曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 窮鬼 《本文リロード》
[やぶちゃん注:全くの物語で、長いので、段落を成形した。琴嶺舎滝沢興継の発表だが、馬琴の手になることは見え見え。【2021年10月10日本文全面改稿】うっかりして国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」巻第二下のここに所収しているのを見落としていたので、公開から一日経ったが、改めてそれで本文を総て校訂し直した。読みの一部は送り仮名で出した。]
○窮 鬼(きうき/ビンバウガミ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])
文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八二一年。]の夏のころ、番町なる、四、五百石ばかりの武家の用人、大かたならぬ主用(しゆうよう)にて、下總(しもふさ)のかたほとりなる知行所へ赴くこと、ありけり。
[やぶちゃん注:「番町」現在の東京都千代田区にあった一番町から六番町まで。但し、現在のそれと江戸時代のそれは一致しないので、注意が必要。サイト「TokyoRent」の「コラム」の「Vol.17 地名で読む街の歴史【 麹町・番町編 】 Area History」の「麹町・番町マップ」が一目瞭然でお勧めである。
「下總のかたほとりなる知行所」以下で「草加の宿」(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)、さらに「越谷」(ここ)も出る。明らかにここの話柄の主人公は、真っ直ぐ北へ北へと向かっているから、旧下総国の東端を南北に占める旧葛飾郡、或いは、その東北の旧猿嶋(さしま)郡、更にその東北の下総国の最北端の旧結城郡、或いは、その南にある岡田(豊田)郡に主人の知行所があったと考えてよかろう。]
江戶をたちて、ゆくゆく、草加の宿のこなたより、一個(ひとり)の法師にあへり。
見るに、年の齡(よはひ)は、四十あまりなるべし。面(おもて)は青く、又、黑く、眼(まなこ)深くして、世にいふ「鐵壺(かなつぼ)」[やぶちゃん注:「金壺眼(かなつぼまなこ)」のこと。落ち窪んで丸い目。一般に怒った目つきや貪欲な目つきの邪眼系を指す。]めきたるが、頤(おとがひ)、尖りて、いと瘦せたり。身には「溷鼠染(どぶねづみそめ)」とかいふ栲(たへ)の單衣(ひとへきぬ)のふりたるを、褸[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『褄』。](つま)はさみして、頭(かしら)には、白菅(しらすげ)の笠を戴き、項(うなじ)には頭陀袋(づたぶくろ)を掛けたり。
[やぶちゃん注:「溷鼠染」「丼鼠染(どぶねずみぞめ)」。溝鼠(どぶねずみ)の毛色に似た暗い灰色。不潔な印象を避けるため、本来の「溝」ではなく、「丼」の字が当てられることが多い。「墨の五彩」を表わす「焦・重・濃・淡・清」の中の「濃」に当たる色で、江戸中期頃の常用色であったとされる。サイト「きもの用語大全」のこちらに拠った。リンク先で色も確認出来る。
「栲(たへ)」吉川弘文館随筆大成版ではルビは「タク」。梶木(かじのき:バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )又は楮(こうぞ:コウゾ属ツルコウゾ Broussonetia kaempferi ・ヒメコウゾ(コウゾ) Broussonetia kazinoki (種小名からこれをカジノキと誤り易いので注意)・雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × papyrifera があるが、本邦では、古くから今に至るまで、一般人は「梶の木」と「楮」を殆んど区別していないので、孰れを指すかは不詳である。ここの場合はそれらの樹皮をを打ち伸ばして作った布を指す。一般にはこの「栲」で「たえ」「たく」と呼ばることが多い。]
