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2021/10/12

只野真葛 むかしばなし (40)

 

 父樣は三十代が榮の極めなるべし。日に夜に、賑ひ、そひ、人の用ひも、ましたりし。御名のたかきことは、醫業のみならず、其世には、おしなべて、仁愛をたかきことにせしは、それが、その世の、はやりなり。

 しかるを、人なみならぬ、ひとからき[やぶちゃん注:他人につらく接するタイプであった。]養ぢゞ樣[やぶちゃん注:父平助の養父なので、こう表現したもの。]のおしへにて、只、半年をへずして立はしる書を明らめられしは、天なり、運なり。時に叶ひて、世の人の目をおどろかせしは、からくりのごとき、生立[やぶちゃん注:「きだて」。「気立て」であろう。]にて有し故なり。【「からくり」とは一字文盲の人、半年に書を見習われし敎への仕樣なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。才智くふうのすぐれし人も、仁愛にばかり、おぼれ、十二、三まで、筆もとらせず、書もよませずしておかれし故、

「いで。」

と心をはげましては、こまを廻すごとく、才も、のびしならん。人のからだのつりあい、やはり、からくりのごとくにして、とりあつかふ人の上手・下手、又、うちだしの細工によるものならし。

[やぶちゃん注:「半年をへずして立はしる書を明らめられし」「時に叶ひて、世の人の目をおどろかせし」というのは、知る限りでは、父工藤平助が天明元(一七八一)年四月に書き上げた「赤蝦夷風説考」の下巻であろう(この後の天明三(一七八三)年には同書の上巻を含めて総て完成させている。ウィキの「工藤平助」によれば、『「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。また、天明』三『年には密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」をも書き上げて幕閣に『提出している』。但し、この書き出しの「三十代」というのとは合致しない。彼は享保一九(一七三四)年生まれで、天明元年で彼は満四十七になっているからである。「三十代」云々の部分とは切れていると読むなら、特に違和感はないし、彼がこれらの書によって経世家として広く知られるようになったことも事実である。いや、寧ろ、それらの書物を書くための「知」の蓄積期が三十代終りから四十代初めから始まるので、この謂いに違和感はないと言ってもよい。安永五(一七七六)年頃、平助は仙台藩主『伊達重村により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようにな』ったからである。その後、『藩命により』、『貨幣の鋳造や薬草調査なども』行い、『また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学、西洋医学、本草学、長崎文物商売、海外情報の収集、訴訟の弁護、篆刻など』、『幅広く活躍する才人であった』。かくして『工藤平助の名は、すぐれた医師として、また、その広い視野や高い見識で全国的に知られるようになり、かれの私塾「晩功堂」には遠く長崎や松前からも門人となるため来訪する者も少なくなかった』(☜以上と以下は次の段落の内容とも見事に合致する☞)。十八『世紀後期にはロシア帝国の南下が進み、ロシア軍の捕虜となった経験をもつハンガリーのモーリツ・ベニョヴスキー伯爵が在日オランダ人にあてた書簡のなかで、ロシアには侵略の意図があると記したことをきっかけとして北方問題への関心が高まって』おり、『松前からも』、『裁判のため、知恵者として知られていた平助の力を借りようと頼る者もあらわれ、平助は、彼らから』、『北方事情や蝦夷地での交易の様子、ロシア情勢等について詳細に知ることができた。また、長崎の吉雄耕牛やその縁者からは、オランダの文物が送り届けられることも多く、平助はそれを蘭癖大名や富裕な商人に販売して財をなした一方、ロシアも含めた西洋事情一般にも通じるようになった』とあるのである。]

 「御才人なり」といふ名の廣まりしは、日本中にこへて、外國迄も聞えし故、國のはてなる長崎・松前よりも、人のしたひ來りしなり。そのもと、物おぼへせられし頃は、さかり過て、消がたの時なり。虹の大空にあらはれしを、人のはじめて見つけてあふぎしごとくにて有し。諸國にてもてあましたる公事沙汰の終をたのみにくることにて有し。服部善藏、隣に住居せしも、

