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2021/10/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「孫七天竺物語」抄

 

   ○「孫七天竺物語」抄

 夫、今にして古をしらんは、書に、しく、べからず。又、居ながら、夷狄の風俗をしるも亦、書、なり。ふるくは、僧玄奘の「西域記」あり。近くは張鵬翮の「俄羅斯日記」の如き、目、其事を視、足、その地に至れり。此等の書、實に徵とするに足れりといふべし。其他、歷史中、載する所、外國傳、及、諸書に散見するもの、又、むねと、其事のみを記しゝ「東西洋考」・「西域聞見錄」等の如きも、多くは、みな、想像の言耳[やぶちゃん注:「のみ」。]。其中、たまたま、吾邦の事に及べるもの、妄誕、少からず。槪して、しるべし。

[やぶちゃん注:「張鵬翮」(ちょうほうかく 一六四九年~一七二五年)は清の雍正帝の治世の賢相で大学士。「俄羅斯日記」は「奉使俄羅斯日記」が正式書名らしい。「俄羅斯」はロシアのこと。

「東西洋考」明の文人張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)によって書かれ、一六一七年に発刊された明王朝期の中国人の南シナ海に於ける海上活動に就いての記録文書。全十二巻。最初は県令からの要請で始めたが一時中断していたところに府督からの直々の再請を受けて完成させた。巻一から巻六までの前半は「東洋」及び「西洋」各国についての記述で、巻七以後の後半は税・航路・外交文書等について述べられてある(当該ウィキに拠った)。

「西域聞見錄」清朝の東トルキスタン(後の新疆省、現在の新疆ウイグル自治区)関係の地誌。椿園七十一撰。全八巻。乾隆帝の治世の一七七七年に完成。別名で「新疆外藩紀略」「異域瑣談」などがある。筆者自らの現地調査に基づいた紀行文として独自の内容を持ち、「欽定皇輿西域図志」や「欽定新疆識略」などの官撰地誌には見られない重要な内容を含んでいるという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 扨、吾邦の舟人、時として颶風に吹きはなたれ、あらぬ國に別れるものゝ、歸ることを得て、ものがたるは、みな、目擊のことながら、一丁字をもわきまへぬ舟人なれば、事物はもとより、地名だに、詳には得おぼえぬものゝみ。痴人に夢を說くの思ひなきこと、あたはず。

 其中に「孫七天竺物語」といふ册子あり。

 明和三年【本書に「壬午年」とあり。寶曆十二年也。】[やぶちゃん注:以上は「明和三年」への右傍注。「寶曆十二年」は一七六二年。先の「筑前船漂流記」の冒頭にこの年に船を新造し、「伊勢丸」と名づけたことが書かれてあり、それを難破年に誤認したものらしい。]、筑前國の船頭重右衞門といふもの、「伊勢丸」といふ船に、廿人のりにて、漂流し、數月、海上にありて後、こゝかしこの夷人の手にわたり、果は孫七といふ者一人、天竺にいたり、商家に奉公して、九年を經て、安永三年八月十五日【本書に明和七年とあり。「廿六日」。】[やぶちゃん注:同じく年号の部分から右傍注。安永三年は一七七四年、明和七年は一七七〇年。帰国年は諸本で甚だしい齟齬があるようだ。]、故鄕に歸り來て、話せしを記したるにて、地名・人名はいふまでもあらず、方言さへ、詳に記したれば、此册子こそ、彼地の一斑をも窺ふべきものならんと、一わたりよみかうがへつるに、考據とすべきこと、なきにあらず、こゝをもて、今、其天竺のことに及べるものを、こゝに抄し、且、拙考の、一、二をも附記す、といふ。

[やぶちゃん注:所持する国書刊行会刊「江戸文庫 漂流奇談集成」の巻末にある「日本近世漂流記年表」によれば、何れも誤りであることが判った。明和元(一七六四)年十月、『筑前国志摩郡唐泊浦』(現在の福岡県福岡市西区宮浦。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の伊勢丸が函館から江戸へ航海中に鹿島灘で漂流、ミンダナオ島に漂着。』とあるのが事実である。これについて書かれた著作や記事(随筆の一節なども含む)は十五篇も挙げられてある。その中で似た系統らしき書名を見ると、「漂流天竺物語」・「吹流天竺物語」(「吹流」は「ふきながれ」。国立国会図書館デジタルコレクションの石井研堂編校訂「漂流奇談全集」博文館(一九〇八)年刊のここから読め、管見するに、奇体な地名に似たものが出、これは本篇で美成が参照しているものと系統が同じでることが判る。『筑前國唐伯浦孫七直述』と冒頭にある)・「孫太郎ボルネオ漂流記」・「筑前の人保爾尼に漂流し万死を出でゝ故郷に帰る」(「国文学研究資料館電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の同じ石井研堂氏の訳(但し、擬古文。しかし、ルビがあり、前者より遙かに読み易い)の「日本漂流譚」のここから当該話が読める。因みに「保爾尼」は「ボル子ヲ」(「子」はカタカナの「ネ」の代字)と読む)・「天竺物語」(中原善忠訳「日本漂流奇談」所収)等がある。また、ウィキに本主人公とその漂流の内容を纏めた「孫太郎」もあるので(かなり詳しく書かれてある)、事前に読まれると、以下を理解し易いかとも思われる。]

