「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 器物 / 現在の習作草稿「器物」の失われた初稿或いは別稿
[やぶちゃん注:十行目の頭の「*」については、底本では本詩篇末に『編註 * このところ一字不明。』とある。先に示しておく。後掲する別稿を参考に考えるなら。「*」は「交互(かたみ)」である可能性は高いことにはなろう。「交互」を潰してしまい、そのよこに「かたみ」と雑に崩して繋げてルビした場合、それは奇体な難解な漢字にしか見えないからである。]
器 物
戀人よ ありとあらゆる器(うつは)の吐息をきき給ヘ
たとへばそのリキユル・グラスのいとぞこに
絲のごとくひびのあり
そこより何事かうつたへんとするを
戀人よ 君の心につつましき
なくはいかにせむ みようつはあらましつめたれども
その心はげしき怒りにもえ
かれはすべてさびしくもだし
いとはるかなるところにありて
*より來れる友をまつなり
いま我が乎に捧げられ
また君がお指にふるるとき
このうつはは君の白き指にふれ またわが强き手に捧げらる時
つねにつねに
みよわが手に高く捧ぐるとき
もとより君がお指もてそのへりをなでるとき
このうつははかくもよろこび踊り
言葉なき嘆きを發す
そのさびしさにいぢらしくも白く光れるなり
戀人よ このあへかなる灯の下にして
今夜
わが君を思へることを語りなば
この盃は歡喜に破られ
かしこの甕はさけびて倒れ
葡萄酒のそそぎこぼれて
むざんに君が白き手を破らんことを怖る。
[やぶちゃん注:底本では『ノオト』とのみある。「リキユル・グラスのいとぞこ」老婆心乍ら、「いとぞこ」は「糸底」で、通常は陶磁器の底の部分、成形の際に糸で轆轤から切り取った底部を、また、広く一般の焼物の安定的に底座させるための部分を指す。私は何種かのワイン・グラスやリキュール・グラスを持っているが、グラス全部が完全に陶器製のものや、ステム(持ち手)からプレート(フット)までの下方が木製・陶製・金属製で、その上にガラス製のグラス上部のボウルが組み込みになっているものなどを持ってはいる。但し、ここは次行で「ひび」(罅)がプレートの部分に入っているのが光って見えるのでなくてはならぬから、やはりこのグラス、全体がガラスでなくては、絵にならない。されば、「いとぞこ」はガラス製のプレートの部分を意味することになる。
さて、この詩篇、題名が同じで、前半部がしごくそっくりなものの、次第に変わった表現が付随・浸透している詩篇が筑摩版全集に存在する。「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」の「器物」である。以下に示す。濁点落ち・衍字(らしきもの)・脱字(らしきもの)はママ。
器物
戀人よ
ありとあらゆる器物(うつは)の吐息をきゝたまヘ
たとへはそのリキュールグラスのいとぞこに
縷のごとくひびのあり
そこより何ごとか訴へんとはするとも
戀人よ
君の心につゝましき動虔愁なくばいかにせむ
みよ器は槪觀(あらまし)つめたけれども
その内容(うちは)はつねに烈しき怒りにもゆ
かれはすべて寂しき慣れ
いとはるかなる處より交互(かたみ)に友を呼ばへり。
いま我が手に捧げられ
また君がお指にふるるとき
このうつははかくもよろこび踊り
しんに言葉なき嘆を發す
その白き嘆のいぢらしさに
空しきところのばんぶつ
さびしく淚をそゝぎてこのものを光らしむ、るなり、
しかれども
戀びとよ
さあれ
[やぶちゃん注:「しかれども」と「さあれ」は並置。]
このあへかなる燈灯(ともしび)のもとにして
我が君友がらを愛(め)づることをし語りいでなば
こゝの盃は歡喜に破られ
かしこのに甕はさけびて倒れ狂ほしく𢌞りいで
ものみなむざんなるさけびをあぐるにより
我はいたく恐る
もしや素直なる家鳩の君が手を逃れ出でずやはと。
「虔愁」「けんしゆう(けんしゅう)」であろうが、見たことがない熟語である。敢えて言うなら「慎ましく内に秘めた愁い」であるが、前の形容と屋上屋で何か別な漢字の誤記のようにも読める。
本底本の「器物」と比較した時、明らかにこの「習作集」版の方が複雑に細密に、神経症的になっており、詩篇としては「習作集」版が推敲形という気はする。にしても、どちらがいいかというと、私はリリシズムの流れから言えば、底本の方が好きだ。]
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