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2021/10/11

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 立石村の立石

 

[やぶちゃん注:発表者は海棠庵。この石、現在も東京都葛飾区立石八丁目にある立石児童遊園内に存在する(グーグル・マップ・データ)。そのサイド・パネルで、葛飾区教育委員会のものと、東京都教育委員会による説明板の二種の解説が読める。現在は、同パネルを見る限り、小さな玉垣に囲まれた裸の地面から僅かに数センチメートル露出しているのが現認出来るだけであるが(祠はその背後に少し離れて建っている)、後者によれば、この周辺には複数の古墳が存在し、古墳時代に古墳の石室を作るのに持ちこまれたものと推定しており、しかし、実際にはそれに使用されず、ここが、墨田から市川の国府台(こうのだい)に通じていた古代の東海道の通過点附近であることから、転用されて道標として建てられたものと考えられているという解説が載る。そこでは江戸中期の愛石家木内石亭の「雲根志」の記載として、当時は高さは六十・六センチメートルはあったとあり、それが、磨り減った理由も懇切丁寧に書かれてあるのがいい(但し、私の偏愛する「雲根志」の巻之一全篇の「立石十七」には、正確には『南北三尺東西壹尺五六寸高さ地より六尺余出』とあるので、江戸中期の表出部分の大きさは相当にデカかった)。また、『電気通信大学山の会会報』の一九七九年入学の島田明氏のコラム記事(PDF・掲載誌発行日不詳)「葛飾立石散歩 -立石村の立石様って何?-」は、本篇を電子化された上、現代語訳を載せ、しかも、何んと! ここに出る「名主新右衞門」が、この筆者島田氏の先祖の一人だというのだから、驚きである。読み物として、とても面白い。なお、この際だから、「雲根志」の巻之一全篇の「立石十七」を電子化しておこう。読み易く句読点と記号を補った。

   *

     立石(たていし)十七

下總國葛飾郡立石村南蔵院の畑中にあり。其大さ南北三尺、東西壹尺五、六寸。高さ、地より六尺余(よ)出。「此石に、俗、供物して、諸願を祈るに、其しるしあり」と。此邊、里人(りじん)、云傳ふ。「此石、金輪際より生出(おひいで)て土際(つちぎは)より下へ大木(たいぼく)のごとき根あり」と。何(いづ)れの時にや、好事のもの、あつまり、『石の根を見ん』とて根をほりたるに、云傳ふごとく、黃色なる木の根のかたちなる石、土中(どちう)にはびこりたる、たちまち震動して、前後をしらず。手傳ふたるものども、大に病(やみ)たり。其後、此石を、うがち、せゝる事を、大にましむる、と。「州圖副記」の「承受石(せうじゆせき)」、是なり。

   *]

 

   ○立石村の立石

下總國葛飾郡立石村【龜有村の近村なり。】の元名主新右衞門が畑の中に、むかしより、高き壱尺計の丸き石、一つ、あり。近き比【年月未詳。】當時のあるじ新右衞門、相はかりて、「さまで、根入りもあるべくも見えず、この石なければ、耕作に便りよし。掘り出だし、のぞきなん。」とて、掘れども、掘れども、思ひの外に、根入り、深くて、その根を見ず。とかくして、日も暮れければ、「翌、又、掘るべし。」とて、その日は、止みぬ。翌日、ゆきて見れば、掘りしほど、石は、はるかに引き入りて、壱尺ばかり、出でゝあり。「こは、幸のことぞ。」とて、そがまゝ、埋みて、歸りぬ。又、その次の日、ゆきて見れば、石は、おのれと、拔け出でて、地上にあらはるゝこと、元の如し。こゝにおいて、且、驚き、且、あやしみ、その凡ならざるをしりて、やがて祠を石の上に建て、稻荷としてあがめまつれり、といふ【一說に、石のめぐりに、只、垣のみ、してあり、祠を建てたるにはあらず、とぞ。】。今も「石を見ん」と乞ふ人あれば、見するとなん。右新右衞門は木母寺境内にをる植木屋半右衞門が緣家にて、「詳に聞きし。」とて、半右衞門、かたりき。おもふに、この村に、この石あるをもて、古來、村の名におはせけん。猶、尋ぬべし。

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