曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その6)
人すら、かくのごとくなれば、犬・猫は瘦せ衰へて、骨立(こつりつ)して[やぶちゃん注:骨ばって。]、道路に臥したり。五、六月のころにやありけん、松島町(まつしまちやう)なるむかひの武家の大溷(おほどぶ)に、瘦せたる犬のうちつどひて、草を啖(くら)ひゐたりしを、予の、まのあたりに見たること、あり。かゝる類(たぐひ)、多かるべし。
[やぶちゃん注:「松島町」現在の日本橋人形町二丁目(グーグル・マップ・データ)。例の「古地図 with MapFan」で見ると、三方が水野壱岐守鶴牧藩中屋敷・内藤紀伊守村上藩中屋敷・永井肥前守加納藩中屋敷・森川紀伊守生実(おゆみ)藩中屋敷等に囲まれて、町は五区画に分かれており、南東部分に、確かに大きな溝(どぶ)があることが判る。その南東部も総て武家屋敷のようである。さらに、いつもお世話になる「江戸町巡り」の「松島町」の解説には、『安政再板切絵図によると、南は永久橋東から北に入った入堀に面し』、三『方は常陸土浦藩土屋氏上屋敷、上総鶴牧藩水野氏中屋敷等に囲まれ、町は』五『区画に分かれている。江戸期は』、元禄一一(一六九八)年、『町奉行川口摂津守、松平伊豆守両組の組屋敷となり「中組」といったが、宝永年間』(一七〇四年~一七一〇年)に五『区間に分かれ、さらに享保年間』(一七一六年~一七三五年)に上地(あげち:幕府が没収すること)と『なり、伊賀者、吹上御庭の者が住んだ。化政期』(一八〇四年~一八三〇年)『には』、『住民に乞食等の細民が多くなり「宿あり、門巡り」と呼ばれた』(「守貞漫稿」『東北部は松島稲荷があるため、「稲荷前」と俗称した』。『他に「河岸通」、「七軒」、「中通」の俗称地があった』とある。]
さる程に、五月晦日(みそか)のことにやありけん、この夜、戌の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、俠客(きやうかく)どもの、むら立ち起りて、麹町なる米商人の「いち(肆)[やぶちゃん注:漢字ルビ。店の意。]くら」を、理不盡に破却せり。
[やぶちゃん注:「五月晦日」天明七年丁未五月は小の月で五月二十九日で、一七八七年七月十四日相当。]
これぞ、世に「うちこわし」といふものゝ、手はじめとぞ聞えたる。
かくて、その次の日より、或は、四、五十人、或は、百數人、一隊となりて、江戶中なる米屋の店を破却すること、日として、間斷(かんだん)なかりけり。
はじめは、夜中、もしくは、早朝のみなりしが、後には白晝にも、この騷劇(きさうげき)あり。
その破却する物の響(ひびき)、罵(ののし)り叫ぶ人の聲、弗撥囂塵(ふつはつごうじん)として、十町の外(ほか)に聞えたり。
[やぶちゃん注:「弗撥囂塵」「囂」は「騒音が烈しい」の意で「騒音と塵埃・騒がしくて埃っぽいこと」。「弗撥」はよく判らないが、「撥」には「治める」の意があり、それに否定詞の「弗」で、「収める(鎮める)ことの出来ないほどの」の意か。
「十町」一キロ九十メートル。]
予は、京橋南傳馬町なる米商人万作が店を、破却せられし迹(あと)へ、ゆくりなくも、とほりかゝりて、見てけるに、米穀は、みな、俵を斫《キリ》斷(たち)て、その店前(みせさき)に引きちらし、衣類・雜具(ざふぐ)は簞笥・長櫃を、うち破りて、路中(みちなか)へ投げ棄てたれば、ゆくもの、道をさりあへず。
[やぶちゃん注:「京橋南傳馬町」現在の中央区京橋一~三丁目。]
その米を拾はんとて、貪民の妻・婆々・小女(こめろ)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」のルビ。]さへ、乞兒《カタヰ》と共に、うちまじりて、袂に摑みこみ、囊(ふくろ)にいるゝ有さまは、耻をしらざるものに似たり。さりとて、制するものも、なし。
