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2021/10/07

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 慶雲 彗星

 

[やぶちゃん注:長いので、段落を成形する。]

 

   ○慶雲 彗星

 吾友外岡北海、ひと日、予を訪ひ來りて、いへらく、

「おのれ、さきの日、ゆくりなく慶雲を見ることを得たり。そのよし、いさゝかしるしたり。」

とて、予に示されし筆記に、

「去る八月五日午の一刻ばかりに、小石川傳通院の境内を通りかゝりしに、稻荷の祠前華表の前に、比丘、二、三人集まりて、大空を打ちながめゐたり。己、近よりて、

『何事のありて、空をばながめ居るぞ。』

と問へば、比丘の云ふ、

『あれ、見給へ。五色の雲の棚引なり。昔もの語にのみ聞きつるを、今、見ることの有りがたさよ。今少し、早くおはさば、色こき所を見給はんものを。さりながら、又も、色こくなり侍らんか。』

など、とりどりいへば、

『おのれ、何をいふ。』

と、あやしみつゝ、木の間より伺ひ見れば、げに、比丘のいふ如く、よのつねならぬ一村の白雲、日輪の傍に、長さ十丈あまり、廣さ四、五丈もあらんずらんとおぼしきが、薄く棚引きたるを、日光に映じて、たちまち、紅を、ときて、流すがごとく、其麗しきこと、いはんかたなし。然るに、その紅雲の裏より、紫・黃・靑・綠など、えもいはぬ、麗しき色、幷起りて[やぶちゃん注:「ならびおこりて」]、譬へば、鮑貝の彩を麗しくなしたらん如くにて、見るが内に、淡く、濃く、出沒變化なすこと、かぎりもなく、目ざまし、などいふも、中々、おろかなり。

『穴、うるはし、穴、うつくし。』

と、我しらず、よび出でられ、

『あはれ。かゝる折、相知る人もがな。呼びとゞめて、倶にめづべきものを。』

と、をしまれけり。

『抑、此雲、何地、行くらん。いで、その終る所まで、見とゞけばや。』

と、打ちまもりをりしに、纔、二刻計に、おのづから、うすくなりもて行きて、はては、只、一村の白雲となりて、其所をも去らず、消え失せにけり。彼比丘に、

『此雲、はじめ、何方より來りしぞ。』

と問へば、比丘の云、

『此雲、外より出でこしには、あらざるべし。己が見つけし時も、卽、こゝに、ありたり。』

と、いへり。

 いかにも珍敷ことなれば、

『必、外にても、此雲を見し人あらん。』

と思ひて、後、人々に問ひものすれど、さることありしといふ人は、ふつに、なかりし。」

とて、「日本後紀」などを引用せり。

[やぶちゃん注:「外岡北海」旧姓青木北海(ほくかい 天明二(一七八二)年或いは翌年~慶応元(一八六五)年)と称した国学者。越中富山藩士。早くに子に家督を譲り、江戸に住んだ。和漢の学や「易経」に通じ、和歌や書もよくした。また、工芸にも才能を示した。姓は後に殿岡或いは外岡と変えた。号は他に神通・海雲など。著作に「越中地誌」・「周易外伝神通放言」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠った。他の記載でも本名は不明である)。]

 しかれども、予をもて、これを見るときは、我國に慶雲あらはるゝことは、

『文武天皇大寶四年五月、西樓上慶雲見云々』、『改ㇾ元爲慶雲元年。』

[やぶちゃん注:ウィキの「慶雲」によれば、『「慶雲」とは夕空に現れ』、『瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも』され、この二年前の大宝二(七〇二)年に『崩御した持統天皇の葬儀などが済んだ』この年に『藤原京において』慶雲が『現れ、改元され』たとある。]

と、史に見えたるぞ、始なるべき。これより後も、しばしばなり。

『北魏成帝興光元年[やぶちゃん注:四五四年。]二月、有ㇾ雲五色、所ㇾ謂「景雲太平」之應。』

なり。また、吾邦、

『稱德天皇天平神護二年八月、改元神護慶雲。』

[やぶちゃん注:「二年」は「三年」の誤り。天平神護三年(七六七年)八月十六日に「神護景雲」に改元している。編者は何故、ママ注記をしないかなあ!?!

詔に、

『甚奇久異雲(コトニ クスシク コトニ ウルハシキ クモ)、七色交立登[やぶちゃん注:「なないろに、まじはりて、たちのぼる」であろう。]。』

とも見えたり。

 北海子も又、五彩の雲をもて「慶雲」とせり。

 しかはあれど、「漢書」・天文志、及び、「延喜」治部省・祥瑞の條にいへるものを按ずるに、

『若ㇾ煙、非ㇾ煙、若ㇾ雲、非ㇾ雲。』

これによる時は、五色のいろどりある雲は、けだし、慶雲にあらざるに似たり。

 又、この比、人、

「その夜ごとに、彗星のあらはるゝ。」

よし、いひもて傳へ、

「そは、凶年のさがにや。」

など、いへり。

 按ずるに、彗星の名、始めて「春秋」に見えたり。しかれども、その狀を、いはず。其狀を記したるは、甘氏が「星經」などや、始ならん。其後、相承けて、「妖星」とし、これが應をいへるもの、漢儒に至りて、尤、甚し、といふべし。苟くも、年をわたりて、これが應をもとめば、必、應ぜざる者、なからんや。牽强と、いひつべし。

