、暮を待給へ。」

と契りて、

 底深き池におふてふみくりなは

   くるとは人に語りばしすな

とうち詠じ、庭に出てゆくかと見れば、そのまゝ、かたちは消え失せたり。

 次の日の暮がたに。又、來れり。

 曉、かへりては、夕ぐれに來る事、六十日に及べり。

 ある日、新六郞、家人を集めて、さまざま、物語のついでに、女のいひし事を打ち忘れ、此事を語り出しけり。

 家人等、奇特(きどく)の事に思ひて、壁をほりて、のぞきけるに、女、來りて物語すれども、その姿は、見えず。女(め)の童(わらは)と見えしは、伽婢子(とぎぼうこ)にて侍べりし。

 女、ある夕暮、來りて、大《おほい》に恨み歎きたる有樣にて云やう、

「何とて、『洩し給ふな』といふ言葉をたがへて、人には語らせ給ひしぞや。此故に契りは絕《たえ》て、かさねて逢ふ事、かなふべからず。これこそ、この世の、名殘りなれ。」

とて、

 しばしこそ人め忍ぶの通ひ路は

   あらはれそめて絕はてにけり

と、なくなく、詠じければ、新六郞、淚の中より、

 さしもわがたえず忍びし中にしも

   わたしてくやしくめの岩はし

女は、なくなく、金の香合(かうばこ)ひとつ、とり出して、

「君が心ざし、變らで思し給はゞ、これを、かたみとも、見給へ。」

とて、渡しけり。

 新六郞も珊瑚・琥珀・金銀をまじへてつなぎたる、數珠(じゆず)一連をとり出し、

「これは、見給ふべき物とはなけれ共、黃泉(よみぢ)のすみかには、身のたよりとも御覽ぜよかし。」

とて、女の手に渡しつゝ、

「さるにても、又、あふべき後の契りを、この世の外には、何時とか定め侍らん。」

と、いへば、

「今より、甲子(きのへね[やぶちゃん注:ママ。])といふ年を待給へ。」

とて、淚とゝもに、雪霜のきゆるが如く、うせにけり。

 新六郞、つきぬなごりの悲しさに、思ひむすぼゝれ、心なやみ、形ち、かじけたり。

 醫師(くすし)、此事を聞て、藥を與へしかば、月をこえて、病ひ、いえたり。

 後に、ある人、語りけるは、

「憲政の愛子(あいし)、こゝにすみて、俄に、おびえ、死せり。これは、此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり。憲政、こゝにおはせし間は、空、くもり、雨ふる時は、半内が幽靈、いつも、あらはれ見えし。」

と也。

「此程は、その事、絕て、見し人も、なし。」

といふ。

 新六郞、これを聞に、すさまじく思ふ心、つきけり。

 

Sinroku2

 

 或日、空くもりて、雨雲、うちおほひたる暮がたに、年のほど、廿ばかりの男、やせつかれたるが、髮、うち亂し、白き「ねりぬき」の小袖に、袴、着て、紫竹(しちく)の杖をつきて、泉水の端に、

「すごすご」

と、立《たち》たるを見て、新六郞、太刀を拔きて向ひければ、

「きえぎえ」

となりて、失せにけり。

 これより、僧を請じ、一七日《ひとなぬか》のうち、水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)をいとなみて、弔ひしかば、これにや、怨みも解けぬらん、重ねてあらはれいづる事、なしとかや。

[やぶちゃん注:「上野(かうづけ)の國平井の城」現在の群馬県藤岡市西平井にあった平井城。当該ウィキによれば、永享一〇(一四三八)年、『鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説では』、『この時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実』と『幕府の連合軍の間で』「永享の乱」『が起きたが、憲実方が勝利した』。文正元(一四六六)年に『関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという』。『古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料』『もあるが、実際には』永正九(一五一二)年の「永正の乱」或いは大永年間(一五二一年~一五二八年)『以降の拠点で』、十六『世紀前半の短期間のものであったとみられている』。天文二一(一五五二)年、『北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで』も『北条に寝返っていたためである』永禄三(一五六〇)年に『長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている』。『平地部分に本丸などの本城があり、背後の山には詰城である金山城(平井金山城)があった広大な城である』とある。