このごろ、小日向水道町にて、豐島屋といふ米商人の、其店を破却せられし有さまを、予が、めのをんなは、見たりしに、そのことの爲體《テイタラク》、これかれ、同じかりきと、いへり。
この故に、「米あき人(んど)」ならざるも、店のさまの、相似たるは、破却せられしも、間々、ありけり。
これにより、市(いち)のかみ[やぶちゃん注:町奉行。]より、寄騎(よりき)・同心を出だされて、制せさせ給ひしかども、勢(いきほひ)、當るべくも、あらず、只今、こゝにあるか、とすれば、忽焉(こつえん)として、鄰町(りんちやう)に、あり。
「あふれもの」どもの、そが中に、年、十五、六の「大わらは」の、いつも、衆人(もろびと)に先きだちて、軒(のき)に手をかけ、矮樓(にかい)に飛び入り、奮擊すること、大かたならず。
「これは、人間わざならで、必(かならず)、天狗なるべし。」
とて、「牛若小僧」と唱へつゝ、人みな、戰(おのの)き怕(おそ)れしが、後に、その素生(すじやう)を聞きしに、
「『大工(だいく)わらは』といふものにて、渠(かれ)、十二、三のころよりして、身輕く、力、あり、つねに好みて、梁(はり)をわたるものなり。」
とぞ。
[やぶちゃん注:「矮樓(にかい)」「矮」には「低い」の意がある。江戸御府内では「慶安のお触れ」以降、民家や商家などの建物に対して、その身分に応じての厳しい規制があり、新築等の場合には、庄屋や町方肝煎を通じて、代官所等に届け出が必要であり、この際、審査され、通常は不必要とされる本格的な二階建ては許可されなかった。旅籠・料亭・妓楼などで、狭い土地で立地せざるを得ない必要性があった場合に限って、慣例として認められていたが、それでも、二階から表通りが見下ろせるような造りは禁じられており、通りに面した壁面にある窓は、虫籠窓(むしこまど:漆喰で塗り込められた縦にごく細いスリットがある窓)・違い格子・透き見格子などで作り、明かり取り或いは換気孔程度とされ、また、外観上からは、二階に見えないような造り(デザイン)になっていた。則ち、日常的な部屋としてではなく、「厨子二階」(つしにかい)「中二階」など呼び、部屋の天井が低いことが特徴で、主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。無論、江戸辺縁部の農家などで養蚕などの必要性があるものは、別であった。
「大工(だいく)わらは」彼の渾名。所謂、大工で、高所が平気な、所謂、「鳶職」でもあったものであろう。]
はじめ、兩三日の程、甲州も、馬を出だして、
「制せん。」
と、せられしかど、彼等、いかにか角《スマ》ひけん[やぶちゃん注:如何に応じ、対抗したものか。]、搦め捕れしもの、ありとも聞えず。そのいく隊(むれ)なる「溢(あぶ)れ者」を、いづれの町の、誰(たれ)が店子(たなこ)ぞ、と、定かにしれるものも、あらず。
この故に、
「『うちこわし』の奴原(やつばら)あらば、速(すみやか)に搦め捕(とらへ)るべし。若(もし)、[やぶちゃん注:底本は『捕るべくも、手に』と続くのだが、如何にもおかしい。「馬琴雑記」で訂した。]手にあまらば、擊ち殺し、斫(きり)殺すとも、けしうは、あらず[やぶちゃん注:まあ、よかろう。]。」
と、いと、嚴(おごそか)に、町ぶれ、有りけり。
これにより、町々なる家主(いへぬし)に、おのおの、竹鎗を用意して、夜は、暮六つ[やぶちゃん注:不定時法だと、遅くなるので、定時法の午後六時で採っておく。]より、路次(ろじ)を閉ぢ、店番(たなばん)といふものを輪番せしめて、店中(たなちゆう)を巡らする物から[やぶちゃん注:この「ものから」は逆接の接続助詞。]、もし、その店の米屋が家に、件のものどもの、むらだち來て、破却することあるときは、店番は、あわて、まどひて、拍子木だも、嗚らし得ず、家主は、竹鎗を引き提げながら、路次の戶内(とうち)にふるひゐて、阿容(オメオメ)々々として[やぶちゃん注:底本は『阿容(オメオメ)たゝしく』であるが、意味がとり難い。「馬琴雑記」に代えた。]、こはさせけり。
