曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十集) 庫法門
[やぶちゃん注:非常に長いので、段落を成形した。この「庫法門(くらほふもん(くらほうもん))」「御庫門徒(おくらもんと)」というのは、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、浄土真宗の異端的一派で、「御庫秘事」(おくらひじ)「土蔵秘事」「布団被り」「内証講」「御杓子講」「隠念仏」 (かくしねんぶつ)などの異称があり、浄土真宗の異安心 (いあんじん:仏教各宗派に於いて、祖師の伝承に基く正統な説とは異なった見解・領解(りようげ:悟り)を指す。「異流」「異義」「異計」「邪義」とも呼ぶ。特に、浄土真宗では正統の安心を重んじて異安心の排除に熱心であった。真宗における異安心は、既に親鸞の在世中、その門下に「一念・多念」或いは「有念・無念」等の論争があり、「誓名別執」「造悪無碍(むげ)」「専修賢善」といった異義があった。本願寺を開創した覚如は、親鸞の正意の発揮に努め、仏光寺系の「知識帰命」や、唯善の「無宿善往生」の異安心を排した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った) の一種で、秘事法門の代表的なもので、土蔵の中で弥陀の本身を拝し、在野の宿善の者のみに、親鸞が特にその子善鸞(後に父親鸞によって義絶された)に伝えたという深義を説くとされ、名古屋一帯を中心に関東でも行われた、とある。学術的には『真宗研究』第十九号(一九九八年発行)の菊池武氏の論文「近世に於ける越後長岡異法義始末記」(ここでPDFでダウン・ロード出来る)が、これと同じ浄土真宗の異端信仰者の越後長岡での摘発の経緯を記している。さても。本篇は、いかにも、今のファンダメンタル系異端集団や、怪しい新興宗教及びニュー・サイエンスなどの巧妙な勧誘法や、精神医学書の典型的なヒステリー事例としてのトランス状態や、その集団感染の様子を哀れに髣髴させるリアリズムな筆致なので、記号等も多用した。]
庫 法 門
往昔、世に「庫法門」【俗に「御庫門徒」と云ふ。】とて、あやしき宗旨ありしが、ある人、その宗を、いとあやしみて、彼法に入り、委しくその勸むるてだてを試み、いよいよ、直ならぬ敎なりければ、官府へ訴訟し奉りしかば、やがて、これをいましめおきてさせ給へり。其訴へ申しゝ人の、其宗門の勸むるさまを詳に記し、「庫裏法」と題せし册子あり【又、「二樵閑話」とて、かの庫法門のことを記したる、此二書にて、彼宗はつまびらかにしらるべし。】。其序に云、
『自ㇾ古邪說惑ㇾ人多矣。而庫裏法之行也。亡慮百年焉。人間無二一人知一ㇾ之。則其怪祕藏者可レ知也。此書一出耶徒屛息。冷謄無ㇾ所ㇾ施二其術一。其功不二亦偉一乎。』
と、いへり。
予、このごろ、何くれのわざ、しげくて、いまだ「兎園」の料を得ざりき。こゝに於て、嘗て「庫裏法」を鈔し藏めたりしを、寫しいでつ。徂徠翁の「畸人十篇」に題して云、『遂俾下寫二一通一以爲中燃ㇾ犀照ㇾ怪之具上云。』と。予が此書においても、亦、いへり。
――敎主を善兵衞といふ。元來、行德村の者にて、幼少より傳馬町中野屋と申す鼈甲細工致すものゝ方に奉公せしが、身持あしくて、彼宗を追ひ出だされ、芝居役者の聲まねを申して、齒磨など商ひたり。其後、此宗をひろむ【按に、「二樵閑話」に云、『善兵衞、法名は善生、一人なり。外に源右衞門とて、神田に在り。これを神田方といへり。】。
「傳來も四代迄は、姓名覺えたれど、其以前は名をしらず。」
と云ふ。
尤、みな、俗形[やぶちゃん注:「ぞくぎやう」。]にて、僧には無之よし。
勸め方の次第は、江戶・田舍ともに、右信仰のものどもの内にて、譬へば、親族にても、他人にても、『此ものを勸め込み可申』と心付候へば、事の序に、世話人へ、はなし、世話人、承り、其勸めんと申者の行狀、又は、宗旨、その外、氣質まで、とくと承り、誤もあるまじく思ひ候へば、勸めさせ申候へども、至りて大事に不調法無之樣、申含候。
