「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 戀を戀する人 / 現存する「戀を戀するひと」や未発表の「戀を戀する人」の孰れとも異なる幻しの同題異詩
戀を戀する人
わが怒りはうちに燃え
嘆きはそとにあふれたり
この身を野末に投げすてて
もえいづる草をぬきすつる
けふの晴れたる日の下に
しなへる指をふるはせて
たかぶる心にいぢらしさよ。
かくても望みはとげざるか
もとむるものは逃れ去り
日々に空しく消え去りゆく
消え去りゆく生命(いのち)
いつまでかこのままにてあるべしや
若きに心もえたち
涙をもつて祈りしかど
わが性の弱きにより
すべてよきものを失へり。
ああ いまもあしたも
たましひは嘆きつつ日影に坐れるなり。
[やぶちゃん注:底本では推定で大正三(一九一四)年の作で、『遺稿』とする。さて。この題名で、殆んどの方は、詩集「月に吠える」初版発売に際して、風俗壊乱に問われた同題の別稿だろうと思われるだろう(「愛憐」と「戀に戀する人」の二作が発禁対象とされたが、その二篇の部分を切り取って免れた。リンク先は孰れも私のブログ版正規表現版)。しかし、全く違うのである。また、筑摩版全集には同題(完全に表記も同じ「戀を戀するひと」)の全く違う詩篇が「未發表詩篇」に載るが、これも、また、違うのである。試みに以下にまず、原稿を示しておく。歴史的仮名遣の誤りや衍字と思われるもの(「なにゝに」。「なにに」か(校訂本文はそれ)。但し、「何にに」という疑問・反語の表現は俗語に現に普通にあるので誤字とは言えない)・誤字と思われるもの(「生體」。「正體」の意か。但し、「生體」を「生きている体」の意で「せいたい」と読んで「生きている気さえも失うほどに懸命に恋焦がれ」と読めぬとは断言出来ない)はママ。
*
戀を戀するひと
あなたはなにゝに怖れてよいものか、
私らは幸福健康であり
充分健康でありまいにち幸福であり
年もまだ若い身空だ、
わたしは少年紳士の まなさし 赤いネクタイ
眼元すゞしくさえ
あふぎみる眼の
おもひを空にきみが名をよ び ぶのべて女おみなをしたふ
戀わがれの青春はとびもゆく路の野春の若草
春の野べの小鳥
きえよ、
とくとく、きえされよ、きえされ、きえされ、きえされ、
なにゝにまさびしむけふ→遠空→家根→浅間山空のけぶりぞ
かならず
ああなにゝにさびしむ家根の上の有明月ぞ
こゝろに疾患の苗をうえること なかれ もなければ
わたしは道をいそがずとも
やさしく少女の家
おみなのほしさ、
こゝろはけんめいにこひこがれ生體もなき
路草の根を吸ふや日永に→ぬきてみる→ぬけば悲しも→吸へばつめたし→吸ふやつめたしふむやふまずや
遠山脈をきみ越えるがに
日はうすら日の浅間 山脈 をこえ、
今けふの日もくれ遠山脈をこゑてゆくがに
*
比較のために削除部分を除去する。同全集校訂本文のような一方的消毒はしない。
*
戀を戀するひと
なにゝに怖れてよいものか、
私は健康であり
年もまだ若い身空だ、
おもひをのべておみなをしたふ
われのゆく路の春の若草
野べの小鳥
とくとく、きえよ、きえされ、きえされ、きえされ、
なにゝにさびしむ空のけぶりぞ
ああなにゝにさびしむ家根の上の有明月ぞ
おみなのほしさ、
けんめいにこひこがれ生體もなき
草の根をふむやふまずや
けふの日もくれ遠山脈をこゑてゆくがに
*
老婆心乍ら、最後の「遠山脈」は「とほやまなみ」であろう。さて、かく整序してみても、本篇との詩語上の有意な共通性は認められない。詩想に於いて共通した部分がないとは言えぬものの、それが別稿とするほどには共集合を持っているとはとても思えない。さればこそ、またしても、幻しの、既に原稿が失われた同題異詩とするしかあるまい。]
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