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2021/10/06

伽婢子卷之十 竊の術

 

Sinobinojyutu

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正した。左丁左端に前から声を掛けている男が熊若。前髪を残した元服前の髪型である。普通は十八で元服前というのは遅過ぎるが、彼は後で見る通り、透破(すっぱ)であり、賤民扱いであったから、違和感はない。それよりびっくりするのは早足の彼が裸足であることである。傘を被った中央の男が「古記和歌集」を盗んだ水野の透破。右丁の三人は熊若から犯人発見の報知を受けた飯富(おぶ)が派遣した捕り手の者たち。水野の透破の最後の切り口上から考えて、この捕り手の到着を待って彼の自白は撮り手に再び繰り返され、その上で殺害が執行されたと考えるべきであろう。そうしないと、飯富に真犯人ではないという猜疑を起こさせてしまうからである。そういう意味でも、この本文にはない捕り手の描き込みは必要なのである。]

 

   ○竊(しのび)の術

 甲陽武田信玄、そのかみ、今川義元の聟として、あさからず、親しかりけるに、義元、すでに信長公にうたれて後、その子息氏眞(うぢざね)、少し、心のおくれたりければ、信玄、あなづりて、無禮の事共多かりし中に、今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして、返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに、失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ、此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、甲信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞《きき》もとめさせらる。

「此所、他人、更に來《きた》るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「「古今」の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入《いる》を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣(とさま)も、手を握りて、怖れあへり。

 飯富(いひとみ)兵部が下人に、熊若(くまわか)といふもの、生年十九歲、心、利(きき)て、さがさがしく、不敵にして、しぶとき生れつきなり。

 そのころ、信州割峠(わりがたうげ)の軍《いくさ》に、信玄、馬を出《いだ》され、飯富、おなじく赴きしに、旗棹(はたさほ)を忘れたり。

 明日、卯の刻[やぶちゃん注:午前六時頃。]には、

「飯富、二陣。」

と定められしに、日は、早や、暮れたり。

「如何すべき。」

と、案じ煩ひしを、熊若、すゝみ出て、

「それがし、とりてまゐらん。」

とて、其のまゝ走り出たり。

 諸人、さらに實《まこと》と思はず。

 かくて、二時《ふたとき》ばかりの間に、やがて、旗棹、取て歸り來《きた》る。

「さて。いかにして取來れる。」

と問はれしに、熊若、いふやう、

「『早くとりて來らん』と思ふばかりにて、手形をも、印をも、とらずして、甲府に走り行《ゆき》ければ、門をさし固め、中々、人の通路(つうろ)を、かたく、いましむる故に、壁を傅ひ、垣をこえ、ひそかに戶を開くに、更に、しる人、なし。やがて、亭(てい)に忍び入《いり》て、とりて來り侍べり。」

といふ。

 飯富、聞きて、

『これより甲府までは東路(あづまぢ)往來百里に近し。是れを、ゆきて歸るだにあり、まして、用心嚴しき所を、人知れず忍び入ける事よ。定めて、此間の「古今集」もこの者ぞ、盜みぬらん。後に聞えなば、大事成べし。』

と思ひ、熊若を、かたはらに招き、

「汝、かゝるしのびの上手、道早きものとは、今まで、露も知らず。此ほど、信玄の定家の「古今」を盜みたるは、汝か。」

といふ。

 熊若、答へていふやう、

「それがしは、たゞ、道を早く行て、忍びをする事をのみ、得たり。しかれば、我、いとけなき時より、君に召し使はれ、故鄕の父母、いかになりぬらんとも知らず。願はくは、我にいとま給はり、故鄕に返して給はらば、其盜みたる者を、あらはし奉らん。」

といふ。

「それこそ。いと易けれ。いとまは、とらすべし。かの盜人を捕ゆる迄は、沙汰すべからず。」

とて、割が峠歸陣(がいぢん[やぶちゃん注:ママ。])の後(のち)、熊若をもつて、これを覘(うかゞ)はせしに、西郡《にしのこほり》において、たゞ一人、ゆく者、あり。早き事、風の如し。熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり。

「熊若に欺(あざむ)かれて、恥みる事こそ、やすからね。「古今」を盜みける事は、信玄公の寢(ねや)を見んため也。あはれ、今、廿日をのびなば、甲府をば、亡ぼすべきものを。運の强き信玄公かな。我は上州蓑輪の城主、永野が家に仕へし竊(しのび)のもの、もとは小田原の風間(かざま)が弟子也。わが主君の敵なれば、信玄公を殺さんとこそ計りしに、本意《ほい》なき事かな。此上は、とくとく、我を殺し給へ。」

とて、申しうけて、殺されたり。

 「古今集」をば、都に出してうりけると也。

 熊若は、いとま給はりて、西國に下りけり、といふ。

[やぶちゃん注:本話は「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分と、連関して読めるようにはなっている(続編というのではない)。そちらの注でも、この冒頭部を示しておき、少し注も附したので見られたい。そこで注した「新日本古典文学大系」版脚注の引用は、ここでは繰り返さない。

