曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 明善堂討論記
○明善堂討論記
[やぶちゃん注:以下「乃記二其言一藏二諸篋笥一云。」までは底本では全体が二字下げ。]
文政七禩六月朔日。予與二門人敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋一。約爲二會讀一。預期自二曉七鼓一而始。至二黃昏一而終也。適予友櫟葉散人。携二其徒十數人一來共討論。乃記二其言一藏二諸篋笥一云。
[やぶちゃん注:訓読と注を試みる。段落を成形した。
*
文政七禩(のとし)六月朔日、予、門人の敬齋・强齋・謙齋・昌齋・笠齋と與(とも)にし、約して會讀を爲す。預(あらかじ)め期を曉七鼓(あけななつ)よりして始め、黃昏に至りて終るなり。
適(たまた)ま、予が友、櫟葉散人(れきえふさんじん)、其の徒、十數人を携へて、來たり、共に討論す。乃(すなは)ち、
「其の言を記して、諸(もろもろ)、篋笥(けふし)に藏む。」
と云ふ。
*
「禩」は音「シ」。殷代に於いて「年」を意味した漢字。
「曉七鼓」不定時法で午前三時頃。
「篋笥」(きょうし)は長方形の箱。文書を入れる箱。
以下の漢文には句点以外の訓点は存在しない。]
六月一日。晨各蓐食。巢於明善堂。天將曉。月未落。焚篝燈倚九案[やぶちゃん注:右に『几カ』と傍注。]。櫟葉散人忽到。散人者武州金杉根岸人。常好讀日本記事。其於正史稗說。無所不硏究。能辯我邦治亂。論其興廢。言辭滔滔。若决江河。若驟雨暴至。沛然無禦之者。以予酷好西土書策。每往來會讀難問。此日方讀史記伯夷傳。櫟葉曰。嗚乎。夷齊。不食周粟而餓則可也。何輙食其土薇。詩曰。普天之下。莫非王土。薇亦非周土之生乎。夷齊之義。不食周粟。則薇亦不可食焉。孔子方稱夷齊賢。吾甚感焉。且孟子論武王曰。聞誅一夫紂。未聞弑君。孟子何出此言也。夫紂雖無道而親戚背之。猶爲天子也。安得等之匹夫乎。敬齋揖櫟葉而進曰。甚哉。子言之過高也。夷齊不食周粟。乃是夷齊之僻。孟子所以爲隘之也。足下不知其爲僻。而貴食其薇。足下亦是僻之又僻耳。必如足下言。則雖巢文許由卞隋務光。未以嗛於足下心也。若其充足下之心者。其於陵陳仲子乎。所謂蚓而充橾者。我孟子之所不取也。足下坐未嘗讀聖經。是故出此言。退讀聖人之書。而後會我輩。强齋在側。抗然大言曰。二子之言皆失矣。二子愕然曰。何。强齋曰。夫道一而已。分爲二爲三以往。復散爲千爲萬。故有陰則有陽。有剛則有柔。有君必有臣。有仁必有義。其所遇或異。則其所行亦殊。是以事雖萬殊。於其歸道一也。譬之忠質文。三代所向不同。其及合於禮。未嘗同也。武王之伐紂。夷齊之諫武王。其迹雖異。各盡其道。始非有二致也。武王見天下之溺。不極之。不免楊朱爲我之謗。夷齊扣馬諫。不免賊其君之誚。聖賢之心。無所偏倚。隨物而應者。孰不規矩。何不準繩。以夷齊之準繩論武王。而曰不平。曰不直。亦其宜也。以武王之規矩。議夷齊。而曰出方圓之外復亦其宜也。又譬之。武王之德。大陽之輝也。夷齊之行。大陰之光也。微武王不能爲夷齊之光。武王亦不得夷齊。則不得著。其德輝也。二聖之在天下。猶日月之互行。而不相戾也。孔子盛稱之。不亦宜乎。盖孔孟之所毀譽。必有所試。又何疑其言。然足下疑孟子命紂爲一夫。是何其意也。紂雖稱天子。親戚衆臣。及四海内。無一人助之者。則非一夫何。著者宋高宗。亦與足下同癖。問時碩儒尹焞曰。孟子何以謂之一夫紂。尹焞對曰。此非孟子之言。武王牧師之辭也。曰。獨夫受。洪惟作威。由是觀之。孟子非敢新言之。假令孟子言之。孟子聖人也。如何廢其言乎。足下實有蓬心乎。吾丁寧反覆雖頻提子耳。而大聲告之。子固褒如充耳。豈有益其是非乎。如子之人。謂之兼襲與瞽宜哉。不得其觀日月之光。聞大雅之音。於是三人相爭相怒。或瞋目或握拳喧豗良久。謙齋猶然笑。徐々前席曰。三子之言。倶有理。雖然未得其所處也。夫聖之道。區以別之。則有時者。有仕者。有和者。如淸者。如伯夷者。所謂聖之淸者耳。伯夷之好淸潔。