 六月【明和六年。】[やぶちゃん注:二行割注。]の初のころ、大船をしつらひて、「ソウロク」【地名、南天竺の内といふ。】。の小港にぞ、入りにける。宿の主が案内して、われわれ二人【孫七、幸五郞。】を、此舟に、つれ行きけり。

「いかなる國に、又もや。」

と、覺束なくも、乘りにける。

 のり合には、老若の女、八人、男は、廿二人なり。水主[やぶちゃん注:「かこ」。]、梶取のもの、廿人、都合、乘組五十人。

 いづくよりとも、夢心地、殘りし友のこと、問へば、さるに、行方も、しらざりける。名殘をしくも、見送り、見送り、沖津浪にぞ、走りける。

 女を見れば、枕も上らず、淚かわかぬありさまを、いかなる子細もしらざれども、後に思ひ合すれば、親にはなれ、兄弟に別れし人を盜みて、上荷に積み、遠き國に賣りに行く。その人々の心のうちこそ、思ひやられて、悲しけれ。

 舟には黑砂糖・黑胡麻なり。かくて日數も、廿日あまり、過ぎければ、兄と賴みし幸五郞【このもの、「伊勢丸」乘組廿人の内、孫七と此ものゝみなり。】、何とやら、煩ひ付き、食事も絕え、いろ、靑ざめ、たのみすくなく見えにける。

「死がいなりとも、納めん。」

と、舟の者にいひければ、

「海へ捨てよ。」

と、仕かたする[やぶちゃん注:ジェスチャーする。]。

 いと悲しく、とや角、いへど、幸ひ、泊り港にて、岡近く、「てんま」を寄せ、手を添へてと賴みけれど、つばき、はきして、かぶりをする故、是非なく、是非なく、獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]して、死がいを肩に、岡へ上り、「かい」にて砂をほり、よきほどに納めてこそは、船に乘る。

 思ひ暮して打ふすに、船のもの、氣遺うて、

「又も、煩ふか。」

とて、

「藥よ、水よ。」

と世話すれば、しほれぬ體して、くらしける。

 行き向ふ船も、たまたまにて、見馴ぬ帆かけ、吹き流し、島も珍しく、日本の道のりにて、海上、凡、弐千里ほど、日數も已に四十二日、しけにも逢はず。

 船は、ゆくゆく「みなと」とおぼしき川口に、十里ばかりぞ登りける。

 やがて、瓦の軒、見れば、碇を入れて、「てんま」をおろし、三十人の男女を乘せ、岡のかたにぞ、着にける。

 舟方は十人ばかり、岡に上りて、宿を極め[やぶちゃん注:「きめ」。]、町々、所々に人を賣りつけしとぞ聞えける。

 此所は、中天竺・黑房の國にて、「カイタニ」といふ國にして、「バンシヤラマアン」といふ處とかや。いつの頃よりか、始まりけん、中華・南京・福州・山東の商人、出店して借地なり。家作りは、みな、瓦葺。富家も多し。町々、總いたばりにして、往來の人、土をふむこと、なし。諸國の唐船、出入をあらそひ、「おらんだ船」も入津して、繁昌なるみなとなり。後には、山もあり。里々、廣く打ち續きて、前には大河あり。渡り二里ありて、甚、深し。大船、岸ちかく、つなぎならべて、水の流れ、なほ靜に見え、關戶・小倉の海の如し。川上は南天竺・龍砂の下まで續きて、その流、幾千里といふことをしらずとかや。此處の町、家千四五百軒、みな、商家なり。人の形、きれいにして、衣類にも目をさましける。

[やぶちゃん注:「中天竺・黑房の國」不詳。「中天竺」自体は中央インドを指すが、どう考えてもおかしい。ここは日本から西の中国ではない広域周縁を漠然と「天竺」と呼んでいるものと思われ、今の東南アジア(中国よりも有意に南方海辺及び海上)を指すように思われる。「黑房」は「くろばう」で「黒ん坊」(肌が黒く見える人種。黒人とは限らない)の縮約かと思ったが、後にその意でちゃんと「黑坊」が出るから、違う。黒髪を房のように垂らした様子か、螺髪の謂いかとも思ったが、どうもピンとこない。一つ、或いは人種名で、フィルピンにも同系統の民族が住むネグリト(Negrito)のことかも知れない。彼らは 暗い褐色の皮膚を有し、巻き毛と顎が尖るのを特徴とするが、「黑」と「房」はその膚の見た目の色と、巻き毛に親和性があるように思えたからである。