この事、只、江戶のみならず、京・大坂も、亦、かくのごとし。
「凡、米屋といふ米屋の、米をもてるも、持たざるも、破却にあひしは、闕遺(けつゐ)なし。」
と、六月の末に聞えけり。こは、「未曾有の奇事」と、いはまし。
[やぶちゃん注:「闕遺(けつゐ)なし」『総てが「打ちこわし」に遭い、遭わなかった米屋は一軒たりとも、なかった。』という噂である。]
かくて、米屋には、なごりなく、破却せられて、そのことは、いつとなく、凡(およそ)、一旬(とをか)[やぶちゃん注:十日。]あまりにして、かき消すごとく、鎭まりぬ。
さればとて、そのものどもの、召し捕れしとも、聞えず。
[やぶちゃん注:実は逮捕者が少なかったのは、前回の注の引用で判る通り、町奉行曲淵景漸自身が庶民に同情的であったことによる。]
只、湯島なる米商人津輕屋三右衞門【今の棭齋が養父のときなるべし。[やぶちゃん注:「棭」は底本も「馬琴雑記」も『掖』であるが、後者ではっきりと「狩谷」の姓を記していることから、「棭斎」に訂した。]】がいち宇(う)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『いちくら』。]のみ。破却を免れて、かへつて、その一人を擊殺(うちころ)せし、といふ。こは、津輕侯より、足輕、許多(あまた)遣して、護(まもら)し給ひし故とも、聞え、或は、鳶の者等に、多く錢を取らして、日夜、防禦せし故、とも、いへり。
[やぶちゃん注:「棭斎」狩谷棭斎(かりやえきさい 安永四(一七七五)年~天保六(一八三五)年)は考証学者。江戸下谷池之端仲町の本屋青裳堂(せいしょうどう)高橋高敏の子で、初名は真末(まさやす)。二十五歳の時、湯島の津軽藩御用商人狩谷家を嗣ぎ、名を望之(もちゆき)と改め、津軽屋三右衛門を称した。棭斎は号(四十一歳での隠居後の通称とする)。晩年は浅草に住んだ。裕福で、商用の傍ら、学事に身を委ね、松崎慊堂を師として、日本古代の制度を研究、「律令」から「六典」・「唐律」・「太平御覧」・「通典(つてん)」などの諸書を考究して、遂には漢代にまで遡り、さらに進んで「六経」(りくけい)を修めた。古典の本文考証・注解や、金石文の収集に力を注ぎ、宋・元の古版本を始めとして、希書や古来の貨幣、その他、古器物の蒐集にも努めた。主な著作に優れた注で知られる「箋註倭名類聚抄」・「日本靈異記攷證」などがある。]
昔、享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず。これにより江戶中の米の價、錢百文に白米一升四合を換へしかば、衆俠(しゆうけふ)、忽に、群(むらが)り立ちつどひて、伊勢町なる坂間といふ米商人の「いちぐら」を破却したるこそ、未曾有の珍事なれとて、故老の口碑に傳へたれども、そは、只、坂間一箇のみ。天明丁未の奮擊は、京・攝・江戶の三郡會、同月一時に起り立ちて、進退・符節を合せたるが如し。彼(かの)坂間のともがらをして、なほも世に在らしめば、將(はた)、これを見て、何とかいはんや。おもふに、享保・元文中[やぶちゃん注:一七一六年~一七四一年。]は、金壱兩を錢三貫八、九百文、或は四貫文に、かへたり。天明中の、八、九合に當るべし。それすら、貧民の憤りに堪へざりし事、右の如し。まいて、百文に白米三合を換ふに及びて、破却のなごりなかりしも、おのづからなる勢(いきほひ)なるべし。この頃【丁未の秋。】、御藏(おくら)をひらかせられて、江戶中へ米の價、下直(げぢき)にして下されけり。