「上杉憲政(のりまさ)のすみ給ひし所なるを、北條氏康これをせめおとし……」上杉憲政(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没した際。未だ幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛が管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の時、同職に就任したが、奢侈・放縦な執政を行い、民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵し、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うが、相次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失った上、上野の諸将は出陣命令に応じず、同二十一年一月、平井城を捨てて、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣し、翌年三月、小田原を包囲した(ウィキの「北条氏康」によれば、この『以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると』、『関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱』・『従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることな』った。この永禄四年の『謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の』六『月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試み』、九『月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた』。次いで、『氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し』、氏康は『武蔵北部を奪還し』ているとある)。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号したが、天正六(一五七八)年三月に謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、謙信の名を継いだ養子景虎は憲政の館に籠って相争うこととなった。城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害されている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「北條新六郞」「新日本古典文学大系」版脚注に、『伝不詳。平井城攻めの中心として参軍した北条綱成の陣中に、同族の福島新六郎の名が見える(関八州古戦録三・氏康上州平井城責)』とある。

「障子」「新日本古典文学大系」版脚注に、『明かり障子、つまり襖のこと』とあるので納得。みな、花鳥草木、いろいろの繪を盡し、奇麗なる事、いふばかりなし。

「憲政の息女彌子(いやこ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、創作原拠である五朝小説の「才鬼記」に基づく仮想設定と思われる。

「白石(しろいし)半内」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注を見るに、原拠にもないオリジナルな仮想人物と思われる。

「新六郞、この物語を聞て」前注の通り、上杉憲政の配下の者が憲政を裏切っているので、そうした中の一人から、この城中での秘話を聴いたという設定であることが判る。

「そのかみ」先般。

 

「鬼を一車にのす」「鬼を一車に載す」は「大変不安な心境」を指す喩え。おとなしそうな顔をして載っていても、鬼は鬼、何時つかみ掛って来ないとも限らぬという意。『信用出来ない相手と一緒に事業を始めた時など、相手を何処まで信じてよいのか怪しむ心境にもたとえる』と参照したcelica2014276氏の「故事ことわざ辞典blog」のこちらにあった。「新日本古典文学大系」版脚注には、原拠を、『「載鬼一車何足ㇾ恐 棹巫三峡未ㇾ為ㇾ危(和漢朗詠集・下・述懐)』(「鬼を一車(ひとぐるま)に載すとも何ぞ恐るるに足らむ 巫(ぶ)の三峽(さんかふ)に棹(さを)さすとも未だ危ふしと爲(せ)ず」。中書王(醍醐天皇の皇子である兼明(かねあきら)親王の作)、『「載鬼一車 鬼ヲ載ル』(のする)『車ト嶮難ノ路トハ尤ヲソロシキ処ナレドモ、ソレハマダモ也。世上ノ人の心尤ヲソロシキト也(和漢朗詠集鈔六・述懐)、「載鬼一車先張之弧後説之弧」(易経四。兌下離上)』(「鬼一車(いつしや)に載る。先に、之れ、弧(ゆみ)を張り、後に、之れ、弧を說(と)く。」。「說く」は張っていた弓を緩めて射るのを止めるの意)を挙げる。

「あなかしこ」「どうか、お慎みあれかし!」。

「底深き池におふてふみくりなはくるとは人に語りばしすな」「新日本古典文学大系」版脚注には、『底深い池に生じるというミクリナハに因んででも、「来る」ということばを口ばしって私のことを他人に語ってくださるな。』と通釈され、「みくりなは」について、『歌語。水草のミクリ(三稜草)は水面に漂って縄のように見えることがあるという』とある。単子葉植物綱ガマ目ミクリ科ミクリ属ミクリ Sparganium erectumウィキの「ミクリ」によれば、『ヤガラという別名で呼ばれることもある』。『北半球の各地域とオーストラリアの湖沼、河川などに広く分布』する。『日本でも全国に分布するが、数は減少している』。『多年生の』抽水性(ちゅうすいせい)植物(根が水中にあって茎や葉を伸ばして水面上に出る植物を指す)で、『地下茎を伸ばして株を増やし、そこから茎を直立させる。葉は線形で、草高は最大』二メートルにもなる。花期は六~九月で、『棘のある球状の頭状花序を形成する。花には雄性花と雌性花があり、枝分かれした花序にそれぞれ数個ずつ形成する。その花序の様子が栗のイガに似るため、ミクリ(実栗)の名がある。果実を形成する頃には、花序の直径は』二~三センチメートルにもなる、とある。原拠歌はない模様。