「カイタニ」ウィキの「孫太郎」に、彼らが最初に漂着したという村を「カラガン」というとあり、これか? 同ウィキでは『カラガン村があった島について』は、「漂流天竺物語」・「華夷九年録」では『「南天竺の内ボロネヲ」と記され、現在のボルネオ島』(インドネシア語の「カリマンタン島」のこと。ここ)『であると記されているが』、「南海紀聞」では『「マキンダラヲ」』、「漂夫譚」では『「マギンタロウ」と記され』、「南海紀聞」の『編者である青木興勝は漂着場所をフィリピン南部のミンダナオ島であるとしている。現在では』、「南海紀聞」の『説の方が正しいとされ、伊勢丸はミンダナオ島南岸に漂着したとするのが定説となっている』とあり、さらに、三『月頃、残された』七『人は家から出されて』、『船に乗せられた』。七『人は日本に帰れるかもしれないと淡い期待を抱くが、カラガンを出た船は西に向かい』、二十『日ほどでソウロクという場所に着いた。ソウロクは現在のスールー諸島の事であり』(ここ。ミンダナオ島とカリマンタン島の間のちょうど中間部分に相当する)、七『人は奴隷商人の家でしばらく暮らしたが』、四『月末に金兵衛、市三郎、貞五郎、弥吉、長太の』五『人は海賊の頭のもとに連行されることになり、孫太郎と幸五郎の』二『人だけが残されることになった』。二『人は』六『月中旬に別の島に連れて行かれ、ゴロウという海賊の持ち物となった。ここで』二『人は、結婚式の宴席で太鼓を持たされ』、『日本の歌を披露させられたりしたが、その後も他の者に転売され続け』、二『人はスールー諸島中を連れまわされることになった。やがて』二『人はボルネオ島南部のバンジャルマシン』(これが本篇に出る「バンシヤラマアン」であることは疑いようがない。ここ)『に連れて行かれることになったが、この航海中に孫太郎が兄と慕っていた幸五郎が病死した。幸五郎の亡骸は海に捨てられそうになったが、孫太郎はせめて海岸に土葬させてくれと懇願し、幸五郎の亡骸は孫太郎の手によって海岸近くの小高い丘に埋葬された』とあるのが、本篇の記載と見事に一致する。元に戻ると、「カイタニ」は「カラガン」とは似ていないが、考証対象はこちらの「カラガン」の方が資料的には有有利なようだから、試みに似た発音を調べてみると、ミンダナオ島北部のここに港湾都市「カガヤン・デ・オロ」があった。]

 孫七、三千世界を𢌞り來て、初めて人の風俗に逢ひ、

『何れに我も賣り付くべし。こゝにうれかし、買へかし。』

と、心にぞ思ひける。

 よきにつけても、幸五郞、たまたま道まで伴ひ來て、爰にも屆かず打ち捨てしは、殘り多きこそ、悲しけれ。

 大方、人も片付けるにや、

「われも、來れ。」

と、つれて行く。

 此町にても、大家と見えし萬店[やぶちゃん注:「よろづみせ」。]にぞ入りにける。

 我、月代[やぶちゃん注:「さかやき」。]も、なで付くばかり、まだらかみに、色黑く、目の内、丸く、見出しければ、家内の上下、打ちつどひ、日本人のめづらしくや、仕事を止めて、ながめ居る。

 我も又、口、ゆがめ、眉をしばめて見せければ、常には勝手に出でぬ嫁・娘、笑ひに傾く。髮の飾り、觀世音の樣に見えける。

 かくて、主とおぼしき人、船のものと物語し、臺所にて食事をさせ、夫より、船子は歸りける。

 家内の人數、廿四人。主人の名は「タイゴンクワン」、妻の名は「キントン」といへり。年十八。この春、此家へ嫁に來りしと、きく。 老母あり。主人の弟あり、「カンヘンクワン」といふ。手代頭「ハウテキ」・「ヒヤウコウ」のふたり。家内、よろづの裁判[やぶちゃん注:布地を裁つことであろう。]して、吳服を商ふ大店なり。

 外に下人十五人、その内「アルセン」・「モウセイ」・「カウセン」の三人は黑坊にて、朝夕の食事を、別所にて、つかみ喰ふ。

 下女「ハヒアラヽン」・「ウキン」・「コキン」の三人は、是も、遠國、黑坊の娘なり。

 我名を「日本」とよぶ。

 初のほどは、物每に仕形計[やぶちゃん注:「しかたばかり」。ジェスチャーのみ。]にて致させけるが、盆前なれば、いそがしく、

「言葉を、習ヘ。」

と、手を取らへ、物をとらへて、

「『コソサミヤア。』――『されば、なに。』と云ふものぞ。」

と、なり。

「『チナウサミヤア』――『なにを、いたす。』。」

と、なり。

 先[やぶちゃん注:「まづ」。]、二事を敎へてより、其後は言葉をおぼえ、天竺口狀、おぼえけり。

 主人も、家内も、慈悲ふかくして、常に勘辨を加へて、召仕はるゝ。

『我が命あらん限りは。』

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]心もとけて、仕へける。

 光陰、夢と移り行き、七月も朔日になり、此所は、今夕より、門口に燈籠を燈し、靈具を備へ、猪・羊・鷄の内を備へ、聖靈を祭ると見えにける。

[やぶちゃん注:現地の原始宗教に習合した仏教の盂蘭盆であろう。現在のカリマンタン(ボルネオ)島はイスラム教が基本だが(同島はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三ヶ国の領土であり、後の二者は国教がイスラム教である)、キリスト教・仏教の信仰者も多く、そもそもイスラムでは猪(ここは「ぶた」の意で、この漢字を用いているものと思う)は供物にタブーである。]

