ブログ・アクセス1,610,000突破記念 梅崎春生 ピンポンと日蝕
[やぶちゃん注:初出は昭和二五(一九五〇)年一月号『新潮』で、後の短編集「黒い花」(同年十一月・月曜書房刊)に収録された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。
本作では主人公の日記が引用されるのだが、その部分は全体が一字下げで示されてある。ブログでは、そうした字下げが上手くいかないので(やれるんだろうが、やる気が起きない)、その引用部分を太字で示すことにした。
文中にオリジナルに注を挿入した。若干、梅崎春生の実体験の事実と齟齬する部分があるのを指摘してある。五月蠅いかも知れない。だったら、私の注は取り敢えず飛ばして読んで、読み終わってから、やおら、注を読まれたい。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日深夜、1,610,000アクセスを突破した記念として公開する。ここのところ、夜には作業をせず、酒も切り上げて、驚くべき早い時間(へたをすると八時頃)に就寝することが多く(その代わりに朝は未明に起き、すっきりとした意識の中で作業に入れる)、今朝も、昨日に続きのテクスト注を完成することのみ気に掛かって、アクセス突破にずっと気づかず、記念テクスト公開が、ここまで遅れた。【2021年10月20日 藪野直史】]
ピンポンと日蝕
その頃はつまり、こんなことをしていた。行軍将棋というやつに夢中になって、下宿の親爺を相手に毎晩指してみたり、探偵小説に凝(こ)るとなると、貸本屋から次々借りてきて、丹念な犯人容疑者のリストを作ってみたり。とにかく情熱の発し方が、常套ではなかった。ひとつのことに、ひどく偏執する傾きが出てきていた。その癖ふとしたはずみに、それが厭になると、徹底的に厭になった。思い出すのさえ、厭で厭でたまらなかった。子供の頃の偏食の結果が、今どきこんな妙な形として出てきたのだと、私は半ば本気で考えていた。何しろ、困ったことだ。時計の分解につよい興味をもって、夜中に下宿の大時計をそっと外(はず)してきて、情熱をこめて完全に分解し、こんどは元通りに組立てが出来なくて、一晩中大弱りに弱ったこともあった。[やぶちゃん注:「行軍将棋」軍人将棋のこと。]
どういうものか、生産的なことには、一向興味が湧かなくなっていた。自分の精神や肉休を浪費したり虐使したり、そんなことだけの生甲斐を私は覚えていた。そして私は私の貧しさや弱さをも、うすうすと感じ始めていた。それはそれは、いろんな意味をふくめた、こみ入った形として。
ピンポン。こんな他愛のない競技をも、ある日突然好きになったような気がする。その動機は今は忘れた。幸か不幸か私の勤め先には、古ぼけたピンポン台が一台備えてあって、やるとなると、執務時間でも仕事をすっぽかして、私は給仕や同僚を相手にして、球を打ち合ったりした。課には好きなのが三四人はいた。そんな無茶をやっても、クビになるおそれはなかった。なにしろ戦争中で、だんだん人手がなくなって行く頃だったから。仕事の成績はあまり問わず、員数のことばかりに汲々(きゅうきゅう)としている役所だったから。そしてこの私ですらも、この課にとっては、重要な人的資源のひとつであったのだから。人が一人減るということは、課の勢力がそれだけ減るということであった。そしてその補充はほとんどつかなかった。だから上司はにがい顔はしても、私たちを追い出す訳にはいかなかったのだ。もともと気は弱いくせに、そんな条件を、私は最大に利用していた。
こんな妙な職場が、あの頃にはあちこちにあっただろう。戦争がおそらくそんな妙な状態を作ったのだろう。私がいたのは、教育を司(つかさど)る役所であった。近頃評判になった、庶務課長を殴ったというあの可笑(おか)しな教育委員長が、その頃私の役所の局長補佐か何かをやっていたと思う。その頃あの男は、酷薄な顔付きをした、策士型の紳士だったようだ。今はどうだか知らないけれど。[やぶちゃん注:事実である。梅崎春生は昭和一五(一九四〇)年三月(満二十五歳)に東京帝大文学部国文学科を卒業後(卒論は「森鷗外」(八十枚))、東京都教育局教育研究所に勤務していた(昭和一七(一九四二)年一月の一回目の召集で対馬重砲隊に入隊するも、気管支カタルを肺疾患と判断されて即時帰郷となって療養生活をしたのを挟みつつ、昭和一九(一九四四)年の三月頃まで)。]