「まさかのとき、知惠をかるに、よき。」

とて其陰にやどりせしなり。高野の北寶院なども、度々、公用の下地を、たのみに來し。

[やぶちゃん注:「そのもと」「そこもと」。「そなたが」の意。直接の聴き手として措定されている末の妹照子(平助五女)のこと。彼女は真葛より二十三年下であるから、天明五(一七八五)年かその前年頃の生まれで、彼女が物心つくのを五歳前後とするなら、寛政二(一七九〇)年前後となるが、この頃は、天明六年の第一〇代将軍徳川家治の逝去により、何かと華々しかった「田沼時代」は終わりを告げており、平助の経世家としての名望も失われ、彼の期待した海防を含む蝦夷地開発計画も頓挫し、平助に話があった「蝦夷奉行」内定の話も、結局、沙汰止みとなっていたのである。かの林子平の「海国兵談」(寛政三(一七九一)年)も版木を没収された上、発禁処分となり、子平自身も、幕府から仙台への蟄居を命ぜられることとなる。但し、それでも、ウィキの「工藤平助」によれば、『平助はその後も江戸で医師としての活動をつづけ』、寛政五(一七九三)年には『弟子の米田玄丹』『からロシア情報を得て』、「工藤万幸聞書」を著し、寛政九年には医書「救瘟袖暦」を『著した。これは、のちに大槻玄沢による序が付せられることとなる。同』『年』七月には第八代藩主『伊達斉村』(なりむら)『の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎』(後の第十代藩主伊達斉宗)『が熱病のため重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀』五『枚、縮』二『反を下賜され』ている、とある。

「服部善藏」平助が漢学を学んだ儒者服部栗斎(元文元(一七三六)年~寛政一二(一八〇〇)年)か。名は保命で、通称は善蔵である。平助の師ではあるが、平助より二歳年下である。上総飯野藩の飛地摂津浜村(大阪府豊中市)で藩士服部梅圃の子として生まれた。若くして大坂の五井蘭洲に師事、中小姓として勤仕してからは、主に久米訂斎ら崎門(きもん)派の儒者に教えを受け、江戸では村士玉水に兄事した主君保科正富と、その子正率に書を講じたが、正率(まさのり)に疎まれて三十八で致仕し、浪人中は築地の家塾信古堂に教えた(ここは平助の家に近い)。寛政三(一七九一)年、幕府は学問所の直轄教授所を深川・麻布・麹町に設置したが、特に才を認められ、栗斎は麹町教授所の長を命ぜられた。崎門派の朱子学者であったが、字義・文義を抜きにして理を説きがちな崎門末流には批判的で、詩文に遊ぶ雅人でもあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「高野の北寶院」不詳。]

  築地の門跡[やぶちゃん注:築地本願寺のこと。]より、

「宗名、改めたし。」

とて、公儀へ願書いだせしこと有し。其おほむねは、

「當宗名、品々にとなへ來り、亂りがわしく候故、一名に、いたしたし。元來は淨土眞宗なるを、一向宗、又、門徒宗、又、淨土新宗とも、文字に書候ことにて、抑(そもそも)、當宗は淨土眞宗と、となふるぞ、たゞしき名なる。其證は祖師のうたに、『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふこと有(あり)。」

など、品々、おもふほど、書つらねてさし出せしに、世は田沼大しよく[やぶちゃん注:「大職」で「老中」のことであろう。ここは「政策をすっかり田沼に奪われていた御世の」の意。]の人々、無學文盲にて、ことのよしも味はへず、

「寺のことは、寺を、たのめ。」

と、かたむけて、

「此事、いかゞ。」

と增上寺[やぶちゃん注:同寺は浄土宗である。]へ御相談有しとぞ。

 僧法師は、宗のかたへは、俗よりも、いどみ、もじるものと、心つかざりしなり。

 門跡のかたは、其子孫にて、跡をつぎて、他宗を見ぬ故、おのづから世の樣に、うとし。他宗の出家は、諸國雲水して、世上の樣に、立はしりものならでは、上にたたねば、爰に黑人[やぶちゃん注:「くろうと」。玄人。]・素人の、たがひ、有、文言などの器用・不器用、くらべがたし。さらぬだに、門徒宗の格式よきをにくみて有しを、

