曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 隅田川櫻餠
[やぶちゃん注:同じく輪池堂発表。]
○隅田川櫻餠
「去年甲申[やぶちゃん注:文政七年甲申。一八二四年。]一年の仕入高、櫻葉漬込卅壱樽【但し、一樽に凡二萬五千枚ほど入れ。】。葉數、〆、七拾七萬五千枚なり【但し、餠一つに葉弐枚づゝなり。】。此もち數、〆、卅八萬七千五百。一つの價、四錢づゝ、この代、〆、千五百五拾貫文なり。金に直し、弐百廿七兩壱分弐朱と四百五拾文【但し、六貫八百文の相場。】。この内、五拾兩、砂糖代に引き、年中平均して、一日の賣高、四貫三百五文三分づゝなり。」といへり。
[やぶちゃん注:隅田川左岸で、老舗として現在も営業している東京都墨田区向島にある「長命寺桜もち 山本や」(グーグル・マップ・データ。拡大されると判るが、正岡子規が第一高等中学校予科卒業した明治二一(一八八八)年に、この店の二階を「月光楼」と称して借り、一夏を過ごした(旧居の碑が同地内にある)。その折りの子規の作に、
向じま花さくころに來る人のひまなく物を思ひける哉
花の香を若葉にこめてかぐはしき櫻の餠家づとにせよ
葉櫻や昔の人と立咄
葉隱れに小さし夏の櫻餠
がある。一説に子規はこの店の娘「おろく」に淡い恋心を抱いたともされる)の記事である。ウィキの「長命寺桜もち」によれば、現在、同店の裏手にある天台宗宝寿山遍照院長命寺の門前で、享保二(一七一七)年に、創業者山本新六が、大川(隅田川)の隅田堤(現在の「墨堤通(ぼうていどう)り」)の土手の桜の葉を塩漬けにして、試みに「桜もち」を考案し、向島の長命寺の門前で売り出したのが始めで、その頃よりこの周辺は桜の名所で、花見時には、多くの人々が集い、桜もちが喜ばれた(同店の東北ごく直近に「墨堤植桜之碑」が建つ。サイド・パネルの解説版の画像をリンクさせておく)。サイト「江戸料理百選へようこそ!」内のシリーズ「江戸老舗探訪記」のバック・ナンバーの『~開かれた秘境への誘い~江戸老舗探訪記 その五「長命寺 桜もち 山本や」(東京・向島)』(福島朋子氏の取材・文)が非常によい(リンクはトップ・ページのみ可なので御自分で到達されたい)。そこに、若女将の語りから始まり(一部の行空けを詰めた)、
《引用開始》
「私どもの祖先に、長命寺の門番をしていた山本新六という者がおりました。この人、桜の季節は落ち葉の掃除に手を焼いたそうで、ふと思いついて桜の葉を塩漬けにいたしまして、薄い皮で餡を包んだものに巻いて売ったところ、大変な売れ行きだったとか」
これが、桜餅誕生の物語なのである。この新六氏、厄介ものを立派な商品に仕立てあげたのだから、その着眼点は見事! しかも廃品利用(今でいえばエコリサイクル!)なのだから頭が下がる。
その後、この桜餅はまたたく間に江戸のヒット商品となったわけなのだが、そのヒットぶりたるや恐れ入るほどのスケール。1825年(文政8年)に出された書物には[やぶちゃん注:これはこの「兎園小説」の輪池堂屋代弘賢の記事を指す。]当時の山本やで消費された桜の葉の数が記録されているが、そこには総数31樽とある。1樽につき約2万5千枚が入るというから、合計で77万5千枚ということになる。山本やの「桜もち」は当時1つの餅に対して2枚の桜の葉が使われていたことから、なんと38万個余りの桜餅が江戸庶民の腹の中に消えていった計算になる。いくら当時の江戸が世界一の人口過密都市だとはいえ[やぶちゃん注:江戸の町方並びに寺社門前の人口はウィキの「江戸の人口」によれば、文政五(一八二二)年で五十二万七百九十三人、文政十一年で五十二万七千二百九十三人である。]、驚きの数。いかに長命寺・山本やの「桜もち」が江戸の人々に熱狂的な支持を受けていたかがわかるというものだ。[やぶちゃん注:中略。]
かの正岡子規も愛したという山本やの「桜もち」。一時期、山本やの2階を「月光楼」と称して一夏を過ごしたことから、子規の作品には桜餅にまつわる詩が多く残されている。
「花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅家づとにせよ」
それにしても、葉が大きい! これがおいしさの秘密なのだ。
■ これでもか! という秘伝の葉包み!
では、江戸の時代に爆発的に愛された噂の桜餅をいただいてみることにしよう。まず、桜餅を目の前にして驚くのが、餅を覆った桜の葉の大きさ、そしてぐるりと3枚の葉で餅を完全に取り囲んだその外見だ。通常、桜餅は1つの餅に対して1枚の桜の葉が使われている。したがって、餅の地肌が見えていてるのが普通なのだが、この「桜もち」は一見、中に何が入っているのかわからない。とにかく桜の葉の印象が強烈なのだ。
そこで、ふと疑問がわく。果たしてこの桜餅、葉はよけて食べるものなのだろうか? 贅沢にも3枚もあるから、1枚を残し餅と一緒に口に運ぶものなのだろうか? 躊躇していると
「私どもの『桜もち』は、葉はすべてよけて、中の餅をご賞味ください」ときっぱり若女将が疑問に答えてくれた。
「桜餅の葉というのは、餅にその香りを移すという役割もありますが、餅の乾きを抑えてしっとりやわらかな口当たりを楽しんでいただくためのものでもあるのです。そのため、江戸の当時は2枚の葉で餅をくるんでいたといわれていますが、今現在は、しっかりと餅をくるめるよう、葉の大きさにより2枚、3枚と桜の葉の枚数を変えております」
なるほど、山本やのこだわりは、この大ぶりの桜の葉にあったのだ。当然、店の前にある隅田川の見事な桜並木の葉を利用しているのかと思ったが、実は現在では西伊豆産の大島桜の葉を利用しているという。というのも、桜の葉は塩漬けすることでクマリンという成分が生まれ、それによりあの独特な香りを醸し出すようになる。そのクマリンを多く出すのが「大島桜」なのだそうだ。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
なお、ウィキでもこの「兎園小説」の本篇のデータを上記引用を元に転用している。なお、示された金額を現代の円の価値換算をしようと思ったが、可憐な桜餅に如何にも無粋なれば、やめた。なお、自死の二ヶ月前の昭和二(一九二七)年五月、芥川龍之介が『東京日日新聞』夕刊に連載した「本所兩國」(リンク先は私の古いサイト版)の『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の冒頭にも、ここの桜餅が出てくる。
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僕等はその時にどこへ行つたのか、兎に角伯母だけは長命寺の櫻餠を一籠膝にしてゐた。すると男女の客が二人、僕等の顏を尻目にかけながら、「何か匂ひますね」「うん、糞臭いな」などと話しはじめた。長命寺の櫻餠を糞臭いとは、――僕は未だに生意氣にもこの二人を田舍者めと輕蔑したことを覺えてゐる。長命寺にも震災以來一度も足を入れたことはない。それから長命寺の櫻餠は、――勿論今でも昔のやうに評判の善いことは確(たしか)である。しかし饀や皮にあつた野趣だけはいつか失はれてしまつた。……
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と記している。]