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2021/10/05

曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第九集) 蓮葉虛空に飜るの異

 

   ○蓮葉、虛空に飜るの異

 我君領内、三州渥美郡鷲田村にて、蓮葉を乾しおきたりしに、故なく、虛空に翻り、且、白鶴一隻、陟降せしにより、村人等が訴文の寫。

[やぶちゃん注:既に注したが、本篇の発表者は中井乾斎豊民であるが、彼は大儒大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年:加賀国大聖寺出身。京の皆川淇園(きえん)や、江戸の山本北山に学ぶが、飽きたらず、独学を重ね、折衷学に清の考証学を取り入れた独自の考証法を編み出した。三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市今橋町附近。藩庁の吉田城跡はここ。グーグル・マップ・データ(以下同じ)。則ち、現在の知られた豊橋の旧名である)に仕え、晩年は加賀金沢藩に招かれた)の教えを受け、師と同じく吉田藩に仕え、渡辺華山や鈴木春山らと交流し、経学と文章を以って儒者として名を成した人物らしい。但し、生没年等、具体的な事績は不詳である。この「兎園会」の行われた文政八(一八二五)年当時の主君吉田藩藩主は第四代藩主にして幕府寺社奉行を務めていた松平信順(のぶより 寛政五(一七九三)年~天保一五(一八四四)年)である。しかし早合点は禁物で、この「三州渥美郡鷲田村」というのは、甚だ不審で、まず、「渥美郡」内には「鷲田」という地名は昔も今も、ないはずだからである。調べるに、旧鷲田村は古地図などからも、現在の愛知県額田郡幸田町菱池(ひしいけ)附近である(以下の訴状にその地名が出る)。菱池鷲取(わしとり)にある鷲田(わした)神明宮によって確認出来、さらに「ひなたGPS」の古い地図で「鷲田」が現在もあり、鷲田神明宮がそこにあることも判明した(リンク先は「2画面」で位置確認がし易いようにしておいた)。問題は、地図で引き画面で示した通り、旧吉田=現在の豊橋とは有意に離れている点である。しかし、これはウィキの「額田郡」で一気に氷解するのである。その「歴史」の項の『幕末の知行』の部分に慶応四(一八六八)年九月に、当時の三河県の管轄区域の内で、『旧磐城平藩領・旧幕府領および旧旗本領の大部分』と、『吉田藩領の一部(鷲田村)』(☜)『が駿河府中藩領となる』とあるのである。則ち、江戸時代、この額田郡鷲田村は、実は吉田藩の飛地領であったのである。問題は中井乾斎の郡名の誤りであるが、彼はもともと加賀の大聖寺出身であり、仕えた三河吉田藩の藩領についての地理的認識、所謂、「土地勘(とちかん)」はあまりなかったのではないか? さればこそ腑に落ちる。藩の主領地は渥美郡内にあったから、安易にこの鷲田も渥美郡だと思い込んで書いたのであろう。

當村御百姓三右衞門磯八と申す者、菱池にて、六月十一日、蓮葉を取り、村方字瓦野と申す處へ、干し置き候處、翌十二日朝四時[やぶちゃん注:「あさよつどき」。不定時法でこの頃ならば、午前七時頃に相当する。]比より、壱葉・弐葉づつ、虛空へ上り、其日、晴天にて、風もなく候處、晝九時[やぶちゃん注:同前で正午。これのみは一年中動かない。]比に相成、蓮葉、凡、百六十、一同に上り、尤、中には、落ち候も有之候へ共、多分、虛空へ上り、二、三寸迄は相見え候へ共、其末は不相見、其中より、白鶴、壱羽、下り來り、輪を懸け、虛空へ上り、小鳥位迄は相見え、末に、一向、相見え不申候。又、程なく、東方より、白鶴、三羽、來り、先の如く、同所にて、是亦、輪を懸、弐羽は東方へ飛去り、壱羽は虛空へ上り申候。餘り不思議之義に奉存候に付、此歌[やぶちゃん注:ママ。]御注進申上候。以上。

  文政八酉七月六日

      鷲田村組頭  藤 兵 衞 印

      同斷     彥   六 印

      庄屋     助   六 印

   木 村 甚 助樣

   富 田 東 作樣

   塚 本  平左衞門樣

[やぶちゃん注:「菱池」という池は不詳。但し、この地域には現在でも多数の溜池・小池が散在する。

「村方字」(あざ)「瓦野」旧鷲田村内の「瓦野」は不詳。]

予、此奇事を以て、出羽の門人佐藤惟德[やぶちゃん注:不詳。「いとく」と読んでおく。]に語る。惟德云、「我國も亦、一奇事あり。凡べて、人の死する時、十に七、八、たましひ出でゝ、或は、故人を尋ね、又は、親戚を問ひき。何もなくして、死す。その來る時、只、默して座するのみ。是と語らんとするに、更に、答、なし。又、死後にして、出づるも、亦、これ、ありといへども、多くは是、生前の事なり。生前、これを『魄(タマシヒ)』といひ、死後、是を『幽靈』といふ。是又、致知格物の至らざる所なり。予、何の故をしらず。敢問、何の謂ぞや。雖ㇾ然、人により、性により、幽靈と魄とに、あふ人、あり。不逢の人、あり。」と、惟德、語りき。予、亦、未、この二事に於に[やぶちゃん注:「おけるに」。]、敢て、說あること、なし。姑く[やぶちゃん注:「しばらく」、]疑を存して、以て、後の君子を待と云ふ。

[やぶちゃん注:「致知格物」(ちちかくぶつ)は「格物致知」とも言い、特に儒家に於いて、「物の道理を窮め、知的判断力を高めること」の意で、理想的な政治を行うための基本的絶対条件を指す。「礼記」の「大学」にある「致知在格物」の意味を、朱子は「知を致すは物に格(いた)るに在り」(この「格」は「至」に同じ)と、「事物の理に至ること」と解し、王陽明は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」(この「格」は「正」に同じ)と「心の不正を去ること」と解したことに基づく故事成句。]

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