 十五日の夕は、又々、寺々の御堂の庭に、大なるせがき棚を拵置き、町々、われわれより[やぶちゃん注:それぞれの民が、おのずと。]、五升[やぶちゃん注:最大値表記であろう。]、思ひ思ひ、分限相應に、飯を炊き、大鉢に高く盛り、五色の紙に、その家の佛の名を書き付け、竹の串に挾み、飯の上に是をさし、くわし(果子[やぶちゃん注:漢字ルビ。])、色々の肉を備へ、燒酒[やぶちゃん注:粗製の焼酎か。]を器に入れ、施我鬼棚に備へける。寺より、大ぜい、僧、出て、讀經あり。經、終りて後、若者・子供等、大ぜい集りて、備へし靈具を取り爭ふ。持ちかへりて、家々の羊や犬に喰はせける。

 扨、十五日の夕ぐれより、一町々々、借合[やぶちゃん注:「かりあひ」か。担当人員を拠出することであろう。]にして大筏[やぶちゃん注:「おほいかだ」。]を拵へて、前なる大河に浮べて、われわれより、大蠟そく、いくらともなく、火をともし、靈具共に持ち出だし、件の筏にならべける。火揃ふと、つなぎし筏を切り放せば、水に隨ひ、ながれ行く。家々よりは佛の數、蜜蠟にて、一斤がけ、二斤がけも有りければ、風にも、雨にも、消えやらで、水上よりも、流れ來る。その火の光り、幾千萬、はるかの下まで見え渡るありさま、目をおどろかすばかりなり。

 扨、さまざまの踊あり、引物[やぶちゃん注:「ひきもの」で供養のために広く周囲の者たちに配る布施供物であろうか。当初は踊りの並列であるから、芝居の意かとも思ったが、「ひきもの」にその意味はないようだ。しかし、引幕からそれでも通用しそうなもんだが。]あり、賑やかなりし盆會なり。

 勿論、廟所は十三日の夕より、廿日の夕まで、燈籠をかけ、花を生うゑ[やぶちゃん注:「いけ、うゑ」か。]、香をつぎ、每夜の參詣、主人にも、父(テヽ)親、なく、餘人も、親の墓あれば、みな、如此すとぞ。

 同年の八月末に、近き町に、主人の一族あり。男、死し、我も、

「家内の働に。」

とて、遣しける。

 その葬禮を見るに、棺は長さ一間[やぶちゃん注:一メートル八十一センチメートル。]、厚さ二寸の板を以て拵へ、徑り二尺五寸の箱なり。内には金箔を敷き、ふとんを敷き、枕を置きて、死人には四重の衣裝をかさねてきせ、あをのけに採せ、巾着・煙草の道具等を入れ、又、そのうへに、金箔を餘分に置きて、葢を釘にて打ち付け、染絹にて上をおほひ、墓所に、かき[やぶちゃん注:「舁き」。]送るなり。

 扨、地を少しほりて、棺を納め、𢌞り、白土にて「しつくい」し、上の石を板瓦にて葺き、頭を酉[やぶちゃん注:「西」。西方浄土。]に埋みおき、石塔を立て、銘をほり、香花を備へて、是を、まつる。塀を見るに似たり。

 官ある人は、しらず、此町の人、みな、甲乙ありて、如此[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]家には佛具をかざり、魚肉・鷄肉を備へて、妻子は、是を食はず。勿論、その妻子は、百日迄、佛間にこもり、白き絹をかづきて、香具・金箔をも燒きて、生前のありさまを、語り、なげくこと、甚、痛ましきありさまなり。只、金箔を餘分に燒くを、

「未來の爲。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:これは中国の紙銭の変形であろう。同島には道教信者もいるようである。]

子としては、百日、墓に參り、香花を備ふ。三年は喪をつゝしみ、色の衣裝をきせず、音曲の席に至らず、

「これを、喪の中の禮とす。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:底本では、ここで改行し、頭書終りまで全体が一字下げである。]

 美成云、「喪中に金箔を多くたくが如きは、蓋、夷狄の俗なり。しかれども、登遐せず[やぶちゃん注:「魂が天に」三年の間は「昇らず」という意か。]、且、三年の喪あり。親の喪の愼み、追慕の厚き、實に鄭魯の儒士と、何ぞ、別たん。誰か『諸夏のなきには、しかず』とや、いはまし。」【解云、「金箔をたくは、楮錢冥衣を燒く類なり。今も長崎にて來舶人、神佛及び先靈を祭るに、金箔・銀箔をおしたる寸楮を、金錢・銀錢となづけて、たくなり。これらの祭奠、「禮記」に見えたり。その金箔をたくは、彼土に金多き故なるべし。」。】[やぶちゃん注:底本に「頭書」とある。馬琴のお節介である。まあ、先に私も既にしてお節介したがね。]。

[やぶちゃん注:「鄭魯の儒士」孔子のことか。孔子は魯の生まれで、一時、鄭に逃れている。仮にがそうだとすると、美成の謂いは皮肉である。「論語」の中で孔子は鄭の楽曲には淫らなものが多いと批判していたからである。