大約(おほよそ)、一人に玄米一升五合と定めて、隈(くま)なく頒下(わかちくだ)されたる。この御仁政に、人氣、感激し奉りて、市中(しちゆう)、靜肅(せいしゆく)する程に、新麥(しんむぎ)も、既に、いで來、古米も、諸國より運送・入津(にふつ)するにより、八・九月に至りては、百文に白米六、七合になりにけり。しかれども、「その日稼ぎ」といはるゝ寒民は、なほ、白米を求むるに、ちから、及ばで、或は、蟲ばみたる陳米(ふるよね)、或は、殼麥(からむぎ)を、一、二升づゝ購(あがな)ひ求めて、これを日每に、一升德利とかいふ酒器に入れ、舂(つき)精(しら)げて、炊(かしき)て、食ひけり。
[やぶちゃん注:「享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず」所謂、「享保の大飢饉」である。前年享保十六年の末より、天候が悪く、年が明けても、悪天候が続いた。享保一七(一七三二)年『夏、冷夏と害虫により』、『中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ』、『瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約』二『ヶ月間にも及び』、『冷夏をもたらした。このため』、『ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても』、『多大な被害が出た』とされる。『被害は西日本諸藩の』内、四十六『藩にも及んだ』。この四十六『藩の総石高は』二百三十六『万石であるが、この年の収穫は僅か』二十七%弱の六十三万石程度しかなかった。餓死者は実に一万二千人『(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した』(但し、「徳川実紀」では、桁違いの餓死者九十六万九千九百人と記す)。『また』、二百五十『万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われ』、享保一八(一七三三)年正月には、『飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって』、享保の「打ちこわし」が発生している。『最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって』、『大三島』(おおみしま:現在の愛媛県今治市に属する芸予諸島の一つ)『だけは』、同島出身の六部僧であった下見吉十郎(あさみきちじゅうろう 寛文一三(一六七三)年~宝暦五(一七五五)年)が齎した『サツマイモによって』、『餓死者を出すことはなく、それどころか』、『余った米を伊予松山藩に献上する余裕』さえあった。『この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は』、『米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって』、『東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した』のであった(以上は当該ウィキ及びそのリンク先に拠った)。]
この年、八、九月に至りても、小まへの商人(あきうど)の妻子どもが、おのもおのも、店前(みせさき)にて、聊(いささ)か恥づる色もなく、彼(かの)德利にて、米を舂きてをりしを、折々、見たる事ぞかし。
されば、次の年戊申[やぶちゃん注:天明八(一七八八)年。]の春の季よりして、「小人(こひと)の曲子《コウタ》」に、
〽思ひだしたよ、去年の五月、「とくり」で米ついたこともある
