曲亭馬琴「兎園小説」(正編) ものゝけのぬれ衣
[やぶちゃん注:輪池堂発表。物語なので、段落を成形した。]
○ものゝけのぬれ衣
或家【姓名は、わざと、しるさず。】の家來に、半田久三郞と云ふ者、有りし。
もとは、近國の酒とうじの子なりしが、女色にふけりて、所の住居、なりがたく、江戶に出で、大御番某の所に侍奉公に出でたり。
とかく、色慾にて、身をあやまつべきさまなりしかば、主人、不便におもひ、念比に敎訓せしを、ふかくかしこまり、おもひて、おこなひをあらため、まめやかにつかふるさまを、今の主人、見て、乞ひうけぬ。
もとより、手跡、達者に、算術も、おろかなく、さかしゆゑ、出頭せしなり。
しかるに、をとゝしの冬、故主の家に來り、
「わたくしこと、はからざる災難に逢ひ侍り。はなはだ、心をいたましむる。」
よしを、いふ。
「それは、いかなることにや。」
と、ゝひけるに、
「そのよしは、申しがたし。」
と、かたく、すさびて、かへりぬ。
そのゝち、又、來りて、
「かのさいなん、うらなひみたれば、『祈禱せば、よけなん。』と申すにつき、そのよし、行ひければ、まづ、心安き方にさふらふ。」
といふ。
その「よし」をば、とひても、いはず。
ほどなく、
「年も、くれぬ。」
とて、歲暮の禮に來り、かへる時に、
「もはや、御目にかゝり申すまじ。」
と、いふ。
あるじ、とがめて、
「『ことしは、御めにかゝりがたし。』といふことか。たゞ『おめにかゝるまじ。』といふは、聞えがたし。」
と、いひければ、
「そこつにて侍り。」
と。わらひて、まかでぬ。
年も、かへりぬ。
「春のよろこびに、いつも來るものゝ、日をふれども、まうでこぬは、いかゞ。」
と、人して、とぶらはせぬれば、
「久三郞は、身まかりぬ。」
と、いひこしたり。
「さるにても、『災難』といひしは、いかなることにて有りしや。」
と、心にかゝりて、しりあひたる人としきけば、久三郞が事をとひたづねつるに、ある人いひけるは、
「そのことは、われ、よく、しれり。久三郞とは、へだてなくむつびつれば、我にのみ、かたりきかせたり。それは、近きあたりに侍りし年比の子もり女、
『久三郞にしたしくならばや。』
とおもひけるを、そのとなりにつかへぬる若侍、聞きつけて、久三郞が艷書をしたゝめ、使をもとめて、おくりければ、
『あひおもふ中。』
とて、うけひきぬ。それより、夜にまぎれて忍び逢ひけるが、ほどへて、夜がれがちにやなりけむ、かの女、ある日、久三郞に行きあひて、くねりかゝりけれども、久三郞はしらざる事なれば、こたふるにも及ばずして、行き過ぎぬ。そのゝち、又、行き逢ひたれば、
『ひた』
と、ゝらへて、はなさず、ありしうらみを、いひつゞくるにぞ、
『さては。わがなを、たばかられしことにや。』
と心付きたり。
『しかじか。』
と、ことふれども、さらに聞きいれず。からうじて引きはなちて、わかれたり。そのゝち、かの女、あつしき病にふして、日あらず、身まかりぬ。その夜より、久三郞がふしどに、幽靈、あらはれて、よもすがら、くねりあかす。その比にや、かれ、祈禱をしたりけん、少しは、そのしるし有りしかど、又、あらはれて、責めさいなむ。久三郞、堪へずして、つひに、はかなくなりぬ。歲暮に古主に來りし時、申しゝ詞によりて考ふれば、かの靈、
『年あけば、とりころさむ。』
などゝ、いひけるにや。」
と、いひあへり。
「この久三郞は、袋翁が弟子にて、うたを學びたるものなり。」
とて、袋翁のもの語りなり。
[やぶちゃん注:「袋翁」幕臣で歌人の横田袋翁(よこたたいおう 寛延二(一七四九)年~天保六(一八三五)年)。]