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2021/10/20

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 白猿賊をなす事

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○白猿、賊をなす事

 佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり。此役所を預りをる大山十郞といふ人、先祖より傳來する所の貞宗の刀を祕藏して、每年、夏六月に至れば、是を取り出だして、風を入るゝ事あり。

 文政元六月[やぶちゃん注:一八一八年。文化十五年四月二十二日に仁孝天皇即位のために改元されていた。同年の六月はグレゴリオ暦の七月とほぼ一致する。]、例のごとく、座敷に出だし置きて、あるじも、かたはら、去らず、守り居けるに、いづこより、いつのまに來りけん、白き猿の三尺ばかりなるが、一疋、來りて、かの貞宗の刀を、奪ひ、立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじも、

「やゝ。」

と、いひつゝ、おつとり刀にて、追ひかけ出づるを、

「何事やらん。」

と、從者共も、あるじのあとにつきて走り出でつゝ、追ひゆく程に、猿は、其ほとりの山中に入りて、ゆくへを、しらず。

 あるじは、いかにともせんすべなさに、途中より立ち歸り、この事、從者等をはじめとして、親しき者にも告げしらせ、翌日、大勢、手配りして、かの山にわけ入り、奧ふかくたづねけるに、とある芝原の廣らかなる處に、大きなる猿、二、三十疋、まとゐして、其中央にかの白猿は、藤の蔓を帶にして、きのふ、奪ひし一腰を帶び、外の猿どもと、何事やらん、談じゐる體なり。

 これを見るより、十郞はじめ、從者も、刀をぬきつれ[やぶちゃん注:ママ。「連れ」も考えたが、続きから考えると、一番穏当なのは「つゝ」の誤判読であろう。]、切り入りければ、猿ども驚き、ことごとく迯げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を、拔はなし、人々と戰ひけるうち、五、六人、手負たり。白猿の身に、いさゝかも、疵、つかず。度々、切りつくるといへども、さらに、身に通らず。鐵砲だに通らねば、人々、あぐみはてゝ見えたるに、白猿は、猶、山、ふかく迯げ去りけり。

 夫より、山獵師共を、かたらひけるに[やぶちゃん注:彼らを相手に話を聴いてみると。]、此猿、

「たまたま見あたる時も候へども、中々、鐵砲も通らず。」

と、いへり。

 此後、いかになりけん。今に、手に入らざるよし。

 その翌年、かの地の者、來りて語りしを思ひ出でゝ、けふの「兎園」の一くさにもと、記し出だすになん。

  文政乙酉孟冬念三    文寶堂散木記

天 正 兎 園

[やぶちゃん注:『佐竹候の領國羽州に「山役所」といふ處あり』佐竹氏の久保田藩(秋田藩)が藩領内の山域の林業管理・保全・警備のために置いた出先の役所。正式には「木山方役所」(「きやまかたやくしょ」と読むか)で、狭義のそれは「能代木山役所」・「銅山木山役所」であるが、広義には木山方吟味役が配置された「御薪方役所」も含まれるであろう(以上は芳賀和樹・加藤衛拡氏の論文「19世紀の秋田藩林政改革と近代への継承」PDF・『林業経済研究』第五十八巻・二〇一二年春季大会論文)に拠った)。前者の担当域は以下の阿仁銅山を除いた、現在の能代市及び男鹿半島一帯に及ぶ山間部であるが、「能代木山役所」の位置は他の文書も見たが、よく判らなかった(感触的には木材運搬に利用した米代川中流の両右岸山間部の麓辺りかと思われる)。後者は旧「阿仁鉱山」を中心とした山間にあった。

「貞宗」サイト「刀剣ワールド」の「貞宗」によれば、『鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。相州伝を代表する正宗の門人で、技量を見込まれ』、『養子になったと伝わっています』(以下は専門用語がよく判らぬが引用しておく)。『大摺上の太刀は身幅が広く、鋒/切先の形状は「大鋒」(おおきっさき)の物が多いのが特徴。地鉄(じがね)は板目に杢が入り詰み、地沸厚く付き』、『地景が盛んに入り、刃文は大湾(おおのた)れを主にし、小乱れや互(ぐ)の目のついた作例が多く、刃中の働きは金筋・稲妻・砂流しが激しくかかっています』。『太刀・短刀とも師・正宗に比べて穏やかな作風。片切刃造と二筋樋は、貞宗から始まっており、現存する日本刀は、すべて無銘で在銘作はありません』とある。

「天正」よく判らぬが、これ、天正の年号の元とされる「老子」の「洪德第四十五」にある「淸靜爲天下正」(淸靜(しやうじやう)なるは天下の正と爲(な)る)」で、この発会の文政八年十月二十三日(グレゴリオ暦一八二五年十二月七日)は、冬晴れのピーカンであったのかも知れない。]

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