曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 濃州仙女
○濃州仙女 輪 池
今年は、雨、多にて、濃州も前月十四日夜、水災、長良川、殊に溢決いたし、尾州領も、堤三千間も溢決申し候。溺死も今日にて百人計も相分候へども、いづれも二百人からの儀と相聞候。總ては八百人とも千人とも申候。可憐事ども、いはん樣も無之候。
[やぶちゃん注:「今年」文政八(一八二五)年。
「前月十四日」同年八月十四日は一八二五年九月二十六日。
「溢決」「いつけつ(いっけつ)」は、川が溢れ、堤などが決壊すること。
「三千間」五キロ四百五十四メートル。]
大垣領にや、北美濃越前境にもや、根尾野村山中に、仙女、住居申候。初には、「齋藤道三の女子也。」と申し傳へ候所、さにはあらで、越前の朝倉が臣の妻、懷姙の身にて、朝倉沒落の時、山中へのがれ、女子を出產せし。その女子、幽穴中にて成長し、今年は二百六十歲計、顏色は四十歲の人と相見え申候。髮はシユロの毛の如しと申候。寫眞も不遠來り可申存候。詳なる事は、未、所々水災にて、誰も誰も、途中の決口を恐れ、得往觀不申候也。奇な事に候。
九月四日
右、尾張公儒官秦鼎手簡なり。
[やぶちゃん注:「根尾野村」山深いところとなると、岐阜県本巣(もとす)市根尾(ねお)地区(グーグル・マップ・データ)か。
「二百六十歲計」単純計算すると、永禄九(一五六六)年に当たる。天正元年八月(一五七三年九月)の「一乗谷城の戦い」で織田信長に攻められて朝倉義景は自刃し、越前朝倉氏は亡んだ。「計」(ばかり)だから、まぁ、いいっしょ。
「得往觀不申候也」「え往(ゆ)き觀ること申さざるなり」。「得」は不可能の呼応の副詞の当て字。
「秦鼎」(はたかなえ)は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となった。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしている鼎は名。]
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