曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 中川喜雲京童の序の辯 謠曲中の小釋
[やぶちゃん注:本文に標題はない。以上は目次から採った。孰れも客篇で靑李庵のもの。]
乙酉初冬兎園 京 角鹿 桃窻
明曆四年[やぶちゃん注:一六五八年。]の卯[やぶちゃん注:四月。]、本、「京童」六卷は、中川喜雲の序ありて、其作なりと思ひしに、森許六が「歷代滑稽傳」に、『雛屋立圃は野々口氏なり。貞德門人にして、撰集、數多あり。畫を能くす。「京童」といふ名所記、自畫なり。立圃、發句あり。』とみえたり。しかれば、喜雲作にして、圖と發句は立圃なるにや。「京童」の序に、『そもそも、やつがれは、丹波の國馬路といふ村にそだち、牛の角もじさへしらず、無下に、かたくなゝり。』などあり。もとは丹波の人にして、京に住せしや、立圃門人なりしや、なほ、考ふべし。
乙酉十月兎園會 平安 角鹿 桃窻
[やぶちゃん注:「京童」(きやうわらべ:六巻六册)は京都名所案内記の嚆矢とされるもの。以上のように書かれてあるが、古田雅憲氏の論文「『京童』挿絵小考(その一)――巻一「誓願寺」と「和泉式部」――」(検索によりPDFでダウン・ロード可能)によれば、やはり『作者はのちに芸州浅野家に仕えた医師中川喜雲、俳諧や仮名草子をよくしたという。画者は野々口立圃説、吉田半兵衛説などあるが、その署名はなく、いまのところ不詳とすべきか』と記しておられる。
「中川喜雲」(寛永一三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)は仮名草子作者・俳諧師・医師。名は重治。山桜子と号する。父中川仁右衛門重定の出身は丹波の郷士で、一旦は仕官したが、松永貞徳や小堀遠州らと交わり、狂歌や俳諧をよくする風流人であった。喜雲もその影響を受け、若くして貞門に入った。貞徳没後は、その後継者安原貞室に近づき、同人撰「玉海集」には父重定は一句、喜雲は六句を入集している。早くに京都に出て、医師となった喜雲は、その医業による生活だけでは何か満ち足りず、それを俳諧や狂歌で、さらには名所記などの仮名草子制作で満たしていたのではなかろうか、と平凡社「世界大百科事典」にはあり、同事典でも「京童」の作者を彼とする。しかし、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の次に注した雛屋立圃の詳細な資料集成(本篇も引用されてある)に、複数の史料で――「京童」は『自画』(これは本文ともに雛屋立圃の作という意味にしかとれない――とする記載が認められる。
「雛屋立圃」(ひなやりゅうほ 文禄四(一五九五)年~ 寛文九(一六六九)年)は京都で活動した絵師で俳人。当該ウィキによれば、姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)。雛屋立圃は商売の屋号と俳号。『絵師としては狩野派に属する』。『先祖は地下侍といわれる。京都一条に生まれ、父の代に丹波国桑田郡木目村から京へ上り、雛人形を製造・販売していたため、雛屋を称す』。『松永貞徳に俳諧を学び、猪苗代兼与に連歌を、烏丸光広に和歌を学んでおり、また、尊朝流の書を能くしていた』。『絵画は狩野探幽あるいは俵屋宗達に学んだとも、また土佐派を学んだともいわれるが未詳である』。『特に土佐派を基調にしたうえ、宗達流の墨法を交えて立圃独自の俳諧趣味を加味した古典画題の作品、墨画、風俗画、俳画、奈良絵本などと多方面に画作を残した』。寛永八(一六三一)年に「誹諧口五十句魚鳥奥五十句草木」を』纏めて貞徳に認められ』、寛永十年には「誹諧発句集」を『上梓した。この作品は』「犬子集」と並ぶ、『貞門の句集として名高いものである。以降、多くの句集を出している。そしてまた』、寛永十三年には俳諧論書「はなひ草」『(「花火草」「嚔草」とも記す)を刊行しているが』、『これは、江戸時代初期の、史上初めて印刷公刊された俳諧の式目・作法の書』『として、俳諧および俳句の世界では極めて重要な位置付けにある』書とされる。万治四(一六六一)年には「源氏物語」の梗概を纏めた「十帖源氏」を『著し、作画している。なお、この頃の仮名草子の多くを立圃が書いたともいわれるが』、『詳細は未詳である。他に奈良絵本』「文正草子」・「俳諧絵巻」の『作画もしている。俳文や紀行文なども多く手がけたようで、後に江戸に下ったりする間に弟子を増やした。晩年は俳諧を』ものしつつ、『備後福山藩の水野家に仕えた。寛文』(一六六一年~一六七三年)『の頃に執筆』・『刊行した版本に』「休息歌仙」・「小町躍」が『あり、ほかにも多くの版本を手がけている』とある。
『森許六が「歷代滑稽傳」』蕉門の辛辣な俳論家でもあった森川許六が著した俳諧史。正徳五(一七一五)年刊。「滑稽」は「俳諧」の意。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書写本(PDF)の6コマ目にこの記載がある。