「諸夏」「夏」は「大きい・さかん」の意。古く中国で四方の夷狄に対して、中国の中心地域やそこにある国々を誇って言った。転じて都を指す語となった。しかし、「論語」の「八佾(はちいつ)篇」では、それを批判的に用いているのであって、美成の謂いは的を外れている(誤読している)としか私には読めない。

「楮錢冥衣」「ちよせん(ちょせん)めいい」。「楮錢」は紙銭に同じ。「冥衣」は死装束と別に見た目は体裁よく作った安物の紙や布で作った儒者や官人の服(所謂、殭屍(僵尸:キョンシー)のケースは満州族のそれで新しい)。それを燃やして地獄の沙汰も金・服次第となるのである。]

 主人にも、父なく、母ばかりなり。常に佛間に靈具を備ふるに、魚肉・燒酒を備へける。日に三度、佛前に向ひて、親に孝行なること、かたるに、言葉なし。外の家々も是に同じとぞ聞えし。こゝも、暖國にて、常に、五、六月の氣候なり。單物にて、冬もよし。もはやに、九月、至りぬれど、氣候のかはる事も、おぼえず。九日の節句はなし。

 扨、野に出ては、十月の末に至り、二番稻あり。都て、山をひらきて、畑稻、多く飯に、油なく、三年米を喰ふに似たり。米は一升錢一文【弐拾文錢。】、獅子の繪あり。是よりも下直[やぶちゃん注:「げじき」。価格が安くなること。]なる年、多し。三文錢は壱文錢より、少し大きし。銀目百目の金錢あり。阿荼陀が走り舟(フネ)の繪あり。拾文錢は馬乘りあり。六十文錢は虎を畫く。銀は七十文にかへ、金錢は、みな、阿荼陀が持ち來る錢なり。

[やぶちゃん注:「阿荼陀」「国文学研究資料館電子資料館」の石井氏の訳のここで「オランダ」と読んでいる。

 以下は同前の字下げ。]

 美成云、「此にいふ所の錢、文を見ざれば、何れの國の錢といふことを、しるべからず。しかれども、西洋の錢は種類、甚、多し、獅子、走り船、騎馬等、くさぐあるが中に、獅子、尤、多し。虎といへるも、恐らくは獅子なるべし。猶、詳には、「西洋錢譜」を倂せ考ふべし。」。

[やぶちゃん注:「西洋錢譜」松本平助らが天明七(一七七〇)年に刊行した西洋の貨幣についての書物。朽木昌綱が寛政二(一七九〇)年に後刷したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらでPDFで読める。貨幣の図も附されてあって、興味深い。]

 又、此國に、「カハヤ」といふ鳥あり。是、燕に似て、少し大ぶりなり。この鳥の巢、川筋の岩窟の内に多し。その巢は、猿の腰懸に似て、甚、白し。くぼき内には、黑き羽などの付きたるもあり。此巢、いかなる藥やらん、おらんだより、入銀して、懸目[やぶちゃん注:秤(はかり)で測定すること。]壱斤に付、銀八十刄に代ふ。是により、國主より、みだりに取ることを禁ぜらるゝ。常に改の役人ありとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「こゝにいへる巢は『燕窩』なり。「泉南雜志」に云、『閩之遠海近蕃處有ㇾ燕云々。海商聞之土蕃云。蠶螺背上肉有兩肋如ㇾ楓。蠶糸堅潔而白。食ㇾ之可虛損巳勞痢。故此燕食ㇾ之。肉化而肋不ㇾ化。幷津液嘔出。結爲小窩石上。久ㇾ之與小雛鼓翼而飛。海人依ㇾ時拾ㇾ之。故曰燕窩。』。かく見ゆれば、此孫七がはなしと倂せて、その詳なることをしるに足れり【解、按に、燕窩の事、「茶餘客話」に詳なり。倂せ考ふべし。又、唐山にて、宴會に燕窩を上菜となすと、淸人の小說「鏡花緣」に見えたり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:「燕窩」「ツバメ」を名に含むが、全然、縁遠い「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliini)で、中でもその巣が高級品として珍重されるのは、

鳥綱アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Aerodramus 属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga 及びオオアナツバメ Aerodramus maxima

全長十~十五センチメートル の小型の鳥で、南アジア・東南アジア・熱帯太平洋・オーストラリア北部の海岸や島に分布する。最大の生息地は、まさにボルネオの大鍾乳洞群地帯である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)」を見られたい。

「泉南雜志」明の陳懋仁(ちんもじん)の書いた泉州(福建省にかつて存在した州。閩(びん)州)の地誌。引用を訓読する。「巳」は「已」の誤字である。

   *

「閩(びん)の遠海の近き蕃[やぶちゃん注:未開民族。]の處、燕、有り。」云々。「海の商(あきんど)、之(ここ)の土蕃に聞くに云はく、『蠶螺(さんら)[やぶちゃん注:蚕(かいこ)のような丸い貝のようなものの意であろう。]の背上、肉、兩の肋[やぶちゃん注:あばら骨のような物。]有りて、楓(かへで)のごとし。蠶糸は、堅く、潔にして、白し。之れを食へば、虛損・勞痢を已(や)め、補す。故に、此の燕、之れを食す。肉、化して、肋は化(かは)らず。津液(しんえき)[やぶちゃん注:血液を除いた体液。]を嘔き出して幷(あは)す[やぶちゃん注:悪しき体液を除去して正常な状態に合わせるの意か。]。結びて、小さき窩(あな)と爲し、石の上に附けり。之を、久しうして、小さき雛(ひな)に與(あた)へ、鼓翼(はばた)きて飛べり。海人、時に依りて、之れを拾ふ。故に、「燕窩」と曰ふ。

