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2021/10/03

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 本所石原の石像

 

   ○本所石原の石像    龍 珠 館

本所石原多田の藥師の前、石工の家にある、上下着たる男子と、「かいどり」着たる婦人の石像は、十萬坪を初めて開きたる者に、千田庄兵衞といへるあり、家、富みて十萬坪一圓に、おのれが有となし、奴婢、數十人つかひ、錢を鑄ることなど、司れり。其、盛なりしは、凡、寶曆の頃にやとおもはる。庄兵衞、總領の男子【名は聞不及。】に妻をむかへて、兩人ともに死す。其像を石にて作りたるなり。次男も後に庄兵衞と名乘たり。其次は女子にて名を「ゑん」といふ。親庄兵衞、庄十郞といへるものを「ゑん」へ聟養子とし、後の庄兵衞は、庄十郞の妹の淸といへるを妻として、家を二つに分けたり。後には共に落魄して、後の庄兵衞は出家し、庄十郞は竹本濱太夫といふ義太夫かたりとなる。今は其家、遺橛なし。元祖庄兵衞は、石像今も猶十萬坪に存す。おくもりたる松樹の中に小堂あり。座像にて頭にガソドウ頭巾を着、袴羽織に手に扇を特ち、脇差を帶びたる形なり。所の者は「ゴヱイ堂」といふ。

[やぶちゃん注:「本所石原多田の藥師」当時は本所番場町(現在の東京都墨田区東駒形。グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあり(切絵図と照合すると、隅田川左岸に接するこの中央附近)、現在は東京都葛飾区東金町に移っている薬師三尊像を本尊とする天台宗玉嶋山明星院東江寺。「多田薬師」の呼称で今も知られる。当該ウィキによれば、天正一一(一五八三)年に『隆海によって開山された』。大正一二(一九二三)年の『関東大震災で罹災し』、昭和三(一九二八)年に『現在地に移転した』。『本尊の薬師如来は、恵心僧都源信の作とされ、源満仲(多田満仲)の持念仏といわれている』。『源満仲は領地の摂津国多田荘(現・兵庫県川西市付近)に「石峰寺」を建立し、薬師如来像を安置した。しかし、その後の戦乱で焼け出され』、『各地を転々とした後、最終的に東江寺に安置されることになった。この逸話から、この薬師如来像は「多田の薬師」として崇敬されるようになった』とある。

「かいどり」「搔取」。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げることを言うが、そのようにして着用するところから打掛小袖のことを指す。近世の慣例としては武家の婦人用は「打掛」、公家の婦人用を「掻取」と称した。

「千田庄兵衞」いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の江東区千田にある「宇迦八幡宮」の解説(「江東区の民俗深川編」による宇迦八幡宮の由緒)によれば、享保年間(一七一六年~一七三六年)に、近江の商人千田庄兵衛が江戸にやってきて、海辺の葦が茂る、この周辺に湿地帯の開拓を徳川吉宗に願い出て、三年掛かりで村作りをなし、彼の名をとって「千田新田」と名付けられ、寛政九(一七九七)年には村全体が一橋家の領地となったので、「一橋領十万坪」とも称した。千田庄兵衛は、この地に社殿を造り、「千田稲荷神社」と称し、土地の産土神として崇めた。たまたま、土地の穀物が実らず、この神社に祈願したところ、神霊のお告げにより、穀物に代わる片栗を栽培し、飢餓を救ったという伝承があり、別に「片栗八幡宮」とも称したとある(宇迦八幡宮社頭碑「由緒」)。『戦前までは千田稲荷神社と称していたが、戦後、改名要求が高まり、奉賛会が協議の末、宇迦八幡宮と定め』、昭和二九(一九五四)年に神社庁に認められた、とある。千田庄兵衛よ! 君の文字通りの地道な努力の遺徳は、柱や杭どころか、名前まで消されて忘れ去られている! 宇迦八幡宮の位置はここである。安政四(一八五七)年の安藤(歌川)広重の「名所江戸百景」の素敵な文字通りの鳥瞰の図「深川洲崎十万坪」が国立国会図書館の「錦絵で楽しむ江戸の名所」のこちらで見られる。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。当発表は文政八(一八二五)年八月。

「遺橛」「橛」は「門」や「杭・柱」の意で、そうした屋敷の遺構さえも跡形もないことを意味していよう。

「ガンドウ頭巾」「强盜頭巾」で「がんだうづきん」が正しい。頭・顔全体を包み隠し、目だけを出すようにした頭巾のこと。

「ゴヱイ堂」表記が気になるものの、「御影堂」であろう。なお、この夫婦の石像は現存しないようである。]

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