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2021/10/04

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天照太神を吳太伯といふの辯

 

[やぶちゃん注:ベタで長いので、段落を成形した。私は個人的には全く興味のない内容なので(私は神道を信じないが、日本神話が中国伝来というのも阿呆らしくてまともに考える気にはならない)、注は気になったところだけに留めた。悪しからず。こちらとか、こちらで、個人の方が、本篇を掲げながら語られているものがあるので、興味のある方はそちらを読まれるとよかろう。]

 

   ○天照太神を吳太伯といふの辯

 或云、伊勢國天照太神を吳の泰伯と申す說、宋元の代より申す所にして、儒者よりこれを見れば、尤事跡に付きて左あるべし。神道者よりは、此說を、甚、嫌ひ、堂上方・禁中方にても不被用。これも亦た、あるべし。日本は大唐と各別の式を立つる故なり。

 然れ共、仰ぎてこれを考ふるに、吳の泰伯は誰人ぞ。周室の高祖后稜の嫡子にて、二男は王季なり。后を王李と聖人なり[やぶちゃん注:底本は右に『(本ノマヽ)』と注記する。]。王季子文王、その子武王、周公、何れも「聖人なり」と稱す。

[やぶちゃん注:「王季」殷代の周国の首長。生没年不詳。古公亶父の三男。孫の武王によって追尊されて「王李」と称された。]

 世子の說ありて、泰伯は弟の王季に讓りて家を出でゝ去りぬ。是を「三讓」といひて、「論語」にも、泰伯をば、「至德」と稱せられたり。「吳國へ去られし」と古書にもあり。

 吳國より、日本へ渡せらる。吳國は南京なり。日本と近し。其頃は、日本は纔の島國にて、鬼畜同前の土民、住す。彼等、穴に住し、獵漁して食せしなり。

 泰伯、九州日向國鵜渡の港へ舟を留めらる。其後、高千穗の嶽に上り、住し給ふ。日向に、今、その事跡殘れりと申し傳ふ。彼國にても王代の古質あり。耕作を敎へ、人倫の道を敎へ給ふ。仍りて、人道、開けて、國人、尊敬す。

 素盞烏尊は皇の御弟なり。然れ共、御心に不叶事ありて、御敎を止めて、引き龍り給ふ。仍りて、法令の敎、なし。

 人々、難義に及び、これを「天の岩戶」に引き龍らせ給ひて、「常闇の世」といふ。

 然れば、皆人、なげき諫め申して、再び、法令あるにつき、日月かゝやく、といふ。

 彼渡海の時の御舟、是を伊勢國の「船の御藏」と申す神寶、是なり。農具を入れ持せたる、今に御藏に納めたり。仍りて「御倉」と申す。

 其外、「司室童子」[やぶちゃん注:不詳。]の畫あり。髮を亂して、童形の、竿をさす處の繪なり。是、渡海の御船を寫すと云ふ。

 又、内宮に「三讓伏」[やぶちゃん注:不詳。]あり。「三讓」の文字を寫す。是、御殿に質朴禮儀をふまへさせ給ふしるしなり。

 これによりて、内宮を「泰伯」、外宮を「后稜」と說き申す、といふ。外宮は國常立尊と申すも、此、說あり。

[やぶちゃん注:「國常立尊」「くにとこたちのみこと」。「日本書紀」で天地開闢の後、最初に出現した原初の神で、国土の永遠の安定を意味する神と言う。別名は国底立尊。「古事記」では「國常立神」の名で、六番目に出現した神とある。他に「草分尊」(くさわけのみこと)や「大元神」(だいげんしん)の異名もある。]