夫より、晝夜不懈[やぶちゃん注:「おこたらず」。]、附まとひ、何につけても、深切に實情を盡し、神道信仰の人は、六根淸淨の祓など、神祕がましきことをほのめかせ、儒學など聞きはつりしものへは、
「顏子[やぶちゃん注:孔子最愛の弟子顔回。]が所樂は何事ぞ。」
など申す。
そのものゝ心を引動し[やぶちゃん注:「ひきうごかし」。]、又、人の貴賤を擇まず[やぶちゃん注:「えらまず」。]、賤者の、ことに貴く存候譯は、我々が樣なる下賤のものを、
「御同行[やぶちゃん注:「ごどうぎやう」。]よ、行者衆よ。」
と、歷々の人と同じく致候事、誠に利を貪る爲にもなく、外聞をおもふにても、なし。只、
「此報恩には、金錢は力に及ばず。」
など、人を勸むべき手だてをめぐらし、敎訓し、又は、佛法者なれば、
「人々は、佛法、信仰し給へども、いまだよき智識に逢ひ給はぬゆゑ、誠の事を聞き給はず。殘り多きことなり。」
など申し候故、
『扨は。道德勝れし出家などに近付きて、人しれず、貴き敎などを聽聞致すもの。』
と存じ、
『何卒、かゝる智識あらば、我も近よりて、法談にても、聽聞したき。』
と思ふこゝろ、出來、密に承り候へば、始は、わざと、隱す樣に、もてなし、
「成程、尊き師のおはしまし候。扨、引き合せ吳候。」
樣に愼み候へば、何かに付き、日を延し、爰彼[やぶちゃん注:「これかれ」。]、この同行へ、しる人に致候て、法義、物語りし、
「誠の道を求むるには、志淺くては至りがたく、不惜身命の心にて求め候はゞ、終には志願成就の時も可有之間、只、心にたゆみなく、手足を、はこび、家にありても專念し、我信ずる佛菩薩にも、誠の智識にあはせ給へと、一心に念じ給へ。」
など申し聞え候まゝ、理に至極して、敎の通り、怠りなく念ずる内に、
「何卒、片時も、はやく、智識の人に逢ひ申し度。」
と、せちに賴み、無餘儀ときは、
「京に至りて、信心の同行の招にて上京し給ふ。」
の、或は、
「みちのく。」
又は。
「そこの田舍。」
などと申し延して、
「待ち遠くおぼすべし。智識に逢ひ給ふまでにありしが、法談を、先、聞せ申すべし。」
とて、高弟の辯舌あるものに、いはせ候。
是を「下催促」と名付候なり。只、
「求むる心の、たゆまぬ樣に。」
と、のみ、心はげませ、引き立て候。是、深き謀なり。
「近内、智識、江戶へ渡り給へば、案内申すべし。」
とて、その日になれば、彼引立の同行、伴ひて、同行の内とおぼしく、人、あまた、つどひたる處にゆきぬ。一間に、檀、しきて、經机など置きたるは、智識のおはする、まうけなり、と見ゆ。凡、三、四十人も集りより、こぞり居る體、あやしく、めづらかなり。
辰の刻[やぶちゃん注:午前八時頃。]ばかりに、
「智識、來り給ふ。」
など、ひそかに、いひあへり。
かのまうけの座につくを見れば、若き男なり。
『こは、いかなることにか。』
と思ふに、
いづれ、いづれ、此程、同行衆の各、いひ通じて、佛法のこと、せちに求めおはする。」
由を、うけ給はりて、奇特に思ひ侍り。
「とく、あひ來るべきを、さはることありて遲なはり侍る。」
よしなど、ねんごろに云ふことの體、なめげならず、うやうやし。
是、善兵衞なり。
扨て、いふやう、
「佛法の一大事は、法衣まとひし老僧の申し侍るべきを、在俗の、年若き者の、まみえ奉れば、あやしく思召べし。是には、段々、譯のあることなり。先、蓮如上人の御歌。」
とて、
說く人の姿を見るな聞く人の理り聞きて身の德とせよ
と申す歌をかたり、八宗九宗[やぶちゃん注:「はつしゆうくしゆう」。平安旧仏教(「南都六宗」の「華厳」・「法相」・「三論」・「成実(じょうじつ)」・「倶舎(くしゃ)」・「律」の南都六宗に「天台」・「真言」の平安(京都)二宗を加えた「八宗」(はっしゅう)に、広義の「禅宗」を加えたものが「九宗」(くしゅう)。]の大意、神儒の極意などこそ、申し聞せ候。愚昧のものは、
「至極の法門。」
と、驚き入り候。
