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2021/10/25

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その1)

 

[やぶちゃん注:発表者は馬琴で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻第三下編の頭には「天明丙午水同丁未飢饉の記」があるのだが、吉川弘文館随筆大成版と比較してみると、明らかに「兎園小説」版の方が遙かに詳しく、整序されてあり、絵図も二つ附属している(「馬琴雑記」絵図は甚だ粗雑であるので省略した旨の編者の割注がある)ので、ここは吉川弘文館随筆大成版を底本とし、読みに於いて大いに参照させて貰うことにした。非常に長いので、分割し、段落を成形し、今回は「馬琴雑記」で確認出来たものも含め、歴史的仮名遣でオリジナルに難読部に( )で読みを附した。ごく僅かにある底本のルビは《 》で示した。なお、標題の読みであるが、「ひのえうまひのとひつじ」でも構わぬのだが、内容が悲惨を極めた「天明の大飢饉」(広義には天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする)中の天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未の水害と飢饉を綴ったもので、どうも訓では申訳がない気がする。冒頭で漢文を引用して示していることからも、ここは「へいごていび」と読むべきである。なお、董青氏の論文「日中禁忌文化の比較」(「大谷大学学術情報リポジトリ」名義でPDFでダウン・ロード可能)が学術論文として興味がそそられる。因みに、以下の前振りの漢文の電子化と訓読とさわりの注だけで、九時間余りを要した。] 

   ○丙午丁未

 愈文豹[やぶちゃん注:底本は「意文豹」であるが、「馬琴雑記」で訂した。]吹剱錄云、可丙午丁未年。中國遇ㇾ之。必有ㇾ災。謝肇淛五雜俎載是言。曰。亦有盡然。粤攷淸王士禎池北偶談。又有其辯云。丙午丁未。從ㇾ古以爲厄歲陰陽家云。丙丁屬ㇾ火。遇午未而盛。故陰極必戰。亢而有ㇾ悔也。康煕丙午冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海[やぶちゃん注:底本は「藪納海」であるが、「池北偶談」原本陰影と「馬琴雑記」によって訂した。]。督撫尙書王登聯等搆死。丁未春災祲疊見。彗星出。太白晝見。白眚[やぶちゃん注:底本は「白星」だが、同前で訂した。]西北經二月餘。是歲七月。輔臣蘇克薩誅死。吾友程職方謂。予欲輯前史所ㇾ載丙丁災變徵應一書。頃見宋理宗淳祐中。柴望所ㇾ上丙丁龜鑑十卷。自秦莊襄王五十二年丙午[やぶちゃん注:底本では「午」は「丁」であるが、同前で訂した。]。迄五季後漢天福十二年丁未。通一千二百六十載。中爲丙午丁未者二十有一。備摭事實[やぶちゃん注:「摭」は底本では(れっか)部分が「从」になっているのだが、これは「池北偶談」に同文字列を発見し、「馬琴雑記」もこれなので、この字に代えた。]。係以論斷。元至正中。又有續丙丁龜鑑者。補宋元事之闕。前人已有此二書。當考據。故明三百年中事應。以續二書之後

と、いへり。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。必ずしも、「馬琴雑記」の訓点には従っていない。