猶顏子之好學。伯倫之嗜酒也。天地開闢一人也。於是櫟葉又怒曰。子嘗孟子之餘唾。將折我言。雖孟子再生來。我猶將說却之。亦况於足下輩乎。退哉退哉。謙齋亦怒。四人猶戰場爭死生。市中貪羸利也。乾齋曰。予有一說。足下輩安意聽之。四人同曰。如何。乾齋曰。盡信書如不無書。書且尙疑之。則史記不能無疑焉。吾聞之。史記者大史公之未定之書。而且多攙入。今取一二證之。其攙入者。司馬相如傳贊曰。揚雄以爲靡麗之賦。勸百諷一。趙翼辯駁之日。雄乃哀平王莽之時人。史遷固武帝時之人。而何由得預知百年下揚雄者。又自在岐互處。朱建傳謂。黥布欲反。建諫之不聽。事在黥布傳中。今黥布傳無此語。是亦古人辯駁之。由此觀之。未定之書。未足信之矣。雖然如伯夷傳。明確高論。非後人攙入。唯夷齊叩馬而諫之事。殊不見經。則疑是流傳之言。若果爲流傳之言。未足信之也。且明王直辯駁也。子輩知之乎。若未則熟視之。察之而後正其是非。盖爭者事之末。其言雖有義理。終損君子之操。願暫聽吾說。莫【莫當作勿。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とする。]爭莫譁。於是座中哄然笑。讀如故。畢伯夷傳。次讀春秋左傳。至莊公九年。齊管仲請囚之章。櫟葉門人大瓠。昭然歎曰。噫。漢土之人。何薄於忠義乎。管仲怯儒而無義魯殺子糾。召忽死之。管仲不死。以余觀之。召忽可謂之能終事君也。然孔子特稱管仲。吾竊惑之。昌齋應之曰。子惑宜矣。昔者。子路之果敢。而不能無此惑。况於足下輩乎。夫孔子之不稱召忽。而稱管仲者。稱其功業也。盖召忽一夫之材。若不死於子糾。三軍之虜也。管仲王佐之材。死子糾則不免溝瀆之死也。故孔子美其不死。而稱其功業。鳴呼。管仲功業之益於民。平王東遷。諸候内攻。夷狄外侵。周室之不亡如線。向無管仲相桓公振霸業。則中國之不被髮左袵無幾矣。可不謂非仁乎。雖然於其爲人。孔子亦賤之。傳所云。不一而足。管仲之器小哉。焉得儉。管仲不知孔。由此觀之。孔子之稱管仲。所謂門上挑之。而在夷狄則進之。猶如稱文子之淸。美藏文仲之智也。亦何怪之管仲也。且子言曰。魯殺子糾。疎漏甚哉。經云。齊人取子糾殺之。殺子糾者齊也。非魯也。大瓠擊節乾笑曰。子席讀唐土之書。偏僻于唐人。一何甚。夫仁者而必有仁之功。智者而必有智之功。既云管仲不知禮。智者而不知禮。可乎。又云。焉得儉。仁者必儉。管仲不得儉。則可謂之仁乎。昌齋曰。聞之錦城先生。曰。夫酒有淸濁之別。有醇醪之品。飮淸醇者亦醉。飮濁醪者亦醉。於爲醉之功則丁也。爲其物厚薄則異也。管仲之功。濁醪之醉也。堯舜之仁。淸醇之醉也。今夫淸醇與濁醇。固有差別。霸與王。功同而本異。然至其一匡天下一也。傳云。君子成人之美。不成人之惡。故夫子盖其不知社與器小。而特稱其功。如足下之言吹毛求疵。責人而無止。而與我聖人之道大有逕庭。於是大瓠言下敬。
[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]
豐民云。予記此事。既在客歲。自後以來。有定期。而爲此討論。又每會必筆。而藏諸篋笥中。今適搜篋笥中得之。亦以呈兎園社友、若有頑說。幸見敎焉。敬而受敎。
于時文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識
[やぶちゃん注:暴虎馮河で訓読と注を試みる。段落を成形した。
*
六月一日。晨(しん/あした/あさ)、各(おのおの)、蓐食(じゆくしよく)し、明善堂に巢(つど)ふ。天、將に曉(あかつき)ならんとするも、月、未だ落ちず。篝(かがり)を焚き、倚、九案に燈(とも)す。
櫟葉散人、忽ち到れり。散人は武州金杉(かなすぎ)根岸の人。常に、好んで日本の記事を讀み、其の正史・稗說に於けるや、硏究せざる所、無し。能く我が邦の治亂を辯じ、其の興廢を論ず。言辭、滔滔として、江河の决せるがごとく、驟雨の暴(ある)るに至るがごとし。沛然として、禦(ふせ)ぐるところの者、無し。以つて、予(かね)てより、酷(ひど)く西土の書の策を好めば、每(つね)に會讀に往來して難問す。
