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« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女 | トップページ | 只野真葛 むかしばなし (43) »

2021/10/16

只野真葛 むかしばなし (42)

 

 其頃、公儀御内證[やぶちゃん注:側室。]樣の御年寄女中[やぶちゃん注:江戸城大奥女中の役職の一つで、二番目に位置するが、事実上は奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する大役。将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」の位であった。]に、玉澤といひし人、有し。天下をうごかせし才人なり。此人、もとは山の手の旗本衆の内かたなりしが、夫ばくちの大道樂者にて有しが、提重(さげぢゆう)・たばこ盆・組(くみ)さかづきなど、小道具の仕入、木地より、塗(ぬり)までなり。小細工を渡世にして、代々、小普請にてくらせし人なりしが、玉澤、才人故、其頃はお袖といひしとなり。はじめは、おしへて、させしが、後々は、妻にばかり、こしらへさせて、其身は、ばくち打、いろいろ、放埒して居しに、外の旗本がたの奧樣と不義のこと、あらはれ、かけおちして、家つぶれしに、お袖、不仕合(ふしあはせ)には、里も、先達(さきだち)て、つぶれて、行所(ゆきどころ)なき故に、其やうな所にも居たりしなり【赤坂邊なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 其妹子、赤井藤九郞樣といふ六百石ばかりとる旗本のかたへ緣づかれしに、是も、里なしのうへ、夫、死去、子もなしに若後家なりし。

 其弟、兄の跡をつがれし人が、其(その)藤九郞樣なり。此人、勝(すぐれ)たる人にて、お袖をふびんにおもひ、引とりて、やしないおかれしとぞ。妹子さへも、里があらば、かへるくらいな若後家、まゝ弟子にかゝりて有しうへ、よしみもうすき姊まで、其緣につれて世話になること故、氣の毒の山をつかね、下女同前に、はたらきてゐられし。

 其時より、父樣は御ぞんじなりしとぞ。

「信あれは[やぶちゃん注:ママ。「ば」であろう。]、德、有。」

とかいふことは、此藤九郞樣のことなり。

 少しも、心おきのないやう、居にくゝないやうに、取あつかわれしとぞ。

 藤九郞といふ人は、心だて、よく、器用にて、書もよめ、手も書、繪も、よほどならず、かゝれしを、廿二才にて、中風して、惣身、きかず、飯もやしなはれて食(くふ)やうなことに成、いきたばかりにて、有し。

 お袖は口ぐせのよふに、

「御奉公に出たし、御奉公に出たし。」

と、いひて有しとぞ。

 其頃のていは、隙《ひま》なく、しきし[やぶちゃん注:「色紙」。衣服の弱った部分に裏打ちをする布地。]當(あて)たる布子の、油賣のやうに垢付しを着てゐられしとぞ。

 やうやう、御本丸のおもて使者に、少々、手つぎ有て、其人の世話にて御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」に上(のぼ)られしが、運のひらけはじめなりし。手も、よくかゝれしとぞ。しゆんめう院樣御代のことなりし。

[やぶちゃん注:『御祐筆間の「札(さつ)」の「み書(かき)」』恐らくは、幕府の右筆の間で取り交わされる文書に添える表書きのことであろう。「書札礼」(しょさつれい)という語があり、これは公的な書状の形式・用語などを規定した礼法式を言う。小学館「日本大百科全書」によれば、『手紙を取り交わす両者の身分的相違による礼儀を重視しようという考えから生じたもの』で、『公家様(くげよう)と武家様の二様ある。元来は中国の』「書儀」(しょぎ)『などによっていたが、平安後期には公式様(くしきよう)文書が衰退し、私(し)文書の発達や有職故実』『学の発展に伴って』、「明衡往来」(めいごうおうらい)『などの書状の模範例文集がつくられるように』なった『一方、公家様の書札礼の書も著されてきた。それが確立されたのは』弘安八(一二八五)年に『一条家経(いえつね)らによって編まれた』「弘安礼節」(こうあんれいせつ)『によってである。この書は宮廷関係の礼節を定めたものであったが、書札礼について一項を設け、それが後の書札礼の典拠となった。武家様の書札礼は、公家様から派生したものであり、鎌倉末には』、『すでに』、『できあがっていたらしい。室町時代になると』、三『代将軍足利義満』の頃に『整備され、武家様が書札礼の中心となった。それとともに』、『文章作成を職業とする右筆(ゆうひつ)の力が強くなり、各家がそれぞれの流儀による書札礼を伝授するようになった。初期の』「今川了俊書札礼」や、後期の「細川家書札抄」・「大館常興(おおだてつねおき)書札抄」・「宗五大草紙」(そうごおおぞうし)などが『代表的なものである。以後、武家様の書札礼は地方に波及し、戦国大名諸家もそれを受容し、自らの書札礼を定めていった。織豊』『政権下でも同様で、多少の改変はあったが』、『維持され、江戸幕府も徳川家康が』慶長年間(一五九六年~一六一五年)『に永井直勝(なおかつ)に命じて制定させたものが』、『江戸時代を通じて行われた』とある。

「しゆんめう院樣」「御代」と言っているので、第十代将軍徳川家治(在職:宝暦一〇 (一七六〇)年~天明六 (一七八六)年)のことであろう。彼の諡号は「浚明院」で戒名は「浚明院殿贈正一位大相国公」である。但し、読みは「しゆんめい」である。これは「明」の呉音「みやう(みよう)」を誤ったものであろう。]