「今の一向宗とは、我慢・愚癡にして、自力をことゝす。我、傳ふる處は、蓮如上人より江州金が森の道西へ傳へ、嫡々、相承して、某に至れり。御文[やぶちゃん注:「おふみ」と訓じておく。]、八十一通あり。其内、肝要なるをよむべし。」
とて、「月の御文」を讀む。
坊主を戒めの御文なれば、さきの詞に引き合せて、京都樣[やぶちゃん注:蓮如のことであろう。]をも譏り奉る趣き、明らかなり。
又、異かたにて、座を設くるも、きのふの如し。
はや、きのふ、說き勸められて、淚にくれ給ひたる故、けふは、淚の落つること、はやし。
辰の刻より、午の刻の頃までに、法談、畢れば、男女、殘りなく、
『啼きさけぶ外に、かゝるためし、あるべしや。』
と思へり。
夫より、扇を持ち、地をうちて、「虎と見て石に立つ矢もあるものを」といふ歌をいひ、「『命を捨つる程に』といひしは、いまだ、御志の、しれ侍らざればなり。誠は、命、生きて歸らせ給ふことは、難きなり。命なくなり給ふなれば、ゆめゆめ、くい給ふべからず。父に兄弟、金銀何にても思ひ給ふことあらばとて、歸り給へり[やぶちゃん注:底本にま「へり」の右にママ注記がある。]。」
と、强くいひ、誓言を立てさす。是を「懺悔(ザンゲ)」[やぶちゃん注:ごく近世までこの「懺悔」という語は仏教では「さんげ」と読むのが普通であり、現在でも仏教では「さんげ」である。通常は明治以降にキリスト教が一般に広まるにつれて「ざんげ」の読みが普通となったから、この「ざんげ」というルビは極めて特異的な読み表記と言える。]といへり。
夫より、「五重の消息」[やぶちゃん注:不詳。「庫法門」内に伝わる誰彼の五通の書簡か。]をよみ聞かせ、はや、法談は止め、智識の前へ、ひとり、ひとり、出でゝ、手を組み合せて、鳩尾の下をしつかりとおさえ、目をふさぎ、扨、いひ聞するは、
「『南無』といふは、『たすけ給ひ』といふ詞なり。是を、いく度も、いく度も、唱へ給へ。扨、その程に、如來、たより、信心、治定せしめ給ふ故、あみだ佛の、おのが身へ宿り給ふなり。是、『南無』と賴む機と、阿彌陀佛の法と、機・法、一體にて、南無あみだ佛、全く備り給ふなり。世に『南無あみだ佛』とばかり唱ふるは、笑ふべきことなり。」
など、理り、こまやかに、いひきかせ、扨、廣き座敷に、幾人も、幾人も、手をくみ、目をふさぎ、
「たすけ給へ……たすけ給へ……」
と、いひて居るに、後を、屛風にて、かこひ、斯する程に、志の强きは、唱ふる聲も、力を入れて見ゆるを、『世話』といふもの、後の方より、兩脇へ手を入れ、抱きて、藏へつれ行くなり。
藏の内に、佛壇ありて、前に燈明・線香・樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の花を備へたり。
右の方に、善兵衞、冬にても、單衣に、「すそほそ」をはき、左に、行悅、又、稻葉屋などいふ、宗徒、居れり。緣とりたる敷ものゝ上に、抱へ來れば、行者に、善兵衞、向ひ、
「目を開き給へ。」
と、いふ。
[やぶちゃん注:「すそほそ」「裾細」で野袴の一種で裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」のこと。]
始めて見れば、思ひもかけぬ座に直り居て、ことやうなるものども、あまた居るゆゑ、たれも、たれも、驚く。
かくて、善兵衞いふ樣、
「尊像あみだ佛に向ひて、前のごとく、目を閉ぢ、人の詞につき、『たすけ給へ……たすけ給へ……』と唱ふべし。いか程くるしきことありとも、退く心あるべからず。」
と云ひ敎へて、數多の人、かはりがはり、
「たすけ給へ……たすけ給へ……」
と唱ふ。
そのこゑに付きて唱ふるに、始は、ひきく[やぶちゃん注:「低く」に同じ。低く小さな声で。]、次第次第に、高く唱ふる程に、助音するものは、大勢にて、唱ふるものは一人なれば、苦しさ、いはんかたなし。
又、信ずるものは、少しもためらはず、
『はやく、死ばや。』
その心にて、たゆまねば、やがて、面も、かはり、さながら、死せるものゝ如し。
女などは、髮、面にかゝり、さけぶさま、信なくて見つれば、淺ましき事、いはんかたなし。
かの行者を、とらへ、引きあふのけ、耳に口をあてゝ、