「こと、かなふ、元。」

と、手づくろひして有(あり)。すこむる手こきの出家たち、

「よきなぐさみよ。物見せん。」

と、御家やうの俗筆にて、いかにも俗の氣のつく樣に、へたと書てさし上しを、公儀にて、

「一々、尤。」

と思召、門跡へ訴狀かへさるゝに、

「是には、今更、相あらためがたきことなり。增上寺より、とひかけたる難事のこたへ、申上べし。」

と有しとぞ。其難事は三ケ條なり。一ッは、

「元來、門徒宗は、當宗より、いでたることなれば、「新宗」と申は、さもあるべし。なぞや、「眞」の字を用べき。それにては乍ㇾ憚御公儀樣、御宗旨よりは、まことなりと申にて、おそれおほき事なり。いくへにも御ゆるし有がたきことなるべし。『宗名、色々にて、みだりがはし。』といふも、願上るにも、たらぬことなり。それをよろしからずおもは、年々、御あらため有(ある)宗旨證文に、宗名、何と書ても、印判いたし來りしは、いかに。」

 今一ッ、

「『淨土眞宗ひらきつゝ せんじやく本願のべ給ふ』といふ和讃を證に取しは、おかしき事なり。此和讃は、親鸞上人の、其(その)師をほめてうたへる歌なり。されば、當家をさして『眞宗』とは申されたり。其家のことならず。其元をもわきまへず、みだりに訴狀奉られしは、いかに。」

 今一ヶ條、有しが、わすれたり。おもひいでば、書て、くはふべし。文言は、其書、見もせねば、たゞ父樣御はなしをもて、つくりしことなり。

 門跡にては、願(ねがひ)かなはぬは、さておき、增上寺への返答に、

「はた」

と、つかへ、あとへも、先へも、ゆかれず、願書の文言せし人を、おしこめなどしてみたれども、つまらず、當惑の時、壱人、おもひよる人、有て、

「それ。むかふ築地の工藤周庵は、天下一の才といふ、きこえ、有。なるか、ならぬか、たのみて見ん。」

と、夜中、ひそかに來りて、委細の事、申(まうし)、談(だんぜ)ぜしに、父樣、一通(ひととほり)、御聞うけ、

「いかやうにか、工夫致見候はん。さりながら、一向しらぬ佛法のこと、少々、佛書をひらきみて、筆、取申べし。」

とて、かへされしとぞ。其時、少々、佛書御覽有しなり。

 御佛學被ㇾ成しは、是が、もとなり。

 それより

「ひし」

と御引こもり、御くふう被ㇾ成しが、一ヶ月七十兩の筆耕料(ひつ《こ》れう)上(あがり)し、と御はなしなり。

 さて、雙方のかけ合の書をてらし御覽ずるに、いかにも門跡は不吟味、增上寺は、しらべ、よし。

 それは、さておき、新御くふうの答に、『年々、改め來りし宗旨證文に、何と書ても、印判仕來りしは、いかゞ。』と有(ある)に、

「當家は、他家とちがひ、子孫にて名をつぎ候間、幼少の主(あるじ)おほく、宗名をも見分ず、印判いたし來り候に付、みだれ候を、一名に、いたしたし。」

と申上しことなり【此こたい[やぶちゃん注:ママ。「答へ」。]、妙なる事と、うかゞひし。實にさぞ有けんを、かへりて、其宗にては、こゝろつかずしならん。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]。

 また、和讃をとがめしこたへ、

「實に、是は、しんらん上人の、師をほめてうたへる事は、誰(たれ)もしること故、くわしく書上ざりしなり。されど、『せんじやく本願のべ給ふ』とまで、書ていだせしは、我がことならぬ證なり。わがことを『給ふ』とは、いはず。」

と、いひ分の御くふう被ㇾ成しとぞ。

 「此『給ふ』の一字なくば、誠にいひわけがたかりし。」

と被ㇾ仰し。三ケ條とも、ことなく、すみしかば、門跡にては、大悅にて有しとぞ。

 されど、

「宗名は、あらためられぬに、かたまり切(きれ)し。」

とのことなり。これは、ふと何かの序に、うかゞひしことにて有し。

 病用の外にも、公事沙汰、權門方にて、御いとま、なかりし。

[やぶちゃん注:個人的は親鸞が好きなので、後半の話は非常に面白く読んだ。]

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