曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草 / 第八集~了
[やぶちゃん注:これは馬琴の発表で、国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」の「巻第一下」のこちらに所収しているので、それを底本とする(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。長いので段落を成形した。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点にも代えた。]
○根分(ねわけ)の後(のち)の母子草(はゝこぐさ)【是ノ編、頗ル似タリ二傳奇ノ筆意ニ一、雖ㇾ然ト、言ハ、則、皆、實事也。】
文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八二一年。]の春二月(きさらぎ)晦日(つごもり)の黃昏(たそがれ)ころ、
「元飯田町の中坂(なかさか)[やぶちゃん注:九段坂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の中途であろうか。]に、行き倒ふれたる老女(おうな)あり。」
とて、これを觀るもの、堵(と)の如し[やぶちゃん注:垣根を成すようであった。]。この日、自身番屋[やぶちゃん注:江戸の町々に設置された番所。当初は家持町人が自身で警備に当たったが、後には専門担当の家守(やもり)を詰めさせるようになった。町の事務所や集会所としても機能した。]に習合(つど)ひ居(ゐ)たる當番の町役人等(ら)、定番人(ぢやうばんにん)[やぶちゃん注:常時、自身番に詰めている家守の当日の担当責任者の番人。町人である。]を遣して、その體たらくを見せけるに、
「旅行くものとおぼしくて、無下に老ひ髐(さらば)ひたるが、長途(ちようと[やぶちゃん注:ママ。])に疲れ、足、痛みて、一步も運ばしがたし。」
と、いふなり。
これによりて、町かゝえのものに脊負はして、やがて番屋に扶け入れつゝ、事のやうを尋ぬれば、答ヘて曰はく、
「婆々は奧州白川の城下中(なか)の町[やぶちゃん注:現在の福島県白河市中町(なかまち)。]なる宮大工十藏が後家にして、名を「しげ」と呼ばるゝ者、今玆(こんし)[やぶちゃん注:今年。]は七十一歲になりぬ。良人(をつと)十藏が世を去りて後、十三箇年已前、文化六年[やぶちゃん注:一八〇九年。]の春、わが子源藏といふもの、逐電して行方(ゆくへ)もしらせず。人傳(ひとづて)に聞けば、『江戶にあり』といひにき。家には、亡き人の前妻(もとつめ)の子どもはあれど、勇魚取(いさなとり)うみにあらねば、孝ならず[やぶちゃん注:「勇魚取」は枕詞。「海」を引き出し、「生み」に掛けた。]。日每の口舌(くぜつ)いぶせければ[やぶちゃん注:厭わしくて不愉快なれば。]、『世にある甲斐もなき身なり。いかで、わが子の在所(ありか)を尋ねて、逢はばや。』と思ひさだめしは、九箇年已前の事なりき。かくて、文化十年の春の頃、陸奥(みちのく)よりあくがれ來て、江戶に留まること、半年ばかり、四里四方の外(ほか)、近鄕まで月每(ごと)日每にたづねしかども、夢にだも、逢ふよしのなければ、『さては江戶には、あらざるならん。』と、やうやくに思ひかへして、彌(いよいよ)廻國の志念(しねん)を堅(かた)うし、東山・西國(とうさん・さいこく)、いへば、さら也、南海・北陸(なんかい・ほくろく)、おちもなく、凡そ六十六箇國の靈山靈地を巡禮して、『過去には、亡き人の菩提の爲め、現在には、命(いのち)のうちに、わが子にめぐり逢はしめたまへ。』