   *

 愈文豹(ゆぶんへう)が「吹剱錄」に云はく、『丙午丁未(へいごていび)の年、中國、之れに遇へば、必ず、災ひ、有り。』と。謝肇淛(しやてうせい)が「五雜俎」に是の言れを載せて曰はく、『亦、盡(ことごと)く然(しか)らざる者、有り。』と。粤(ここ)に淸の王士禎が「池北偶談」を攷(かんが)ふれば、又、其の辯、有り。『丙午丁未は、古へより、以つて厄歲と爲す。陰陽家の云はく、「丙・丁、火(くわ)に屬す。午・未に遇ひて、盛んなり。故に、陰、極まれば、必ず、戰(あらそ)ふ。亢(こう)して悔ひ有るなり。」と。康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】、戸部尙書蘓納海・督撫尙書王登聯等、搆死(こうし)す。丁未の春、災祲(さいしん)、疊(しき)りに見ゆ。彗星、出づ。太白、晝、見ゆ。白眚(はくせい)、西北に出で、月餘を經(ふ)。是の歲七月、輔臣蘇克薩、誅死す。吾が友、程職、方(まさ)に謂ひて、「予、前史に載する所の丙・丁の災變・徵應を裒輯(ほふしふ)し、一書に爲(な)さんと欲す。頃(この)ごろ、宋の理宗淳祐中、柴望、上(あぐ)る所の「丙丁龜鑑」十卷を見るに、秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで、通して、一千二百六十載、中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一。備(つぶさ)に事實を摭(ひろひと)り、係(かか)るに、論斷を以つてす。元の至正中、又、續く「丙丁龜鑑」の者、有るを、宋・元事の闕(けつ)にて補ふ。前人、已に、此の二書、有り。當に考據すべし。故に、三百年中の事應、明かにし、以つて二の後に續く。」と。』と。

   *

『兪文豹「吹剱錄」』撰者は南宋の人であること以外は判らなかった。史料で、「外集」もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、元末明初の学者陶宗儀の漢籍叢書「説郛」の巻二十七PDF)の40コマ目右丁二行目で引用部が確認出来る。

『謝肇淛「五雜俎」』既出既注であるが、再掲すると、「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻一の「天部一」に、

   *

又「吹劍錄」載、丙午・丁未年、中國遇之必有災、然亦有不盡然者。卽、百六、陽九亦如是耳。

   *

とあるのを指す。これを含む一節全体は「中國哲學書電子化計劃」のこちらを見られたい。

『王士禎が「池北偶談」』清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。康煕四〇(一九〇一)年序。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。以下は、「談異一」の内の、巻二十にある「丙丁龜鑑」の条。「中國哲學書電子化計劃」の影印本の当該部が視認出来、これによって、最後までが、本書からの長い引用であることがわかる。則ち、思うに、この冒頭の漢文全体は、馬琴が引用に少し、言葉を添えて繋げたものと推定出来る。

「康煕丙午の冬【天朝、寬文六年。】」康煕五(一六六六)年。

「搆死す」「搆」は「引く・構える・組み立てる・計画する」の意であるが、まあ、死を迎えたの意でよかろう。本字は「構」にも通じ、「構」には「強いる」の意もあるので、帝君から「死を強いられた」と読むことも可能で、「そうであったかどうか、調べても判らんだろう」と思いつつも、試みてみたところが、図に当たった! 「維基文庫」の「清史稿 卷一百二十」の中の「田制」の条に、「戶部尙書蘓納海」と「督撫尙書王登聯」について(漢字表記が不統一なので正字化した)、

   *

戶部尙書蘇納海・總督朱昌祚・巡撫王登聯、咸、以不如指、罪至死。

   *

とあった。「咸」は「皆」の意で、「總督朱昌祚」は「池北偶談」ではカットされているから、「等」が腑に落ちるわけだ! あきらめんでよかった!

「災祲」(さいしん)「祲」の字は原義が「災いを起こす悪い気・不吉な気」で、他に「太陽の周りにかかる暈(かさ)」の意もある。後者は「ハロ」或いは「ヘイロウ現象」(halo)として知られる光学現象だが、中国では古代より、「白虹が太陽を貫く」ことは、恐るべき「兵乱・大乱の兆し」とされた。「白虹」(白い龍)は「干戈」を、「日」は「天子」を表わすとされる。

「疊(しき)りに」「馬琴雑記」の送り仮名と、「疊」の持つ意味から類推して訓じた。

「白眚(はくせい)」「黑眚」は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で述べたが、それ自体が幻獣であり、白黒(びゃくこく)の色とあり、そのアルビノと考えていいだろう。禍いを齎す悪獣である。以下の叙述から、それまでなかった位置に突如、現れ、一ヶ月以上消失しない、白い光を放つ星と読め、巨大なこちらに頭を向けた流星、或いは、超新星か?