と唄ひけり。これらは、里巷(りこう)の「曲子(こうた)」なれども、今も折々、うたはせて、
〽魚肉、なくて、飯の、くらはれず
などいふ、世のわか人の警(いましめ)にせまほしく思ふなり。
[やぶちゃん注:庵点は私が附した。
「曲子」は元は隋朝以来の俗謡から出た「曲子」(きょくし)という巷間の流行歌で、特に唐朝で流行し、列記とした詩人たちも作詞を試みたりしたものを指した。ここでは「小唄」に同じ。「小人」は「子供」の意でよかろう。]
しかるに、丁未の夏、餓(うゑ)たる最中、伊豆・上總より、鰹の生節(なまふし)を出だしゝこと、限りも、しられず。その市中を賣りあるくものを、買ふに、いと大きなる生節一つを、十四文、或は、十六文に買ひけり。又、「糟小鯛(かすこだい)」とかいふ小鯛を、日每に賣りあるくものも、多かりしかば、是も、價の、いたく、やすかり。よりて、この魚肉をもて、飢に充つるも、少からず。
「天の生民(せいみん)を養ふこと、彼に虧(か)けば、こゝに盈(み)つ。等閑(なほざり)に、な、思ひそ。」
と、こゝろある人は、いひけり。
予は、この市中の艱難(かんなん)に、あはず。
當時(そのとき)、某侯に仕へて、切米の外、月俸、はつかに、三口を禀(う)けたり。その月俸のうち、三斗の米を、月々に售(う)る每(ごと)に、價のますこと、漸々(ぜんぜん)にして、五、六月に至りては、蟲の巢にて罹(かか)りたる[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『羅(あみ)たる』である。「にて」の接続からは、その方が躓かない。]
陳米(ふるよね)をのみ、わたされしに、その玄米三斗の價、金壹兩三分になりたり。されば、出入(でいり)と唱(とな)ふる町人等、月俸のわたる日に、未明より、宿所(しゆくしよ)へ來て、
「おん扶持米を拂はせ給はゞ、某(それがし)に給はり候へ。餘人(よにん)より、價よく申しうけ候はん。」
など、いふもの、多くて、果は、これかれ、せりあひつゝ、「ことばすまひ」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『角口(ことばすまい)』とする。口喧嘩。]を起すも、ありけり。はつかの月俸すら、かくの如し。大祿(たいろく)の人々は、さぞ、有りぬべき事ながら、よき夢は、又、覺むるも、はやきや、これによりて、永く富みたりといふ人をも、見ざりき。
[やぶちゃん注:「某侯に仕へて」この頃の馬琴滝沢解(とく)の出仕などはよく判っていない。]
かゝる中にも、唐津侯の封内(ほうない)は、去歲(きよさい/こぞ)、豐作なりしにより、「かこひ米」、多くあり。
「世上、米價の貴(たか)きこと、今の時に、ますもの、あらんや。されば、年中の月俸を、只今、一度に取らせなば、家臣等の爲になるべし。」
とて、その年十二月までの月俸を、五、六月のころ、わたされしかば、みな歡ばずといふもの、なし。
「しかるを、わかきともがらは、俄(にはか)に德つきたる心地して、後々の事を、思はず、多くは「品川がよひ」をしつゝ、秋をも、またで、なごりなく遣ひたりしかば、米の價のさがりしころ、餓ゑて、せんかたなきも、ありし。」
と、ある人の話說なり。ことの虛實は定かならねど、筆のついでに識すのみ。
當時の米價を考ふるに、或書に、「五穀無盡藏」を載せて云、
『天明丁未夏六月上旬、諸國米穀の價、左の如し。
[やぶちゃん注:以下全体が一字下げの二段組みであるが、一段で示した。示し方は孰れも従わなかった。「馬琴雑記」はベタで繋がっていて、甚だ、読み難いが、底本の不審な箇所が腑に落ちるので、それで訂した箇所もある。]
現米壱石 價銀弐百匁
江都は 金壱兩に米一斗八升或は弐斗
加賀は米壱石に 百六拾壱匁
[やぶちゃん注:底本は『加賀米石に』。「馬琴雑記」で」訂した。]