こうして私はまことにピンポンが上手になった。街を歩いていても、掌がひとりでにバットを握る形になっていたりする程、私はピンポンに中毒していた。これで上手にならない訳がない。私は左利(き)きであったし、運動神経も人並み以上に発達していたし、人の盲点をつく才能もあったし、それに手も長かった。ピンポンには、うってつけの条件がそろっていた。こんな条件は、掏摸(すり)にも適するようである。ピンポンと掏摸とは、どこか似たところがあるのだろうと思う。ピンポンの専門家には悪いけれども。
課の連中同士でやっていても仕方がないというので、ひとつ大会に出て見ようじゃないか、ということになった。私が言い出した訳じゃない。ひとりでにそうなったのだ。私はそんなお祭り騒ぎは、昔から好きではなかった。今でも全く好きではない。つい出場する気持になった経過は、その頃の古い日記帳を開いても、どこにも書いてないようだ。いきなりその日のことだけが書いてある。
『九月二十一日。日曜日
七時に起きた。寝不足で、すこし頭も痛いし、痔(じ)の具合もよろしくない。朝食を済ませて外に出た(朝食。ワカメの味噌汁、海苔(のり)のツクダ煮、小魚の干物。沢庵(たくあん)。評点六点五分)。今目は、築地国民学校で、市区職員の卓球大会が開かれるのである。空の色がきれいであった。膜のような薄い雲を含んで、もはや秋の空のかたちである。休日で静かな本郷の下宿屋街の路地々々に、あかるい光がさんさんと入っていた。太陽は黝(くろ)い屋並の果てに懸っていた。あの太陽が、今日虧(か)けるのだなと思った。ふとそう思っただけで、特別の関心はなかった。煙草を吸いながら、正門前の方角にゆっくり歩いた。――』[やぶちゃん注:日食の記事によって、この日記が昭和一六(一九四一)年九月二十一日(日曜日)の日記であることが判る。この日、日本(当時の日本統治下の台湾・アメリカ領北マリアナ諸島・マーシャル諸島の一部を含む)・ソ連・中国で日食(一部で皆既日食)が観測された。日本では先島諸島に月の本影が懸かり、石垣島・西表島・与那国島で皆既日食が見られ、島の南部を中心線が通った石垣島では、皆既状態が三分以上も継続したという。真珠湾攻撃の二ヶ月半余り前のことである。]
路地から歩み出る二十六歳の自分の姿を、私は今でもありありと思い出せる。その内側に入りこんでではなく、今は外側から眺めた感じとして。独身の下宿住いだから、手入れもろくに行き届かぬくたびれた背広を着て、明るい光の中をそろそろと動いてゆくのだ。痔のために、幾分辛そうな足どりで。また眉根をちょっと寄せたまま。
この日から半年余り前になるかしら。私は召集を受け、対馬要塞の重砲隊に呼び出され、この病気のために即日帰郷となっていた。あの寒い吹きさらしの検査場。裸になると、どんなに歯を食いしばっていても、がたがたと顫えがくるのだ。都会生活者の私のやせた尻は、毛穴が青黒くぶつぶつと開き、患部は冷えて赤く垂れた。よつん這いになって無抵抗な私の患部にたいし、中年の頑丈な衛生下士官が、言葉と手指で、最大限の罵りと侮辱を加えた。即日帰郷の恩典を得る代償みたいに、若い私はひどく侮辱され、また殴打されたりした。即日帰郷になって後もしばしば、彼等が侮辱を加えたのは、私の患部に対してであって、私の精神に対してではない、と考えたりしたが、そう思いこもうと努力する反面のぼんやりした恐怖と憤怒(ふんぬ)がは、はっきりした形をなさないまま、私の全身ににぶく滲んでいた。この気持を、私は誰にもしゃべろうと思わなかった。うっかりしゃべると、非国民だと言われそうだったから。で、即日帰郷になったことについても、その当座は、肩身が狭いという表情を、無理にでも作っていなければならなかった。そういうことには、私はぬかりはなかった。[やぶちゃん注:年齢は正しいが、先に示した通り、梅崎春生に一回目の召集があったのは、この翌年の昭和七(一九四二)年一月のことであり、事実とは齟齬する。後の展開上の操作である。]
そんな痔であるから、仲々なおらない。薬を買ってつけることも、ろくにやらないようである。痛む時は、眉をしかめて歩くだけ。しかしその頃、肉休の一部が壊れているという自覚は、生きている感じを妙に強く私にもたせていた。ピンポンや探偵小説などに、自分のすべてを浪費したい衝動、そこに生甲斐をかんじる気持のからくりにも、それはどこかで繋がっていたようだが。[やぶちゃん注:既に注した通り。痔で即日帰郷は真っ赤な噓の創作。]