と、念ずる外(ほか)に業(わざ)もなく、乞食(こつじき)して行く旅なれば、人の情けに遇ふ日は稀れにて、露に宿り、風に梳(くしけ)づり、或るときは、あり磯(そ)のなみ風に吹きすさまれて、その終夜(よもすがら)、夢もむすばず。又、或ときは、深山路(みやまぢ)の雪に降り閉ぢられて、つく竹杖(たてづえ)の節も屆かず。百折千磨の艱苦(かんく)を歷(へ)たれど、是れまでは一度(ひとたび)も病み煩ひしことはなく、旅寐すること、九年に及べり。今は既に巡り盡して、廻國すべぎ方もなければ、再度(ふたゝび)江戶を志(こゝろざ)して、岐岨路(きそぢ)[やぶちゃん注:「木曾路」に乱れ別れた険阻な道の意を掛けた表記。]をくだり、甲斐が峯をうち遶(めぐ)り、よんべは「兩鄕(ふたご)の渡り」[やぶちゃん注:東京都世田谷区と神奈川県川崎市高津区二子の多摩川にあった「二子の渡し」。]とかいふ川邊のあなたなる里に宿とりつ。さて、今日(けふ)、江戶に來つるなり。かゝりし程に、あの御坂(みさか)の邊(ほとり)にて、俄かに足の痛み出でゝ、一步(ひとあし)も運ばしがたければ、思はず、倒れ侍りき。」
といふ【按ずるに、「ふたごの渡り」は、江戶を距ること、西のかた四里許にあり。この地は甲州街道にあらず。大山道なり。かゝれば甲斐より相摸路をめくりて、江戶へ來つるなるべし。】。
町役人等、由(よし)を聞きて、
「心地は、如何に。」
と、尋ぬるに、
「足の痛めるのみにして、心地は、常に變らず。」
と答ふ。
「江戶に、しる人ありや。」
と問へば、
「いな。知る人とては侍らざれど、八町堀なる松平越中守樣は、國屋鋪にておはします也【「さとび言」に、故鄕の領主を「國屋敷」と唱ふ。】。かしこへ送らせ給へ。」
といふ。これより前(さき)、その腰に付けたりし風爐敷包(ふろしきづゝみ)を解かして見るに、九箇(くか)年已前、故郷を立ち出づるとき、十藏・しげ等が菩提所なる何某寺(なにがしでら)【寺の名は忘れたり。】より、書いて與へし「通手形(とほりてがた)」とかいふ證文一通あり。濕風(しふき)・塵埃(ほこり)に汚れけん、紙中は茶をもて染めたる如く、いと古びたりけれども、その印章は疑ふべくもあらず。この他(た)、錢八百文と、布の蔽褸(ぼろ)のみ、ありけり。
そのいふよしと、寺手形と、既に吻合(ふんがふ)するをもて、番屋の奧の間に臥(ふ)さしめて、藥をあたへ、且つ、夕餉(ゆふぜん)をたうべさせなどする程に、日は暮れて酉の初刻も過ぎたる頃[やぶちゃん注:午後五時過ぎ。]、武家の中間とおぼしき男、自身番面屋におとなひて、
「やつがれは。嚮(さき)に主用の使ひにたちて、こゝの中坂を過(よ)ぎりしとき、行き倒れたる老女を見たり。心に掛かるよしもあれば、つばらに問はまほしかりしかど、火急の使ひなるをもて、時の後(おく)れんことの惜しくて、思ひながらに、打ち過ぎにき。今、そのかへるさなるにより、中坂にて、人に問ひしに、『番屋へ扶(たす)け入れられて、こゝにあり。』とぞ、いはれたる。その老女(おうな)を見せ玉へ。」
といふ。
このとき、「しげ」は、まどろみたるを、町役人等、呼び覺まして、
「そなたの、ゆかりの人にやあらん、『見まほし』とて、只今、來にたり。對面せよかし。」
といふ程に、「しげ」は、忽ち、起き直りて、
「そは、わが子源藏ならずや、やよ、そなたは、源藏歟、源藏にあらずや。」
と、せはしく問ひつゝ跂(は)ひよるを、町役人等、推しとゞめて、
「さのみ、せきては、事もわからず。心を鎭めて、問へ。」
といふ。
そのとき、件(くだん)の中間は、燈火(ともしび)をさし向けて、とさま、かうさま、うち見つゝ、
「わが母に似たれども、年のあまた經し事なるに、いたく老衰したるをもて、定かには、いひがたし。」
といふ。
町役人等、これを聞きて、
「しかりとも、渠(かれ)自(みづか)ら、『奧州白川仲の町、宮大工十藏が後家、名は「しげ」。』と告げたりし。ことの由の分明なるに、をさなき時に別れても、親の名までを忘れはせじ。忘れやしつる。」