[やぶちゃん注:「蓐食」早朝に何かをする際に寝床で食事を済ませることを言う。
「明善堂」江戸のそれは不詳。
「九案」傍注に従えば「九几」で九つの机となる。二十人を超える人数が集まるので長机でないと困る。
「武州金杉根岸」現在の台東区根岸には嘗て金杉村があったが、「明暦の大火」で焼失したらしい。現在の広域の谷中地区内にあった。
「决せる」決壊する。]
此の日、方(まさ)に「史記」の「伯夷傳」を讀む。櫟葉、曰はく、
「嗚乎(ああ)、夷・齊、周の粟(あは)を食はずして餓う、則ち、可なり。何ぞ輙(すなは)ち其の土(ど)の薇(ぜんまい)を食はん、と。「詩」に曰はく、『普天の下、王土、非ざる莫し。』と。薇も亦、周土の生(しやう)非ずや。夷・齊の義は、周の粟を食はざれば、則ち、薇も亦食ふべからず。孔子、方(まさ)に夷・齊の賢を稱す。吾、甚だ感じたり。且つ、孟子、武王を論じて曰はく、『一夫の紂(ちう)を誅するを聞くも、未だ君を弑(しい)するを聞かざるなり。』と。孟子、何をもつて此の言を出だすや。夫れ、紂、無道にして、親戚も之れに背(そむ)くと雖も、猶ほ、天子たるなり。安(いづく)んぞ、之れ、匹夫に等しきを得んや。」
と。
敬齋、櫟葉に揖(いふ)して進みて曰はく、
「甚しきかな。子の言の過(あやま)ちの高きや。夷・齊、周の粟を食はざるは、乃ち、是れ、夷・齊の僻(ひがごと)なり。孟子の以つて爲す所は、之れ、隘(せま)きなり。足下は、其の僻たるを知らず、而して、其の薇を食ふを貴しとす。」。
と。
[やぶちゃん注:「揖(いふ)して」(ゆうして)は両手を前で組んで会釈することを言う。唐風の礼儀。
私はここで切れて、再び櫟葉散人の台詞として採った。]
「足下も亦、是れ、僻の、又、僻のみ。必ず、足下のごとく言はば、則ち、巢文父(さうほ)・許由・卞隋(べんずい)・務光と雖も、未だ以つて、足下の心に嗛(た)らざるところ、あらざるなり。若(も)し、其の足下の心を充(み)たせる者は、其れ、於陵の陳仲子か。所謂、『蚓(みみず)にして橾操(みさを)を充(み)たす者』なり。我れ、孟子の所(いふところ)を取らざるなり。足下、坐して、未だ嘗つて、聖經を讀まず。是れ故、此言を出だす。退(しりぞ)きて、聖人の書を讀め。而して後、我が輩に、會へ。」
と。
[やぶちゃん注:「巢文」「巢父」の誤判読。中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという。
「許由」同時代の隠者。前の「巣父」とセットで語られることが多い。聖天子と仰がれた堯が、許由の高潔の士であることを聴いて「天下を譲ろう」と言ったところ、許由は「汚れたことを聴いてしまった」と言って潁水(えいすい)の川水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れた。さらに巣父も堯から天下を譲られようとして拒絶した隠者であったが、その耳を洗っている許由を見、「そのような汚れた水は飼っている牛にさえ飲ませることが出来ぬ」と言い放って、引いていた牛を連れて何処かへ去ったという故事である。「荘子」の「逍遙遊」や、「史記」の「燕世家」などに見える。
「卞隋」「務光」孰れも同前の厭世隠遁を望んだ賢者。湯王が暴虐残忍な桀王を討伐するに際し、卞隋、次に務光に相談したが、まるで相手にしなかった。桀を滅ぼした湯王がそれぞれの才覚を見込んで、順に王を譲ると言ったところ、その忌まわしい話に驚愕して、二人が二人とも、入水して命を絶ったという。「荘子」第二十八「譲王篇」にある。サイト「肝冷斎日録」のこちらが、非常に判り易く説明しているので、お勧め。
