曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 遊女高雄
[やぶちゃん注:以下は輪池堂屋代弘賢の発表であるが、実は私はここで彼が「みちのくざうし」と称しているもの、只野真葛の「奥州ばなし」をブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を終えており、明らかに、それは同書の「高尾がこと」であり、しかもそこで、全体に詳細なオリジナル注を附し、さらにこの以下の本文を正字化して注で示してある。今回、今一度、この本文を改めて校閲し(リンク先では、底本のままに正字化しただけ)、さらにそちらと差別化するために、段落を成形し、記号を加えて読み易さを図り、新たに不足していると思われる注を施した(「高尾がこと」で附した注は再掲しないので、まずそちらで読まれたい)。なお、只野真葛の事蹟と、実際には本資料の前半を弘賢に提供した滝沢馬琴と彼女との関係については、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を参照されたい。]
○遊女高雄
著作堂の珍藏に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して、仙臺に在りしが筆記なり。
その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄說を正すに、たれり。曰、
*
昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへて、「くるわ」を出だし給ひて、御たち[やぶちゃん注:「御館」。御屋敷。]までも、めし入れられず、「中す川」【「中す」。「中」は「中洲川」にて、則、三派の事なり。後までも「中洲」といふをもて知るべし。】[やぶちゃん注:以上は情報提供者にして「兎園小説」主催の馬琴による頭書。]、にて、切りはふらせ給ふと、世の人、思へるは、あらぬことなり。是は、うた・上るりに、おもしろし事、添へて、作りなどして、やがて、誠のごとく成りしものなり。
[やぶちゃん注:「中す川」現在の東京都中央区日本橋中洲附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の旧名。ウィキの「日本橋中洲」によれば、『中洲は』、『もともと』は『文字通り』、『隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため』、『一帯は』「みつまた」(或いは「三派」(☜)「三ツ俣」「三つ股」『など表記が多数』、『存在する)とも呼ばれたが、具体的に』、『どの流れを指したかについては諸説あ』り、一定しない。『また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため』、「別れの淵」とも『呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった』。万治二(一六九五)年に『吉原の遊女』二代『高尾太夫が中洲近くの船上で』第三代陸奥仙台藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)の意に従わなかったため、『吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある』(但し、真葛が否定しているように、真偽不明の怪しげな風聞の一つに過ぎない。「高尾がこと」の「高尾」の注を参照)とある。]
高雄は、やはり、御たちに、めしつかはれて、のち、老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又、新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて【祿、玄米六百石。】、今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。
只野家、近親なる故、ことのよしは、しれり。
杉原家にても、
『世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし。』
と、思ふべけれど、
『「我こそ高尾が末なり」と名のらんにも、おもたゞしからねば、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。「押し默る」。]、聞きながしをる。』
と、なり。
[やぶちゃん注:「おもたゞしからねば」ママ。「面正(おもただ)し」は「面立(おもたた・おもだた)し」の誤用の慣用化したものかと思われる。「面立し」は「身の光栄に思う・面目が立つ・晴れがましい」の意。]
これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號・葬地等の書付を、
「著作堂の主にしめさん。」
とて、こゝに、のす。その記に曰、
『「仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりて、もちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたり。」とて、島田某の見せたるを、しるす。
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二代目 享保元丙申年
○ 淨休院妙讚日晴大姉
三巴の紋十一月廿五日 杉原常之助
于時正德五年二月二十九日
逆修 源範淸義母 行年七十七歲
[やぶちゃん注:「杉原常之助」「逆修」以下は底本では下インデント四字上げであるが、何れも引き上げ、後者は「于時正德五年二月二十九日」の下にあるが、改行した。
「享保元丙申年」「十一月廿五日」一七一七年一月七日。同年は閏二月があるため、グレゴリオ暦では十一月十九日が一九一七年一月一日になる。この年は正徳六年六月二十二日(一七一六年八月九日)に第七代将軍徳川家継の死去のため、享保に改元している。
「淨休院妙讚日晴大姉」戒名から判る通り、後に出る「仙臺荒町、法龍山佛眼寺」(ぶつげんじ)は日蓮正宗である。ここ。
「三巴の紋」がここにあるという解説である。
「正德五年二月二十九日」一七一五年。
「逆修」生前に、予(あらかじ)め、死後の菩提を祈願して仏事を修すること。没後に他人により行われる「追善」の対語。逆は「予め」の意。
「源範淸義母 行年七十七歲」この逆修塔を作った際に数え七十七であることから、彼女は延宝七(一六三九)年生まれであることが判る。]
*
右の碑、仙臺荒町、法龍山佛眼寺に在り。
仙臺の人のいふ、
「高尾、實は國侯に従ひて、奥州に、いたる。杉原常之助といふは、義子[やぶちゃん注:養子。]にて、名跡をたて給ひたるに、いひ傳ふ。享保元年七十八歲にて、天壽を終ふ。」
と、いふ。
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