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2021/10/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その7)

 

 解云、「當時を考ふべきもの、管見[やぶちゃん注:底本は『管窺』。「馬琴雑記」で訂した。]、纔に、これらにすぎず。天明の季より寬政中に至りても、米穀の價、いまだ、廉ならず。これにより、關東地𢌞りの酒造を禁《トヾ》めさせて、且、池田・伊丹も、釀酒(じやうしゆ)の斛高(こくだか)を減じられたり。

[やぶちゃん注:「池田」大阪府北部にある池田市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くから大坂の名酒の産地としてしられた。サイト「たのしい酒jp.」の「大阪の日本酒【緑一(みどりいち)】“池田酒”の歴史と伝統を受け継ぐ酒」によれば、『池田の地で酒造りが始まったのは、室町時代末期から安土桃山時代ごろのこと。当時、北摂(ほくせつ)地域の中心地としてにぎわっていた池田は、猪名川(いながわ)の伏流水と、山間部でとれる良質な米に恵まれ、酒造りに適した環境がありました』。『また、“池田の酒造りの祖”と言われる満願寺屋九郎右衛門が、かの徳川家康に酒を献上して「酒造御朱印」(酒造免許)を授かったことも、酒造業が発展するきっかけになったと伝えられています』。『この地で造られる「池田酒」は、「江戸下り酒」』(上方から江戸に送られた酒をかく呼称した)『として人気を博します。銘醸地としての地位を確立した江戸時代中期には、池田には』三十八『軒もの酒蔵が並んでいたのだとか』。『「緑一」の蔵元である吉田酒造は』、元禄一〇(一六九七)年に『加茂屋平兵衛によって創業されました。代表銘柄である「緑一」は、澄んだ色をした上等の酒を表す「緑酒」という言葉と、「池田が清酒発祥の地」という誇りを込めた「一」を合わせて、命名されたと言います』。『かつては酒処として栄えた池田市ですが、現在も酒造りを続けている酒造会社は、吉田酒造を含めてわずか』二『社のみ』で、三百『年の歴史を持つ吉田酒造は、この地の酒造りの歴史を今に伝える、貴重な存在だと言えるでしょう』とある。今一つは呉春酒造であろう。]

 是より先に寬政二庚戌年[やぶちゃん注:一七九〇年。]、江戶町中の法則を定め下され、數ケ條(すかぜう)の「くだしぶみ」を彫刻して一册となし、入銀百廿四文と定めて、町役人及(および)家持の町人等に頒(わか)ち取らせ給ひき。この時に當りて、江戶柳原の東北、「あたらし橋」の向(むかふ)に、「義倉(ぎそう)」を建てられて、これを「籾藏町會所(もみぐらまちくわいしよ)」と唱ふ。すなはち、江戶中(えどぢゆう)町入用の中(うち)、無益の雜費を省かしめ給ふこと、凡、八分、その中、七分を、每月、籾藏町會所に納めしめて、窮民を牧はせられ、且、荒年に備へしめ給ひぬ。無量廣大の御仁政、これを仰げば、いよいよ、高し。孔聖、仁を先(さき)にして、食を後(のち)にするもの、寔(まこと)にゆゑあるかな。星(ほし)、移り、物、換(かは)りて、御規定の町法も頗(すこぶる)變替(へんたい)したりといへども、義倉は、猶、巍然(ぎぜん)[やぶちゃん注:高く抜きん出るさま。]として、向(むかひ)柳原の外、又、ニケ所、その礎(いしずゑ)と共に、朽つるとき、なし。假令(たとひ)、今より後、凶荒、年を累(かさ)ぬとも、天明丁未の夏のごとき、四民、困窮して屋《イヘ》を壞(やぶ)り、物を損ふに至るべからず。且、丁未の忩劇(そうげき)[やぶちゃん注:世の混乱や騒ぎ。]も、餓民等(がみんら)、唯、米商人の奸詐(かんそ)[やぶちゃん注:悪巧み。]・貪婪(たんらん)[やぶちゃん注:欲深いこと。読みは「馬琴雑記」によったが、「どんらん」「とんらん」でもよい。]を憎み、恨みしのみ。露ばかりも、野心のもの、なし。便(すなはち)、是、神州忠直の人氣の、おのづからなるものにして、異朝の及ぶ所に、あらず。しかしながら、亦、かけまくも、かしこき上への御至德・御威光によるものなれば、萬民、各々、業を奬(はげ)みて[やぶちゃん注:底本は『奨めて』。「馬琴雑記」で訂した。]、驕(おごり)を袪(しりぞ)け、泰平のうへにも、なほ、泰平を樂(ねが)ふベきこと、勿論なるべし。よりて錄して。みづから警め人を箴(いまし)むること、件の如し。」。

