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2021/10/03

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 小右衞門火

 

[やぶちゃん注:前に続いて龍珠館の発表。これは実は五年前に「柴田宵曲 妖異博物館 狸の火」の注で電子化注している。今回は零からやり直し、注も再考証した。改行はママ。字下げも今回は再現し、ブラウザの不具合を考えて、短くして字下げを保存した。]

 

   ○小右衞門火

大和國葛下郡松塚村は東西に川あり。西を大山川といふ。此堤に、陰火、出づ。【出でし初は、いつの頃よりといふを知らず。】土俗は「小右衞門火」といふ。「百濟の奧壺」といふ墓所より、新堂村の「小山の墓」といふへ、通ふ火なり。雨のそぼふる夜は、分けて[やぶちゃん注:取り分け。特に。]出づ。大さ、提燈程にて、地をはなるゝ事、三尺計といふ。「奧壺」より「小山」迄は、四十町計にて、「松塚」の面の端は、其やしきなり。同村に小右衞門といへる百姓、此火を「見とゞけん」とて、彼所に至りけるに、火は、北より南をさして、飛び行く。小右衞門は、南より北に向ひて步みよりたれば、此火、小右衞門が前に來るとひとしく、急に高くあがり、小右衞門が頭の上を飛び越ゆるに、流星の如き音、きこえたり。頭を越ゆると、又、以前の如く、地を去る事、三尺計[やぶちゃん注:約九十一センチメートル。]にて、行き過ぎぬ。一說に、此時、小右衞門、杖にて打ちければ、數百の火となりて、小右衞門を取り卷きけるを、漸、杖にて打ち拂ひ、歸りたり、といふ。其夜より、小右衞門、病を發して死す。因りて小右衞門火と名づく。此事、凡、百年計、以前にもなるべし。

此火、年をふるにしたがひて、火の大さも、やゝ減じ、出づる事も、次第に、稀になりたり。小右衞門、死してより、人恐れて近く寄らざる故にや。「今は、遠望にては、見るものなし。若、たまたま見ゆる時は、螢火計の大さにて、夫か、あらぬか、といはん程なり。」と、いへり。

  此松塚村は、我食邑ゆゑ、土俗の物語を、
  能々尋ねきゝたるまゝに、書せり。

[やぶちゃん注:「大和國葛下郡松塚村」「葛下郡」は「かつげのこほり」と読む。明治後期に北葛城(きたかつらぎ)郡となった。現在の奈良県大和高田市北部の葛城川右岸の大字松塚(まつづか)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東西に川あり。西を大山川といふ」それぞれが概ね東西の村界を成している。現在は東の流れを「曽我川」、西側のそれを「葛城川」と呼称している。後者は、現在は、後にずっと北の下流で曽我川に合流し、それから程なくして曽我川は大和川に合流している。また、この葛城川は上流を辿ると、奈良東部の金剛山地を水源としてことが判り、嘗ては葛城山と金剛山を含む葛城山脈を総称して葛城山と呼んでおり、この山は神話に於いても、この附近で最も知られた山の一つであり、正式は「和葛城」と呼ぶので、この「大山川」は「葛城川」の古名或いは異名としても何らおかしくないのである。

「百濟の奧壺」読みは「くだらのおくつぼ」であろう。不詳であるが、現在の松塚の北端から約一・四キロメートルの直近の北葛城郡広陵町(ちょう)百済(くだら)に三重塔で知られる真言宗百済寺(くだらじ)があるから、この近辺の旧地名か、或いは「奥壺」は「奥津城」の表記換えで、百済地区の墓所を指すものと考えてよいであろう。ウィキの「百済寺(奈良県広陵町)」によれば、『寺は三重塔と小さな本堂を残すのみで、隣接する春日若宮神社によって管理されている』(確かに、調べてみたところ、現在は無住である)。『伝承によれば、この寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地であるという』。『百済大寺とは』、七『世紀前半に創建された官寺で、再度の移転・改称の後、平城京に移転して南都七大寺の』一『つ』である『大安寺となった』。「日本書紀」の舒明天皇一一(六三九)年七月の条に『舒明天皇が「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」と命じた旨の記事があり、大宮と大寺は「百済川の側(ほとり)」に造られたという』。『この百済大宮と百済大寺の所在地を奈良県広陵町百済に比定する説は古くからあり、江戸時代の延宝』九(一六八一)年『成立の地誌』「和州旧跡幽考」も『当地を百済大寺の旧地としている。しかし、当地における「百済」の地名が古代から存在した証拠がないこと、付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮(岡本宮、田中宮、厩坂宮など)の所在地が飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地中央部に位置するのは不自然であることなどから、この地に百済大寺が所在したことは早くから疑問視されていた』。一九九七『年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺』(ここ)『の発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが百済大寺であった可能性がきわめて高くなっている』。なお、現在の『広陵町の百済寺は、室町時代には多武峰領となっていた。江戸時代初頭の慶長年間』(一五九六~一六一五年)には六坊を『数えたが、江戸時代後期の天保年間』(一八三〇年~一八四四年)『には中之坊と東之坊の』二『坊を残すのみであった。現在の春日若宮神社社務所は中之坊の後身である』とある。

「新堂村」先の電子化では『不詳』としていたが、調べ方が如何にも杜撰であった。今回、調べたところ、松塚の真南一キロメートルの位置に、奈良県橿原市新堂町がすぐに見つかった。但し、そこの「小山の墓」というのは不明である。しかし、本文で百済の「奥壺からこの小山の墓」までは「四十町計」(約四・四キロメートル弱)というのは、この新堂町とピッタリ一致する。百済寺起点で直線で北に新堂町の北端までは四・三キロメートル強だからである。

「松塚の面の端は其やしきなり」これも以前の注を訂正する。現在の集落形勢と田畑の様子を見るに、松塚の中央西端部分に集落が有意に集中して形成されている(グーグル・マップ・データ航空写真)ことが判る(その南北は田畑であり、江戸時代とその関係が極端に異なる可能性は私は低いように感じられる。「今昔マップ」の明治後期でも全く同じである)。今回、ここは重要な人物である「小右衞門」の住まいを示すために、松塚の集落(屋敷群)の位置を示したものと考えた。これは、北から南へ飛ぶ怪火を目撃するロケーションとしては、すこぶる附きで最良の位置だからである。この集落の東の、比較的、家屋が空いている土地部分とその上の空間を、百済寺から新堂までの直線が通過することになるからなのである。

「百年計」(ばかり)「以前」。この発表は文政八(一八二五)年八月一日であるから、その百年前は数えで一七二六年となり、享保十一年頃ということになる。

「我食邑」「わがじきいふ(ゆう)」と読んでおく。報告者である旗本桑名修理が年貢を受ける知行所(村)の一つであることを言っている。但し、知行地であっても、実際には差配された場所が遠ければ、実際に行くことは、まず、なかった(そもそも江戸の保守を担う旗本・御家人は江戸府内を届け出なしに出たり、気楽に物見遊山などをすることは実は許されなかったからである)。それでも、情報はそれなりに気になるから、人を遣ったりして、現地の様子を得ることは頻繁に行った。何かまずいこと(疫病・飢饉・逃散・犯罪・一揆など)が起これば、自分に責任が回ってくるからである。]

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