「竊(しのび)の術」忍術に同じ。

「今川」「氏眞」「幽靈評諸將」で既出既注

「外樣(とさま)」譜代ではない家臣。

「飯富(いひとみ)兵部」飯富虎昌(おぶ とらまさ 永正元(一五〇四)年~永禄八(一五六五)年)が正しい読み。同じく「幽靈評諸將」で既出既注

「熊若」不詳。サイト「はやぶさ宝石箱」に「戦国時代に実在した忍者 熊若 くまわか」があり、そこに「甲陽軍艦」には天文一一(一五四二)年の「瀬沢(せざわ)の戦い」の直前、信玄が透波』(すっぱ:戦国大名が野武士・強盗などの中から、呼び出して、これを養い、間諜や隠密などの任務に使役した者たちの呼称。一種の賤民として扱われ、一説には「透波」は甲斐以西の称で。関東では「乱波」(らっぱ)と称したという。「忍」「草」とも称した)七十『人を召し抱え、そのうちの優秀な者を板垣信形』・『飯富虎昌』・『甘利虎泰』『に各』十『人ずつ預けたと記されてい』るとした後、結局、本創作を元に記してあって、実在を示す根拠は示されていない。なお、そこには、さらに、「古今和歌集」の写しを『盗み取ったのは加藤段蔵(かとうだんぞう)だったのです。熊若は段蔵を捕らえ、身の潔白を証明したといいます』とあるが、これは、「伽婢子卷之七 飛加藤」の終りの部分を誤読したもので、おかしい。さらに、『なお、段蔵が少女を攫う(さらう)話、熊若が真犯人を探し出して無実を証明する話など、類似した説話が中国の『田彭郎(でんほうろう)』[やぶちゃん注:「彭」ママ。という書物のなかにあるといいます』と述べ、加えて、『さらに阿新丸(くまわかまる・日野邦光・ひのくにみつ)』(元応二(一三二〇)年~正平一八/貞治二(一三六三)年?)『なる者が』、『苦心惨憺の末に父・日野資朝(ひのすけとも)』(鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に信任されて討幕計画に加わったものの、元亨四(一三二四)年九月に謀議が幕府側に洩れて捕らわれ(「正中の変」)、鎌倉に幽閉された後に佐渡に流罪にされ、「元弘の乱」の勃発に伴い、幕府によって配所で斬罪にされた)『の仇を討つという話が南北朝の動乱を描いた『太平記』のなかにあり、全国各地にこの阿新丸にまつわる伝説が残っています。『伽婢子』に記されている透波・熊若の話は、中国の『田͡彭郎』や『太平記』、あるいは阿新丸伝説の翻案である可能性も否定できませんね』と言っているのも、これ、おかしな謂いであって、「伽婢子卷之七 飛加藤」や本篇が、そもそもが、「五朝小説」の「崑崙奴」を「田膨郎」を原拠として借り、確信犯で創り出したものであって、類話なわけではない。また、時代の合わない後者の「太平記」のそれについては「新日本古典文学大系」版脚注で、『太平記二・長崎新左衛門尉意見事阿新殿事には、クマワカ(阿新)殿が十三歲にして、父日野資朝の仇の本間三郎』(資朝の斬罪への変更が下知された佐渡の本間村上入道の子)『を討った話を記載する。その剛胆さに』あやかって、この忍びの者へ『命名』したものか、とある通りである。確かに日野阿新丸熊若邦光は佐渡に密航し、竹一本で濠を飛び越えるなど、如何にも忍者っぽい印象はある。

「信州割峠(わりがたうげ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『長野上身内』(かみみのち)『郡信濃町にある割ケ岳』(城跡がある。峠は確認出来ない。グーグル・マップ・データ)『にある峠。永禄四年(一五六一)六月、信玄が当山の城を攻略、月末には帰陣。原美濃、辻六郎兵衛等が参戦(甲陽軍鑑十八。山縣同心広瀬みしな辻弥兵衛武辺公事事)』しているが、『飯富の参戦』は『不詳』としつつ、『八月には川中島の戦いに臨む』(最も知られた最大の激戦となった第四次のそれ)とある。

「東路(あづまじ)往來百里」前に注した古い特殊な路程単位である「坂東里」「坂東道(ばんどうみち)」。「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称した。安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるがこの坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いた。坂東里の「百里」は「六十五・四キロメートル」となる。しかし、実際の割ケ岳から甲府間はそんな短い距離ではない。最短と思われる更科山越えで実測路で試みてみても、百八十キロメートルはあり、そこを往復したのだから、三百六十キロメートルで、そこをたった四時間で走破する(単純計算で時速九十キロメートル)というのは、人間技では絶対にあり得ない。

「沙汰すべからず」現況報告をする必要はない。

「西郡《にしのこほり》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『甲斐を三分しにした釜無川』(ここ)『より西の地域』とある。

「歸陣(がいぢん)」は「かへぢん」の音転訛と、恐らくは、縁起よく「凱陣」と言ったものを音転用した読みであろう。

「熊若、立ちむかひ、物いふ間(あひだ)に、後ろより、捕へて、押し伏せたり」これはもう、超スピードで走り抜けてからに! 私の大好きな「X-MEN 」の Quicksilver やん!

「上州蓑輪の城主、永野」現在の群馬県高崎市箕郷町(みさとまち)の明屋(あけや)地区にあった箕輪城の城主長野業正(なりまさ 明応八(一四九九)年~永禄四(一五六一)年年六月二十一日)。信濃守。一盛斎と称した。関東管領上杉憲政に仕え、榛名山東南麓の箕輪城を本拠とし、西上野地方最大の武士団である箕輪衆の旗頭となった。業政は十二人の子女を、小幡氏・安中氏などの西上野の領主たちに嫁がせ、武田氏・北条氏の侵攻に備えた。西からの武田信玄の侵攻を前に六十三歳で没したが、その日付を見て貰うと、この時制では、本篇の内容を事実とするなら、「割ケ岳攻略が同じ年の同じ六月で、六月末に帰陣とあったからかなりタイト、というよりも、ムリであることが、これ、判る。

「小田原の風間(かざま)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『古老軍物語四ノ六に出る風間の三郎太郎という忍びの上手は、小田原城主北条氏直に属し、武田方を苦しめた』とある。]

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