『「京童」の序に……』』早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「京童」初版の第一冊(PDF)の3コマ目左丁二行目下方から四行目で、その下りが確認出来る。
そもそも、やつがれは、丹波(たんば)の國、馬路(むまぢ)といふ村(むら)にそだち、牛(うし)の角(つの)もじさへ、しらず、無下(むげ)に、かたくなゝり。
とある。「馬路村」は旧京都府南桑田郡にあった村で、現在の亀岡市馬路町(うまじまち:グーグル・マップ・データ)に当たる。「牛の角もじ」は「牛の角文字」で、平仮名の「い」の字のことを指す。その字体が牛の角に似ているところにより、「徒然草」六十二段の「ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君は覺ゆる」の歌に由来する、判じ物の文字遊び言葉であるが、ここは「いろは」の「い」も知らぬ文盲であったという謂い。因みに、「ふたつもじ」は「こ」の字を、「すぐなもじ」は「し」の字を、牛の角文字「い」を挟んで並べると「こいし」(恋し)の意となるというのが言葉遊びである。「徒然草」の例は「ひ」の字を指すという説もあるが、江戸以降は、手習いの「いろは」文字の筆頭の「い」の字を当てるか、「恋し」の洒落として使われてきた経緯がある(「牛の角文字」は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
「芭蕉」の謠曲に、『近水樓臺先得月。向陽花木易爲春。』とす。『宋人蘇麟が作にして、「淸錄」に出でたり。』と、「孔雀樓筆記」に見ゆ。また、「三井寺」の謠曲に、『月は山かせぞしぐれに鳩の海』といへるは、宗祇の發句なるよし、「幽遠隨筆」に載せたり。
[やぶちゃん注:「芭蕉」小原隆夫氏のサイト内の『宝生流謡曲 「芭 蕉」』で解説と本曲のテクストが読める。以上は終盤のクセの地歌で(引用は「新潮日本古典集成」の「謡曲集 下」を参考にした)、
〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向へる花木(かぼく)は又 春に逢ふこと易きなる その理りもさまざまの げに目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(くる)風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺の軒(のき)の草 忍とすれど古へも 花は嵐の音(おと)にのみ 芭蕉葉(ばせうばの)の もろくも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變はらん
の頭の部分。参考した同書のこの部分の頭注に、『〈水辺の高楼はいちはやく月を見、南向きの花木はいちはやく春に逢って花咲く〉』として、以上の漢文を載せ、引用元を金春流に伝来する資料「断腸集之抜書」とする。
「蘇麟」(九六九年~一〇五二年頃)は北宋の詩人。専ら、この詩句の作者として知られるらしい。七絶で、
近水樓臺先得月
向陽花木易爲春
半生苦覓終如愿
柳暗花明見海津
が原詩。
「淸錄」不詳。
「孔雀樓筆記」儒者清田儋叟(せいた たんそう 享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年:名は絢。孔雀楼は号の一つ。京の儒者伊藤竜洲の三男。父の本姓清田氏を称した。長兄の伊藤錦里、次兄の江村北海とともに秀才の三兄弟として知られた。青年期、明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学んだ。寛延三(一七五〇)年三十一の時、福井藩に仕えたが、主として京に住んだ。当初は徂徠学を修めたが、後に朱子学に転じた。以上は当該ウィキに拠った)の随筆。
「三井寺」同じく小原隆夫氏の『三井寺 (みいでら)』を見られたい。
「月は山かせぞしぐれに鳩の海」中間部の「上ゲ歌」の地歌、
〽月は山 風ぞ時雨(しぐれ)に鳰(にほ)の海 風ぞ時雨に鳰の海 波も粟津(あはづ)の森見えて 海越(うみご)しの 幽かに向ふ影なれど 月はますみの鏡山(かがみやま) 山田・矢走(やばせ)の渡し舟(ぶね)の よるは通ふ人なくとも 月の 誘はばおのづから 舟も こがれて出づらん 舟人もこがれ出づらん
の冒頭。但し、前掲書の頭注では、宗祇ではなく、『二条良基の『石山百韻』の発句』とある。
「幽遠隨筆」町人で国学者の入江昌喜(まさよし 享保七(一七二二)年~寛政一二(一八〇〇)年:大坂の商人で、隠居後、本格的に国学の研究をした。契沖に私淑し、歌人小沢蘆庵と親しかった。通称は榎並屋半次郎)の随筆。安永三(一七七四)年刊。]
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