跡につき、先にたちてゆく程に、烟草の火などを借(か)られしより、物いふことも、しばしばなり。
「さて。和僧は、何處(いづこ)より何所(いづち)へ赴きたまふにか。」
と問ふに、法師、答へて、
「われは、番町なる某(それ)の屋敷より、越谷(こしがや)へゆく。」
といふ。
用人、聞きて、ふかくあやしみ、
「そは、いはるゝことながら、われは、その屋敷の用人なり。わが素(もと)より見
知らぬ人の、わが屋敷にをることやは、ある。出家には、似げなくも『そら言』をいはるゝよ。」
と、爪彈(つまはじき)をして、あざ笑へば、法師も亦、あざ笑ひて、
「なでふ、和殿(わどの)をあざむくべき。和殿が、吾を、見しらぬなり。そもそも、われを何とか見たる。われは、世にいふ『貧乏神』なり。和殿は譜第(ふだい)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『譜代』。]のものならねば、むかしの事は、しらぬなるべし。われは、三代已前より、和殿の主(しゆう)の屋敷に、をれり。さるにより、彼家には、病みわづらふもの、常に、たえず。先代両主(りやうしゆ)は短命なりき。只、是のみならず、よろづにつきて、幸ひなく、貧窮、既に世をかさねて、祿はあれども、なきが如し。かくても、家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔、和殿の主家(しゆうか)には、しかじかの事、有しなり。近頃は又、箇樣々々。」
と、人にしらさぬ、秘事(ひめごと)を、見つるが如く、說(と)き示すに、用人、いたく駭き怕れて、嘆息の外、いらへも得(え)せず[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の漢字表記。]。
窮鬼(きうき)は、これを見かへりて、
「さのみ、おそるゝことには、あらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ、貧窮至極したれど、その數(すう)、やうやく、竭(つ)きたれば[やぶちゃん注:「盡きたれば」。]、われは、他所(たしよ)へ移るなり。今よりして、和殿の主人は、さきくおふる家となりて、世をかさねたる借財なども、皆、返すべきよすがは、いで來ん。秘(ひ)めよ、疑ふベからず。」
[やぶちゃん注:「窮鬼」は「極めて貧しい者」或いは「貧乏神」を指す(別に「生きている人間の怨霊・生霊」の意もある)。
「さきくおふる」「幸(さき)く負ふる」或いは「幸く生ふる」であろう。
「秘(ひ)めよ」吉川弘文館随筆大成版では『ゆめよ』で聊か不審だった。後と同じで「ゆめ、な」で禁止の呼応の副詞、或いは「ゆめゆめ」の踊り字の判読の誤りかと思ったが、こちらなら、躓かない。]
といふに、用人、心おちゐて、
「しからば、君は、いづ方へ遷(うつ)らせたまふにや。」
と問ふ。
窮鬼、答へて、
「さればとよ、わが行くところは、遠くもあらず。和殿が主の近隣なる、何某(なにがし)の屋敷にをらん。その移轉(わたまし)の程、一両日、いさゝかの暇(いとま)あれば、越谷わたりに相識(あいし)るものを詢(と)はんとて、出て來たれど、翌(あす)は、彼處(かしこ)に移る也。見よ、見よ、今より彼(か)の屋敷は、よろづの事に、さち、なくなりて、遂に貧窮至極せんこと、和殿の主の、今玆(ことし)まで、頭(あたま)を擡(もたげ)ぬ如くに、なりてん。ゆめ、な洩しそ。」
と、さゝやきつゝ、はや、越谷まで來る程に、あやしき法師は、いづちゆきけん、忽ち、見えずなりしとぞ。
いはれしことのしるしにや、かくて、件(くだん)の用人は、知行所へ赴きて、村役人等(ら)と、かたらふに、
『たびたびの借財なれば、成(な)り易(やす)からじ。』
と、あやぶみたるに、事(こと)、立ちどころにとゝのひて、思ひしより、物、多く、
借り得て、かへりけるとなん。
この一條(ひとくだり)は、同じ年六月の下つかた、蠣崎波響(かきざきはきやう)の說話なり。
彼用人と親しきもの、波響にも亦、踈(うと)からねば、渠(かれ)より傳へ聞きし、と、いへり。
