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2021/10/31

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十二集(正編・最終集) 助兼

[やぶちゃん注:画像は底本よりトリミング補正した。発表は旗本竜珠館桑山修理。]

 

Kabuto

 

   ○助 兼

「後三年繪詞」に云、『伴次郞儀仗助兼といふものあり。きはなき兵なり。常に軍のさきにたつ。將軍、これを感じて、「薄金」といふ鎧をなん、きせたりける。岸近くよせたりけるを、石弓をはなちかけたりけるに、「すでにあたりなん。」としけるを、首をふりて、身を、たはめたりければ、かぶとばかり、打ちおとされにけり。冑落つる時、本鳥きれにけり。』とあり。按ずるに、此時、助兼、本鳥を冑の「てへん」より引き出だして、着たる者なるべし。繪卷物にあり。此圖のごときなり。助兼も、この如く、かぶとを着たる故に、大石の落つる勢にて、本鳥ともにきれたるなり。冑の下に本鳥を折り曲げてあらんには、大石にうたれたればとて、冑とともに、本鳥は、きれがたかるべし。又、「源平盛衰記」、「しの原合戰の條」に、入差小太郞、高橋判官と組みたる所に、入差が叔火、落ちあひて、高橋が冑のてへんに手を入れて、首をかく、とあるも、高橋、本鳥を、てへんより、引き出だして着たるなるべし。折り曲げてあらば、「てへん」大なりとも、本鳥を、しかとは、とりがたからん。是をもて、助兼の冑をきたるさまを、おもふべし。

[やぶちゃん注:「後三年繪詞」「後三年合戰繪詞」(ごさんねんかっせんえことば)。絵巻。三巻。重要文化財。東京国立博物館蔵。源義家が奥州の清原氏を討伐した「後三年の役」に取材したもので、元は四巻或いは六巻本であったが、冒頭の部分が失われたと考えられている。現存部分は、清原家衡が金沢柵(かねさわのさく)で義家と対陣する段から、義家が家衡を平定して京都に帰る段までを描いてある。人物・甲冑などに精細な筆が用いられるが、構図が単調で変化に乏しい。鎌倉後期(十四世紀)の制作で、奥書により、絵は飛騨守惟久(これひさ)の筆と判る。なお、他に序文一巻があるが、これは鎌倉幕府滅亡の後の貞和(じょうわ)三(一三四七)年に尊円親王によって書かれたもの伝えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「伴次郞儀仗助兼」伴助兼(とものすけかね 生没年未詳)は後に「資兼」に改名した。通称は伴次郎・設楽大夫。姓は朝臣。伴助高の子。三河設楽(したら/しだら)氏・富永氏の祖。位階は従五位下。八幡太郎義家の郎党で、一の勇士として知られる。当該ウィキによれば、『三河伴氏の出自は明らかでなく、景行天皇から出た三河大伴部直の後裔とする皇胤説のほか』、『中央豪族の伴氏(伴宿禰)の後裔とし、伴善男』『・大伴駿河麻呂』『・大伴家持』『らに繋げる系図がある』。『三河国に住んだとされる。伝承では治暦元年』(一〇六五年)『に義家の命で、現在の福島県二本松市に住吉山城(四本松城)を築いたという』。永保三(一〇八三)年に始まる「後三年の役」では、『舅の兵藤正経と共に、清原(藤原)清衡の襲撃を受けた清原真衡邸から、真衡の妻と成衝を救い出している。義家からその武勇を賞賛され、源氏八領の一つともいわれる』「薄金の鎧」を『拝領したが、金沢柵攻略戦では、城内からの落石で兜を打ち落とされ』、『紛失した。豊田市猿投神社に伝来する樫鳥縅鎧』(かしどりいとおどしよろいおおそでつき)『(重文)は、この』「薄金の鎧」を『助兼が奉納したものであると伝えられている』。承徳三(一〇九九)年に『従五位下に叙爵』されている、とある。蕗の雫氏のブログ「時の落穂拾い」の「薄金の鎧 (『後三年記詳注』を読んで(その4))」に「後三年合戦絵詞」のそのシーンを描いた絵があり、髻(もとどり)が切れて大童になっている様子が判る。

「岸」城(恐らくは山寨)の崖。

「本鳥」「髻」の当て字。日本で行われた昔の結髪法の一つで、髪を頭上に束ねたもの、または、その部分を指す。元来は「本取」の意で、「たぶさ」とも称した。古くは中国の東北部に住した女真(ジュルチン)族の女性の結髪であった。

「てへん」「天邊」。頭のてっぺん。

『「源平盛衰記」(私は「げんぺいじやうすいき」と読むのを常としている)「しの原合戰の條」』これは、巻第二十九の「俣野(またのの)五郞。幷(ならびに)長綱、亡ぶる事」のことである。以下に、国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間の版本の当該部を元に以下に電子化する(カタカナをひらがなに直し、読みは一部に限り、また、読みの一部を送って外に出し、約物は正字とし、さらに段落を成形した。漢字表記は可能な限り忠実に写した)。

   *

 平家の陣より、武者一人、進み出でて云けるは、

「去(さん)ぬる治承(ぢせう)の比(ころ)、石橋にして右兵衛佐殿と合戰したりし鎌倉權五郞景正が末葉(はつよう)、大場(おほばの)三郞景親が舎弟、俣野五郎景尚(かげなり)。」