とにかくこのような私は、正門前で市電に乗る。
『尾張町で乗り換え、八時半に築地についた。講堂に卓球台を四台置いて、もう七、八人の男たちが練習を始めていた。課からの出場選手は、まだ来ていない。私はすみっこの平均台に低く腰をおろして、皆の練習を眺めた。広い講堂に、激しく打ち合う球の音や、跫音(あしおと)や、話声が、高い天井や硝子(ガラス)窓にそうぞうしく反響した。変に神経をいらだたせる雰囲気があった。
買ってきた朝刊を読もうとして、電車に置き忘れたことに気がついた。窓からさしこむ光が微塵をうかべている。その微塵をゆるがして、外れ球を慌だしく拾いにくる。すみっこにいる私の足もとにも、白い球は生き物のように弾んでころがってくる。私のすぐ近くで、試合の支度をしている男。その脱ぎすてたシャツにただよう、家畜のような体臭。遠くでは、不自然にはしゃいで、気取った球の打ち方をする若者たち。下駄穿(ば)きのままで平気な顔で、講堂に入ってくる給仕風(ふう)の少年。
そんなような情景を、ぼんやりと目に入れるともなく入れながら、ここに来たことを後悔する気持が、かすかに胸に起伏し始めるのを私は感じた。馴染(なじ)めないこの厭な雰囲気が、私の心を硬くした。暫くしてAが来、そしてOが来た。同じように講堂の入口に立ち止って、ぐるりと場内を見渡し、すみっこにいる私を認めて近づいてきた。ただ言葉すくなく、やあ、やあ、とあいさつした。
試合はなかなか始まらなかった。私たちも少し練習しておこうと思って、それぞれ用意をした。四台ならんだ一番端の台に行った。そこでは練習試合をやっていた。顔が魚に似た反歯(そっぱ)の若い男が、カウントをとっていた。私はその男に近づいて、こちらも練習したいから、台を半分貸して呉れ、と頼みこんだ。
その男は、ちらと私たちの顔を見たが、すぐ視線をゲームに戻して、返事もしなかった。一ゲームが終ると、すぐ自分が代って入り、球を打ち合い始めた。私達は佇立(ちょりつ)して、その男の顔を眺めていた。その男は、明かに私たちの視線をさけて、意識した厭なわらい声を立てながら、球を打ちかえしていた。球がくる度に足を大袈裟(おおげさ)にばたばたと床にたたく、みにくい滑稽なプレイ振りであったけれども、その甲(かん)高いわらい声に、聞いても身がすくみそうな、いやな響きがあった。私は、自分の不快さを確かめるような気持で、AとOの横顔をぬすみ見ていた。
そのうちに、定刻にずいぶんおくれて、開会式が始まった。委員長というぼんやりした顔付きの男の、要領を得ない開会の辞があった。そして整然と並んでいた人々の列が、騒然とくずれたと思うと、練習しているのか試合しているのかわからない状態の中で、もう試合が始まったらしい。カウントをとる鋭い声が、あちらこちらで聞え出した。
組合せの関係で、私たちは不戦一勝となっていた。長い間待たせられた揚句(あげく)、十一時過ぎになって、私達はやっと試合をすることになった。相手は市立のどこかの病院の医局である。相手はすでに一回戦を勝ち残ってきていた。その試合振りを見ても、彼等の技倆は私たちより遙かにすぐれているのが判った。一番先にAが出た。次にOが出た。私は台に近づかず、講堂のすみっこに立ち、遠く試合を眺めていた。相手の病院からは、応援が何人も来ていた。AやOがしくじるたびに、激しい拍手や声援が起った。若いAやOの姿は、毛をむしられた鶏のように傷ましく、台側をあたふたと動いていた。肉親のものが群集の中でいじめられている、それを見る気持にも似ていた。試合は三人制だから、AもOも負ければ、私は出なくてすむ。その事が瞬間、私の頭をかすめた。出なくても、済むように。――台の周囲から激しい拍手がおこる度に、私は気弱く試合から眼を外(そ)らしていた』
『私たちは、校庭で足を洗って外に出た。尾張町の方にむかって歩きながら、皆いつもより少し饒舌(じょうぜつ)になっていた。自分らの敗因や、相手の特徴について話し合いながら歩いた。その話し方も、お互いをいたわり合うといった気持で支えられ、一人が何かを言い出すと、あとがあわててそれに賛成するという風な会話であった。しばらくしゃべりながら歩いている中に、この共通な敗北感につらぬかれた親近な感じが、ふっと私に厭なものに思われてきた。私は歩度をおとし、何となく空を見上げた。雲が出ていた。その濃淡の雲の層を縫って、太陽が動いている。――