[やぶちゃん注:「甘氏」甘徳(かんとく 紀元前四世紀頃)は戦国時代の天文学者。斉の人。同時代の魏の石申とともに世界でも最古級の「星表」を記したと伝えられる人物。当該ウィキによれば、彼には「天文星占」・「甘氏四七法」・「歳星経」『などの著書があったとされるが、その大半は失われている。これらの著書の内容は』「史記」の天官書や、「漢書」の『天文志における記述を通して窺い知ることができる。また』、唐代に成立した占星術書「開元占経」には『「甘石星経」として』、『まとまった文献が収録されている』とあるので、美成はその辺りの記載を「星經」と言っているのであろう。]

 今、その一、二をいはゞ、漢土の事は、歷史中、「敬々雲」。しかれども、「五代史」・司天考に云、『蓋聖人不ㇾ絕天於人。亦不以ㇾ天參ㇾ人。絕天於人。則天道廢。以ㇾ天□[やぶちゃん注:底本の欠字或いは判読不能字。]ㇾ人。則人事感。故常存而不ㇾ究也。』と、いへり。知言といふべし。

[やぶちゃん注:「敬々雲」不詳。そもそも「々」は日本が勝手に作った繰り返し記号であるから、「敬敬雲」となるが、この文字列でも漢籍は掛かってこない。

『「五代史」・司天考』北宋の欧陽脩による歴史書「新五代史」(元の名は「五代史記」で一〇五三年完成したが、私撰であるため、家蔵されていたが、後に朝廷に献上された。乾隆帝時、先行する薛居正の「旧五代史」とともに正史とするため、欧陽脩の方をかく改称させた。後梁の九〇七年から後周の九六〇年までの歴史が記されてある)の「考」にある天体現象について綴った「司天考第二」の一節。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本が読める。六行目下方から。これによって、欠字は「參」であることが判明した。

「蓋聖人不ㇾ絕天於人。亦不以ㇾ天參ㇾ人。絕天於人。則天道廢。以ㇾ天」參「ㇾ人。則人事感。故常存而不ㇾ究也。」訓読を試みるが、自信はない。「蓋し、聖人は天に於いて人として絕えず。亦、天を以つてして、人を參らさざれば、天に於いて、人、絕え、則ち、天道、廢す。天を以つてして、人を參らさば、則ち、人事、感ず。故に、常に存りて、究めざるなり。」。よう、判らんな。]

 荷田氏も、又、云[やぶちゃん注:どこまでが荷田の言であるか、不明。取り敢えず、殆んど終りまでに採っておいた。]、

「蓋、古來、天變地妖を以て、禍の前兆とするは、人君を恐れしめん爲なり。凡、人恐るゝ所なければ、其行ふ所、矩を踰ゆる[やぶちゃん注:「こゆる」。]に至る。縱令ば、臣は君を恐れ、子は父を恐れ、弟は兄を恐れ、婦は夫を恐る。その恐るゝ所ある故に、行ふ所、矩を踰えず。若、矩を踰ゆることあれば、縱令ば、御家人以上は、國主に至るまでも、上より、これを刑せられ、祠官・僧尼は、寺社奉行、これを刑し、農民は、勘定奉行、これを刑し、商家は、町奉行、これを刑す。陪臣、及、私地の長商も、各、その本主・領主より、これを刑し懲すが故に、率土の濱、恣に[やぶちゃん注:「ほしいままに」。]法を犯すもの、なし。唯、天子に至りては、恐るゝ所なく、矩を踰え、法を犯しても、纔にこれを諫むる者あるに止まる。然れば、無道に陷り易し。故に妖孽を以て、これを恐れしめ、德を修めしむ。大戊の桑穀、高宗の雊雉、以下、皆、然り。其章(コトハ)云、『天子不德なる時は、天變地妖、頻に臻る[やぶちゃん注:「いたる」。]。』。又、云、『某星、見るゝときは、兵喪あり。某星、見るゝときは、水旱あり。』などいふ類、多端なり。其實を論ぜば、天は自天、人は自人【「天は、おのづから、天、人は、おのづから、人云々」。解云、「是、破道の說、君子の言にあらず。辯あり。そは、別にしるすべし。】[やぶちゃん注:頭に『頭書』とある。]、人の不德、天に拘ることなく、天の異常、また、人に及ぶこと、なし。古書に「天」と稱する者は、皆、物の自然にして、人力の爲すこと能はざる所を、天に托して、これをいふのみ。書の「舜典」に『惟時亮天功。』、「大禹謨」に『天降之咎。』、「詩」の「大保」に『天保定爾。』、「節南山」に『昊天降此鞠訩。』など、いふ。以下、六經に、「天」と稱するもの、みな、然り。」