かの武家、幷に、用人の姓名も定(さだ)かにて、まさしき竒談なるよしなれども、世にはばかりの關(せき)に任(まか)せて、そこらのくだりは、具さに記さず。猶ほ、遠からぬ程なれば、知りたる人もあらんかし。
[やぶちゃん注:「蠣崎波響」(宝暦一四(一七六四)年~文政九(一八二六)年)は松前藩家老で、画家としても知られた。彼から松前藩医員であった興継が聴いた話というのは事実であろうが、かく物語として整然と成形したのは、どうみても、父馬琴である。
以下は底本でも改行されてある。]
ちなみにいふ、世に「福の神」とて祭れるは、富貴(ふつき)を禱(いの)る爲めなれば、「貧乏神」といふもあるべし。且つ、福は禍ひの對、貧しきは富みの偶(ぐう)なるをもて、神史(しんし)に「幸(サチ)の神」あれば、又、「柾津日(まがつ)の神」もあり。佛書にも「吉祥天」あれば、又、「黑暗天(こくあんてん)」もあり。
[やぶちゃん注:「柾津日の神」「禍津日神(まがつひのかみ)」。日本神話に登場する災厄神の名。「禍」(まが)は「災厄」、「つ」は上代語の格助詞「の」、「日」(ひ)は「神霊」の意。
「黑暗天」「黑闇天」(こくあんてん)。サンスクリット語の「カーララートリ」の漢訳で、仏教における天部の一尊で、黒夜天・黒夜神・黒闇・黒闇天女・黒闇女などとも呼ばれる。ウィキの「黒闇天」によれば、『吉祥天の妹。容姿は醜悪で、災いをもたらす神とされている』。『密教においては閻魔王の三后(妃)の』一『柱とされる』。『彼女の図画は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に確認でき、その姿は肉色で、左手に人の頭が乗った杖を持っている』。「涅槃経」十二には、『「姉を功徳天と云い』、『人に福を授け、妹を黒闇女と云い』、『人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある』そうである。]
唐山(からくに)には、これを「窮鬼(きうき)」といふ。東坡に「送窮(そうきう)」の詩あり。歲(とし)の十二月下旬、彼(かれ)にて[やぶちゃん注:中国に於いて。]、家の内を掃除して、新年を迎へるを「送窮」と云ふ。この方(はう)の「煤拂(すゝはらひ)」と相ひ同じ。「送窮」の事は、「荆楚歲時記」・「五雜俎」等に見えたり。又、「耗(もう)」[やぶちゃん注:磨り減ること。減衰消耗。]といひ、「眚(せい)」[やぶちゃん注:禍い。]といへるも、こゝにいふ、「ひんぼうがみ」と相同じ。「耗」は類書に載せたる「唐逸史」【この書、傳らず。】に、玄宗の夢に見えし終南山の鍾馗の靈が劈(つんざ)き啖(くら)ひしといふ鬼の名也。「耗」は、卽、「虛耗」の義なり。よりて、皇國(みくに)にて、彩布の「にほひ」の[やぶちゃん注:見た目のその優美さが。]、うするに[やぶちゃん注:「失(う)するに」。]、「耗」の字を當てたる也。「耗」は破財の鬼(かみ)なるべし。又、「眚」は、「牛に似たる獸(けもの)にて、よく、禍ひをなす。」といふ。黑眚(こくせい)の、祟ありしは、「宋元通艦(そうげんつがん)」・徽宗紀(きそうき)に見えたり。これ、宋の衰へる兆しなりければ、「耗」も「眚」も「びんぼうかみ」とよみて、その義に稱(かな)ふべしと、曩(さき)に家嚴(ちゝ)のいはれし事あり。
[やぶちゃん注:先の「鍾馗」の条に出るが、そこでは注をしなかったので、ここでウィキの「鍾馗」から引いておくと、『鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している』。『ある時、唐の』『皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり』、『床に伏せた』。『玄宗は高熱のなかで夢を見』、『宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく』、『大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間」(六一八年~六二六年:初唐。