肥後は 百九拾匁
筑前は 百七拾六匁
廣島は 百七拾四、五匁
中國米二俵は 價銀百五拾壱、弐匁
柴田米七月四日入札 弐百壱匁八分
大津澤米一石に 百七拾三四匁
[やぶちゃん注:底本は『大津沢米石に』。同前。]
白米一石は 價銀弐百拾五、六匁
小賣一升に 錢弐百三拾八文
岡大豆壱石に 價銀八拾匁
こはその崖略(がいりやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。「槪略」。]のみ。なほ、詳(つまびらか)なるもの、あらんか、たづぬべし。又、家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士(らぶんこじ)の錄中[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は『遺錄中』とある。]に、「近世荒饑畧考(きんせいかうきりやくかう)」の一編あり。謄寫(とうしや)すること、左の如し。
[やぶちゃん注:「家伯兄(ワガオホヒ)羅文居士」滝沢解の長兄興旨(おきむね)。羅文は生前の彼の俳号。寛政一〇(一七九八)年没。
以下、字配は底本に従った。]
寬永十九壬子年、春より夏に至り、飢饉餓死多し。 今年迄百四十六年
[やぶちゃん注:「寬永十九壬子」干支は「壬午」の誤り。一六四二年。]
延寶三乙卯年、天下飢饉、餓死多し。
[やぶちゃん注:一六七五年。]
將軍家下命、從三月至五月、於北野七本松原四條河原、貧人を集、粥及米錢施行、 今年迄百十四年
[やぶちゃん注:「將軍家」第四代徳川家綱。]
天和元辛酉年十一月、江戶凱僅、爲御牧米三萬俵披下之。 今年迄百三年
[やぶちゃん注:「天和」は底本では『元和』。「馬琴雑記」で訂した。天和元年辛酉は一六八一年。]
同二壬戊年二月、飢饉餓死多し。三月洛陽大雲寺、誓願寺、法輪寺、此外於諸寺錢施行、又餓死の爲、一七日施餓鬼供養、於北野松原從將軍家粥施行。 今年迄百二年
元祿九丙子年、自夏至秋、中國稻蟲生ず。西國大名衆拜皆、餓民御救。 今年迄九十二年
[やぶちゃん注:「元祿九丙子年」一六九六年。]
享保十七壬子年、關東五穀不熟。依之窮民御牧。 今年迄五十四年
[やぶちゃん注:「享保十七壬子年」一七三二年。]
寶曆六丙子年、五穀不熟。窮民御牧。 今年迄三十七年
[やぶちゃん注:「寶曆六丙子年」一七五六年。]
天明三癸卯年、關東五穀不熟。江戶及奧州飢餓、此節五千俵田沼山城守に被下之。信州淺間山燒崩、溺死多し。窮民滿道路。依之被命於領主以鐵砲追之。或は打殺之。 今年迄五年
[やぶちゃん注:「天明三癸卯年」一七八三年。]
同七丁未年、自春至夏江戶及諸國飢饉、至五月白米三合、代錢百文に及ぶ。都下の俠者及餓民等、江戶中の米屋を破却闕遣無し。京、大坂も亦如此。至秋鎭る。追日爲御救米の、直段下直に被下之。
[やぶちゃん注:「追日爲御救米の、直段下直に被下之。」底本は「の」が「て」。「馬琴雑記」で訂した。訓読すると、「日(ひ)を負ふて御救米の爲(ため)、直段(ねだん)、下直(げぢき)に、之れを下さる。」。]
右、友人吉岡雪碇、錄して、予に視ㇾ之(これをみす)。因(よりて)、
「謄寫、了(をはんぬ)。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「吉岡雪碇」(よしおかせってい 生没年確認出来ず)は、馬琴の兄興旨の竹馬の友で、酒井飛驒守忠香(ただか 正徳五(一七一五)年~寛政三(一七九一)年:明和二(一七六五)年に西の丸若年寄などを歴任して徳川家基付の重臣となった人物。家基亡き後は、家基の父で将軍の家治に仕えた)の部屋番であった。通称は定八郎。]
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