「於陵の陳仲子」斉の栄誉の家臣の家系であったが、兄の得ている莫大な禄を不義のものとして、兄と母を避けて於陵(現在の山東省)の山中に遁世したが、三日間、何も食べず、餓えた。道端に李の樹を見つけ、虫が実を半分以上食っていたが、それでも這って行って拾い取り、三口、食べて、やっと耳が聞え、目が見えるようになったという。「孟子」の「滕文公章句下」に出る。但し、孟子のそれに対する議論(そこで孟子は、陳仲子のような輩は「蚓而後充其操者也」(蚓(みみず)となりて後(のち)、其の操(みさを)を充(み)たしむ者なり。)と言い放っている。なお、本文の「橾」は「操」の誤判読である)は私は甚だ不快に感じる。サイト「我読孟子」のこちらを読まれたい。]
强齋、側に在り、抗然として、大言(たいげん)して曰はく、
「二子の言、皆、失す。」
と。
二子、愕然として曰はく、
「何ぞ。」
「何ぞ。」
と。
强齋曰はく、
「夫れ、道は一つのみ。二つ爲(な)り、三つ爲りを以つて、分かちて往くも、復た、散りて、千爲り、爲萬りたり。故に、陰、有りて、則ち、陽、有り。剛、有りて、則ち、柔、有り。君、有りて、必ず、臣、有り。仁、有りて、必ず、義、有り。其の所遇、或いは異なれり。則ち、其の所行も亦、殊なれり。是れを以つて、事、萬殊と雖も、其の歸る道に於いては一(いつ)なり。譬へば、之れ、『忠』の質の文に、「三代、向ふ所、同じからず。其れ、禮に合するに及びても、未だ嘗つて同しからざるなり。武王の紂を伐するや、夷・齊、武王を諫むるに、其の迹、異なると雖も、各(おのおの)、其の道を盡くす。始め、二つの致れるの有るに、非ざるなり。武王、天下の溺(おぼ)れるを見るも、之れを極めず。楊朱が爲我(ゐが)の謗りを免れず。夷・齊、馬を扣(ひきと)めて諫むるも、其の君の誚(そしり)を賊(そこな)ふを免れず。聖賢の心、偏倚なる所、無し。物に隨ひて應ずる者は、孰(いづれ)か規矩によらざる。何ぞ準繩(じゆんじよう)せざる。夷・齊の準繩を以つて武王を論ずるは、而して『不平』と曰ひ、『不直』と曰ふも、亦、其れ、宜(むべ)なり。武王の規矩を以つて、夷・齊を議すれば、而して出ずる方、圓の外なりと曰ふは、復(また)、亦、其れ、宜なり。又、之れを譬ふれば、武王の德。大陽の輝きなり。夷・齊の行は、大陰の光なり。微かに、武王、夷・齊の光を爲すに、能はず。武王も亦、夷・齊を得ず。則ち、著き得ざるなり。其の德は輝(き)なり。二聖の天下に在るは、猶ほ日月(じつげつ)の互ひに行くがごとし。而して相ひ戾らざるなり。孔子、盛んに、之れを稱すは、亦、宜ならざるか。盖(けだ)し、孔・孟の毀譽せしむ所は、必ず試ましむ所、有り。又、何ぞ其の言を疑へる。然れども、足下、孟子の命(めい)の、紂を一夫と爲すを疑ふ。是れ、何ぞ、其の意、繆戾ならんや。紂、天子を稱すると雖も、親戚・衆臣、及び、四海内に、一人として之れを助はんとする者、無し。則ち、一夫に非ずして何ぞ。宋の高宗を著せる者、亦、足下と同じ癖なり。時に問ふ、碩儒尹焞(いんとん)曰はく、『孟子、何を以つてか、之れを「一夫の紂」と謂ふか。尹焞、對して曰はく、此れ、孟子の言に非ず。武王が牧師の辭なり。曰はく、「獨り、夫のみ、受く。洪(おほ)いに、惟(こ)れ、威を作(な)す。」と。』と。是れに由りて、之れを觀るに、孟子、敢へて、新らに之れを言ふに非ず。假令(たとひ)孟子、之れを言ふとも、孟子は聖人なり。如何にして其の言を廢せんか。足下、實(げ)に、蓬心、有らんか。吾れ、丁寧に反覆すと雖も、頻りに、子に提(かか)ぐるのみ。而れば、大聲に、之れを告げたり。子、固(もと)より、褒(ほめそや)すこと、耳を充(ふさ)ぐがごとし。豈に、其れ、是非の益、有らんや。子のごとき人、之れを謂ふに、兼ねてより、襲ねて、瞽(めくら)と與(くみ)するが宜(よろ)しきかな。不得其れ、日月の光を觀るを得ず。大雅(だいが)の音を聞け。」
と。
[やぶちゃん注:「楊朱」(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。伝記は不明で、老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命とその安楽の保持にある」と説いたとされる。