「程職」不詳。

「裒輯(ほふしふ)」(ほうしゅう)は「集めること」及び「編集・集録すること」の意。

「宋の理宗淳祐中」「理宋」は南宋の第五代皇帝。「淳祐」は彼の治世の一二四一年~一二五二年の元号。

「柴望」(一二一二年~一二八〇年)は南宋の詩人。彼はこの「丙丁龜鑑」五巻(実に、秦の昭王五十二年丙午(紀元前二五五年)から、五代の後漢の天福十二年丁未(九四七年)までの丙午丁未の厄災・凶兆を拾い出したものらしい。「池北偶談」は十巻とするが、調べる限りでは五巻である)を淳祐六(一二四六)年に上表した結果、世に不安を広げるものとされ、獄に下っている。数年で出獄してようで、後には官職を得て、史料編纂などをやっているか。死の前年に南宋は滅び、元が建国したが、その招きには応じなかった(中文の「百度百科」の彼の記載を判らない乍らも参考にした。一部の不審な箇所は訂した)。

「秦の莊襄王五十二年丙午より、五季、後漢の天福十二年丁未まで」「莊襄王五十二年」は秦の第二十八代君主にして第三代の王である「昭襄王」の「池北偶談」の誤りと思われる。それでも「通して、一千二百六十載」というのはおかしく、数えで一千二百三年にしかならないのだが、記載通りの「莊襄王」では、昭襄王の次の次の代の王(紀元前二四九年~紀元前二四七年)で、更に閉区間年が短くなってしまう。前の「百度百科」での西暦記載を信ずることとする。

「中(うち)、丙午丁未と爲(な)るは、二十有一」計算すると、紀元前二五五年から紀元後九四七年の間のそれは確かに正確に孰れも二十一回である。

「摭(ひろひと)り」「拾ひ採り」。

「係(かか)るに、論斷を以つてす」それに「關はる」ところの各個的な厄災や凶兆とある事柄を確定し、「丙午丁未」の持つ災厄性に就いての論を展開している。

「元の至正中」元の順帝(恵宗:トゴン・テムル)の治世で用いられた元号。一三四一年 から一三七〇年まで。一三六八年、元が大都(現在の北京)を追われ、明が成立するが、後も、「北元」の元号として使用された。

「宋・元事」柴望以後の宋及び元の厄災などの事実。

「闕にて補ふ」欠けた部分として追加して補っている。

「此の二書」「丙丁龜鑑」及び「續丙丁龜鑑」(こちらは撰した人物は未詳のようである。一巻か。後補された年月では「丙午丁未」七回である)。

「三百年中」「池北偶談」の序は一九〇一年であるから、明の成立する一三六八年からは、五百三十三年も隔たるが、この一三六八年に三百を足すと、一六六八年になる。さて、大清帝国は一六一六年に満洲に最初に清として建国されたが、一六四四年に中国本土とモンゴル高原を支配する統一王朝となった(一九一二年滅亡)。王士禎は一六三四年生まれであるから、「池北偶談」出版の一九〇一年当時は満で五十七ほどである。この彼の友人である程職の言葉には、ある種の気負いがあって、もっと前の若さを感じる。例えば、これを三十年ばかり遡って二十代の王と程(同年代と考えてである)を考えてみる。すると、一八七一年頃となる。さて、そこで、大清帝国になってからの「丙午丁未」を、例えば、この一八七一年ま頃でで見ると、それでも、四度もあるのである。しかし、そうすると、「三百年中」の意味が齟齬する。それに拘って、これを一六四一年までに区切ったのだとすると、「丙午丁未」は、実は、ただ一度の一六六六年と一六六七年だけなのである。さすれば、これは単なる推理となるが、この程職なる人物は、実は、清代になってからの丙午丁未については、「丙丁龜鑑」で柴望が処罰されたことを鑑み、実は扱うのを憚ろうと思ったか、或いは、向後の中・長期的展望を待つとして災厄を特定するのはやめようとしたのではなかったろうか? と私は考えるのである。但し、程職の手になる「續々丙丁龜鑑」は書かれなかった、書けなかった、或いは程職はその後にその幻しの書の執筆を叶えることなく、白玉楼中の人となったのかも知れない。その思い出と彼への哀悼を籠めて、ここに長く彼の生の台詞を記したのではなかったか?……などと勝手な妄想をしてしまったのである。]

