曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第八集) 鑿井出火
[やぶちゃん注:「鑿井」(さくせい)は地下水を人用に得るために地中深く穴を掘り下げて井戸を掘ることであるが、以下、その地理を見て戴ければ判る通り、水脈に当たったものの、石油由来の天然ガスを含んだそれを掘り当ててしまった結果、「出火」と相成ったのである。「燃える水」としての石油の存在自体は、非常に古くから認知されており。「日本書紀」の天智天皇七(六六八)年の『秋七月』の条に、『又、越國獻燃土與燃水』という記載が既にある(これは現在の新潟県胎内市下館の黒川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)から産したものとされている。因みに「燃ゆる土」とは天然アスファルトのことと考えられる)。自然に湧き出た原油は「臭水(くさうず(くそうず))」などと呼ばれ、天然ガスも知られていた。例えば、私の「北越奇談 巻之二 古の七奇」(同書は越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の永寿堂という書肆から板行された随筆。全六巻)には個人宅内の天然ガス利用の囲炉裏と思われるものが、「入方村 火井の図」とキャプションして、葛飾北斎の絵で描かれてある(そちらでも注してあるが、「入方村」は現在の新潟県三条市如法寺)。但し、国内の油田等の本格的な開発・利用は明治以降のことであった。本文は報告書簡からの引き写しであるが、臨場感を出すために、特異的に記号を多く用いた。]
○鑿井出火
越後國新發田[やぶちゃん注:「しばた」。]領蒲原郡中野口組[やぶちゃん注:現在の新潟県新潟市西蒲(にしかん)区中之口(なかのくち)。グーグル・マップ・データ。以下同じ。]大庄屋、戶頭村三郞左衞門[やぶちゃん注:「戶頭」は新潟県新潟市南区戸頭(とがしら)。中之口の東北直近。]支配、名主助右衞門觸下[やぶちゃん注:「觸下」の「ふれのもと」で、この名主がお上のお触れを下す村内範囲を指すか。]、白根中町[やぶちゃん注:新潟県新潟市南区白根(しろね)。戸頭の北に殆んど接するほどに近い。四ヶ所ほどの飛び地となっている。但し、域外に「白根」を含む町名があり、現行の白根地区ではない可能性もある。]造酒屋金左衞門と申者、富有之者にて屋敷内へ掘拔井を掘度、年來心がけ、文政六年癸未[やぶちゃん注:一八二三年。]三月十日頃より取り懸り、三月廿六日掘拔候處、砂交り之水を、五、六丈、吹上げ、水夥しく出、近邊の土地、「ドンドン」と鳴りわたり、井の口、段々に大きく相成り、其町、水浸しにも可相成樣子に付、先、溝を掘り、水を流し、水を止度存[やぶちゃん注:「とめたくぞんじ」。]、金左衞門方に有之ものは、何によらず井戶へ投げ込候へ共、棒などの樣なるものは吹上げ、井戶へ落ちつかず候間、無據[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]大豆俵拾俵ばかり投込、又、疊・石板等を並べ、石を上げ候へ共、水止み不申。其夜、白根町「髭醫者」【この者、髭を長く延し置候間、其所にて「髭醫者」と呼びなしたり。】、井戶を見に參り、「井戶は、こゝか。」と、提灯[やぶちゃん注:これのみ底本で「灯」。以下は底本でも「燈」。]を、さし出し候へば、井の内より、火、もえ出で、提燈も髭も燃し、火氣[やぶちゃん注:「ひのけ」。]、やはり、五、六丈、燃上り、遠近共に、「白根町、出火なり。」と存、竹・貝を吹き、まとひ・高張提燈を押建て、村々より馳集り、大に騷動いたし、且、兩三日の間、金左衞門屋敷の、四、五十間[やぶちゃん注:七十三メートル弱から九十一メートル弱。]四方、ゆるみ、力を入れて踏候へば、「ドブリ、ドブリ」とはいり候樣に相成、人家數拾軒、少しづゝ、柱、めり込、傾き、右投込候大豆を處々へ吹出し、井の中、八、九拾間[やぶちゃん注:約百四十六~百六十四メートル。]四方も、うつろに相成候樣に思はれ、火氣、益[やぶちゃん注:「ますます」。]熾に[やぶちゃん注:「さかんに」。]相成候。其節、賣卜師參候に付、卜吳[やぶちゃん注:「うらなひくれ」。]