「爲我」自分の利益のみを考え行動すること。
「繆戾」(びゅうれい)は、誤って道理から外れることを言う。
「宋の高宗」事実上の北宋最後の皇帝。
「碩儒」大儒。
「尹焞」北宋末・南宋初の儒者。
「牧師」武王の教授・祭祀師の意であろうが。不詳。
「蓬心」欲にとらわれた心。
「大雅」「たいが」とも。 非常に気高いこと。また、極めて正しいこと。]
是に於いて、三人、相ひ爭ひ、相ひ怒る。或いは、目を瞋(いか)らし、或いは、拳を握りて喧豗すること、良(やや)、久し。
[やぶちゃん注:「喧豗」(けんかい)は喧騒に同じ。]
謙齋、猶ほ、然れども笑へるがごとし。徐々に前席に曰はく、
「三子の言、倶に、理、有り。然りと雖も、未だ、其の所處、得ざるなり。夫れ、聖の道、區を以つて、之れを別く。則ち、時の有る者、仕(つかまつ)ること有る者、和すること有る者、淸きがごとき者、伯・夷のごとき者。所謂、聖の淸き者のみ。伯夷の好み、淸潔。猶ほ、顏子の好學なるがごとし。伯倫の酒を嗜むなり。天地開闢の一人なり。」
と。
[やぶちゃん注:「顏子」孔門十哲第一の清貧の賢者。
「伯倫」竹林の七賢の劉伶。]
是(ここ)に於いて、櫟葉、又、怒りて曰はく、
「子、嘗つて、孟子の餘唾(よだ)として、將に我が言を折らんとす。孟子と雖も、再び生來(しやうらい)す。我れ、猶ほ、將に、說きて、之れを却(しりぞ)かんとす。亦、况んや、足下の輩をや。退(の)けや、退けや。」
謙齋、亦、怒りて、四人、猶ほ戰場に死生(ししやう)を爭ひ、市中に羸利を貪(むさぼ)るがごとし。
[やぶちゃん注:「羸利」では意味が通らない(「羸」(音「ルイ」)は「瘦せる・病み疲れる・弱る」の意)。ここは「贏利」(えいり)でともに「儲ける・利益を得る」の意になるので、その誤判読ではないか。]
乾齋、曰はく、
「予、一說、有り。足下の輩、意を安んじて、之れを聽け。四人、同じく曰ふは、如何(いかん)ぞ。」
と。
乾齋、曰はく、
「盡く、書を信じて、書の無きに如(しか)ず。書も、且つ、尙、之れを疑ふ。則ち、「史記」疑ふ無からざる能はず。吾れ、之れを聞くに、「史記」は大史公の未だ定まらざるの書なり。而も、且つ、多く、攙入(ざんにふ)あり。今、一、二を取りて、之れを證す。其の攙入は、「司馬相如傳」の贊に曰はく、『揚雄、以爲(おもへ)らく、「靡麗の賦」に、百を勸め、一(いつ)を諷(あてこす)れり。』と。趙翼、之れに辯駁して曰はく、『雄は、乃(すなは)ち、哀・平の王莽の時の人なり。史遷、固より、武帝の時の人。而して何の由(ゆゑ)を得て、百年の下(しも)の揚雄をば、預り知れるや。』と。又、「自在岐互處」に、『「朱建傳」に謂ふ、『黥布、反(そむ)かんと欲して、建の諫めの聽かず。事、「黥布傳」中に在り。』と。今、「黥布傳」に此の語(こと)、無し。是れ亦、古人、之れに辯駁す。』と。此れに由りて、之れを觀るに、未だ定まらざるの書なり、未だ、之れ、信ずるに足ず。然りと雖も、「伯夷傳」のごときは、明確にして高論たり。後人の攙入に非ず。唯だ、夷・齊、馬を叩(ひきと)めて諫めし事、殊には經に見えず。則ち、疑ふらくは、是れ流傳の言たり。若(も)し、果して、流傳の言たらば、未だ、之れ、信ずるに足らざるなり。且つ、明王が直辯の駁なり。子輩、之れを知るか。若し、未だ、則ち、之れを熟視せざらば、之れを察して、後に其の是非を正す。盖し、爭ふは、事の末たり。其の言、「義理、有り。」と雖も、終(つひ)に君子の操(みさを)を損ず。願はくは、暫く、吾が說を聽け。爭ふ勿れ、譁(かまびす)しくする勿れ。」
と。
是に於いて、座中、哄然と笑ふ。讀むこと、故(かく)のごとし。「伯夷傳」を畢(をは)んぬ。
[やぶちゃん注:「攙入」「竄入」に同じ。文中に不要な字句などが紛れ込むこと。以下で乾斎が挙げているのは清の趙翼の著になる中国の正史二十二史の編纂形式・構成・内容について考証し論評した「二十二史箚記」(にじゅうにしさっき:「箚記」とは「読書雑記を箇条書きしたもの」の意。一七九五年の自序がある)に拠る。