 

 解(とく)いはく、「天朝も、いにしへより、丙午丁未の年每に、さる、しるし、のこりけるにや。いまだ、考索にいとまなければ、見ぬ世の事は、姑(しばら)く措(お)きつ。

 只、予が親しく耳に聞き、目に見えしまゝをもてすれば、天明丙午の火災・洪水、丁未の饑饉[やぶちゃん注:底本は『饉饉』。「馬琴雑記」で訂した。]に、ますもの、なし。こは、遠からぬ世の事にて、五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり。まいて、今より後の人は、昔がたりに聞きながして、警(いまし)め愼むこゝろ、薄くば、遂に又、荒年の備へに[やぶちゃん注:底本に「備へに」なし。「馬琴雑記」で補った。]懈(おこた)ることもあるべし。この故に、只、見聞のまゝに記してもて、後生(こうせい)に示すのみ。しかれども、老邁(らうまい)[やぶちゃん注:老化が進んでいる状態を指す。]、よろづに遺忘(ゐばう)多くて、記憶の壯年に及びがたきを、いかゞはせん。かゝれば、漏らすも多かるべく、思ひたがへし事も、あるべし。

[やぶちゃん注:「五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の語說によるのみなり」天明六年丙午(一七八六年)と翌天明七年丁未は、この「兎園会」発会の文政八(一八二四)年十月二十三日からは、六十八、七年も前のこととなる。]

 抑(そもそも)、この歲の凶荒は、京の人、

「原氏が、「五穀無盡藏」とかいふものに、しるしつけたり。」

とは聞きしかど、予は、いまだ、その書を見ざりき。さばれ、只、その書には、諸國の米の價(あたひ)をのみ、をさをさ、しるしゝものと、なん。しからんには、予が編の、いと淺はかにて、疎鹵(そろ)[やぶちゃん注:おろそか。疎漏。粗略。]なるも、考據(かうきよ)の爲になるよし、あらんか。

 されど、乙巳のみな月には、わが身、失恃(しつじ)[やぶちゃん注:底本は「異特」。「馬琴雑記」を採った。自負心を損じること。]の憂あり。又、丙午の葉月には、仲兄、夭折せられたり。かく、うれはしく物がなしき折なりければ、世上の事を、只、よそにのみ聞き捨てゝ、書きつけおきしことはなきを、こゝに、はつかに思ひ出でゝ、その大かたを、しるすよしは、嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編にちなみて、なん。

[やぶちゃん注:『原氏が「五穀無盡藏」』「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍データセット」の書誌データによれば、版本は本篇の八年後の天保四(一八三三)年に京都で上原無休なる人物の著として板行されている。『飢饉に備えて豊作の時にも五穀を疎かにするべきではないと、重農主義の論を説いた書。用意すべき糧物や施行の仕方についても記されている』とある。「日本古典籍ビューア」のこちらで原本が画像で読める。ざっと見る限り、馬琴が貶すような瘦せたキワモノなんぞではない、しっかりしたものである

「乙巳のみな月には、わが身、異特の憂あり」「乙巳」天明五年乙巳。一七八五年。「失恃」の具体な内容は不明。丙午の前年。

「丙午」天明六年丙午。

「仲兄、夭折せられたり」次兄興春。ウィキの「曲亭馬琴」によれば、天明五(一七八五)年の母の臨終後に、『貧困の中で次兄が急死する』とある。天明六年なら、馬琴は数え二十であった。

「嚮(さき)に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編」第六集の山崎美成の発表の「奧州南部癸卯の荒饑」(本会の五回前の文政八(一八二四)年六月十三日発会の「兎園会」)を指す。]

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