候樣賴み候へば、「金弐拾兩、差出し候はゞ、よく占ひ祈禱いたし、火氣・水をも可相鎭」旨申し候へ共、餘り高金[やぶちゃん注:「たががね」。]故、見合せ、又、別の賣卜師に金子貳兩貳分遣し、占せ候へば、判斷いたし候。「不搆[やぶちゃん注:「かまはず」、]差置候はゞ七里四方、土地、ゆるみ、落入り沈み可申。右水火を鎭め候には、地主金左衞門幷に右井戶を掘候職人を、井の中へ投入れ不申候ては、水火、相鎭らず。土地、おち入り、泥の海に可相成。」旨、判斷いたし候よしにて、白根町は勿論、近邊の者まで無據事に候間、「金左衞門、幷に、井戶掘職人を捕へ、井の中へ投込申外無之。」と申風聞に相成、金左衞門幷に井戶掘職人、早々、逐電いたし候よし。扠[やぶちゃん注:「さて」。]、相集り候村々は、
平片新田 下道かた 上道かた 沖新保 平片 萬年 吉崎 櫛笥 藤新田
藏主 兩木山 浦梨子 田井 鍋潟 兩曲り
戶頭組、村々を始、この外、四、五里四方より駈集り候村々、枚擧にいとまあらず。
右村々、七日の間、晝夜、白根町へ相集居候へ共、水火、鎭り不申。夫より、村々役人共、相談の上、御領主へ相屆、檢使の役人、出役有之、見分之上、右の井戶を埋め候樣被申付、埋方等の差圖有之、其通にいたし候處、水火共に、勢氣、弱く相成。水は、「湯の花」のにほひ、甚敷[やぶちゃん注:「はなはだしく」。]、飮水にならず。其水を汲み溫め、藥湯にいたし候ヘば、諸病に宜く、湯治人も、追々、有之よし。火は「からめき」【「からめき」は地の名。土中より火の出づる處。】同樣に、竹筒にて、處々へ引取、相用候よし。且、傾き候家も修覆致し、金左衞門も歸宅いたし候由。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
右は、平片新田組頭甚右衞門弟、仁太郞と申もの、先年、奧州へ日雇稼に參り、予が家にも、しばし、はたらき居、予も存居候者にて、當三月、不圖、江戶本鄕丸山本妙寺中東岳院にて逢ひ、其後、予が客舍へ、折節、來候處、五月初、又、予を訪ひて、「國元に、大變、有之、書狀到來に付、歸國いたし候。」とて、暇乞に參り、歸國致し候處、六月十六日、又、出府いたし、同十八日、予、東岳院へ參り候節、仁太郞ものがたりを承り、其まゝ、下[やぶちゃん注:「しも」。以上の事柄。]、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]相記す[やぶちゃん注:「あひしるす」。]。村名・語音の間違もこれあるべし。
癸未六月十八日 熊坂盤谷記
熊坂盤谷は、奧州福島の鄕士にて、四郞入道長範が裔なりといふ。世々、學を好み、常に倉廩[やぶちゃん注:「さうりん(そうりん)」。米などの穀物を蓄えておく蔵(くら)。]をひらき、窮民を救ふをもて、業とせり。この故に近鄕、その風を慕はざるものなし。しばしば東都に遊びて、予と友たり。近來、「繼志編」を著し、祖先を「盜なり」とせられし俗說を破るに足る。眞に篤實の君子なり。
海 棠 庵 記
[やぶちゃん注:「平片新田」新潟県新潟市南区平潟新田(ひらかたしんでん)であろう。戸頭に南東で接する。
「下道かた」平片新田の南に接する新潟市南区下道潟(しもどうがた)。
「上道かた」下道潟の南に接する同上道潟。
「沖新保」新潟市南区沖新保(おきしんぼ)。戸頭の南東直近。
「平片」新潟市南区平潟(ひらかた)であろう。戸頭の東直近。
「萬年」新潟市南区万年(まんねん)。 戸頭の東直近。
「吉崎」これは思うに、上下の道潟地区の東に接する新潟市南区牛崎ではないかと推定する。
「櫛笥」新潟市南区櫛笥(くしげ)。戸頭の東直近。
「藤新田」「ひなたGIS」の昭和初期の戦前の地図で見ると、東の信濃川左岸や戸頭の南北「~新田」の地名が複数見られる。この内の孰れかの旧名か、或いは表記の誤りか。
「藏主」新潟市南区蔵主(ぞうす)。戸頭に東で接する。
「兩木山」新潟市南区上木山(かみきやま:戸頭に東で接する)と、その北の下木山のことであろう。
「浦梨子」戸頭と白根の間にある新潟市南区浦梨(うらなし)であろう。この三文字で「うらなし」と読んでいる可能性がある。但し、「ひなたGIS」の昭和初期の戦前の地図でも「浦梨」であった。
「田井」これは戸頭の東直近の新潟市南区田尾(だお)の誤りではあるまいか。