「奇特(きどく)」ここは単に不思議なことの意。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」で既出既注

にて侍べりし。

「しばしこそ人め忍ぶの通ひ路はあらはれそめて絕はてにけり」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、了意御用達の「題林愚抄」の「戀二」の「忍絕戀」(「新後拾遺和歌集」の「戀四」)の後二条院の一首、

 しばしこそ人め思ひしよひよひの忍ぶかたよりたえやはつべき

とあり、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の右丁の終わりから6行目にある。

「さしもわがたえず忍びし中にしもわたしてくやしくめの岩はし」同前で、同じ「題林愚抄」の「戀二」の「絕戀」(「続後撰和歌集」の「戀五」で「絕戀の心を」と前書する)の前僧正慈鎮の一首とあり、同前のここの30コマ目の左丁の8行目にある。但し、

 さしもわかたえすしのびし中にしもわたしてけりなくめの岩はし

と四句目が異なる。「くめの岩はし」は「久米の岩橋」で、役の行者が奈良の葛城山の山神一言主神に命じて、葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)に掛け渡そうとしたという「日本靈異記」上巻二十八話や、「今昔物語集」巻第十一「役優婆塞誦持呪駈鬼神語第三」(「役優婆塞(えんのうばそく)誦(しゆ)を持(ぢ)して呪して鬼神(きじん)を駈(か)る語(こと)第三」)などの説話から出た伝説上の橋。夜が明けてしまって工事が完成しなかったと伝えられるところから、「男女の契りが成就しないことのたとえ」として使われる。

「この世の外には、何時とか定め侍らん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『来世まで持って行く思い出』とされ、「後拾遺和歌集」の「戀二」にある和泉式部の知られた一首(七六三番)、

   心地、例ならず侍りける頃、

   人のもとにつかはしける

 あらざ覽(らむ)この世のほかの思ひ出に

         今ひとたびの逢ふこともがな

『を踏まえた表現』とする。

「甲子」本話柄内の時制は、平井城が北条に奪われた天文二一(一五五二)年壬寅以降のそう遠くない頃の設定であるから、直近の甲子は永禄七(一五六四)年となる。これ自体には史実に合わせてみても、違和感はない。但し、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠に『一甲子ニ非ザレバ相ヒ見(まみ)ヘンノ期(とき)無シ』とあって、そちらの「一甲子」というのは年を示す干支ではなく、還暦の「六十年後」を意味するものである。スケールが全然違う。というより、本話のエンディングには不満がある。この「甲子」はその年に新六郎が死を迎えることの予言として私は読む。さればこそ、その終焉を了意はコーダに持ってくるべきだったと私は思うからである。

「かじけたり」「悴けたり」瘦せ細り、衰え弱ってしまった。

「此むすめを思ひかけし小姓白石半内が、怨みて殺されし亡魂のしわざなり」ちょっと躓く表現である。意味は判るが、ここは「白石半内の、殺されしを怨みたる亡魂のしわざなり」と私はしたくはなる。

「ねりぬき」「練貫」。縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの光沢のある絹織物。

「紫竹(しちく)の杖」黒い竹の杖。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属シチク Phyllostachys nigra var.nigra で出来た杖。シチクは高さ三~八メートルで、茎は二年目から黒紫色に変わる。黒竹 (くろちく)とも呼ぶ。

「水陸(すゐろく)の齊曾(さいゑ)」「水陸會(すいりくゑ)」。施餓鬼会(せがきえ)の一種。水陸の生物や死せるもの(人の死者も含む)に飲食物を与えて諸霊を済度する法要。水陸斎とも言う。夏から秋にかけて行うのが普通。]

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