曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 掘地得城壘 (現在の東京大学構内に存在した謎の城跡の記載)
[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは右から上下で、順に左に移動しながら、同じく上下で電子化する。
「北」
「幅十間」(十八・一八メートル)
「東」
「此所、下水ト見エ、石垣ノ外ノ土ハ赤土ニテ石垣ノ内ハ黒土ナリ。」
「奥殿」
中央右寄り上に、
「半丁」(約五十四・五五メートル)
同真ん中に、
「貳町半余」(約二百七十二・七四メートル)
中央上部に、
「石ハコノ山ノ下ニ、猶、有ルヘケレド、コヽニテ止」(やみ)「ヌ」
「半丁」
「巾六間」(約十・九一メートル)
「深」さ「八尺」
「南」
中央左寄り上から、
「此石丸石ニテ五十人持」
「半丁」
「四十間」(約七十二・七二メートル)
「紅葉山」
「山蔭ニ一里塚アリ」
「榮螺山。頂ヨリ、沖ヲ見ル」
左端上から、
「壱町余」(凡そ百十メートルほどか)
「西」
最も下方少し上の端に、
「泉水」
とある。標題は読む必要もあるまいが、「地を掘りて城の壘(るい)を得る」である。]
○掘地得城壘
加州侯本鄕の上屋敷、「梅の御殿」といへるがありし跡も、此度、御守殿の御庭となし給ふにより、植木うゑんとて、今玆文政八年乙酉[やぶちゃん注:一八二五年]二月廿八日、手の木方、覺太夫・古太夫といふもの、土中六尺ばかり掘る程に、石垣に掘り當りにけり。これにより、大工棟梁、甚藏・古兵衞・吉藏といふもの、件の石を掘りとる事を請負に、同三月二日より日每に六十人、七十人、或は百人ばかりの人足をもて、七月廿日まで掘りたるに、石は、皆、丸石にて、面、少しづゝ、つきて、あり、その數、凡、三萬餘、掘り出だしけり。その石一つに、銀弐匁五分づゝの請負賃にて、大小に拘らず、同屋敷内へとり片づけたり、とぞ。何人の城郭なりしや尋ぬべし【解、按ずるに、こは、むかし、豐島信盛が一族、丸塚某などの城郭にはあらぬか】。よりて、その圖を下に出だしつ。
加州普請奉行 關田十郞左衞門
松 原 半兵衞
大 工 頭 中 村 半 次
同 頭 取 西 田 淸 平
手木方【初めて石にほり當て候もの、此兩人。】
服 部 覺太夫
石 出 古太夫
大工頭【湯島天澤寺前松吉屋の裏。】
甚 藏
本鄕金介町 吉 兵 衞
同 所 吉 藏
右一條は、加州邸へ、日々、入り込みたる傭夫のはなしなり。
[やぶちゃん注:「加州侯本鄕の上屋敷」「梅の御殿」現在の東京大学構内の御殿下グラウンド(グーグル・マップ・データ航空写真)とほぼ一致する。
「豐島信盛が一族、丸塚某」不詳。「日本の城巡り紀行 MARO参上」の「本郷城 | 東京大学本郷キャンパスに残る謎の城跡伝説」で、本篇らしきものを『東京都文京区の東京大学構内は、かつて城塞のようなものがあったと、江戸時代後期に「南総里見八犬伝」の著者として有名な滝沢馬琴たちが豊島氏の城と語ったとされるそうです』と紹介しつつも、『しかし、この一帯はかつて後北条家の家臣・太田康資(江戸城で有名な武将・太田道灌のひ孫)が所領したとされる資料があるそうで、実際には太田康資の城であったと考えられるそうですが、どちらの説も確証はないそうです』。『本郷城としての遺構は残念ながら残されてはいません』とある。]
同年二月三日・四日のころ、右同藩の家老村井又兵衞、小屋にて、玄關前なる柱の下より、大工勘右衞門といふもの、石の地藏を掘り出だせり。同月初午の日、稻荷の社地へ堂を建立して納めけり、とぞ。其圖、左の如し。
乙酉初冬朔 海 棠 庵 記
[やぶちゃん注:同前。キャプションは右手上に「長サ」(像高)「三尺許」、右下方に指示線が短くあって恐らくは像下方の直径を「二寸許」とするが、これは地蔵なら、異様にスマートである。]
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