「鍋潟」新潟市南区鍋潟(なべがた)。本文の白根の東部分の南に接する。
「兩曲り」戸頭の対岸に新潟市南区上曲通(かみまがりどおり)と下(しも)曲通があるので、ここであろう。この附近、旧地名がしっかりと保存されていて、調べていて、非常に楽しかった。合併その他の合理目的で、旧地名が廃されるケースが全国的に見られるが、これは重大な文化伝統の破壊であることを忘れてはならない。
『「湯の花」のにほひ、甚敷、飮水にならず』硫黄が含まれていたか。
『「からめき」は地の名。土中より火の出づる處』小学館「日本国語大辞典」に「がらめきのひ」「柄目木の火」として立項し、『新潟県中蒲原郡柄目木村』(現在は新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ)『付近の地中から出る天然ガス。燃料に利用される。越後の七不思議の一つ』とある。私の「北越奇談 巻之二 古の七奇」及び「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート7 其八「湧壷」)」にも出るので、是非、参照されたい。
「竹筒にて處々へ引取、相用候よし」先に示した「入方村 火井の図」が髣髴させる。
「江戶本鄕丸山本妙寺中東岳院」「本妙寺」は現在は東京都豊島区巣鴨に移転(明治四一(一九〇八年)から三年かかって移った)している。当該ウィキによれば、法華宗陣門流東京別院である徳栄山総持院本妙寺で、元亀二(一五七二)年に日慶が開山した。徳川家康の家臣団の内、三河国額田郡の海雲山長福寺という古刹の檀家で、徳川家に仕えた久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らが、家康の岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)への入城に際し、日慶上人に願い出て、創建された寺であった。天正一八(一五九〇)年九月、家康は、関東奉行に命じられて江戸城に入った際、久世広宣・大久保忠勝に図って、この年に武蔵国豊島郡の江戸城清水御門内礫川町に移ったが、間もなく御用地になったため、飯田町に替地を与えられ、転地した。伽藍壮麗で板屋寺と呼ばれ、評判は家康の耳にも達していたという。慶長年間(一五九六年~一六一五年)に類焼したため、牛込門内に移り、その後の元和二(一六一六)年、小石川(現在東京都文京区)へ移して、本堂・客殿・鐘楼は建立されたが、寛永一三(一六三六)年、それらの堂塔伽藍が全焼してしまった。久世家の尽力によって、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移り、客殿・庫裡を建立、立地条件も良く、明治の終わりまでの約二百七十年間は、この地をはなれなかったので、「丸山様」とも称された。往時は広大な境内地を持ち、そこに九間四面の本堂・客殿・書院・庫裡・鐘楼と、塔頭十二ヶ寺があった。その一つがここに出る「東岳院」であった(現在はない)。現在も本郷四丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている、とある。ここ。
「熊坂盤谷」(くまさかばんこく 生母未詳)は儒者。儒者熊坂台州(たいしゅう:陸奥伊達郡高子(たかこ)村の豪農であったが、江戸で入江南溟・松崎観海に学び、郷里に学舎「海左園」を設けて教育にあたり、また、窮民救済・開墾などに尽くした人物として知られる)の子。寛政から享和(一七八九年~一八〇四年)頃の人物で、谷文晁らと親交があった。著作に「継志編」・「戌亥遊嚢」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「四郞入道長範」所謂、知られた伝説上の大盗賊とされる熊坂長範(くまさかちょうはん)。しかし、彼はモデルはあろうが、実在は甚だ疑わしいと言わざるを得ない。代々の儒家が、わざわざ、彼の後裔を名乗ること自体が変な感じがする。寧ろ、それを売り物にして、学者に打って出たものか。私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 62 加賀入り 熊坂がゆかりやいつの玉祭」でも参照されますか?]