銀座に出て、ブラジルで三人が珈琲(コーヒー)をすするとき、日が虧(か)け始める時刻がきたらしい。給仕女たちは、黒くいぶした硝子をもって、店を出たり入ったりして、落着かない風(ふう)であった。
「戦争に行っても、今日のことは思いだすだろうな」
若いAがぽつんと言った。Aも四、五日前召集今状がきて、明後日出発することになっていた。
「忘れてしまえよ」
とOが即座に答えた、どんな意味だかよく判らなかった。それから召集のことをちょっと話し合った。私が経験者だというので、Aは私にいろんなことを聞きたがった。しかし即日帰郷だから、私も軍隊の内部のことは、何も知らない。
「皆がやる通りやればいいんだよ」
などと私はこたえた。大人ぶった顔をしてるのが、自分でも感じられた。そのうちにAは、心細そうにだまってしまった。店の表では、空を仰いでいる男女の姿が見える。話はしぜんと日蝕のことにうつっていた。
「この前の日蝕の日のことを、君は覚えているか?」』
この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである。雲が厚くて、ときどき小雨を落している日であった。その頃の私には、まだ健康な好奇心があった。日蝕が見られないことが、ひどく残念で、取りかえしのつかぬ事のような気がした。私は大学生であった。その日も制服制帽をつけ、学校の構内を横切り、改築前のだだっ広い本郷座に、映画を見に行った。その映画は、私の記億に間違いなければ、あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画であった。見終って外に出て、マリネロという妙な名の喫茶店で、ひとりで熱い茶を飲んだ。そこの給仕女に、私は少しばかり参っていたのである。その日その女は、なぜか店を休んでいた。茶を飲みながらも、映画で聞いたマルタエガルトの声が、いつまでも私の頭のすみに残って、響きつづけるのを感じた。喫茶店を出て、本郷の街をあるきながら、厚い雲の層の彼方で、今壊れかけている太陽のことを私は思った。そして、青春のいろどりとでも言ったようなものが、この自分を包んでいることを、私はぼんやりと感じた。その感じを私は、昨日のことのようにはっきり思い出せるのだが。――[やぶちゃん注:「この前の日蝕の日は、たしか昭和十一年の六月のことである」一九三六年六月十九日の日食である。この二ヶ月前の四月、春生(満二十一)は東京帝大に入学しており、親友霜多正次らと同人誌『寄港地』を発刊した月でもある(創刊号に春生は名篇「地図」(リンク先は私のサイトのPDF縦書版)を発表している。しかし、同誌は二号で廃刊となった)。「学校の構内を横切り」春生は自身で留年した一年を含め、殆んど講義には出なかった。「本郷座」当時は松竹の映画館。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。『あるイタリアの作曲家の一生を描いた「おもかげ」という映画』カルミネ・ガローネ(Carmine Gallone)監督のミュージカル映画「おもかげ」(Casta Diva :「カスタ・ディーヴァ」=「清らかな女神よ」)。イタリアのシチリア島生まれの作曲家で主としてオペラの作曲家として知られたヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメロ・フランチェスコ・ベッリーニ(Vincenzo Salvatore Carmelo Francesco Bellini 一八〇一年~一八三五年:パリ近郊で没)を主人公としたフィクション。原題はベッリーニ作曲の一八三一年初演の全二幕からなるオペラ「ノルマ」(Norma )のソプラノのアリアに基づく。「マルタエガルト」「おもかげ」の主演女優マルタ・エゲルト(Marta Eggerth:本名Eggerth Márta(エッゲルト・マールタ) 一九一二年~二〇一三年)。ハンガリー出身の女優・歌手。彼女はシューベルトを主人公としたオーストリア映画の名作である、ウィリー・フォルスト(Willi Forst)監督の「未完成交響楽」(Leise flehen meine Lieder :一九三三年)で、一躍、有名になった。]