   *

一部に不審があるが(巣を餌として雛が食うという部分)、これは燕の巣の人間にとって効能があることからの類感呪術的な誤認であろう。

「茶餘客話」清の阮葵生(一七二七年~一七八九年)が一七七一年頃に完成させたとされれる元は全三十巻から成る総合的史料。特に清朝初期の制度や地名考証などの記載は史料価値が高く、人物伝や「元曲」や「水滸伝」・「琵琶記」・「金瓶梅」・「西遊記」などの戯曲・小説等も、多数、輯録されてある。

「鏡花緣」清の李汝珍作の白話体の長編伝奇小説。]

 今年も浮世の浪にたゞよひて、十二月大晦日にぞ成りにける。

 先づ、客の間の天井に、唐草の華布を縫ひ合せてはらせつゝ、壁のところも同じやうの木綿にて張り、町並の門口に、大燈籠を、夜な夜な、ともし明し、門戶を閉ぢて祝籠[やぶちゃん注:「いはいかご」。祝い事や宗教行事に於いて、布施の品や御札などを収めて運ぶ籠。]し、儀式なり。

 偖、七つ頃[やぶちゃん注:本邦の不定時法で朝七ツなら午前三時半頃である。]より、衣服をあらため、町内、ちやうちんにて、年頭の禮に出で【明和七年。】、外より、

「サラマツタ。」

といふ。内より、

「ホリロワラ。」

と答ふ。銘々、名札を門口にはるもの、多し。又は、兄弟近き一族は、戶をあけて、内に入り、年頭の祝儀をのべ、燒酒、肴にて、いはひけり。勿論、元朝餠[やぶちゃん注:「がんてうもち」。新年の元旦に搗く祝餅。]を廣む。白餠あり、黑餠あり。餠米を粉にして、砂糖の水にて、是を、こね、又、蒸して臼にて搗き、餠にちぎるあり、押し平めて、切るも、ありけり。白餠は白砂糖、黑餠は黑砂糖なり。年始初入とおぼしき客、來り、一族の交り等、我邦の町家に同じ。

 三月三日は、節句、儀式はありながら、芥餠[やぶちゃん注:芥子の実をまぶした「芥子餅」(けしもち)のことであろう。]は、なし。五月五日は糯米[やぶちゃん注:「もちごめ」。]を水に炊し、笹の葉に包むごとく、砂糖水にて、湯でるあり。又、砂糖水にてむすもあり。

 扨、町内を賣りありき、商人、品々を分つに、聲をたてず。燒酒賣は、さらを、すり、醬油賣は、鈴をふり、或は肉物【猪・羊・鷄。】等には、大鼓を打ち、みな、荷ひ人をつれて、あるくもの、多し。

 此所は黑坊の借地なれば、所のわかもの、常に來りて、我まゝなることあり。去れども、町より、隨ひける。

 常に盜賊事、絕えず、國主よりも、

「打ち捨てにせよ。」

となり。主人も、我等に、剱一ふり、鐵砲・鎗等をわたし置くなり。

 町每に、六人當り、每夜、番を、つとむ。

 しかるに、此大河に、不思議なるもの、住みけり。其貌、繪にかける龍のごとく、くちびる・鼻かまち[やぶちゃん注:その辺りの意。]、いかめしく、左右に長き髭あり。耳ありて、龍の角なきばかりなり。手足、四つ。爪、四つ。尾先に鰭のごとき剱あり。うろこ厚く靑く黑し。六尋・七尋より、十三尋を長とす。これを「ホヤ」といふ。春のころ、岡に上りて、卵を產む。大さ、手まりの如く、三十六に極まる。卵、ひらきて後、二尋[やぶちゃん注:三・六〇メートル。]ばかりになりて、川に入る。親、これを追ひまはすこと、波を起し、水を蹶立て、すさまじく、あたりに居るを喰ひ殺し、やうやう、迯ぐるを、只、一つ殘し置く。是を子として、大切に養育すること、類ひなし。子連のあたりを【此處、落字ある歟。】[やぶちゃん注:右傍注。]通る船あれば【「子連のあたりを」云々、この文、語をなさず。「子連て、あるくとき、このあたりを」云々などありしが、宇を脫せしなるべし。】[やぶちゃん注:頭書。]、甚、怒れる氣色あり。人みな、船をよせず。暖國なれば、常に下々は晝夜に兩三度も、川につかりて、水をつかひ、暑を凌ぐ。大海なれば、岸によせ、角柱を立てまはし通して、格子の如く搆へて、災をのぞく用心せり。