 扨、日本を姬氏國と、野馬臺の詩にも見えたり。周堂、又、姬氏、符合、如斯。

[やぶちゃん注:「姬氏國」「東海姬氏國(とうかいきしこく)」。梁の僧宝誌(後注参照)和尚が文字を交錯させて作り、吉備真備が観音の助けによって読んだという伝説を持つ「耶馬台詩」(やばたい(やまたい)し)の中の句「東海姬氏國、百世代天工」による。「東方の海上にある女性を首長とする国」の意で日本国のこと。東海女国とも。

「野馬臺の詩」平安から室町にかけて流行した予言詩。南北朝時代に江南にあった梁(五〇二年~五五七年)の怪僧宝誌和尚(四一八年~五一四年)の作とされるものの偽書の可能性が高い。日本で作られたものとされるが、中国で作られて伝来したとする説もある。]

 辯に云、此說、古來より誤り來ること、年久し。釋の圓月、「日本史」を作り、朝に獻ず。其書に、泰伯を以て始祖とす。故に議論ありて、おこなはれずと云ふ事は、蕉了子が記せる「史記抄略」に見ゆるなり。

[やぶちゃん注:『釋の圓月、「日本史」』中嚴圓月(ちゅうがんえんげつ 正安二(一三〇〇)年~応安八(一三七五)年:鎌倉末期から南北朝時代にかけての臨済宗大慧派の僧で数学者(和算家)・漢詩人。鎌倉生まれ。朱子学を初めとする宋学に通じ、本邦に於ける本格的な宋学受容の濫觴ともされる)の「日本書」の誤り。恐らくはその中で、彼は神武天皇を「呉の太伯の子孫」であるとし、『「天皇中国人説」を唱えた』らしい。ウィキの「中巌円月」を参照した。

『蕉了子が記せる「史記抄略」』室町時代の臨済僧桃源瑞仙(永享二(一四三〇)年~延徳元(一四八九)年:京都相国寺の明遠俊哲の法を継ぐ。易学や「史記」も学び、「応仁の乱」に際しては、郷里近江へ避けて古典研究を続け、乱後に相国寺住持となった。蕉了は号)が「史記」について行った講義録。全十九巻。文明九(一四七七)年成立。史「史記抄」或いは「史記桃源抄」の名で知られる。]

 且、「舊事記」・「古事記」・「日本紀」に、此說に似たる事實になし[やぶちゃん注:「は、なし」の誤判読ではないか?]。濱成の「天書記」、廣成の「古語拾遺」、「倭姬世說」・「鎭座傳記」・「御鎭座次第」・「寶碁本紀」・「類聚神祇本源」・「元々集」等の書に、亦、見えず。野馬臺の詩は、世俗に傳はるばかり、書籍の中、曾て見えず。「梁の寶誌和尙の識文なり」といへども、誌が、詩傳中にも見えず、假令、寶、作りぬるも、靈僧の詞、證據とするに足らず。「神皇正統紀」に、『異朝の一書中に、日本は吳の泰伯の後なり。』といふ。更に當らず。

 思ふに、唐土の人、我邦の書をしらず。偏に商舶俗侶の口に任せて、年代をも不ㇾ辯、實非を不ㇾ正、實を失ふこと、常に多し。固と[やぶちゃん注:「もと」。]、我邦の人、國史に瞽き[やぶちゃん注:「くらき」。]故、姬氏國の言に迷ひ、泰伯を誣罔し、佛者は大日孁の名を以て「大日」を附會し、是、周禮造言の刑を免れざるの人、國神正直の敎に背く。實に聖神の罪人なり。

[やぶちゃん注:「誣罔」「ふまう」。偽って言うこと。ないことをあるように言って人をおとし入れること。

「大日孁」「おほひるめ」。天照大神の別名。

「周禮造言」「周礼」(しゅうらい)は儒教経典「十三経」の一つで、「礼記」・「儀礼」とともに「三礼」と称して聖典とされているが、新の王莽が前漢から簒奪する際に道義上の根拠としていることから、王莽の側近劉歆(りゅうきん ?~紀元二三年)によって捏造されたのではないかとする偽書説が現在もある。]