「揚雄」(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人・学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。示すのも馬鹿々々しいが、司馬遷は前漢中期の人物で生年は紀元前一四五或いは一三五年?で、紀元前八七或いは八六年?である。
「哀・平」前漢の第十二代皇帝哀帝から第十三代皇帝平帝。
「王莽」(紀元前四五年~紀元後二三年)前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。
「爭ふ勿れ」頭書に従い、前と後の「莫」は「勿」に代えた。]
次いで、「春秋左傳」を讀む。莊公九年に至り、齊の管仲の囚を請ふの章、櫟葉が門人大瓠。昭然と歎じて曰はく、
「噫(ああ)、漢土の人。何ぞ忠義に薄きか。管仲、怯儒にして、義、無くして、魯の子糾を殺す。召忽(せうこつ)、之れ、死すも、管仲、死せず。以つて、余、之れを觀るに、召忽、之れ、能く、事ありて、君の終れるを、謂(おも)ふべかりしなり。然れども、孔子、特に管仲を稱す。吾れ、竊かに、之れに、惑ふ。」
と。
昌齋、之れに應じて曰はく、
「子、惑ふ、宜なるかな。昔者(むかし)、子路の果敢にして、此の惑ひ、無きこと、能はず。况んや、足下の輩に於いてをや。夫れ、孔子の召忽を稱せずして、管仲を稱するは、稱は、其の功業なればなり。盖し、召忽、一夫の材にて、若し、不子糾に死せざれば、三軍の虜(とりこ)となるなり。管仲、王佐の材たり。子糾、死して、則ち、溝瀆(こうとく)の死を免れざるなり。故に、孔子は其の死なざるを美とし、而して其の功業を稱せり。鳴呼(ああ)、管仲の功業の、民に益するや、平王、東遷して、諸候、内攻し、夷狄、外侵し、周室の亡ばざること、線(いと)のごとくなるに、向ふもの無き管仲の相と、桓公が霸業を振ふ。則ち、中國の『被髮(ひはつ)・左袵(さじん)せざる無きは幾(いくばく)ぞ』ならん。謂ふべからざる「非仁」か。然ると雖も、其の爲人(ひととなり)に於いてや、孔子も亦、之れ、賤たり。傳ふる所に云はく、「不一にして足れるも、管仲の器は小なるかな。儉(けん)をんか得。管仲、孔を知らず。」と。此に由りて、之れを觀るに、孔子の管仲を稱すや、所謂(いはゆる)、門の上に之れを挑げて、夷狄、在れば、則ち、之に進むるに、猶ほ、「文子(ぶんし)」の淸を稱するがごとし。「美藏文仲」の智なり。亦、何ぞ、怪の管仲や。且つ、子言曰はく、『魯、子糾を殺すは、疎漏、甚しきかな。』と。經に云はく、『齊人(せいひと)、子糾を取りて、之れを殺す。子糾を殺ししは齊なり。魯に非ざるなり。』と。「大瓠擊節」、乾笑曰はく、『子、席に唐土(もろこし)の書を讀む。偏へに唐人に僻(へき)して、一つなる、何ぞ甚しき。夫れ、仁者は必ず仁の功有り。智者は必ず智の功有り。既に云ふ、「管仲は禮を知らず、智者にして禮を知らず。」と。可ならんか。』と。又、云はく、『儉を得んか。仁者は必ず儉なり。管仲、儉を得ざらんか。則ち、之れ、仁を謂ふべきか。』と。」
昌齋曰はく、
「之れを聞くに、錦城先生曰はく、『夫れ、酒に淸濁の別、有り。醇醪(じゆんろう)の品、有り、飮むに淸醇なれば、亦、醉ふ。濁醪なるを飮まば、亦、醉ふ。醉ひの功に於いて爲(せ)ば、則ち、丁(てい)なり[やぶちゃん注:同じように強いものである。]。其の物の厚薄に爲ば、則ち、異(い)なり。管仲の功。濁醪の醉ひなり。堯・舜の仁、淸醇の醉ひなり。今、夫れ、淸醇と濁醇と、固より、差別有り。霸と王と、功は同じくして、本は異なれり。然れば、其れ、一たび匡(ただ)すに至らば、天下一なり。傳へて云ふ、『君子の人と成れる、之れ、美し。人と成らざるは、之れ、惡(あ)しし。』と。故に、夫子、盖し、其の社(ほこら)と器(うつは)と小なるを知らずして、特に其の功を稱す。足下の言、毛を吹きて、疵(いず)を求むるがごとし。人を責めて止まず。而して、我と聖人の道は、大いに、逕庭(けいてい)、有り。是に於いて、大瓠(おほふすべ)、言下に敬ふ。』