[やぶちゃん注:「あたらし橋」現在の美倉橋の古称(江戸時代を通じて庶民は「新シ橋」と呼び、切絵図でもそうなっている。ここの上流の昌平橋も、この呼称で呼ばれたことがあるので注意が必要)。例の「古地図 with MapFan」で見て戴くと、北詰の東北位置に「御籾蔵」とあるのが確認出来る。

「義倉」中国・朝鮮・日本に於いて、旱魃・凶作の際に窮民を救うために設けた非常米貯蓄制度。中国では隋の五八四年に設けられ,唐は六二八年以来、一畝ごとに粟(ぞく:米と粟(あわ))二升を徴収した。非常時には無償で放出したが、それ以外の時に流用されるようになり、唐代の後半から宋代には常平倉(じょうへいそう:物価を調節するために設けられた官営の倉庫。取り扱うのは主に穀物で,安値の時に買い、高値の時に売る。商人はこれによって利益を得、政府は物価の調節を図った)と合して、「常義倉」と呼ばれた。日本の律令国家も、これにならったが、効果はあまりなかった。江戸時代に復活し、幕府や藩によって造られ、「社倉(しゃそう)」とも呼んだ。「常平倉」とともに農民収奪の安全弁の役割を果たした(以上は平凡社「百科事典マイペディア」他に拠った)。]

 再、いふ、「予、『丙午丁未和漢災變當否』の辯あり。あまりに辯の長くなれば、そは、又、別にしるすべし。」。

 この餘、文化以來、連歲(れんさい)[やぶちゃん注:底本は「連」なし。「馬琴雑記」で加えた。]、豐作、うちつゞきて、米穀の價、或るは、金壱兩に、石、二、三斗、或は、石、五、六斗、又、所によりて二石餘なるもありし事、是により、諸家に命ぜられて、米粟を、多く、かこはしめ給ひ、又、江戶町中(まちなか)にも、その分際に應じて戶每(とごと)に米を買ひ入れさして、かこはしめ、いく程もなく、その事、やみて、その米を御あげになりし事、文政に至りても、江戶中の商人等に、

「物の價を、一わり、引きさげて、賣れ。」

と、ふれられし事、當時、士・農、豐年を憂ひとせし事、今玆(ことし)に至りて、奧州半熟(はんじゆく)の聞えあり。美濃は洪水によりて、人、多く、溺死せし事、甲州に蝗(うんか)の風聞のある事まで、悉くしるし盡(つく)さば、その間《アハヒ》には、亦、論辯のなきにあらねど、かゝる事には憚(はばかり)の關(せき)をいかゞはせん。予は壯年より筆とる每に、謹愼を旨として、禁忌に觸るゝことは、記載せず。見ん人、これをおもひねかし。

 附けていふ、この兎園の集莚(しふえん)は、必(かならず)、月の朔日にすなるを、來ぬる霜月には、文寶堂のあるじすべきを、

「さはること、あり。」

としも聞えしに、

「けふなん、關東陽の誕節なれば。」

とて、その祝席を相兼ねて、社友を海棠庵につどへられしなり。よりて、いさゝか、ことほぎのこゝろをよみて、おくり物に、かふ。予が「たはれ歌」、

 よきたねのみばえし日とて筆柿のわざに熟せし君をことぶく

黃鳥、いまだ谷をいでず、といへども、時今、小春にして喬木に遷るのおもひあり。交遊兼愛の情、こゝに言なきこと、あたはず。莫逆風流の佳席、燭を續(つ)ぎて、長夜の闌(たけなは)なるを、おぼえず。そもそも、亦、愉快ならずや。

文政八年乙酉十一月の兎園小說第十一集中の一編

同年の冬十月廿三日     玄同陳人解識

[やぶちゃん注:「關東陽の誕節」【2021年10月30日改稿】旧稿では江戸開府のことかとトンデモ大間違いしてしまった。いつもお世話になるT氏の御指摘で、何のことはない、この会の発会場所である、海棠庵邸の若主人で常陸土浦藩藩士にして書家でもあった関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年十月二十三日~文政一三(一八三〇)年九月二十七日)の誕生日であった。彼は父関克明(こくめい)に学び、藩の右筆手伝などを務め、書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集をも助けた。死因は不詳だが、この会の六年後に三十五の若さで亡くなっている。「東陽」は彼の別号である(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。T氏に御礼申し上げる。

 さて。これで終わったと思うでしょ? ところがどっこい! アラまっちゃんデベソの宙返り! まだ附録が底本にして約七ページも続くんでえ!

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