と詰(なじ)られて、
「さん候。その名に違ひなけれども、世には、又、同名異人のなきにしも候はず。又、僞りて、利をはかるものしもなしと、すべからず。身につけたりし、そが中に、證據となるべき物などの候はずや。」
と問ひかへされて、町役人等、諾(うべ)なひつゝ、かの「寺手形」をひらきて見すれば、見つゝ、小膝(こひざ)を
「はた」
と打ちて、
「わろくも疑ひつるものかな。わが母に相違候はず。」
といふを、「しげ」は聞あへず、
「しからば、そなたは源藏歟。」
「源藏にこそ候なれ。」
と名のれば、「しげ」は跂ひまつはりて、抱きつきつゝ、淚ぐみ、
「やよ、源藏よ、和郎(われ)に逢ひたい逢ひたいと思ふばかりに、九箇年このかた、日本國中(にほんこくちう)、うち巡り、いくそばくその艱難苦勞も願ひ叶ふて、空蟬(うつせみ)の、息のうちなるこ宵(よひ)、いま、逢ひ見ることの歡(よろこ)ばしさよ、やよ、源藏よ、顏を見せよ、そなたは、をさなかりし時、左の眼(ま)ぶちに腫れ物いで來(き)し、その折りに、眼(め)の中へ、針、二本まで、打たせしことあり。その針の迹、今もあらん、こちらをむきて、見せずや。」
と口說(くどき)たてつゝ、又、抱きしめて、淚は、雨と、ふりそゝぐ。
その歡びは、なかなかに、譬ふるに、物、なかるべし。
天地を、をがみ、町役人等を、一人一人に、伏し、おがむ。
慈母の哀歡(あいくわん)、無量の恩愛、今さら、膽(きも)に銘じけん、源藏も、はふり落つる淚を、袖に堰きかぬれば、人々、みな、泣かぬは、なかりけり。
「此とき、『しげ』が有りさまは、和漢巨筆の稗官(はいくわん)なりとも、寫しとらん事、易(やす)かるべからず。又、俳優の上手なるも、よくまねんこと、難かるべし。」
と、後にぞ、人の評しける。
かくて源藏は、町役人等にうち向かひて、
「思ひがけなく母親に名のり逢ひ候ひしは、御町内(おんちやうない)の御蔭(みかげ)によれば、悅び、言葉に盡くしがたし。やつがれは、十二歲の時より、親同胞(おやはらから)に引きわかれ、故郷白川に程遠からぬ某村にて、人となりしが、十八歲のとき、故ありて、親にも告げず、その地を去りて、江戶に足をとゞめしより、今玆(ことし)は三十歲になりぬ。手書(てか)き・物讀むこともしらねば、中間奉公しつるのみ。この春は下谷なる戶田和泉守殿に居り、けふしも、守(かみ)は、いさゝげながら、恙(つゝが)あらせ給ふにより、翌(あす)の日の當御番(たうごばん)を、同僚がたに、賴ませたまふ。御狀使(ごじやうづかひ)を承(うけたま)はりて、其處(そこ)へとて、いそぐ、黃昏(たそがれ)とき、こゝの中坂を過(よ)ぎりし折り、倒れし母を、わが母ぞとは、しらずながらも、垣間見しは、得がたかるべき幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])なりき。その時、母の足、痛みて、彼處(かしこ)に倒れ臥さゞりせば、よしや、途(みち)にて行き逢ふとも、面忘(おもわす)れせしことなれば、迭(たがひ)に知るよしなからんを、事、みな、不思議に候。」
とて、感淚を流しつゝ、よろこびを述べしかば、町役人等うち聞きて、
「しからば、今宵は此處(このところ)に、老母を留(とゞ)め置きたりとも、けしうはあらぬ事ながら、母御(はゝご)のこゝろを推し量るに、和殿(わどの)を放ち遣るべくもあらず。引きとらんといふ宿あらば、町内(ちやうない)より、駕籠を出だして、只今、送り遣はすべし。」
といふに、源藏、歡びて、
「下谷久右衛門町なる番組宿(ばんくみやど)越後屋何某(なにがし)といふものは、やつがれが親品(おやほん)[やぶちゃん注:親代わり。]なり。この處まで送らし給はゞ、彌(いよいよ)幸ならん。」
といふ。
