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2021/10/11

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 早春 附・酷似する詩篇「春の來る頃」原稿推定復元版

 

  早   春

 

なじかは春の步みおそく

わが故鄕(ふるさと)は消え殘る雪の光れる

わが眼(め)になじむ遠き山山(やまやま)

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙の見えざる淺間はかなし。

今朝(けさ)より家をのがれ出で

木ぬれに石をかくして遊べる

をみな來りて問ふにあらずば

なんとて家路を敎ふべき。

 

はやも晝餉(ひるげ)になりぬれど

ひとり木立にかくれつつ

母もにくしや

父もにくしやとこそ唄ふなる。

               ――滯鄕哀語篇――

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品年譜」には『遺稿』とし、推定として制作年を大正三(一九一四)年にクレジットする。しかし、筑摩版全集には同標題の相似詩篇は存在しない。しかし、完全相同ではないものの、極めて酷似する詩篇「春の來る頃」が「拾遺詩篇」にあり、それは大正三年三月二十四日附『上毛新聞』を初出とする。それを以下に示す。今回は総ルビも再現した。歴史的仮名遣の誤りはママ。「やまやま」のルビの後半は踊り字「〱」。

 

 春(はる)の來(く)る頃(ころ)

 

なじかは春(はる)の步(あゆ)み遲(おそ)く

わが故鄕(こけう)は消(き)え殘(のこ)る雪(ゆき)の光(ひか)れる

わが眼(め)になぢむ遠(とほ)き山々(やまやま)

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙(けむり)の見(み)えざる淺間(あさま)は哀(かな)し

今朝(けさ)より家(いへ)を逃(のが)れいで

木(こ)ぬれに石(いし)をかくして遊(あそ)べる

おみな來(きた)りて問(と)ふにあらずば

なんとて家路(いへぢ)を敎(おし)ふべき

はやも晝餉(ひるげ)になりぬれど

ひとり木立(こだち)にかくれつゝ

母(はゝ)もにくしや

父(ちゝ)もにくしやとこそ唄(うた)ふなる。

            (滯郷哀語篇ヨリ)

 

筑摩版の編者注記に『「夢みるひと」の筆名で發表』とあって、さらに『但し殘つている原稿に基き、』校訂本文を示してある(大きな異同点は「故鄕」のルビと後半の行空けである)。但し、校訂本文が例の歴史的仮名遣の誤りを訂正している可能性を考え、上記の初出形と校合し、歴史的仮名遣の誤りや踊り字を保存したままで、以下に示す。校訂本文のルビは以下の通り、二箇所のみである。なお、言わずもがなであるが、当時の新聞・雑誌に限らず、多くの出版物のルビは、実は作家の意志とは無関係に編集校正植字者らが、勝手に附したものが圧倒的に多い。

 

 春の來る頃

 

なじかは春の步み遲く

わが故鄕(ふるさと)は消え殘る雪の光れる

わが眼になぢむ遠き山々

その山脈(やまなみ)もれんめんと

煙の見えざる淺間は哀し

今朝より家を逃れいで

木ぬれに石をかくして遊べる

おみな來りて問ふにあらずば

なんとて家路を敎ふべき

 

はやも晝餉になりぬれど

ひとり木立にかくれつゝ

母もにくしや

父もにくしやとこそ唄ふなる。

            (滯鄕哀語篇ヨリ)

 

筑摩版編者は、どこからこの標題の、この詩篇を見つけだしたものか? これは「春の來る頃」の初期形なのか? 最早、判らぬ。【2022年2月27日削除追記】筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』の最後に「春の來る頃」について当該草稿を活字化していないものの、注で『(本種原稿一種二枚)』と掲げた上で、『本篇原稿の題名は「早春」とある。』あった。その原稿と同じか、同時期のそれであると考えてよい。

「木ぬれ」「木末」。「木(こ)の末(うれ)」の音変化で、「樹木の先端の部分・梢(こずえ)」のこと。万葉語に「木末隱る」(こぬれがくる)があるが、これは「梢に隠れる・枝先の蔭に隠れる」の意であり、「木ぬれに石をかくして遊べる」という一節は、私にはその「石をかくして遊べる」の様態がよく判らない。そういう遊び或いは悪戯があったものか? ご存知の方は御教授願いたい。

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