といへり。見ん人、其これを、おもひねかし。

  文政八年秋九月朔     山崎美成識

[やぶちゃん注:「率土の濱」(そつとのひん(そっとのひん))は、陸地と海との接する果てで、転じて「国土」の意。「詩経」の「小雅」の「北山」に由来する語。

「妖孽」(えうげつ(ようげつ))は「不吉なことが起こる前触れ(凶兆)」。

「大戊の桑穀」「たいぼのくは」と読む。「大戊」は正しくは「太戊(たいぼ)」で、殷の第九代の王の即位名。「太平記」巻第三十の「吉野殿、相公羽林と御和睦の事付けたり住吉松、折るる事」の後者の一節で「史記」の「殷本紀」を引いて、「昔、殷帝大戊の時、世の傾んずる兆(しるし)をあらはして、庭に桑穀(くは)の木、一夜(いちや)に生ひて二十餘丈にがびこれり。帝大戊、懼(おそ)れて伊陟(いちよく)[やぶちゃん注:当時の宰相。]に問ひ給ふ。伊陟が申さく、「臣、聞く、妖は德に勝たず。君の政(まつりごと)の闕(か)くる事あるに依つて、天、此の兆を降(くだ)すものなり。君、早く德を修め給へ。」と申ければ、帝、則、諫めに從ひて、政を正し民を撫(な)で、賢を招き、佞(ねい)を退け給ひしかば、此の桑穀の木、又、一夜の中に枯れて、霜露(さうろ)のごとくに消え失せたりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに(以下略)」とある。なお、「太平記」は「桑穀」を二字で「くは」(クワ)と訓じているが、「史記」原本の「桑穀」は実は「桑」と「穀」(かうぞ(コウゾ))であって、二種二本の木が絡み合って生えたことになっている。

「高宗の雊雉」「書経」の第十五「高宗肜日(かうそうゆうじつ)」に基づく。「高宗」は殷の第二十二代の王。「肜」は「先祖を祀る祭儀」のこと。

高宗肜日、越有雊雉。祖己曰、「惟先格王正厥事。惟天監下民、典厥義。降年有永有不永、非天夭民、民中絕命。民有不若德、不聽罪、天既孚命正厥德。」。乃曰、「其如臺。嗚呼、王司敬民、罔非天胤典。祀無豐于尼。」。

(高宗の肜(ゆう)せる日、越(ここ)に雊(な)ける雉、有り。祖己(そき)[やぶちゃん注:高宗の子。後に第二十三代の王となった。]、曰く、「惟(こ)れ、先の格王は厥(そ)の事を正せり[やぶちゃん注:「古えの優れた王たちは、雉が鳴いて現われた際には自分の行動を正しくしたと聞いています。」の意。]。惟れ、天は下民を監(かんが)みるに、その義を典(つね)とす。降年には、永き有り、永からざる有るも、天の民を夭するにあらず、民の命を中絕するなり。民の德に若(したが)はず、罪に聽(したが)はざる有れば、天、既に、孚(まこと)に、厥(そ)の德を正さんことを命ず。」と。乃(すなは)ち曰く、「其れ、臺(われ)のごとし。嗚呼(ああ)、王の司るは、民を敬うことなり。天の胤典(いんてん)にあらざるなし。祀るに、尼(ちか)きを豐かにする無かれ。」と。)

以上の訓読は、サイト「肝冷斎日録」のこちらを参考にさせて貰った。そちらに判り易い訳もあるので、是非、読まれたい。

「舜典」「書経」の「虞書」五篇の第二。

「惟時亮天功」「惟(こ)れ、時(こ)れ、天功を亮(たす)けよ。」。

「大禹謨」同前の第三。「たいうぼ」と読む。

「天降之咎」「天、之れに咎(とが)を降(くだ)す。」。

「詩」「詩經」。

「大保」「詩経」の「小雅」の「天保」の誤り。

「天保定爾これは後句があって「天保定爾 俾爾戩穀」と続き、この返り点はおかしいように感ずる。これは二句で「天は定(くらゐ)を保(やすん)じて 爾(ここ)に戩穀(せんこく)[やぶちゃん注:福禄。]を俾(あらし)む」の意であろう。

「節南山」同じく「詩経」の「小雅」にある。

「昊天降此鞠訩これも引用がおかしい。「昊天不傭 降此鞠であろう。「昊天(かうてん)は不傭(ふよう)にして 此れ 鞠(きくきよう)を降(くだ)す」か。『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらによれば、意味は『大いなる天よりの幸いはなし。』『あるのはただ、不幸ばかり。』とある。

「六經」(りくけい)は漢代に官学とされた儒学に於ける経書の総称。「詩経」・「書経」・「礼記」・「楽経」・「易経」・「春秋」の六つの経書を指すが、このうち「楽経」は早くに失われてしまった。]

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