[やぶちゃん注:ここに登場する奇体な動物はカリマンタン島に限定されるから、イリエワニ(爬虫綱ワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ Crocodylus porosus )或いはマレーガビアル(クロコダイル科マレーガビアル属マレーガビアル Tomistoma schlegeliiであろう。特に前者は「人食い鰐」として知られるから、それか。現在は、分布域全体で、ともに皮革目的の乱獲により個体数が減少しており、特に後者はカリマンタン島では希少種となっている。]

 ある時、夜刑り番のもの、暑をしのがんと、ひとり、かこひの内の水を浴みけるに、柱の朽ちたるを押しやぶりて、件の「ホヤ」、内に入り、水より上らんとせし人を延上り、片足、股より、喰ひ切りける。悲しみ、

「わつ。」

と、さけぶ聲に、番人ども、追々にかけあつまり、聲々に呼はりければ、町々より、大ぜい出で、松明・ちやうちんにて、是を見るに、夜中といひ、聲々にさわぎける故にや、「ホヤ」は、元の出口を失ひ、搆の内を、うろたへける。鐵砲にて打つに、一矢も通らず。數十人、集り、棒にて、打ちなやし[やぶちゃん注:「萎し」。力を失わさせて。]、熊手にかけて、引き上げけるに、七尋[やぶちゃん注:十二・七メートル。イリエワニでも最大長は七メートル(マレーガビアルは標準最大長は五メートル)であるから、誇張の可能性が高い。]ばかり有りけり。腹のうろこ、少し赤く、舌はくれなゐ、眼、大きし。今迄、人を喰ひしこともなく、人も又「ホヤ」を殺す事なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:同前。]

 美成云、「この『ホヤ』といふ魚は『鰐』なるべし。按ずるに、「飜譯名義集」に云、『善見云、「鰐魚長二丈餘。有四足。似ㇾ鼉齒至利。禽鹿入ㇾ水。齧ㇾ腰。卽斷。又翻殺子魚。廣州有ㇾ之。」。』と。おもふに、其長さ、及、形狀を『ホヤ』と同じきうへに、『禽鹿をかみ斷』といふも、そのさま、異ならず。しかのなみらず、『殺子魚』の名あること、此孫七が話なからましかば、得思ひとくまじきことぞかし。鰐の蠻名『カイマン』、又『コローコジ』など、いへり。『ホヤ』も此地の方言なるべし。『鰐魚』の圖、「紅毛雜話」に見えたり。」。

[やぶちゃん注:「飜譯名義集」南宋の法雲編になる梵漢辞典。七巻本と二十巻本がある。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。訓読する。

   *

善見云はく、「鰐魚、長さ二丈餘[やぶちゃん注:六メートル強。]。四足有り。鼉(だ)に似て、齒、至って利(と)し。禽鹿(きんろく)、水に入れば、腰を齧(か)み、卽ち、斷(き)れり。又、「殺子魚」とも翻(やく)す。廣州、之れ、有り。」と。

   *

[やぶちゃん注:「善見」不詳。

「鼉」ワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis 。現在の安徽省・江西省・江蘇省・浙江省の長江下流域に棲息する中国固有種。本種の性質は穏やかで、人間を襲った確実な記録は存在しない。

「禽鹿」鹿に代表されるいろいろな四足獣。

「殺子魚」「子」は人の意であろう。の

「カイマン」ワニ目アリゲーター科カイマン亜科 Caimaninae のカイマン類。但し、同科のワニは、中央アメリカ及び南アメリカにしか生息せず、体長も比較的小さく、殆んどの種は体長数メートルにしか達しない。

「コローコジ」ワニ目クロコダイル科 Crocodylidae のワニ類の訛りであろう。

「紅毛雜話」平賀源内の門人で、医者で戯作者・蘭学者・狂歌師でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)が天明七(一七八七)年に編した 海外事情を纏めたもの。「京都外国語大学付属図書館/京都外国語短期大学付属図書館」公式サイト内の「世界の美本ギャラリー」のこちらの記載によれば、書名は「オランダ人に聞いた話」「オランダの書に記してあった話」という意で、『巻一でオランダの歴史、風俗より始め、病院や飛行船のこと、巻二ではトルコの都城の話やジャワの地理的事情、巻三はアムステルダムよりフランス、スペイン、アフリカ南端を経て日本へ至る海路や、通過する国々の事情を述べ、さらに顕微鏡の話にまで及ぶ。巻四には流行病やオランダの画法、銅版印刷法。巻五ではエレキテルや大船などに関する記述、附録としてオランダの衣飾図を収めている』。『本書は蘭学史上の興隆期に刊行され、この内容を通して当時の学者たちの海外に対する関心や地理的知識を知ることができる』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のこちらで「鰐之啚」が見られる。]