「助けたり。」
と、いふ。その時の聲、始めて、耳に入り、
『はや、往生の業、成就したり。』
と思ふにや。
「はつ。」
といふ聲を揚げて、啼き出だす。
傍なる智識も、
「よくしたり。」
とて、悅びあへり。かくて、人、伴ひて、藏を出で、靜なる所に臥さしめ、介抱す。
扨、人々かたりあふは、
「今までは、訪ひ申すべきも、禁しめなれば、餘所にのみ見侍りしが、はや、そのかた樣の人となりし。」
とて、ものがたりす。近きあたりの人は、酒くみなど、せり。
すべて、これを「終の日[やぶちゃん注:「つひのひ」。]」と定め、七々の法事・一周忌・三囘より、つねに異なること、なし。
「夫より後は、强ひて、まみゆることもなく、布施など、おくる煩ひも、なし。一紙半錢にても、人より、とり給ふ智識に、あらず。」
[やぶちゃん注:「一紙半錢」(いつはんせん(いっしはんせん))は「一枚の紙切れと半文(はんもん)の銭(ぜに)。極僅かの金銭の喩え。仏家では寄進の額が少ないことに用いる。]
など、いへど、大きなる僞りにて、參詣の者、
「施物・香奠を奉り度。」
由、かの引立どのに、いへば、とく厭ひ給ふを、
「まのあたり奉り給はんはいかゞなり。去ながら、志のほど、せちに思ひ給はゞ、我等がするごとくし給へ。佛間の中に、小き穴、あり。是へ、志のほど、落とし入れて歸り給へ。さらば、御手へ屆く事もあるべし。よしや、そのまゝむなしくなればとて、そこの志は佛こそ知り給ふらめ。志、あつく、人々にあるじせられしむくいをせざらんは、犬猫にもおとれりと思ふは、人情のつね。」
など、いひて、衣類・米・麥等、寄附するは、寺院に異なること、なし。
その術中に入りぬる人は、いかで理をわきまへ知らんや。實に、淺ましき、かなしむべき事、此ことに止れり。
文政乙酉孟冬朔 山﨑美成識
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]
この「おくら門徒」は、はじめ延寶・天和[やぶちゃん注:一六七三年~一六八四年。]のころ、盛なりしが、露顯して、その繼は流刑せられたり。多賀潮古が、八丈島へながされしも、この故なりとぞ。かくて明和中、また、盛になりしを、ある人【天明中[やぶちゃん注:一七八一年~一七八九年。]、狂歌をもて、その名、聞えたる町人なりとぞ。憚りて、こゝに記さず。】、訴訟まうしゝかば、やがて、罪なは[やぶちゃん注:「罪なふ」は「処罰する」の意の動詞。]せ給ひてより、絕えにたるは、いと、めでたし。近ごろ、又、「富士講」といふもの、あり。寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、停止せられしが、今もなほ、あり。されば、この「富士講」の行者は、御廓内はさらなり、御門々々を過ぐることをゆるされずとぞ。
[やぶちゃん注:「多賀潮古」かの偏奇の画家英一蝶(承応元(一六五二)年~享保九(一七二四)年)の剃髪後の名乗り「多賀朝湖」(たがちょうこ)の誤り。彼は一度、元禄六(一六九三)年に罪を得て入牢したが、二ヶ月後に釈放されている(罪状は不明)が、元禄一一(一六九八)年に、表向きの罪状は町人の分際で釣りをしたことで「生類憐れみの令」に違反となり、三宅島へ流罪となっている。宝永六(一七〇九)年の将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦で許され、十二年振りで江戸へ帰った。ウィキの「英一蝶」の「島流しに至る経緯」を見ると、複数の真相説が載るが、その中に、『大田南畝が伝えるには、当時禁教とされていた不受不施派』(日蓮宗のファンダメンタルな一派)『に与したため、とされている』とあった。なお、英一蝶のフル・ネームの名乗りも、出家も帰府後の晩年である。
「富士講」私の「耳嚢 巻之九 駒込富士境内昇龍の事」の「駒込富士」の注を見られたい。途中から富士講の注となっている。]
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