抑(そもそも)この源藏は、世にいふ「宿屋もの」[やぶちゃん注:旅宿を家として種々の仕事に通いで就く者の謂いか。]にして、「渡り中間」なりといへども、物のいひざま、怜悧(さかし)げにて、身の皮もきたなげならず。尙(まだ)、巳の時ばかりなる[やぶちゃん注:「巳」の刻が一日の半ばである午の刻よりも前であるところから、事物の未だ新しい状態にあることを指す。]松坂縞(まつざかじま)[やぶちゃん注:伊勢国松坂付近で織り出される縞木綿。江戸時代に商家の使用人の仕着せなどに用いた。グーグル画像検索「松坂縞」をリンクさせておく。]の布子(ぬのこ)を着て、胴金(どうがね)[やぶちゃん注:刀の柄や鞘の合わせ目などに留め金として嵌める輪形の金具。相応に洒落た品である。]したる脇指(わきざし)を帶びたり。
扨、
「しかじか。」
と、「しげ」に告ぐるに、引きちらされし蔽褸裂(ぼろぎれ)なんどを、いと、惜しくや思ひけん、
「やよ、源藏よ、物とり遺(のこ)すな。包め、包め。」
といひしかど、源藏は恥ぢらひてや、蔽褸をば、包みかねたれば、町役人等は、
『さこそ。』
と猜(すい)して[やぶちゃん注:二人の気持ちを見かけから推し量って。]、定番人に手傳はせ、物遺(もののこり)もなく包まして、かの「寺手形」と錢八百を、源藏に渡しけり。
その辭し去らんとせしときに、既に齡(よはひ)の頽(かたぶ)きたる、或(ある)は子共を旅にあらせて、親のあはれを、知りたりける、町役人等一両輩、又、源藏を招きよせて、
「いふまではあらねども、九箇年、心力(しんりよく)を竭(つ)くされし、母御の辛苦を思ひ汲みて、孝養を、な怠り給ひそ。渡り中間ならずとも、さまで歷(へ)がたき世の中ならんや。大都會の恭(かたじけな)[やぶちゃん注:実際にこの訓を当てる例があるが、どうも微妙に意味が違う気がするので、「忝」の慣用的換え字ではなかろうか。]さは、小商(こあきなひ)をしたりとも、只(ただ)ひと柱の母親を養ふよすが、なからずやは。勉めたまへ。」
と諭せしかば、源藏は感謝に堪ヘず、
「しか、こゝろ得て候なり。故あることゝはいひながら、十三箇年、故郷(ふるさと)へ音耗(おとづれ)もせず、わが母を見忘れしまでになりにたる、面目(めんぼく)もなく候。」
と、いらへて、やがて、母親を扶けて駕籠に乘し移らせ、その身は、間近かく、つきそふて、下谷をさして、出で行きけり。
かくて、亥中(ゐなか)の比及(ころおひ)[やぶちゃん注:午後十時頃。]に、その駕籠のもの、かへり來て、かの越後屋某(なにがし)がよろこびの口狀を、町役人等に傳へしとぞ。
予は、間近きわたりにて、これらの事の有りとしも、絶えて知るよしなかりしに、その明けの朝、河越屋政八(まさはち)といふもの、柴の戶に音づれて、
「緊要(きんえう)の一條を告げまゐらせん。」
とて、詣來(まうき[やぶちゃん注:ママ。])しなり。
「例の虛病(きよびやう)をおこさずに、對面を允(ゆる)し給へ。」
といふ。[やぶちゃん注:「例の虛病」とは病いと称して来訪者の面談を断ることが、執筆に忙しい馬琴の常套手段であったことを指すのであろう。]
意得(こゝろえ)がたく思ひながら、書齋より出でて、よしを問ふに、政八が
云はく、
「昨日(きのふ)、いとめづらかにも、あはれなる事の候ひき。その故は云々。」
と、前條を擧げて說くこと一遍(いつへん)、
「やつがれ、今玆(ことし)は年番(ねんばん)にて、しかも、きのふは、當番なりき。これにより、彼(か)の婆々(ばゝ)『しげ』に素生(すじやう)を問ひしも、又、源藏に問對(もんたい)せしも、大かたは、やつがれのみ。かゝれば、このくだりに就きて、かく詳(つまびら)かなるよしを、誰(たれ)か亦、翁(おきな)に告ぐべき。又、翁ならずして、誰かよく後(のち)に傳へん。願ふは賛(さん)してたまひね。」
といふ。
予、感嘆のあまり、敢へていなまず、しばし、うち案じて、