 當年の八月、主人の弟「カンヘンカン」[やぶちゃん注:右傍注で『(クワカ)』とある。]に、緣談、すみて、

「けふ。吉日。」

とて、嫁迎の用意ありけり。先つ程のかたより、嫁の所に送りける、その品々には、衣類を、三通り、箱に入れ【祝儀には三重、不祝義は四重なり。】、これ、一人にて、持ち、金の「指かぬ」[やぶちゃん注:指輪か?]六つ、手首にかくる金輪、二つ、箱にして、一人にて持ち、金のかんざし十二本、箱にして、一人にて持ち、金錢百二十文、箱にして、草履壱足、たび壱足、これまた、一人にて持ち、燒酒二甁、臺にすゑ、四人にて舁き、ろうそく二丁、弐人にて、これを持ち【五十斤がけ。但、蜜蠟。】[やぶちゃん注:三十キロゴラム。だが、後の「蜜蠟」は腑に落ちない。]、牝牡の猪二疋、鷄一番[やぶちゃん注:「つがひ」。]、家鴨一番、二人にて、是を、はこび、仲人・聟・同道なる人、上下、十八人なり。嫁の方に參り、祝儀、調ひ、暮六つ時[やぶちゃん注:不定時法で午後八時前。]になりて、

「嫁入。」

とぞ聞えし。かくて、嫁のかたより、送りける其品々には、巾着一通り、是は、嫁の手づから縫ひ仕立たるを、聟に土產とす。狐々の毛を付し笠一つ、是も土產、衣裝の入りし長箱壱つ、くゝり枕六つ【是、二通り。枕の長さ二尺。】、聟の方より贈りし金錢二文をとめ置き、百八十文は返しける。此外、猪・鷄・家鴨、共に、男をとめ、女をかへし、双方に分ち、

「料理に用ふ。」

と。いへり。大蠟燭二丁の内、一丁をとめ、一丁は返しける。

 扨、嫁入は、同じ年齡の女中、二人は絹をかづき、嫁は顏をあらはして、右の十二本の笄を髮にかざり、手に金の輪をかけ、衣裝をあらためて、天くわん[やぶちゃん注:不詳。「天竿」で日傘のことか?]をさゝせて、あるきける。目ざましきありさまなり。眞先に件の大蠟燭ちやうちん二張、先後[やぶちゃん注:「せんご」。前と後ろ。]に燈す。同道十二人ばかり。

 扨、聟のかたには、一丁、返せし蠟燭をともし、半切に米をもり、その中に押し立て、町の門口にぞ、出だしける。

 嫁の燈し來りし夜、一族は勿論、朋友・若もの、盃、めいめいに一斤がけ[やぶちゃん注:六百グラム。]、半斤がけの蠟そく、持ち來り、火をともして祝儀をいひ、ろうそくを、嫁の部屋に持ち行き、

「嫁を見ん。」

と、なり。後には、部屋にあまり、勝手・臺所まで、ともし、つらねけり。

 女子は、七歲より、戶外に出ださずして育て、今日、嫁入といふ、その夜は、ゆるして、顏を見するとぞ。

 飽まで、唄ひ舞して、歸りけり。

 去程に、孫七、思ひけるは、

『此に落ち付きて、凡、六年の春秋を暮しける【安永元年[やぶちゃん注:一七七二年。]、同二年。】。さのみくるしみもなく、不自由なることもなく、年を經たり。只、故鄕の戀しきこと、起きても、寢ても、忘れがたし。つくづく思ひめぐらすに、此所の風俗、父母兄に孝行なること、うへなければ、我、父母には、わかれ、兄一人を、父とも、母とも、賴みつれど、かねて『二親あり』とかたりければ、彌、この事をかたらん。』

と思ひ、まづ、主人の母親に語りけるやうは、

「我、多年、こゝに來り、御愍[やぶちゃん注:「おんあはれみ」。]に預ること、此うへや候ふべき。されど、我、日本には二親ありて、我、行末を案じくらし候べし。折ふし、夢にも見えて候。願くは、一度、日本の地へ渡り、親どもの命あらん内に、一寸、逢ひ見なば、いかばかりか悅び候はん。」

と、かたりければ、老母も淚ぐみ、

「道理也。」

とぞ、いひける。

 此事、やがて、老母より、主人にかたりければ、阿荼陀舟の出帆するに、主人、念頃に孫七を、たのみける。

 時、なるかな。時、來りて、この國をはなれ、九年の夏【安永三年。】午[やぶちゃん注:安永三年は甲午。]の四月十三日、家内にも、朋友にも、此世限りの暇乞、又、こん秋を賴むの扇だにも、鳴きてぞ、かへる、ふる鄕のそら、心の底の嬉しさも、久敷[やぶちゃん注:「ひさしく」。]馴染し旅の空、主人の情、ふかき江の、淚にくもる水鏡、蘆わけ船の、竿さして、見かへり、見かへり、阿蘭陀が、もと舟[やぶちゃん注:「本舟」。大きな船。]にこそ乘りにける。

[やぶちゃん注:以下、終りまで同前。]

 猶、この物語の前後の省けるところ、又、こゝに記したる中にも、いさゝかづゝの考、いと多けれど、ことごとく書きいでんも、わづらはしければ、今、又、贅せず。

  文政乙酉十月廿有三日    山崎美成記

 解、云、「この本文のうち、鰐の『ホヤ』の事、又、嫁のかたより草履・足袋、各一双づゝ、聟へおくる事、この外にも、予が考あり。これらは別にしるすべし。

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