と名乘りて、竪さま橫さま、敵も不ㇾ嫌(きらはず)、散々に戰ひけり。

「木曾は、耻ある敵ぞ、あますな。」

と云ければ、

「我れも、我れも」

と蒐籠(かけこみ)たり。景尚、向ふ者共、十三騎、討ち捕つて、痛手負いければ、馬より飛び下(を)り、腹、搔き切つて卧(ふ)[やぶちゃん注:底本では(へん)が「目」。「臥」に同じ。]しにけり。

 平家の侍に髙橋判官(はんぐはん)長綱は、練色(ねりいろ)の魚綾(ぎよしう)の直垂(ひたたれ)に、黑絲威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗り、只、一騎、返し合はせて、「成合(なりあひ)の池」の北渚(きたなぎさ)に、馬の頭(かしら)、濱の方(かた)に打ち向かふて磬(ひか)へたり。可ㇾ然(しかるべき)者あらば、押し並べて、組まばや、とぞ、伺ひ見ける。

 源氏の方に、越中國住人、宮﨑(みやさきの)太郞が嫡子、入善(にうぜん)小太郎安家は、赤革威(あかかわおどし)の鎧に、白星(しらぼし)の甲(かぶと)著(き)て、糟毛(かすげ)なる馬に、金覆輪(きんぶくりん)の鞍、置きて、只、一騎、扣(ひか)へたり。是も、平家の方に可ㇾ然者あらば、押し並べて組まん、との志(こゝろざし)也。「成合の池」の北渚に、武者の一騎あるを、心にくゝ思ひて、打ち寄せて、

「爰(こゝ)にましますは、敵か、御方か、誰(たそ)。」

と問ふ。

 平家の侍に髙橋判官長綱、

「角(かく)云ふは誰。」

「越中の國の住人、入善小太郎安家、生年(しやうねん)十七歲。」

と、名乘も、はてず、押並べて、組んで落ち、始めは、上に成り、下になり、ころびけれ共、流石(さすが)、安家は二十(はたち)に足らぬ若武者也。髙橋は老(をひ)すげたる大力((だいぢから)也ければ、終(つい)には、入善、下に成るを、おさへて、頸をかゝんとする處に、髙橋、腰の刀(かたな)を落としたりける。爲方(せんかた)なくして、暫し、押さへて、踉蹡(をとりゆ)けり。此(こゝ)に入善が伯父に、南保(なんほう)次郎家隆と云ふ者あり。此の軍(いくさ)に打ち立ちける時、入善が父宮﨑(みやさきの)太郎、弟(をとゝ)の南保に語けるは、

「安家は、未だ幼弱なる上、今度(こんど)は初めたる軍也。相ひ構へて見捨て給ふな。」

と云ければ、

「然(しか)るべし。」

とて、出たりけるが、

「相い具せん。」

とて、數萬騎(すまんぎ)が中を尋ねれ共、見えず。

 南保、音(こへ)を揚げて、

「入善小太郎、入善小太郎。」

と呼んで、兩陣の中を通りけるに、小音(せうをん)にて、

「安家、敵にくみたり。角(かく)尋給ふは、南保殿かよ。」

と云。

 家隆、馬より、飛び下(を)りて腰刀(かたな)を拔き、長綱が鎧の草摺(くさずり)引き上げて、

「柄(つか)も、拳も、とほれ、とほれ。」

と二刀(かたな)、刺す。

 甲(かぶと)の「てへん」に手を入れて、引き仰(あを)のけて、切ㇾ頸(くびをきる)[やぶちゃん注:底本では『切リ◦頸』であるが、おかしいので勝手に訂した。]。左の手には持ㇾ頸[やぶちゃん注:底本は「頸」がないが、同前で訂した。]、右の手にて、入善を引き上げて、

「如何(いか)が誤りありや、軍(いくさ)は後陣(ごぢん)を憑(たの)み、乗替(のりかへ)、郎等(らうどう)を相ひ待ちてこそ、敵には組む事なるに、若き者一人、立ち悞(あやまり)し給はん。

とて、

「去(さり)ながら、神妙々々。」

と云處に、入善、隙(ひま)を伺ひ、南保が持ちたる首を奪ひ取りて迯け走り、木曽が前に行き向ふ。

 南保も續いて馳せ參り申しけるは、

「長綱が首をば、家隆、捕りたり。」

と申す。

 入善は、

「我が、取りたり。」

と論ず。

 南保、重ねて申しけるは、

「入善、髙橋に組んで、既に危うく候つるを、家隆、落ち合ひて、入善を助けて、髙橋が頸をば、取つたり。」

と申す。

 入善、陳(ちん)じ申けるは、安家、髙橋に組んで、上に成り、下に成、候つる程に、髙橋が弱き處ろを、髙名(かうみやう)がほに、南保、傍(そば)より取りて候。家隆、全く不ㇾ取(とらず)。安家が今日(けふ)の得分(とくぶん)にて候つる者也。」

と申ければ、木曽は、

「入善、くむ事なくば、南保、頸を不ㇾ可ㇾ捕(とるべからず)。落ち合ふ事、なくば、入善、實(まこと)に難ㇾ遁(のがれがたし)。兩方(りやうばう)共に、神妙也。」

とて、髙橋が頸をば、南保に付、入善には別の勲功を行なはる。

   *

「入差小太郞」御覧の通り、「入善小太郞」の誤り

「叔火」御覧の通り、伯父の誤り。ちょっと筆者のそれか、判読の誤りか知らんが、ひど過ぎる。原本を確認していないことが、バレバレである。]

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