唐の建国は一般に六一八年に当てる)『に官吏になるため』、『科挙を受験したが』、『落第し、そのことを恥じて』、『宮中で自殺した。だが』、『高祖皇帝』(唐の初代皇帝李淵(五六六年~六三五年))『は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた』。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付』き、『感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』という。かくして、『玄宗の時代から』、『臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録が』実際にあり、『宋代になると』、『年末の大儺』(たいな:追儺の原型)『にも貼られるようになり』、十七『世紀の明代末期から清代初期になると』、『端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた』とある。
「黑眚」(こくせい)は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」を参照されたい。
「宋元通鑑」宋・元の編年体通史。明の薛應旂(へきおうき)の撰。全百五十七巻。一六二六年序。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにあり、その「徽宗」(きそう)のパートはここ(PDF)だが、ちょっと調べて、諦めた。なお、徽宗は北宋の第八代皇帝であるが、一一二六年の末に金によって開封が再包囲され、徽宗とその長子で第九代にして最後の皇帝欽宗(南宋で即位した高宗の長兄)は北へと連れ去られ、二度と帰還することなく、北宋は滅亡している。]
近世、江戶、牛天神(うしてんじん)の社(やしろ)のほとりに、貧乏神の禿倉(ほこら)有けり。こは何がしとかいひし御家人の、窮して、せんかたなきまゝに祭れるなり、といひ傳ふ。さるを、何ものゝ所爲(わざ)にやありけん、その神體(しんたい)を盗みとりて、禿倉のみ、殘れりと、「四方(よも)の赤(あか)」に見えたり。はじめ、これを祭りしもの、敬して遠ざくる意(こゝろ)ならんには、咎むべきことにもあらねど、貧乏神を盗みしは、いかなる心にか、ありけん。こは、「借金を質におく」といふ諺と佳對(かつい)なり。笑ふべし。
[やぶちゃん注:「四方の赤」「四方(よも)のあか」。大田南畝が文化七(一八一〇)年に刊した、本近世に於ける個人の狂歌狂文集の集成の濫觴とされるもの。]
「四方の赤」にて、おもひ出たり。天明のころ、四方山人(よもさんじん)が、「窮鬼」の像贊(ざうさん)に、
おのれやれ富貴になさでおくべきが貧乏神の勅(ちよく)をそむかば
と、よまれしを、ある人、難じて、
「この歌一首、『自・他(じ・た)』なれば、語をなしがたし。『おのれやれ云云』といへる上の句は、『自』なり。『貧乏神の云云』といへる下の句は、『他』にあらずや。」
と、いはれしには、山人も、いひときがたくて、怠狀(たいじやう)[やぶちゃん注:詫び証文。]を出されたり。さればとて、難ぜし人の賢(けん)にして、よみ人の拙(つたな)きにも、あらず。
[やぶちゃん注:この批判の意味は、私が馬鹿なのか、よく判らない。]
古人も、かゝる謬(あやまり)あり。譬へば、芭蕉が發句に、[やぶちゃん注:底本はここで改行して一字下げしているが、句の後の説明を繋げてしまっている。]
梅さくらさぞわが衆(しゆ)かな女かな
と、いへるも、「てにをは」、あはず。「にてわか 衆かな 女かな」といへば、難(なん)なし。
又、其角が發句に、[やぶちゃん注:同前。]
この人數(にんず)舟(ふね)なればこそ凉(すゝ)みかな
と、いへるも、「てにをは」、あはず。「船(ふね)なればこそ凉(すゞ)みなれ」といふべしと、家嚴(ちゝ)、いへり。
[やぶちゃん注:「梅さくらさぞわか衆かな女かな」引用の誤りで「千慮の一失」っでっせ!