と。
[やぶちゃん注:「管仲」管夷吾(かんいご ?~紀元前六四五年)は春秋時代の斉の政治家。桓公に仕え、彼を覇者に押し上げた人物として知られ、一般には字(あざな)の仲で知られ、旧友で同じく斉を支えた官僚鮑叔との「管鮑の交わり」で知られる。ここの話は当該ウィキの以下の引用の後半で状況が簡明に記されてある。『管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している』。『「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が』、『逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合と』、『そうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが』、『彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時』、私の同僚であった『召忽は殉死したが』、『私は囚われて辱めを受けた。だが』、『鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」』と。『二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ』。『二人は斉』(せい)『に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし』、『時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は』、『糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった』。『ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て』、『車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり』。「春秋左氏伝」『などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして』、『車を走らせて』、『その場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は』、『自分の死を確認する刺客が』、『再度』、『到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため』、『管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白と』、『その臣下たちが』、『既に国内を纏めており、管仲と公子糾は』、『やむなく』、『再び魯へ退却した』。『斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく』、『軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と』、彼を支えた二人の重臣『管仲』及び『召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した』(☜)。『しかし、管仲は斉に入ると』、『拘束を解かれ』た。『魯を攻めるにあたり、桓公は初め』、『糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒』(こうけい)の二『人で十分です。しかし』、『天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて』、『考え直したためである』とある。