 開闢の始、神靈を稱するは、古今の常、予、別に說あり。此に略す。

 或云、天地開闢の始より、我國、有りて、「大日本豐秋津洲」と號し、我君の子(ミコ)、世々、統を續ぎ[やぶちゃん注:「つぎ」或いは「つなぎ」。]給ふ。所謂、天照太神の御子孫なり。

 吳は泰伯より始まり、世の相[やぶちゃん注:「あひ」。]おくるゝこと數千歲、日本、何ぞ泰伯の子孫ならんや。「史記」、吳の「世家」を按ずるに、泰伯、卒して、子、なし。弟、仲雍、立つ。後、十七世夫差、越の勾踐の爲に滅さる。此時、我邦、孝昭天皇三年に當る。夫差より前、吳の日本ヘ通ぜし事、なし。

[やぶちゃん注:「孝昭天皇三年」機械換算で紀元前四七三年。]

 異域の人、我邦に來て、臣民となるは、則、是、あり。其氏族を「蕃別」といふ。この類、甚、多し。その中に松野氏あり。「新撰姓氏錄」に曰、『松野は吳夫差の後なり』と。是、吳人、我邦に來るの始なり。

 「日本紀」に據るに、應神天皇三十三年春二月、阿智使主(ノオミ)、都賀[やぶちゃん注:「つか」。]の使主を吳に遣し、縫女を求めしむ。ふたりの使者、「高麗に渡り、吳に至らん」とするに、道路をしらず。知る者を高麗に乞ふ。高麗の王、則、久禮波・久禮志、二人をて[やぶちゃん注:「をして」「を以て」の脱字か。]、鄕導とす。是によりて吳に通ずることを得たり。吳王工女兄媛・弟媛・吳織・穴織、四人を與添へふ[やぶちゃん注:「あたへそへり」の誤字か。]。大織冠鎌足、執政の時、百濟の祥禪尼法明、對馬に來て、吳音に「維摩經」を誦す。よりて吳音を「對馬讀」といふ。吳音の源起なり。

[やぶちゃん注:「應神天皇三十三年」三〇三年。]春二月、阿智使主(ノオミ)[やぶちゃん注:「あちのおみ」。機織りを伝えた古代の渡来人。阿智王とも称し、古代の最も有力な渡来人の一族である東漢氏(やまとのあやのうじ)の祖。「日本書紀」によれば,応神二十年に子の都加使主(つかのおみ)ならびに十七党類の民を率いて来朝したとされる。]、都賀の使主を吳に遣し、縫女を求めしむ。ふたりの使者、「高麗に渡り、吳に至らん」とするに、道路をしらず。知る者を高麗に乞ふ。高麗の王、則、久禮波・久禮志、二人をて[やぶちゃん注:「をして」「を以て」の脱字か。]、鄕導とす。是によりて吳に通ずることを得たり。吳王工女兄媛・弟媛・吳織・穴織、四人を與添へふ[やぶちゃん注:「あたへそへり」の誤字か。]。]

 然れども、泰伯を天照太神といふ事、何れの書にも見えず。「日本紀纂疏」に、一條兼良公の說に、『韻書を考ふるに、「姬」は婦人の美稱なれば、思ふに、天照太神は始祖の陰靈、神功皇后は中興の女主たる故に、國俗、姬氏國と稱す。』とかや。只、宇義によりて事を論ずるときは、此類、常に多し。

 葢、物、極れば、變じ、人、窮すれば、則、本に返る、天地の常道にして、古今の事宜なり。

 予、「兎園小說」を作らんとす。嚢底を叩きて考ふるに、奇說・新說、諸君の筆に出づ。予が輩、如ㇾ之、何ぞ筆すべき。於ㇾ是、本に返り、源を尋ね、天照皇の說を寫し、聊、以て、例の「兎圖」に備ふと云ふ。

  乙酉八朔         中井琴民識

 

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