『ブラジルを出て、二人に別れた。
太陽はぎらぎら輝きながら、薄い雲の周辺にあった。眩しいので、形ははっきり判らない。私は銀座四丁目から、電車に乗った。入口のところに立って、外を眺めていた。
道では、店々から出て来た男や女が、それぞれの形の硝子を黒く塗って、しきりに空を眺めていた。そして電車がある停留場にとまった。
路地があった。その入口のところに石があって、若い、十七、八のせむしの女がそれに腰を掛け、小さな硝子片をかざして太陽を眺めていた。少し仰向いた姿勢のために、背中の隆起がなお大きく見えた。そのままで動かない女の姿勢を、かたわらに五つ位の着物を着た男の児が立っていて、鋭い眼付きでながめていた。それは好奇の眼付きであったかどうかは、私にはとっさには判らなかった。そして電車が動き出した。
「何故あんな眼付きをしていたのだろう」私は、吊革に下ったまま、そう考えた。電車は轟々(ごうごう)と反響を立てながら、壊れた太陽の下を走って行った』
『佗(わび)しい一膳飯屋で、塩辛い魚の煮付と、大根おろしで、貧しい昼食をたべた。紅がらの剝(は)げた樽(たる)が腰掛けの代りになっているのである。お茶を何杯も代えて飲んだ。
客は私一人であった。飯屋の少女がわざわざ私の為に熱い茶の代りと一緒に、すすを塗った硝子を持って来て呉れた。私は外に出てそれをかざした。
――硝子を通した空は暗くて、太陽の色は血のように赤かった。その斜下の部分が三分の一ばかり虧(か)けていた。薄黝(ぐろ)い雲の影が日の面をゆるやかに動いて、太陽は虚しい速度で廻転しているように見えた。寝不足の瞼(まぶた)に、血のような陽の色がちかちかとしみ込んで来た。
硝子をかえして、私は街を歩いた。どこというあてはなかった。そのうちに小さな映画館の前に出た。私は、絵看板の前に立って長い間見ていた。
私はぼんやりと見てたんだと思う。三分ぐらい経って始めて、その絵看板が映画「おもかげ」のそれであることに気がついた。その偶然におどろくよりは、先ず不吉に似た感じが私に来た。私は思わず四辺をふりかえった。へんてつもない白日の街が、そこにひろがっていた。
やがて私は決心して、切符を買い求めた。入って見ると、館内は満員であった。
そうだ、今日は日曜だったんだなと、初めて気が付いた。廊下にまで人があふれていて、仕方がないから私は喫煙室に行って腰をおろした。疲労が私の肩に、その時重苦しくのしかかって来た。真昼間に映画館などに入っている自分の姿が、何か歯ぎしりでもしたくなるほど腹が立って来た。
私は煙草に火を点けた。それを待っていたかのように、喫煙室のすみにいた私くらいの若い男がにじり寄って来た。
「済みませんがお火をひとつ――」
私は、黙ったまま身動きもしなかった。徹底的に黙殺したらどんなものだろう。そういう残酷な興味が私をそそった。私は意地悪く聞えないふりを装っていた。
「済みませんが、火を――」
手を伸ばして、私の煙草に指をかけようとした。私は身を引いて、相手の顔を見た。丸顔のその男の顔に、血がのぼって来るのがわかった。
「――貸さないのですか」
男は、のしかかるように私にせまった。私は心弱くもうっかりと、煙草を渡してしまっていた。ふん、と言った表情で、男は自分の煙草に火を点けたと思ったら、いきなり私の煙草を灰皿の中に投げ込んで、肩を怒らせるような歩き方で出て行った。
激しい憤怒をじっと押ししずめて、私は新しい煙草に火をつけた。舌がざらざらになっていて、不味(まず)かった。私は点けたばかりの煙草を捨てて客席の方に出て行った。
人々の肩ごしに、灰色に動くスクリーンの人影を見たとき、そしてマルタエガルトの歌声を聞いたとき、不意に瞼を焼くような熱い涙が二粒三粒私の目から流れ出た』
そして私は路地奥の下宿に戻ってくる。痔が痛い。北向きのうす暗い部屋に坐って、ぼんやりしている。何もすることがない。日曜日の夕方の憂鬱が、だんだん強まってくる予感がある。