 御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ、大納言樣の御腹のお部屋、御臺樣がはりにて、派をふるはれし人の、かたヘぬけたりしが、はじめ、おやとひにて出し時、

「藝百色まで有し。」

と、奧中、となひなり[やぶちゃん注:「唱ひ成り」か。評判になり。]、殊の外、御意に入(いり)て、すらすら、出世し、老女にまで成しなり。「ばくち打の女房ほど拔目なきものはない」といふを、勝(すぐれ)し才人にて、何をみても、目の鞘が、はづれ、心が黑かりし故、ぬけ出(いで)しなるべし。

[やぶちゃん注:「御臺樣は、はやくかくれさせ給ひ」家治の正室は閑院宮直仁親王第六王女倫子(ともこ 元文三(一七三八)年~明和八(一七七一)年)。寛延二(一七四九)年に江戸城浜御殿へ入り、宝暦三(一七五三)年に縁組披露、翌四年十二月一日(既に一七五四年)に江戸城西の丸へ入り、婚礼の式を挙げた。宝暦六年に家治との間に長女千代姫を産んだが、姫は二歳で夭折、宝暦一〇(一七六〇)年に江戸城本丸へ移り、御台所となり、九月に家治が征夷大将軍を拝命した。翌十一年には次女万寿姫を出産するも、家治が側室出生の子も御台所の御養としたため、側室お知保の方(蓮光院)が生んだ世子徳川家基(幼名竹千代。第十一代将軍として期待されたが、満十六歳で鷹狩の帰りに急死した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながら、将軍の位に就けなかったため、「幻の第十一代将軍」とも呼ばれる)の養母となった。御台所となってから、十一年後に三十四歳で逝去している。その後、家治の側室お品の方(養蓮院)が次男貞次郎を生んだが、生後四ヶ月で早逝してしまい、家治は天明元(一七八一)年、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の長男豊千代(後の第十一代将軍徳川家斉)を自分の養子とした。こうした不幸の連続の中で大奥の勢力図が大きく変化したことが素人目にも判り、真葛の言うように、この混乱の中、権謀術数を以って「玉澤」は、大奥に於ける事実上の権力者たる御年寄女中にまでのし上がったのである。

「大納言樣」權大納言であった家治のこと。]

 其お部屋御内證樣とて、上分にならせられし時、年中御規式を玉澤が一了簡にて書出(かきいだ)せしが、いづかたにても[やぶちゃん注:底本は「「いづだにも」。「日本庶民生活史料集成」版で訂した。]、點のうち手なかりしとぞ。是等が、表立て、名の上りし始なり。玉澤といへば、老中も、心をおき、とぶ鳥もおつるほどの派きゝと成し故、藤九郞樣も御下故、めいぼく[やぶちゃん注:「面目」の別読み。]をほどこし、昔の恩は百倍にかへされしなり。一生、夫婦寢もならぬ人の所へ、玉澤に引をもとめたきばかりに、三千石とりの旗本衆より、娘を出(いだ)してこされなどして、すさまじきいきおひにて有しなり。

 ワ十一ばかりの時[やぶちゃん注:安永二(一七七三)年前後。]、御本丸へ御普請出來、御内證樣御うつり前、西の丸にいらせられしに、お狂言拜見に上りしこと有し。玉澤樣はかゝりにて、萬事御世話被ㇾ成て有し。髮の結直しなど、壱人にて被ㇾ成しよし。あくる朝、よべの召物、かさねしまゝにて有しを見しに、上は、紫ちりめん、芭蕉に雪ふゞきのかたぬき模樣、相(あはせ)は、紅の紋ちりめん白無垢に、帶は、黑じゆすの縫有[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]にて有しが、みな、油だらけに成て、袖口などは黑ぬりのやうで有し。

「おすたりなり。」

と部屋の者、いひし。昔の姿にくらべては、けしからぬことなり。

[やぶちゃん注:この最後の部分、よく意味が判らない。なお、ここで言う「御内證樣」は、倫子の死(明和八(一七七一)年)後に御部屋様となったお知保の方のこと。]

 其年より五年ばかり過て、御やど下りの時、藤九郞樣への土產に、なぐさみのため、御殿の藝者どもをつれて御下り、素人狂言してみせられしこと有し。宿下りの入用二百兩ばかりかゝりしよしなり。父樣にも、

「何ぞ、御目にかけん。」

とて、かの女力持[やぶちゃん注:「むかしばなし (41)」参照。]をつれて、いらせられし。一日の賃五兩にてやとわれしを、あのかたにて、金、相わたされし時、

「『殘金五兩、たしかに、うけとりし。』と、文之助、こたへしは、『やとひ賃のたけを、人にしらさじ。』と、心はたらかせしこたへなり。」

と被ㇾ仰し。玉澤にも、殊の外、珍らしがられて、

「見世物にでぬ先にしらば、御覽にもいるべかりしを、おしきこと。」

と、いはれしとぞ。此頃が、この人の榮の極にて有しなり。自由のきくにまかせて、表のことまでも、玉澤、加判せられし故、白河樣[やぶちゃん注:松平定信。]御世、おもき御とがめをうけて、老女役御免、平人お袖と成て、御内證樣、御大病、是かぎりの時なりし故、御看病を申上て有しと聞し。

[やぶちゃん注:お知保の方は寛政三(一七九一)年三月八日に五十五歳で死去した。なお、蓮光院となった彼女は三十七年後の文政一一(一八二八)年に従三位を追贈されている。御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(当該ウィキに拠った)。]

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