面壁(めんへき)にあらで九年の旅ころも子を思ふ外(ほか)に一物(いちもつ)もなし
又、おなじこゝろを、
死なであひぬ片山の手の飯田町(いひだまち)にふせる旅人(たびひと)あはれ親と子
この、ふた歌を、短册に書きつけて、とらせしかば、政八は、受けよろこびて、いとまごひして、まかり出でにけり。
是れより後も、日に月に、なほ、年每(としごと)に、事の繁くて、いまだ筆には戴せざりしを、けふのまとゐの料(れう)にとて、聞きつるまゝに、しるすのみ。文政乙酉秋八月朔。賀二潢南先生誕辰良節一。兼披二講於兎圖社諸君子席末一。
[やぶちゃん注:末尾の漢文を訓点に従って訓読して示す。
潢南(くわうなん)先生、誕辰良節(たんしんりやうせつ)を賀す。兼ねて、「兎圖社」諸君子、席末(せきまつ)に披講(ひかう)す。
「潢南先生」「潢南主人」の落款がネットで、複数、掛かってきた。さて、この「兎園会」第八集は文政八年八月一日に海棠庵関思亮邸で発会されている。それを糸口として、八月一日生まれの関係人物を探した。図に当たった。関思亮の父親である、書家で儒者の関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)であった。彼は明和五年八月一日生まれであった。書家関其寧(きねい)の養子で、常陸土浦藩藩儒で、書を其寧に学び、天保四年には子の思亮とともに、名家の法帖から行書体を集め、「行書類纂」を編集した。本姓は荻生、潢南(こうなん)彼の号である。
なお、「兎園小説」の方では、末尾に署名して「玄同陳人解撰」となっている。
以下は底本では全体が一字下げ。これは本記事に近代の漢学者で作家の依田百川(ひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年:詳しくは当該ウィキを読まれたいが、森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である)が批評を加えたものだが、一緒に電子化しておく。無論、吉川弘文館随筆大成版には存在しない。ベタ褒めであるが、確かに賛同出来る評言と言える。]
百川云、凡そ文章に、簡易にして、意味深きあり。又、細密にして、情(じやう)盡くせるあり。漢文は多くは簡にして、誤氣つよきを、貴(たつと)ぶもの、多し。和文は優美にして、細やかなるに、長ぜり。されど、閭巷(りよかう)の鄙事(ひじ)を記(き)せんとするときは、その誤氣、自(おのづ)から鄙俚(ひり)に渉りて、優美の趣きを失ふの病ひを免(まぬ)かれず。さりとて、古代の文字をもて、綴るときは、格法なんどこそは、正しからめ、人情に疎く字体にかなはず、近き世の事をしるすに、遠き昔の事かといぶかり思はれて、興味、薄かり。こゝをもて、近世の文士、言文一致とかいふ事をいひ囃して、今日の、いとも鄙(いや)しく、横(よこ)なまれる詞(ことば)を、そのまゝに寫し出だし、かくてこそ時勢を知るといふべけれなれど、誇りかにいふもの、多し。こは、かの前にいふ、鄙俚の語(ご)を交へたる文章よりも、今一際(きは)、鄙猥(ひわい)にして、讀むに得たへぬくだり、少からず。こは、古へならず、今ならず、雅俗を程よく雜(ま)じへたる、此曲亭の文章あるを知らざるのゆゑにあらずや。この文章は、小說の體(たい)に似て、小說にあらず、ありし事を約(つゞま)やかにして、漏らすくまなく書きつづりしものなり。その事の詳らかなること、いへば、さらなり、文章の妙(たへ)なる、語氣の優美なる、世にいふ、「痒(かゆ)き所に手のとゞく」などいふは、此等(これら)の文をいふにや。文章を學ばんもの、よく熟讀して、その筆法を味はふべし。
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