梅柳さぞわか衆(しゆ)哉(かな)女かな
天和二(一六八二)年芭蕉三十九の時の一句。「武藏曲(むさしぶり)」所収。
「この人數」(にんず)「舟なればこそ凉みかな」「江戶名所圖會」の「卷之一 天樞之部」の「両國𣘺(りやうこくはし)」の二枚目の図の上部雲形の部分に、
此人数舟なれはこそ凉かな
とある。サイト「アラさんの隠れ家」の「歴史散歩 江戸名所図会 巻之一 第二冊」の「両国橋、伝馬町、永代橋、佃島、新橋」のページの、こちらの画像を見られたい。]
皆、是、「千慮の一失」にて、「英雄、人を欺(あざむ)く」に、ちかし。これらは過庭(かてい)の餘聞なるを、筆のついでに、しるすのみ。
[やぶちゃん注:「過庭」吉川弘文館随筆大成版では『家庭』であるが、この「過庭」でよい。「家庭での教育・父親からの教え」という意の「過庭之訓」(かていのをしへ)の縮約だからである。「過庭」は「庭を横切ること」で、孔子は、自分の息子の孔鯉(こうり)が庭を横切る際、呼び止めては、「詩」や「礼」を学ぶことの大切さを諭し、鯉もそれによく従ったという故事に基づく故事成句である。
底本もここで改行。]
再、いふ、鼠(ねづみ)をも、「耗」と、いへり。鼠は何(なに)にまれ、噬み(か)み、損ふものなれば、「破財」の義を取りて、しか、異名せしなるベし。沈存中(ちいそんちゆう)が「筆談」に、
『慶曆中ニ【宋、仁宗、年號。】、有リ二一術士姓ハ李トイフ一。多シ二功思一。嘗テ木ヲモテ刻タリ二舞鍾馗一ヲ。高サ二三尺。右手ニ持セタリ二鐵簡ヲ一。以二香餌ヲ一置クニ二鍾馗ノ左手中ニ一。鼠緣テㇾ手ニ取ルㇾ食ヲ。則左手ニ扼リㇾ鼠ヲ。右手ニ運ンデㇾ簡ヲ斃スㇾ之ヲ。以獻セリ二荊王ニ一云々。』【見。第七卷。】。
この鍾馗の機關(からくり)に、鼠を敺(う)ち斃(たふ)させしも、鼠の事を「耗」といへば、彼(か)の「唐逸史」中なる「虛耗の鬼」に、よりところあり。
[やぶちゃん注:『沈存中が「筆談」』北宋の科学家で政治家の沈存中(一〇三一年~一〇九五年)の全二十六巻からなる随筆集「夢溪筆談」のこと。
「慶曆」一〇四一年~一〇四八年。
以下、底本も改行。]
予、つねに、人の家に至る每に、心をつけて、これを見るに、その家、盛りなるは、陽氣、必ず、室(しつ)に充ち、又、衰ヘたる家は、陰氣、必ず、室に充てり。夜分(やふん)は燈火(ともしび)の明暗にても、その盛衰は、しらるゝものなり。
およそ、人の盛衰は、時運に係るものながら、主人の心術(しんじゆつ)・行狀(ぎやうじやう)によらずといふこともなければ、業(ぎやう)を勤めて、奢(おご)ることなく、朝、とく、起きて、陽氣な迎へ、埃を掃(はら)ふて、陰氣を送らば、窮鬼も憑(よ)ること、なかるべし。
しかれども、眞(まこと)の貧富を推(お)すときは、あながち、貴賤によるにしも、あらず。
「道をしるもの、おのづから貴(たふと)く、足(た)ることを知れば、富めるが如し。かの愚福(ぐふく)にして蠢壽(しゆんじゆ)なるも、貨(たから)を積みて、散らすことを、しらず、老ひて、讓(ゆづ)れる子のなきものは、臨終正念、こゝろもとなし。もし、顏淵・原憲が志(こゝろざし)ありて、且つ、貧しき家には入らんとしつる貧乏神も、鼻をつまみて、必、迯げん。」
と、家嚴は、をりをり、いへるなり。
[やぶちゃん注:「蠢壽」見たことのない熟語だが、「愚福」(あくまで物質的レベルでのみ福を感じて満足していること)と同じで、この「蠢」は「愚か」の意であり、「外見(そとみ)でもいかにも内実のない下らない人生であることを認識せずに、ただただ、長生きすること」の意であろうと私は読んだ。
「顏淵」孔子が最も期待した高弟顔回。清貧に甘んじ、その才能は「十哲」中、第一とされたが、早世した。
「原憲」孔子の門人中で才能があった「七十子」の一人に数えられる子思。顔回と同じく清貧に甘んじ、同門の子貢が贅沢な姿で訪れた際、それを厳しくたしなめたという故事が「荘子」譲王などに見える。]