「溝瀆の死」汚ない「みぞ・どぶ」の中での無益な死を言う。故事成句「溝に縊(くび)る」「溝瀆に縊る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)が知られる。
「平王」周の第十三代の王(在位:紀元前七七一年~紀元前七二〇年)。彼以降、周は縮小した東周となった。ここは突然、原初が儒教の理想国家とされる周王室とその滅亡の比喩を比喩らしくなく、突如として挿入しているのである。これは、「論語」の「憲問第十四」にある以下に出る、『子曰、「微管仲、吾其被髮左衽矣。」。』(子曰く、「管仲、微(な)かりせば、吾れ、其れ、被髮(ひはつ)・左衽(さじん)せん。」と。)に基づく。「被髪」は、結髪しない「ざんばら髪」、「左衽」は着物を左前に着ることで、「異民族に支配されていたであろう」ということを指す。
「論語」「八佾(はちいつ)第三」 の「子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉。然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。」(子曰はく、「管仲の器は小なるかな。或るひと曰はく、『管仲は儉(けん)なるか。』。曰はく、『管氏に三歸(さんき)有り。官の事ことは攝(か)ねず。焉(いづくん)ぞ儉なるを得ん。』と。『然らば、則ち、管仲は禮を知れるか。』と。曰はく、『邦君は樹して門を塞ぐ。管氏も亦、樹して門を塞ぐ。邦君は兩君の好(よし)みを爲すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦、反坫、有あり。管氏にして禮を知らば、孰(たれ)か禮を知らざらん。』と」と。)に基づく。「儉」は倹約。「三歸」は「三つの邸宅」或いは「三つの姓の女を娶ったこと」とも言う。「家の事」家臣としての事務。「邦君」一国の君主。「樹塞門」土塀を門の内側に築いて目隠しとした。「樹」は衝立、「塞」は「蔽」の意。「兩君」両国の君主。「反坫」土で作った盃(さかずき)を置く台で、献酬が済んだ盃をそこに裏返しにして置いたが、これを自邸に置くのは諸侯にのみ許されたものであった。
「文子」老子の弟子で道家の書「文子」を書いたとする人物がいるが、それか。
『「美藏文仲」の智』不詳。「美」しく艶めいたものを内に「藏」(かく)し、「文」子のような老子のお「仲」間という逃げ道を隠した「智」恵という謂いか。
『「大瓠擊節」乾笑』書名も人物も不詳。以下の内容からは江戸時代の読本らしいが。
「錦城先生」乾斎中井豊民の師匠である儒者太田錦城。
「醇醪」混じり気のない濃い酒。
「丁(てい)なり」「同じように強いものである」の意。
以下、底本では最後まで全体が二字下げ。]
豐民云はく、
「予、此の事を記すは、既に客歲(かくさい)たり。自後、以來、定期、有りて、此の討論を爲す。又、每會、必ず、筆して、諸(もろもろ)の篋笥の中(うち)に藏(をさ)む。今、適(たまた)ま、篋笥の中を搜すに、之れを得たり。亦、以つて「兎園」が社友に呈す。頑ななる說、有るがごとし。幸ひにして敎へらる。敬して敎へをも受くものなり。
于時(ときに)文政八年乙酉小春念三 乾齋 中井豐民 識す
*
「客歲」去年。
「文政八年乙酉」一八二五年。
「小春念三」陰暦の十月二十三日。
以上の訓読は全くの我流で、判ったような振りをしているだけの箇所も、勿論、ある。おかしな部分や、よりよい訓読があれば、御指摘戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。]
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