夕風が屋根瓦をこすって吹きすぎる音がする。この部屋の真上で、夕方の衰えた光をふくんで、屋根瓦がくろぐろと鎮(しず)もっているありさまを、私はぼんやりと思い浮べている。そしてこの屋根の果てるところに、いかめしい顔の鬼瓦が、必死の表情で傾斜を支えている姿を、私は眼に描いている。このような夕方も、誰も起きていない夜々も、月の夜も、雨の朝も、その鬼瓦はその位置でうごかない。表情も動かさない。ただ必死にしがみついているだけだ。そんなことを、私は考えている。突然私はたまらない感じになって、立ち上る。部屋をうろうろ歩き廻り、帽子をかぶって、部屋を飛び出す。
『夕焼の色が次第に褪(あ)せはじめた険しい坂路を、私は蹌踉(そうろう)と餌差町の方に下りて行った。
通りすがりの果物屋で、私は、一番上等の梨を一箇買った。それを弄(もてあそ)びながら、大通りから入った暗い通りにある居酒屋ののれんを肩で分けて入って行った。腰をおろして、お酒を註文した。
私は独りで飲むことは少ないが、それでも月に一、二回は此の居酒屋で一人でのんだ。肩を張らない此処の雰囲気が、不思議に私をひきつけるのである。汚れた卓子に梨を置いて、分厚なコップから熱い酒を飲んだ。かけた皿から蚕豆(そらまめ)をつまんで、皮を土間にはき出した。そして、またお代りのお酒を注文した。
酒を飲んだ翌朝は、御飯が不味(まず)くて食えないから、その時のために買った梨であった。
酔ってくるにつれて、そうした素面(しらふ)の時の周到さが次第に哀しいものに思われて来だした。私は頰杖を突いたまま、眼を据(す)えてあれやこれやと考えていた。今日一日の出来事が、何か遠く遙かなものに思われた。それと同時に、場末の居酒屋で独り酒を飲んでいる自分の姿が、妙にたよりなく惨(みじ)めなものに思われて来た。
やがて私は今日の日蝕のことを考えていた。黒い硝子を通して血のように赤く、下辺を脱落させた太陽の形を思い出していた。しかしあの壊れた太陽が、今の私とどんな関係があるのだろう。どこで結び合えばいいのだろう。この疑間はなにか孤絶した感じを、私の胸に運んできた。そして私はAのことを考え、ピンポンのことを考えていた。あのAは今から戦地に行って、自分が言ったように、この日蝕の日のことを、どんな形で思い出せるのだろう?
「もうピンポンも、今日でおしまいだな」
と私は口に出して呟いた。明日からもうピンポンが、徹底的に嫌いになるだろうという予感は、確かな動かしがたい形で胸にあった。私は卓の下で、そっとバットを握る手付きをこしらえてみた。情緒の変化をはかってみるもののように、オナニイの後のような鈍重な不快感が、私にたちまち落ちてきた。私はあわてて、掌をひらいた。そしてまた卓をたたいて新しいお酒を注文した。
「また別に溺れるものを、おれはやがて見つけるだろう」
感傷的になってくるのが、自分でも判った。感傷的になることで、酔いを充分廻らせるのが、独りで飲むときの私の方法であった。私は感傷をそだてようとした。そして自らたくらんだ何時ものコースに、今夜もうまく乗れそうであった』
『もはや数杯のコップを並べていた。意識がへんにこじれて、それが酔いの頂点にまで達しているようであった。もう頭や手足がすっかり酔っているくせに、極度につめたいところがどこかに残っていて、コップを目に持ってゆく手付きや、飲みほす時の表情などを、じっと見守っているようであった。私はおもむろに掌で内ポケットを触った。明日開かれる役所の会合の金を、私はあずかっていた。今それがここにある。今夜費消しても、明日給料を貰うから、それで埋めればいい。その考えが突然、強く私の心をこすった。――今行けば、まだ間に合う。狭い路地の窓々に、女の顔が花のように咲いている。美しく醜い色情のさまざまな思い出。
(この瞬間を、私は酔いの始めから待っていた!)
これと同じ場面。居酒屋の親爺の今の姿勢、ものうげに動いている時計の振子、油じみた卓子、きらきら光るこぼれ酒、そしてコップを握る私の手付き、――この瞬間の風景が、そっくりこの前の時の、またその前々の、繰り返し繰り返しの過去の幻像と、ぴったり重なり合った。そして同じ形で、いま私が腰掛けから立ち上ろうとする。……
よろめきながら、金をはらって、外に出た。ポケットの梨が、つめたく手に触れた。暗い道が、それに続いた』
昭和十×年九月二十一日の日記は、これで終っている。暗い道がそれから、どこへ、何時まで、続いて行ったのか私は知らない。記憶にもない。おそらくは、長い長い距離を、数箇年の間。
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