さりけれども、「巖居水飮(かんきよすいいん)」、浮世に疎(うと)く、富貴を見ること、糞土(ふんど)の如きは、是、人情にあらずかし。
窮達(きうたつ)・貧富を時に任して、生涯、毀譽なく、命(いのち)、長きは、是、天命を保(やす)んずる大福長者(だいふくちやうしや)といふべきのみ。
文政八年乙酉九月朔 琴嶺興繼識
[やぶちゃん注:「巖居水飮」「荘子」達生篇の一節。元は「嚴居而水飮、而與民共利、行年七十而猶有嬰兒之色」(「嚴(いはほ)に居(きょ)して、水を飲み、民と利を共にし、行年(かうねん)七十にして猶ほ嬰兒の色、有り。」)で、以下、話が続くが、それは、サイト「肝冷斎日録」のこちらを読まれたい。
にしてもこれを読んでいると、言いたくなることがある……
……興継よ……君は「予、つねに、人の家に至る每に、心をつけて、これを見るに、その家、盛りなるは、陽氣、必ず、室(しつ)に充ち、又、衰ヘたる家は、陰氣、必ず、室に充てり。夜分(やふん)は燈火(ともしび)の明暗にても、その盛衰は、しらるゝものなり」と言い、他人の盛衰をさえも敏感に感じとれたらしいな……しかも……「およそ、人の盛衰は、時運に係るものながら、主人の心術(しんじゆつ)・行狀(ぎやうじやう)によらずといふこともなければ、業(ぎやう)を勤めて、奢(おご)ることなく、朝、とく、起きて、陽氣な迎へ、埃を掃(はら)ふて、陰氣を送らば、窮鬼も憑(よ)ること、なかるべし」という通り、養生法には、とりわけ、気をつけていたらしいじゃないか……じゃあ……何でお前さんは、ずぅっと病弱だったんだね?……父馬琴が期待していた武家への返り咲きの大事な一歩だった松前藩医員もやめざるを得なくなり、挙句の果て、三十九の若さで親父を残して死んだんだよねぇ?……
……馬琴さん、よ……「老ひて、讓(ゆづ)れる子のなきものは、臨終正念、こゝろもとなし」だって?……そう心得ていた、あんた自体が、結局、そうなっちまったじゃねえか!……『興継と妻「みち」の子には太郎がいたはずだ』だって?……おう、確かにな、太郎は祖父であるあんたの初名と同じ「興邦」を名乗ったがね……あんたの亡くなった翌年の嘉永二(一八四九)年に亡くなって、遂に滝沢家の男系は、これ、絶えちまったのさ……「もし、顏淵・原憲が志(こゝろざし)ありて、且つ、貧しき家には入らんとしつる貧乏神も、鼻をつまみて、必、迯げん」ってか?!……確かに、あんたは膨大な著作で金には困らなかったろうから、貧乏神は憑かなかったかな?……でもさ、期待の息子興継は早々に病没しちまうし、晩年のあんたは失明してるぜ?……「臨終正念」……「心もとなし」……で、す、か……
以下、例の編者依田百川の評言(底本では全体が一字下げ)。「兎園小説」にはないが、電子化しておく。]
百川云、こゝにいふ窮鬼の談は、妄談不稽(もうだんふけい)[やぶちゃん注:荒唐無稽に同じ。]にして取るに足るべしとも思はす。漢土(かんど)の小說にはかゝる事、おいくらもあり。こは、用人が己が巧を神にせんとての造り物語か。さらずば、琴嶺が古書によりて、戲れに作りしもにやあらん。されども末段の議論は、實に、その理、あり。貧富は、財の多少によるにあらず。足ることを知つて節儉し、常に債主(さいしゆ)にはたられ[やぶちゃん注:借金その他をしきりに取り立てられ。]ざらむこそ、眞(まこと)の富(とみ)とはいふべけれ。百萬の財を庫(くら)に積むとも、それを足れりとせず、機會に投(たう)じ、一擧して、萬々の富を得んと、反(かへ)りて、一錢をも留(とゝ)めざるに至るもの、近世(ちかきよ)に往々(まゝ)、これ、あり。これ等は、まことの窮鬼(きうき)に魅入(みいら)れしものなるべし。
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